カート・シオドマク『ドノヴァンの脳髄』 ('43、ハヤカワ書房SFシリーズ)
やっぱり脳が好き。
いや、つかみには何の意味もないのだが。
かつて小学生の私はこの本が怖かった。マジ、ビビっていた。トリフィドの襲撃にも怯えていたのだけれど、元をただせば「全人類がある日突然盲目になる」という基幹のアイディアの方が遥かに優れて怖かった。あの本を読んだ者はみな、「記録的な未曾有の大流星雨が来ても、自分だけは観ないでとっとと寝てしまおう」と決心する筈だ。こういう考え方は結構のちの人生の運不運を左右する。
『ドノヴァン』も同様に、子供にも解る根源的な恐怖心を刺激する書物である。人間が他人の脳に乗っ取られ自由にされてしまう。しかも、相手は人間ではない、怪物なのだ。
脳だけになった億万長者は人倫を踏み越えた存在となり、平気で殺人を犯そうとする。「妻と性の営みを持とうとするかも知れない」と主人公が怯える場面は傑作である。傍から見ると、普通に夫婦がやってるようにしか受け取れないが、これはレイプなのだ。
【あらすじ】
猿の脳をいじって悦に入っていた地方在住のバカ医者・パトリックが、偶然飛行機事故で瀕死となった億万長者のオペを自宅で行なうチャンスに恵まれる。彼は、迷うことなく頭蓋を切開し脳を取り出すと水槽に入れて血液循環ポンプのスイッチを入れた。
感覚器官を奪われ外界との交信を絶たれた脳は、たまたま配線がショートした電気ショックを喰らって、異様なテレパシー能力を発達させ始める。見たこともない灰色の器官の成長に驚愕する主人公。やがて彼は脳の強力な支配を受け、死亡した大金持ちウォーレン・ホレイス・ドノヴァンとして行動するようになる。
(傍目には物凄くずうずうしい田舎医者にしか見えない。)
常に無線LANが繋がっている状態になったバカ医者は、ドノヴァンの隠し口座から預金を引き出し、相続人達をけちょんけちょんに貶し、一本5000円の葉巻をくゆらせ高級ウィスキーをガブ飲み。突如ハイパーな高城剛状態になった夫に看護婦の妻は当然不審の目を向けるが、その原因がサッパリ解らない。唯一パトリックの共同研究者のじじいだけが事件の真相を知っていて、「Oh・・・神よ!」とか思っている。
さてドノヴァンの脳は、無限の大事業の一環として生前やり残した究極の恩返しを実践しようとする。かつて使っていた闇社会に詳しい弁護士を雇い、ある死刑囚(恩人の息子)を無罪放免すべく関係各所に手を廻し始めた。ドノヴァンが最初の事業(エロ写真の通販)を始めるにあたって回転資金を踏んだくったのがこいつのオヤジで、オヤジは失意のうちに鴨居に縊れて死んだのだ。結構細かい性格のドノヴァンは、それを意外と悔いに思っていたというのだから、世の中わからない。
しかしこの死刑囚がまた最低の奴。28歳無職で一度も正業に就いた経験のない第一級虞犯青年。死刑理由も、母親を自動車で轢き殺した。それも一回轢いて、顔を轢いていないのに気づいて戻ってきてご丁寧に顔面を中心に再度轢き直したという最悪のものだった。
助かる筈のない相手を無罪にしようと躍起になる田舎医者に、弁護士の疑念は募り陪審員の買収は中止。ドノヴァンの怒りは完全にメーターを振り切って、唯一の犯行の目撃者である十三歳の美少女を轢き殺そうとする。轢き逃げには轢き逃げを。ハンムラビ法典もビックリだ。
からくも悪魔のたくらみは失敗するが、助手席の妻にバッチリ目撃されてしまった。
海岸沿いに車を飛ばして人気のない場所まで来ると、今度は妻の首を絞めようとする。全方位で無差別殺人鬼と化した自分に戦慄するパトリック医師だが、身体は完全にドノヴァンの支配下にあるため、瞬きひとつ己の意思では出来ない。最悪。
誰も悪魔を止められないのだろうか?
【解説】
結構、ドノヴァンが好感の持てるオヤジに描かれている点に驚いた。
建てまえばかりの連中の中で、こいつだけ本音で生きてる感じがする。研究ばかりの青年医師。欲求不満の妻。鬱々した共同研究者のじじい。碌でもない人間揃いの中で、ドノヴァンだけが究極の行動派だ。ハードボイルドの探偵みたい。彼が活躍し始めると話が俄然面白くなるのだ。
昔受けた恩義に酬いるという行動基準の義理堅さにも感心。
どんなに邪悪な超能力を駆使していても、本体が剥き出しの脳だけに水槽を倒されると物凄く弱いところも素敵。キャラが立っている。
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