ニコラ・ド・クレシー『プロレス狂詩曲』 ('15、集英社ウルトラジャンプ掲載)
規格外のお話と絵。
最後まで読み終えて茫然とするあなたの顔が目に浮かぶようだ。
ディズニーっぽく見えてディズニーでない。ピクサーっぽいお化けが出てきて大活躍するけど、あっけなく(本当啞然とするくらい唐突に)物語の舞台から消え去ってしまう。
これがおフランス?脱構築?
エンターティメントに定石というものがあるなら、間違ったツボばっか押されている感じ。主人公のモノローグなんかで始まって、独白内容に精神的深化が起こり、結論めいたコメントが吐かれる。そういうありきたりなもんではないのだ、これは。
ド・クレシーの絵の自由闊達さにいまさら驚く人は自分の不勉強を恥じ入るべきだが(八十年代の終わりにはもうデビューしてるんだから既にして大御所)、話は、意外と誰も語らない、なんか触れてはいけない気がして語りたがらない、この人のストーリーテリングってやつは、マジやばい。ワンパターンかつ無茶苦茶。感心するくらいのデタラメ。でもテーマはシンプルに愛だったりするの。
【あらすじ】
メガネでハゲの小男マリオは、シシリアンマフィア・ファミリーの片隅に生きる堅気のピアノ販売店店長。友達はピアノを弾ける巨大ペンギン。無口。
出生の秘密をかかえた甥っ子は、乳児のくせにマフィアを牛耳る異能児で、傘下のプロレスラー軍団を使ってマリオの抹殺を図る。しかし暗殺者の中には、マリオが勝手に熱を上げているピンクのタイツに星マークの女がいた。
レスラーとの恋、デンジャラス!
これで何かを説明した気はまったくしないが、本当にこういう話なので仕方あるまい。注目すべきは、例によってちょっとした思い付きで生まれたディティールが万事を語っていく、ゆるくて先行き不鮮明な構成である。
たとえば、ペンギンが演奏するとピアノが車のように移動する(ショメの『ベルヴィル・ランデブー』の競輪マシンみたいに)、
飛んだおっさんの首と胴体がそれぞれ別々に機械の体を生やし襲ってくる、
エイモス・チュッツオーラが『モンスターズ・インク』観て書きなぐったみたいなゴースト軍団の布陣とか、あぁもう本当くだらない、どうでもいい、の集積物が河口に澱のように積み重なってみるみる形状のあやしい島が形成されていって。
結果、
「なんにも解決しないじゃない!」
と、真面目な読者諸君(と、林先生)が顔を真っ赤にして怒り出しそうな、超適当すぎな、でも緊迫感みなぎる場面で終幕を迎えてしまう。残りページが少なくなって、私、正直焦りましたもん。「これどうやって終わるんだ、この枚数で?」って。
これでニコラが画力不足なら、往年の『ガロ』の読者投稿欄にも載らないレベルの話だが、残念、描写力は十分に足りているんでありました。無駄なものを読んで、「無駄じゃん!」と怒り出したい人向け。大人の贅沢品。怒っちゃやーよ。
ちなみに、この本を読んでもちっともプロレスには詳しくなれません。
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