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2010年6月

2010年6月29日 (火)

ザ・バンド『南十字星』 ('75、キャピトル・レコーズ)

 最近、個人的の音楽的な事情により凹んでいるので、ザ・バンドを聴く。
 本当は「Jポップ墓堀り」の資料も溜まっているのであるが、やる気がしない。音楽は自由気ままに流れて行くのが一番だそうだから、問題ないだろ。落ち込ませろ。

 ザ・バンドはロックの中でも不思議な音楽だ。
 ロックバンドが単純な足し算の方程式で出来ていないことを、改めて教えてくれる。 

 特にこの『南十字星』など、ロビー・ロバートソンがすべての作曲を手掛けているので、ソロアルバム的色彩が強くなる筈なのだが、そうならない。
 で、かくいう、このロビーという人物が史上最低の人格を持つ、鼻持ちならない捻くれ者であることは、ザ・バンドの解散ドキュメンタリー『ラスト・ワルツ』をご覧になった皆さんならきっとよくご存知だと思うが、彼が全面に出た筈の『南十字星』はあにはからんや、意外な傑作となった。
 アーシーで温かみのあるサウンド。それがザ・バンドのトレードマークだとすれば、ディラン色の濃い『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』や、実験色の強い詰め込みすぎのセカンド(大好きだが)に比べ、『南十字星』のサウンドメイクは異様に落ち着いて聴こえる。

 私が一番好きなのは、このアルバムの「ジュピター・ホロウ(邦題・ジュピターの谷)」なのだが、このウィットと温かみはどうだ。
 ガース・ハドソンの裏を取る、意外に込み入ったオルガンとシンセに自然体で乗っかって、リヴォン・ヘルムが、リチャード・マニュエルが心地よげに交互にボーカルを担当する。
 リック・ダンコのベースも嬉しげだし、じゃあ、問題人物ロビー・ロバートソンが何をしているかというと、なんとクラヴィネットだ。

 この人は、本当に人の輪に入るのが苦手なようだ。
 
 でも、でかい顔をしていたいのだ。自分が物凄く才能溢れる人物のように錯覚している。
 これは、かつてディランも陥った罠だが、きみはきみ自身が思うほど、たいしたことはやっちゃいないのだ。
 きみの周りの人たちのほうが、よほど輝いているよ。
 
 アンディ・パートリッジは、音楽をやる気が失せると、ザ・バンドとディランの『ベースメント・テープス(邦題・地下室)』をよく聴く、とかつてインタビューで云っていた。

 彼は、いまでもそれを聴いているのだろうか、と疑問に思う。

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2010年6月28日 (月)

CG③『ロード・オブ・ザ・リング』 ('01、ヘラルド)

 畜舎の裏庭は、今日も賑やかだ。

 「そもそも、これはどういう話だっけ?」と、片目のネズミが云う。
 「ホラ、首輪ってあるじゃん。」
 鼻をほじりながら、大きな豚が気だるげに答える。
 「滅びの首輪を、製造元に持ち込む話だよ。全員で苦情を言いに。で、そこの社長に“知るかーーーッ!”って怒られる。」
 アヒルが、ガアガア鳴いた。
 「面白い。面白い。そうそう。そんな感じ。
 滅びの首輪って、つけてると身の破滅に繋がる危険な存在。
 つまりは、調教グッズ!!」

 豚が続けた。
 「まず、小人がプロレスしているところから幕が開く。ハリウッドといえば、小人ですから!
 で、そこへジジイが出てきて、何か呪文を唱えると、ヤクザが数名現れて小人をボコボコにしようとするんだよ。」
 「え、でも、なんで?」
 「小人はジジイの闇金に多額の借金があるんだけど、最初から払う気なしで借りてるんだ。いっぱしのワルだネ。
 で、小人の情婦は返済の為にトルコで働いてるんだが、若いツバメが出来たんで、この際小人を置いて逃げちまおうと腹を固めてる。
 それで思いついたのが、競馬場襲撃だ。」

 ネズミが小首をかしげた。
 「・・・なんか、そんな話、前に他で観た記憶があるなぁー。」

 「闇金ジジイも話に乗ってきて、いよいよ作戦はスタート!
 世界各地からその道のプロが勢揃いしますよ。ルパンとか、ショーン・コネリーとか。あと、キアロスタミ。」
 「え?!そんな有名な人まで?」
 「5両で仕事を請け負います。」
 豚がゴロリ寝転び、腹を掻いた。
 「まったく、だらしねぇやつだな。盗っ人の風上にも置けねぇや。
 それで、そんな愉快な“旅の仲間”が集まって、それからどうなるの?」
 「まずは軍資金を稼ぎに、モンテカルロにあるエルフの館を目指そうということになる。」
 「エルフってなによ?」
 「車です。」ネズミが自信を持って答えた。「高級車。トヨペットみたいな。」
 「ふぅーーーん、そうかぁ?」
 大きな豚は懐疑的だ。
 「でも、小人が嫌がってカジノ到着前に逃亡しちゃうんだよ。首輪を持って。モナコで。性転換する、って
 で、残されたあとの連中は球場の外でひたすら二時間半、おろおろする。」
 アヒルは羽根をバタつかせ、興奮して喋る。
 「トヨペットを乗り逃げした小人は、地底の暗闇へ。そこで、土左衛門と出会う。
 土左衛門は地底のどぶ河に浮かんでもう四半世紀も生きてきたんだけど、いい加減生き続けることにもうんざりしてきている。
 そこへ、魔王の影が・・・。」

 豚が拍手した。
 「おっ、ようやく出たか、魔王。待ってた、魔王。
 で、魔王の影が、どうしたの?」
 「鮒をつかんで、立ちはだかる。」
 「物凄いピンチですな。つかめるか、つかめないかの瀬戸際というわけだ。」
 「土左衛門は死に、小人は魔王の手下にやはりボコられる。滅びの首輪は遂に悪の手に渡ってしまうのか・・・?」

 「おぉーーーっ。」と、豚が云った。
 「おぉーーーっ。」と、片目のネズミが云った。
 「にゃおぉーーーん。」と遠くで猫が鳴いた。
 
 なんだか卑猥な口笛が聞えてきた。

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ファブリス・ドゥ・ヴェルツ『変態村』 ('04、ベルギー)

 とある科学的理由により、この世界は記録的な女日照りに襲われる。

 山羊、犬、豚、流行歌手。永久に去っていった女性の代替物として、さまざまな対象が捕獲され性行為の祭壇に供される。
 生態学的バランスを失った世界が野蛮と狂気に走るのは、当然の成り行きである。
 映画は巧妙にシフトチェンジを幾度も繰り返しながら、『悪魔のいけにえ』の家族の食卓、『わらの犬』の襲撃シーン、『脱出』のレイプを俯瞰で見せていく。これが監督の考える地獄のイメージなのだろう。
 そういう意味では非常に素直な映画だ。先行者の悪意をそのまま受け継ごうという意志が感じられる。プロットを捻るのではなく、(死体を壁に隠すように)映画の筋書きの中に塗り込めること。
 但し、ここにはレザーフェイスやスーザン・ジョージはいないし、バート・レイノルズも出てこない。この華の無い感じが、ベルギーというヨーロッパの片田舎なのだろう。
 ワッフルとチョコくらいしか連想しないが、ひばり書房チックな底無し沼もあるようだ。ラスト近くのタルコフスキー的な霧に包まれた森の移動ショットはどうも頂けないが。
 原題は『磔刑』。主人公が割りと早い段階で磔になるので、先行きが怪しくなるが、その後は何もなかったかのように逃げていた。
 『手錠のままの脱獄』みたいに磔のまま逃げ回る映画だったら、見世物性は増したかも知れないが、やはり無理があるな。あの段階で主人公は死んでいて、以降は彼の幻想だという展開ではどうか。ジェス・フランコ的か。
 いずれにせよ、映画の方向性が見えなくなるエンタティメントというのは、いつの世でも有効なようだ。

 さしたる残虐描写がある訳でもないから、これはむしろテレビ向けだ。
 こういう訳のわからない悪意に満ちた映画が、平日の昼二時やなんかに素知らぬ顔でオンエアーされていると面白いのに、と思う。

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2010年6月25日 (金)

岡村靖幸『禁じられた生きがい』 ('95、EPIC/SONY RECORDS)

 いきなり、本コーナーへの諸君の期待を裏切って申し訳ないが、このアルバムは傑作である。
 
 岡村ちゃん。
 薬物での三度の逮捕歴を持つ男。
 お陰で過去のアルバムがなかなかリマスターされない、という因果な人生を送る、不遇の天才児。

 「あぁ、和製プリンスみたいな、あの人ね。」
 そうそう、その男である。
 「つかまった。」
 う、うるせぇ、お前までそれか。この、腐れアマ。
 だいたい、プリンス成分だけで、岡村ちゃんの何かを理解した気になるなよ。この男のメロディーの持つ親和性は尋常じゃないんだ。いいか・・・。
 「タイホ!」
 「タイホ!」
 「タイホ!」

 わかった、わかったよ。認めるよ。
 認めますってば。
 麻薬で捕まった人間の出したアルバムが、『禁じられた生きがい』ってのは明らかにまずい。
 反則です。ハ・ン・ソ・ク。それは間違いない。
 しかし、いつからお茶の間の皆さんは、芸術を裁く権限をお持ちなんだ?
 マルキ・ド・サドの昔からなぁ、作家と作品の値打ちというのは、それぞれ別個に論じられるべき性質のなぁ・・・。
 「キモい。オタク。ストーカー。」

 なぁにぃ、この低知能女、だいたい幾つだ、お前は?
 いい大人が、「キモい」とか抜かしてんじゃねぇーよ、コラ。こっち、来い。

 よし、猿轡を噛ましてやったぞ。
 よく聞けよ。
 だいたい、今回の記事を書くにあたって調べたら、岡村ちゃんが1965年生まれだと知って、俺は仰天したんだ。年上かよ。バカ、お前のことじゃねーよ。
 岡村さんだよ。
 サードアルバム『靖幸』が出た当時、だから'89年頃の話だが、岡村はNHKのFMラジオでDJをやっていてな、「ジョイフルポップ」な。(この題名も、今となっては皮肉に聞えるな。)
 まだ、ラジオを聴く習慣があった貧乏なオイラはな、そこで岡村ちゃんと知り合ったんだよ。
 ビートルズとか、スプリングスティーンとか、かけてたな。
 「こういうのは、余り聴いてないので、新鮮です。」
 なんて、構成台本の根本を狂わすようなことを云ってね。最高だろ。
 いろんな曲が流れてたが、やはり印象に残ったのは、そりゃ岡村ちゃん自身の楽曲だわな、さすがに。
 ありゃ印象に残るって。濃いもの。
 ま、ちなみにお前は化粧が濃すぎるんだけどな!

 例えば、「不良少女」って曲があるの。
 Aメロが、ビートルズの「エヴリィ・リトル・シング」って、あの、E.L.T.じゃない方(笑)の曲にクリソツ。
 あ、これ?パイオツ(笑)。
 でも、それが嫌味にならずに楽曲に溶け込んで、全然関係ないサビが全開になる。
 無理にパクったわけじゃなくて、自然に、鼻歌のように閃いたメロディーなんだってわかるの。
 岡村ちゃんはね、いつも歌う気まんまんで楽曲に臨むんだよ。
 常に、チャック全開だもの。
 そのナチュラルな姿勢がメロディーや歌詞の異常な心地よさを生むんだろうね。
 
 そうなんだよ、プリンスの影響うんぬんよりも、
 岡村ちゃんに関して、まず指摘しておくべき重要な第一ポイントは、だね。

 この男、異様にいいメロを書く能力に長けている。

 これに尽きるんだよ、コラ。バカ。聞いてんのか。
 俺の話が長いのは毎度のことなんだよ、社会的に広く認知されてるの。
 許可はとってる。
 「どこの?」
 訊くな、ボケ。東京特許許可局です。
 ホラ、ちゃんと云えたろ。
 俺ハ黒人天才、尊敬シロ!

