松田健次『テレビの笑いをすべて記憶にとどめたい』 ('08、白夜書房)
・・・月はいまでも明るいが。
これはちょっと感動的な本だ。
二十年以上使っていたテレビが壊れ、私がテレビを観るのを辞めた頃に出たこの本は、ひたすらお笑い番組のトーク・コントの断片を集積し文章で再現しようと試みることで出来上がっている。
作者は放送作家であるからして、ト書き主体の台本的な叙述が延々と、そう、まさに驚嘆すべき分量でもって延々とうねうね続くのであるが、その場面を切り取り貼り付ける選択眼は間違いなく作者自身のものだ。
前後の脈絡を補完する地の文のパートは、一種のお笑い評、作者の主張として機能している。
よしんば複雑怪奇な版権問題をクリアして、本書のとおりに構成されたVが出たとして、果たして本書の副読本的な意味合いを越えられるか。
他人の脳内で上演される映画を観せ続けられているような、なんだか不思議な事態になりはしないか。
それはつまり、「誰が笑っているのか?」という行為の主体性の問題である。
単純に面白い場面を寄せ集める(エディットする)行為と、丹念に面白さのディテールを再現しようとする行為は本質的に異なっている。
笑っているのは総ての文脈を繋ぐ作者の側なのだ。
お笑いは、特にテレビの笑いは実に再現が難しい。
ひとつには賞味期限の存在、そのときは死ぬほどおかしくても後日思い返すと何に笑わされていたのか解らなくなってくる場合がある。
番組の流れや演者の力量でもなければ、極端に言えば時事性、そのときのネタのタイムリーさだけだったりする。
例えば、かの「千の風になって」は死ぬほどおかしいコミックソングであるが、初めて遭遇したとき誰もが不可解な違和感を覚えつつ、それを的確に表現できない曖昧な状況にあった筈だ。
この時点であの不自然性、欺瞞、大仰さを過剰に再現することは巨大な笑いの呼び水となった。
誰が最初にやったのか、最早それを覚えている者などいないだろうが、それは疑いなく面白かったのだ。
米良良一の「もののけ姫」や、今なら「トイレの神様」か(NHK紅白のキャスティングディレクターは笑いの本質を実に正確に把握している)、こうしたネタは常に流動し、定点で捉えることが難しい。
賞味期限切れは頻繁に起こるし、過剰供給となる恐れもある。(矢沢や長渕の物真似を想起されたい。あややでもいいや。あややねェ・・・。)
だからこの標本箱に捕らえられた珍しい昆虫たちは、もう生きてはいない。現行のお笑いとしては機能しない筈だ。誰もが次のネタ、次のネタと観たがる。
だから、この本はある意味、歴史の教科書に似ている。
かつてこういう時代もあったのだ、ということだ。
だが、脈々と続くテレビの歴史を俯瞰してみたまえ。
全ては“こういう時代”の繰り返しではなかったのか?
今日もテレビの前に座り続ける呑気な観客の皆さん全員に申し上げたいのだが、歴史を嘲うことはおのれ自身を嘲うことだ。
私は、すべてを“死語”で片付ける連中が死ぬほど嫌いだ。
なぜなら、私も「テレビの笑いをすべて記憶にとどめたい」からだ。
テレビなど、持っていないのに。
地上波アナログ終了まで、あと二ヶ月弱だそうだ。
われらはもはや彷徨うまい。
月はいまでも明るいが。
(小笠原豊樹訳、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』)
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