« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月29日 (日)

清水崇『呪怨2・劇場版』 ('03、オズ)

時制の混乱が、シンプルな物語を興味深いものにしている。

例えばツタンカーメンの墓を暴いた者たちが次々と謎の死を遂げたように、殺人のあった家を取材しに来たTVクルー、出演者達が死んでいく。
呪いというものが確固として存在し、しかも感染・拡大する性質を持っていること。
その伝播の媒介として、最初の殺人の犠牲者、幼い男の子と狂った母親を具象として登場させ、呪力の強大さをアピールする、暴挙ともいえる方法論。

恨みを呑んで死んだ者がこの世に現れる、というのは実のところ、納得の行く話だ。
誰もがそれを心待ちにしているのかも知れない。
重要なことは、われわれが怯えるのは死者の復活などではない。自身の理不尽な死のみだ。おそらく、彼ら蘇った者ではなく、追い詰められ抹殺される無関係の犠牲者達にこそ、われわれは自身を重ねているのだ。

観たら一週間後に必ず死ぬ、呪いのビデオ。

まったくもって冗談でしかない存在が、多少なりと恐怖の種を宿すとすれば、何かが観た者を殺しに来るしかない。
Jホラーの創始者たちは、その決断を下したのだ。
死を冗談ごとにしてはならない。われわれは、真剣に映画を撮ろう。
襲い来る存在が圧倒的であればあるほど、死は不可避のものになる。
そして、その死は事態を解決するわけではなく、巨大な連鎖の一部であり、安息など誰にもありえないこと。
(『呪怨2』に取り入れられている大胆な時制の混乱は、これを裏付けている。)

だから、この映画の最も大きな魅力は、怪物描写や血のりにあるのではなく、映画に対する真剣さだ。
真剣に恐怖の対象を考察しようと決意することだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ルチオ・フルチ『地獄の門』 ('80、ダニア・フイルム)

 おそらく『サンゲリア』と『ビヨンド』が突出し過ぎているのだ、フルチは。
 勇んで買ってガッカリしている諸君の顔が見えるようだ。

 それでも、ドリル頭部貫通があったじゃないか。
 意味なく、蛆虫の雨が降ったじゃないか。
 ジャンニ・デ・ロッシのゾンビメイクは全然悪くないぞ。
 ドロドロで汚らしくて、最高だ。
 
 うむ、擁護点は多々あるよな。
 それは私も男だ、潔く認める。

 しかし、だ。それにしても、だ。
 
 演出上の致命的な欠点を指摘しよう。
 パッと出て、パッと消える古典的な(というか安すぎる)怪談演出、アレは絶対いかん。
 アレだけは絶対に許さん。
 パパはそんな子に育てた憶えはないぞ。

 ドリフのコントみたいな死人の出しかたも最悪。
 ズンドコである。
 かなりなズンドコぶりだ。
 下からライトに頼りすぎ。安い。大蔵怪談映画みたい。

 ストーリーはいいのだ、これで充分。
 支離滅裂すぎて、お話の体裁を成していないが、これでいい。
 シナリオ学校、クソくらえ。
 どんな異常事態が起ころうと、いっさい説明がない点が最高だ。

 傑作『真昼の用心棒』を思い出してみたまえ。
 フルチの映画に筋は不要だ。炸裂する凶悪なイマジネーション、それのみ。
 やたらと凶暴で、狂っていて、男女問わず、登場人物がギラギラしている。
 画面に漲る、正体不明の悪意。
 われわれは、それを鑑賞しにやって来たのではなかったか。

 そういう意味では、『地獄の門』は、いかにもおとなしく、こじんまりとしている。まるで後期ハマーフイルムみたいな仕上がりである。
 (自殺する神父がクリストファー・リーみたいに扱われている。)
 動きが少ない点は、まさか古典的怪奇映画へのオマージュというんではなかろうな?
 だが、これはこれでいいような気がする。さっぱり面白くないんだけど。
  
 類似品との最大の違いは、ゾンビの人間に対する襲いかただろう。
 後頭部を鷲摑みにして、頭皮をめくりとる。脳ミソ、床にボチャリ。
 常にこの攻撃を繰り返す、オリジナルすぎる設定。
 かえって襲いにくいと思うよ。なぜ、それに拘るのか。まったく理解不能で、やはり凄い。

 お陰で、人間の脳ミソが画面に登場する回数が、世界有数になってしまった。 

 その筋のマニアの方には、ぜひお勧めしたい。
 そういう意味の、名作である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月21日 (土)

6/6 「宮廷のフラッシュダンス」 第一夜

 インド!
 ダンス!
 舞え、狂ったように!


 私は長い間、この記事を書くことを躊躇してきた。
 ダンスのレビューなど手掛けたことがないし、的確な技術評など書けるわけがない。いつもなら勝手に滑り出す筆が(というか、キーボードが)、止まったままで二ヶ月以上が経過した。
 このままではいけない。人間がダメになる。
 そこで、嘘を平気で書くことにする。
 以下に述べる文章は100%完全なデタラメな創作物であり、実在の優れたインド舞踊家である佐藤路子さんとは一切関連しない、超適当な捏造記事であることを断言する。
 一部、真実との奇妙な附合を見せている箇所もあるかも知れないが、それは単なる偶然の一致だ。
 神様がまたしても何かのイタズラをなさったのだ、ということだ。


  第一章、邂逅

 それは、ラジカセのスイッチを押すことで始まった。
 花の都パリの小劇場。
 片隅に陣取り、ハイボールのグラスを傾けていた少壮気鋭の評論家クーベルスタインは心地よい酩酊の底から、おのれの名を呼ぶ声を聞いた気がして顔を振り仰いだ。
 舞台の袖には、珠玉の香炉が焚かれ、色とりどりの色彩を繰り延べる織り布が神秘的な空間を作り出している。
 
