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2010年7月

2010年7月30日 (金)

真心ブラザース『キング・オブ・ロック』 ('95、キューン・ソニー)

 「ふむ。
 きゅーん、か。

 電話で名乗りたくない社名だな。」

 遠藤部長は、股間を激しく掻きながら、云った。
 この夏の異常な暑さで、はげ頭はすっかり茹で上がり、噴き出る汗は乾くいとまも無い。
 ろくに洗濯もしていないワイシャツも、ズボンも、異様な臭気を放っていて、手洟やら精液の滲みた跡やらがテカテカ光って、この上ない汚らしさだ。

 新人OLの緑子は、部長のそういうところがたまらなくて、現在、不倫に嵌まっているのだった。

 昼食時の他に誰もいないオフィスに、真心ブラザースの「スピード」が流れている。

 「あら。
 でも、弊社の社名も問題あると思うんですが。」

 豊かな乳房の間に、部長の名刺を挟んで上下にしごきながら、緑子が云う。
 名刺には、『極地地場産業株式会社』と記載がある。

 「私は、『南極資源開発(株)』を提唱したのだがね。」

 「本当に、南極って天然資源の宝庫なんですか?」

 「なぁーに、気にするなって。云っときゃいいのだ、云っときゃ。」
 遠藤部長は、本格的に腰を入れて動き始めた。

 「今期中にトンネルを掘るんだ。来期は、掘削事業。調査結果を得るのに、また半期。そうこうしてるうちに、また政権が変わるだろ。
 そしたら、予算獲得の陳情がドッと増えて、事業仕分けなんて振り出しに戻るのさ。」

 「あぁーん。」

 緑子が着ている紺のタイトスカートが捲くれて、かたちのいい太腿が剥き出しになる。

 「ふん。なかなかいいじゃないか、この曲。」

 「“今しかない、後がない”というタイトル。 まるで私たちのようだわ。」

 「女は、ロマンに酔い易いというが、本当だな。
 このボーカルの男、異常におもしろ声だが、なにか厭なモノでも吸ってるのか?」

 部長は、アナルを責め出した。

 「はーん。
 いえ、これは、いつものボーカルの人じゃなくて、もうひとりの地味な方なんです。
 カエルか、カッパみたいな声だわ。」

 「コミックボイスというやつだな。得してるな。ストリングスもバカに拍車をかけてるし、“詰めの甘い男って、俺のことかよ、バカヤロー”とかいちいち笑わせる。
 本当に、詰めが甘そうだしな。」

 秘所は充分な刺激に潤んで、花の蜜を滴らせ続け、ショーツはグッショリ濡れていた。
 しかし、遠藤部長の容赦ない指先は、女の最も敏感な部分になおも攻撃を繰り返している。

 「Oh!
  Oh!
  No、No!

 あら、これ、ZEPの“胸いっぱいの愛を”のフレーズじゃありませんこと?」

 「うむ。
 (ZEPとか云うなよ、お前が。)
 みなさん、お馴染みのフレーズに載せて、繰り返される歌詞が、これだ。」

 「“俺のチンポから、石が出た。
  俺のチンポから、石が出た。
   チンポ!石!
   チンポ!石!”

  ・・・あぁっ、か、感じちゃう~。」

 遠藤部長は、(本気か、この女?)と内心疑りつつ、不吉な色にてかった遠藤自身をより深く突き入れた。

 女の内部は、既にうるんで、サンゴの空洞のようだった。


  ※      ※      ※      ※      ※

 やがて、楽しいお昼休みが終わり、オフィスに戻ってきた勤勉な社員達を出迎えたのは、いつもわき目もふらず業務に没頭する部長と、地方出身の地味なOLだった。

 そのとき、世界の時間は既に逆さに廻り始めていたのだが、誰も知らない。

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2010年7月27日 (火)

ヴァル・リュートン『吸血鬼ボボラカ』 ('45、RKOラジオピクチャーズ)

 この映画、マーティン・スコセッシのフェイヴァリットだそうだ。

 低予算、スタジオ撮り、戦時下の厳しい規制を逆手にとったハリウッドの名プロデューサー、ヴァル・リュートンの離れ業。
 ボリス・カーロフがその怖い素顔を活かして、パラノイアにとり憑かれた将軍役をノリノリで演じている。
 (やたら眉毛の濃いジョン・ルーリーのようにも見える。)

 舞台は、疫病の蔓延するギリシアの離れ小島。
 オープニングも含め、モチーフはアルノルト・ベックリン「死の島」をモロに使っていて、掴みのヴィジュアルがもう、秀逸。
 不吉感、バリバリ。
 この表現もどうかと思うが、バリバリ。
 (絵画に詳しくない人、例えば佐藤氏なんかは原画を一度検索してご確認ください。Wikiなんかで、簡単に見れます。幻想絵画の傑作のひとつとして、斯界ではつと有名。とにかく、漂う不吉感が尋常でない。)
 将軍は1912年バルカン戦争の英雄で、とにかく人をいっぱい殺しているが、それはさておき、今夜は亡き妻の墓参りだ。
 この近くの島に埋葬したんだ。行ってみるかね、新聞記者くん?

 島には宿屋が一軒あって、いろんな国の人が宿泊している。
 なかに怪しげな現地人の老婆がいて、病弱な婦人に付き添っている美女を「悪魔ボボラカ」だと決めつける。
 ボボラカはギリシア地方に伝わる伝説の悪鬼。夜な夜な活動し人の生き血を啜る醜い浮世の鬼であるらしい。
 と、その夜、さっそくおっちょこちょいなイギリス人が「ホワイトチャペルが懐かしい・・・」なんて意味深な台詞を吐いて、死亡。(お前はジャック・ザ・リッパーか?)
 続いてあれよ、あれよ、という間に第二、第三の犠牲者が・・・。
 島に恐るべき疫病が蔓延したのだ。完全隔離され、誰も脱出することが出来ぬ緊急事態に。
 医者が倒れ、牧師が息を引き取り、生き残り達の間では急速に疑心暗鬼が拡がって行く。美女を本気で悪魔の化身と信じる将軍は、新聞記者と全面的に対立、そんな中でずっと臥せっていた病弱な婦人が突然死亡し、緊迫は極限へと上り詰めていくのだった・・・。

 この映画、なにが衝撃的だって、ボボラカが吸血鬼じゃない!
 もう、これ100%ネタばれだけど、ヴァル・リュートンの恐怖映画においては、超現実的な恐怖は必ず、具体的な意匠を纏って現れるのだ。
 これ、鑑賞ポイント。
 この作品の場合、ポーの例の有名なやつを上手く着こなして出現する。
 クライマックスの墓地の場面ね。
 ここ、凄くうまいです。特殊メイクとか、ど派手な効果とか何もなしで、ちゃんと怪奇の演出を見せてくれる。
 ちょっと、シャーリィ・ジャクソン的というか、スーパーナチュラルムービーにしては地味目というか、全体にあくまで雰囲気でもってく系の演出ですが、夜中に墓地を訪ねる場面のカット割りは、もう完璧!ヒデキ感激!
 