 「キモ~~~~~~い。」

 あっ、いつの間に拘束を外しやがった、このヤロ。
 まだ、話は終わってないんだぞ。
 「勝手にすれば?」
 うるせぇ、『禁じられた生きがい』はなぁ、岡村ちゃんの五枚目のアルバムで、ある種の終着点のような作品だ。
 ここでは、もう日本語が日本語に聞えない。
 英語も含めて、独自の路線に捻じ曲がり、訛りまくっている。

 だいたい、一曲目「あばれ太鼓(インスト)」って、なに?
 (笑い声)
 お前が笑うな!他はともかく、お前に笑う権利は与えてやらない。ドゥユーアンダースタン、ミスター大平?
 ファンキーなかっこいいインストなんだが、このインストでも肝は、岡村ちゃんの声だ。サンプリングしてアクセントに使用。
 さっき、歌う気まんまん、って云ったろ。
 結局、インストでも歌っちゃってんだよ!インストじゃねぇじゃん!最高だろ。

 続く「青年十四歳」、それに「ターザンボーイ」なんか、もう、ね。
 凄いもんですよ。わけわからん。歌詞なんか普通に歌詞じゃない。イッちゃってます。
 このへん、もう無敵のできばえ。
 詳しくは聴いてみて。
 「やだ。」
 「ハゲ。」
 「オタク。」
 「キモ~~~イ。」


 ぬぁーに、コラ、きみとはもう、やっとられんわ!

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2010年6月23日 (水)

序文、Jポップ墓堀り宣言

 先日HMV渋谷店の閉鎖を聞いたときに、思ったのは「あぁ、来るべき時代が到来したのだな。」という感慨であった。
 ネット販売の急成長、携帯ダウンロードやiPodなどの普及に伴う視聴形態の変化などによる大型ショップの構造的不況はここ数年来囁かれていて、今更なにを慌てるという気も正直するのだけれど、渋谷系などと持て囃され、一時代を劃したものが終焉を迎えるというのは、なかなかに感慨深いものがある。

 翻って辺りを眺めれば、投げ売り同然に捌かれていく中古CDの群れ。
 一枚あたりの単価は、十年ものなら500円を切り、在庫過剰なものなら100円セールで放出される。
 日本のレコード業界が閉鎖的かつ不当に高い単価設定によって暴利を貪ってきた歴史は、レコードと共に歩んだ世代なら皆さんご存知の事実であるのだが、これにも終わりはあったのだ。
 松任谷由美の作り出すクソが二百万枚以上のセールスを記録する時代は、二度と来ない。
 このことは起こっている事態の喜ばしい側面であるが、しかし、それは同時に、そんな腐臭を放つ大ヒットの余禄のお陰で、とんだ頓珍漢や、社会適応能力に著しく欠けたお間抜けさんたちがアルバムを出し、全国的なプロモーションを展開できたという、奇跡的に幸運な時代の幕引きであることも忘れてはならない。

 友よ。
 愛しき人びとよ。
 私はつねづね、Jポップの動向を気にし、情報収集には心がけてきた。が、実際にちゃんと聴いたのは微々たるもの。
 音楽仲間に会うたびに、「なにか面白いの、ない?」と聞きまくり、そのくせまともに購入もせずに、相も変わらず洋楽ロック主体の生活を送ってきた者である。

 私はここにその人生を懺悔し、Jポップ墓堀り行為を宣言するものである。

 かつて出たばかりの頃、話題になって、でも聞きそびれていたもの、積極的に聞くのを避けたもの、うっかり取りこぼしてそのまま放置して十年以上が経過してしまったものなど、原則、賞味期限切れならなんでも聴いてみよう、と思う。
 終わってしまったものは、すべて歴史だ。
 歴史とは、評価されることによって、初めて過去のものとなるのだ。

 (以下次号)

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2010年6月21日 (月)

古賀新一『殺し屋カプセル』 ('79、秋田サンデーコミックス)

 夏至。
 

 赤塚不二夫のキャラ。
 それは、べし。

 ・・・という書き出しが閃いて、なんとなく始まってしまった今回の文章、私の熱意はさしたる理由もなく夏枯れ気味である。
 あぁ、だるい。
 こんなときには、マンガでも読んで寝ちまうのが一番だ。
 『とどろけ!一番』。
 いや、そういう暑苦しいのではなくて。
 テーマとか、内容とかなくて、奇妙で、怪奇なのがいい。
 バトルも、うんちくも願い下げだ。
 
 という訳で、古賀新一先生の『殺し屋カプセル』。
 
 これは、へんなマンガという以外に形容が見つからない、立派なへんなマンガである。
 ちなみに、掲載誌は『少年キング』だよ、スズキくん。
 あったよね、『キング』。
 わりと昔に、なくなっちゃいましたけどね。

 で、これが、どういうマンガかといいますとね、映画『ミクロの決死圏』を観た若き古賀先生がうっかり思いついちゃった、バカげたアイディア。
 「ミクロ化した殺し屋が入ったカプセルがある。」
 これだけ。
 本物のワンアイディア。
 コイツを飲み下すと、中で殺し屋が暴れ出し、飲んだ人間をあの世に送ってくれるというね。
 どんだけ、手が掛かってるんだ。
 そんな面倒な手間ひま掛けるより、別のもっと妥当な手段は幾らでもありそうじゃないか。
 この無駄な発想が素晴らしいよね。
 まさに、マンガだ。


 先生、この強引な設定をなんとか膨らませたくて、2話、3話で「風邪薬に化けた殺し屋カプセルを世界にばら撒き、陰謀を進める旧日本軍に酷似した秘密結社」まで作り出してるけど、やはり第一話『殺し屋カプセル 1号』のバカバカしさには敵わない。

 自殺願望の、貧乏な青年が主人公ですよ。
 もう、本当にうだつがあがらなくて、喰うに困って、夜道をたらたら歩いていると、チンピラの車にガキーーーンって、当てられちゃうんですよ。
 意外に親切なチンピラは、「おいよー、にーちゃん、病院行くか?」とか気遣ってくれるんですが、助手席の女が最低の人格の持ち主で、
 「あたしはお腹が空いてるのよ、早くレストラン連れてってよ。」チュッ、とかやるワケですよ。もう、最低ですよ。
 仕方ないので、チンピラも諦めて、
 「にーちゃん、これでもつけときな。」って、軟膏をくれるんですよ。あとは、“バハハーーーイ”って。
 いいでしょ、この展開?
 最高の出来だと思いますよ。

 で、青年はそのまま、軟膏塗りながらだらだら歩いて、自殺願望のある人に「殺し屋カプセル」を飲ませるレストランに辿り着く、ということで。
 
 あとの展開は、本当に大バカ。
 殺し屋が皮膚のしたを泳いでる(黒いウェットスーツ着用、ライフル型光線銃を装備)のを見つけて驚愕したりとか、
 途中で死ぬのが怖くなり、怪しいレストランのおやじにすがると、
 「これをお譲りしてもいいですが、高いですよー。」
 と、正義の殺し屋(白いウェットスーツ着用)の錠剤を勧められたりとか。

 最終的に、青年は内部で神経系統を破壊されて顔面崩壊に到り、自暴自棄になって、全身の開口部という開口部に泥を詰めまくって窒息死してしまうんですが、
 お陰で殺し屋も体内に取り残され、あえない最後を遂げるラストもナイス。
 まったく、無意味なセンスが光る。
  
 画調はアバウトになった楳図先生調で、展開はちょっと「ミステリーゾーン」っぽい感じでね。
 あながち恐怖マンガとも言い切れない、この微妙な狙い目は、諸星先生や藤子A先生なんかもやってる路線ですけど、いいですよね。
 ブラック、かつ奇妙な味。

 こういう、うだるような暑さで寝苦しい夜には、最適だと思うんだ
 ニャロメ。

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2010年6月20日 (日)

滝沢解/森村たつお『スーパー巨人』②('78、秋田書店)

 ある午後。偶然手にした一冊。
 新書サイズで、古書価格\315ナリ。

 そもそも、このマンガが一体何のジャンルに当て嵌まるのか。表紙や出版社などから必死に推測してみたが、さっぱり解らない。
 
店頭の書籍はきれいにビニールカバーが掛かり、内容はまったく窺い知れない。

 第二巻の表紙は、サンバイザーを被った学ランの少年が拳を握りしめている絵だ。前ボタン全開で、真っ赤な長袖シャツ(部活で選手が着用しているような)が覗いている。
 背後で怯えるヒロインは黒髪をなびかせ、これまた白線の入った真っ赤なジャージを上下に着ている。結構、可愛い。
 (本編を読むと、これは実はスキーウェアだと分かるのだが、この時点で区分はあいまいである。)
 少年チャンピオンコミックス。
 ジャンルは「冒険コミックス」。

 私の予想の本命は、「こりゃパニックブームに遅れて便乗したサバイバル物か?」であった。
 その時点で、脳裏には、不慮の事故により富士樹海に墜落したジャンボ機の残骸と、懸命に生き抜く少年少女の勇気と知恵のドラマが描かれていた。
 しかし・・・。
 
 「・・・“スーパー巨人”って、一体なんだろ?」

 私の浅墓な予想は、この重要なキーワードに解を与えることができなかった。
 かつて宇津井健の主演した和製スーパーマン映画、『スーパージャイアンツ』というのがあったが、まさか関係あるまい。(そういや、あれも一人のくせしてジャイアンツって、複数形だった。)
 これが「痛快野球マンガ」とでも銘打たれていれば、全然理解は簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。
 『リトル巨人くん』との関連については、さっさと忘れた方が賢明そうである。

 結局、私はその本を購入して内容を確かめてみるしかなかった。

 滝沢解は、ベテランの劇画原作者として結構有名な人で、ふくしま政美『女犯坊』、赤塚不二夫『狂犬トロツキー』やら川崎三枝子と組んだ諸作などで知られる。
 どの作品も頭のねじが千切れ飛びそうな、観念肥大気味の大変困った作風の方だ。
 作画の森村先生は、このシリーズが(運悪く)初の単行本だそうで、実に真面目そうな、実直一本槍のマンガ青年、といった好印象の方。その後の運命が案ぜられる。
 (と思って、軽くサーチしてみると、仏教系コミックスの著作が多数ヒットしてきた。職業マンガ家というのはたいへんなのだ。)

 さて『スーパー巨人』第二巻、第一ページから、主人公と少女は危機的状況に陥っているのだが、
 その場所が、まずありきたりでない。

 遠くにピラミッドが聳える謎の空間。
 地平まで埋め尽くす、無数のトーテムポール。


 細い三日月の明かりだけを頼りに、全速でチャリンコを漕ぐ主人公、本多工作。後部座席にはヒロイン、ユリッペを座らせ二人乗り。ちょっと羨ましいシチュエーション。
 だが、その姿に強力な違和感を感じる。なんだ、これは?
 補助輪だ。
 どうみても中学以上の本多の自転車には、超ビギナーの証、補助輪が二個、装着されているのだ。かっこわるすぎ。

 「見ろ、ユリッペ。」
 本多は諭すように云う。「この何千本と立ち並ぶ、トーテムポール一本一本になぁ、数十万石以上のトランジスター機能を持つ、マイコンの生命ともいうべきLSI。」
 「つまり、大規模集積回路がギッチリ組み込まれているんだーー!!」

 ・・・あぁ、なるほど。マイコンね。・・・え?!

