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2022年10月 9日 (日)

澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(単行本–2015/10/30、2018年2月 角川ホラー文庫)

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★注釈、これ絶対ちゃうやろ、違うやつ

 漆黒の暗闇を切り裂いて、一本の矢が飛んだ。
 矢羽根は白地に赤い二本縦縞。白鷲の尾羽を朱線に染める宣戦布告のしるし。鏃の切っ先が鈍い光芒を放つ。
 矢はトツン、と小気味いい音を立て、怪奇探偵スズキくんの横の柱に突き立った。

「・・・は?!・・・」
 夜食のラーメンを屋台で小気味よく啜っていたスズキくんは息を飲む。
「はるばる大阪くんだりまで来て、信太山新地に巣食う妖怪年増女を退治し、快く報奨金をせしめて締めのラーメンを食べている平和な今宵のボクに、こうして堂々宣戦布告してくる不届き者は一体誰なんでしょ?」

「わしやー、わし」
 弓を片手に頬を真っ赤に染めた白塗りの中年男が飛び出して来た。黒縁大めがねを掛けダブダブの道化服を着ている。
「パンパカパーン!わしが浪速でウワサの万博仮面。好評につき二度目の襲来」
「って、仮面かぶってないじゃないですか。名乗りが漫画トリオだし。どうせ、あんた古本屋のおやじでしょ」
 おやじは露骨に傷ついた顔をした。
「うるさい。妖怪博士・・・かと思えば二十面相。鋼鉄の人魚と思えば実は二十面相。さすがに宇宙怪人だけは違うでしょ?と思ったらやっぱり正体二十面相。
 怪人は昔から意味ない変装変化を繰り返してきた。天地開闢以来の正しい伝統にわしも忠実に従っておるだけじゃ!」
「もういいから。そういうのは。無駄に記事が長くなるから。今回は手早くスピード感を持って纏めるんでしたね?ま、お掛けください」
 
 グビグビとコップの水を流し込むおやじを横目で見ながら、
「メンマ。あと瓶ビールください。グラスふたつ」
 テキパキ注文すると、
「さて、コント終了。帰りの新幹線の時間があるんで、さっさといきますよ。だいたいあんた、この為だけに自腹で旅費出したんですか」
「・・・うん」
 おやじは草臥れたのか、とろんとした目で頷く。

「澤村伊智『ぼぎわんが、来る』を一日で読んだんでね。この速度感を大切にしようと思い急いで弓を買い込んで新幹線に飛び乗った。駅員と乱闘しながら浜松、名古屋、京都。最終的に取り押さえられ迷惑行為で強制下車。交番で詫び状書かされ、あとは各停京都線で来た。この熱さとスピードを皆さんに至急お伝えしたい」
「いやそれ、かえって時間かかってるし。弓矢の意味がわかんねぇし。ホントなにがしたいんですか、あなたは」
「確かに。鉄道警察、京都府警から厳重注意くらった。今度やったら前科者だって」
 怪奇探偵スズキくんはほくそ笑んだ。
「急がば廻れ奥の細道。怪奇に抜け道なし、常に一通です。
 だいたいスピード、スピードって、あなた、P.D.ジェイムズの処女長編『女の顔を覆え』に優に一か月掛けてた人でしょ。人間関係の配置がしっくりチャンと脳内に入らないと、登場人物多い推理物はキツいですよ」
「ああ、まったくその通り。進まなくて正直イラつくわ、牧師とか医者とか近所の若造とか全員いらないんだよ!どうせ家族の話じゃん!しかも、その家族内でも容疑者のイケメン兄が看護婦に手を出すし、妹は出戻りで出版関係者と不倫しているくせに、一方で警部にコナかけるし。とにかく関係者全員が性欲ありすぎなんだよ!お前らがもっと大人しくしてれば、こんなに事件は紛糾しねぇよ!」
「そもそも、みんながもう少しまともだったら殺人事件は起きなかった可能性だってある。ジェイムズもそこが一番言いたかったんでしょうね。またしても横溝、またしても『獄門島』だ。登場人物たちのキャラが立ちすぎると、因果な歯車が勝手に廻り出し陰惨な殺人事件のひとつも起こらないと事態が収束しないという」
「それ言ったら、推理小説全般に終わりじゃん(笑)」

