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2012年1月

2012年1月30日 (月)

『空飛ぶ円盤と宇宙人』 ('75、小学館入門百科シリーズ42)

 私は結構、思慮深い男。しかし、周囲はデタラメばかりだと言う。
 そういえば思い当たる節がないでもないのだが、それはともかくとして、私の自己認識と現実との間にはブレがある訳だ。エド・ウッドの如く。
 エド・ウッドといえば代表作は『プラン9・フロム・アウタースペース』。『プラン9』といえば空飛ぶ円盤。当然、紐で吊り下げ式のやつ。
 ・・・と、いうことで、私の性格がかくも歪んだものになったのは、空飛ぶ円盤の仕業と大決定。
 円盤に関する本を読んでみよう。ひさびさに。

 (読んでいる。)

 (まだ、読んでいる。)

 ・・・ぷはーーーっ。飽きた。

 『空飛ぶ円盤と宇宙人』、著者は名著『マクンバ!』でお馴染み、中岡俊哉先生。
 円盤の目撃談や、さまざまな宇宙人との遭遇事例、UFOを手軽に呼ぶ方法なんかもレクチャーされていて、アタマの悪い小学生は裏山で実験したりしました。
 しかし、今読むと、どこが面白いのか、さっぱりわからん本だな、これは。過去に戻って自分自身にたっぷり説教したくなるつまらなさだ。

 宇宙人に会って、一体どうしようというのか、お前は?
 あるいは、UFOを見たからって、それが何だというんだ?
 何の役に立つ?


 ロイ・シャイダーも、会社を辞める前に上司に同じことを言われた筈であって、つまりは現実というのはそういう働きかけをするもののようだ。
 ゾンビ映画が復活しても、侵略目的以外のUFO映画が流行らないのは、まぁ仕方の無いことなんじゃないかな。
 そういう人の頭上を、今日も人知れず円盤はふらふら飛んでいるのだろう。
 

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2012年1月29日 (日)

ジョディー・フォスター『フライトプラン』 ('05、ブエナビスタ)

 ※注意!この映画はネタ振りとオチのみで構成されています!
 従って、以下の記事を読むと自動的にオチがわかってしまいます!
 「だから、なんだ?」ありがとう!


 ジョディーさんによる、ジョディーさん映画。
 なにしろ、犯人の動機が「ジョディーさん(年増)の困った顔をもっといっぱい見たい!」だったりするのだから。

【あらすじ】
 ベルリンに住むアメリカ人、ジョディーさん一家は6歳の娘を持つ幸せ家族。ところがある日、夫が家の三階の屋上から原因不明の転落死。ジョディーさんは泣く泣く幼い娘を連れ、夫の遺体をニューヨークまで搬送する任務に就くことに。
 ところが、飛び立った飛行機内でジョディーさんがうたた寝してる間に、娘が消えた!
 脱出不可能な密閉空間で、どうやって?渋る機長を説得し、必死の捜索を続けるもさっぱり手掛かりがない。
 おまけに、いつの間にか乗客名簿から娘の名前が消えていることが判明!
 目撃者もいないし、娘の荷物もそっくり消えてる!
 ベルリンに無線で照会してみると、娘は夫と一緒に無理心中ということになっていた!そんな馬鹿な!娘の遺体は、貨物室に、夫と並んで安置されてるというのか?
 実は飛行機の構造にめっちゃ詳しい(エンジニア)ジョディーさんは、機内全員を敵に回し、孤独かつ超絶に地味な闘いを開始するのであった。
 手始めに、頭上備え付けの酸素マスクを全部落としてやるぜ!機内上映の映画は、即刻、中止だ・・・!

【解説】
 ミステリーのためのミステリー、解決不可能な謎を合理性のためではなく、まさに謎解きのためだけに提出すること。
 この映画の発端は、ヒッチコック『バルカン超特急』そのものだ。場所と人物が違うだけ。脱出不可能な空間から人がひとり消失し、誰もその人物を見た者がいない。
 しかし、その解決は、驚くほどの不自然さと辻褄あわせに満ちている。

 犯人は、実は500万ドルをせしめようと画策し、まずジョディーさんの夫を事故に見せかけて殺害。遺体を運ぶ棺に爆薬一式を隠して機内に持ち込む。(遺体安置所に仲間が一名居る。)
 次に、娘を誘拐。薬を嗅がせて貨物室の隅に閉じ込める。コンピュータの乗客名簿から娘の搭乗履歴を削除する(客室乗務員に仲間が一名。)
 ジョディーさんの扱いに困惑する機長に耳打ちし、「実は、彼女はハイジャッカー。500万ドルを要求してますよ!」
 断ると仕掛けた爆弾で機体を爆破する、と言ってると告げる。
 なんだ、この穴だらけの計画・・・?! 

