高崎隆『オレってピヨリタン⑥』 ('97、秋田書店)
ピヨリタンとは一体何者か?
その問いに答える為に、まず表紙を眺めてみよう。まぁ、気長に。
オレンジの水着かスポーツウェア一枚の女の子が大描きされていて、読者目線でウィンクしている。ポニーテールに結んだ髪は、緑色だ。目と鼻のパーツは配置を大きく崩れており、すなわち、このマンガが腐ったアニメ絵で構成されていることを物語っている。描き慣れた線ではない。人体バランスも悪い。完成度は高くない。
(ということは、完成度の高いアニメ絵というのも存在する訳だ。好みはともかく。)
しかし、重要なポイントであるが、彼女の乳頭は薄いウェアを突き上げて、くっきり浮き出している。
エロだ。
はっきり分かる、記号としてのエロ。中学生なら、鼻血ブー。
秋田書店は『ふたりと五人』の昔から、少年雑誌というお座敷に下品なストリップを持ち込むことで有名な伝統があるように思う。
その土着的な感性に直接お世話になった記憶はないのだけれど、例えば小学館が推進する、上条淳士の匂いのする小じゃれた流暢な線で描かれるマンガに対してまったく琴線に触れるものがない私からすると、秋田にはやはり何かがある。下品なサムシングが。下世話な下心が。
直接、少年のリビドーに訴えかける、ダメな感じの何かが。
さて、あらためて少年誌全般の周知のお約束として申し上げるが、たといジャンル分けでエロマンガと分類されても、直接の性行為は御法度。パコパコやり出した途端、作家はお払い箱になる。従って、寸止めが基本。つらい。
(この法則を逆手にとったやはり秋田のマンガに、『すんどめッ!』ってのがありましたな。でも、あれは青年マンガ誌。)
エロマンガなのに交接できないとは、大人向けのマンガを読み慣れている人間からすると、随分不思議な法則に見えるだろうが、ま、読者の中には純真な小学生だっていますから。きっと。教育的配慮。建てまえ。
(ガキなんか当然、全員、クソガキに決まってるんだが、親はなんでか絶対そんな風に思わないでしょ。少なくとも、女親に限っては。考えてみれば、よっぽどその方が不思議だ。)
その不自然なリビドーの放水路として、『まいっちんぐマチコ先生』や『いけない!ルナ先生』などがジャンルの重要な分水嶺として誕生した経緯は、読者諸君もとっくに御存知の通りであるが、ここではもう少し、どうでもいい作品を積極的に取り上げて論考を進めたいのだ。
そこにエロスの地下水脈が埋もれている気がするからだ。
かくて、さほど深い考えも無く、私が適当に手に取ったのが、たまたまこのマンガだったということになる。
諸君、運の悪い偶然に震えたまえ。
・・・それにしても、これは一体どういうマンガなのだろうか。
「生まれたときから女をピヨらせる不思議なタッチの持ち主」池田順が、周囲の女子にタッチしまくるお話。
それが、『オレってピヨリタン』の全てだ。
なんという志の低さであろうか。奇跡の誕生を感じる。
え?ピヨらせる、って何かって?
昔のマンガでよくあるじゃないですか。「トムとジェリー」ぐらいの古典の時代から。
ジェリーの落としたフライパンで頭部を強打されたトムさんの頭の周辺に、ピヨ~ピヨ~って星が回りますよね?
あれです、あれ。
主人公にタッチされた女の子は、意識朦朧となり、不思議な心地良さに包まれてグニャグニャ~ってなっちゃうの。
ピヨピヨ~って、星を廻す代わりに、ひよこを飛ばして、ね。
ま、一種の超能力なんですかね。
「Oh!透明人間」が、何故透明なのか合理的に説明できないのと同じく、このマンガの主人公は、不条理ながらも、生まれついての特殊能力を持ち合わせちゃってる訳です。ご都合主義ながら。
「これって、でも、代々木忠が実践してなかった?」
そういう無粋な突っ込みは無用に願いましょう。
新興宗教の手口とかにも類似するものは感じますが、これは性感マッサージの類いではありません。
性的法悦を局所的に発生させる能力。同じじゃん!
ま、それはともかく。
主人公が非合理なほど強力な必殺技を持ち合わせていて、居並ぶ強敵(巨乳の生徒会長とか、水泳部の女教師とか)をことごとく打ち倒し、乳やら尻を揉んで揉んで揉んで去っていく・・・って、これって、実は何かに似てないか?