「ところで、」
 怪奇探偵スズキくんは注いだビールをグイと飲み干し、
「今回は確かジャパニーズホラーアクションの伝統について語るんでしたよね?」
「うん。無論スピード重視でな!ま、採り上げる本は既に“単行本⇒文庫⇒映画・マンガ”と一周以上回って最新刊とは全然言い難いけどな!」
 おやじは汚い鞄からハチマキを取り出し、締めた。「いくぞ、本土決戦だ」

「あ、キャプテンKENだ。ってか、スピードスピードっておっしゃいますが、もう開始10分以上を経過してますけどね!
 さて、今回お題の『ぼぎわん』なんですが、中島哲也の映画版は観たんですか?世評は微妙みたいですが」
「本編は観てない。公開当時にYoutubeで予告編だけ観てて、なんかJホラーはJホラーでもサイコパス出る『妖怪大戦争』みたいな感じ?そこから原作の存在を知った。歴彦逮捕の角川ホラー文庫。『粘膜人間』でお馴染みの角川ホラー大賞受賞作」
「そのコメからいいイメージがまったく湧きません」
「春樹もやばかったが歴彦もやばかった(笑)お前ら角川源義の発刊の辞を読んでないのか。“学芸と教養の殿堂として大成せん”」
「オリパラで賄賂贈れるのは大成した証拠でしょ。逮捕のAOKI会長だって1964年当時“オレは今は行商だ。だが、いつか商売を成功させて、オリンピックの審判団の服を作りたい”とルサンチマン膨らませていたそうですし」
「分かりやすい成功のイメージ。オリンピックで桃鉄あがり、みたいな。オリってホント魔性ですよね。関わった者全員を不幸にする(笑)
 それはともかく、この本を読んでないよい子のお友達にあらすじを手っ取り早く紹介しておきましょうか。おやじには頼まず、恒例Amazonよりの引用です。

幸せな新婚生活を営んでいた田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。取り次いだ後輩の伝言に戦慄する。それは生誕を目前にした娘・知紗の名前であった。正体不明の噛み傷を負った後輩は、入院先で憔悴してゆく。その後も秀樹の周囲に不審な電話やメールが届く。一連の怪異は、亡き祖父が恐れていた“ぼぎわん"という化け物の仕業なのだろうか? 愛する家族を守るため秀樹は伝手をたどり、比嘉真琴という女性霊媒師に出会う。真琴は田原家に通いはじめるが、迫り来る存在が極めて凶暴なものだと知る。はたして“ぼぎわん"の魔の手から、逃れることはできるのか……。怪談・都市伝説・民俗学――さまざまな要素を孕んだノンストップ・ホラー!
https://www.amazon.co.jp/dp/4041035562?ie=UTF8&tag=bookmeter_book_middle_arasuji_pc_logoff-22&redirect=true&viewID=&ref_=nosim#productDescription

「うんうん、こんな感じだっけ。一応合ってるが“幸せな新婚生活”というのは二重に嘘。そもそも子供がしゃべる年齢になってる夫婦は新婚ではなかろう」
「いや、子連れ婚の場合とかならあるでしょ。本書の場合は違いますが」
「あらすじだけなら、これは育児崩壊してる悲惨な家庭に子取り妖怪が忍び寄る、という実に古典的な噺でね。因もあれば果もある。事の発端は実は先代のおばあちゃんの呪いで・・・という地味な常道で、あんまり面白くない」
「面白くない(笑)イクメン皮肉ってるとこがわかりやすいので、わりかし読者には好評みたいですが・・・みんな、イクメン嫌いなんですね!」

ねこ
後半がやや失速したけど、面白かった!自称イクメン夫のリアルさが一番怖かった…。
https://bookmeter.com/books/9853223x

「うん、前半がハマる人と後半の展開に燃える人とあると思うんですよ。前半は明らかに狙って書いたっぽい。わしは当然後段推しなんだが、先に弱点指摘しとく。後段の展開は確かに力み過ぎで失速気味の箇所があってさ、新幹線代かけて東京からわざわざ近畿の山まで行って、ジッと霊視して結局「ここにはいません」って!(笑)コントかよ!警視庁動かせるレベルに忙しい人がなにやってんだよ!」
「(笑)白石晃士リスペクトのギャグでしょう。“ここじゃない!あっちだ!”ドタバタ、みたいな」
「あと、国家機密レベル級の超霊媒師が、一体どうやって祓うのかと思ったら、最終的には腕づくだった(笑)取っ組み合って押さえ込む。柔道か!(笑)」
「ま、単に睨み合うだけじゃ収拾つかないですからね。そこは大人になってください」