 「そして、おれたちには聞えないアセンブラ語(コンピュータの言葉)で連絡を取り合っているんだーーー!!!」

 大変なことになっている。
 どうやら神経性譫妄の疑いがあるようだ。アセンブラー、完全に外国語扱いだし。
 
本多は、補助輪つき自転車の後部荷台を開けて、愛用のマイコン、ダンを取り出す。(マイコンに名前をつけている。それどころか、熱く呼びかけたりもする。)
 「頼んだぜ、ダン!スーパー巨人を倒すんだ!」

 こいつは早すぎた『トロン』('82)だ。だが、質感は異なる。
 あちらがソフトウェア内部の仮想空間バトルなら、このマンガはゴリゴリのハードウェア指向、巨大マザーボード上の肉弾戦なのだ。
 なんて男らしいんだ。
 初期のマイコンマンガはおそらく、すがやみつる『ゲームセンターあらし』が生み出した表現形式と同時代の関係を持っていて、あちらも順当にソフト上でのバトルというホビーマンガの変形として成立していったのに対し、『スーパー巨人』が選択したのは、現実世界を侵蝕するコンピュータという名の闇の勢力との具体的戦闘だったのだ。
 ユダヤ陰謀説に近い無謀さだが、善悪が非常に明確だ。
 
 主人公・本多は、家で組み立てたマイコンキットを支配しようとしようと企む謎の力の存在を知る。
 その存在は“スーパー巨人”と呼ばれ、正体は一切不明。
 あらゆる電気絡みのパワーを乗っ取り操る敵は、金属ゴキブリを繰り出して本多の家族に重症を負わせ、新幹線を事故らせるは、謎の力場を発生させスキージャンプの世界記録を塗り変えるは、やりたい放題。
 なかでも最高の作戦は、この二巻に収録されている、後楽園球場にメガトン爆弾を内蔵した自転車を放置し、東京都知事に要求を突きつける、というものだろう。
 自転車は、勝手に撤去しようとすると、光線を発射し、誰も近づけない。
 その要求の内容は、「いますぐ後楽園球場を取り壊し、巨大コンピュータセンターを建造しろ!」という理不尽極まるもの。
 
 非常に面白く読めるのは、仮想世界のバトルに終始するようになったサイバーパンク以降のコンピュータマンガとは異なる、別方向への進化の可能性がここに織り込まれているからだ。
 例えば、桜田吾作『釣りバカ大将』のようなテイストのPCコミック。
 LSIを手づかみで投げ合うような、原初的野蛮性。
 この本の中には、電源供給をスーパー巨人側の施設から得ようとすると、悪の電流にマイコンが乗っ取られる描写があるのだが、少しでも電気知識のある人間には絶対に描けない、度を越した科学的デタラメさが本当にショッキングだ。
 ネトゲ廃人という、現実にコンピュータに人格、生活を歪められた人間が存在している現代の情況を鑑みるなら、理屈はともかく、このマンガの過剰なコンピュータ嫌悪が有効な警告として機能する可能性は考えられないだろうか。

 ちなみに、この巻ではまだ、敵の正体は不明のままであり、特定の団体なのか、個人なのか一切が不明のままだ。
 気になって検索してみたら、「衛星軌道上に遺棄された人工衛星の集積体が意識を持った存在」という、平凡極まる結論が出て連載は終わったようである。

 そんなんじゃダメだ。
 敵は、ずっと遠くにいるんだから。

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2010年6月18日 (金)

五島慎太郎『少女が殺される②』('80、ひばり書房)

 巻を開くと、
いきなり全裸で寝台に大の字に拘束されている少女。


 そして響く、「エコエコエコ・・・」の妖しい呪文。
 (古賀新一の『エコエコアザラク』は'75年より連載開始である。すなわち、本書が発行された頃には、既に「エコ」は世界の合言葉になっていたと云えよう。)

 悪夢の黒ミサ。ドラクエのキャラとしてお馴染み、悪魔神官の手により、無惨にも少女の首は切断されてしまう。
 いきなり、サタンメタルの轟音演奏が鳴り響くような、血も凍る展開だ。ワクワクするね。
 それを合図に、遂に地上に姿を現す大悪魔アスタロト。

 ここでのアスタロトは、貧相な痩せたおやじだ。ザンバラ髪で、全裸。腕から何か粘液のようなものを垂らしているようだが、五島先生の描写力不足により、よく解らない。
 形状としては、水から上がった無職のやばいおっさんに酷似している。

 「違ァーーーーーう!!!」
 

 登場するなり、いきなりテンション全開で絶叫するアスタロト。怯える悪魔崇拝者たち。
 「よく見ろ!
 そいつはドロシーではない!小悪魔だ!!」
 
 少女の生首、見る見る、耳の尖った醜い顔に変身する。
 なるほど、似ても似つかない。この差異に気づかないとは、確かにこいつら、無能すぎる。
 管理責任者としての大悪魔の憤りも、確かに首肯されるところだ。
 
 小悪魔と入れ替わった少女は、イケメン風の男エディと森に逃走。
 どうやら、この舞台はどこだかわからないが、外国のようだ。例えば、多田由美が描くような外国らしい外国が、マンガの画面に登場する以前にあった夢の国。

 この物語は、奇妙だ。
 続きマンガの第二巻、完結篇であり、先の少女ヌードに続くページは、第一巻のあらすじであるのだが、上下三段組(うち一段はマンガのコマを抜き出し使用)でびっちり4ページもある。
 一冊中に、そんなに物語があったのか。
 だが、これはおそらくその通りだ。簡潔に語る美徳など学ぶ気がない、おそろしく説明の下手くそなこの文章の書き手は、ただでさえ面倒な、混乱したプロットを何とか短く要約する必要に迫られ、混乱を混乱としてそのまま語ってしまったのだ。
 
 僭越ながら、私が要約してみよう。

 アメリカの片田舎ボイド・クリーク。
 ドロシーは親友マリーを訪ねた。この町で、禁断の魔女集会が開かれ、大悪魔アスタロトが召喚されようとしているのだ。 
 マリーの下宿先、元女優のモーリンは悪魔の手先だった!
 狡猾な罠にはまり、生贄にされんとするドロシー。危機一髪!

 以上だ。
 こんな単純な話のどこが問題なのか?
 おそらく、事件が起こりすぎるのだ。必要以上に。

 モーリンの家の地下には悪魔に関する美術品が多数収蔵されている。
 町の中央には聖水の湧く泉(明らかな宗教的誤解がある。聖水は儀式により浄化された水、もしくは水源だ。)があるが、ある日、それが干上がってしまった。誰もが悪魔復活を囁く。
 魔女とそれを狩る魔女ハンターとの戦い。牧師。さらに、悪魔ばらい師(エクソシスト)。魔女に母を惨殺されたイケメン。
 マリーの女優デビューを祝う仮面舞踏会では、参加者全員が悪魔の仮装をつけて踊り狂う。なぜ?
 
 事件を羅列するばかりで、いっさいの意味づけを拒否する物語は、なんだかあれに似ている。ほら、小栗虫太郎『黒死舘殺人事件』に。
 どっかで聞いたような、どっかの映画で観たような、異様にデジャヴ感のある物語は、一切の感情移入を否定し、ただ繋がっていくだけの紙芝居的構造を持っていて、ある意味気持ちいい。
 誰が死のうが、誰が悪魔に憑依されようが、読者はただ「ほぅ・・・」という、距離を置いた感想を漏らすことしかできまい。
 
 水晶玉を覗き、ドロシーの逃亡を察知する魔女。(この魔女の描写は、漫★画太郎のババァに酷似している。)
 悪魔に取り憑かれ、巨大な鎌で人間を襲う村人。
 オビ=ワンとルーク・スカイウォーカーのような、エクソシストとその弟子。念動力で岩をも砕く。(凄い能力だが、エクソシズムと関係ない。)
 
この悪魔祓いの老大家は、碩学らしく、片目にモノクルを嵌めているが、その理由はつまびらかにされない。雰囲気だけだろう。
 羽根のある、痩せた労務者風の悪魔の大群が空を覆い隠す!少女は地面に倒され、間一髪となるが、手前に邪魔に描かれたクイが気になると思ったら、悪魔は期待通り、勝手に串刺しになってくたばるのであった。親切すぎる展開に拍手喝采だ。
 そして、悪魔が化けているのではないか、と警察にも疑われる町外れに住むお金持ち、ジャクソンさん。
 でも、一番怪しいのは、サリーちゃんのパパと同じ髪型をしているジャクソン家の執事スアトロ(どんな名前だ?あ、アナグラム・・・)だというのは、子供でも分かるだろう・・・。
 
 ただ続いていくだけの物語が面白いのか?

 その答えを知る意味でも、この本は入手する価値がある。
 とことん徹底して表面的であり続けるというのは、実は物凄く、高尚なことなのかも知れない。
 が、いっけん、大馬鹿だ。

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2010年6月16日 (水)

仲井戸麗市『I STAND ALONE』('09、EMIミュージックジャパン)

 火星周回軌道上に、宇宙船はあった。

 太陽系第四惑星、火星。
  かつて軍神と讃えられた星。だがその実体は、希薄な大気と乾ききった荒涼の大地。

 “火星地球化計画”<テラ・フォーミング・プロジェクト>とは、人類が生き延びるには余りに過酷な環境を改造し、植民可能な世界に作り変えようという遠大な計画であった。
 幾億の作業員を費やし、莫大な予算を投じ、永い歳月をかけて推し進められてきたプロジェクトは、今、完成への最終段階に差し掛かっていた。

 『・・・ヒューストンより、D。
 作戦開始まであと十分程だ。準備はいいか?』

 「こちら、D。」
 宇宙服の男が、コクピットから手を振る。
 「ヒューストン、感謝するぜ。連載開始以来、これが初のまともな任務だ。」

 『ヒューストンより、Dへ。まぁ、気にするな。
 どっかの宇宙ステーション勤務の連中ばかりに、でかい顔させる訳にはいかないからな!!・・・なぁ、野口?!
 それよか、磁力牽引装置の調子はどうだ?』
 
 分厚い手袋の両手がコンソールを這い回り、各所のモニタリング装置を連続でチェックに入った。
 宇宙船は衛星軌道に対し微妙な進入角をつけて周回している。
 本体下部に急遽取り付けられた磁場生成コアから、無数の力線放射アンテナが伸びており、複雑に絡み合う磁力線のフィールドは宇宙船の背後へ向かっている。

 宇宙船を起点とする磁場の網は、背後に数億トンに及ぶ巨大な氷塊を幾つも捉えていた!

