「冗談を本気にとってみる。」
かつて定番とされ、多くの笑いを捲き起こしてきた有名なギャグが、現在の時間軸に置き換えてみると、まったく面白くないのは何故だろう。
あの当時、人はなぜ笑ったのだろうか。
「そこに過剰なものがあったからだ」
ケンブリッジ大学でガスの配管工事を教えるかたわら、あまたの著書で時代を啓蒙し続ける著名な思想家ブルッナーは、このように述べている。
「笑いとは、例えばある欠落を廻って起こる。そこに欠落がある、という指摘自体が既にして面白い。私の専門分野・ガス漏れに関連していえば、
『そこ、ガス漏れてますよ!』
これだけで充分面白いのだ。明らかに、危険だが。
しかし、その事実を知らない近所の電気屋のおやじが、よりによってこのタイミングでタバコに火をつけるとなるとハラハラ、ドキドキして面白いし、さらに最悪にもたちまち引火し吹っ飛んでしまったとなると、困ったことに、なお面白いのだ」
「笑いとは、欠落を発見する行為であり、それが埋まりきって補填されるまで持続する。
欠落をかかえて日常を送っている側から見ると、笑いの対象への指摘は過剰な行為に映る」
以上の文章から私が考えたのは、笑いの発生源となる欠落が埋まりきってしまった後の状況である。
道を歩いていて、通りすがりのハナ肇から、
「アッと驚く、為五郎!!」
と話しかけられたサラリーマンは、そそくさと名刺を取り出し、
「はー、為五郎さんでいらっしゃいますか。
わたくし、こういうものでございます。ヨロシクお願いします」
丁寧にお辞儀するのではないだろうか。
そして、そこに為五郎と民間との暖かい交流が始まるとしたら、微笑ましい光景ではあるまいか。
あるいは、加藤茶の有名なギャグ、
「ちょっとだけよ」
ここで定義されるべき「ちょっとだけ」とは、果たしてどこまでだろうか。状況、お客さんと踊り子さんとの関係性、小屋が支払うギャランティーの問題など、考慮しなくてはならない要素は多々ある。難しい。
指二本まで、というのが慎重に導き出した私の推測なのだが、あなたはどうお思いか。
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