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2010年9月12日 (日)

羽生生純 『千九人童子ノ件』 (’10、コミック・ビーム)

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これは、「過去が復讐してくる」話である。

懐かしいところでは、筒井康隆の短編「鍵」を思い出して欲しい。
あれは、都会で裕福に暮らす作家が、ふとしたことで昔使っていた鍵を手にし、暗い因果に引き寄せられるように、それを使って封印していた過去の扉を次々と開けていってしまう話だ。
サラリーマン時代、学生時代、幼年期。積極的に忘れてしまいたい、汚穢に満ちた記憶の遊園地。ここでは歳月の経過がまるで呪いのように描かれており、シンプルな物語を味わい深いものにしている。机の引き出しの中に放置された弁当箱は太古の原生林のように黴の胞子を撒き散らし、闇に照り輝く。かつて住んだ家。働いた会社のロッカー。次々とこじ開けられる過去は、どれもが呪わしく、未熟で、そのくせ過剰な熱情に溢れ、むせ返るような臭気を放ち、目を覆いたくなるものばかり。
この物語が「昔はよかった」ジャック・フィニー的な古き善きノスタルジーへの嫌悪感から発想されたものだとしても、主人公の記憶の連鎖が遂に、かつて犯して孕ませた片輪の娘の存在にまで行き着き、彼女がその時の子供と現在も暮らす貧しい家へと吸い寄せられるように消えて行く終幕に到っては、これはもう、優れてホラー的な醍醐味に満ち満ちていると謂っていい。

この結末は、羽生生純の新作『千九人童子ノ件』にそのまま重なる。

羽生生純はファースト、傑作短編集『強者(ツワモノ)劇場』の頃から押さえているので、まぁ、なんというか今さらコメントもないのだが、あいかわらずな、男子性剥き出しの作風である。
ハッキリ好みは分かれる筈だ。貧相なキャラが極太の墨ベタを駆使してアニメ的な空間を自在に爆走する。奇妙な擬音、奇怪な書き文字(本書のクライマックスで主人公は「第二次清張」と筆書きされた身も蓋もないTシャツを着用している)、つくりもの感バリバリな“搬入機材”といった人物名。
『千九人童子』は田舎に落ち延びた売れない漫画家が、地元に伝わる武田方の落ち武者にまつわる伝承に目をつけ調べるうちに、自身を取り巻く過去の因果に捉われ破滅して行く物語だ。
羽生生(ハニュニュウ)の泥臭くもモダンなタッチは、笑いよりも気色悪い不快感を優先し全面に構築することで、独自な生臭いホラーの世界を生み出してしまった。

主要登場人物がほぼ全滅する、極めて悲惨なストーリー展開なのに、妙に楽しい。
この楽しさは作者が、形状がさっぱりわからない千九人童子の造形を含め、類型を裏切って描くことの楽しさに強固な確信を持っているからだろうと思うのだ。
そして、結末までの強力な全力疾走。アメリカシロヒトリの大量発生と村人の無惨な大量死が見事に結び付けられるとき、われわれはこの作家力の確かさに眼を瞠るべきなのだと思う。

そうしない奴らは、たんなる開きめくらだ。

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↑まぁ、おおむね、こんな感じの奴らが襲ってくる。
 描いてみると寺田克也的デザインだと気づいた。が、これではまったくわからないな。

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