 「・・・システム点検、異常なし。
 しかし、なんだなぁ・・・一体どこで見つけてきたんだよ、こんなでかい氷?」

 通信機から戻ってきた返答は、夢見るような響きを帯びていた。

 『かつて・・・まだ人類が誕生するより以前、地質年代で云えばそう、白亜紀の頃だ・・・。火星と木星の間には、ひとつの美しい惑星が存在していた・・・。』

 「まさか、それって・・・カタイン・・・?!」

 
『そう、カタインだ。火星で発見された古代王朝の記録は、その名前で伝えている・・・。』
 (注釈)参考文献、エドモンド・ハミルトン『時のロストワールド』(野田昌宏訳、ハヤカワ文庫SF)

 『しかし有史以前に起こった太陽系規模の大異変、連鎖する大地殻変動により、カタインは崩壊し宇宙の藻屑と消えてしまった。僅かな生き残りの人々は、衛星ユグラを宇宙船に改造して、遥かデネブの彼方へ新天地を求めて旅立っていったのだ・・・。』

 さすがのDも、息を呑んで尋ねた。

 「では・・・まさか、この氷の塊りが・・・?!」
 
 『そう、飛び散ったカタインの大洋の一部だよ。
 宇宙空間の絶対零度の中で、ずっと保存されてきた貴重な水源だ。
 カタインの破片の一部が木星に大赤班を形成し、残る大半が小惑星帯として火星と木星の間に漂っているのは、知っているだろう。
 その中には、かつて海を構成していた物質もあったのだ。
 この水が天から降り注ぎ、大いなる海洋を形成し、乾ききった火星の大地に再び緑をもたらすのだ!』

 「テラ・フォーミング計画か・・・。まさに人類の長年の夢だな・・・!!」

 『・・・うむ。カウントダウンまで、もう少し、時間があるようだ。
 ヒューストンより、Dへ。

 ・・・RCの悪口、云ってもいいか・・・?!』

 「エ?!・・・RCって・・・RCサクセション?!
 うわぁッ、そりゃ、やべぇ!!なにを言い出すんだ、お前は・・・?!こんな緊急時に心臓に悪いじゃないか。」

 『こちら、ヒューストン。
 私もそんな気はさらさら無かったんだが、つい出来心で、先日出たチャボの弾き語り二枚組を購入してしまったんだ。
 ライブハウスでの清志郎追悼公演で、RC時代のナンバーを連続で弾き語っている奴な。
 素晴らしい演奏内容だとは思うんだが、
 それはそれとして、こう、長時間聴いてるうちに、ムラムラと俺の精神内部に悪魔が忍び寄り・・・。』

 「うわッ!!やめろ!!コッチまで自爆に捲き込むんじゃない!!
 俺は、妻も家庭もある身だぞ!!
 こちとら、ちんちんはでかいが、気は小さいんだ!!!」

 『まぁ、いいじゃないか。気にするな。
 特攻精神、これ、ロックなり。内田裕也先生の言葉より。』

 「大嘘を平気で書くな!しかも、本当に云ってそうじゃないか!!」

 『このアルバム、いい曲揃いだと思う。
 アルバム全体を通して、コンセプトが明確で、トータルするとアコースティックブルースの質感が残るんだ。
 自分自身をバンドのメンバーとして紹介してしまう、お馴染みのオープニングナンバー「よぉーこそ」からして、大人目線の諧謔がバシバシ効いていてなぁー、やっぱりチャボは一味違うと感心しきりだ。』

 「おい、なんか絶賛しているように聞えるんだが・・・。」

 『こちら、ヒューストン。
 告白しておくが、セカンドソロ「絵」以来のチャボファンです。』

 「なんなんだ、お前は?!
 それじゃ一体、何の不満があるというんだ?!」
 
 『いや、チャボのすべてに諸手を挙げて賛成というワケでもないのだよ。われわれ、薄汚れた俗衆が想像する限界を遥かに越えて、チャボはピュアで純粋なアーチストなのだよ。
 実際、そこに感動もする訳だが・・・。

 例えば、このライブには清志郎追悼文的な文章の朗読が折り込まれて、ポエトリーリーディングの普及に積極的なチャボらしく、テクニックや脅かしは一切抜きで、さりげなく気取りなく感情に訴え掛けて来る、実にテンションの高い技を披露してくれるんだが・・・。
 やはり、キヨシは特別な存在なんだろうなぁー。
 ちょいと、オーバーフロー気味なんだよ。』
 
 「・・・キヨシロー。」

 『うわッ!!!』
 
 「・・・キヨシロー。」

 『ひぇぇぇー、お前が物真似するんじゃない。耳が腐るかと思ったぞ。』

 「Dより、ヒューストン。
 いまのはエンディングに収録されている、チャボの朗読の一番かなめの部分です。
 これは絶対必要な呼びかけの箇所なのだが、ここをどう受け止めるかで、あなたの人間としての器の大きさがわかる!
 ぜひ、一度お試しあれ・・・!!

 ・・・それよか、そろそろ、作戦開始の時間ですよ。
 頼むから、いい加減、カウントダウンを始めてくださいよ・・・。」

 かくて、ショックに心ここにあらずのヒューストンからの秒読みを受け、宇宙船の姿勢制御エンジンは全開で噴射を開始した。
 進行方向に対し、極端な仰角となる。一種の射撃体勢だ。
 巨大な氷塊を拘束していた磁場網がするすると解けて、火星の大気圏まで伸びる長いレールを形成して行く。
 磁気制御体を循環する電子は高速回転をかけられ、無限の密度にまで圧縮されていった。射出力場はスペクトル発光し、ありえない程の高温となって、いかなる物質をも融解する危険なフィールドが展開していった。

 『3・・・・・・2・・・・・・1・・・・・・ゼロ。』

 「ファイヤー!!!」

 磁気制御体はさらなる圧縮を続けながら、宇宙空間を漂う巨大な氷塊に衝突し、瞬間、閃光と共に爆発的な加速を生み出した。
 超高速で押し出された氷の塊りは、一直線に落下軌道を描いて、火星表面へ向かって墜落して行く。

 「・・・やった。成功だ。」

 『あぁ・・・火星に新しい時代が始まる。
 ひょっとしたら、われわれは創造主にも匹敵する大事業を成し遂げたのかも知れないな・・・。』


 -------それから、数週間後。

 墜落した氷塊の発生させた、濛々たる蒸気の霧が火星の大気圏を厚く取り巻いているのを、静止軌道上からジッと観察している男があった。
 定時連絡の通信が飛び込んで来る。

 『ヒューストンより、D。
 どうだ、まだ霧は晴れないのか・・・?!』

 「まぁ、あれだけの質量が激突したんだ、そうそう簡単に成果が確認できるもんでもないさ・・・・・・。
 ・・・・・・んん??」

 『どうした、D?なにか、見えたのか?』

 「いや・・・。しかし、なにか聞えるんだ・・・。」

 『聞える・・・?
 宇宙空間は真空なんだぞ。音声などの伝達には不向きなんだぞ。』

 「いくら俺でも、そのくらいの科学知識はあるわ!
 いや、そうじゃなくて、なんか、か細くもハッキリと、遥か遠方から聞えるんだ、ありがたいお声が・・・!!」

 そう、それは確かに念仏読経の声だった!

 「ん・・・これは、まさか?!・・・もしや・・・!!」

 火星表面を覆った分厚い蒸気の靄を透かして、見え隠れしているのは、確かに巨大な仏教寺院の甍の連なりであった!

 並ぶ黄金の仏像の微笑みは無限の仏の慈悲心を象徴し、天空には彩られた五色の雲、仏閣は十重二十重に高く聳え、幽玄なる楽の音と高僧達の有り難い読経の声が響いている。

 「こ、こいつは・・・。
 テラ・フォーミングのつもりが、寺フォーミングになっちまったぞ!!!」


 『ギャッフン!!』

 「でも、確かになにかに俺達は成功した気が・・・する。

 ええぃ・・・バンザーイ!!バンザーイ!!」

 『バンザーイ!!!バンザーーイ!!!』

 
  

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2010年6月13日 (日)

『原子力潜水艦(「原潜vsUFO海底大作戦」)』('58、ゴーハム・プロダクション)

 北極点一帯で捲き起こる、謎の海難事故。

 こう書いただけで勘のいい読者は、「あぁ、あのパターンか。」とお気づきだろうが、そう、沈没事件の背後には未知の存在が糸を引いていたのだった!
 これを有史以前の恐竜と仮定すれば『原子怪獣現る』になるし、地球に飛来した宇宙人の仕業とすれば、そう、この映画だ。
 ご退屈さま。
 そんな映画が果たして面白いのか。
 結論から申し上げれば、これが充分、面白い映画になっていたので、少々唸った。
 別に物凄い大傑作とか、埋もれた名作でもないのだが、これは“ちょっといい映画”だ。知らなくて別段損はしないが、知ってると少しだけ得をする。
 
 なにが良かったのか。
 振り返ってみるに、これはもう、くだらない内容だからと手を抜かずに、真面目に責務を果たしているから、としか云い様が無い。
 在り物のストックフィルムを使った、潜水艦の航行シーン。
 かなり、チャチなミニチュア。
 そんな素材を混ぜながら、プレイボーイな航海士を中心に、天才の親にコンプレックスを持つ息子、喧嘩っ早い副長、冷静沈着な艦長、気のいい機関士など、個々のキャラ立てをちゃんと見せて、ちゃんと人間ドラマを見せて行く。
 意外に出来のいいエイリアンの造形や、光線を浴びて溶かされる男の特殊メイクなど、盛り上げどころもちゃんとある。
 やればできるのだ。
 音を消して海底に潜みUFOを待ち受ける、とか、潜水艦モノの基本を理解してらっしゃる演出、脚本も心憎い仕上がり。

 宇宙人の行動がいろいろ腑に落ちなかったり、不備は確かにございますが、これだけやってくれりゃ娯楽映画として合格だ。
 
 諸君、もう一度繰り返す。
 やれば、できるのだ。信じろ。

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2010年6月12日 (土)

マイク・ミニョーラ/ダンカン・フェグレド『ヘルボーイ/百鬼夜行』 ('10、ダークホース)

 まず当て馬を出す。

 ジェラルド・ウェイとガブリエル・バーの『アンブレラ・アカデミー』だ。今年の四月に日本版が刊行されたばかり。
 まぁ、こいつに関してはいろいろと悪口は考え付く。マイ・ケミカル・ロマンスというバンドの陳腐さ。「纏まりの悪い“ウォッチメン”」という突っ込み。
 まぁ、プロット面の不備はさておいても、ガブリエル・バーの絵はどうなのか。これもマイク・ミニョーラの全面的な援用により成立しているのだが、これはどうだ。

 私が、ミニョーラ・スタイルを他人が描いたのを初めて見たのは、『ヘルボーイ』の「小箱いっぱいの邪悪」下巻、巻末に収められたロブスター・ジョンソンの短編だった。原作はもちろん、ミニョーラ本人で、この頃にはダークホース編集部で既にクローン増殖計画がGOになっていたのだとしか思えない。
 ロブスター・ジョンソンはザリガニの腕がトレードマークの私立探偵で、ドック・サヴェッジみたいなパルプヒーローへのオマージュキャラだ。ご丁寧にも、さらにこの短編では'58年のイギリス映画『顔のない悪魔』(傑作!)に惜しみないリスペクトを捧げており、つまりは脊髄を尻尾のように振り回し、触角と化した視神経をくねらせ、剥き出しの脳髄そのものが人間を襲って来るという、完璧に狂った人の妄想以外の何物でもない内容である。
 さらに原型の映画では、こいつらが人間を襲う理由がまた、他人の脳を奪うためだという、もう、なんだかまったくわからない凄まじい方向へ暴走しているのであるが、まぁ、そんなことはいい。絶対、唖然とすること請け合いだから、買って観てくれ。『顔のない悪魔』。傑作だ。
 さて、ロブスター・ジョンソンの短編を読んだ私の印象は、「ずいぶん、地味なミニョーラ」だった。ストーリー以外にもデザインや設定で、全面的にミニョーラ本人がバックアップしているので違和感はまったくないものの、それ故か、おとなしい。
 編集部でも同様の意見があったのだろう。ミニョーラの画風はあくまでミニョーラ個人に属するもので、他人が真似ても成功しない。そんな結論になった筈だ。この時点までは。
 