 楽人が二名現れ、一礼する。
 
 「佐藤です。」
 血色良く、穏やかな表情の男が言った。
 「カタックダンスは紀元五世紀ごろ、カタカと呼ばれる語り部たちが、村々や寺院を廻って人々に神話や英雄叙事詩を聞かせたのが起源とされております。
 やがて、カタカたちは語りに、踊りやパントマイムの要素を加え、次第に舞踏としての形式が出来上がっていきました。
 十六世紀、ムガール帝国の成立と共に、ヒンドゥー文化とペルシャ文化の融合した一種の文化ルネッサンスが花開いた頃、カタカたちは活躍の舞台を寺院から宮廷へと移し、王侯貴族の庇護を受けながら、一層洗練されたスタイルを編み出していったのです。」
 
 ポン、ポンと拍手を打った。

 「それでは、みっちゃん、どうぞ。」
 優雅な摺り足で舞台奥から進み出た女性は、典雅な微笑を湛え、客席にこうべを垂れた。
 嫣然として優美であることがこのダンスの必須条件なのである。 
 クーベルスタイン自身は生粋のゲイであり、どちらかと云えば東洋の美少年の方がお好みであったが、洗練された所作というのは性差を越えて人のこころを摑むものである。
 
 シャ、リン。

 
 鈴が鳴った。
 背後で、ラジカセがラーガを流している。
 鈴の音はその人工的な音響を寸断するかのように、清冽に鳴り渡った。
 どこで鳴っているのであろうか。
 既に女性の腕は妖しくくねり、空間を捉まえて細工するような、不可思議な動きを見せている。

 彼女は滑るように動いた。
 豪奢な塗金色の文様が幾重にも波打つ、重厚な舞踏用サリーの襞の深奥から、力強く鈴の音が鳴り渡った。
 クーベルスタインは感嘆していた。
 おそらく、女性はベールに仕切られた間隙で、足に結わえた鈴を鳴らしているのだ。
 始終それが鳴り響かないのは、極めて高度なテクニックでの摺り足を実践しているからだ。
 無駄な力が省かれた、抵抗力ゼロの平行移動。
 その動きの大変さを露も感じさせず、婉然として微笑むその精神力にクーベルスタインは深く感じ入っていた。

  翌日の、パリの夕刊紙の片隅に、ちいさな舞踏評記事が掲載された。
  それがすべての始まりだった。


 (以下次号)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年8月19日 (木)

レイチェル・スウィート『...And Then He Kissed Me/Blame It On Love』 ('81/'82、コレクタブル)

 「オッス!オレ、低能中学生。」
 「メッス!そういうワシは、バカ教師。ガハハハ」


 「ふたり揃って、教育制度改革審議会!!!

 「ワーッ、弱いッス!ソレ、弱いッス。最低っす。
 ・・・ハイ、ハイ、はい!!先生、センセイ、センセイ」

 「なんですか、加藤くん。」

 「おちんちんをこすると、どうしてキモチが良くなるの・・・?!」

 (コイツ、いきなり十八禁かよ、と眉を顰めつつ)
 「それはね、おちんちんに神様が住んでいるからなの。」

 「どんな神様ですか・・・?!」

 「下神くんです。(断言)」

 「・・・・・・。」

 「・・・・・・やべぇ。」

 「・・・・・・。」

 「・・・(小声)お、おい、加藤!なんかフォローしろよ、こら加藤!」

 「・・・んぁ?!」(寝ぼけまなこで、いきなり殴る。)

 「(鼻から血を二三滴垂らしながら)なんだ!!寝てたのか!!よかった!!
 よかったよ、ホント!!うん、うん。」

 「本日のォーーー、お題ィーーー!!」

 「レイチェル・スウィート、とかけましてェーーー!!」

 「かけましてェーーー!!」

 「キッチンの油とり紙、と解きまァーーーす!!!」

 「そのこころは?」

 「ベタつかないのが、いいですなァーーー!!」

 (爆睡)「グォッ・・・グォフ。」

 「レイチェル・スウィートは、アメリカの女性シンガー。
 カントリーなんかを地方営業で歌っていて、イギリスへ行って、かのスティッフ・レコードからデビューします。
 このとき、15歳。
 実際、リーアム・スタンバーグ(バングルス「ウォーク・ライク・エジプシャン」の作者として有名)がプロデュースしたファーストは、マーチン・ベルモントのギターも含め、渋い出来。
 年齢に似合わぬ、イカの塩辛みたいな辛口ボイスで、女性方面に拡がりの薄かったスティフ・レコードじゃ、天才美少女歌手扱い。
 でも、かの天才、マーティン・ハネットと間違い易い名前の、マーティン・ラシェントがプロデュースしたセカンドじゃ、路線がパンク寄り方面にシフトしたため、鳴かず飛ばず。
 ルー・リード先生の「ニューエイジ」なんか、いい出来なのにねぇ。グラハム・パーカーをカバーしていたのが中途半端でまずかったんだろ。ラストの自作のカントリーなんか、とってもいいんだがねぇー。
 おっさんたち、ガッカリ。結果、契約を切られる。さすが、商売人ジェイク・リヴィエラ。
 
 さて、このレイチェルちゃん、インタビューでは「最近、ハマっているのはブルース・スプリングスティーン」と不吉なことを述べており、
 それを実践したのが、このコロンビアから出た、アメリカ復帰一作目、二作目だ。
 一曲目から、大仰なスプリングスティーンメロが炸裂する。
 ’80年『ザ・リヴァー』が出たばかりでもあり、これが馬鹿げた内容にも関わらず大売れしたため、当時スプリングスティーンのサウンドはトレンドだった。