 最大の疑問点は、犯人側にはこんな面倒なことをする必然性がまったくないことである。
 爆薬を機内に持ち込むために棺を利用したいのなら、他にそういう該当者を捜したら?わざわざ殺人罪まで犯す必要はまったくない。それこそ、遺体安置所に仲間が居るってんだからさ。(ちなみに、こいつは映画中顔すら出しません。)
 だいたい、なんで娘をさらうのよ?
 傍から見て不審な行動に走る彼女に、全部の罪をなすりつけたいから?でも、なんで?
 これはもう、熱狂的なジョディーさんファンが“彼女をもっと困らせたい!”と思ってやってるとしか考えられない。ひでぇなぁー。

 というわけで、ジョディーさん=少女売春婦(『タクシードライバー』)、ジョディーさん=小娘捜査官(『羊たちの沈黙』)に続く、衝撃の完結篇、ジョディーさん=ババアがまさかの誕生!
 夫の不慮の死に苦悶するジョディーさん。
 言うこと聞かない娘にマジ切れするジョディーさん。
 悪と対決し、ブルース・ウィリスみたいなTシャツ一枚で天井裏を這うジョディーさん。
 ジョディーと聞いただけで、もう、抜けて抜けて辛抱たまらん方のみ、ご覧ください。

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2012年1月28日 (土)

ムーンライダーズ『Dire Molons TRIBUNE』 ('01、DREAM MACHINE)

 考えてみれば、相手もいつの間にか老人だったのである。

 ムーンライダーズの無期限活動休止を最初聞いたとき、実は全然ピンとこなかったのであるが、今回の記事を書くにあたり、サーチをかけましたら、鈴木慶一のブログに行き当たり、そこで事の真相を垣間見た気分になりました。

 記事の内容自体は、ほとんど時候の挨拶的なもので、わずか5、6行で終了してしまう(!)。ま、でも、芸能人のブログってのは全般そんなもん。いいよなー。
 問題は、そこにつけられたファンや関係者諸氏のコメントである。
 「お疲れ様でした!」
 「お疲れ様でした!」
 「お疲れ様でした!」

 ねぎらいの嵐なのだった。

 よく知らないが、大企業の会長とかオーナーとか重鎮に対するコメントってのは、そんな感じなのかも知れない。
 飯を喰っても、女を抱いても、階段を昇ったって、「お疲れ様でした!」なのだろう。
 オムニ社クラスの大企業の社長になれる奴は一握りだが、もし寿命が百歳越えればきみだって立派に待っている世界だ。
 チャンスは、誰にでもある。

 さて、ムーンライダーズがこれまでの活動で何を成し遂げてきたというのか?
 的確に説明できる人は少ないが、やはり最も驚くべきなのは、売れなければ淘汰されて当然のメジャーなフィールドにおいて、かくも中途半端に有名なスタンスでバンド活動を継続してきたことだろう。
 これには、さすがに類似する例が他に見当たらない。(海外ならありそうだけど。)
 たいていは、途中でポシャる。
 「ムーンライダーズにはなりたくないですね」発言をしたフリッパーズ・ギターがまばたきするより速く、秒殺されたのが典型だろう。(この発言を受けての鈴木慶一のコメントは、「なれるもんなら、なってみな!」子供の喧嘩か。)
 しかし、この大物感のなさは貴重だ、と常日頃思っていたのだが、どうやらそれは私の勘違いだったようだ。
 立派に尊敬もされれば、なにかと引き合いに出される存在だったのだ。
 ほら、アレですよ。アレ。古くは江口寿史に「青空百景」の名前が。最近だと、岩井だエバゲリのマンガだなんだかんだで。
 詰まるところ、妙に業界評価の高い人達という結論になるようだ。つまらんな。身震いしそうだ。
 まぁバンドを百年も続けていれば、いろいろ尾鰭もつくんだろ。そういうことだ。

 で、あたしの考えるムーンライダーズのベストなんであるが、この方がた、シングルヒットは一切無く、アルバム単位で作品を延々リリース続ける活動をメインにしていたので、やはりアルバム単位で考えたい。
 (但し、いい加減がモットーの私はまだラストアルバムを聴いていないから、そのつもりで。『TOKYO7』がいまいちだったので、まだ買っていないのである。)
 しかし今更『火の玉ボーイ』や『ヌーヴェル・バーグ』を挙げるのもどうかと思うので、もっともいい加減なアルバムはどれか、という観点で選ばせて頂いた。
 (ちなみにもっとも重厚なつくりのアルバムなら、『ムーンライダーズの夜』である。)

 で、輝ける第一位が『Dire Molons TRIBUNE』ということになる。

 これ、好きなんですよー。いい加減で。
 だいたい、題名が「バカ新聞」ですよ。適当すぎるフリークアウトを遂げたイントロから、「ラウンドミッドナイト」を小唄風味でセッションしてると、聴いてる奴が寝ちゃう凄いエンディングまで、誰も言わないけど、これ、名作だと思いまーす。
 曲の題名までアバウト過ぎで、「静岡」、「俺はそんなに馬鹿じゃない」とか、真珠の飛沫をあげてるスイマーが泣きそうな方向性で、素晴らしい。
 「静岡」なんて、「新茶を淹れてあげる~」だぜ。

 剥けてるネ。
 完全に剥けてる奴の言いそうなセリフだ。


 あぁ、そういう意味では、歳喰ってからの方がいいもん出来る人達ってのも、あっていいじゃん!なんか口調変わってますけど。
 この人達の消滅は、なんか、アルバム単位でモノを考えるのも、そういう時代も限界に来ているひとつの証拠なのかも知れない。
 

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2012年1月24日 (火)

C.G.⑦三池崇史『殺し屋1』 ('01、オメガプロジェクト オメガミコット)

 珍しく、おやじが小さな声で呼んでいる。

 「おーーーい、スズキく~ん!たいへんだよ~~~!」

 「・・・ん?いったい何処から声がするんだろう。
 ゆうべ、少し携帯ゲームでフィーバーし過ぎたかな。頭痛と耳鳴りがひどくて。これは保健室にでも寝ていないと・・・。」
 ペロッ、と舌を出し、
 「いや、この会社に保健室、ないんですけどね!」