 ガブリエル・バーの『アンブレラ・アカデミー』は、プロットのたいしたこと無さは別にして、褒めてもいい箇所がある。
 ブルース・ティムの『バットマン・アドベンチャー』辺りが嚆矢となって近年ますます勢いを増した、「オールドタイムのカートゥーン」的表現の混ぜかただ。(フライシャー兄弟のアニメ版『スーパーマン』なんか思い出して。)これも本家の援用だが、うまく嵌まって楽しい雰囲気になっている。
 特筆すべきはデイブ・スチュアートのカラーリングで、この人、実は本家『ヘルボーイ』のカラーをずっと手掛けているのだが、毎回冴えた、いい仕事してるよなぁー。本を持ってる人は、カラー部分の微妙なグラデーションの掛け方、ズラシで奥行きを表現するテクニックなどを観察してみて欲しい。ペンシラーの仕事を際立たせ、補完する意味で理想的な仕事をしているから。色彩設計だけじゃなく、カラートーンの切断面(本当はデスクトップ上だろう)ひとつひとつが、憎い配列を成していて、そこはちょいと見ものですぜ。旦那。

 さぁて、長々引っ張ってもアレだ、『ヘルボーイ/百鬼夜行』なのであるが、
 ミニョーラも熱けりゃ、ダンカンさんも前作以上の熱気で押し捲るパワープレイ。
 率直に申し上げて、たいへん見応えのある、素晴らしい出来映えとなっております。
 だいたい、コレ、『ヘルボーイ』史上で一番分厚い単行本だよね?CHAPTER 8まであるのは初めてだろ。しかも、全編すげぇ熱量。勿論手抜きなし。

 これがなにを意味するかというと、(ニール・アダムスは嫌悪するだろうが)ミニョーラ・タッチは今や業界のスタンダードのひとつとして定着した証しかと。
 「いまさらパクリ呼ばわりされることもないだろ、だって本家ミニョーラが近年あんな感じ、映画仕事ばっかで碌に絵も描いていない状態なんだし
 第一、今やつが自分で描いても、かつてのような新鮮なインパクトを与えられるテンションになんかないんだし。
だから、その地盤を受け継いで、表現の地平をさらに推し進めて何が悪い?」

 (註・米国において映画産業の地位は、なぜかコミックより上。映画は総ての芸術の上に君臨する、総合芸術として認知される。だからミニョーラが「映画が・・・」と云っても、誰も咎め立てしない。
 マンガ家が本業より映画にうつつを抜かすなんて、他所の国から見たらかなり不思議な光景であるが、それだけハリウッドの規模はでかい、ってことだろ。
 端的に云えば、出世したんだよ、ヤツは。)
 
 という訳で、躊躇すべき理由はもうないのだ。業界的に。

 そこで、サイレント調の1ぺージ目から、ダンカンさんはグイグイ飛ばして、巨人軍団との肉弾戦、大悪魔アスタロトの再登場、クィーン・マブ(山岸涼子『妖精王』だ!)配下のノーム達の大量襲撃とヴィジュアル的な見せ場を矢継ぎ早に繰り出して楽しませてくれる。
 ミニョーラも、考える時間だけは充分あったのだろう、過去の尻切れトンボだった伏線を残らず回収しようというのか、無謀な辻褄合わせ攻撃を連発!
 オシリス・クラブの爺さん達の再登場も嬉しいが、名作短編『屍』の発端に出てくる取替え子の成長した姿をヒロインとして起用!おいおい!完結に時間かかってるのを逆手に取った、いわばお遊びだが、こうしてみるとアラ不思議、短編がメインだった時期のヘルボーイで、年代・場所が巻頭に貼り付けられていたのも、なんだか、最初からすべて遠大な構想の一部だったように見えるじゃないの!
 うまいこと、やったなぁー。
 なるほどなぁー。

 あと、強引過ぎるアーサー王伝説との擦り合せも面白いよなぁー。なんか、英国人に大変失礼な感じで。楽しめました。

 ということで、
 マンガというフィールドにおいては、必要な熱量を有した者が必ず勝利する。
 勝負というのは、常にそういうものなのだ。
 次回、『ヘルボーイ/ストーム』での完結篇に期待致したい。
 頼むから、スパッ!と終わってみせろ。

 最近のファンタジージャンルが堕落した最大の原因は、そこをないがしろにした結果なんだよ。

 

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2010年6月11日 (金)

ほり のぶゆき『喜劇・空想特撮温泉』 ('99、ソニー・マガジンズ)

 ほり のぶゆきの何が面白いのか。微妙すぎる問題だ。
 歴史的変遷を追ってみよう。私が最初に読んだのは、『もののふの記』(竹書房)だ。平田弘史をカクカクにした絵柄で描かれる時代劇ギャグで、しりあがり寿『エレキな春』収録の時代ネタともリンクするような、異様に重苦しく真剣な劇画調を逆手にとって笑いのめす感覚があった。
 パスティーシュ。
 なりきりギャグ。構造自体が笑いを生む、決して主流になれないスタイル。

 そんな点に限界を感じていたのだろう、次に竹書房から出た『たわけMONO』で焦点を失い、単純な4コマギャグに転落。ほりのギャグネタ自体はそう悪くないのだが、真の破壊力を発揮するのは、やはり絵柄と連動したときなのだった。そういう意味では、「時代劇パロディ」や「特撮ネタ」といった特定の世代が共有するスキームは、異質な現代的なツール(“携帯”とか“チーマー”とか、ね)を乗っけるだけで、笑いの収穫が見込める、生産性豊かな土壌である。
 違和感のあるもの同士を組み合わせる。
 そして、人物はあくまで真剣に。描写のタッチだけでも。
 アニメではなく、実写であること。
 ほり自身が作風を固めるにあたり選択したのは、フィクションの持つ胡散臭さの領域に、劇画の持つ身も蓋もない即物性を導入することではなかったか。

 その成果が、スコラから出た『からげんき』である。殺伐とした筆致で描かれる少年探偵からげんきくんの世界。ハンチングにマフラー。黒い子供用タートル。
 スタイルだけは、昭和三十年代のマンガ誌に出てくるヒーローのようだ。彼自身もそのつもりで、事件現場にバイクで乗りつけたりするのだが、現実は呵責ない。
 「こどもがバイク運転していいと思ってんのか!」
 「なに考えてんだ!親を呼べ!学校に連絡入れろ!」
 で、さんざん絞られて、「まぁ、こどものしたことだからな!」で許して貰う、というね。
 宿敵、子供怪盗うんこもらしとの荒唐無稽極まる対決。秘宝の壷を廻る争奪とか、電人ザボーガー的な特撮バトルとか。これは『たわけMONO』で描かれた給食の「三角食べ」を闇で推進する悪の秘密結社辺りから繋がる構図だが、極端にマンガ的な設定を抜け抜けと出して来られるのも、ほりの大きな魅力だ。
 例えば、着ぐるみで、こども怪獣「カラゲ」と「ウンコモ」。要は「サンダ対ガイラ」なのだが、巨大怪獣二匹が暴れまわって街をさんざん破壊し尽くしているのに、五時になると、うちに帰ってしまう。
 「ちゃんとした家のこどもだ!」
 戦慄する一同。
 双眼鏡で情況を注視していた自衛隊の指揮官がポツリと呟く、
 「われわれ人類は、しょせん、こどもにはかなわない、ってことだな・・・!」

 
例えば同時代でトニーたけざきなんかも、こういうネタを繰り出していたのだが、もっとオタク寄りで大友克洋的な細密描写で見せるトニーに対し、ほりのカウンターは圧倒的にスマートで、極論すればマンガの虚構性に対する批評として機能してしまう。
 批評として読まれるのはマンガ家として決して本意ではないと思うが、ほりがマンガを描いている構造自体が、一種の優れた批評行為に他ならないのだからしょうがない。
 まぁ、故『Studio Voice』的に云えば、メタってことだ。メタマンガ。
 フィクションの持つ虚飾を狙い撃つため、ほりのペンタッチは常に簡素でなくてはならなかったし、ギャグマンガと絵柄のゴージャス化の決定的な食い合わせの悪さは、古屋兎丸の『Parepoli』が証明してくれている。(私はこのマンガが末期『ガロ』連載時から大嫌いだった。理由は、小ざかしいから。)
 こういう絵柄で、あぁいうテーマを選択した時点で、ほりのマンガは既に立派に成立している訳だ。
 だから、ほりの最もバランスのいい作品は往年のTV番組パロディーの詰め合わせパック、『テレビさん』なのだろう。
 時代劇や特撮。旅番組。ドキュメンタリー。『刑事貴族』に対抗する『刑事豪族』蘇我。
 なかでも、マンガ自体の出来はたいしたことなくても、『宇宙大仏』の主題歌は特筆すべきだろう。「あてろ、仏罰」。このフレーズには今でも笑ってしまう。

 でも、スピリッツに『江戸むらさき特急』が連載され、バブル経済が終焉を迎えるころには、私はほりのマンガに興味を失くしてしまっていた。さすがに飽きた。
 世間が当たり前に「突っ込み」「ボケ」といった業界用語を覚え、「天然」を保っていた作家や俳優、監督たちが死滅していくにつれ、ほりのスタイルは「いまでは懐かしいもの」を邀撃する「あるあるネタ」に堕していく。
 それは、ネットの普及や情報の多様化と無縁ではなかったろう。

 それから長い、長い時間が過ぎて、なぜか、再びほりの著作を手に取ったのは、この『喜劇・空想特撮温泉』 と『生・怪獣人生』である。

 近作はどちらも、ストレートに特定の作品のパロディーとはなっていない。
 最早ほりが標的にしたい有名作品など、それほど新たには生まれて来ない。
 これは、才能が枯渇したのではなくて、業界が縮小傾向に入った証拠だろう。途方もない無駄と資金がいるのだ。現代で大バカをかますには。
 『千の風に吹かれて』や、『北京原人』クラス。
 細かいバカは絶えないが、ほりのお眼鏡にかなうバカはなかなか現れない。文化的土壌の貧しさといってよかろう。
 
 さて、これら近刊二冊とも、基本構造は、鶴光のオールナイトニッポンや特撮星人の乱舞する相変わらずの展開だ。絵柄の妙な生真面目さが醸しだす笑いの質も変わっていない。
 相変わらず面白い。
 最大の変化といえば、「オチ」がないのを特に気にしなくなっているところか。開き直りとも取れるし、ネタ枯れとも取れる微妙なところだ。
 作劇法として、完全に創作ネタから入った旧作『原始の馬鹿力』に近い印象。
 でもね、結論からいって、やっぱり面白いと思うのだ。この人。
 特に気に入ったのは、『特撮温泉』で、宿敵(またか!)龍神紘治朗が白骨温泉に子門真人の「ホネホネロック」を歌いながら出てくるところ。シチュエーションもバカだが、このとき龍神、温泉のゆかたの下に黒地に白い骨を描いた通称“ホネシャツ”をしっかり着用している。で、それを例の生真面目な筆致で堂々と描いてある。
 ギャグマンガの持つ最大の欺瞞、「何か愉快なことが描いてあるヨ!」というような、馴れ合いに満ちたぬるい態度を一発で吹き飛ばすパンクスピリット。
 笑いとは、本来、攻撃のアチチュードなのだ。
 バカまるだしなら、堂々とバカまるだしであるべき。

 「アンドロォーーー!!!」
 「はい、はい。メダ、メダ。」 (傑作「アンドロメダ侍」より引用。)

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2010年6月 8日 (火)

川島のりかず③『恐ろしい村で顔をとられた少女』 【到着】 ('85、ひばり書房)

 いきなり、真っ白い画面。

 S.E.、波の音が遠くで聞える。

[ナレーション]

 夢は、失われた記憶の集積である。そこには時間の概念もなければ、空間の制約もない。
 識閾下にぽっかり開いた巨大な暗渠は、通底構造をなし、人類全体の集合的無意識に繋がっている、と考える学者もいる。
 恐ろしい怪物も。
 空飛ぶ円盤も。
 すべてはその広大な未知の暗黒大陸からやって来るのだ、という。

 スズキくんは、今、その境界線を鮮やかに越えようとしていた!