「でも、わしは後段の方が抜群に面白かったな。不条理な因果が襲い来る前半、別に悪くはないんだけど。例えば死にざまショック度の高い、夫の殺され方。大口でガブリ、人間半齧り。ルチオ・フルチっぽくていい」
「もしもし、そこ説明が単なるオタ妄言になってますよ!善良な一般読者の方は、映画監督フルチなんか知らないんですよ!そんなんだからいつまで経ってもメジャーになれない」
「だけど『サンゲリア』は一般人でも知ってる1980年の大ヒット映画ではないのか?公開当時、社会現象にもなった筈だぞ。『いち、に、サンゲリア』ってな!」
「だから、それは2022年現在からすれば、42年前です!高齢者しかご存じないでしょ。いま戦後何十周年だと思ってるんですか?」

本年8月に太平洋戦争終結から77年が経過する。77年というのは明治維新から太平洋戦争終結までと同じ長さだ。
引用元:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB1791S0X10C22A1000000/#:~:text=%E6%9C%AC%E5%B9%B48%E6%9C%88%E3%81%AB,%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%A8%E5%90%8C%E3%81%98%E9%95%B7%E3%81%95%E3%81%A0%E3%80%82

「あ、やられた・・・」
「ね。この数え方されるとインパクトありますでしょ。年齢自覚するでしょ。“サイバーパンク以降のSFがよく分からん”ってあんたがボヤくのも当然。それは30年以上前の話だし、あんたなんか耄碌した老い耄れクソジジイなんですよ!」
「エ・・・老い耄れ?この、わしが・・・?わしって老人だったの?!老人Z?」
「なにボケかましてんですか。前回100年以上生きてるって公言してましたよ。どう見たってくたばり損ないの瀕死のジジイでしょーが!アントニオ猪木だって、ボブ・ディランだって死ぬときは死ぬんですよ!」
「いや、ディランは生きとるよ。まだまだ若い(Forever Young)。80歳だが・・・」
「と・も・か・く。
 年寄りの世迷い事は大概にして、話を『ぼぎわん』に戻してください。いい加減に読者全員が本気で読む気を失くしてます」

「うん。この本を読んで、わしの率直な感想は実に簡単。兄弟姉妹の違いはあるけど、霊能力で兄の方が強くて、祟られた家庭に入り込んでって、これってミスター仙人九十九乱蔵シリーズやん!」
「は?・・・ああ、夢枕獏ですか。ボクはあんまり読んでないんで詳しくないんですけど・・・」
「『蒼獣鬼』まではテンション高くて結構面白いよ。ミスター仙人のダサさ加減は正直どうかしてるんだけど。稗田が妖怪ハンターという故事に倣った編集者のフルスイング、オーバースローだろうね。獏は『幻獣少年キマイラ』朝日ソノラマ出世組だね」
「ソノラマか。菊池秀行なら結構ハマりましたよ。ボクのクトゥルー神話好きも実はそこから来てる」
「わしは、レッツゴー怪奇!ハマープロ・リスペクト!な映画レビュー本『怪奇映画の手帖』しか知らんのだが・・・この人、有名な作家の人なのかね?」
「ぎゃふん。相変わらず偏った本棚ですね。なんでそれだけ読んでるんですか?まぁ菊池先生の著作数を見てやってくださいな。確実に引きますよ!恐ろしい数です!」

菊地ファンクラブ 作品リスト
http://kikuchi-fanclub.d.dooo.jp/list.html

「うぎゃーーー!!!」
「恐れ入りましたか。菊池先生は読者も追いかけるの大変なんです。それでも付き合いで新刊が出ると買ってしまう。毎度内容スカスカで酷いって嘆きのブログよく見かけますよ」
「確かに涅槃の境地、無双モードに突入してる作家だな。なんだこれ?『トンキチ冒険記』(笑)」
「そこは積極的に無視。しかし、どんなものでもいい、作家がこれだけたんまり書けば、中には(たぶん)読むべき内容の本もあるのです」
「うむ。ま、でも確かに彼の黴臭い恐怖映画に対する愛は本物っぽかったが。初期『宇宙船』に寄稿してるくらいだからな。それでも私は小説に食指が伸びないので、たぶん今生では読むことがないであろう。来世に期待」
「はァ、あちらもいらんそうです」