 「こらーーー!いまひとつ、存在が定着しない某有名マンガのドクロキャラなんか物真似してないで、わしを早く助けてくれ~~~!」

 「エッ?!」

 最近スズキくんの机の上に常時セットされているクスリ壜に入って、ミニチュアサイズのおやじが必死叫んでいる。

 「あれま・・・・・・。お医者に貰ったボクのくすり・・・。
 マスター、なんてところに!」

 「先日きみは長年放置していた股間のバクテリアが悪化し、菌が全身に転移して危うく死にかけたじゃないか。会社を一週間休んで、点滴と必死の延命治療で九死に一生を得た訳だが・・・。」
 
 溜め息をついた。

 「その菌にわしが感染したのだ!まさに、“感染/予言”!!」

 「ちがうと思うなァ・・・。」

 「そんなことはどうでもいい。きみから貰った菌のお陰で、わしの身体はみるみる縮み、業務に支障をきたすサイズになってしまった。仕事継続は不可能。はなはだ、残念である!」

 「めちゃめちゃ笑ってるじゃないすか?!」

 小躍りしていたミニサイズのおやじは、ハッとしたように動きを止め、

 「よく聞け。それどころではないぞ。たいへんな秘密に気づいてしまった。
 うちの会社の、いにょー君だがな・・・・・・。」

 
作業エリアの奥でいつも寡黙にクリーナーを使っているぼさっとした青年を指差し、

 「やつは、実は、映画スターだ!!!」

 「え、え ええーーーッ!!!」


 「この重大な秘密に気づいたから、私は消されたのかも知れん。」

 思慮深げに、ひとりうなずくおやじ。

 「山本英夫がヤンサンに連載していた『殺し屋1』の映画化、浅野忠信が主演のやつな、先日確認したところ、注目のイチ役にキャスティングされていたのが、実はいにょー君だったのだ!」

 「そんな、バカな・・・。あのおとなしい人が・・・。」

 「そう、妙に濃いキャラが集まりやすいうちの会社でも、最も正体不明の男として知られ、コミケで見たとか、格闘技研究家らしい、とか、さまざまなデマが飛んでいたいにょー君だが、その正体は実は、映画で主役を張るような演技派のスターだったのだ!!」
 
 「・・・信じられません・・・ショック・・・。」

 「嘘だと思うなら、このDVDで確認してみろ。盤質Bの中古だが、充分観られるぞ!」

 「・・・しかし、それ以前に、この情報。うちの会社に所属する人間以外にはなにか価値があるんですか・・・?」

 矮小化されたおやじは、クックッと笑って胸を張る。

 「毎回万人受けする記事が載ってると思うなよ!!
 
あんまり面白かったんで、ついつい書いてしまいました、ということだッッッ!!!」
 
 「そ、そんな投げ槍な・・・。」

 「なにしろ、あのオドオドした挙動不審な態度がな、ホントそっくり!三池崇史えらい、と初めて思ったもの!」

 「え・・・?それで、この映画のレビューはおしまいなんですか?」

 「C.G.で人間まっぷたつ、とか本気で面白がるようなことかね?大のおとなが?
 身近な人のそっくりさんが出てこなかったら、たぶん、記事にもしとらんよ。

 以下佐藤師匠のリクエストに個人的に応えて、紀里谷の『CASSHERN』のレビューに続くぞ!」

 「これ、なんて読むんですか、カ・・・カスハーーーン?」

 「昔のタツノコプロのアニメでな、『新造人間キャシャ-ン』ってのがあったんだよ。それの映画化なんだが、誰もが認める大惨事。今朝の東京の凍結した路面より、危険な内容になっておる。」

 「観たくないなァ・・・。」

 「では、縮小したまま、次回へ続くぞ!チャオ!」


(つづく)

 

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2012年1月22日 (日)

菊池えり『シスターL』 ('85、シネマジック)

 さだまさしの最新盤が『さだシティ』であることを知って、いまさら驚いているのだが、おまえはカーズか。雰囲気的になんとなく。凄いネーミング。

 ・・・いや、そんな余談はどうでもいい。
 さだがシティであるように、菊池えり様といえば、シスターL。
 これが世界の常識だ。
 シスターL、チェンジ・ザ・ワールド。

 
 AV黎明期のこの作品は、それ位有名なタイトルなのである。当然、大ヒット作。但し、男性限定。そりゃそうだろ。
 ゆるいエロ話を始めるにあたり、まずは此処ら辺りから始めるのがよろしいかと思う。

【あらすじ】

 
横浜。某修道院。
 
 神を信じるシスターは、どんなに貞淑そうに見せてかけていても淫らな血を隠し持つ、まさに期待通りの存在だった・・・!以上。

【解説】

 「ありがとう!」
 われわれは感謝の気持でいっぱいだ。
 これみよがしに挿入される無駄なカット。ださいにも程がある灰色のおばあさん系修道服。切り返しで髭剃り残し多数の中野D児を捉えるショット。
 そんな、あまた散見される欠陥を補って余りあるのが、えり様の巨大な顔。

 巨大な顔に、脱帽だ。

 
 「菊池えりといえば、巨乳だろ。」
 その意見は根本的姿勢としては間違っていないのだが、事態の根幹を包括しない局地的見解に過ぎない。
 南極大陸だけ取り上げて、大陸の全てが語れるかね?

