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2010年10月

2010年10月25日 (月)

まちだ昌之『血ぬられた罠』(‘88、ひばり書房)③【住吸血虫ハンターD】

(以下Dの書いた記事を抜粋)

・・・いつの間にか暑い夏も過ぎ去り、めっきり涼しい、どころかとてつもなく寒い、寒い木枯らしの吹く季節となってまいりましたが、諸先輩の方々お元気でしょうか?
 歳喰い過ぎてくたばっちゃおられませんでしょうか?アーメン。ザーメン。冷やソーメン。
 Dです。僕はDです。ここは大霊界です。浮遊霊が見えます。そこかしこに。あぁ、軍人の霊が・・・。

 待望だった農協ドームツアーも終わり、鉄骨娘。も解散、鷲尾はソロに転向、ギター下北半島さんのひげも生え揃い、知らなくていい奴の顔と名前を覚え、まぁ、いいや、ニイちゃん、堅いこと抜きでヤンバルクイナでも喰いな!と何事かを断じ、悟り切った心境になるのも仕方のないことなのですが、それどころか、あたふた老人介護で下の世話、どんじり、だんじり、ボボを血祭り。先週収録したトラックをミックスすることすら覚つかず、早第二週目のアケガラス、荒淫矢の如しとはよく謂ったもんですなぁ!
 ・・・すいません、すいません。また、つまらぬことを書いてしまいました。
 レビュー、いきます。勘弁してください、テッちゃん!

 さっそくですが、今回取り上げる『血まみれの罠』、僕はイントロのコードを聴いた瞬間、下半身をズガーーーン!!と突き上げてくる猛々しい想いに駆られ、さっそく放尿!こりゃ臭い。昨日喰った塩カルビがいけなかった。もとい。見て下さい。

Am → EF#4 → P → 3B → Em6 ↓ →No
                       Yes
なんじゃこりゃ!!

 これは佐野元春の「サムディ」そのもの>

じゃないですか!
 似てる、似てる。特にEF#4からPに落す進行は後期ストーンズのクソどもが乱用して、エアロがゾルになったくらい有名な進行なのです。このPが渋い。
 そして後半部、特に三白眼に出てくる3Bに注目してしてください。金八。

 なぜ、こんなところに金八が?まったく意味がわかりませんが、とにかくカッコいい。不自然な髪型。僕のベストの中では、今期の髪型お笑い大賞にノミネート確定です!
 そして、かのチョンガナ先輩もお笑いブログで取り上げておられますが、この曲の歌詞は奥深い。
テーマはズバリ、両親と3P!

 なんとアヴァンギャルドな世界でありましょうか!なにを考えているんだ?普段?学校で?
 当時の60年代GS業界の水準で割り切っても、このデタラメさは痛快!というか、比較対象まったくなし。最低。
 もちろん、先の挙げた記事の中では偉大なるチョンガナ先輩のことですから、単純なプレイに落とし込むことなく、熟女SMとしても充分実用に耐えうるマニアックな内容になっていることは云うまでもないのですが、それにしても、よくやるよなぁー!
 もしかして暇なんじゃ・・・ワーーーッ、ごめんなさい、ごめんなさい。

 僕が特に気に入っているのは、冒頭から17ページ目、途中に挿入される会話です。 

母「おリボンをつけてあげましょうね。」
娘「わぁ、うれしい。」

 な。泣ける。へ。ヘッケル。
 浅香唯のアソコが蒸れて痒くなりそうなお言葉。でもこれ、実はビタミンが入ってるんです。実はちゃんと意味がある。
 いいですか、最初のキーがAじゃないですか。僕の属する高等遊民の業界では、これ、イオニア戦法といわれてまして、ハンニバルもファーストアルバム収録曲「ミザリー、キャシー・ベイツの恐怖」で使っている城攻めの極意なのです。城攻めといったら、四十八手のひとつですよね。僕はまだ二十五くらいしかキメてませんが。あとは老後の愉しみで。ま、その頃にはとっくに勃たないでしょうがね。それもまた善し。にんげん、だもの。
 で、キーがAといったら、何を思い出します?・・・音叉?・・・猫叉?・・・般若夜叉(ハンニャヤシャ)?
 正解は、ズバリ、“藤子”。

 こりゃ、説明が必要ですよね?すいません。

 ちょっと詳しく言いましょう。ドーーーーーーン!!