 さて、以前ご紹介した『キャット・ピープル』と共通して、動物の吠え声がやたら怖い(ホント!)という特徴があるのですが、この作品、全編に流れる音楽も品があって、楽しいんですな。
 と思ったら、初期ディズニー『白雪姫』『ピノキオ』のリー・ハーラインじゃありませんか。
 『星に願いを』の人ですよ、ぼっちゃん。ビックリしたなァ、もう。

 ついつい、口にしたくなる「ボボラカ」というネーミングも含め、なるほど秀逸な仕上がりでありました。

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2010年7月26日 (月)

江戸木純『『世界ブルース・リー宣言』 ('10、洋泉社)

 極端な言説、偏った論考というのは、危険を孕んでなお感動的だ。

 「いま、世界にブルース・リーが足りない。それは間違いなく、徹底的に足りない。」
 と、著者が説くとき、われわれは無意識レベルでその真意を察知し、既に賛同している状態だ。
 問題はそのアジテーションの外側にいる人々だろう。これでは意味が解らない。
 だから世界は間断のない闘争状態にあり、理解と無理解との熾烈な戦いは日常の到る所で繰り返されている。

 でもね、相手がきみだから砕けて云うが、すべてを納得させる結論なんて出ないんだよ。
 
 ユリ・ゲラーは、本当にスプーンを曲げていたのか?
 それを知ってどうする?


 だから、この本の立場は積極的に「ユリの側に立とう!」という宣言の書であるのだが、でも、相手は自称・超能力者なんかじゃないからね。
 世界の映画史上、空前絶後の大スターですから。
 (この言い方自体が、私自身の信仰のカミングアウトになってしまうな。)
 1995年に洋泉ムックが出した『映画秘宝Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進』にグッときちゃった困った人々にとっては、窮天の慈雨、ショコタンにレイプされ(結果としてあれは、メディアによるレイプだと思う)ボコボコにされた映画界最大のイコンからの、返礼の一撃ということですよ。
  で、返す刀で湯村輝彦のヘタウマ絵画も断罪ってことですよ。
 作家としての湯村氏の評価はともかくとして、確かにあの絵(※'97『燃えよドラゴン』リバイヴァル時のパンフ)はねぇよなー。そういう説得力があります。

 そもそも、世界正義の規範がブルース・リーであって何か問題はあるのか?

 ね?
 
 諸君、今こそ地上に蔓延るすべての悪を殲滅するときが来た!
 立て、万国の労働者!ってことですよ。

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2010年7月25日 (日)

さがみゆき『蛇女のたたり』 ('80?、ひばり書房)

 例によって、愛の物語だ。

 さが先生のマンガは、どれも例外なく愛についての物語であるのだが、とりわけ美しく纏まっているもののひとつがこれだろう。
 蛇と人間との異種族間恋愛。
 昨晩私は、特殊メイクの結構良くできた蜘蛛メイクの女(最近のハリウッド的なラテックスの被り物を着用した、首から下は普通に全裸の白人女性)がデブのチンコを頬張る動画を見た。
 しかし、さが先生の描く愛の世界は、そういう下世話なヴィジュアルとは無縁だ。

 作中、クライマックスで謎の坊主の法力に追い詰められた蛇女は、正体をあらわしそうになり、地面に崩れ落ち、泣きながら懇願する。

 「おねがいです、和尚さま・・・」
 「わたしの姿をこの人に見せないで!!」


 おのれの醜い姿を見せて、嫌われたくないのだ。
 そんな無茶苦茶な。
 手前勝手にも程がある。

 この作品は、確かに根本的に大きな矛盾を抱えた、壊れたどうしようもない代物だが、欠点を飛び越えて巨大な感動を読者に齎してくれる。
 
 村の青年、新吉はある雨の日、傷ついた子蛇を拾い、手当てをしてやる。
 子蛇は人間の少女に姿を変え、新吉と愛し合うが、育ての親である継母の意向に逆らえず、村一番の金持ちの跡取り息子、次郎の元へ嫁ぐことになる。
 そこへ次郎を狙っていた悪女、あけみが姦計を廻らせ、花嫁衣裳の袖にこっそり蛇を仕込む。
 前近代的にも程があるこの村では、蛇は不吉のしるしとされており、蛇を発見された少女は散々罵倒され、叩き出される。金持ちになる夢を無惨に砕かれた継母も、親子の縁切りを宣言し、彼女は行き場を失い、沼に身を投げて死ぬ。

 奇妙な齟齬が発生しているのは、書き出しの時点でさが先生が深く設定を練り込んでいない為である。
 推測するに、新吉が子蛇を拾うドラマが一番最後に加えられたものだ。
 そのエピソードが語られるのは、物語がいきなり二十年後に飛躍する後半部になってから、しかも既に故人になっている新吉に代わって、台詞で説明するのは蛇女自身である。
 「正体が本物の蛇なのなら、蛇呼ばわりされても当然ではないのか?」
 誰もが思う疑問を他所に、蛇女は少年時代の新吉そっくりに成長した、新吉の息子に言い寄る。

 「あなたが許してくだされば、私たちは・・・。」
 「私たち二人だけの世界にゆけます。」
 「どんなに、その日を待っていたことか・・・。」


 そこへ、先に述べた和尚による法力攻撃が加えられ、崩れ落ちる蛇女。
 楳図かずおであれば、あるいは古賀新一であれば、つまりは男性作家であれば、ここで時空を越えたストーカー心理の化け物となった蛇女の顔を、ウロコ剥き出しの飛び切り醜い顔に描いて、精神の歪みを表象するショックシーンを演出してくれる筈だが、さが先生の姿勢は真逆を行く。
 
 取り出されるのは、新吉の遺骨を包んだ箱だ。

 「父の遺言なんです。」
 「遺骨を、あの沼に沈めてくれ、って・・・。」

 
 ありえざる復縁。愛の勝利。
 和尚もちょっと引いている。
 さが先生は全面的に蛇女のサイドに歩み寄り、物語は奇妙なラヴストーリーとして成就する。
 愛する者の遺骨と共に、沼へと消えて行く蛇女。
 
 「この世で許されぬことなら、きっとどこかの国にあると思うのです。」
 「ふたりだけで暮らしていける国が・・・・」

 新吉の息子が述解する。
 自分の母親の立場は完全に置いてけぼりであるが。そんな存在の薄い女など忘れちまえ。
 さが先生は全力で自己の主張を作品に塗り込め、幕を引く。
 かくして出来上がった作品は、恐怖マンガとしてはサッパリ怖くないのだが、不思議と感動できる、爽やかな名作となった。
 物語を締めくくるのは、童謡「月の沙漠」にインスパイアされたらしき、三日月の下で馬に揺られる和装の花嫁と、手づなを取る青年のシルエットだ。
 コマの周りに咲く、シンプルなお花畑。
 そう、愛はいつでもあの日のお花畑なのだよ。そして、モノローグ。

 「この広い宇宙のどこかに、
 許されぬ愛を持ったふたりが生きていける、
 そんな世界が、どこかにあってもいいのではないだろうか・・・。
 どこかに・・・・・・。」


 さが先生の言葉遣いはいつでも美しい。
 それは、後年手掛けるエロ漫画でも同じことなので、ぜひ確認してみて頂きたい。 

 

 「うわぁぁぁーーーッ、

 こりゃ、まるで言葉の宝石箱や!」
 (彦麻呂)

  

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2010年7月19日 (月)

『残酷の人獣』 ('59、リン=ロメロ・プロダクション)

 黒豹か・・・?おっさんか・・・?