 巨大な顔に配置して、妙に小さいおちょぼ口(『シスターL』の冒頭シークエンスはこの違和感を見事に捉えている)。
 稜線高く、自己主張する鼻。
 常に官能に惑わされる困り眉。濃くて、太い。 
 決め手として、目は潤みきって小さい。

 これらが大きな顔の中に収まるマジック。
 まず、ここに第一義に語られるべき要素がある。大きな顔でなおかつ低い身長であれば、往年の日本俳優に特徴的な“スクリーン映え”するタイプということになるのだが、よりによって菊池様は比較的大柄。168cm。
 
 試みに『シスターL』、アタマの屋外ロケのショットを再確認してみて頂きたい。
 私服のLがD児と初見で擦れ違う、完全に不自然な場面だ。(この時点でLには、振り返って微笑む理由がまったくないのである。)
 印象的なのは、D児の背後から前方のLをフレームに収めたワンカット。
 LはD児より、全然、でかい。
 
(まァ、やたら高いハイヒールのせいもあるんですがね。)
 Lがのちの数分後には嬲り倒され、いびられる展開を考えれば、このカットの重要性はお解り頂けると思う。
 縛られ、叩かれ、蝋をさんざん垂らされ、浣腸を強要されて苦しい排便を遂げても、Lがあんまり可哀相な感じがしないのは、常に男優よりも身体的に優位に立っているという前提があるからだ。

 面白いのは、それが攻撃性や外界に対する強圧として作用するのではなく、いい感じにダメな、なごみの磁場を発生させていることである。
 なんか、陽性のだらしない感じ。
 それは、気がつくと半分開いているLの口許にも漂っているのだが、それに重力に逆らう気のないだらんとした両の乳房、妙にボリューム感のある太腿、二の腕にうっすら生えた体毛の濃さ・・・などにも見受けられる。

 だから、縛るわけですよ。
 吊るすわけですよ。

 縛られて当然、むしろ自由にぷらぷら泳ぎ回っている方がおかしい。
 被虐性を誘発して、後味の悪さを感じさせない。まさに“夢の女”としてシスターLは成立しとる訳です。

 これは天然なのか、えり様が意図してわれわれを誘導してくれているのか。
 そこに虚実の信憑性を探りたくなる方だってお在りでしょうが、まァ、無駄な詮索はおよしなさい。
 AVに関する議論の大半は、実のところ、「本気で感じてるのか、演技か?」に数多く費やされてきたのですが、これは制作費が余りに少ない為に、本来劇映画であるべき性質のものがドキュメントのように見えてしまうからでしょう。
 そこで意識的なAV監督は、それを逆手にとって虚実の皮膜の彼方を目指そうとするのですが、その話はまた別の機会に。

 『シスターL』は、陳腐でありふれた設定(肉欲に飢えた修道女!)を、菊池えり様が素だか演技だかわからん朦朧状態で演じることで、奇跡的な次元に昇華させた掛け値なしの名作!と申し上げて過言ではないでしょう。

 ちなみに、えり様はその後結婚され引退していた時期もあったようですが、いまだに息の長い現役女優としての生命を保っていらっしゃる。
 みなさん、イルザとかパム・グリアーとか崇拝してる場合じゃないですよ。

 えり様を尊敬しましょう!

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2012年1月21日 (土)

序文、「エロイ族の襲撃」

 そう、それでも事情を知っている人は問うかもしれない。
 襲撃してくるのは、モーロックであり、エロイ族ではないのではないか、と。
 甘い。甘すぎる。
 ときに、エロイ族は人を襲って喰うことだってあるのだ。

 私は奴らに喰われた経験のある人間だ。その凶悪さ、獰猛さはよく理解しているつもりだ。エロイ族に拉致され、不可知の森の深奥へと連れ去られ遂には行方知れずになった者すらいる。
 彼の自室には二段ベッドの上段まで、無数の市販アダルトビデオ(そういう時代でした)がうず高く積まれ、思わず「全部観てんのか、これ?」と来訪者を呆れさせるレイアウトが施されていた。
 かくもエロスは、おそろしい。
 鵺の啼く夜より、こわいぐらいだ。

 いまこそ、われわれは防備を固め反撃の狼煙をあげるべき刻ではないのか。国が、自治体が進める生ぬるい規制の嵐を飛び越えた抜本的対策を講じる必要があるのではないのだろうか。インターネットが情報を蔓延し、親達がケチなソフトウェアをインストールする以外、子供たちを溢れ返る不適正画像の猛攻から守ることが出来ない現在の状況っておかしくないか。
 狂信的クリスチャンのように、業火に焼かれてみないか?

 われわれの未来を守るのは、われわれ自身である。
 そんなことは、サラ・コナーに言われるまでもなく、解りきっている。

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2012年1月18日 (水)

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』 ('99、クロックワークス)

 世には“最終的にまったく恐くない怪談”というジャンルがある。
 
 
残念ながら社会的に何の役にも立たないが、私は大好きだ。
 あなたは、どうだろうか?

・ 怪奇な場所があり、不気味な物音が響く。
  行ってみると、立小便していた浮浪者が発狂して襲ってきた。
 
・  心霊の呪いに悩まされ続ける男。
   怨霊のパワーが全開になるクライマックス、男は自分の吐き出したゲロの海に顔をうずめて窒息死する

・ 悪魔との契約。契約書に記された血のサインが、妙に達筆。

 などなど・・・。
 
 こういう馬鹿げた例は、幾らでも思いつくことが出来るのだが、要は神秘的な現象というのは、殊にそれが恐怖に纏わるようなものなら、より一層成立させるのが難しいということだ。
 人間は、容易には信じない。
 が、意外に一度信じ込んでしまうと、かなり馬鹿げた嘘でも平気で飲み込んでしまう。結果、こっぴどく怒られるのだが、知ったことか。
 信じる奴らが、バカなんだ。
 
