マイク・ジャッジ『ビーバス&バットヘッド ドゥ・アメリカ』('96、ゲフィン・ピクチャーズ、MTV)
【あらすじ】
いや、正直申し上げて語るほどの物語はないのだが、意外に構成はしっかりしている。
間抜けな白人達の奇妙な間合いを捉えるマイク・ジャッジの描写力が優れているお陰だろう。
“ビーバスとバットヘッドは間抜けな小学生。
「クソ」とか「ケツ」とか喋りあってはグェフグェフ笑う、いかした奴らだ!(父親はどうやらモトリー・クルーの元ローディ)
彼らの大事なテレビが盗まれた!
こいつは一大事だ!
アメリカを横断してでも探しに行かなくちゃ!”
かくして始まる地獄の観光旅行がこの映画というわけ。
そこにからまる細菌兵器テロと、近所のクソじじい夫婦の受難劇がアクセントとなり、フーバーダムの大決壊や尼僧だらけの観光バス、砂漠の放浪、どう考えても無駄なカーチェイスを間に挟んで、意外とすべては納まるべきところに納まる。
【解説】
放映から15年も経ってから、いまさらあれこれ云っても仕方ないので、作劇術の基本について述べるが、
純真で無垢な人物というのは主人公に向いている。
それは明確な目的を持っているからだし、なにかを抱えて陰謀をたくらむような連中は(それが小市民的な悪党でない限りは)読者の支持を得にくいものだからだ。
物語をどちらへでも転がしていける主役というのは、極力無色透明であることが望ましい。
例えば、ジェフ・スミスの『ボーン』がそうだ。あいつはうるさい小僧だが、そうでなくては虚構世界の拡がりが生きてこない。問題なのは設定ではなく、語り口である。
われわれの多くが日々の些事に汲々としているように、彼らは生活する空間の中でなにかに鼻づらを引き廻されて暮らしている。大事なのはこの感覚を共有できるか否かだ。
だから、成功するファンタジーの長編というのは、こうした馴染みやすい人物が危難に放り込まれ、目的のある旅に出る。そういう構造を持っている。
愛用の日用品を奪われ、探しに出るという物語の形式は、なにも聖杯伝説などを引き合いに出すまでもなく、最もうけるタイプのものだ。(あー、例えば『ピーウィーの大冒険』なんかを連想して)
ちゃんと面白い、それも長編が、というのなら、そこには何かの方程式が働いていることになる。
だが、理屈や定石が物語を面白くするのではないのだ。そこに乗っかる登場人物や捲き起こる事件に読者がどれだけ共感して手に汗握るか。すべてはそこにかかっている。
ビーバスもバットヘッドもありえないぐらい最低の登場人物であり、ゆえにリアルなアメリカ人だ。
だが、それは欲望に忠実な、純粋で聖なる者たちではなかったか。
徹頭徹尾愚かしい人物、すなわちバカはピュアであり、主役に向いている。これは時流や流行と関係ない、国境すら飛び越えた人類普遍の法則と云えよう。
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