 あ、すいません。効果音が入っちゃった。/>ドーーーーーーーーーン!!

 二回やるなよ。・・・ドーーーーーーーーーーーン!!

 僕の相棒のYOKO君によりますと、人生一寸先の暗がりになにが待っているのかわからんそうですが、夢魔子ちゃん羞恥プレイはご勘弁

※     ※     ※     ※     ※

「なァーに、調子に乗って書いとるのじゃーーーッ?!おのれはァーーー!!!」

 恒星系を幾つも飲み込むほどの巨大な口を開けて、鬼嫁が吠えた。星間航行を成し遂げた程に高度に発達した異星人の文明社会が幾つも破滅した。
 Dは、暗黒の宇宙空間に正座させられているのだった。絶対零度の暗闇が、四十代の骨身に凍みた。
哀れ、鬼嫁に捕らわれたDは、反省文の代わりに誠実な文章で綴るブログを果てしなく更新し続ける使命を背負っているのだった。シジュフォスの苦行という奴である。

「ええ加減にせいよ、今度やったらドタマかち割るからなッーーー!!!やり直し!!!」


 (つづく)

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2010年10月24日 (日)

サム・ペキンパー『ゲッタウェイ』(‘72、ソーラー/フォスター・ブラウナープロダクション)

メキシコまで逃げのびて。

苦い男の夢だ。目覚めると汗だくになって、ベッドの中。
かたわらにスリップ一枚の女がいて、眉毛が濃ければ言うことはない。
バーボン・ウィスキー。エルパソ。アルバカーキー。アリ・マッグローというヘンな名前の女優は飛び切りの美人なのか、不細工なのか。
テレビの時代から数えても何回観ているのか判らないが、原作ジム・トンプソンの名前も知らないまま、気がつくとあの有名なラストシーンが待ち構えている。

地元の有力者と取引きし、銀行強盗を条件に出所した男。50万ドルの強奪には成功するが、妻は有力者と通じていた。ギリギリのところで姦通相手を射殺し、夫を選ぶ妻。そこで生じた溝がストーリーに心理的なテンションを与えている。
大金の詰まったバッグを持ち逃げした男を捕らえて、金を取り返して帰っても、ハンバーガーショップでショットガンをぶっ放しても、ゴミ収集車に運ばれて夢の島の後ろ半分にされたワーゲンの座席に転げ込んでも、事態を救済する台詞は導かれない。
これはウォルター・ヒルの脚本が無能なのではなくて、現実とはそうしたものだからだ。ペキンパーの肉声が聞える。
ただ、時間だけが。ペキンパーは言う。ただ、時間だけが事態を解決する。
バスルームで縊れて死んだ哀れな夫ハロルドのように。自分が自堕落なバカ女の面倒をかいがいしく見ているだけの存在だと知るのは、哀しいことだ。時間は、観ているわれわれの内面にも作用している。だから、同じ映画を繰り返し観るのは大切なことだ。

やはり、あのラストシーンが好きだ。
メキシコ国境。土建屋のせこいトラック。抜けるような青空、土埃り。
生きのびたことが罰のように感じる。それでも人は生きていくのだ。他に選択肢がないなら。

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2010年10月21日 (木)

永井豪『ガクエン退屈男』('70、ぼくらマガジン連載)

きみは、関東の地獄を見たか?

そう、私はまさにきみが地獄地震の後の関東に生きるにふさわしい人間か否かを問うているのだ。
巨大な、深層に潜む人間の獣性を呼び覚ますようなジャックナイフを喉元に押し当てて。
お前の生きる資格を問うているのだ。
わかるか?

『バイオレンス・ジャック』は巨大地震により文明社会が薙ぎ払われ、暴力によって支配される、かつて関東と呼ばれた瓦礫の荒野が舞台だ。生き残った者達は富と権力を求め、血で血を洗うあくなき抗争を繰り広げている。
日本刀、チェーン、メリケンサック、拳銃、マシンガン、地雷、バズーカ砲。戦車に鋼鉄の鎧の騎馬軍団。発狂した自衛隊員の守る莫大な金塊。黄金都市、エル・ドラドと化した池袋。千人組。外道会。関東羅刹組、組長錦織つばさ。素敵すぎるネーミング。

野暮は申すまでもないが、私にとっての『バイオレンス・ジャック』という作品は講談社版で完結している。そう、まさに「黄金都市編」で。
黄金をめぐる三つ巴、四つ巴の激闘の末、総てが瓦解し、早乙女門土の生首を抱いた身堂竜馬が復讐を誓いながら、ビルの谷間の荒海に沈んでいったのちに。
荒野の瓦礫を押しのけ立ち上がる黒い巨人。切断された片腕を咥え、全身の傷口から血を滴らせ、憤怒の形相そのままに砂塵の彼方へと消えていく影。
私は圧倒され、云うべき言葉を持たなかった。
ことの善悪を越え、ただ、ただ圧倒的であること。力が、ただ力がそこには描かれ、読解や解釈を超越した次元へと解放されたのだ。これこそ、物語が「生きた」瞬間である。
伝説が地上に降りてきた瞬間である。
この作品はこれでよいのだ。

だからジャックの正体が実はデビルマンだという(!)常人のイマジネーションを軽く凌駕する、その後の強引すぎる展開(作家のエゴともいう)にはついていっていない。
真のファンではない。
その通りだ。私はあらゆるジャンルに渡ってそう呼ばれる存在になることを忌避してきたし、実のところ連中を憎んでさえいる。
なにごとにつけ、あらゆる信者は断罪されるべき性質のものだ。
それが、あの、荒野に消えていった巨人に私が教わったことだ。

さて、『ガクエン退屈男』はその「黄金都市編」のプリークェルにあたるものだ。従って必読書なのだ。例え、未完でも。
物語の基本構造はこの時点で出来上がっており、既に暴力は暴力を呼び、生首が飛びまくっている。
激動の60年代を経て、さらに過激化した学生運動は都市型テロリズムと化し、70年代には日本全土を席巻し、教育の場である筈の学園も荒廃しきっていた。
そこで、政府が決定したのは教師の武器携帯と殺人の許可である。すなわち、全国の学校はサディスティックな殺人狂シェリフに牛耳られる西部の町となったのだ!
なんてダイナミックな設定なんだ!

しかし、当初は西部劇パロディとして、ギャグをまじえながら描かれていたストーリーも、次第に豪ちゃんの黒い本能の暴走により、笑いとはまったく異質の異次元へと急速にスライドしていく。
主人公、早乙女門土は完全な狂人で人殺しのことしか頭にない。ときどき、本能と勘にまかせてもっともらしい台詞を吐くが、それも殺しのための方便だ。
もうひとりの主人公、身堂竜馬は美女と見まがう美貌の持ち主で、いっけん冷徹に見えてキレると何をするかわからない。
中盤より登場するヒロイン、錦織つばさはあどけない顔をして大男をつまみ殺す怪力の持ち主。着衣での登場率は異常に低く、常にビキニか下半身丸出し。
こいつらが裏切り、攻め込み、強奪し、とにかく殺す、殺す、殺す、殺す。行くところ、すべて死体の山が築かれる。
既に決闘の場に究極の反則技バズーカ砲は登場するし、いくらズタズタにしても決して死なない不死身の怪物も姿を見せている。
たいした筋書きはない。学園の覇権と、一般学生の解放という実にどうでもいいテーマをめぐって延々と殺しあう、それだけの物語だ。
ゆえに美しい。
ここにはまだ少年誌のタブーが幅をきかせていて、あらゆる暴力と拷問が解禁されているのに、セックスだけがない。裏を返せば、湿っぽさが一切持ち込まれないということだ。
テーマのない無目的な殺し合い。
この物語が着地点を見出さないまま終了してしまったのは、当然のことだろう。

そして、そんな見渡す限り不毛の荒野から立ち上がった巨人は、周囲を睥睨し、威圧しるかのように吠え声をあげた。

「・・・おまえは、関東の地獄を見たことがあるか・・・?」

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2010年10月15日 (金)

伊藤潤二「赤い糸」(’90、月刊ハロウィン掲載、朝日ソノラマ『脱走兵のいる家』収録)