 特徴的なピアノのアクセント。
 大げさなドラムス。
 間奏で吹きまくるサックス。
 バンド一丸となっての、バカかと思うくらい、ハッキリとしたキメのフレーズの連打。

 しかし、あえて断言するが、’80年代前半の、あの筋肉ヒゲ番長の影響力は凄かった。アメリカのヒットチャートの何割かは、彼の商店の傘下にあった。
 お前が好こうが、好くまいがそんな感慨はどうでもいい。
 勢力があったのは歴史的事実だ。残念だが。
 嘘だと思うなら、実際拾って聴いてみろよ。世界各国にコピーが氾濫したんだから。当然、我が国にもね(笑)。
 
 まぁ、パブロックからスプ一派に鞍替えしたレイチェルちゃんの評価は芳しくなく、その後鳴かず飛ばず続きで、永遠の裏方人生にドップリ浸かっていくのだが、
 現在の耳で聴くと、時代と添い寝した感のある、無茶なスプ・ロックの方がマゾヒステックな快感が得られて、いいですよ。
 「あー、ダメだなァー・・・。」
 って、実感できます。
 驚くほど、あざとい底の浅いヒット狙いのサビとか出てきて、空しさ百倍。
 で、なんか、この人、若いくせにガラガラ声なんですよ。しかも妙に甲高くて。金属的で。
 ジャケット見るかぎり、たぶん、小柄。それが濃い80年代メイクと衣裳で、ヒステリー気味に歌ってる。奇形のパット・ベネター。
 なんか、ヤケクソで、場末な感じがしていいんですよ。」

 「・・・んぁー(のびをする。)」

 「(慌てて)オッス!!メッス!!キッス!!」

 「はーい、キッスは、目にしてーーー!!」

 「オッケーーー!!」


 「わッ、痛い、痛い、痛ァーーーい!!!

 うぅぅーーーん、ホントにせんどいて!!!
  結膜炎になるやん!!」
 

  (二名)「どーも、ありがとうございましたーーー!!!」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月17日 (火)

(仮)「ペッターとルドルフ」貼り付けテスト

Img0001_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月16日 (月)

ユーリ・ノルシュテイン『霧につつまれたハリネズミ』 ('75、ソ連)

 やたら評判が高く、そのくせ現物はお目にかかったことがない。
 お前はカウンタックか、ノルシュテイン?

 ・・・いや、私はカウンタックなら見たことがあるな。雨のスーパーカー・ショーで。
 あれは、でも、台風の日だったよお兄ちゃん。
 悪天候でか、ショーは中止。
 でも、大風に翻る防水布と大慌てのスタッフの隙間から、確かに見えたんだ、きいろいカウンタックLP400が。
 いつか見た夢のような気がするな。
 不思議と記憶に残って、纏わりつく感じ。
 スーパーカーなんか、ちっとも好きじゃないのに。

 そのときの写真もあるけど、どれもピンボケしてしまってよくわからないんだ。

 カメラはいつも肝心なところを写せない。

 それはボクの腕がまずいからだろうし、機械もきっと良くなかったんだろう。
 でも、返品しようにも、あのカメラはどこで買ったのか。
 そんな重要なことさえ、思い出せなくなってる。

 われわれは、また、霧につつまれてしまった。

 ノルシュテインの技法は、独特。
 アニメ作家、アニメ作家としてばかり紹介されるので、誤解を招きやすいが、この人の作品は実のところ3Dのアニメーションに近い。
 切り紙でつくったキャラクターと精緻な画面設計で、実景まで取り込みながら、空間をうまいこと表現している。
 マッス(質量)が感じられるのに、決して重くならないのは、素材が切り紙だから。
 絵ではなく、実際の材料を組み合わせる手法は、確かにセルアニメでは絶対に出来ない独特の表情を、キャラクターに与えている。
 そして、かれらの細かい仕草や表情の演出は、とても、とても時間をかけて繰り返し練り直して、達成されている。
 ちょっと気が遠くなるくらいの手間がかかってるよ。物凄いくらい。

 いちど見てみれば、きっときみも気に入ると思う。
 とても、素朴な作風で、偉そうなところは微塵にもないんだ。イジー・トルンカもそうだけど、立ち居地が実に不思議。
 その世界では、大物なんだろうに。手垢の付いた形跡がいっさい認められない。
 純粋で、曇りなく、力量に溢れていて。
 特殊な場所、特殊な国にしか現れないタイプなんだろうね。
 これに比べりゃ、われわれって、かなりの俗物だよなー、と確かに思うよ。

 ライナーノーツによれば、
 ノルシュテインは、CGを「想像力を疎外し、人間をダメにする」から嫌い、と断じたそうだ。
 ここからは何も生まれて来ない、とも。
  
 CGの存在が果たしてそうなのか、私には正確に判定しきれないが、
 「想像力を疎外し、人間をダメにする」・・・か。
 
 現在のわれわれの置かれた境遇にピッタリ当て嵌まる言葉だとは思わんかね、きみ?
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月15日 (日)

川島のりかず③『恐ろしい村で顔をとられた少女』 【廃屋】 ('85、ひばり書房)

 白い背景、雑然と積まれた無数の文字ブロック。
 にゅっ、と背後からスズキくんが現れ、テキパキと文字を並べていく。

 「怪奇ハンター第三話、五回 【廃屋】」

 懐中からガソリン給油ノズルを取り出し、ジェームス・ボンドみたく射撃のポーズをキメるスズキくんに画面外から怒声が飛ぶ。

 「それ、ハイオク違うから!!」

[ナレーション] 

