大童澄瞳『映像研には手を出すな!』('17、小学館月刊スピリッツ掲載)
気になるマンガをどうやって探す・・・?
そもそもいい歳こいて、なんでマンガなんか気になるの・・・?
人はさまざまな葛藤を抱えて生きている。衣食住が足りればそれで万事解決しそうなもんだが、そうもいかない。「人を殺してみたくて」わざわざ人を殺すやつも出てくるし、親戚の年寄り連中を虐殺した理由が「精神工学戦争」の結果だ、と言い張る42歳だっている。
最近忙しいんだか暇なんだかわからない私の目下の悩みは、「あぁ、気持ちいい絵を読みたい!」である。言葉にしてみると本当バカみたい。でもしょうがない。
本気で狂ってる諸君にはお恥ずかしくて到底及ばないが、これはこれでやっかいな精神状態だ。こういう場合、私は隙あらば落書き率が異常に高くなる。「気持ちいい絵を読みたい!」が嵩じて「気持ちいい絵を描きたい!」状態ね。日常に置き換えますと、顧客の電話を取りながら落書き。業者と電話しながら落書き。つまらん会議の合間に落書き。いい大人のくせに。もっと真面目にやれ。給料泥棒金返せ。さすがに誰かと面と向かってだと無理があるので、客先では勿論できないが、幸い私の職業は基本インドアの事務処理なのである。営業要素がある事務処理。気づいた周りの皆さんは、人間のできた方ばかりなので、「あぁ、あの人はあぁいう困った人なのよ。ありえないよね。っていうか、積極的に死ね」と温かく無視してくださる。これはこれで実に恥ずかしい事態なわけです。
この病が発症したのは、たぶん小学生ぐらいだと思われるから、ずいぶん長い病歴だ。「全然“目下の悩み”じゃないじゃん!」という突っ込みがいま聞こえた気がするが(幻聴)、マジ治んないんすよ、この病気。誰かなんとかしてくださいよ。
あぁーーーー、気持ちいい絵が見たい。で、検索を繰り返す。またなんか見つける。ブログアップ、って感じなんですよ。
「僕は宮崎駿と吉田健一の影響が強くて」
と、今回取り上げるこの本の著者はおっしゃる。アレ、吉田健一といえば元イカ天審査員じゃなくて文学者の方じゃなかったですっけ、と思いましてサーチしてみますと、こんな画像が。
そうそう、『交響詩篇ユリイカセブン』のアニメーターの方ですね。(私、ユリイカがどんな話か全然ご存知なかったんで、これまたサーチしましたら、スケボーに乗ったロボが大気圏外から滑走してくる画像が出ました。『木曜の男』の翻訳でおなじみの吉田健一先生もいろいろ手掛けてるってことですねー。)
既にして話が逸れまくっている感濃厚ですので、話を本筋に戻しまして、まず褒めますが、この本、絵が気持ちいいです。細部に到るまでちゃんと考え抜かれていて、パースもきれい。手作りのよさですね。
この絵を見まして単行本購入を即決したので、別に不満はないっちゃーないんですけれども、話の中味にはいろいろ思うところありまして。まず、あらすじを書きましょうか。誰も私に正確な内容紹介を求めてないと思うんだけど(笑)。ま、いいよね。
【あらすじ】
(ある種の)アニメが好きだ!(ある種の)アニメのためなら死んでもいい!
青少年を襲う原因不明の不可解な熱病・若さに憑りつかれ、高校へ進学した主人公・浅草は、同好の士・水崎と出会い、金勘定にたけた友人・金森を巻き込んでアニメ制作に邁進するのであった。既存勢力アニメ研との棲み分け問題を、映像研という曖昧なアチチュードで躱しながら、部を立ち上げ、学校側と交渉し廃屋のような部室も手に入れ、ついでにタップ台もゲットする。そして活動予算獲得のために生徒会へのプレゼン会参加。止め、連続コマ送り、一時停止、フラッシュ効果など作画コマ不足をごまかしごまかし、苦心惨憺で作り上げた作品は以下のような内容であった。
【さらなるあらすじ】
いつの時代だかよくわからん超未来。たぶん西暦5000年くらいか、超未来都市の廃墟は苔むして緑に覆われ、宮崎駿と地球に優しい感じになっている。最後の巨大産業社会が崩壊してから約1000年が経過、それでも懲りずに人間どもは愚かな利権争いに明け暮れ、大国列強は侵略の覇を唱え辺境の小国・ナンダルシアに侵攻しつつあった。目的としては主に昆虫採集である。彼の地にしか棲息しない幻の蚊トンボは痔によく効くのだ。世界列強の傀儡君主どもは揃いも揃って全員大痔主なのであった。
ナンダルシアの王女で、セーラー服にガスマスクの労働運動闘士でもあるペントラ・ポポネスカは、本日もまたまた領空に無謀な侵犯をかけてきた敵国の空中戦闘艦に単身潜入し、テロ的ゲバルト行為に成功、撃ち落とす。しかし、その船は実は難民船で、国を追われた可哀相なダユタラ族の子供やら年寄りやら含む大人数を載せていたのだった。
(わたしが・・・・・殺したんだ・・・・・・)
いきなり大量殺人の罪に問われることになった16歳の王女。戦場に響き渡る悲痛なテレパシー。(肩透かしだけどヌケル)(これはれっきとしたオカズビデオです)(清楚な感じの女性で申し訳ないですが、水色水着と黒のアダルティーな下着で暴発してしまいそうになりました)(?)(申し訳ないですが、本能的に硬直化しそれをしごかずにいられませんでした)(・・・!!)(私は巷に流通してるAVというものを自分磨きの際に用いないのですが)(さりげなくその場面まで見てたもののここでいきり立ってしまっていたものをしごくはめに。ほんと久々だったのでかなり気持ちよく出させてくれちゃいました)
「ナニシテ、けつかるねん!」
突然どつく(剣と笑いの道の)師匠ゲーハー。「すっかり違う種類の映像研になっとるやないか!ドアホ」
「さすが師匠、的確なツッコミ。でも、なぜここに?」
怒りと苦痛が充満した戦場のボーイズラブは真っ赤に染まり、より具体的には墜落した機体やら、飛び出した少年従者やら、ヤックに子羊に、占いババ様の遺体やらがガンガン燃えている。
「ウ~~~ン・・・ もう、そんなの、どうでもいいでしょーーー?!」
なぜか師匠はおネエ言葉でマジ切れだった。「勝手に進め、愛しき風よ」
パッパカお馬に乗って去って行ってしまった。
恐ろしい戦争の惨状を目の当たりにしたペントラ・ポポラスカは、しごく手伝い、もとい憎むべき無益な争いに終止符をうつべく、自慢の包丁を振り上げて戦車を一閃まっぷたつ。見事捌いて名を上げた。われわれ城ジイとしては、
(なんかオカシイぞい、根本的に)
(くさい、まったく胡散臭いゾ!こたびの戦さ)
(てか、巨神兵の復活はまだか・・・?!)