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 あなたは、どちらの人生を選択するだろうか。
 どちらも、境目なく悲惨な現実が続くことには違いないのだが。

 誰もが子供心に一度は思っていただろうが、あの島に住むモロー博士は相当におせっかいな人物である。
 動物を人間に変化させるだって・・・?いったい、なんのために?
 
わからんのかね、愚かな諸君?
 進化の秘密を握ることにより、人は神の御業に近づくことができるのだ。種の起源を探り、その秘密を手に入れろ。
 さすれば、お前はハワード・ザ・ダックを作り出すことだって出来るだろう。
 (それが嬉しい発明かどうかは抜きにして、だ。)

 『残酷の人獣』はアメリカ=フィリピン合作の、実は結構、傑作の部類に入れられる映画。
 ドライブイン・シアターでヒットして、シリーズ化もされている。
 お話は単純で、例によって例の如く、進化の秘密を弄ぶ後先無視の無謀なサイエンティストがいて、妻と助手を連れて移り住んだ孤島で、豹を人間にする、というメリット皆無の研究をしている。
 そこへ乗ってたタンカーが爆発して漂着した男が現れ、彼含め5人しかいない主要登場人物の関係が非常にギスギスしていく。
 これだけ。
 そんな映画が果たして面白いのか?本当に?

 この映画の面白さは、無意識にだろうが、モロー博士の守備範囲を抜け出して、ルイス・ブニュエルの映画に偶然接近してしまっている辺りにある。

 非常に丁寧な日常描写と、暗喩と直喩を駆使して描かれる登場人物の性的関係の放埓さ。
 博士の妻が、性的欲求不満に悶えるブロンドだというのは最早定番の設定であるし、内部のワイヤにより突き出た胸の尖り具合を強調するという、かの偉大な発明品ハリウッドブラを揺らして、カーテン陰の獣人に見せつけるように、太腿を撫で下ろし、吐息をつくオナニー・シーンまで披露してくれる。
 博士の助手はフィリピン人の美少女メイドを性的奴隷にしていて、豪雨の中、彼女の手を引いてジャングル小屋の物陰に消える具体的な売春描写まで存在する。
 この映画の単調な物語に緊張感とリアリティーを与えているのは、例えば、互いに惹かれ合い、遂に一線を越えてしまった難破船の男と博士の妻が、翌朝、朝食のテーブルで顔を合わせると、女は罪悪感に捉われ、すごく冷たい、などという場面だ。
 博士は、妻より研究が好きだ。
 そんな博士を妻はまだ好きなのだ。あぁ、面倒臭い。
 フィリピン人の少年の描写も微妙だ。冒頭付近、難破した男がベッドで目覚めると、手に摘んだばかりの花を幾本も握り締めた少年が近寄ってくる。見つめ合う少年と男。妙に長いワンカット。やおい描写?と思って観ていると、台詞で、その花が死んだ少年の母親の墓に供えられるものだと判明する。
 やがて、その母親は人獣に喰い殺され犠牲となったらしいことが解ってくるのだが、それにしても微妙な扱いの場面だ。映画の魔が入り込むほどに。

 モンスターのテイストは、ハマーのフランケンシュタイン物に似ている。(こちらは直接参考にしていると思われる。)
 クリストファー・リーが体当たりで痩せて長身の怪物を演じた、『フランケンシュタインの逆襲』('57)に、全身を覆う包帯といい、動きといい類似。
 映画のテンションを持続する為、その顔はクライマックス付近までまともに映ることがない。
 その理由は明らかだ。
 この怪物の造形、豹の精悍さからは程遠い、薄汚い浮浪者のおっさんにしか見えないからだ。
 全身はほぼ包帯に包まれているので、首から上の顔面しかハッキリ拝むことができないのだが、その部分の特殊メイクの出来が汚ならしい。獣毛の表現なんだろうが、体表が黒ずんで汚れて見えるのが致命的。口髭を表現したらしい、黒くて太い直毛が頬から何本も飛び出しているのも気持ち悪い。尖った短い耳がニュッと頭頂付近の位置から突き出しているのは、かろうじてキャラクター設定を思い出させてくれるのだが、全体の印象は、生活苦に疲弊した中高年の浮浪者が全身黒くなる奇病を患っている姿である。

 ジャック・ターナーの『キャットピープル』が敢えてやらなかったことを、わざわざやって見せてくれた野暮に敬意を表したい。

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2010年7月18日 (日)

7/17 ティム・バートンの画集を立ち読み

 映画監督の画集って、なんか好きなんですよ。
 (私は東京FMが出したフェリーニの画集を持ってる。)

 ティム・バートンのコンセプトスケッチは、それに近いんだが、背景が描いてあるやつが特にいい。
 「ヴィンセント」とか、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ね。
 背景は特に重要だ。
 それこそがすべてである、と思い込んでみる。

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2010年7月17日 (土)

リジー・メルシェ・デクルー『プレス・カラー』 ('79、ZEレコーズ)

 このアルバム、本編は別に面白くはない。

 悪い出来ではないが、特筆すべき秀逸さは持っていない。「『スパイ大作戦』のテーマをカバーしてましたよね?」と訊かれれば、あぁ、そうでしたね、という程度だ。

 私は、アルバムの内容より、ライナーに載っている河添剛の文章の方が面白かった。
 これは特筆すべきことだ。

 「たぶん私は、このアルバムを7000回くらい聴いたと思う。」
 と、河添氏は述べている。
 これだけでもとんでもないが、事態はさらに深刻だ。
 「就寝中に見る夢の中でさえ私は彼女の声を聞きたがっており、その欲望は私における倦怠の永遠の不在を意味している。」
 あぁ、後半、なんだか意味が汲みにくいが、要は「厭きることが決してない」ということだ。
 「『プレス・カラー』は大好きだ、なぜなら大好きなアルバムが『プレス・カラー』だからだ、と述べる愚かしさだけが、私に許されたことのすべてであるかのように感じられていたからである。」
 なんか、もう、凄いことになっているのだ。

 取り憑かれている、と言い切ってもいいのではないか。

 興味深いのは、河添氏をここまで追い込んだ出会いのきっかけが、「ジャケ買い」だったという事実である。
 『プレス・カラー』のジャケットは、モノクロで撮られた刈り上げのフランス人女性のポートレイトだ。小柄で、小生意気そうな横顔を写したシンプルなものである。
 「それを初めて目にした1979年暮れに、私はただちに恋に落ちた。ジャケットのリジーは、私が「ヒヤシンス」というあだ名で呼んでいて、つまらない事情からじきに会うことがなくなる、可愛らしくて、優しくて、ロマンティックな当時のガールフレンドと瓜二つなのだった(そんな気がしたのだ!)。」
 
 非常に興味深い言及である。
 「土曜、空いてる、ヒヤシンス?」
  とか、
 「それで、ヒヤシンス的には、どうなの?そこんとこ?」
 といったアホな会話が繰り広げられていたということか。ご苦労さま。

 それはそれで「アリ」だとして、顔から入って声へのフェチに到る。これって、アレに似てないか、“史上初のボーカロイド”初音ミクに?

