あさいもとゆき『ファミコンロッキー①』 (’85、てんとう虫コミックス)
全八巻。
ジャリ向け。素晴らしい搾取の世界。後楽園遊園地で、ボクと搾取。
まず注目すべきは、その隙の多さである。
いや、誰もが指摘するキャラ設定や展開ばかりではないのだ。人物デッサンの狂いかたはもう尋常でない。輪郭と目鼻立ちのズレ具合はアヴァンギャルド芸術のようだ。
芸術は一応、立ち止まっておとなしいが、あさいもとゆきのそれは動く、動く。見ているコッチが船酔いしそうなほど、画面狭しと暴れまくる。マンガの重要な本質をなす原初的エネルギーが息苦しいまでに充満し、ガキでもわかるパワーを演出している。
もちろん、このマンガの『月刊コロコロ・コミック』連載(そう、この雑誌が月刊誌であったという事実に諸君はもっと注目しなくてはならない!)という出自からも明らかなように、この異常性は『ゲームセンターあらし』の達成を踏まえて出てきたものだ。
巨大スクリーン展開するゲームバトル。
単なるコントローラ早押しに過ぎない必殺技の応酬。
幼稚な考えの悪の組織。
年間、数億を稼ぐファミプロ(プロのファミコン・プレイヤー)の存在。
これらは『あらし』が切り開いた演出方法である。そのルーツは、伝統的な少年マンガの決闘の作法にのっとったものだ。荒磯で、渦潮に翻弄される船上にファミコンを据えてバトルする必要などあるのか。
答えはただひとつ、「勝負とはそういうもの」だから。
すべての勝負は正気では考えられぬほどバカバカしく、ゆえにすべての勝負は輝かしい。
男が燃えるところに、真実は間抜けな素顔を曝け出す。これを100%笑い飛ばせる人間は、勝負を捨てた負け犬だけだ。
大人とは、負け犬の別名である。私は、これでもいろいろ見て来たから、わかるのだ。
あいつら、全員、負け犬なんだよ。結局。
と・こ・ろ・で。
主人公、轟勇気はゼビウスやっても、バンゲリング・ベイやっても、「負けるもんか!オレは、ファミコン・ロッキーなんだぜ!」と事あるごとにどう考えても無駄なアピールを周囲に繰り返すのであるが、そもそも彼はなぜにロッキーなのか。轟だからか。勇気だったら、ユッキーでもいいじゃないか。それじゃダメか。
そもそも奇妙なことに気づいた。
彼はいつロッキーと化したのか。ページを捲って確認してみた。第一話「ロッキー登場」にその記述はない。タイトルが「登場」のなのに、登場しないのだ、こいつは。
ようやく私がその名称に辿り着いたのは、第二話「ゼビウス魔の二千機攻撃」の途中からであった。(単行本では51ページ。項を捲って確認されたし。)
かつて「赤い稲妻」とおそれられた空軍パイロット(どこの空軍だ?)の撃墜王、死神ジョージとの一騎打ちにおいて、
「おまえ、とんでもない奴を敵にまわしたな・・・。」
と述懐する仲間に対し、勇気は明るく宣言する。
「それがなんだってんだ。
おれはファミコンロッキーだ。相手が強けりゃ強いほど闘志がわくってもんよ!」
自己申告であった。
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