(それにつけても腹減った~)
とか思いながら、とりあえず「姫君バンザイ」と絶賛の辞を送るしかなかった。気が向きゃ、そのうちやらしてくれるかも知れないし。そう想って死んでいった城代家老の数はもはや数千に及び、城の地下はボロボロになった死骸が死屍累々・・・・・・。
(完)
「え・・・コレって、ただのアニパロじゃね・・・?!」
「(完)って、まだ完結もしてねぇし!」
「そもそも、姫君がやらしてくれるのか否か。そこが重要な問題です(深刻系)」
怒り心頭、こぞって席を立たんとする審査の生徒会諸君!たち。そんな中に賢いやつが一名は混じっているもんで、そいつが場を仕切って御大層な口をきくのであった。
「待ちたまえ、生徒会の朋友(はらから)どもよ。両耳かっぽじって、よく聞きやがれ。そもそも、アニメの本質とはアニパロなり!」
「うわ、無茶いいやがる」
「きみの知ってるアニメ、ボクの愛するアニメ、そもアニメに種類は沢山あれど、その本質はひとつでしょ?セルに描かれるひらひらが、ガバッときて、バカンと爆発。飛び散る閃光、爆風に逆巻く美少女の緑色の髪の毛。要は、どれもこれも小賢しくてアニメ臭い。アニメ臭がする」
「おお、アニメ臭・・・・・!」一同は感嘆の声を上げる。
「拡大再生産を繰り返す、(ある種の)アニメの本質とは、よりアニメなアニメ、自己模倣、飽くなき異形化を進化と偽る無限の自己肯定運動に過ぎぬのよ。これ、すなわちアニパロなり!」
識者のあまりの独断専横ぶりに、全員言葉もない。
「光子力も原子力も皆同じ。現実に使えぬ力を使って空を飛ぶ。そんなのがドラえもんの与えるアジアの子供への勇気であるとしたら、存在のあまりの貧しさに、拙者めまいクラクラでごじゃるよ~」
「ごじゃるよ!」はずみで誰か唱和してしまった。
「そりゃかつてアニメには、早稲田に現役で受かるような壮大な夢があったかもしれないよ。アニメの可能性が真剣に議論の対象になった時代もあったんだよ。でも、もういいよ。ここに描かれるような世界観を“最強の世界”と呼称する勇気は、もう俺にはねぇよ」
老人が進み出てた。
「王よ、それはすなわち、かつてあなたはアニメの力を信じておられたということかな?」
「この現実を変革するパワーとして」
王は語った。「アニメは存在する。でも、それが新たな創造を生むのではなくて、かつて存在していた感動の再生産に過ぎないとしたら、そんなのは最早ご新規開拓でもなんでもないんだよ。われわれは、そんな茶番に永久に付き合う義理なんてねぇんだよ!」
「御意。・・・抹殺」
閃光が走り、大地が炸裂。浮上したツェッペリン型飛行船(実は地球先住民族の残した古代兵器)は軌道上から急速落下する月に押し潰され、粉々に砕け散ってしまった。
【追補篇】
このマンガでの錯綜する物語は常に二重構造をとっており、例えば主人公達の造形は外面女子高生でも、内面としては(最近は比較的小奇麗に化けた)ヤングオタクどもであったりはする。つまり、筋だけ追えばサッパリ面白くも可愛くもないってことだ。
そうした実体のすり替えが日常風景や学校など建築や室内の造形にいたるまで徹底して及んでしまっているので(なぜか校舎裏に風車がある!)、既に現実は非現実側に向かって半歩以上踏み出しきっており、本来飛翔すべき対象となる空想世界が、現実を凌駕するイマジネーションの凄さという作者の狙った構図の本来持つパワーを逆に減じてしまった、という皮肉があるように思う。
その過剰さに乗っかれるか否か。好意的な読者であり続けるべきかどうか、読み手は問われることになる。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント