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2010年6月 5日 (土)

ジョージ・A・ロメロ『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』 ('07、ジェネオン・ユニヴァーサル)

 ジョージ・A・ロメロの真摯かつ一貫した姿勢に脱帽だ。

 私は、この映画を観ながら涙が何度もこぼれた。
 え?
 どこに、って、この人の変わらない誠実さに、だ。
 死者がある日突然蘇り、人を襲って食う。そんな映画を撮り続けて何十年、ジョ-ジ・Aは何も変わっちゃいない。
 でも、この作品が下町の老舗お菓子屋の変わらぬ味なのかといえば、ちょっと違う。

 前作『ランド・オブ・ザ・デッド』は、ちょいとエンターテイメント指向が入った(比較的)大予算のゾンビ映画だった。
 デニス・ホッパーもゾンビに噛まれてたし、アーシア・アルジェントの廻し蹴り(で、ゾンビの首チョンパ)もあった。『世界が燃えつきる日』みたいな、大型装甲特殊車輌が登場し、派手な爆発シーンもありました。これはこれで良かったんじゃないかと思う。
 メジャーといつも折り合いが悪いロメロにしてみれば、規模縮小を余儀なくされた『死霊のえじき』の弔い合戦的な意味合いがあったろうし、河底を歩いて行進するゾンビ軍団なんて『サンゲリア』を大人数でやってる場面とかもあって、ゾンビの元締めまだまだ健在、を内外に印象付けた作品でありました。

 で、『ショーン・オブ・ザ・デッド』があって、『バイオ・ハザード』の映画版がヒットして、『二十八日後・・・』があって、『Rec.』や『ゾンビーノ』なんかもあって、気がついてみたら、ロメロが開拓したゾンビ市場は安定した客層を有する人気ジャンルと化していたのだった。
 低予算でも、面白い映画が撮れる。
 ロメロの生み出したメソッドは、端倪すべからざる発明である。
 すなわち、

 一、死者の動きはのろい(上手くいけば逃亡も迎撃も可能)。
 一、死者は頭部を破壊されない限り、何度でも蘇ってくる。
 一、死体に噛まれると、噛まれた者もゾンビ化する。
 一、死体が生き返った原因は遊星の爆発でも、政府の細菌兵器でもなんでもいい。そこは深く追求しなくても、なぜか誰も文句を云わない。
 一、(ショッピングモールや地下基地など)基本的には、狭い空間での籠城ドラマである。


 ほら、面白そうでしょ。
 これは、子供がナントカごっこをするときの面白さだ。上手なルール設定が遊びを盛り上げる。
 ジャンルは違うけど、一番最初の『トルネコ』なんかそうだね。『不思議のダンジョン』ね。あれ、3D化する必要、まったくなかったね。
 とはいえ、実はさきほど挙げた最近の作品の中には、ロメロ・メソッドに忠実でない鬼っ子も存在するのだが、そんなのは小さい問題ですよ。
 ゾンビが全力疾走するタイプ、ってだけで、事態はまったく変わってないのだ。
 基本、現代では、ロメロを無視してゾンビ映画を撮るのは限りなく不可能に近い至難の業なんだから。
 いまどき、ヴードゥーゾンビで誰が喜ぶのか?
 これは誰でも一度は真剣に考えてみるべき、重要な問題だと思う。

 さて、2007年の『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は、ロメロお得意のインディペンデント映画であります。
 最初の四部作(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』『ランド・オブ・ザ・デッド』)を切り離して、舞台はネットも携帯もある現代社会です。
 主人公はピッツバーグ大の学生で、卒業制作で映画を撮ってる設定。そこへ、突如発生した地球的規模のゾンビ事態が襲いかかる、と。
 この映画、ハッキリ書きますけど、
 ロメロの自伝なんだと思う。
 主人公の学生は、ナレーションによって語られる傍証によれば、 「真面目なドキュメンタリー監督を志望していた筈なのに」「なぜか卒業制作に選んだのは、怪奇映画」という男。
 その映画がまた、いまどきクラシカルなコルセットピチピチの美女(ハマー映画だ!)が、包帯だらけのミイラ男に襲われる、という完璧に時代錯誤なシロモノ。

 (ロメロはユニヴァーサルから『ミイラ再生』リメイク版の監督をオファーされ、意見が合わずに降りた経緯がある。この映画が他人の手で後に完成したときは『ハムナプトラ/失われた沙漠の都』になっていた!というのは、映画史的に実に興味深い事実である。)

 そんな男が、ゾンビと遭遇しこの事態を「記録に残さなきゃ!」というんで、カメラを回し始める。
 その映像を編集したのが、この映画という設定。
 『食人族』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『クローバーフィールド』と、一人称カメラのフェイクドキュメンタリー映画は多々ございますが、ロメロの使用目的は「ドキュメンタリータッチの導入」以外に、どうも「自分の主観を映画に焼き付けたい」気持が強かったんじゃないかと推察される。
 この大学生の姿は、濃厚にロメロその人とダブる。
 生と死。残虐の連鎖。それらをあくまでフィルムに写し続けることの意味。
 これは、それを追求する過程の映画だ。

 その姿勢が、妙に考え過ぎず、軽薄でもなく、あくまで誠実かつ真摯であるところに、ロメロ映画の最大の値打ちがあるように思う。

 ラスト、鼻から下を銃で破砕された女性の顔がアップになり、目玉がギョロギョロ動くカットを観たとき、不覚にも泣けて、泣けて仕方がなかった。
 愛!とか、感動!とかを安売りする人達、いますぐこの映画を「感動大作」として売りに出しなさい。

 これは、命令だ!

 西部劇になるという次回『サヴァイヴァル・オブ・ザ・デッド』、期待しております。

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