 (と思って、検索し、初音の楽曲を聴いてみる。話題になっているのは知っていても、実際に声聴いたことないズボラな人って結構いるんじゃないの?例えば、私だ。)

 ・・・似てないなぁー。
 まぁ、しょせんメカのやることだからなぁー。
 妙にキンキン声なんだな、初音って。
【原註】・・・という、ぬるい感想を書き綴ったところ、DTPミュージックに詳しい知人Yさんよりお叱りを受けた。操作性に優れていて低価格で、人声に近いものをシュミレートできるという点で、これは革新的なソフトである、との見解だ。DX7の備えていた人声のサンプル音源を比較してみれば、確かにえらい進歩を遂げている。なるほど。確かに偏見は良くない。諸君も改めるように。
 
 もっとわかりやすい例えを探すと、私の世代では、松田聖子『パイナップル』か。パフュームでもいいや。知らないけど。
 対象がなんであれ、アイドルポップ的に受容するということ。
 その執着というのは明らかに性的な嗜好を含んでいるのだが、おそらくそれだけではないのだ。ロマンチックな感情のうねりや、暗黒、美しいものや(第三者には)厳しいものが渦巻く混沌領域。
 
 「身体の中から湧き起こる、抑えきれない、反復される愛の表明のこの激発」

 河添氏の文章が、ちょっと面白いと思うのは、明らかに大げさだからだ。
 そして、常に上段から振りかぶる投球姿勢というのは、重要である。
 熱意なくして、なんの文章か?
 だが、ライナーノーツとしては、残念ながら赤点である。 
 
 「たとえば私はまだ、『プレス・カラー』が1979年当時のニューヨークのディスコ、パンク、「ソー・ウェイヴ」状況を要約する貴重なドキュメントあることをまったく口にはしていない(そんな話をしてもつまらないと思うからだが)。」

 そういえば、私も、そうだった。

 

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2010年7月15日 (木)

ユニコーン『ケダモノの嵐』 ('90、ソニー・ミュージック・エンターティメント)

 無限に広がるアメリカ野球界。

 メジャーリーグを代表する球団、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地、ヤンキー・スタジアム。その地下秘密練習場に、その男は立っていた。
 銀色に輝く宇宙服に、特殊グラファイト製のヘルメット。1Gの重力下では、背負った呼吸装置の重みが、一層肩に食い込む。
 吐きそうだ。

 「ヒューストン、ヒューストン。聞えるか?
 こちら、D。」


 『こちら、ヒューストン。
 ようやく、Jポップ墓堀りのコーナーが再開できて嬉しいよ。
 岡村ちゃんのアルバムを聴いていたら、気に入って、そればかり聴いているうち時間が過ぎてしまった。
 今回は、これぞJポップの本命!ユニコーンの巻です。』

 「・・・それよか、なぜ、俺が此処にいるのか、教えろ。」

 『私の考えるところでは、ユニコーンって、変化球に見えて実は直球なんですよ。
 そこを誤解して、過剰に評価してる人って、結構多いと思う。』

 金属バットが球を弾く、景気のいい音がこだました。
 ドッ、と湧き上がる観客の歓声が巨大スタジアムを揺るがす。

 「いや、そうじゃなくて・・・・・・。」

 『要するに、ロックバンド的なカタルシスがちゃんとあって、適当そうに見える箇所が、それに対するフックとして、実は活かされる構造になっている。
 狙うのは、知能犯とやっつけ仕事の中間ラインね。
 さんざん仕事して、結局、“知能犯ですね”の一言で片付けられちゃったら、ゲームセットな訳ですよ。
 運が良ければ音楽家としては認められるかも知れないが、それはもう、ロックじゃない。
 ロックというのは、ちゃんとしてちゃダメなんですよ。
 
これは、伝統的な音楽のスキームからは絶対に出て来ない、違和感バリバリの異端児なんです。』

 チアガールの威勢のいい掛け声が、彼方から聞えてきた。
 幾本ものビールの栓が抜かれる音が、無数のクラッカーがはじけ飛ぶ音がする。
 
 「こちら、D。
 で?!・・・この状況下で、俺にどうしろと云うんだ?」

 『そうそう、『服部』が出た時点でね、あぁ先を越されちゃった、悔しい、という人間は相当数いたんじゃないかと思うんですよ。
 日本語の扱いかたとしてね。
 伝統的なロックのリフに、“男は、服部”と載せた時点で、勝利は確定した。
 面白い、というか目新しかったのは、一見ギャグやてらいに見えるそれが、ギリギリ狙いのストレートだったところなんです。
 それ以前にも、自虐やヤケクソでそれやってた人はいたんですよ。
 でも、継続的にマスの支持を取り付けることに成功したのは、このバンドが初めてだったんじゃないかな。
 バンドブームの幕開きですよ。』

 突然、ピッチングマシーンが唸りを上げ、剛速球が飛んできた。

 「・・・うわッ!!!」

 『打てよ、D・・・!!打ち返せ!!
 俺はどんな球でも打てる、って云ったじゃないか!!』


 「云ってねぇよ!!!」

 白い魔球は連続して、どんどん飛んで来る。
 なす術のないDは、ボコボコに当てられ、情けない悲鳴をあげた。

 「ヘィ、ユー!!まだ、わからないのかネ?!」

 小柄な、胡麻塩あたまの老人がベンチを飛び出し、ファームにやって来た。

 「この世に変化球なんてモンはないんだ。
 実は、全部、直球なんだぞ!!」


 「・・・そんな、オチかよ!!!」

 Dは、血塗れの歯を吐き出し、悪態をついた。

 

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2010年7月14日 (水)

朝倉世界一『デボネア・ドライブ②』 ('09、エンターブレイン)

 いやー、やっぱり面白ぇなぁー。

 感心しちゃうなぁー。
 でも、正直、導入部はどうかな、と思ったんですよ。二巻。
 朝倉先生は、ストーリーの風通しを良くするため、わざと細部まで考えない状態でネタを振ってる節があって、ま、そこがいいんですけどね。
 高級そうな言いかたをすると“偶然性の導入”、またの名を“行きあたりバッタリ”っつてですね、作者にもこの先どうなるかわからないんだから、読者はもっとわからんだろう、という(笑)。  
 もちろん、意図してやってるんですよ。
 作者本人も、会長が幽体離脱してどうなるか?なんて深く考えてなかったと思いますよ。
 さらに加えて、追跡してくる謎のふたり組の正体やら、さらに迫り来る、逃げ水の如きクラゲの大群とか、いろいろ面倒なものが絡んじゃってね。
 だから、最後に、死神が会長の肩をポンと押したときは、作者も読者も、なんかホッとしたんですよ。
 だから、道路の真ん中を去って行く死神の後ろすがたには、なんか知れん、寂しさと解放、滑稽さがあるわけですよ。
 いいよなぁー。

 でもね、行き当たりばったりそうに見えても、一方でエチゼンくんがクラゲ拳の継承者だとかね。
 マリちゃんが実は泥棒だとか、そういうキャラ設定(というか、お話)は事前に用意してあったんだろうな、と。さすがに。
 ただし、その設定をどう本筋にからめるか(あるいは、からめないか)は、細かく段どってないんだなー。
 その突き放し加減が、ちょうどいい温度をストーリーに与えてる。
 あたたかく、可愛い造形に目がいきがちだけど、朝倉先生、キャラクターの扱いは結構クールなんですよ。
 だいたい、みんな酷い目にあいますし。
 単純ないい話にしないあたりは、さすがだなと。

 それでいくと、第十七話がすごい。
 死神が去って、話が一段落した直後に入る傑作エピソードです。
 小名浜フラガールズの話ね。これは、もう、展開のさせかたかたからオチまで、とんでもなく、うまいです。
 (中途に突然入る、追跡者ふたり組のカットもすごいかっこいい。)
 ともかく、サイレントで閉められる、最終ページをよく見てください。
 あたしゃ、恥ずかしながら、号泣しましたよ。このさりげなさに。

 マンガは、やっぱり絵なんですよ。
 それを忘れちゃイヤですよ。

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2010年7月11日 (日)

岸本斉史『NARUTO~ナルト~』巻二十六 ('05、ジャンプコミックス)

 先駆者は常に模倣され、物語は肥大する。

 捉えるべき対象は既に膨大すぎて、一個人が読み解くには困難だ。だから、ガイドブックのたぐいが流行るのだろうが、逆説として申し上げるが、このマンガはすごくない。
 それほどには。
 まったく。いや、全然。
 にも関わらず、物語は続いているのだ。そこに読者がいる限り。なにか秘密がある筈だ。
 われわれは大いなる惰性と習慣の生き物であるが、なんの理由もなく読み続けていったりはしない。おそらく、その秘密は巧妙に隠されているのだ。鍵のかかる宝箱に、洞窟奥深く埋められて。それがジャンプ神話と呼ばれる構造だ。
 専属契約として知られる詭計。
 そこにしか存在しない作家たち。

 あなたは、『ワンピース』や『ナルト』の作者名を正確に答えられるだろうか?
 そうか、ならば『デスノート』の二人の作者名はどうかね?ふむふむ。
 そこで、解析の為の方法論の呈示だが、「断片にすべてがある」と信じてみるのはどうか。どんな大河巨編であろうと、一冊のマンガはあくまで一冊だ。

    ※      ※      ※      ※       ※

 「・・・なんか、難しいですねー。」
 二十代の好青年、スズキくんは微笑みながら云う。「要するに、ジャンプコミックを一冊拾ってきて、感想を書きますよ、ってことですね?」
 古本屋のおやじは、気難しげに腕組みする。
 「うん、きっかけはアニメの『ナルト』の戦闘場面ダイジェストをYouTubeで視聴したことですよ。難解すぎて、なにかの実験アニメかと思った。
 それで興味を持って、適当な単行本一冊105円で入手してきたんだ。これだ。」

 机の上に転がされたのは、いかにもアニメ的なポーズで、炎の中から怒りにまかせて立ち上がる主人公の姿がある。

 「この少年の名前がナルトだってのは、いかな私でも解る。
 でも、コイツの職業はなんなんだ?忍(しのび)でいいの?しかも学生?忍術学校一年生?
 舞台は現実世界とは異なる時空間だよな、これは完全に?
 でもなんか微妙にバタ臭いんだ。城とか、殿とか、忍者の必須アイテムは出てこなそうな雰囲気。あ、でも、姫だけは出てそう。
 そもそも、チャクラ・コントロールってなに(笑)?なんだその適当かつイージーなネーミングセンスは?真剣に考えた上での結論なのか?」

 「エヴァゲリ以降、設定でなんとかしようって話が増えましたね。」

 「いくら尤もらしい用語を並べ立てても、説明は単なる説明でしかない。
 だいたい、世界観って言葉の使用方法を、根本から完全に間違ってるぞ、お前ら全員!!バカもんが!!廊下に立ってろ!!」


 「まぁ、まぁ(笑)。」

 「それにしても、かつて『忍空』ってのがジャンプにあった筈だが、常に連載の中に“忍者枠”ってのがあるってことなのか?
 ってことは、もしかして流行ってるのか、忍術?忍術ブーム?ケムマキ?」

 「さぁ、ボクからはなんとも。」
 スズキくんは困ったように頭を掻いた。
 「ただ、ひとつ云えるのは、2010年現在の時点でジャンプの人気No.1はナルトじゃないか、という推測ですね。これは、毎週買ってるボクの実感です。」

 「散々文句を云っといてなんだが、この二十六巻、まぁ、解るんjだよどんな話だか。
 こちとら、無駄にマンガ読みのキャリアだけはある方なんだ。
 ナルトと幼馴染みのサスケが対決する。
 なんでかっつーと、サスケの兄の謀略で、さらに強い力を手に入れたければ、親友を殺せ!っつーことなんだね。
 どういう理屈か、サッパリ意味はわからんが(笑)。
 で、このふたりの対決は、鳥山明『ドラゴンボール』が描いた放物線の軌跡の中にある。
 すなわち、天地を揺るがす、派手な殴り合いだね。
 その過程でお互い、なにか憑依しているらしき描写が出てくる。」

 「実はアニメ版を先に見て、そこに興味を惹かれたんだよ、私は。
 アニメじゃ、ニセナルトみたいな奴と戦ってて、追い詰められたナルトが『もののけ姫』のタタリ神みたいになるんだ。」

 「あぁ。あれ、マンマですよね、いいのか(笑)?」

 「モサモサ、モサーッって変形してね。高速で不定形の奴が襲ってくる。で、その過程の台詞で判明するんだが、ナルトには九尾の狐が取り憑いているらしい。」

 「史上初、狐憑きのヒーロー(笑)」

 「自力で敵を倒す訳じゃないのが、新しい。アニメではそのブニョブニョの溶けた人体みたいな姿が、牛骨みたいなのを纏って、あ、このデザイン知ってる!って思った。」

 「ふむ、ふむ。」

 「で、マンガ読んだら、サスケの兄の名前がイタチだろ?
 で、サスケがもう一段階変身して、眼球真っ黒になった姿を見たら、作者は確信犯的にリスペクトを捧げているのが解った。
 こりゃ完全に松本大洋『鉄コン筋クリート』じゃんか!!」

 「ん・・・その通りですね。わかってて、あえて変形させずストレートにオマージュしてますね。」

 「二順目だな。そこで、私の口から出てきたのは以下の言葉だったって訳だ。

 先駆者は常に模倣され、物語は肥大する。」

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2010年7月10日 (土)

『惑星大戦争』 ('77、東宝)

 俄かに信じがたい事実だが、金星は消滅した。

 池部良の開発した新型爆弾、宇宙の構成元素エーテル(!)を破壊する謎の兵器により、敵、銀河帝国の侵略軍と共に宇宙の藻屑と散ったのだった。
 われわれは、あっけにとられて見守った。
 これには、一体どういう意味が隠されているのか?
 敵の宇宙母艦を破壊するだけで話は完全に尽いた筈だった。
 百歩譲って、爆発に刺激され地殻変動が起きました、一帯の火山活動が活発になって、金星の大陸の一部が大爆発を起こしました。
 まぁ、これはいい。
 ここまでなら理解できる。よくある話だ。
 しかし、事態はそこからエスカレートし、森田健作を乗せた宇宙艦が遠ざかる、その背後の金星を必要以上に長く映している。
 巨大な火柱が幾筋も走り、われわれが嫌な疑念を感じた瞬間、金星は跡形もなく吹っ飛んだのだった。
 
 誰もがあっけにとられ、爆笑した。
 
 天体の運行は複雑だ。惑星一個分の質量が消滅するだけでも、太陽系にどのような影響が出ることか。
 さらに云えば、物語上でそんな必要がどこにあったのか。
 まさかとは思うが、映画のクライマックスを派手にするだけの為に、惑星一個を吹き飛ばす暴虐が許されていいものか。