医者の待合。周囲はもう暗い。

名前を呼ばれた怪奇探偵スズキくんは、プクプクのおなかを捲ると、引き戸を開けて診察室へ入って行った。
この病院は、いまどき木造である。赤い傘つきの裸電球が照らし、あやしげなオキシドールの匂いが漂っていて、戦時下の傷痍病棟みたいだ。
「はい、座って。」
医者はピカピカ光る大きな反射鏡をかざして、スズキくんの喉元を覗き込んだ。
「あー、きみ、こりゃいかんね。そうとう、病状が進行しとるな。食事に気をつけろとあれ程言ったのに。普段なにを食っとるのかね?」

「最近はそう無茶はしてませんよ。」
スズキくんは頭を掻いた。「でも、ゲッターを少々・・・。」

医者は大げさな溜息をついた。
「石川賢のゲッターロボかね?あれは健康に良くない。不健全極まりないことに、マンガそのものの面白さに溢れておる。読んだら、たちまちイチコロだよ!
・・・で、どこまでいった?」
「はぁ、新ゲッター、真ゲッター、ゲッターロボ號・・・あと残すはゲッターロボアークを制覇、ですかね。最後はてんとう虫コミックス版で〆る予定です。」
「三食すべて、ゲッター三昧じゃないか!脂分が多過ぎだよ、キミ!」
「ですから、〆はお茶漬けでサラサラと・・・。」
「石川賢は、全部お肉なの!それも霜降り!コレステロールの塊り!」
「ところで、早乙女博士、ゲッター線の正体っていったい何なんですかね・・・?」
医者は溜息をついた。
「こりゃいかん。脳まで完全に汚染されとるなぁ・・・。」

ゲッター搭乗員の如く常にギラギラしたオーラを纏わせ、いつでも沸騰点寸前の危険な状態のスズキくんを眺め、医者は懐から一冊の新書版コミックを取り出した。
「こういうときには、これで冷やすに限る。」

半ばミイラ化した、防空頭巾着用の腐乱死体と、戦時中の格好をした男女が描かれた表紙絵で、表題は『脱走兵のいる家』となっている。

「これぞ“JUNJIの恐怖コレクション”その①じゃ!」
「ジュンジ・・・?稲川?」
「違―――う!!伊藤潤二じゃ!!
でも、今気づいた。確かにジュンジは恐怖の水先案内人!!ジュンジとつく奴は、みな怖いかも!!」
「高田純次なんて人もいますが・・・。」
「それもある意味、怖いじゃないか。清川虹子の宝石を奪って飲み込んだときはどうしようかと思ったぞ。」
「どうもネタが古いなァー。嘘でもいいから現代に歩調を合わせるポーズをしてくださいよ。」

途端に黙った医者を尻目に、スズキくんはページを捲る。

「なるほど、今は亡き月刊ハロウィンに掲載された読み切りを集めた本ですね。今は亡き朝日ソノラマから刊行されたシリーズ本だ。」
「どんだけ、“今は亡き”なんだよ!当時なぜかホラーマンガのブームで、怪奇マンガ専門誌が各社から競って出ていたなんて、確かに夢のような話だが・・・。」
「時代の仇花のような状況でしたね。末期とはいえ、世間にはまだバブルの残り香が漂っていたし。」
「うむ・・・私も定職もなくブラブラしていたし、まさかこうして毎日日銭稼ぎにあくせく駆けずり廻る立場になるとは思ってもみなかった。」
「無駄に歳を喰ったってことですよ。」
医者のこぶしが反射的にグーになるのを横目で観察しながら、平然とした顔でスズキくんは続けた。
「さて・・・「赤い糸」はこの本に第四話として収録されている、独立した短編ですが・・・。」

