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2011年11月28日 (月)

若島正『乱視読者のSF講義』 ('11、国書刊行会)

 ディレーニイ「コロナ」に関する文章が素晴らしい。

 いや、読んだ人は御存知だろうが、「コロナ」自体が非常に感動を呼ぶ作品であって、これを正面から取り上げるだけで、充分優れた文章になりそうなものだが、これまで何故かそうはならなかった。
 この点は、関係するどこかの筋に抗議したいところだ。
 若島正の方法は、根源的かつ明快である。

 「わたしはいつでも、当たり前のことをわかりやすく書きたいと思っているので、今回書くべきことは最初からそのことしかない。」
 「なぜ、(「コロナ」に対して)「好きだ」とだけ言えばいいのか。それを説明するのが今回の唯一の目的である。」

 
 そして、作品内楽曲である「コロナ」に対する精緻な分析と、結論としてのふたりの登場人物同士での「好きだ」「ありがとう」の対比構造の焙り出しが行なわれる。
 感動的な作品を分析することは、それが正鵠を射抜いているなら、批評自体が感動を呼ぶものになる筈である。

 もし、そうならないとしたら、どこかで読み違えているのだ。

 私がここから直接連想したのは、黒沢清が著書『映画はおそろしい』の中で、ジョン・カーペンターに関して語った文章のことだった。

 「全世界の人間は一度彼の前で、「本当にありがとう」と頭を下げるべきだと思う。」

 これが無茶苦茶な決め付けに取れるとしたら、あなたはカーペンターと彼の映画について何も御存じないのだ。カーペンターは現在もそういう特殊な位置づけにある、殆ど唯一の映画作家だ。
 カーペンター映画を数本観終わったあとで、先の文章をもう一度読み直してみて欲しい。
 評論というものが本質的に根源的、かつ明確なものでなくてはならないことが首肯されるだろう。

 ところで、若島先生の本を読み終えたあとで、われわれは、「考えてみれば、SFって碌な評論がなかったんだな・・・」という当たり前のようで当たり前ではない、意外な事実に直面することになった。
 大学で教えるテキストに選ばれたから偉いのではない。
 偉い先生が論じているから、作品に箔がつくのではない。
 まともな評論がないことが切実な問題だ。世界は優れた評論に飢えているのだ。
 
 そういう意味で、これはまたしても否応無くわれわれの批評レベルに刷新を問いかける、嬉しい書物なのである。
 

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