[タイトルバック]

  怪奇ハンター 第三話、 第四回 「到着」

[出演]

 那須の与一(スズキくん)
 剣道博士(ウンベル総司令)
 くいものがかり(黒沢刑事)

 魔人V(安藤社長・・・?)

[シーン11・吊り橋]

 「こ・・・これは・・・?」

 先頭を歩いていたスズキくんは、鼻白んで立ち止まった。
 狭く、流れの速い谷川を渡る吊り橋の手前に、異様なシンボルが吊るされていた。

 「獣の骨みたいだな・・・。」

 背後から覗き込んだ黒沢刑事が云う。
 頭上に張り出した木の枝から荒縄が伸びて、幾本かの骨を結び付けた細工物を吊り下げている。
 ぶっ違いに組み合わさった大腿骨、脾骨の間に無数の鳥の羽根が差し込まれ、最上段には太い角を翳した牛の頭蓋骨が載っている。

 「魔除け、の一種だろう。
 『墓場鬼太郎』の扉絵にもあるし、映画『悪魔のいけにえ』の冒頭に映ってるのも、それだ。
 まったく、迷信深い連中のすることにはある種の共通項があるようだな・・・。」

 スズキくんが、慎重に吟味しながら意見を加える。

 「そう単純でしょうか・・・?
 この護符の吊るされた方向をよく見てください。ええ、牛の空っぽの眼窩の向いている方角です。」

 谷川を挟んで、向こう岸にキラリと輝くものが見える。

 「なるほど。あっちにも、同じような奴が吊り下げられてるぜ。」

 双眼鏡を手に、黒沢が唸った。

 「ええ。・・・ボクは、これ、結界の一種ではないかと思うのです。」

 「結界・・・?!」

 「もともとは山伏などの修験道からきた用語ですが、似た概念は世界各地に伝わっている。血や糞便、毛髪など呪的象徴となるような人体の一部を、等間隔で特定のエリアを囲むように配置する。人形などのトーテムが代用品となる場合もある。
 その意味合いは様々です。外敵の侵入を防ぐ目的だって勿論あるし、
 内部の何者かを封じ込めて外界へ出られなくする、封印の意味だってある。」

 「・・・?!」

 黒沢が息を呑む。

 「誰が何の為に仕掛けたのか解りませんが、規模は相当デカそうだ。この山頂一帯をぐるりと取り囲んでいるとしても、ボクは驚きませんよ。」

 「しかし、誰が・・・一体何の為に・・・?」

 「それはなんとも云えないところですが、われわれに限らず、他人に立ち入って欲しくない領域だってことなんでしょうね。
 こうして接近して来てるのも、実のところ、既に監視されているんじゃないかと思うのです。
 それを証拠に、ホラ。」

 スズキくんは両手をかざし、四方を窺った。
 異様な沈黙が辺りを重苦しく閉ざしている。聞えるのは、早瀬の濁流ばかりだ。

 「鳥や、獣や、動く物の気配がなくなった。
 なのに、誰かにジッと見られているような気がしませんか?」

 「おいおい、よせよ。冗談じゃねぇや。」

 ツカツカと歩み出た黒沢、銃声一発、護符は粉々に吹き飛んだ。
 蒼ざめて口もきけないスズキくんの肩に手をやり、気安い口調で云った。

 「行こうぜ。
 山頂までは、もうちょっとだ。暗くなる前に着きたい。」

[シーン12・吊り橋の上]

 おっかなびっくり、渡るふたり。 

 橋は風もないのに大揺れし、振り落とされそうになる。軋む荒縄。

 「あッ!!危ない!!」

 腐った板を踏み抜いた黒沢、ズボッと上体が沈む。

 「くそッ!!警視庁をなめるな!!」

 憤怒の表情で這い上がろうとする黒沢だが、なかなか上手くいかない。

 ハッ、と何事か合点のいったスズキくん、袂から袱紗包みを取り出すと、中味を辺り一面に振りかけ、モゴモゴと口の中で唱え始める。

 ジュバッ!!と閃光が走り、振りまいた細かい粒が燃え出した。火の粉が黒沢の顔にかかる。

 「うわっチチチチ!!」

 もがきながらも、黒沢は呪縛が解けて、全身が軽くなるのを感じた。

 スズキくんの手を借りて、体勢を立て直す。

 まるで顔色の変わったふたりは、わき目も振らず、吊り橋を渡り終えた。

 「ふゥ・・・・・・。」

[シーン13・橋の向こう岸、野原]

 朽ちかけた樹木の幹に凭れ、黒沢は荒い息を吐いた。
 スズキくんも憔悴した様子で、地面にへたり込んでいる。

 「・・・お前が撒いたもの、ありゃ一体なんだ?」

 スズキくん、ニヤリと笑って顔を上げた。

 「あぁ、あれですか、清めの塩ですよ。こないだの商人宿で、少し分けて貰ったんです。
 山岳に分け入る猟師や行者が肌身離さず携行してるのを思い出したんです。山中に邪悪な気の溜まった場所がある。そういうところでは、磁石も狂うし、人体まで悪影響を受けて調子がおかしくなる。」

 「確かに・・・おかしいよな。・・・全身が重たくなって、目の前がフッと暗くなったような・・・。」

 「そういうときに使うんです。
 あなたは既に魔除けの封印を打ち壊してしまったし、祟られても不思議はない。」

 黒沢は、ポリポリと頭を掻いた。

 「東京じゃ、そんな話、聞いても笑い飛ばしてただろうが、こんな山奥じゃ妙に真実味を帯びて聞えるぜ。
 お前さん、霊感とか強いのか?」

 「いいえ、まったく。全然。」
 
 スズキくんは平然と云う。

 「ただ、このアララギ山の、山頂一帯を異様なエネルギーが包んでいる気配は感じます。それを結界内部の霊的磁場と捉える人もいるでしょうが、いずれにせよ、何らかの未知のパワーが働いているとみて間違いない。これだけ濃厚に立ち篭めていれば、因果律や蓋然性にすら影響を与えるでしょうし、なんらかの異変が起こっても不思議は・・・。」

 バサササササッ!!!

 突如、背後の藪を引き裂いて黒い影が宙空に飛び上がった。

 「ど、わわーッ!!」
 「むむッ!!」


 空へと飛び去って行く姿を見据えて、スズキくんが唸る。

 「山鳩・・・かな・・・?」

 「どうでしょうか。
 鳥の仲間に、あんな細長い尾があるものか、ボクは決めかねているのですが。」

 「あッ。」

 不安げに周囲を見渡していた黒沢が、別の何かに気づいて草むらに駆け寄った。
 追いかけてきたスズキくんが背後から覗き込む。

 それは、明らかに血と思しきドス黒い液体が付着した、数本のフィルムケースだった!

 「どうやら・・・。」

 スズキくんが重々しく宣言した。

 「目的の場所に到着したようですよ、黒沢さん。」


  
 (以下次号)

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2010年6月 7日 (月)

押切蓮介『ドヒー!おばけが僕をペンペン殴る!』 ('06、太田出版)

 (深夜の電話ボックス、受話器を握り締めているのは、ご存知、古本屋のおやじである。)

 「(呼び出し音、連続。)
 ・・・遅ぇなァ、何やってんだ。あのバカ。
 まさか、こんな早い時間からもう寝に入ってるんじゃないだろうな・・・?」
 
 (ガチャ。)

 『・・・・・・もひ、もひ~。』

 「あぁ、もしもし、スズキくんだね?私だ、悪魔だよ。』

 『・・・・・・何云ってるんですか、悪質な冗談はやめてください!』

 「切るな!重要な用件がある。」

 『・・・とかいって、こないだも結局、どうでもいいバカ話だったじゃないですか。
 あんた、思いついたことは、全部喋らないと気が済まない性格でしょうが・・・?!
 まったく、いま何時だと思ってるんですか!!』


 「いや、サムライ・ブルーがね・・・。」

 『・・・くせー・・・うそくせー。』

 「おッ、その返しは、漫★画太郎『珍遊記』だね?
 わかった、きみがそこまで云うなら、深夜だがしょうがない、マンガの話をしようじゃないか。」

 『・・・アンタ、ほんと長生きしますよ・・・。
 ・・・で、何ですか?』

 
「それでこそ、好青年を飛び越えて、今やイケメンにまで昇りつめたスズキくんだ。
 実はな、きみの貸してくれた押切蓮介の短編集を読み終えたのだ。」

 『・・・そんな話題か、やはり!!
 それって、『ドヒーッ!オバケが僕をペンペン殴る!』ってタイトルの奴ですね?』

 「うむ。説明台詞をありがとう。
 古いものはデビュー当時の1997年頃のものから、2006年頃の最新作までバラエティーに富んだ怪奇作品集であーる。」

 『・・・あんた、深夜に、無理な明るさ、つくってんじゃねーよ・・・。』 

 「殺意を持つ前に、俺の話を聞け。
 ヤンマガの増刊でデビューした人らしいから、ヤンマガ掲載の作品は、なんというかヤンマガテイストに溢れていて、俺はそれが面白かった。
 具体的に云うと、『恐怖!!人喰いマンション』なんかだ。」

 『あー、あー、確かにヤンマガのカラーが濃厚なギャグですね。
 古谷実も入ってるけど、一番近いのは、初期の望月峯太郎かな・・・?
 でも、このへん、ボクの評価は、低いですね。』

 「ほほぅ。何故に?」

 『ありゃ、いくらなんでも、下手くそ過ぎです。素人かと思いましたよ。』

 「そういや、キミは、どんなマンガにも完成度を要求するギャングまがいの男だったな!」

 『ボクの評価では、この本の中では「かげろうの日々」がダントツですね。古典的なクラスメートの、いじめ・虐殺・仕返しの三段落ちを手堅く纏めて見せてくれます。
 演出技術も進化していて、見せ場をつくるカット割りも達者です。
 なにより、ちゃんと話を語ろうとしている姿勢に、作家としての進歩を見ることができます。
 八方破れに逃げて自滅するより、遥かに勇気と根性の要る方向性を選択したものと評価できるじゃありませんか。
 これは、怪奇作家として納得のいく正統派の作品ですよ。』