「うむ。
この作品をチョイスした理由は、伊藤潤二の作風を解り易く解説するには最適と踏んだからなのじゃ。
潤二先生は基本的に優れた短編作家だ。代表作とされる『うずまき』も『富江』も連作長編のかたちをとっているし、そのうち取り上げたい長編『ギョ』など少数の例外を除けば、長い話はあまり見あたらない。
そして、その長編も他所のマンガ家さんとは構造からして異なる。
普通、我が国のマンガ家が長編を描く場合、登場人物のキャラクターをもっと掘り下げようとか、見せ場を徹底的に描こうとか(『ドカベン』の一試合が何巻続いたか、想起されたい)、凡庸な方向に走りやすい。
潤二先生は、登場人物の心理はすべて類型で構わないと踏んでいる節があり、丸尾末広的な神経質な細い線で描かれる主役級の登場人物は美男美女揃いだ。
類型的な美男美女が異常事態に遭遇し、ドヒーと発狂したり、死んだりする。
だから、ここでの主役は実は、異常なシチュエーションそのものなのだ。
「首吊り気球、現る!」とか「阿見殻断層に奇妙な人型の穴が!」とか、主役を担うのは異様な状況設定そのものなのだ。語りたいのは、その奇妙としか言いようのないアイディアであり、人間はそれに驚き、翻弄され、怒り、絶望し、死んでいく無力な存在に過ぎない。
潤二先生の超自然力に対する信仰の深さは、対話可能な存在として幽霊を貶めて描く凡百のオカルト作家とは比較にならないほどである。」

「確かに。」
スズキくんは、おやじの、否、医者の長弁舌に相槌を打った。
「今回、意外と真面目に語りますねぇー。どうしたんですか。」」

「潤二を読んでると、小説の方だとJ・G・バラードの世界三部作なんかを思い出すんだよ。あれを演繹して方法論を変えて毎回実験してる感じ。特に、風がある日どんどん強くなり始め、止まらなくなり、遂には海を巻き上げビルをなぎ倒し地上の文明を破壊し尽くす『狂風世界』なんか、典型的に伊藤潤二の世界だよなー。」
「ああ、面白そうですね。」
「人類があんまり無力なんで、世界滅亡テーマと誤解されがちだが、実は違う。核になってるのは、奇妙としかいいようがないワンアイディアなんだよ。それを地球規模にまで推し進めていくと、結果として世界が破滅する。」
「本人、“またこのオチかよー!”と自虐笑い。」
「そう、潤二先生の場合、サービス精神旺盛に恐怖マンガのお約束的展開やビジュアル的見せ場はちゃんと用意されているんだが、本人、そこでうっかり笑っちゃってるふしがありますな。」
「“こんなになるのかよー!”みたいな。」
「一種のギャグマンガとして捉える人がいるのも解りますよ。だって、潤二先生がたぶん最初にウケてる筈(笑)」

「うん、そこで「赤い糸」に話を戻すんだが、これ、俗に言う運命の赤い糸が実在したら・・・という思考実験の産物でしょ。
潤二先生の面白いところは、抽象的な観念の産物が具体性を持って主人公に襲い掛かってくるところだよね。登場人物は全員、状況の被害者。対処のしようがないから、事態はどんどん悪くなるばかり。」
「まず、主人公の高校生の男が彼女にふられるんですよね。すると、翌朝、手首に赤い糸の縫い目ができてる。」
「皮膚に糸が縫いこまれていて、ガッチリ食い込んでいる。切ろうとしても切れないんだよね。ここでうまいのは、糸が皮膚に食い込んでいる描写だな。生理的不快感を煽るうえに、単純な状況じゃないから、推理のミスリードを誘発してしまう。」
「昔死んだおばあちゃんが、あの世から針と糸を持って現れ、自分を千人針の土台にしようとしている、というありえない、意味不明な妄想(笑)しまいに霊界から裁縫の得意な老婆の集団を引き連れて襲って来る(笑)」
「文字にしてみると、無理ありまくりだよなー。でも、ひばり書房クラスの作家なら、平気でこんなオチに200ページ使ってしまいそうだ。」
「単行本一冊?杉戸先生、勘弁してください(笑)」
「潤二先生は一流作家だから、そんな小ネタは幾らでも湧いて来るんだろ。そこはあっさり使い捨てて、もっと恐るべき真相に突入だ!」