 「スターウォーズから学ぶべきものは何もなかった。」
 かつて田中友幸はそう言い切ったそうだ。活動屋のハッタリとして、傾聴に値する発言である。今でもそういう人種は我が国の映画業界に跋扈し、映画を作り続けているらしい。
 それにしても、『スターウォーズ』を無視して『宇宙戦艦ヤマト』に教えを乞うていても世話はないと思うが。
 (これ、実写版『ヤマト』だよ。隊員の服とか、戦闘機、煙突ミサイルとかやりすぎ。ストーリーの着想自体が「地球の危機を救うのは、超兵器の宇宙戦艦ただ一隻!」って、まんまだもんなぁー。)

 この映画は、全米を席巻した『スターウォーズ』が日本に公開されるまでに一年以上のブランクがあった不可解な事態に着目し、東宝が全力ででっち上げたものとして識者に知られている。製作期間実質二ヶ月(!)。
 宇宙船内のセットの一部や、沖雅也たちが着用する、ボーマン船長(『2001年宇宙の旅』)のやつを簡略化したようなオレンジの宇宙服など、後に田中が製作する問題作『さよなら、ジュピター』へと繋がっていく要素が既に見受けられる。

 この作品独自のものを探すなら、おそらく『バーバレラ』を脈絡無視して手本にしたのだろう、浅野ゆう子の黒いボンデージ姿宇宙で、太腿丸出し。まさに神秘の世界だ。
 
問題なのは、先輩バーバレラすら悩殺コスチュームでもヒールは履いていたのに、浅野は敵基地内部で完全にはだしだ、という事実である。
 これ、物凄く頭悪い感じがして、浅野のダッチワイフみたいな美貌と相俟って、『ブルーベルベット』で精神崩壊したイザベル・ロッセリーニが全裸で家の前で待ってるシーンを髣髴とさせる、嫌なサムシングを醸し出すことに成功している。ここだけ素晴らしい演出である。監督福田純、まったく意識していないだろうが。

 大作SF映画の時代は着実に迫り、世代交代の足音が聞え始めていた。

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2010年7月 7日 (水)

飴村行『粘膜兄弟』 ('10、角川ホラー文庫)

 (昼間のAMラジオ。ジングル流れる。)

 NA『ウンベルケナシの撲殺天国』。この番組は撲殺社の提供でお送りします! 

 「や、や、師匠。どうも。」

 「なに、これ?ブックレビューのコーナーじゃん。」

 「そうなんですよ、毎週気に入った本を取り上げて、適当な感想を言い合う、という。
 師匠は何気に、活字がお好きな方ですんで、“猟奇バカ”ジャンルから最近出た本を一冊、持って参りました。」

 「へぇー、角川ホラーって、まだあったんだねぇー。」

 「これなかなか面白いですよ、飴村行の『粘膜』シリーズ。」

 「知らない。だれ、それ?」

 「何回目かの日本ホラー大賞で、長編賞を獲って出てきた人なんですがね。猟奇って、なんか、こう偉そうな高級感あるじゃないですか。アメ車みたいな、無駄な重厚感。
 そういうの、皆無なんですよ。
 物凄く頭悪い感じが売りで、マンガみたい。」


 「それ、褒めてるの?」

 「はァ、一応。
 いまどきの無臭な感じの書店の軒先で、『粘膜人間』ってタイトル見たら、思わず手が出てしまいませんか?
 そういう奇特な皆さんがたまたま捕獲されて読者になってしまった、というね。
 シリーズ一作目ではまだギャグ指向が全開になっていないんで、パッと見、残虐ホラーのようにも受け取れます。
 が、二作目『粘膜蜥蜴』がオチも含めて開き直った大馬鹿小説だったんで、みんな喜んだ。あげく、日本推理小説協会賞まで獲得してしまったという。」

 「ふーーーん。どんな話なの?」

 「舞台は、戦争している架空の日本です。
 でも、架空歴史物みたいな設定や解説がまったく省かれていて、作者の興味がそこにないことは明白です。
 これは褒め言葉ですが、戦時下のガジェットやタームを持ち出してきても思想性が全然感じられない。
 勝手に風呂敷を広げられるように、そういう設定を持ち出してるとしか思えない。
 『粘膜蜥蜴』は中盤、舞台が南方の架空の国に移りますが、蜥蜴人類が徘徊してるような、いい加減なジャングルです。巨大ミミズとか、食人昆虫だとか、太田蛍一『人外魔境』のジャケット画みたいな感じの、うそ臭い世界。
 でも極端な造形の飛躍とか、残虐の大暴走はなくて、誰でも楽しく読めるところが実は人気の秘訣じゃないかと思われます。」

 「中庸の美学ですか。重要だね、それは。」

 「あと、師匠にお勧めしたいこの作家の特性として、下半身の欲求重視というのがありまして。」

 「おぉ。」

 「第一作のオープニングからして、河童に会いたい為(!)に、中学生の男の子が浮浪者のおっさんのズリセンを手伝ってやる破目になる、という公俗紊乱スレスレのくだらない描写から入るんですが・・・。」

 「そりゃバッドな、トラウマ体験だねー。」

 「一作目も、二作目も、この最新作も、話の流れに一貫性はなくて、どれから読んでも別に問題はないんですが、主人公がどれも同情の余地のない大馬鹿者揃いという共通性はあるかな。
 どいつも、こいつも、“やりてぇ!”って童貞中学生みたいな行動原理の持ち主ばかりです。」

 「そんなんで長編小説が成り立つもんなの?」

 「事態を悪い方に転がす能力には長けた作家だと思います。考えてないようで、意外とオチがあったりするんで、二作目の『粘膜蜥蜴』は好評だったんじゃないですかね。デタラメやってるようで、実はちゃんとエンターティナーだったりするという。
 平山夢明先生みたいだ、っていう評価もありましたが、この作者は狂気よりバカ寄りに才能を発揮するタイプだと思いますよ。
 ノッてた頃の筒井康隆みたいな感じもします。『ポルノ惑星のサルモネラ人間』とかね。
 夢野久作が好きなのは間違いないと思うんですが、あれもよく考えると、バカな話はとことんバカですからねー。
 ともかく、バカ好きにはお勧めです。」

 「このレビュー、結局褒めてるの?なんか、バカにしてるように聞えるけど・・・。」

 「この本は夢野久作版『ポリスアカデミー3・全員再特訓!』みたいな話です。どうです、素晴らしいでしょ?」

 「やっぱり、バカにしてる。」

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2010年7月 6日 (火)

古谷あきら『おやじバンザイ』 ('75、ひばり書房)

 「ん?なんですか、コレは?」

 二十代の好青年スズキくんは、一冊の古本を摘み上げた。
 血走った目でパソコン画面を覗いているおやじは、顔も上げず、「うぅむ、それか・・・。」 と、生返事だ。

 実際、それはあるまじき明るさを持った表紙だった。
 「ひばりのギャグ・コミック」と印字され、赤塚的な手描き文字で『おやじバンザイ』とタイトルが入っている。
 描かれているのは、赤鼻・無数の鼻毛に丸メガネで、すだれ頭に毛の一本生えたおやじのジャンプする姿だった。
 舞台は晴れた日の、家庭の縁側。
 空はもう全開に日本晴れで、庭の木々は鮮やかな緑に染まっている。
 スーツにかばんの通勤スタイルで、華麗に空中に舞い上がったおやじの股下を、大福盗んだ小僧が、はたきを持った姉に追われて全速力で駆け抜ける。

 王道の家族ギャグ。
 ・・・だが、この妙な違和感はなに?