 この物語は、非人類生命体の脅威と戦い続ける勇敢な少年の成長の記録である。

 既にお気づきの通り、もはや川島でもなければ、のりかずでもない、ブックレビューですらない、勝手な創作の境地に突入している本シリーズであるが、
 作者としましては、つべこべ文句を云うよりも、黙ってひたすら読み続ける白痴的行為を、素晴らしく知的な読者諸君に求めてやまない。

 失踪した大手建設会社社長、UFO目撃談、偶然発見された怪奇現象の映っているビデオテープ、そして禁忌の対象となっている不吉な山。
  長い前振りは終わった。パーティーはこれからだ。
 物語はいよいよ、佳境へと突入する・・・・・・。

 ウンベル総司令「・・・のかァ?!キャッキャッキャッ!!」

[シーン14・屋内]

 身を屈めて廃屋のドアを潜る、黒沢刑事。
  カメラは前方より、その緊張した面持ちを捉える。外界の光が眩しい。 

ジャン・リュック・ゴダール「カット!」

 室内にはディレクターズ・チェアが据えられ、黒いサングラスのゴダールが座っている。

 「キミは映画のいろはが分かっていない。登場人物より先にカメラが室内に入っていたら、観客の緊張感は台無しだろ?
 お前は川口浩探検隊か、ってーの。」

 瞬時に反応した黒沢、拳銃を引き抜き、ゴダールを射殺する。

 「・・・隊長を悪く言うな。わかったか。」

 床に転がるフランス人の小柄な身体を跨ぎ越え、黒沢は前進する。
 廃墟となって相当の時間が経過しているようだ。壁の滲みや埃りの積もり具合い、煤けた唯一の窓ガラスから漏れ出す日光のぼんやりしたコントラストに、過ぎた歳月がフラッシュバックするかのようだ。

 「黒沢さーん、大丈夫ですかー?」

 建物の外でスズキくんが声を掛ける。銃声に驚いたらしい。

 「おぅ。表をしっかり見張ってろよー!
 この調子じゃ、どっからなにが出てくるか、わからん・・・!!」 

 云った途端に、天井から蛇の塊りがバラバラと降ってきた。

 「どわ、わッ!!!隊長ーーーッ!!!」

[シーン15・屋外]

 家屋の内部で閃いた数発の銃弾に、窓のカーテンが揺れた。
 反射的に一歩身を乗り出したスズキくんの足元に、ピンと伸びたロープが現れ、ググッと引かれる。
 もんどりうって転倒したスズキくんに向かって、藪を揺らして丸太が飛んできた。

 「のわッ!!ブービートラップ!!」

 丸太と一緒に吹っ飛ぶスズキくん。

 「あーれーーー!!!」

 罠は巧妙に張られ、僅かでも力を加えようものなら、大木に吊るされた丸太が飛んでくる仕掛けだったらしい。
 ボテ腹に丸太をめり込ませ、吹っ飛ばされる瞬間、スズキくんの視力2.0と無駄に目がいい眼球は、丸太の側面に彫り込まれた「731」の文字を確かに読み取っていた。

 「マルタだけに、731か・・・。古いなァ・・・。」

 そして、飛ばされていった。

[シーン16・再び、屋内]

 履いていたヒールの角で、蛇の頭を踏み潰しまくっていた黒沢刑事は、ようやく安堵の息をついた。

 「・・・はぁ、はぁ、ゼイゼイ。
 爬虫類の分際で、てこずらせやがって。このヤロ、このヤロ。」

 ブチブチ、潰れる蛇の体。

 「やれやれ、これで一安心。」

 その瞬間、壁をぶち破って、丸太とスズキくんが室内に飛び込んできた。

 「ギィヤァァァーーーーーー!!!」
 「のわァーーーーーー!!!」


 派手に激突し、床に転がる二名。
 パラパラとガラスの破片が辺り一面に降り注いだ。

[シーン17・廃屋内、別の部屋]

 「まったく、呪われてるというのは、こういう状態を言うんだろうな・・・。」

 黒沢が、スズキくんの腕の傷口を消毒しながら云う。
 アウトドア慣れした刑事は、旅行用の簡易薬箱を持参済みだった。

 「やめてくださいよ。
 ただでさえ、不吉な連鎖に心身ともにビビリまくってるんですから。」

 痛みに耐えかねながら、スズキくんが抗弁した。

 「しかし、家の中は全部調べましたが、これといった手掛かりも無いですね。この建物が例の大学生のビデオで撮影に使われた物だと思うのですが・・・。」

 「お前さんは肝心なところを忘れちまってるのさ。」

 黒沢はリュックを引っかき回し、懐中電灯を取り出した。

 「こういう、謎の建物には、地下室、もしくは秘密の部屋がつきもんだろ?
 間取りはさっき調べた。秘密室なんか造る余裕はない。そもそも、ちいさい丸太小屋みたいなもんだからな。
 となりゃ・・・。」

 絨毯を捲り上げ、上げ蓋のラッチを持ち上げる。

 「案の定だ。・・・ほれ、どうだい?地獄へ、ようこそ。」

 黒々と口を開けた地下へ通じる暗い穴倉を覗き込み、スズキくんは身震いした。そこから厭な腐臭が漂い出してきたからだ。
 かなりヤケクソな気持ちで、スズキくんは叫んだ。

 「次回、地下室!!!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月14日 (土)

ヴィクター・フレミング『オズの魔法使い』 ('39、MGM)