 コケたおやじ、気を取り直し、崩れた白粉顔に掛けた黒縁の大眼鏡を指先で直して、
「ところでジャパニーズホラーアクション小説の伝統について概説するが、まずこれは西村寿行をゴッドファーザーと規定する。ジャンルの草分け的存在だ。具体的には、連作長編『鬼』(角川書店 1983年)に結晶化されるような、怪奇、陰陽師、性と暴力と霊能力に犯罪が絡む大人の黒い読み物の総称だ」
「ふむふむ。さっぱりわかりません。ボク、その人ぜんぜん読んでないです」
「映画にもなった『犬笛』とか知らん?誘拐された自分の娘を取り戻すべく鬼刑事が執念深く追って行って、犯人を追い詰めると、島田陽子が乳首にバンドエイド貼ってコンニチハ~って出て来るという(笑)」
「なんですか、それ・・・?コントですか?」
「国民的大ベストセラーだよ!松本清張とか森村誠一とか大藪春彦とか、社会推理や暴力全面肯定派が国民の本棚を賑わしていた時代があったんだよ!売れたからガンガン映画化もされて超大作として封切ってた。今じゃブックオフの棚の肥やしだ」
「はぁ。『黒革の手帳』とかなら今でもしつこいくらい映像化されてますが」
「現代に継承されてるのは、『黒革』と『ザ・ビッグホワイトタワー』、『白い巨塔』くらいだな。ジロータミヤ猟銃自殺でお馴染みの。『ザ・タイムショック』って知ってるか?」
「お年寄り回顧録みたいな流れになってますよ。話を戻してください」

「うむ。もともと、動物・人間・レイプ・大量虐殺・国家規模の陰謀を含む、ワイルド極まる70年代ロマンの旗手であった西村先生であるが、心霊にも強かった。多方面に影響与えた『鬼』は重要作なので押さえておいた方がいいぞ。
 『鬼』に代表されるエンタメ心霊妖怪作劇術を基本骨子に据えて、鏡花、乱歩に輸入翻訳をバックボーンとする正統派ホラー路線とは明確に一線を劃すジャパニーズホラーアクション小説は、具体的には襲い来る超常現象異界の怪異を、聞いたこともない変な呪術と強引な腕力とで捻じ伏せる、大雑把すぎる力技を最大の武器とする。
 そこに、SFXが異常発達を遂げたハリウッド映画、具体的には『遊星からの物体X』やら『エイリアン』『ポルターガイスト』『狼男アメリカン』などのパワー系ホラーフィルム、その影響下にあるOVAやアニメ『妖獣都市』らと共謀、ビジュアルイメージには流血残虐系(フルチやサビーニ)を加味、永井豪の伝奇残酷マンガのエッセンスを軽いスパイスとして、半村良を嚆矢とする伝奇SF系、諸星大二郎が祖先としか思えない古代誌・伝説、中国古典からの引用系を配合。要はいいとこ取り。
 結果として、
 ・怖くはないけど気持ち悪い
 ・とにかくド派手でマンガチックにページを捲れる
 ・連続する流血描写と性描写で人間の本能へダイレクトに直撃
 という、下品な娯楽の王道、欲望の満漢全席として成立した特殊ジャンルなのだ。代表例が獏や菊池先生や友成純一だ。でも裾野はもっといるぞ。横溝美晶とか志茂田カゲキちゃんも書いてたし、有象無象は星の数」

 怪奇探偵スズキくんはため息をついた。
「うわー、説明長ぇ~。祥伝社で獏さんや菊池先生が売れたのが爆発的ブームの発端で、並行して若年層にもソノラマでも『キマイラ』や『吸血鬼ハンターD』が売れてました。
 そこから小難しく辛気臭い本格ホラーと異なるエンタメ重視ホラー路線が一般客にもヒットし、80年代以降マーケットを席巻していく流れはボクも認知してましたが・・・」
 おやじ、ニンマリ笑う。道化顔が溶けて流れてよっぽど妖怪みたいだ。
「マジ、このジャンルのニッチな読書ガイドはあって然るべき。愚作や便乗作が数多く存在するので収集するだけで面倒だが。だいたいご本家も獏も菊池も代表作シリーズは延々続くグダグダ路線にシフトしていくしな。
 だが、私の見るところ、『ぼぎわん』第三章は本来この文脈において語られるべきなのだ」