 (おやじ、受話器片手に、イライラと電話ボックス内を歩き廻っている。)

 「・・・ふふん・・・。

 きみは、物語性を最重要視する読み手だからな!
 その見解、確かに間違ってはいないが、しかし・・・・・・つ、つまらん!!」

 『じゃ、あんたがマンガに求めてるのは・・・何なんだよ!?』

 「狂気とイマジネーション。」

 
『・・・?!』

 「極論すれば、一発でも残る何かがあればいい。
 異常なキャラでも、ヘンな造形でも、ありえない台詞でもなんでもいいんだ。これまでに読んだこともないものが一個でも登場すれば、俺は拍手喝采するんだよ!
 そういう意味で、安定とか、拡大生産とか、作家の技術的向上とか、二次的要素は重要じゃないとは云わないが、俺の中の第一位じゃないの!
 そういう意味で、『人喰いマンション』を押す。
 ビルから飛び降り自殺した男が、ロンドンバスに跳ねられ、西部開拓時代の蒸気機関車に激突し、高圧電線に引っかかって、首、胴体、手足がボンボン吹き飛んで爆発、連鎖して巨大な送電鉄塔二本が大爆発して崩れ落ちる、という無茶さ加減が好みだ。
 たとえそれが、ヤンマガの編集に唆された結果だとしても!」

 『・・・わかりましたよ。夜中に怒鳴らないでください。
 もう、いい加減、眠らせて欲しいんですが・・・。』

 「なに、貴様、逃げるのか、スズキ?俺がこんなに燃えてるというのに!!」

 『・・・本当、勘弁してください・・・。
 では、おやすみなさい。
 ・・・あ、云い忘れましたが、電話のないあんたが掛けてきたってことは、近所の公園の電話ボックス使ってますよね・・・?
 そこ、出ますから。・・・じゃッ。』

 「アッ・・・!!待て、コラ、卑怯者ーーーッ!!」

 (一方的に電話を切られたおやじ、悔しくて唇を噛み締めていると。)

 
 (とん、とん、表からガラスを叩く音がした。)

 (異様な臭気が強く匂い、闇に輝く真っ赤な目玉が、おやじを捉え。)

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2010年6月 5日 (土)

ジョージ・A・ロメロ『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』 ('07、ジェネオン・ユニヴァーサル)

 ジョージ・A・ロメロの真摯かつ一貫した姿勢に脱帽だ。

 私は、この映画を観ながら涙が何度もこぼれた。
 え?
 どこに、って、この人の変わらない誠実さに、だ。
 死者がある日突然蘇り、人を襲って食う。そんな映画を撮り続けて何十年、ジョ-ジ・Aは何も変わっちゃいない。
 でも、この作品が下町の老舗お菓子屋の変わらぬ味なのかといえば、ちょっと違う。

 前作『ランド・オブ・ザ・デッド』は、ちょいとエンターテイメント指向が入った(比較的)大予算のゾンビ映画だった。
 デニス・ホッパーもゾンビに噛まれてたし、アーシア・アルジェントの廻し蹴り(で、ゾンビの首チョンパ)もあった。『世界が燃えつきる日』みたいな、大型装甲特殊車輌が登場し、派手な爆発シーンもありました。これはこれで良かったんじゃないかと思う。
 メジャーといつも折り合いが悪いロメロにしてみれば、規模縮小を余儀なくされた『死霊のえじき』の弔い合戦的な意味合いがあったろうし、河底を歩いて行進するゾンビ軍団なんて『サンゲリア』を大人数でやってる場面とかもあって、ゾンビの元締めまだまだ健在、を内外に印象付けた作品でありました。

 で、『ショーン・オブ・ザ・デッド』があって、『バイオ・ハザード』の映画版がヒットして、『二十八日後・・・』があって、『Rec.』や『ゾンビーノ』なんかもあって、気がついてみたら、ロメロが開拓したゾンビ市場は安定した客層を有する人気ジャンルと化していたのだった。
 低予算でも、面白い映画が撮れる。
 ロメロの生み出したメソッドは、端倪すべからざる発明である。
 すなわち、

 一、死者の動きはのろい(上手くいけば逃亡も迎撃も可能)。
 一、死者は頭部を破壊されない限り、何度でも蘇ってくる。
 一、死体に噛まれると、噛まれた者もゾンビ化する。
 一、死体が生き返った原因は遊星の爆発でも、政府の細菌兵器でもなんでもいい。そこは深く追求しなくても、なぜか誰も文句を云わない。
 一、(ショッピングモールや地下基地など)基本的には、狭い空間での籠城ドラマである。


 ほら、面白そうでしょ。
 これは、子供がナントカごっこをするときの面白さだ。上手なルール設定が遊びを盛り上げる。
 ジャンルは違うけど、一番最初の『トルネコ』なんかそうだね。『不思議のダンジョン』ね。あれ、3D化する必要、まったくなかったね。
 とはいえ、実はさきほど挙げた最近の作品の中には、ロメロ・メソッドに忠実でない鬼っ子も存在するのだが、そんなのは小さい問題ですよ。
 ゾンビが全力疾走するタイプ、ってだけで、事態はまったく変わってないのだ。
 基本、現代では、ロメロを無視してゾンビ映画を撮るのは限りなく不可能に近い至難の業なんだから。
 いまどき、ヴードゥーゾンビで誰が喜ぶのか?
 これは誰でも一度は真剣に考えてみるべき、重要な問題だと思う。

 さて、2007年の『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は、ロメロお得意のインディペンデント映画であります。
 最初の四部作(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』『ランド・オブ・ザ・デッド』)を切り離して、舞台はネットも携帯もある現代社会です。
 主人公はピッツバーグ大の学生で、卒業制作で映画を撮ってる設定。そこへ、突如発生した地球的規模のゾンビ事態が襲いかかる、と。
 この映画、ハッキリ書きますけど、
 ロメロの自伝なんだと思う。
 主人公の学生は、ナレーションによって語られる傍証によれば、 「真面目なドキュメンタリー監督を志望していた筈なのに」「なぜか卒業制作に選んだのは、怪奇映画」という男。
 その映画がまた、いまどきクラシカルなコルセットピチピチの美女(ハマー映画だ!)が、包帯だらけのミイラ男に襲われる、という完璧に時代錯誤なシロモノ。

 (ロメロはユニヴァーサルから『ミイラ再生』リメイク版の監督をオファーされ、意見が合わずに降りた経緯がある。この映画が他人の手で後に完成したときは『ハムナプトラ/失われた沙漠の都』になっていた!というのは、映画史的に実に興味深い事実である。)

 そんな男が、ゾンビと遭遇しこの事態を「記録に残さなきゃ!」というんで、カメラを回し始める。
 その映像を編集したのが、この映画という設定。
 『食人族』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『クローバーフィールド』と、一人称カメラのフェイクドキュメンタリー映画は多々ございますが、ロメロの使用目的は「ドキュメンタリータッチの導入」以外に、どうも「自分の主観を映画に焼き付けたい」気持が強かったんじゃないかと推察される。
 この大学生の姿は、濃厚にロメロその人とダブる。
 生と死。残虐の連鎖。それらをあくまでフィルムに写し続けることの意味。
 これは、それを追求する過程の映画だ。

 その姿勢が、妙に考え過ぎず、軽薄でもなく、あくまで誠実かつ真摯であるところに、ロメロ映画の最大の値打ちがあるように思う。

 ラスト、鼻から下を銃で破砕された女性の顔がアップになり、目玉がギョロギョロ動くカットを観たとき、不覚にも泣けて、泣けて仕方がなかった。
 愛!とか、感動!とかを安売りする人達、いますぐこの映画を「感動大作」として売りに出しなさい。

 これは、命令だ!

 西部劇になるという次回『サヴァイヴァル・オブ・ザ・デッド』、期待しております。

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2010年6月 4日 (金)

日野日出志『地獄の子守唄』 ④('83、ひばり書房)

            4.

 あたしはメールの送信ボタンを押した。

 「見るからに、激ヤバイ店発見。おやじとイケメン、にらみ合っている。」

 同時送信先に指定されたグループから、瞬時に返信が返ってくる。スリムなピンクの携帯は連続する着信バイブに身を震わせる。
 スピーカーはもちろんOFF設定だが、あたしのメール着信音は「シタール」だ。さぞかし、玄妙な響きが鳴り渡っていたことだろう。想像にしばし陶然となる。
 本当は開封する必要もないのだけれど、メールボックスを開けて一通ずつ確認する。
 メッセージはどれも短い。

 「???」
 「なに、それ?なに屋さん?今から行くよ」
 「あんたヤバイDEATH、命」
 「!!!ケンカだ!!!ポリを呼べ!!!ポリ、死亡!!!残念!!!」
 「では、イケメン(絵文字)の写メ、よろしく~(絵文字)」

 返信は、送信先のすべてからではない。
 でも、今返事してきた連中は、あたしと同じく、暇を持て余して悪天候の中をほっつき歩いているようなイカレポンチばかりだ。好奇の輩、というやつだ。
 小学生だというのに。
 あたしは、フランソワーズ・サガンみたいな溜息を漏らし、昨日読んだ川崎ゆきおの『恐怖!人食い猫』を思い出した。

 もも子は現実から逃げ出したい中学生。親も友達も学校も、みんな、うざい。ある日街角の喫茶店で見かけた猫女の後を追って、非現実世界の猫町に入り込んでしまった。
 人間の首はスパスパ飛ぶし、人面疽は出来放題だし、思わず寝食を忘れてしまいそうな楽しい世界。クラスメイトは全員、お化け顔。授業は学校の暗い地下室でやっている。
 だが、そんな自由気ままな世界にやって来たもも子の願いは、元の平凡な現実に戻ることだった。
 「自分で、自分の現実を見つけるのじゃ。」
 街頭で会った易者に諭され、親切な鬼婆に教えを受け、夢の中から抜け出そうと苦しむもも子。途端、楽しげに見えた異世界は一変し、執拗な攻撃を仕掛ける迷宮と化す!
 ギロチンで斬首され、顔面にピストルの弾を撃ち込まれ、悪夢から目覚めると依然として悪夢は続いている。意志を挫かれ、弱音を吐くもも子に、鬼婆が最後の力を貸す。
 襲いかかる巨大な顔面の群れ、地面から足首を掴む猫女。果たして、もも子は現実に戻れるのか?そして、戻った現実はどのように変化しているのか・・・・・・?!