 『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、最終的に人をこわがらせようと企んでいる連中が、ない知恵を振り絞って製作している。
 彼らは製作資金など全然無く、有名な役者や派手な特殊効果を使うことは出来ないが、なんとか面白い映画を撮りたいと考えている。
 そこで選択した手法が、偽装ドキュメンタリー。
 川口浩か、ヤコペッティーか。
 全部でっちあげ。やらせの世界。こういうのは、TV局のおハコだった筈だが、とことん間抜けなコンプライアンスに縛られて、おおっぴらには出来なくなってしまった。(TV局がやらせを捨てて、逆に、どうするつもりなのか。誰か教えて欲しい。)
 
 あー、で『ブレア・ウィッチ』、テーマは現代に蘇った魔女の呪い。
 
呪いで一発。そりゃ結構。
 さて、『サスペリア』『インフェルノ』の轍を踏まず(個人的には踏んでOK!なのだが)、伝説の魔女をどう出すか。そこに作者の知性が問われていることになる。
 なにせ、コレ、一応リアルなドキュメンタリーを装ってますから。

 魔女なら、やはり、鉤ぎ鼻か?
 帽子は被っているのだろうか。
 そもそも箒は持っているのか。跨って飛ぶのではあるまいな?まさか。


 肝心なことは、われわれは誰も、曾我町子以外の魔女を実際に見た経験がないのであって、「これが魔女ですよ」と強引に何か出されれば否応なく納得せざるを得ない、実に苦しい立場にあることだ。
 しかし、果たして、本当になんでもいいのだろうか。

 どうも、そうでもないらしい。
 ちょっとした特殊メイクで、それらしい人物を造形したとしても、あまり上手過ぎては、せっかくの“素人大学生が撮ったドキュメンタリー”という設定が台無しだし、下手くそ過ぎたら単に物笑いの種だろう。
 だいいち、つくりものを堂々と映すことが出来ない。それまでブレブレの手持ちカメラでやってきたことが、パーになる。
 では、チラっと画面の奥を横切るってのは?
 ヒッチコックか。100%突っ込まれるな。

 
ならば、登場人物の誰かが、実は魔女の変装で。あるいは、憑依されて泡吹いて。
 ダメだ、それでは出来の悪いコントにしかならない。 

 ・・・で、喧々諤々、困って考えに行き詰った「ブレア・ウッチ」の作者たちは、エンターティメントとしては、いちばん避けたい方面の選択をしてしまった。
 (ロバート・ワイズが『たたり』で上手にやった手口だ。)

 この映画に、“ブレアの魔女”は出てこない。
 曾我さんのスケジュールを押さえるのは、断念したのである。


 以上で、この映画の毀誉褒貶が激しく、賛否が分かれる理由を充分に説明できたつもりだが、どうだろうか?
 恐怖の焦点が、画面にハッキリ登場しないのだ。
 皮肉なのは、それをちゃんと出していたら、この映画は誰の記憶にも残らなかっただろうということだ。

 『ブレア・ウィッチ』でいちばん面白いのは、その企画意図であり、実のところ、本編がそう面白い訳ではない。
 大学生がお互い罵り合い、勝手に自滅していく。よくある話だ。
 彼らを襲う怪異も、異様に地味。
 樹から棒がたくさんぶら下がっている、とか、朝起きてみると俺のリュックが粘液まみれだ!とか。
 ひとり行方不明になるが、翌朝、発見されたのは血塗れの歯数本だけ。
 

 この脈絡のなさは、なんだろう。
 魔女という存在は、よっぽど暇なのか。

 超自然的というより、単に、土人の犯行である。
 
 最終的に、伏線を仕掛けておいて、壁の前に立たされた男が罰ゲームのように出ましたが、これがもう、見事に壁の前に立つ男にしか見えない。
 このキメで恐がらせなくちゃダメだろう。おい。

 じゃあ、一体どうすればよかったのか。
 それを真剣に考えることが、迂闊にこの映画をヒットさせてしまった観客ひとりひとりに課せられた責務である。
 あれから10年以上経過し、その回答が既に幾つか確認できるのは喜ばしい限りだ。
 

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2012年1月16日 (月)

ビーチ・ボーイズ『スマイル・セッションズ』 ('11、キャピタル・レコーズ)

 究極のテーブル・ミュージック、『スマイル』。

 世に知らん人のない有名盤なのに、実は一度も発売されたことがない、というね。
 まったく落語みたいな話だ。

 正規版が出るわけがないと皆んなが思っていたら、しかし昨年こっそりリリースされていた。
 う~~~ん、キャピトルのいけず。
 あたしはコレクターではないので、ビーチに関してはいい加減を貫いているが、それでも結構聴いてますよ。主要なアルバムは殆ど押さえたんじゃないかな。「ココモ」が入ってる奴は知らないけどね。
 でも、信用しない方がいいですよ。呻吟懊悩の末いま考えたベストアルバム第一位が、『リトル・デュース・クーペ』だったりしますから。どう考えてもいい加減な奴だな。
 あ、結構売れた箱の『ペット・サウンズ・セッションズ』、持ってないですよ。ボーカル・オンリー編集盤は一度聴いてみたいと思ってるんだけど。