「男と女を繋いでいた運命の赤い糸が切れたら、どうなるか?
・・・答え、切れた糸が男にぐんぐん捲き付き始める!」>

「見えなかった赤い糸が物理的恐怖として、主人公を襲うんだよね。女には実は新しい恋人がいて、男の方が未練がましく執着している。その執着心の物理的比喩として、赤い糸がどんどん具象化してからみついて来る訳だ。」
スズキくんは腕組みして、嘆息した。
「見事な着想ですよね、あらためて考えると。無茶なアイディアを成立させるのに、男女の心理描写を巧みに織り込んで、ちょっとクラシカルな純文学的なテイストもある。でも、肝心の見せ場はちゃんとマンガの強みを最大限に活かしてる。」
「糸がぐんぐん巻き付いて、数十メートルの固まりとなって蠢く訳だからね。で、こうなりゃやぶれかぶれだ、女を飲み込んでしまおうと襲うが、誤って女の新恋人の大山くんを飲み込んでしまう(笑)」
「“ちがう!!大山くんじゃないんだ!!”」
「あやうく逃げおおせた女がホッと一息、“あぁ、よかった。あたしの糸はあんなに長くなくて。”」
「女の手首には、短い赤い糸の縫い目が刻まれている(笑)」

「完璧だ。パーフェクト。
・・・ホラ、どうだね、気分は?」
医者は笑いながら云った。
「ありがとうございます。なんだか、スーツとしたみたい。」
「結構、結構。
みんな、健康の為、マンガの読みすぎには注意しようね!!」

「お前が言うな、お前が!!」

突如、病棟に現れた杉戸光史が巨大なハリセンで医者の頭を一撃すると、吸血紅こうもりの集団と共に呪われた地獄の島へと去っていった。
あまりの急展開に呆然としたスズキくんが、思わず呟いた。

「なんだこりゃ・・・まるで、マンガみたいだ。」

医者、あらため古本屋のおやじは血まみれの唇を震わせ、苦々しげに言葉を吐いた。

「ググッ・・・お前が言うな、お前が・・・。」

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2010年10月 7日 (木)

あさいもとゆき『ファミコンロッキー①』 (’85、てんとう虫コミックス)

 
 全八巻。
 ジャリ向け。素晴らしい搾取の世界。後楽園遊園地で、ボクと搾取。

 まず注目すべきは、その隙の多さである。
 いや、誰もが指摘するキャラ設定や展開ばかりではないのだ。人物デッサンの狂いかたはもう尋常でない。輪郭と目鼻立ちのズレ具合はアヴァンギャルド芸術のようだ。
 芸術は一応、立ち止まっておとなしいが、あさいもとゆきのそれは動く、動く。見ているコッチが船酔いしそうなほど、画面狭しと暴れまくる。マンガの重要な本質をなす原初的エネルギーが息苦しいまでに充満し、ガキでもわかるパワーを演出している。
 もちろん、このマンガの『月刊コロコロ・コミック』連載(そう、この雑誌が月刊誌であったという事実に諸君はもっと注目しなくてはならない!)という出自からも明らかなように、この異常性は『ゲームセンターあらし』の達成を踏まえて出てきたものだ。
 
 巨大スクリーン展開するゲームバトル。
 単なるコントローラ早押しに過ぎない必殺技の応酬。
 幼稚な考えの悪の組織。
 年間、数億を稼ぐファミプロ(プロのファミコン・プレイヤー)の存在。

 これらは『あらし』が切り開いた演出方法である。そのルーツは、伝統的な少年マンガの決闘の作法にのっとったものだ。荒磯で、渦潮に翻弄される船上にファミコンを据えてバトルする必要などあるのか。
 答えはただひとつ、「勝負とはそういうもの」だから。
 すべての勝負は正気では考えられぬほどバカバカしく、ゆえにすべての勝負は輝かしい。
 男が燃えるところに、真実は間抜けな素顔を曝け出す。これを100%笑い飛ばせる人間は、勝負を捨てた負け犬だけだ。
 大人とは、負け犬の別名である。私は、これでもいろいろ見て来たから、わかるのだ。
 
 あいつら、全員、負け犬なんだよ。結局。

 と・こ・ろ・で。

 主人公、轟勇気はゼビウスやっても、バンゲリング・ベイやっても、「負けるもんか!オレは、ファミコン・ロッキーなんだぜ!」と事あるごとにどう考えても無駄なアピールを周囲に繰り返すのであるが、そもそも彼はなぜにロッキーなのか。轟だからか。勇気だったら、ユッキーでもいいじゃないか。それじゃダメか。
 そもそも奇妙なことに気づいた。
 彼はいつロッキーと化したのか。ページを捲って確認してみた。第一話「ロッキー登場」にその記述はない。タイトルが「登場」のなのに、登場しないのだ、こいつは。
 ようやく私がその名称に辿り着いたのは、第二話「ゼビウス魔の二千機攻撃」の途中からであった。(単行本では51ページ。項を捲って確認されたし。)
 かつて「赤い稲妻」とおそれられた空軍パイロット(どこの空軍だ?)の撃墜王、死神ジョージとの一騎打ちにおいて、
 「おまえ、とんでもない奴を敵にまわしたな・・・。」
 と述懐する仲間に対し、勇気は明るく宣言する。