 M.G.M.ミュージカル、不滅の金字塔。総天然色の娯楽大作のはしり。あらゆるファンタジー映画の源流であり、与えた影響は計り知れない。
 
 私が申し上げたいことは、この映画を大好きなやつに心の歪んだ人間が多いってことだ。
 そういう意味で、これはおっかない映画なのだ。

 なにが歪んでいるのか、本当のところはわからない。
 色彩?画面構成?
 退屈を恐れるように矢継ぎ早に展開する、狂ったジェットコースターのようなストーリー展開か?
 音楽は素晴らしく、ジュディ・ガーランドはういういしい。
 だが、小人を百人集めて、ダンスを踊らせるような映画がまともな感性によってつくられる筈がない。
 病める者を救済する映画。
 あなたがこの映画を気に入ったのなら、あなたは自分の病的気質を疑った方がいい。

 われわれは全員、ある意味失格者であり、出来損ないの存在だ。
 この映画はファンタジーと現実の入れ子構造を巧みに操り、人それぞれの値打ちを高らかに謳い上げる。
 だが、壮大な背景は書き割りであり、セットに過ぎない。
 ドロシーの生命を縮める砂時計。あれは、一体なんだったのか。
 映画という魔法のマントが消え去った瞬間に、われわれは何を見るのだろうか。

 だから、これはとても大切な映画だ。
 私は、これが大好きだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月13日 (金)

ドン男爵『電撃!ロンメル戦車軍団』 ('80、立風ダイナミックブックス)

 「最近、マンガの記事が少ないのじゃありませんか?
 一応、チェックしてるんですよ、ボクは。」


 永遠に二十代の好青年、スズキくんは、片手に砲弾を掴んで装填しながら抗議した。
 戦車内部は異常に狭く、わずかな空間も残されていない。暑さとむせ返るオイルの臭気で、吐きそうだ。
 古本屋のおやじはペリスコープで宿敵・英国軍を見張っていたが、振り返るとぶっきらぼうな口調で操縦士に針路変更を伝えた。
 「右舷、急速転進だ。敵さんが来るゾ。」
 
 ギリギリと耳を劈くギアーの音と共に、数十トンの巨体が傾ぐ。

 「砲手、弾込めェー、急げェー!!!」

 どやされたスズキくんは、プニョプニョのお腹を掻きながら、75mm戦車砲に装弾を完了する。と、額の汗を拭う間もなく、至近距離に着弾音が響いた。鋼鉄の函内部の密閉空間では残響は殺人的な猛烈さとなる。

 「ぶが、る、る、る、る、ん!」

 スズキくんの眉毛、唇が猛烈な震動に揺れた。脳の内部も強烈にシェイクされたようで、(「こりゃ、ますます頭が悪くなりますね!」)臓腑から苦い液体がこみ上げて来る。
 射撃手は照準鏡を覗き込む暇もなく、衝動的に射出レバーを引いていた。
 ずどん。
 キャタピラーの激しい回転に車体が半ば傾いだ状態での射撃は、前方を塞いだ爆雲を貫き、消えた。砲身の制退器がゆっくりと戻る。

 パラパラ、と敵の機銃の速射が聞える。

 古本屋のおやじ、または戦車長は射撃手の頭を張った。

 「てめえ、まだ生きてるじゃねぇか、敵は!」

 「まぁまぁ。」
 スズキくんが割って入った。
 「戦場で仲間割れしても、いいことないですよ。
 ・・・それよか、これはどうですか?」

 スズキくんが取り出したのは、往年の古臭いタッチで描かれた機銃を構えるバタ臭い顔の少年と、ワイルドな筆遣いのドイツ軍戦車の絵が表紙の一冊のコミック本だった。

 「なに、『電撃!ロンメル戦車軍団』だと?!
 ふッ、戦場で戦争コミックを読むぐらい、救いのない状態もねぇよな!!」

 「さすが、戦車長!わかってらっしゃる!
 ところで、このマンガにはもうひとつ、特筆すべき要素があるのです。
 著者名をご覧ください。」

 「むッ・・・なに。ドン男爵、だと?!ふ・・・ふざけやがって!!」

 「そうなのです。そうなのですが・・・絵を注意深く、検証してみてください。何か気づきませんか?」

 「むゥ・・・お話はお決まりだな。
 猛将ロンメル将軍がアフリカ戦線を蹂躙する、それに巻き込まれる新兵二名の泥まみれの苦労を描いた作品だ。
 戦争映画も戦争マンガも、いつも思うんだが、なんでこう、出てくる奴、出てくる奴、全員、五体満足なのかね?
 小銃に指をもがれた奴とか、足を切り離された奴とか、身体欠損描写がもっと登場する筈なんだよ。毎日、近代兵器を操って殺し合いをしてるわけだから。
 リアリズムの見地からして、絶対おかしいと思うんだが、どこに抗議したらいいのかね?」

 「傷痍軍人協会に問題を持ち込むべきじゃないですか。
 現に、ボクは今日手を深く切って、病院送りになりましたよ。
 
 そんな偏った意見より、どうですか、この絵は?
 どこかで見覚えありませんか・・・?」


 「アアァーーーッ!!これは・・・!!
 
 鬼城寺健!!!」

 スズキくんは戦車内部の暗がりで、ニンマリ笑った。

 「近年、最大の発見ですよ。土星に輪があった時のガリレオ・ガリレイ級の衝撃でした。
 特徴ある、この投げ遣りで荒削りな描線は間違いなく、名作『人魂のさまよう海』や『呪われたテニスクラブ』などでお馴染みの、鬼城寺健先生です。
 恐怖マンガと戦記マンガ、ジャンルは違えど版元は同じ、立風書房。この見立て、まず、間違いないでしょうね!」

 「怪奇探偵、お手柄じゃないか?!
 そうすると、この適当な展開で心がまったくこもっていない戦争マンガも、別の種類の輝きを帯びて見えてくるってもんだ!
 お宝ですよ!これは!
 オレ、マジ、感動しちゃったよ!どう、これから一杯、飲みに行く?」