 あ、さて、『スマイル』が出るわけがない、と誰もが考えていたのは、このアルバムの制作中にブライアン・ウィルソンが完全に壊れてしまい、ピアノに砂を詰めて遊んでいたからなのだった。そういえば。
 まぁー、全裸で歌入れする(ロバート・プラント)とか、交際中の彼女を連れてきて適当なこと喋らせる(ジョン・レノン)とか、ロック黄金期のミュージシャンはやりたい放題なのだが、さすがにピアノに砂を詰めてはいかんだろう。音、出ないし。
 収録曲の順番も、否そもそも、どの曲を入れるのかという最低限の選択すら中途で放り出されて、哀れ『スマイル』は頓挫。空中分解。かくして伝説が始まった。
 すなわち、
 ミュージシャンが諸般の事情により途中で放り出したアルバムは、すべて『スマイル』呼ばわりされる、という悪夢のような現象が世界的に蔓延したのである。ナイス。

 断片的にリサイクルされた『スマイル』収録音源は、ちまちまその後のビーチのレパートリーに加わっていったが、これが困ったことにクオリティーが高かった。アルバムの目玉扱い。
 人々はその全貌をなんとか捉えようとし、星の数よりまだ多い海賊盤に群がった。
 かくて『スマイル』の非正規盤は専門ショップの超定番商品として、出せば確実に売れる、安定セールスを続けてきたのである。
 業界は砂の詰まったピアノに感謝状の一枚も贈呈するべきだろう。

 じゃ、なんでキャピタルは今回、『スマイル』をリリースすることが出来たのか。
 しかも、いまさら?
 企業として恥ずかしくなかったのか?

 その質問は「そもそも恥とか考えてたら、ロックビジネスなんか出来ねぇーだろーが、ベィビィ~!!」というアメリカンな態度に集約されると思うが、それはともかく、名プロデューサーとして高名なマーク・リネットがライナーで認めている通り、「今回のリリースはブライアン自身の2004年版を全面的に下敷きにしました!」ということなのである。

 あー、きた。
 2004年版スマイル。これ、傑作なんですよ、実は。

 既に還暦過ぎのブライアンにとって、『スマイル』頓挫はその後の人生を狂わされた悪夢の一大ページェントなのでありまして、ビーチを抜けてソロ活動に入ってからも、なにかと節目節目で「スマイル!スマイル!スマイル!笑え、豚野郎!!」と罵られ続けた究極のトラウマなのであった。
 (実際、ファースト・ソロの契約を結ぶにあたり、レコード会社が出した条件は、“スマイル期を彷彿とさせる楽曲を最低一曲入れること!”という無茶振りだったのである。これ、事実。)

 その後、また精神科医と揉めたり紆余曲折あって、飛んで2000年代、人生何度目だか本人にすら解らない奇跡の復活劇を遂げたブライアンは、ちょっとじっくり考えてみた。

 「今やらないと、もう二度と出来ないんじゃないの?
 既に裏声、全然出てないし。
 “ドント・ウォーリー・ベイビー”なんか、キー変わっちゃったしさ。ありゃ別の曲だよ、既に別の曲。
 まったく、こりゃ人の心配してる場合じゃねぇーんだよなー!!」


 で、かろうじて生きてたヴァン・ダイク・パークス(作詞)やら録音当時のスタッフを呼び寄せると、現在のツアーを全面サポートしてくれているオタク(ダリアン・サハナジャ)にMacで編集を依頼。オタクは、キーボードを華麗に操り、無限大にある過去音源をエディット。
 他力本願もはなはだしいが、ブライアン・ウィルソンって人はそもそも孤高の天才肌じゃないんですな。実力を発揮するとき、いつも周囲に恵まれる。
 実際いい人なんでしょうねー。

 かくて、完成した2004年版スマイルは、なんとライブで再現され、客は熱狂。そりゃそうだろ。
 確かな手応えを感じたブライアンは、そのままロスに帰ってツアーメンバーとレコーディング。「ブライアン・ウィルソン・プレセンツ」の冠をつけたアルバムは、当然大ヒット。全員号泣。

 今回の『スマイル・セッションズ』は、だから「実録・スマイル」というか、「死亡遊戯」プラス「死亡の塔」というか。
 過去音源を現在の視点で再編集したもの。
 オリジナルが出る頃には、既にリメイクが絶賛公開された後だったという。
 この構造の捩くれ具合が、実は一番面白い。
 今の時点の耳で聴くと、『スマイル』の音源自体は、いろんなところに影響を与えまくり世に蔓延り過ぎていて、ちっともアバンギャルドには聞こえてくれない。
 凄く性能のいいポップになってる。だいたい、コンセプト時点でビーチとか関係ねぇ訳だし。

 それでも、この期に及んで、
 「真の“スマイル”は違う!」
 「俺の“スマイル”は何処へ行ったんだ?」
 って強硬に言い張る、頭のおかしい皆さんの華麗なる巻き返しを期待しております。

 「大団円になんてさせるかよ!
 俺の“スマイル”∞(無限大)!!!」 

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2012年1月15日 (日)

ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』 ('73、ワーナー)

 “キリストのパワーがお前をへこませる!!”
 “つーか、マジ、超へこませますから・・・!!”