「なるほど。で、令和の時代に昭和末期のテイストを蘇らせた本書は、当然エポックメイキングな立ち位置で?」
「いや、残念ながら佳作クラス(笑)造りが丁寧でちゃんとしてるし、ぼぎわんは意外と物理的破壊力のあるモンスターなので、実際楽しく読めるのだが。水木しげるの妖怪図鑑みたいな感じ?
 だったらもう少しメインストーリーを下世話な性と欲望路線で強化し、『復讐するは我にあり』、倍賞美津子は猪木の嫁級にグチャグチャな展開になって良かったんじゃないのか。登場人物のみなさん、全員が意外と品行方正、ウブで純情なんだよ。魔界に手を染め変態する元同級生の民俗学者とか、きみよもっとキモくなれ!って感じ?ただの意地悪おじさんじゃん!」
「それ、あんまりやり過ぎると逆にウケないんじゃないですか。やはりライトでないと。ラノベでないと。好評につき本シリーズは続投、その後も何冊か出てますね」
「うーん、シリーズ追いかけるほどの魅力は正直感じなかったが・・・」
 
 スズキくん、すかさず画面の外に向かい、
「(小声で)反論したいお友達がいたら、ボクにお便りくださいネ!あくまでこれは、老い耄れクソおやじの主観的意見ですんで」

「なにを大衆に媚び売っている。よし、言いたいことは伝えたし、そろそろ行くぞ」
「へ・・・?!どちらへ?フランスのパリとかへ?」
「バカもん、この世の外側へ。理性と常識を飛び越えた夜の彼方へだ。あれを見よ」

 通天閣上空に真紅の気球がゴンドラぶら下げて、どんよりした闇夜に浮かんでいた。
 
「あー、時代錯誤も甚だしい。今どき何を出してくるんですか。あれまさか、怪人二十面相が警官隊に追い詰められて逃亡に使った大気球ってんじゃないでしょうね?」
「そのナニだ。ヤフオクで購入しました」
「ロマンないなぁー。猟奇王も泣きますよ。しかもネタが小林信彦『大統領の晩餐』丸パクリだ。どうしても乗る気なんですか、あの安全点検皆無そうな代物に?」
「うん。止めても無駄だよ。わしは固く決心しとるんだ」
「いえ、決して止めたりはしませんが、酒代くらい払ってってくださいよね」
 おやじ、乱杭歯を剥き出しニンマリ笑い、
「舐めんなよ、わしは年金なんか一切かけてないんだぞ!高齢者所得はゼロ円なのだ。でなきゃ、なにが悲しくて貧乏な古本屋なんかやるもんか。ということで、ではスズキくん、この場の勘定は完全に任せたぞ」

 ゴムの突っかけがコンクリートを踏んでタタタと湿った音を立てる。
 おやじの猿に似た後姿が雑踏に遠ざかっていった。

「あ、ちょっと。ちょっとー、ってば。あーダメだ、異界に行ってしまわれた」
 
 遠くで怒鳴り声や車のブレーキ音が連続して聞こえ出した。
「なんや、こいつ」
「やばいわ、包丁持っとるで」
「警察を呼べ」
「うわ、壁を登り出した」
 
 怪奇探偵スズキくんは涼しい顔で、懐から取り出した年代物のセブンスターの箱の封を切り、一本銜えて火を点ける。
 パトカーのサイレンやら、消防車に救急車など緊急車両の警笛音が、繁華街のネオンの中に鳴り響き始めた。隊列が左右に展開し拡声器が持ち出され、投降を呼びかける真面目そうな警官の声が聞こえて来る。
 やがて、投光器が投げかける丸いスポットライトの中に、一心不乱に高層階へ壁を登る小柄な老人の姿が浮かび上がった。

「死刑執行人もまた死す・・・か」
 スズキくんは煙の輪を吐き出し、ウェストポーチから財布を取りにかかる。新幹線のまだあるうちに東京へ帰らねば。
 怒声が上がり、屋上に辿り着いた怪老人がゴンドラに乗り込むと、巨大な気球がぶらり揺れながら動き出した。
 煙草を揉み消しお会計を済ませる。スズキくんは後を振り向きもしなかった。

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