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2014年7月

2014年7月27日 (日)

伊藤潤二『魔の断片(かけら)』 ('14、朝日新聞出版)

 (闇夜に地獄携帯が鳴る。)

 『・・・スズキくん、スズキくん。』

 「うわ!」
 寝惚けまなこでとった受話器からいきなり鼻息荒い野太い声が流れ出したので、(自称)怪奇探偵・スズキくんは思わず驚きの声を洩らした。
 「あんた、深夜何時だと思ってるんですか。嚇かすのもいい加減にしてください!」

 『伊藤潤二はまだまだイケてるぜ。
 それが今回オレが世界に伝えたいメッセージのすべてだ。8年ぶり(!)のホラー短編集『魔の断片』は潤二のワンアンドオンリーな才能の閃きを強烈に魅せつけてくれる。キミが落ち込んで神も仏もすべてを信じる気を無くしても、潤二ホラーだけは信じろ。それは人の運・不運を確実に左右するソースだ。』

 「伊藤潤二・・・『憂国のラスプーチン』も『よん&むー』も押さえてましたけど・・・特に前者はつまらなかったなァ。
 本当に、ホラーに戻ってきたんですか?大丈夫なんですか、ソレ?」

 『それがさ、冒頭に収録されている連載シリーズ第一話「布団」がかなり投げっぱなしで、うまく収束できず不審な出来なんだよ。最初に読んだ編集者なんか心配になって潤二に電話までしたらしい。
 見えない恐怖に怯える男。それを支える女。ある夜、彼女も彼の見ていた魑魅魍魎の世界を垣間見る。それは彼の布団に侵入していた幻覚性のある新種の黴の仕業だった。ちゃんちゃん。』

 「・・・なんだ、いつもの潤二じゃないですか。」
 
スズキくんは暗闇の中でホッと胸を撫で下ろし、なおも訊いた。
 「なんでまた、それが問題作になるんですか?」
 
 『これがものも見事に纏まっておらんのだよ。ビックリなぐらい。
 無茶な飛躍と理屈を繋ぎ合わせ、論理の美しい連鎖を見せつける潤二マジックが全然まったくかかっていない失敗作なんだ。
 それはまァ異様に少ないページ数の所為もあるんだけど、黴の繁殖の原因になる謎の女とか、回想場面に出してるだけで、本筋に有機的に絡んでこない。これまでの潤二の偉大な軌跡を深く知れば知るほどに驚くぜ。そういう意味で万人必読といえよう。』

 「フーーーン、まだ勘が戻ってなかったんだ・・・?」

 『ところがどっこい二話目以降、完璧にいつもの潤二節が吹き荒れる御馴染の世界がガンガン展開していくんだよ。
 個人的には「富夫・赤いハイネック」がダントツ最高の出来だと思うね!問答無用に、“いいね!”100連発。とにかく読んでみ。誰でも絶対面白いって言うから。
 マンガの面白さって本来こういう性も無さに宿るんだって思うよ。間違いなく素晴らしいよ。』

 「そうすると買って損なし、潤二ホラー不敗伝説はいまだ継続中と考えてよろしいわけですね?」

 『全編に漲るテンションの高さからすると、どうも第一話「布団」は描きたいことがあり過ぎたんじゃないかと思われる。ロックバンドのライブとかでアタマから飛ばし過ぎる人達とかいるじゃない?あれと同じ、ハシったってことでしょ。
 心配なんかするんじゃなかった。
 潤二でまだまだメシ3杯は食えるよ、俺は・・・!!!』

 「ボクは熱中症気味でもうダメです。死にます。なんなんですか、この夏の異様な暑さは?」

 『地球がパーマー・エルドリッチの魔の手にますます握られていくってことなんだろうぜ!
 しかし、よりによって『ガニメデ支配』まで翻訳刊行するとはなに考えてやがんだろうなァ、創元のやつらは・・・?!』

 (深夜の異様な会話は依然続いている。音声の傍らでは蟻が死に、キリギリスが蟷螂に喰われた。蛾の燐粉が宙に舞う。)

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2014年7月13日 (日)

柏原芳恵『恋愛遊戯』 ('91、大陸書房ピラミッド写真文庫)

 微妙にババ臭い女の魅力について書かねばならない。
 しかも、乳首や陰毛無しでだ。お尻やパン線※1すら存在しない。辛い。あまりにも辛すぎる。カスピ海に溶けてしまいそう。まったく性の砂漠を彷徨う旅人か、われわれは。コレはなにかの罰ゲームだとでもいうのか。密林はなお一層深く湿っているばかりだ。
 ※1 パンツの線。もしくはパンティーラインを指す学術用語。Wikiにすら存在しないが業界に知れ渡っているニッチな言葉。

 『恋愛遊戯』はまだ昭和の残り香のする1991年に出版された写真集である。同年には業界の風雲児たる樋口可南子『Water Fruit 不測の事態』が出ている。写真家と女優の知名度が陰毛をパブリックに流通させたある種のIT革命。官警と衆俗とのせめぎ合いが醸し出す、常識と露出度の狭壁を縫って、次は誰が毛を見せるのか、ふたり顔を突き合わせればお天気の話でもするように盛んな議論になっていたあの頃。
 
今回の記事を書くにあたって、「ハテ、では柏原はいつ頃脱いだのかしら?」と疑問に思い調べたら、2002年に出た大判写真集『Face』のAmazonユーザーコメントに遭遇しちょっと笑った。

