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2010年6月11日 (金)

ほり のぶゆき『喜劇・空想特撮温泉』 ('99、ソニー・マガジンズ)

 ほり のぶゆきの何が面白いのか。微妙すぎる問題だ。
 歴史的変遷を追ってみよう。私が最初に読んだのは、『もののふの記』(竹書房)だ。平田弘史をカクカクにした絵柄で描かれる時代劇ギャグで、しりあがり寿『エレキな春』収録の時代ネタともリンクするような、異様に重苦しく真剣な劇画調を逆手にとって笑いのめす感覚があった。
 パスティーシュ。
 なりきりギャグ。構造自体が笑いを生む、決して主流になれないスタイル。

 そんな点に限界を感じていたのだろう、次に竹書房から出た『たわけMONO』で焦点を失い、単純な4コマギャグに転落。ほりのギャグネタ自体はそう悪くないのだが、真の破壊力を発揮するのは、やはり絵柄と連動したときなのだった。そういう意味では、「時代劇パロディ」や「特撮ネタ」といった特定の世代が共有するスキームは、異質な現代的なツール(“携帯”とか“チーマー”とか、ね)を乗っけるだけで、笑いの収穫が見込める、生産性豊かな土壌である。
 違和感のあるもの同士を組み合わせる。
 そして、人物はあくまで真剣に。描写のタッチだけでも。
 アニメではなく、実写であること。
 ほり自身が作風を固めるにあたり選択したのは、フィクションの持つ胡散臭さの領域に、劇画の持つ身も蓋もない即物性を導入することではなかったか。

 その成果が、スコラから出た『からげんき』である。殺伐とした筆致で描かれる少年探偵からげんきくんの世界。ハンチングにマフラー。黒い子供用タートル。
 スタイルだけは、昭和三十年代のマンガ誌に出てくるヒーローのようだ。彼自身もそのつもりで、事件現場にバイクで乗りつけたりするのだが、現実は呵責ない。
 「こどもがバイク運転していいと思ってんのか!」
 「なに考えてんだ!親を呼べ!学校に連絡入れろ!」
 で、さんざん絞られて、「まぁ、こどものしたことだからな!」で許して貰う、というね。
 宿敵、子供怪盗うんこもらしとの荒唐無稽極まる対決。秘宝の壷を廻る争奪とか、電人ザボーガー的な特撮バトルとか。これは『たわけMONO』で描かれた給食の「三角食べ」を闇で推進する悪の秘密結社辺りから繋がる構図だが、極端にマンガ的な設定を抜け抜けと出して来られるのも、ほりの大きな魅力だ。
 例えば、着ぐるみで、こども怪獣「カラゲ」と「ウンコモ」。要は「サンダ対ガイラ」なのだが、巨大怪獣二匹が暴れまわって街をさんざん破壊し尽くしているのに、五時になると、うちに帰ってしまう。
 「ちゃんとした家のこどもだ!」
 戦慄する一同。
 双眼鏡で情況を注視していた自衛隊の指揮官がポツリと呟く、
 「われわれ人類は、しょせん、こどもにはかなわない、ってことだな・・・!」

 
例えば同時代でトニーたけざきなんかも、こういうネタを繰り出していたのだが、もっとオタク寄りで大友克洋的な細密描写で見せるトニーに対し、ほりのカウンターは圧倒的にスマートで、極論すればマンガの虚構性に対する批評として機能してしまう。
 批評として読まれるのはマンガ家として決して本意ではないと思うが、ほりがマンガを描いている構造自体が、一種の優れた批評行為に他ならないのだからしょうがない。
 まぁ、故『Studio Voice』的に云えば、メタってことだ。メタマンガ。
 フィクションの持つ虚飾を狙い撃つため、ほりのペンタッチは常に簡素でなくてはならなかったし、ギャグマンガと絵柄のゴージャス化の決定的な食い合わせの悪さは、古屋兎丸の『Parepoli』が証明してくれている。(私はこのマンガが末期『ガロ』連載時から大嫌いだった。理由は、小ざかしいから。)
 こういう絵柄で、あぁいうテーマを選択した時点で、ほりのマンガは既に立派に成立している訳だ。
 だから、ほりの最もバランスのいい作品は往年のTV番組パロディーの詰め合わせパック、『テレビさん』なのだろう。
 時代劇や特撮。旅番組。ドキュメンタリー。『刑事貴族』に対抗する『刑事豪族』蘇我。
 なかでも、マンガ自体の出来はたいしたことなくても、『宇宙大仏』の主題歌は特筆すべきだろう。「あてろ、仏罰」。このフレーズには今でも笑ってしまう。

 でも、スピリッツに『江戸むらさき特急』が連載され、バブル経済が終焉を迎えるころには、私はほりのマンガに興味を失くしてしまっていた。さすがに飽きた。
 世間が当たり前に「突っ込み」「ボケ」といった業界用語を覚え、「天然」を保っていた作家や俳優、監督たちが死滅していくにつれ、ほりのスタイルは「いまでは懐かしいもの」を邀撃する「あるあるネタ」に堕していく。
 それは、ネットの普及や情報の多様化と無縁ではなかったろう。

 それから長い、長い時間が過ぎて、なぜか、再びほりの著作を手に取ったのは、この『喜劇・空想特撮温泉』 と『生・怪獣人生』である。

 近作はどちらも、ストレートに特定の作品のパロディーとはなっていない。
 最早ほりが標的にしたい有名作品など、それほど新たには生まれて来ない。
 これは、才能が枯渇したのではなくて、業界が縮小傾向に入った証拠だろう。途方もない無駄と資金がいるのだ。現代で大バカをかますには。
 『千の風に吹かれて』や、『北京原人』クラス。
 細かいバカは絶えないが、ほりのお眼鏡にかなうバカはなかなか現れない。文化的土壌の貧しさといってよかろう。
 
 さて、これら近刊二冊とも、基本構造は、鶴光のオールナイトニッポンや特撮星人の乱舞する相変わらずの展開だ。絵柄の妙な生真面目さが醸しだす笑いの質も変わっていない。
 相変わらず面白い。
 最大の変化といえば、「オチ」がないのを特に気にしなくなっているところか。開き直りとも取れるし、ネタ枯れとも取れる微妙なところだ。
 作劇法として、完全に創作ネタから入った旧作『原始の馬鹿力』に近い印象。
 でもね、結論からいって、やっぱり面白いと思うのだ。この人。
 特に気に入ったのは、『特撮温泉』で、宿敵(またか!)龍神紘治朗が白骨温泉に子門真人の「ホネホネロック」を歌いながら出てくるところ。シチュエーションもバカだが、このとき龍神、温泉のゆかたの下に黒地に白い骨を描いた通称“ホネシャツ”をしっかり着用している。で、それを例の生真面目な筆致で堂々と描いてある。
 ギャグマンガの持つ最大の欺瞞、「何か愉快なことが描いてあるヨ!」というような、馴れ合いに満ちたぬるい態度を一発で吹き飛ばすパンクスピリット。
 笑いとは、本来、攻撃のアチチュードなのだ。
 バカまるだしなら、堂々とバカまるだしであるべき。

 「アンドロォーーー!!!」
 「はい、はい。メダ、メダ。」 (傑作「アンドロメダ侍」より引用。)

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