『パルス-回路-』 ('06、Dimension Films)
幽霊が人類を侵略する。
ご存知の通り、黒沢清の『回路』は、単純かつ大胆、つまりは相当にバカげたアイディアを驚くほど真剣に考え抜いた末につくられた、傑作である。
観る人の胸を打つのは、この映画作家のあまりの真摯な姿勢だろう。涙ぐましいまでに献身的な態度で、幽霊について、死後の存在について生真面目に思考の研鑽を積んでいる。
「死は、永遠の孤独だった。」
死者がそう語りかけるとき、世界は既に崩壊の途上にある。インターネットは実は本筋に関係がない。それは映画の単なる導入部に過ぎず、こういっては何だが、実は回路の役割を果たすものならなんでもよかったのだ。つまりは、死者を現実に解き放つ為の装置だ。
『回路』では、死者は人を襲って来ない。直接攻撃することはしない。そんなことをしても、死人の仲間を増やすだけだから。なんて論理的なんだ。
幽霊が現世を侵略する方法は、だから一見して迂遠なものとならざる得ない。そして、それが実は一番怖ろしい。
死者は自分の姿を人間に見せつけ、人を「生きてもいない」「死んでもいない」永遠に宙吊りの状態に置き去りにする。具体的には、壁に出来た黒いしみ(あるいは空中を舞う塵芥)に変えてしまう。
それだけで現実は発狂し崩壊していく。
それにしても、あぁ、なんておそろしい考えなんだろうか。生きることも出来ず、かといって死ぬことも出来ない。最大の恐怖はそれが永遠に続くことだ。
故に、事の真相に気づいた人々は自ら進んで自殺し、死者の仲間入りを果たそうとする。そうすれば少なくとも「死者」という存在には成り変れる。単なる壁の黒いしみになるなんて耐えられない。
まして、それが永久に続くだなんて。
ウェス・クレイブンは、この原作の最も表面的な要素だけを抜き出して、無線LANや携帯回線を使って地上に侵攻しようとする死者の集団の映画をつくってしまった。
これが黒沢清と真逆の姿勢であることは言うまでもあるまい。ここでの死者は牙を剥き、ウギャーーーと人間に襲い掛かってくるのだ。失笑モノである。こんなんで世界が滅びるなら、苦労はしないよ。
電波的なゾンビ映画。携帯圏外まで逃げたら助かった。なめとるのか。
だから、物言わぬ植物が動き出し人間を追い詰める『人類S.O.S.』と『回路』は、静か過ぎる人類終末のヴィジョンという点で相関関係を持っているのだ。おそらくディレクターズ・カット版の『ゾンビ』も。
『復活の日』など永遠に来ない。
われわれは、渚に立ち、北半球からの放射能の到来に怯えているだけだ。
世界の終わりは心底おそろしいものであるべきだ。
少なくとも、私はそう希望する。
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