そう、一見現代では絶滅したかに思われている、古典的な少年漫画の勝負のスタイル。例えば『赤胴鈴の助』だね。
真空斬り。
いや、かめはめ波だっていいや。
実のところ、『ドラゴンボール』だって、なんだって、古典的な勝負の串団子構造という点では、往年のマンガと大差ないのであるが、これはもう、少年というものは常に勝負を求める生き物だから、しょうがないのだ。あきらめろ。
勝負に勝つ為には、過酷な修業にも耐える。これも、同じ。
だが、あるまじき点は、立派な志皆無の筈のピヨリタンですら、なんと修業してしまうことである。
「よりよく高速でタッチし、堅いガードをかいくぐって、女の身体をピヨらせるために」!
親戚の仙人に弟子入りしてしまうのだ!
だいたい、親戚に仙人がいる家系もどうかしていると思うが、それ以前に、この行為、完全に犯罪ですから!
確実に重要な法律に触れている。それも複数。未成年とはいえ、毎日学校でこうした犯罪行為を繰り返していたら、100%無事には済まないだろう。ピヨらせてエクスタシーに導けば主人公の勝利は保証されるだろうが、勝ってどうする?目撃者の記憶が消せるほど、超能力が豊富にある訳でもなさそうだ。
だいたい、エクスタシー体験後の女性が何を言い出すか。これが、実は一番おそろしい。
だから、ピヨリタンのいる世界は、この現実とちょっと異なる世界でなくてはならない。
少年マンガの作者は、主人公の存在をまず全面肯定し、反証をぶつけ、ストーリーを盛り上げる。与えられた障害が大きければ大きいほど、主人公の特訓は過酷さを増し、最終的に得られる勝利の快感は絶大なものとなる。
これが少年マンガの王道というものだ。
では、主人公がれっきとした犯罪者である場合、その存在を肯定するためには、どういう救済手段が考えられるだろうか?
困ったことに、ピヨリタンの立場は誰が見たって、性犯罪者なのだ。しかも主目的がタッチに限定され、積極的にそれ以上の深化はしない(=深入りしない)のだから、ある意味一番タチが悪い。
主人公が、愉快犯。痴漢。
こんなに世間一般の共感を呼べない設定も珍しい。(だが、お気づきだろう、ライトエロジャンルには、この手の作品がゴロゴロしている。)
この状況を解決する唯一の方法、それは幼児性の導入。
主人公の未成熟さを全面肯定すること。
主人公は無条件で、可愛いのだ。だから、ピヨらせた相手にも愛される。笑って(もしくは怒って)、でも、不思議と許される。二枚目では同性の反感を買うだけだろうから、その存在は二枚目半以下が本当は望ましい。
それでも、彼は中学二年生。それなりに身長もあるし、顔だって決してまずくない。平均的な、別にクソ面白くもねぇ普通の顔をしている。
従って、ギャグ的なシーンで、主人公の身長は縮まなくてならない。等身を詰めたお馴染みの二頭身キャラ。いまだにださいアニメなんかで頻繁に使われてる手法だ。
ちなみに、あたしゃ、あれが大嫌い。最低。最悪。誰が許可してお前は縮まってるんだ。国際オリンピック委員会に提訴したくなる。
さて、このへんで纏めに入ろう。
すべての願望充足ジャンルの作品に共通するのは、主人公が無条件に自己肯定を達成してしまっていることだ。この、「無条件に」が、社会規範の外側への逸脱も含んでいるのは、既に述べたとおり。
欲望は、まず全面的に肯定されなくてはならない。それなくしては、池田順などというクソつまらない名前の主人公など成立しない。
かくて、主人公は無制限に不毛な性のデスマッチを繰り返し、女体描写を積み重ねていく権限を与えられる。
だが、積みあがるオッパイの山。地平線まで続く尻の行列も、結果として不毛の荒野。何のドラマも齎してくれない。そりゃそうだろう、倫理上の都合により直接的な性行為は排除されてしまっているのだ、妊娠もしなけりゃ、下手すりゃ生理描写すら存在しない。耐え難い臭いもない。安全地帯そのもの。
それでも強引にドラマを求めようとするなら、主客の転倒が起こらざる得ない。
よりよくピヨるということは、より強くなるということだ。
手段が目的に。
目的が手段に。
かくて、逆立ちした状態(主人公が無敵)から始まったマンガは、単なる類型的な少年マンガと化す。見えない獲物を追いかけ始める。
それを積極的に否定する必要もないが、われわれはいささかお馴染みのパターンを繰り返しすぎた。
そういう反省はあって然るべきだと思う。
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