 以上の名台詞でお馴染みの『エクソシスト』。白状するが、私は今日までちゃんと観たことがなかったのである。ごめんなさい。
 両親の泣き顔が見えるようだ。まったく、「神秘の探求」のくせにねぇ。何やってるんだか。嘆かわしい。石ぶつけろ。
 2000年のディレクターズカット公開時に製作の舞台裏も含め一挙に情報が流入してきたのと、それ以前、オリジナル版がブームを捲き起こしていた頃から既に供給過剰に陥っていた無数のパロディーの嵐に翻弄され、なんか観たような気になっていたのが、まずかった。実際、まずった。
 今回は不勉強を反省したい心境であります。これは、やはり傑作だ。
 クライマックスのネタ、全部、知ってましたけど。楽しく最後まで観ることが出来ました。
 ありがとう、フリードキン。
 「フレンチ・コネクション」も良かったよ。じゃ、もっと観ろよ俺の映画。「恐怖の報酬」のリメイクは当時劇場で観たな。そういや、そうだった。

 というところで、『エクソシスト』、実際観てもっともビックリしたのは、もろ、カーペンターの『ハロウィン』になる場面が出てくることだ。

 冒頭付近、のちのホラー映画で死ぬほど繰り返されることになる単調リフの曲、たぶんあれぞマイク・オールドフィールド「チューブラー・ベルズ」なんであろうが(おい、確認しないのか?)、ともかくあいつがガンガン流れるなか、ジョージタウンに冷たい秋風が吹き、映画女優の母親が古めかしい町並みを歩いていくカット。
 これが、まんま『ハロウィン』なんですよ。ありゃま。
 あちらでは、ジャミー・リー・カーティスがまったく同じ動きやっております。ミシシッピー・デルタ・ブルースのカバーみたいな感じですね。無茶な例えだなぁ。
 し・か・も。
 しつこくエンディングでもこの曲が繰り返す!これもまったくおんなじ。
 黒地に赤のクレジット・デザインまで、似てるんだよなぁー。びっくりだ。やるね、カーペンター。期を見るに敏なり。ということか。

 結論。名所旧跡は一度は見ておいた方がいいよ。沈む前にヴェニスに行きたいね。

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2012年1月11日 (水)

『闇の国々』 ('11、小学館・集英社プロダクション)

 ハイ。
 去年の年末。店頭で、これを見つけてのけぞった人。
 そして、余計な年末年始の行事などシカトして、せっせと読み込んでとっくに読破したという幸運なあなた。おめでとう。
 いかんせん、あまりに地味過ぎるが、この本は傑作である。買って損なし。

 あたしは、第一部の原書を二十年ぐらい前に購入した。
 だが、いかんせんフランス語が読めず、英訳本も見つけられなかった。(メビウスは割りと英語になっていて、“Air-Tight Garage”も英訳で読んだのだった。)
 本書は当時からB.D.の傑作として紹介されていたが、ビジュアル面の魅力のみ触れたものが大半だったように記憶している。
 確かに、銅版画の挿絵のような絵柄も魅力だが、テキストも拮抗するぐらい重要である。シュィッテン(本書の表記はスクワイテン)の絵ばかりではないのだ。ペータース。もしくは、ピータース。物語と絵のコンビネーションが絶妙である。

 内容はというと、架空の都市の年代記。
 時代設定も、そこに住む人々の素性もよく解らない。近未来のようでもあるし、もっと旧い時代のエコーも聞こえてくる。
 いずれにしても、その場所はヨーロッパだ。
 実在しえたかも知れない、もうひとつのヨーロッパ。
 歴史と蓄積。文化の混合。ユーラシア大陸の西方に位置する、われわれの知らない地方。
 
 第一部「狂騒のユルビカンド」は、突然出現した立方体の骨組みが、テーブルに載るサイズからどんどん成長し、急速に増殖を繰り返し、都市をまるまる飲み込んでしまうという物語である。
 大型の不条理劇のようでもあるし、一種のパニックものとも考えられるし、立方体に魅せられ破滅していく建築家の物語でもある。
 絶対破壊できない未知の物質でつくられた物体が、勝手に巨大化するという基本設定がとても魅力だ。人々は混乱し、それと共存し利用するようになり、遂には立方体なしには居られなくなり、突然現れた謎の存在は再び不可知の領域へと去っていく。
 これだけの物語。

 比較してみると、同じ立方体の魅力で最後まで押し切ろうとするヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』が、ひどく人間臭い構造を持っていて、ちっとも謎に見えなくなること、請け合いだ。
 あれには、人を惑わすという意図がハッキリと見えますもの。残酷ではあっても、怖くはないです。やっぱり、人知は軽く越えてくれないと。
 モノリスはオッケーで、ラーマはN.G.。わかる?
 
 私の記憶するところでが本書の感触に近いものを探せば、例えば、クリストファー・プリーストの『逆転世界』で、最後のオチがない状態。(わかりにくい例えで申し訳ない。が、読んだ方ならきっと私の言わんとするところは解ると思う。)

 サンリオSF文庫の一冊として紹介されていれば良かったのに、残念ながら本書はマンガだ。

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2012年1月 9日 (月)

白石晃士『バチアタリ暴力人間』 ('10、イメージリングス)

 「あぁ、インディーズ映画って、こういうのだったよなぁー!」
 
 と、来しかたを振り返って私なんぞは思うのである。
 明らかに、ここには“なんでもあり”が売りだった、かつての時代が共鳴している。
 やばい映画。
 やばい音楽、
 それらは一過性のブームを通り過ぎ、消費され、記憶の彼方に消え去ってしまった。
 やばいものをつくっていた人達は、本当にやばい人だったから、手配されたり、死亡したりで、今のクリーンな世の中では、なかなか表面に浮上してくることがなくなった。
 
 『バチアタリ暴力人間』は、そんな時代に敢えて物凄いダメな人達を再配置し、野蛮さを取り返そうとする試みである。

 いい歳こいたボンクラ、笠井。山本。
 彼らをわれわれは昔から知っていたし、地元でも上京してからも周囲に必ず居た。
 間抜けな音楽が好きで、間抜けな格好で、将来はビッグになりたくて、仕事に就いてもすぐ辞めて。お陰でいつもアパート暮らし。
 彼女もいたけど、いつも愛想を尽かされ、逃げちまった。
 だんだん彼らを見かけなくなっていったとしたら、それは、きみの年収が増えたからだよ。
 