 『サザエさん』の波平に、あるいはドリフのコントでの加藤茶に酷似した、トラディショナルな日本のおやじ。
 これはもう、記号的な表現といっていい、間違いなく足の臭そうなおやじだが・・・・・・。
 
 「あぁ・・・わかった!
 このおやじ、なんか妙にスタイル良すぎなんだ!
 でかいギャグ顔のくせに手足がへんに長いし、よく見りゃ顔にシワないし!」


 古本屋のおやじが口を挟む。

 「あぁ、その本ね。あまり、たいした内容じゃないが、まぁ、いいや。
 たまには、傾向の違うマンガの話もしないとバランス悪いだろう。

 ・・・ときにスズキくん、きみ、上田としこ、知っとるかネ?」

 「どっかの党の議員さんですかァー?」

 ポケーッと、アホづらで抜かすスズキくんの頬を、おやじは連続パンチを決めるポパイのように、ビンビン殴りつけた。
 スズキくんの顔がコントラバスの弦のように揺れ、ぶるぶる震え、ふいにもとに戻った。
 
 「おー、痛てぇ・・・!!
 見た目はマンガでも、痛みは本物とは、これ、いかに?!

 ・・・いきなり、ひどいじゃないですか。そんなに重要な人物なんですか?」

 「ウィ!シル・ヴ・プレ!」
 おやじは、胸に手を当て見得を切る。
 「上田先生は1917年生まれのハルピン育ち、惜しくも2008年お亡くなりになられたが、
 日本が生んだ女流マンガ家で、トップクラスに絵がうまいお方であーーーる。」

 「へぇ。それは、また。
 ちっとも知りませんでした。」

 「あれは90年代、アース出版局が旧いマンガの復刻をやってた頃だな。一峰大二『ナショナルキッド』なんかをゲラゲラ笑いながら読んでた私は、このとき上田先生の代表作『フイチンさん』に触れて、もう、驚愕しましたよ。
 パッと見て、書き込みの多い(=情報量の多い)絵ではないんだが、尋常でなく洗練されていて、ペンの流れが美しいんだ。
 コマの構成力も凄い。

 あきらかに凡百と一線を劃す、レベルの高さだった。」
 
 「そういや、虫プロコミックスからも何冊か出てましたね。」

 「特に60年代は多作で、いっぱい描いてるみたいだからね。ま、それは別の機会に取りあげることにして、今回は古谷あきら先生だ。
 つまり、この絵は、上田としこのエピゴーネンっぽいんだよ。」

 ちょっと読んで、スズキくんが顔を上げる。

 「うーーーん・・・こりゃ、また、微妙な出来だ。
 正直、ぬるいですね。」
 

 おやじ、うんうんと頷く。

 「田舎から、親戚の青年が上京してきます。お土産に、実家の農家で飼育しているにわとりの産みたてタマゴを持ってきた。
 こりゃいい、ってんでおやじ以下家族一同は、うでたまごにして、かぶりつきます。」

 「茹でる、と書いて“うでる”と読ませる。絶滅した日本語だね。」

 「ところが、ガキィン!!そいつは固い瀬戸物の抱かせタマゴだったんで、おやじ以下家族一同、歯を痛める、という顛末。
 あの、これ、どこが面白いんですか?」

 「養鶏場の出身以外の人には、抱かせたまごの存在自体が珍しいだろう。こいつは卵を産ませて取りあげたあと、メンドリにあてがうフェイクエッグでしょ。」

 「あの、これ、うんちくマンガじゃなくて、ギャグマンガなんですが・・・・・・。」

 「そ、そうだったのかッ!!ガビィィーーーン!!」

 
「わざとらしいですよ。
 この頃の読者って、本当にこれで大爆笑していたんですか?」
 
 「その答えは、たぶん付きで、Noだろ。
 ギャグマンガの技術革新は、もうこの時代、本格化している筈だ。例えば、山上たつひこ『がきデカ』の連載開始は'74年だな。」
 
 「大笑いしたい子は、そっちを読んでますね。」

 「だから、これはアレだよ。植田まさしとかさ、長谷川町子とか、そういうファミリー系の路線に連なる一作なんだよ。
 発表された当時から、既に古めかしいマンガだったんじゃないか。」

 「お笑いマンガの暗黒潮流ですね。」

 「なんか、マンガの歴史っていうと、流行もんばかりがクローズアップされる傾向があるけど、こういう地味でご家庭に密着したマンガは、なんか、戦争前から実はズーッと存在し続けてるんだよ。
 誰も大きく取りあげたりしないけどね。
 デフォルメも独特だし、笑いの質も特殊だし、こりゃ相当歪んだ世界じゃないかね?」
 
 「・・・もう少し、掘り下げてみます?」

 「うん、そういや、ひばりコミックスでは同傾向で、巨匠滝田ゆうの『カックン親父』というのが出ているんだよ。
   
 どう、カックンしてみる・・・?」

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2010年7月 3日 (土)

いばら美喜『恐怖の修学旅行』 ('85、リップウ・レモンコミックス)

 今夜も眠れないスリラーショック!!

 ここ数日、冷房病でダウンしていた私は、怪奇マンガなど読む気力もなく、だらだら暮らしを続けていたのであるが、お陰様で、普段から野犬の如きしぶとさを数少ない取り得とする人間としては、貴重な経験をすることができた。
 漂流生活から帰ったロビンソンのように、珍しい国を訪れたガリヴァーのように、今回はそれを報告させて頂きたい。
 といっても、これは闘病記ではないよ。
 体調の悪いときには、どの怪奇マンガを読むのが正しいか、というお話だ。
 うーむ、我ながら見事に一般性がないな。どうか、狭い世界の限定された諸君のみ、有事の際の参考にされたい。危機的状況は突然発生するものだ。それが9・11以降の常識だそうだ。

 熱が上がって初めて解ったことは、病人というのは、面倒なことは一切しなくなる生き物だということだった。
 寝て、起きて、またすぐ寝る。
 家の中にあるものを食べて、生活必要物資がなくなると、そのまま済まそうとする。
 (一日、マックスコーヒー2缶で生きていた日があったのには、驚いた。これは最近全国区になったが、最近までは一部地域でのみ流通していた、練乳が配合された異常な甘さの缶コーヒーである。)
 こういう朦朧とした精神状態の場合は、だらだらTVを流しっぱなしにするのがセオリーであるが、しかし、あいにくウチにはTVがなかったのだ。これは一体どうしたことか。
 無駄の削減だと威張ってはみたものの、そうか、こういう状態の時にはあるといいのだな。人間、幾つになっても勉強である。

 なにしろ、面倒なことが嫌なのだから、複雑な筋を持っている映画も小説もダメだ。理解できない。
 ストーリーやキャラクターを追う手続きが煩雑に感じられ、うんざりだ。
 音楽ならどうかというと、かつて遥か昔に実験してみた記憶があるのだが、高熱がある状態でロキシー・ミュージック『アヴァロン』を繰り返しかけてみた。(このアルバムでのアンディー・ニューマークのドラムは、人類が作り出した最も耳障りのいいサウンドのひとつである。)
 結果、私は『アヴァロン』が大嫌いになった。
 聴くといまだにあの時の不快感がプレイバックしてくる。パブロフ実験の見事な成果である。
 以来、私は熱があるときは音楽を聴かないをモットーにしている。

 残る選択肢は、雑誌。読み物。「イラストレーション」「映画秘宝」の各最新号、「ヴァンピレラ」日本版二号、コロコロコミックの歴史を俯瞰したインタビュー本『コロコロ爆伝』などをペラペラ読む。脳に負荷が掛かりそうになると、一時停止。
 やがて、病いも峠を越え、ふもとの村が見えてきた辺りで、私が手に取ったのは、いばら美喜先生の『恐怖の修学旅行』であった。

 いばら先生は、貸本期から活躍なさっているその世界の大御所で、端正かつシャープな描線、女性キャラの美しさで今日でも多くのファンを持つ方である。
 絵柄の系統として小島剛夕(『子連れ狼』)辺りを想定して貰ってよいのだが、ジャパネスクな繊細さを流線に籠める剛夕に比べると、いばら先生の方がよりドライでアメリカナイズ。ウェットな感情のつけ入る余地などまったく無い。
 西部のガンマンの汚れた皮ブーツの如く、ハードだ。
 代表作『悪魔の招待状』は、不条理かつハードコアな人体破壊描写が連続する、完璧に狂った作品である。
 AC/DC『バック・イン・ブラック』やモーターヘッド『エース・オブ・スペーズ』にも匹敵する男の偉業をマンガというかたちで成し遂げたこの稀有な作品は、CGモーフィング技術の発達した今こそ、ハリウッドにより完全映画化されるべきだと思う。
 (頭部が異常に膨らんで破裂するお兄ちゃんを実写で観たい!)

 『恐怖の修学旅行』は、この時期に発表された同傾向の佳作で、やすだたく『ミイラの呼ぶ夜』がカーペンター版『ハロウィン』への見事なアンサーだったが如く、80年代アメリカンホラーの潮流に対する日本からの責任ある回答と位置づけることができる。
 ま、『サイコ』『悪魔のいけにえ』テイストまで加味して狙ったやすだ先生に比べ、どの作品って具体的オマージュ対象が特定しにくいんだけどね。だいたい舞台が修学旅行だし。
 要は、バタくさい魅力に溢れた輸入ホラーテイストのマンガってことで、理解をお願いしますよ。

 修学旅行前日。
 笹山中学校3年B組は、担任(美女)の「枕投げ禁止」等の注意を受け、全員ワラワラ下校する。明日のイヴェントに備えて早帰りデー。相当のゆとり教育ぶりだ。
 男子、女子、固まりになってだらだら歩いて、途中の河原まで来ると、護岸コンクリートの穴に逃げ込む奇妙な黒い影を発見。
 何かの小動物だろうと思った生徒達は、穴に石を投げるわ、竹竿を突っ込むわ、悪質な集団いじめに走る。
 そこへ再び担任の先生(美女)登場。まだるっこしいキャラ名表記で申し訳ないが、この先生には最初から名前がついていないのだ。登場人物の99%が死亡する、極めて罹患率の高い凶悪な物語で、数少ない生存者の片われとなるにも関わらず。
 「あんた達、早く帰らなきゃダメじゃないの。」
 とか、適当な注意を受け、B組生徒達はまたワラワラ去っていく。
 誰もいなくなった河原に、一足遅れて忘れ物を取りに行っていた主人公めぐみと友人二名が到着。
 穴から出てきた、首に竹竿の刺さったフランケン風の大男と遭遇する。
 驚愕するめぐみに、「おまえの仲間にやられたんだ。」と話す怪人。ラサール石井がトーマス・ドルビーのメイクでトンプソン・ツインズに加入したような、異様な不細工顔である。
 「と・・・とにかく、救急車を!」
 と慌てる子供を軽く制止し、何食わぬ動作で喉もとに刺さった1.5mはある竹竿を、一気に引き抜く怪人。ちょっと血が出てるが、平然としている。
 「わたしは、大丈夫だ。心配しなくていいよ。」
 黒人風にニカッと笑って、再び穴の中の暗闇へ消える怪人。唖然として見送るめぐみ達。

 以上のプロローグが因果となって、3-Bの生徒は修学旅行先で魔界に引き込まれ、(めぐみ以外)全員無惨な最期を遂げることになる。
 理屈で考えてもさっぱりわからない、完璧に壊れ果てた設定だが、切れ味のいい絵柄でインパクトあるビジュアルを連続して叩きつける、早弾きギタリストのようないばら美喜先生(だから、私は勝手に“ミッキー・イバラ”と呼んでいる)の姿勢は、もはや、「考えるな!感じるんだ!」の境地に到達していて、異様にソリッド、かつ高速!ハイテンション!
 巻を捲る手が止まらず、あっという間に最終ページまで一気呵成に誘われてしまう。なにしろ、じっくり考えてる余裕はないんだもの。高速スラッシュメタルのような勢いだ。(新書版単行本、一冊10分切ると思う。)
 その間に登場する、華麗な人体破壊オンパレード!

 ・土中に埋まり、全身が木の根っこと化していく生徒3体。スニーカー着用の足に根が生えてきてるファーストヴァージョンから、下半身が完全に植物化している女生徒で繋いで、首以外すべて根っことなった生首少女で落す残虐ワザ。生首は、やがて木の実の如く変形し種子が発芽する。
 ・泥人間に襲撃され、泥濘に身を呑まれる少女。ちょっとアンヴィエント感あり。
 ・人間より巨大な鷹に捕獲され、洞窟内を連れ去られる少年。だから何?という拭いがたい不条理感は、しかし展開の速さにより、絶妙なフックと化す。これより、怒涛の早弾きパートに突入なのだ。
 ・魔界の住人二名による超絶バトル。金髪、スケスケネグリジェの美少女と、例の竹竿フランケン。口から太麺仕様の糸を吐き出し、人体をがんじがらめにする少女に対し、フランケンは律儀に手刀でスパスパ切断。悔しがる美少女、おのれの右の眼球をポロリと手のひらに落すと、空いた眼窩から盛大な火炎を全力放射。フランケンは瞬時に全身黒焦げに。
 ・骨になっても動けるフランケン、主人公めぐみと担任(美女)の手を引き、魔界から全速力で脱走。高速で飛びすぎる洞窟の壁!あまりのスピード、早弾きっぷりに、走りながらどんどん全身の骨が崩れてバラバラになっていく!
 ・やがて出口で追いついて勝ち誇る金髪美少女に対し、フランケン、右腕をひじから外してエイヤと投げつける!美少女の脳天を握り潰す強力なアイアンクロー、鉄の爪が決まった! 
 ・ご丁寧に、外れた右ひじを宙に動かすと、脳漿を潰された美少女は「ヒェーツ」と洞窟の天井に激突、血だるまで圧壊!同時に全精力を使い果たしたフランケンも諸行無常の風に吹かれて、灰になる。
 ・で、ようやく現世に戻れて「ホッ」(書き文字)とする生存者二名だったが、ひとクラスまるごと潰した責任問題からして、担任(美女)は絶対クビだろう。無惨なことだ。

 ・・・と、書き連ねてみて解ったが、クラス全滅は基本的に人体の植物化によって完了しているのだな。
 人体が切り刻まれるゴア指数は、『悪魔の招待状』や、以前取りあげた鬼城寺健の超傑作『呪われたテニスクラブ』の方が高いようである。
 って、まあ、それが解ってどうするレベルの問題だが。

 あぁ、いい加減長くなったから、このへんで適当な結論。

 体調が悪いときは、怪奇マンガなんか読むもんじゃないですよ。

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