「この人には「今度こそ脱ぐぞ!」と期待して何年も待たされて結局この程度の露出で毎回終わります。」

 なんと、10年以上引っ張っていたのである。そして、これからもまた永遠に。まったく無限軌道の彼方まで僕らを乗せてくスリーナイン号のごとき、想像力の極限に挑み続ける一貫した姿勢。まったく素晴らし過ぎるポジティビティではないか。
 「次は脱ぐぞ!」と期待して毎回写真集を買い続けるファン達。「全部魅せるわよ!」と蠱惑的な笑みを振り撒き続けるアイドルたち。皮肉やお世辞抜きに、その古典的な関係性には賞賛すべきサムシングがあると思う。
 ハダカは単なるハダカであり、乳首は単なる乳首に過ぎない。
 それを聖物化するのは間違いなく信仰だ。決して褒められたものでも、おおっぴらに公言できる種類のものでもないかも知れないが、そこには深い、あるいは全然深くない軽佻浮薄なスケベごころの働くワンダーランドが存在する。
 思春期の一過性の発情ならまだ大目に見れるだろうが、現在われわれが直面しているのは超高度高齢化社会という、歴史上類を見ない未曾有の事態なのである。いい歳こいて乳首を隠し続けるおばはんと、新作が出るたび鵜の目鷹の目で隠された禁断領域を覗き見しようとするおっさんども。それでもまだ見たいのか。見てどうしようというのか。激しくヌクのか。果たしてヌケるのか。そもそもそんな必要ってあるのだろうか。
 それでも、人はエベレストを目指す。
 聖と俗を分かつものが深い信仰なら、ここには疑いなくケルン大聖堂が存在する。東方三博士の聖遺物が安置されたゴシック様式美の極致が。もはや柏原の黒く縮こまった乳首は、単なる物体の意味を超越してオーパーツの域に達しているのかも知れない。
 三浦雄一郎になぜチョモランマを目指すのか尋ねたって無駄だ。三浦自身にすらまったくわかっちゃいないんだから。

 さて、今回われわれ科学特捜班チームに持ち込まれたのは、一冊の書籍。

 洋服を着ているのに下着をはみ出させた微妙な年齢の女がアジアの片隅をうろうろするという、前代未聞の希薄かつ下品な内容である。コレを見て何かを語れというのは、文豪ビクトル・ユゴーだって嫌がると思う。エマニエル夫人だってまだ“喰わず嫌いはいけない”とか、独自の哲学を語っていた。その程度で哲学と呼ぶかどうかはともかく。なんか小学校の風紀委員みたいだが。

 素肌にブルージーンズ、黒いレースのブラを堂々露出させた女はレンガ造りの異国の庁舎前に立っていて、その前ではシンガポールの騎馬警官が目を剥いている。
 女は大型のレイバンのサングラスを浜田省吾風に着用していて、左の指にはタバコを一本挟んでクールにキメている。


 誰が得するのかまったくわからない異常かつ衝撃的なショットから、この本は始まっている。まさに残虐ショット。この女は何者なのか。代表曲「ハロー・グッバイ」すらイントロしか歌えないわれわれにとって敷居が高過ぎる設定だ。
 導き出されるキーワードは(江藤乱世ではまったくなくて)エトランゼ。女は異国の旅人である。一人旅かというとそうではない。巧妙にカメラの背後に隠れているが、同道の男がいるのだ。欲望に瞳をギラつかせた、都会に生きる獰猛な野獣のような男が。その獣欲が露骨であけすけであり過ぎるほど、女はせせら笑い挑発する。この連鎖を称して「恋愛遊戯」と呼ぶ。
 かつて様々な遊戯が存在した。ブルース・リーは死亡を遊戯していたし、ふしぎを遊戯しているケースもあった。また遊戯王などそのものズバリ、個人名が遊戯であるという世間を舐めきった挑発的な態度を全開にしていた。
 ここでの遊戯はそれほど過激でアヴァンギャルドなものではなく、パッション・プレイ、男と女のラブゲームといった通りのいい、セックスへと直結する種類の恋愛ゲームのことだ。誰もが思う夢の交尾の晴れ舞台が、熱海の旅館から遥か国際的に拡大していったのが高度経済成長の垣間見た幻想の終局、バブル崩壊前後の特徴だったと云えよう。
 
 次に女が現れるのは、王宮。ロケ地・香港と大書きされているようなこの写真集において、そもそも香港に王がいたのかなんて瑣末な問題である。

 白いサマーセーターにミニスカの女は亜熱帯の樹陰を彷徨い、大げさすぎるウィンクを画面の向こうに投げるや、思い切りコケティッシュなハイキックをキメる。
 勿論食い入るように見つめる野獣のような男は(そしてわれわれは)、ぶっ飛ばされて仰け反るしかない。


 しかし何だろう、この内容の希薄さは?
 空腹のところへ蒟蒻ゼリーをたらふく詰め込んでいるような違和感。幾ら喰っても物足りない。ヘビースモーカーにとっての1mgのようでもあるし、艦船プラモの箱の中身が竹ひご細工だったみたいなガッカリ感が確かにある。
 どうやったら抜けるんだ。
 どうやったら抜けるんだ。
 どうやったら?

 そんな疑問が脳裏をかすめるとき、きみは(そして野獣のような男は)、確かに柏原の術策に嵌りつつある。

(つづく)

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