 「いや、アノ、月末までボク、財布が厳しくて・・・。」

 「なに言ってんの、奢りだよ!お・ご・り!!
 怪奇バンザイ!!マンガって、いいなぁー!!」

 それから、硝煙たなびく戦場を横切って、ふたりの(既に)酔っ払いは駅裏の飲み屋街へと消えていった。

 取り残されたおやじの戦車が敵・英国軍の猛攻を受け、五体バラバラに引き裂かれる無惨な最期を遂げたことは云うまでもあるまい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年8月 8日 (日)

人形劇①『コララインとボタンの魔女』 ('09、LAIKAプロダクションズ)

告白するが、私は人形劇が大好きだ。
 実写も、アニメも好きじゃないんだ。実は。
 人形劇こそは、世界の真実を伝える上で最も的確かつ有効な手段だ。
 なぜなら、人形は嘘をつかないからだ。

 
以上の、歪んだケタックソ悪い思想のもとに、今夜お送りするのはヘンリー・セリックの最新作『コラライン』である。
 セリックのことは、知ってるね?
 グッド。
 じゃあ、原作のニール・ゲイマンのことは?
 OK。
 ”いまさら”な話は、全部キャンセルだ。諸君が飲み込みのいいお客で、私も嬉しいよ。 

 そう、ウィリス・オブライエンが創始し、レイ・ハリーハウゼンが拡めた偉大なる娯楽映画のパペット・アニメーションの血脈は、いまやヘンリー・セリックによって継承されている。
 途方もない手間隙をかけてつくられる映像の驚異は、今日も色褪せることなくスクリーンを彩っている。
 その事実に、乾杯しよう。
 いや、冗談ではなく、「CGで事足れり」と思い込む浅薄なやつらが多いんだって。セリックが劇場長編を手掛けられるのは、とても幸運なことなのだ。
 
 グビリ。
 
 では、ファーストカットを見てみようか。
 おお。手描き。あ、動いた。
 音楽はまるきり『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』から借りてきました、だなー。
 この動き。
 タイミング。
 私の涙腺はもう、ダブダブでえらいことになっている。
 ある程度、話が進むまでには相当量の水分を失った。特に鼻水がいかん。
 『アルゴ探検隊の大冒険』を、親に隠れてシーツ被って鑑賞した小学生時代以来、私は人形アニメの動きに弱い。異常に弱いのだ。

 ところで、諸君は『ジャイアント・ピーチ』は観たかね?
 あれもいい作品だったが、いかんせん実写が使われておったからね。『モンキーボーン』もそうらしいね。
 ここでセリックのデザイン上の特徴を指摘するが、善良なんだよ。
 根が。
 『ナイトメア』のゴス風みたいなキャッチーさに欠ける。間違いなく可愛いんだが、単体でキャラ人形完売には成りにくい。
 今回の『コラライン』もそんな感じなのだが、往年の日本のマンガみたいな。わかりやすいキャラデザインを入れてきていて、「一体どうなってんだ?」と思ったら、日本人イラストレーターにデザイン画を描かせていたりするのね。
 そのせいか、ジブリ風味が混入していて、少女が主人公だし、お話も『トトロ』の世界に『千と千尋』の魔女が侵略してくるみたいな感じ。(ゲイマンが『もののけ姫』の英語字幕を監修してるのは知っとるね?)

 まぁ、微妙な文句はいろいろありますがね。素晴らしい出来であることには変わりない。
 CGアニメの連中は、この動きをコンピュータで得ることに躍起になっているんだろうが、結局、真似できない。
 まったく別物だと思いますよ。

 それにしても、双子が空中ブランコする場面、どうやって撮ったんだろうか。
 まったくわからない。
 霧の場面は特典映像で触れてくれたが、他にもいろいろ理解を絶する場面がある。
 やはりメイキング本、買わなきゃダメか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 7日 (土)

CG④『モンスターVSエイリアン』 ('09、ドリームワークス)

 デート中の車の中で、ジャーニー『クライング・ナウ』がかかる。

 エンディングに流れるのは、B-52's『惑星クレア』だ。
 劇中のモンスター誕生エピソードは『絶対の危機』や『半魚人の逆襲』や『モスラ』(!)の引用。白黒のCGというのは、なんかカッコイイな。
 おまけに主人公が『妖怪巨大女』である。だいぶ若いが。いいのか、こんなの。
 絶対、同い年くらいの連中がつくっている。それも、バカうけしながら。
 「こんな企画ありえんなー!」とかお互い云い合って。でも、CGで、ファミリー向けで、ドリームワークスだから、これが通ってしまうんだよ。スゲエだろ?
 果たして子供にウケるかはわからないが、同伴のパパには大ウケ。ちゃんと、モンスター同士の友情とか描かれるしね。ひとつ、深刻ぶらずに楽しく行きましょう。
 アダルト度数、『ロボコップ3』。ということで。

 お話は、まぁ、アレな、『マーズ・アタック!』や『Mr.インクレディブル』の達成を踏まえた上での、決して嫌いになれないタイプのコメディなので、問題ない。引いた路線の枠を1ミリもはみ出さないが仕方あるまい。これは、アラン・ムーアの脚本じゃないんだ。

 それよか、問題なのは、われわれがCGに慣れてしまい、どんなサービス過剰な破壊や変形が出てきても、易々受容してしまうようになったことだろう。“夢の映像”の拡大生産だ。
 それはCGの活用方向として、まったく正しいが、こうなると議論は「なにを見せるか?」ではなく、「なにを見せないか?」の方向へ行きそうな気がする。

