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2010年8月29日 (日)

清水崇『呪怨2・劇場版』 ('03、オズ)

時制の混乱が、シンプルな物語を興味深いものにしている。

例えばツタンカーメンの墓を暴いた者たちが次々と謎の死を遂げたように、殺人のあった家を取材しに来たTVクルー、出演者達が死んでいく。
呪いというものが確固として存在し、しかも感染・拡大する性質を持っていること。
その伝播の媒介として、最初の殺人の犠牲者、幼い男の子と狂った母親を具象として登場させ、呪力の強大さをアピールする、暴挙ともいえる方法論。

恨みを呑んで死んだ者がこの世に現れる、というのは実のところ、納得の行く話だ。
誰もがそれを心待ちにしているのかも知れない。
重要なことは、われわれが怯えるのは死者の復活などではない。自身の理不尽な死のみだ。おそらく、彼ら蘇った者ではなく、追い詰められ抹殺される無関係の犠牲者達にこそ、われわれは自身を重ねているのだ。

観たら一週間後に必ず死ぬ、呪いのビデオ。

まったくもって冗談でしかない存在が、多少なりと恐怖の種を宿すとすれば、何かが観た者を殺しに来るしかない。
Jホラーの創始者たちは、その決断を下したのだ。
死を冗談ごとにしてはならない。われわれは、真剣に映画を撮ろう。
襲い来る存在が圧倒的であればあるほど、死は不可避のものになる。
そして、その死は事態を解決するわけではなく、巨大な連鎖の一部であり、安息など誰にもありえないこと。
(『呪怨2』に取り入れられている大胆な時制の混乱は、これを裏付けている。)

だから、この映画の最も大きな魅力は、怪物描写や血のりにあるのではなく、映画に対する真剣さだ。
真剣に恐怖の対象を考察しようと決意することだ。

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