マンションも買ったし、ね。

 暴力人間とは、実は、欲望のままに正直に生きている、極々まっとうな人達のことであって、スーツ着てネクタイ締めてるわれわれこそが、社会権力をバックにつけた立派なヤクザ者なのである。
 せめて、その自覚は持とうじゃないか。

 こういう映画を撮ると、どうしても先達と比較されてしまうのは仕方のないところで、ラストの卓袱台のひっくり返し方がどーだ、こーだ、言われてしまうのは避けられないところだけど、まぁ、いいじゃないの。細けぇことは。
 
 それにしても、みんな、ホント、ヤンキー好きだよなぁー。
 その点は、ちょっと、呆れる。

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2012年1月 7日 (土)

ラリイ・ニーヴン『中性子星』 ('80、ハヤカワ文庫SF)

 なんでもない普通にSFなのだが、妙に楽しい。
 SFプロパーの読者以外にはまったく認知されていないラリイ・ニーヴンの一体どこが面白いのか。

 例えば、臓器故買犯を扱った短編「ジグソー・マン」(短編集『無常の月』収録)というのがあって、内容が内容だけに絶対ダークになるしかない筈なのに、なぜかそうならない。読後感は妙にあっけらかんとして、お気楽な感じだ。ずうずうしい、というか、あくまで表面的というか。
 内臓が出ても、ドライだ。
 
同じドライにやるにしても、例えばハーラン・エリスンならば絶対どぎつい表現を入れるような箇所を平気で素っ飛ばしてしまう。
 人ひとり解体されているんですが。
 それでニーヴンの歩みが止まる訳ではない。陽気なしかめっつらをするだけだ。 

 典型的な世界破滅ジャンルのバリエーション「無常の月」も同様。深み、ゼロ。

 太陽表面の異常爆発(フレア)により、月は夜空に異様に輝き、地球の昼側の半球は完全に焼き尽くされてしまう。
 潮位に異変が起こり、やがて夜の側にあったニューヨーク市も大洪水に見舞われるだろう。

 
本来一番深刻になる筈の部分は、主人公のモノローグで数行で終わらせてしまい、本筋ではそれ以上の掘り下げは行なわれない。
 だいたい、この主人公、地球滅亡の危機に、飲んだくれてガールフレンドとベッドにいるような奴ですから。単なるボンクラ。でも、全地球的規模の災害に対して、いちばんリアルな対処じゃないですか。・・・あっけにとられる、というのは?

 短編をきれいに纏める為のテクニックにしては、ニーヴンのかわし方は、かなり堂が入っている。同じアイディアを処理するにしても、バラードならどうするか。短い中にも含蓄ある哲学的思考を必ず入れてくるだろう。詩的表現を多用し、キラキラした宝石のように磨き上げるだろう。
 その意味で、ニーヴンは無防備すぎる。マンガ的すぎる。

 結論から言うと、そこが魅力だ。

 想像力に対し一定の責任が伴うということはない。ニーヴンがいつも気にしているのは科学的整合性という奴で、それ以外は実はあんまり考えていない。理系だから。しょうがないんだよ。
 作品の舞台や意匠は毎回派手派手に変わるのだけれど、登場する人物や嗜好は毎度お馴染みのオール・アメリカン感覚に溢れたものだ。異様に親しみ易い。どこに行ってもアメリカ人がいる。星間ヨットの展示場なんて、近所のアメ車のディーラーショップさ。ドラッグストアだってあるし、かなり異様な外見の異星人も登場するけど、中味はよく知った人達。
 例えばディックは意図的にカリフォルニアの日常と地続きの火星や未来の地下シェルターを設定していたけど、あれは文学的深読みの余地があるじゃない?
 ニーヴンにそんなもの、ないの。そこが無条件に素晴らしい。
 同じように、“宇宙のどこへ行ってもアメリカ”という世界観は、フラッシュ・ゴードンの昔からスペースオペラがお得意の道具立てですけれども、完全にそれに連なるもの。
 タイトルを失念したんだけど、50年代・60年代の宇宙物のアメコミのアンソロジーでニーヴンが序文を書いている本があって、「あぁ、この人のルーツはこの辺か!」と深く納得した憶えがある。
 そりゃ、マンガ的なのは当然ですよ。原点がそれなんだから。
 ニーヴンは文字で書かれたアメコミ。
 
 ・・・それで、なにか不都合でも?

 そろそろ『中性子星』の話もしなくてはならないのだが、これは長大な連作・未来史シリーズの一冊で、二十六世紀を舞台にした宇宙での冒険譚が満載。お得感有り。
 超光速航法、ハイパースペース・ドライブが開発され、人類は宇宙に広がって通商したり戦争したり冒険したり。宇宙人種族も何種類も登場するが、共通するのは皆んな、あまり深刻ぶらずに生きている。偉い。美しい。
 例えば、人類の敵、クジン人なんか、身長2メートルの巨大なネコ。(毛皮はオレンジ色。)やたら好戦的で、最初の接触以降、何度も人類に戦争を仕掛けてくるんだが、種族揃ってあまりに喧嘩っぱやいもんで、前回負けてもまったく懲りない。自分の陣営の準備が整わないうちに、また次の戦闘を開始するもので、常に人類に負け続けている。
 
 
素晴らしいね。
 そういう宇宙であって欲しいものだ。
 

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