 例えば、結婚式の教会での最初の巨大化シーンで、ヒロイン、スーザン(いい名前だ)の白のサマードレスは延びて破れはするが、脱げない。
 「破れる」で留めるところにギリギリの嘘があるのね。
 これはなかなか興味深い事態だと俺は思うね。
 映画は嘘をついていいが、それは観客がその嘘を受け入れたときだけなんだ。

 CG映画全般に同じことが言えると思うね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 6日 (金)

小山清茂『吹奏楽のための「太神楽」』 ('70、EMIミュージック・ジャパン)

 諸君、毎度だが、乱暴な決めつけを許されたい。

 Jポップの本質とは何か。
 極論すれば、それは伝統に対してわれわれがいかなるアチチュードを選択するか、ということではなかったか。
 われわれのルーツはソウルだ、と回答すれば、それはすなわちラブ・タンバリンズとなり、パンクだ、フォークだ、と回答すれば、ブルーハーツとなるのではなかったか。
 本質は、すなわち、空洞である。
 知恵を絞った取捨選択の結果、われわれが何を持ち込んだか。それがJポップと呼ばれる異種格闘技戦だったのではないのか。
 どんなに着飾っても無駄だ。
 日本語の響きが持つ、絶対的にダメな、あの感じ。
 『呪怨』の百倍、呪われているあの感じが、われわれを無間地獄に堕したのだ。

 だから、究極のJポップとは、熊本民謡「おてもやん」である。
 あの呑気な感じ。
 異常なグルーヴ。
 すべてのJポップは、「おてもやん」との距離、位置関係において存在するのである。

 小山清茂先生は1917年生まれ、幼少の頃、かっこいい軍楽隊に憧れて音楽の道に入った人である。
 周囲になかったので、かっこいい洋楽は書けなかったが、馴染みの深い民謡や伝統音楽なら書ける、と思い、一念発起してつくった自作の管弦楽曲「信濃囃子」で音楽コンクール第一位に輝いた。
 いい話だ。
 このレコードで聴かれるN響の演奏は、注意深く、示唆に富んでいて、重要なことだがユーモラスで楽しい。
 (われわれはかつてN響が「新日本紀行」のテーマを演奏していたグループであることを忘れるべきではない。)
 ここにいる「おてもやん」は、魅力的な「おてもやん」だ。

 誰もが、自分自身の「おてもやん」と出会うべきだ。
 それも、今すぐに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 3日 (火)

ロバート・ワイズ『アンドロメダ・・・』 ('71、ユニバーサル)

 ハヤカワ文庫SFの青背から、マイケル・クライトン『アンドロメダ病源体』がこの映画のスチールを表紙に刊行されたとき、そう思った人も多少は居たかも知れない。
 現代に生きるわれわれは、『ジュラシック・パーク』を知っているし、うっかり映画『コンゴ』を観てしまい、この作家の本質にあらためて気づかされた者もあろう。
 マイケル・クライトンは、空疎な作家だ。
 別段、面白い物語が書ける訳でもないし、中核をなす科学的アイディアが受けただけ。
 いくらでも面白くできる素材を、あの程度にしか料理できないのだから、作家としての力量などたかが知れている。類型的人物が右往左往する、プロット頼みのストーリー。物語の豊穣さなど望むべくもない。
 さて、あなたが以上の一方的な決めつけに賛同してくれることを期待するとして。

 ロバート・ワイズの映画版、『アンドロメダ・・・』は131分ほどの長編だ。
 映画に妥当なランニングタイムなど求めても仕方ないが、まぁ、私の見たところでは、過不足なく物語を語りきって観客を満足させるのに必要な所要時間は90分ぐらい。
 これについては色々な実作者が俎上に載せているが、私が90分という決め付けを初めて聞いたのは、宮崎駿が『ラピュタ』製作開始にあたってのインタビューだったかな。
 その後、いろいろ観ていくと、いわゆる「大作」以外の、予算の限られた娯楽映画では結構有用な物差しではないか、と思うようになった。
 (例えば、『ニューヨーク1997』は95分である。)
 おいおい、大丈夫か、ロバート・ワイズ?
 クライトンだから、話はそんなに詰まっていないぞ。長過ぎやしないか?

 宇宙から謎の病源体が飛来し、メキシコの町がひとつ壊滅する。生存者は、酩酊した老人と泣き続ける赤ん坊だけ。
 政府はプロジェクトチームを編成し、汚染の拡大防止にやっきになる。
 人里はなれた地下の秘密基地では、ノーベル賞受賞者を含む科学者たちが感染源の特定と治療法をなんとか探し出そうと遮二無二、研究を続ける。
 実は基地には自爆装置が仕組まれ、細菌汚染を感知すると核爆発を起こしてすべてを吹き飛ばす計画だった・・・。

 なんて地道な話だ。
 深い考えのないレム『天の声』のようだ。そういや、かの『大失敗』に登場するクィンタ星人と、この作品に登場する宇宙生命体は、なんか似てるのだ。H・G・ウェルズ的相似、ということか。
 まぁ、それは余談として、
 どうです?つまらなそうでしょ?