 「それがなんだってんだ。
 おれはファミコンロッキーだ。相手が強けりゃ強いほど闘志がわくってもんよ!」

 自己申告であった。

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2010年10月 5日 (火)

10/5 ウンベル、世迷言を堂々公表

 「あれ、Dの記事はどこいった?」

 嬉しい質問をしてくださった。
 世間の少数派として、日々過酷な業務に忙殺されている素敵なみなさん、Dの記事の続きは準備中である。
 とある物理的な理由により、この記事は少々時間がかかる。
 理由はおのずと読めばわかるだろう。

 「では、“宮廷のフラッシュダンス”の第二章は?」

 
 あぁ、佐藤師匠つながりの方。
 こちらは、ちょっと展開に困っている。
 あの嫁は、おそらくヒロインだ。『哀愁の花びら』みたいな、狂ったソープオペラを予定していた。
 しかし、そのアンチとしてDのシリーズで登場した鬼嫁が予想外に強力で、現実の嫁を越えた広がりを見せてしまっている。
 鬼嫁は素晴らしい。
 汎宇宙的な悪を体現する存在として、『デビルマン』におけるデーモン族を、あるいはクトゥルーを彷彿とさせる活躍を見せてくれるだろう。惑星のひとつを消し去るのなんか、朝飯まえだ。
 正直、私は鬼嫁を応援する気持でいっぱいだ。
 がんばれ、鬼嫁。
 世界の命運はお前にかかっている。

 「・・・あの、ボクのことは?」

 スズキくんか。
 大河連載『恐ろしい村で顔を取られた少女』はあと三回で完結する。
 俺を信じろ。
 ま、信じてろくなことになったことがないのは云うまでもないが。

 次回更新は、以上みっつのネタと無関係に行なわれることを保証する。

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2010年10月 3日 (日)

スタンリー・キューブリック『シャイニング』 ('80、ワーナー)

 襲いかかるおやじ。
 空を切る斧。絶叫する黒人。



 何度観ても、面白いなぁー。
 しかし、私はあきらかに観すぎである。

この映画。観すぎ。


 なんで、こんなにこの映画が好きなのか。自分でもよくわからない。
 一応意味のある文章を綴らなくてはならない立場なので、冷静に分析するに、
 たいへんなことになっているのに、実はたいしたことが起こらない構造に魅せられているのではないか。

 冬の間、人里離れたホテルの管理人を任された男が、発狂して陰湿な家族いじめを繰り返し、凶行の末、雪に埋もれて野垂れ死ぬ。
 書いてみると本当に身も蓋もない、怪奇も幻想も欠落した夢のない話だ。
 この映画をホラー映画に分類するかどうかで、黒沢清と手塚眞の意見が割れた、というのは有名だが、
 それぐらい、極端な“恐怖”映画である。
 のちに、スティーヴン・キングの原作小説も読んでみたのだが、黒人がちゃんと活躍するので驚いた。
 終盤、怪物まで繰り出して無理やり盛り上げるなど、立派にエンターティメントとして成立している(ゆえに残らない)キングの小説と比べると、キューブリックの映画は地味すぎる。
 

だいたい、救いがなさすぎる。

 この映画に出てくる夫も妻も、どうやら完全に気が狂っていて、
 頻発する怪奇現象は、彼らの妄想の中にしか存在しない。
 息子は超能力者だが、超能力は事態を解決するのに、何の役にも立たない。

 ひどい話だ。
 人を小馬鹿にしているとしか思えない。

 

そんな話が、なぜこんなに心地よいのか。


 最初に観たときから取り憑かれ、もう何回目だかわからないが、私は繰り返しこの映画を観ている。
 
 たぶん、また観るだろう。

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