柏原芳恵『恋愛遊戯』 ('91、大陸書房ピラミッド写真文庫)
微妙にババ臭い女の魅力について書かねばならない。
しかも、乳首や陰毛無しでだ。お尻やパン線※1すら存在しない。辛い。あまりにも辛すぎる。カスピ海に溶けてしまいそう。まったく性の砂漠を彷徨う旅人か、われわれは。コレはなにかの罰ゲームだとでもいうのか。密林はなお一層深く湿っているばかりだ。
※1 パンツの線。もしくはパンティーラインを指す学術用語。Wikiにすら存在しないが業界に知れ渡っているニッチな言葉。
『恋愛遊戯』はまだ昭和の残り香のする1991年に出版された写真集である。同年には業界の風雲児たる樋口可南子『Water Fruit 不測の事態』が出ている。写真家と女優の知名度が陰毛をパブリックに流通させたある種のIT革命。官警と衆俗とのせめぎ合いが醸し出す、常識と露出度の狭壁を縫って、次は誰が毛を見せるのか、ふたり顔を突き合わせればお天気の話でもするように盛んな議論になっていたあの頃。
今回の記事を書くにあたって、「ハテ、では柏原はいつ頃脱いだのかしら?」と疑問に思い調べたら、2002年に出た大判写真集『Face』のAmazonユーザーコメントに遭遇しちょっと笑った。
「この人には「今度こそ脱ぐぞ!」と期待して何年も待たされて結局この程度の露出で毎回終わります。」
なんと、10年以上引っ張っていたのである。そして、これからもまた永遠に。まったく無限軌道の彼方まで僕らを乗せてくスリーナイン号のごとき、想像力の極限に挑み続ける一貫した姿勢。まったく素晴らし過ぎるポジティビティではないか。
「次は脱ぐぞ!」と期待して毎回写真集を買い続けるファン達。「全部魅せるわよ!」と蠱惑的な笑みを振り撒き続けるアイドルたち。皮肉やお世辞抜きに、その古典的な関係性には賞賛すべきサムシングがあると思う。
ハダカは単なるハダカであり、乳首は単なる乳首に過ぎない。
それを聖物化するのは間違いなく信仰だ。決して褒められたものでも、おおっぴらに公言できる種類のものでもないかも知れないが、そこには深い、あるいは全然深くない軽佻浮薄なスケベごころの働くワンダーランドが存在する。
思春期の一過性の発情ならまだ大目に見れるだろうが、現在われわれが直面しているのは超高度高齢化社会という、歴史上類を見ない未曾有の事態なのである。いい歳こいて乳首を隠し続けるおばはんと、新作が出るたび鵜の目鷹の目で隠された禁断領域を覗き見しようとするおっさんども。それでもまだ見たいのか。見てどうしようというのか。激しくヌクのか。果たしてヌケるのか。そもそもそんな必要ってあるのだろうか。
それでも、人はエベレストを目指す。
聖と俗を分かつものが深い信仰なら、ここには疑いなくケルン大聖堂が存在する。東方三博士の聖遺物が安置されたゴシック様式美の極致が。もはや柏原の黒く縮こまった乳首は、単なる物体の意味を超越してオーパーツの域に達しているのかも知れない。
三浦雄一郎になぜチョモランマを目指すのか尋ねたって無駄だ。三浦自身にすらまったくわかっちゃいないんだから。
さて、今回われわれ科学特捜班チームに持ち込まれたのは、一冊の書籍。
洋服を着ているのに下着をはみ出させた微妙な年齢の女がアジアの片隅をうろうろするという、前代未聞の希薄かつ下品な内容である。コレを見て何かを語れというのは、文豪ビクトル・ユゴーだって嫌がると思う。エマニエル夫人だってまだ“喰わず嫌いはいけない”とか、独自の哲学を語っていた。その程度で哲学と呼ぶかどうかはともかく。なんか小学校の風紀委員みたいだが。
素肌にブルージーンズ、黒いレースのブラを堂々露出させた女はレンガ造りの異国の庁舎前に立っていて、その前ではシンガポールの騎馬警官が目を剥いている。
女は大型のレイバンのサングラスを浜田省吾風に着用していて、左の指にはタバコを一本挟んでクールにキメている。
誰が得するのかまったくわからない異常かつ衝撃的なショットから、この本は始まっている。まさに残虐ショット。この女は何者なのか。代表曲「ハロー・グッバイ」すらイントロしか歌えないわれわれにとって敷居が高過ぎる設定だ。
導き出されるキーワードは(江藤乱世ではまったくなくて)エトランゼ。女は異国の旅人である。一人旅かというとそうではない。巧妙にカメラの背後に隠れているが、同道の男がいるのだ。欲望に瞳をギラつかせた、都会に生きる獰猛な野獣のような男が。その獣欲が露骨であけすけであり過ぎるほど、女はせせら笑い挑発する。この連鎖を称して「恋愛遊戯」と呼ぶ。
かつて様々な遊戯が存在した。ブルース・リーは死亡を遊戯していたし、ふしぎを遊戯しているケースもあった。また遊戯王などそのものズバリ、個人名が遊戯であるという世間を舐めきった挑発的な態度を全開にしていた。
ここでの遊戯はそれほど過激でアヴァンギャルドなものではなく、パッション・プレイ、男と女のラブゲームといった通りのいい、セックスへと直結する種類の恋愛ゲームのことだ。誰もが思う夢の交尾の晴れ舞台が、熱海の旅館から遥か国際的に拡大していったのが高度経済成長の垣間見た幻想の終局、バブル崩壊前後の特徴だったと云えよう。
次に女が現れるのは、王宮。ロケ地・香港と大書きされているようなこの写真集において、そもそも香港に王がいたのかなんて瑣末な問題である。
白いサマーセーターにミニスカの女は亜熱帯の樹陰を彷徨い、大げさすぎるウィンクを画面の向こうに投げるや、思い切りコケティッシュなハイキックをキメる。
勿論食い入るように見つめる野獣のような男は(そしてわれわれは)、ぶっ飛ばされて仰け反るしかない。
しかし何だろう、この内容の希薄さは?
空腹のところへ蒟蒻ゼリーをたらふく詰め込んでいるような違和感。幾ら喰っても物足りない。ヘビースモーカーにとっての1mgのようでもあるし、艦船プラモの箱の中身が竹ひご細工だったみたいなガッカリ感が確かにある。
どうやったら抜けるんだ。
どうやったら抜けるんだ。
どうやったら?
そんな疑問が脳裏をかすめるとき、きみは(そして野獣のような男は)、確かに柏原の術策に嵌りつつある。
(つづく)
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