 しかし、結論から申し上げて、やはりワイズは上手いのだ。

 必要な箇所に鳴り響く、ギル・メレの不気味な電子音楽を除けば、これは異様に静かな映画だ。
 モノクロ時代の『地球が静止する日』で、宇宙人の地球制服を「人類の使うすべてのエネルギー源が停止する瞬間」として映像化してみせた手腕は、ここでも活かされて、「細菌生物による地球侵略」という異常に地味なテーマを、ちゃんとサスペンスとして演出してみせてくれる。
 カットの割りかた(遠景でヘリコプターから縄梯子が降りるのを捉え、切り替わると、砂塵の中に立つ白い細菌防護服姿の人物二名を背後から見据えて、死の村を映すあたりが印象的)、スプリットスクリーン多用(たぶん不要なカット割りを避け、物語のテンポを維持するためだ)、手前に人物を大きく配してミーティングや通信連絡など単調になりがちな場面を盛り上げる手法など、心憎いばかり。
 例えば、車の移動ショットで、カメラがフォローしピタリと画面中央に停止し、左右のドアから人物が出てくる基本中の基本のようなカットまでが美しい。幾何学的な整合性で、ドンピシャリの位置にはまる。
 名手リチャード・クラインのカメラは空気感、スケール感まで写し取り、あぁ、やはり世界の映画はアメリカ映画だよなぁー、と酔わせてくれる。
 科学者達の研究が暗礁に乗り上げることがあっても、映画自体の進行が躊躇したりはしないのだ。
 細菌作戦基地のカムフラージュが農業試験場だとか、画面を攫うおばちゃん科学者の毒舌とか、細かいギャグもちりばめつつ、ロバート・ワイズは「物語を正しく語る」という行為そのものに異様に固執している(というか、正統に淫している)ように思える。
 それは、デビュー作『キャットピープルの呪い』だろうが、『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウェストサイドストーリー』だろうが、完全に同様である。

 はて、それにしても、同じワイズの監督作品『スタートレック劇場版』はどのような映画だっただろうか。
 私は中学のとき、確かにあの夏休みにいとこに連れられてこの映画を観た筈なのだが、記憶がスッポリ欠落しているのだ。なぜだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 1日 (日)

沼よしのぶ『ツッパリ刑事彦』 ('79、講談社マガジンKC)

 これは、江口寿史についての記事である。
 つまりは、'80年代の黄金期に駆け上っていく『少年ジャンプ』についての記述だ。

 講談社なのに?
 沼よしのぶ、というマイナー作家の記事なのに?
 (私はマンガ全般の熱心な読者ではないので、悪いが、沼といえば正三!ぐらいしか知識がなかった。諸君、蘊蓄を期待しないように。)
 そもそも、表題『ツッパリ刑事彦』のレビューなのに?

 今回は先に、ネタを割っておく。
 『ツッパリ刑事彦』は、『すすめ!パイレーツ』のデッドコピーである。

 特筆すべきことは、その出来が決して悪くないことだ。
 本家を凌ぐとは云わないが、そこそこに面白い仕上がりである。
 警視庁世井署に勤務する敏腕刑事、刑事彦が赴任したばかりのイッペーちゃん似の若手刑事を巻き込んで起こすドタバタは、あなたが今想像した内容よりは、ちょびっとマシな仕上がりだ。
 六巻続いた程度には、堅実かつ誠実なエンターティナー振りを発揮している。

 問題なのは、そのことの意味の方である。
 われわれは、『右曲がりのダンディー』が巻き起こした波紋を記憶している。
 私が偶然、古本捨て本の山から『刑事彦』を摘み上げたとき、脳裏をよぎったのは、あの時の不吉な霧に似た戦慄であった。
 そもそも、作家のオリジナリティーってなんだ?
 芸術の根幹に横たわる巨大な黒い山脈。
 
 これは、つまりコピーできない天才の作品を一方的に引き継いで、独自路線を暴走した竹内寛行版『墓場の鬼太郎』とはケースが異なる、ということだ。
 江口は、コピーできるのだ。
 しかし、だからこそ、そこに江口寿史ならではの、立ち位置の特殊性・独自性を見ることが可能である。

 そもそも、江口は(外観含め)語りやすい特徴・逸話を多々持っているので、俎上に載せられることが多いのだが、これぞという膝を打つ言説に巡り会えた試しがない。
 たいてい、「女の子が可愛い」とか、凡庸な細部、枝葉末節の取り扱いに終始し、本質に噛み込んでこない。
 江口寿史の作品なら万事、ちばてつやの画風を等身を縮めてポップ寄りに解釈したデビュー作「恐るべき子供たち」から、『パイレーツ』『ひのまる』『ひばりくん』『エイジ』、傑作『寿五郎ショウ』や『なんとかなるデショ!』、アクション連載で未完の『エリカの星』特大号に到るまで、コツコツ踏破し続けた私からしまするに、どの意見もぬるい。ぬる過ぎる。
 作家に対して、不当な敬意が感じられる。
 叩かれてこそ、江口らしいのではないか。

 江口が、コピー可能だというのは既に申し上げた。
 女の子キャラの描き方だけ取っても、影響を受けて実践している者は(残念ながら現在も)多数だろう。
 江口の表現は間違いなく、現代マンガ史の方向性を変えた。
 これは、鳥山明がやってのけた(実にたいしたことの無いように見える)偉業に匹敵する。
 そしてそれは、いかにビッグネーム面しようと江川達也程度の器の持ち主には逆立ちしても出来っこない、巨匠レベルの神業だった。

 では、江口のレベルはどの点において突出していたのか?
 画力?
 その足りなさは、本人がにがい自覚と共に言文化している。
 ストーリー?
 そもそも、まともなストーリーマンガなど一本もないではないか。
 イラストレーターとしてのキャリアも、マンガ家として築いた名声なくしては、成立しなかったろう。

 はっきり、云う。
 江口寿史は、凡庸であることを体現して、初めて偉大となったのだ。
 コピー可能であることの意味は、そういうことである。
 そんな不可思議な成り立ちかたをして、しかも商業的な成功を納めた作家は、江口以外、存在しない。
 この点には素直に感服するし、敬意を払うべきである。

 以上の結論を出し、深く納得した私は、所持していた江口寿史の単行本すべてを即座に破棄処分とし、別の方向へ彷徨い出した。

 天才の後追いはしてはならない。
 諸君、これは誠心からの忠告である。

 
 その方向で、名を成した人はいない。
 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »