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2011年5月29日 (日)

ドン・シーゲル『刑事マディガン』 ('68、ユニヴァーサル)

 頑固な人達の時代が終わろうとする前に。

 背広を着た西部劇。
  誰かが『ダーティーハリー』をそう例えていたが、実は少し違う。

 刑事マディガンは昇進なんかに目も呉れず勝手に現場で生きてきた男だ。美人の若い妻はいるが、子供はない。
 殺人犯の逮捕に向かったマディガンと相棒は、犯人に逆襲され拳銃を奪われてしまう。
 拳銃は、刑事(デカ)の生命(いのち)。
 
和洋問わず、それは変わらない。
 かくて三日の猶予の間に、自らの魂を見つけ出す使命を、神(=警視総監)ヘンリー・フォンダから仰せつかった中年男ふたりが、地道な聞き込みを続けて遂に犯人を追い詰めるまでのドラマが、この映画だ。
 (今気づいたが、こうした基本構造は、『ブルースブラザース』にも受け継がれている。)

 無類の女好きで、逮捕の為なら暴力も辞さないマディガンのキャラクターは、ホラあれだ、『フレンチ・コネクション』のポパイ刑事の原型だと思っていい。
 あっちはやたら若い娘好きのロリコンだったが、マディガンは美人の妻がいて、浮気相手の彼女が、クラブの女歌手ってのも奮っている。
 まさに、おやじの理想型。憧れの的。
 妻はいつも表を飛び回っているマディガンには常日頃から多分に性的欲求不満を感じていて、朝飯にジュースとトーストを食う夫に、ストレートに愚痴を言う。

 「それで、週末は?あたしはどうすればいいのかしら」
 「映画でも観に行けよ」
 「ひとりで・・・?
 TVの方がまだマシだわ!」

 なるほど、これは感じが出ている。
 私自身、映画の記事を散々書いておいてなんだが、映画館には誰かと一緒でなければ行かない消極派なので、よくわかるのだな。これが。
 派手にデフォルメすることなく、それでもしっかり主張だけは持った人間像の呈示。
 瑣末な事例を拡大解釈して恐縮だが、映画において記憶されるべき人物が現れるのは、こうしたリアリティの集積の結果としてではないのか。
 そういうのが随所にあるんで、さして面白い話でもないのに最後まで観れるんですよ。
 たまにあるかっこいい場面(巻頭の屋根からの追撃シーンとか)なんて、「おーっ、かっこいい!」って呟いたりしてね。かっこよさ、倍増し。
 
 ちっとも比較するつもりはなかったが、この映画の直前に私は、『第9地区』のDVDを観ていて、ビジュアルはそれなりには楽しめたが、いまひとつ乗れない感想を持った。
 あの内容はバージョンアップした『原子人間』だと考えればいいのだが、どうもこちらの思った通りにすべてが進みすぎる。キャラクターに感情移入するよりも先にカットが切り替わってしまう。
 だいたい、主役のあの情けないおっさんに、観客が同情しなけりゃこの手の映画は駄目じゃないですか?
 だが、妻は美人、義理の父親は世界第二位の巨大軍需産業のボス。出世の晴れ舞台で、エイリアンの毒液を浴びて下痢とうんこが止まらなくなり、ホームレス以下の人体実験モルモットに転落する男、ってまったくの因果即応って感じじゃない?
 俺は、あいつには1ミリも同情する余地はないと思う。
 ではなぜ、あんな共感できない奴が主役になったのかと言えば、脚本家が頭でひねっただけの、適当なでっち上げ、単なるストーリー上の都合じゃないですか。
 「こういうキャラ設定の奴が悲惨な境遇に落ちるのが面白い」って。

 わかってねぇなぁー。
 浅いんだよ、若僧が。


 せっかくP.O.V.を多用し、ドキュメントタッチで映画を盛り上げようというときに、いわゆる劇映画式の画面構成が配慮なく挿入されるのにも辟易した。(具体的には冒頭エイリアン居住区への軍隊の突入と、小屋の中で小細工するエイリアン同士の会話が繋げてある辺り。川口浩探検隊か、お前ら。)
 『グエムル』の時にも思ったのだが、映画の編集技術は無駄に進化してしまってはいないか?
 出来ることが増えた。
 使える機材もこんなにある。
 見せ場見せ場の連続で観客を異空間へ拉致することは構わないとして、砂利石ひとつも持ち帰れないのであれば、遊園地のアトラクションと変わらないだろう。
 そして、言うまでもないが、映画を一本観るということは、無駄な砂利をちょっとお家へ持ち帰りになる、という行為だ。
 基本はテイクアウトなんですよ。それが出来なきゃ、嘘なんですよ。
 みんな、もっと文句垂れた方がいいですよ。行政とか。
 
 対して、とことん地味な『マディガン』は建物が爆発もしないし、派手なカーチェイスもない。
 銃撃戦もあるんだが、双方ひたすら撃ち合ってるだけ。
 マカロニ以前の西部劇みたい。
 でも、ヘンリー・フォンダが人妻と浮気したりとかね、おやじの濃い煮汁みたいな見せ場が連続してあるわけですよ。
 本物のマカロニスターのイーストウッドを起用して撮った、かの『ダーティーハリー』と比較すれば、こちらは明らかにオールドスクールな西部劇なんですが
 
締めるべきところは、締めてる。腹はまだ出てない。
 そんな感じだと思います。
 だいたい、ドン・シーゲルで警察群像アクションですよ?

 去り行く頑固な人達の背中を拝むに最適かと。
 地元のチンピラ、既にロン毛なわけですし。

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