 「傑作だったわ。」
 本を閉じ、あたしは思った。現実を補完するために夢があるのではないのだ。それは実は、一枚岩の別の面を目撃しているに過ぎないのだ。どれほど、突飛でかけ離れていようと、真実の相はただひとつ。片方を称揚し、一方を蔑むのは正しいやり方ではない。
 どんな絶望的な現実でも、ある種のファンタジーを宿しているのだし、幻想、おとぎ話の中に残酷な真実がある。
 それがないお話など、力のない、ひどく無味乾燥とした退屈な作り事だ。

 そのとき、ぱりん、とガラスの割れる音が響いた。

 降りしきる雨の中に、砕け散るガラス片。路面に突っ伏す、黒い影。
 仕込み刀の刀身が閃き、ザッと血がしぶいた。

 「イケメン、勝った。おやじ、血まみれ。」

 あたしは電柱の後ろに隠れて、メールを打つ親指を動かし続けた。
 だが、それはあたしの単なる願望であり、本当に勝ったのは、醜い顔の不気味なおやじだったのかも知れない。
 でも問題は、あたしがこの現実をどう見るかなのだ。

 あたしは、メールを送り続けた。

  
        (完)

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2010年6月 3日 (木)

ジョージ・パル『宇宙戦争』 ('53、パラマウント)

 いや、実のところ、この古典的なSF映画すら、ちゃんと観ていなかったのだ、私は。
 だから、「火星人がよく出来ていて、コワイ」とか、「カラーで撮影された本格的な都市破壊スペクタクル」とか、前評判だけは知っていて、ちょいと期待しておりました。

 巻頭、ナレーションと共に太陽系の諸惑星の様子が映る。
 「水星・・・暑くて、住めない。」
 「天王星も、海王星も寒くてダメだ。」
 とか、各惑星のネガティヴな特徴を列記して、火星人が地球に攻めてきた理由を説明する。
 ここの背景画が呆れるほどきれい。チェズリー・ボーンステルという天体画家の第一人者が描いていて、名人芸を見せてくれます。
 『遊星からの物体X』のホイットロック(ほら、あの氷漬けの円盤が見つかるシーンの背景画だ)といい、ハリウッドの背景画家は本当に凄い。『宝島』のオープニング、町の全景なんかもいいねぇ。楽しそう。

 あたしも、高校の文化祭で合唱の背景用に、体育館の舞台に掛ける背景を描いたことがあるんだけど、あぁいう仕事は絵描き冥利に尽きるよねぇー。下絵をペラペラっと引いて、後はクラス中をアシスタント代わりにこき使えるし。校舎の屋上で描いたんだよね、あれ。ペンキ用の刷毛持って、走りながらポスターカラーを塗って。
 なりたかった職業は、他にあんまりないけど、「ハリウッドの背景画家」だな。第一位。

 で、『宇宙戦争』なんですが、この作品でアカデミー賞も獲得し名美術監督と称されるアーネスト野口氏に苦情を申し上げたい。

 円盤、思いっきり、吊り糸が見えてるよ。

 最初、エド・ウッドかと思いましたよ、あたしは。
 野口さん、特典映像に収録のインタビューで、「糸は青く塗ったから見えない筈なんだけど、見えたという人もいて・・・」なんて苦笑してたけど、
 こりゃ見えない奴が、どうかしている。
 そういう杜撰なレベル。
 確かに破壊されるロサンジェルスの街のセットなんか、細部まで再現してよく出来てましたけど、あの円盤はちょっと。

 あと、火星人ね。
 最初の登場で、ヒロインが夜の庭を覗くと、一瞬、走って樹に隠れる姿が見えるんだが、不自然極まる着ぐるみで、凄く格好悪いです。
 三原色のストロボみたいな目玉も、アイディアは悪くないし、造形もいいんだけど、なんかつまらない。
 1953年という製作年度を考えますと、これが本当の元祖で、後のSF映画に対しここからの影響がいかに大きいかよく解るんですが、歴史的価値だけじゃちょっとねぇ。
 
 それに、教会に逃げ込んで救いの祈りを捧げてると、火星人が偶然、細菌により死滅するって展開も、説教臭い。微妙な宗教賛美が憎いです。
 
子供の頃に観ると、素直に喜べるいい映画なのかも知れないな。

 でも、ジョージ・パルのパペトゥーンは観たいです。
 特典にさわりが入ってたけど、凄く面白そうなんだ、これが。
 特典といえば、ハリーハウゼン先生がテストで作った蛸型火星人のモデルアニメも収録していて、動きもアニメートも完璧ですけど、あのデザインは笑った。
 ハゲ頭の巨大なおっさんの顔に、嘴をつけて、太い蛸の足を無数に生やしたやつ。
 「原作の忠実な再現だ。」ってハリー先生は威張るけど、あんな奴、出てません。

  

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2010年6月 2日 (水)

朝倉世界一『デボネア・ドライブ①』 ('08、エンターブレイン)

 まずい。
 これは、傑作である。


 非常に、へなちょこな描線。適当そうで、意外とちゃんと繋がっているストーリー。
 心地よさは相当なものだ。温泉に浸かっているみたいだ。
 元クラゲの人間(!)。中年オカマ。痴呆の老極道。金庫破りのサーファー。盛り上げヘアーの極妻。それに、死神。
 朝倉先生がマイナスイメージに憑かれているのは承知していたが、これはその集大成を謀っているのではないのか。
 普通に考えれば、反則でしかない。

 『デボネア・ドライブ』は、呆けてしまった、鯉の刺青のあるヤクザの会長を津軽の老人ホームまで護送する物語だ。
 呆けてしまった老人は、可愛い。
 かつて大島弓子が使った手法だが、あれには表裏一体の残酷な現実という毒素があった。
 朝倉先生は、賢明にもそれをピュアネスとファンタジーの方向へ投擲する。
 だから、すべては、かくも輝いているのだ。

 まるで巨大なアメ車みたいな、三菱デボネアの描写が素晴らしい。
 追いかける謎の追っ手のクラシックカーとのチェイスは、まるで『チキチキマシン』みたいにファンタスティックだ。
 実は一巻だけでも二百ページ強という、朝倉先生にしては破格のページ数を費やして語られる長編なのに、読み心地はあくまで軽やか。

 いったい、これはどうなっているのか。
 もう少し、考えてみることにする。
 (このままでは、白痴の感想文である。)

 ・・・例えば、本作に登場するデボネアの車内が、実車に比べて、相当、自由に広びろと描かれているところに秘密がある、というのはどうだ?

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2010年6月 1日 (火)

牛次郎・ビッグ錠『包丁人味平11』地雷包丁の巻('76、ジャンプ・コミックス)

 私は、マンガの面白さを探求する者。
 まぁ、一種のソルジャーと申し上げていいだろう。葬流者、と書いて“ソルジャー”ね。夜露死苦。

 ・・・と、出だしで格好をつけておいてなんだが、私は長いマンガが苦手である。諸君はどうか。大長編はお好きか。
 「続いていく」というのが我が国の連載マンガの醍醐味であることは、百も承知している。確かに全巻揃いというのは魅力だ。「野望の王国」全巻なんてのは、見るからに威圧感があるし、第一、途中だけ抜き出しても、意味不明になってしまう危険性がある。
 熱心なファンにしてみれば、途中の一冊だけを摘み食いされて、尤もらしく評論めいた言説を述べられるなど、苦痛以外の何物でもないだろう。

 だが、しかし。
 そこに実は、巨大な陥穽があるのではないか。


 続きマンガの一冊は、未知のパズルを完成させる為のピースではなくて、あくまで、ただ、ただ、単なる一巻の単行本に過ぎないのではなかったか。
 そこに表れざる大きな物語を読み取れ、というのは、この国の出版業界が意識的、無意識的に仕掛けた暗黙の遺制ではないのか。

 マンガなど、好き勝手に読んでいいのだ。
 そこに私は魅力を感じるし、そのいい加減さを信頼している。
 
 という訳で、今回は『包丁人味平』の11巻だ。
 前後は、一切なし。
 まぁ、一般によく知られている事実は補完させて貰うけどね。この本の紹介は多いから。
 でも私が手に入れて、本当に読んだのは、今回この一冊のみ。
 本当にいいのか、それで?

 今回、個人的にはかなり意欲的な試みだと自負している。


 さて、味平のことは、諸君もご存知だね?結構、有名だし。
 これは、下町の大衆食堂ブルドックに勤務する庶民派料理人味平が、立ちはだかる強敵「包丁貴族」、「無法板料理人」などを次々と撃破していく物語だ。
 ここでの料理は、一種のバトルフィールドに過ぎない。
 野球大嫌いの私が平然と読める『アストロ球団』が、球場を単なる死闘と流血の舞台に変えたように、逆巻く渦潮を切り裂いて出現する「荒磯の板場」は、男のコロシアムである。
 内部が空洞となっている岩島。轟音を上げて雪崩れ込む潮流は、船を木の葉のように押し流し、島内を一分三十秒かけて一周し、出口となっている岩窟へと押しやって行く。
 この間に、激しく揺れる船上で刺身を捌き、料理をつくれ。
 なぜ?
 問いかけは無意味だ。
 この世界の因果律は料理を中心に構成されており、登場人物達は全員、料理勝負以外のことには目もくれない異常者ばかりだ。
 例えば、味平の宿敵、無法板の練二のことを考えてみたまえ。彼は人間の大人ぐらいあるマグロを瞬時に捌く、地雷包丁の使い手だ。
 “地雷包丁”とは何か?
 数十本の包丁を魚体の到る処に突き刺し、咥えた煙草(そう、調理中も彼は喫煙を止めない!)で発破の火薬に火を点ける。爆砕される巨大マグロ。このとき、体組織の合わせ目に沿って慎重に突き立てられた包丁が肉を切り裂き、爆煙が晴れると、見事、マグロは骨だけ残して切り身になってしまっている。
 手も触れずに、三枚におろしたのだ。
 「さすが、練二!」場内は、拍手喝采だ。

 この力学的に不可能な早業に、対戦相手の、ごく常人たるホテルの板長も鼻白む他はないのであるが、なにせ巧妙に唆され、自ら百万もの大金を勝負に積んでしまっている、大馬鹿者だ。
 読者は、一切同情しなくて済む。
 権威とはバカげたものであり、勝負はアナーキーな側に常に分がある。
 これを称して、ファンタジーと云う。

 だいたい、荒磯対決に向けて、老舗の料理屋で修行する味平が、重度の魚アレルギーであるという、話を盛り上げるに都合のよすぎる設定。(触っただけで、蕁麻疹が出て、寝込んでしまう。)
 さらに、その味平に入れ込む料亭の一人娘が、料理勝負の賭け金として、親の貯めていた嫁入り資金700万、自分の貯金400万、合計額一千万強を積んでしまう、という無分別にも程がある凄い展開。
 これをファンタジーと呼ばずして、なんと呼ぶのか?

 諸君は、味平といえばブラックカレーである(麻薬入りカレーを食わせて、客を中毒にしてしまう。料理人もその味に取り憑かれ、遂に発狂!)という、知ってて当然の前知識は、既に脳内にインプット済みのことと思う。
 だが、そんな危険な飛び道具の以前に、この物語は、極端な無茶の連続、論理の飛躍によって成立していることを忘れてはならない。
 麻薬入りカレーに突っ込むことは、猿でも出来る。
 真に恐るべきは、物語を進める快適なテンポ、仕掛けの周到さ、その常識からの逸脱加減にあるのだ。
 しかも、それは全編に漲り、強力な磁場を発生させている。
 空手が世界の中心原理であるような、ある種のマンガと同じく、『味平』もまた、一種の異世界ファンタジーと定義してよい。
 
 この世界の玉座には、途轍もない、狂った何かが座っている。
 それを“神”と呼ぶのだ。
 あるいは、“世界原理”である。


 ビッグ錠の絵柄は、意外や達者で、現在は死滅したぶっとい主線でゴリゴリ描く、という劇画の花形の洒脱さを見せてくれる。
 これが、物凄く気持ちいい。
 最近のマンガは、どれも描線が細過ぎてダメだ。
 野太すぎるペンが自在に踊ってこそ、真のマンガの王道が開くのだ。
 全巻揃いは高いけど、中途の巻なら、一冊2~300円。大人買いなど無意味だから、今すぐ撤回。

 一度、ご賞味あれ。

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