5/9 「異物挿入」(「北インド古典声楽の夕べ」)
極めて真面目なライブのレポートに、「異物挿入」ってタイトルもいかがなものかと思うんですが、まぁ、いいじゃないですか。
どうせ、儲からないんだし。
なにせ、正式な呼び名は「北インド古典声楽の夕べ」ですよ。小泉文夫先生でしょう、これ。
国民の何パーセントかが、いまPC画面の前から退却するのが見えたね。
しかも、列で。
ちゃんと、整列してお帰りになったね。
たいしたことのない趣味を誇る、偉大なる観客の皆さんは、ほんと、もう、すぐ逃げたがる。
そういう方々を具体的に恫喝する手段として、今回の文章は書かせて頂いております。悪しからず。
という訳で、異物マニアのみなさん、こんばんは。
みなさん、本当にへんなものがお好きですよねぇー。あたし、吃驚しちゃいます。
初めてその世界に触れたのは、忘れもしない、アートビデオ「悪魔族闇姫2・半獣病棟の処女」('88)だったかと記憶しますが、
まぁ、あれだ、精神を病んだ女が病院に監禁されているわけですよ。「精神を病んだ」という設定だけで、Dくん的にはたまらんと思いますが。
あたし的にツボだったのは、これが痩せこけた神経質そうな、リストカット常習みたいな女ではなく、拘束具の似合うむちむち系だったことですかね。石田理絵さん、最高です。
理絵さんがお使いになる、シェイクして泡が全開で吹き出るコーラ瓶。
これが黒船ですね。
来ましたよ、浦賀水道にペリーが。日本の夜明けですね。
あと、つげ義春の短編で、「同棲している、腐れ縁の彼女のあそこにビール瓶を突っ込んで、ものも見事に嫌われる」というのがありまして、これもリアルでよかった。というか、実話でしょ、絶対。
男と女、狭い部屋の中で顔をつき合わせてると、確実に脳を病んでくる。
現代社会の閉塞感を象徴する表現ともとれないこともないあたりが、つげ先生が新潮文庫からも出ている理由なんでしょうが、まぁ、難しいことは抜きにして、面白いですよね。こういうの。
・・・と呑気に思ってましたら、皆さん、いろいろなものをお詰めになる。
男女問わず、年齢問わず、対象も種々雑多で、ここまでジャンルの幅が広いと、あの部分に入らないものはないんじゃないか、とすら思えてくる。
「地下鉄はどこから入れたんでしょ~か?」の答えが、“あの部分”だったら、よい子の皆さんは困りますよね。
ご家庭でご視聴の、お父さん、お母さんも非常に困る。
困って、おっ始めちゃったりなんかすると、さらに困った事態となり、国会で青島幸男が答弁する破目になったりする。
で、以上の説明から、「異物挿入」の魅力は片鱗なりともお判り頂けたものとしまして、本題のライブレポートなんでございますが、
まず、出てくるのが、「言語の壁の問題」ですね。(あッ、あんた、今逃げようとしましたね。)
インドの言葉は、普通、わかりません。
だいたい、ヒンドゥー語なんじゃないか、といい加減な知識で検索してみると、そんなことァない。
「ヒンディー語とウルドゥー語を同一起源の言語とみた場合の、ヒンドゥースターニー語」(※以上Wikiより孫引き)が共通語だそうなんだが、なんだ、それは。
非常に面白い。
ここで引く人と、身を乗り出す人とで、人間は二種類に分割されるわけですが、別にどっちがエライとか言わねぇよ、俺は。大学の先生じゃないからね。
そっちで決めろ。
だがね、あんたの偏狭な価値観に異物を挿入することが、今回の記事の主眼なんだ。
なァに、痛いのは、最初だけだからね。続けるよ。
長々と引っ張って参りましたが、去る五月九日、高円寺さんさん福祉芸術館にて行なわれました「北インド古典声楽の夕べ」に関するレビューです。これは。
わが盟友、佐藤哲也氏が素敵な喉を披露する。タブラは斯界の巨匠、逆瀬川健治先生で、島田博樹先生のエスラジ、相馬光さんのタンブーラが聴ける。
いやぁ、実に極上の演奏内容でして、とてもじゃないが、あたしの下品な文章からは推察できないと思います。
お客さんも、なにかやってらっしゃるような、それもロシア語で歌唱とか、一味違うひねりの効いた方ばかり。
ひさびさに学生の頃を思い出しましたね。あたしは、哲学科美学美術史専攻ですのでね、ゼミにそういうレアな方々がわさわさと居ましたよ。
行きすぎた歌舞伎好きとか、クロノスカルテット聴いてる奴とか。ライヒぐらいは常識でね。
向精神薬飲みすぎて、頭がテンパッた御婦人とかも居ましたけどね。
そこはオーケストラ、クラッシック系の人種が多かった上に、度重なる留年を更新してましたんで、誰とも仲良くなかったですけどね。
(・・・あ、山田くんがいたわ。
お金持ちのおばさんと不倫してた売春少年。
お前は、岡崎京子のキャラか、という突っ込みしとけばよかったな。
おーい、元気か、山田?)
話が逸れた。
そういう、アカデミックなバックボーンとかとまったく無縁に、ずーーーっと勝手に地下での闇のウンベル稼業に邁進して参りましたのでね、ひさびさに純粋アートの高邁な空気に触れますと、出てくるのは見事に下品な感想ばかりですわ。これが。
それじゃいかんのやないか。高尚なものは相応しい切り口でやらな、あかんのやないか。お父ちゃんに怒られへんやろか。
と、ジャリン子チエみたく悩んだりもしてみたんですが、関係なかった。
沈黙は、金です。
黄金色です。
すなわち、うんこです。
語るか、語らないか、を天秤にかけて、語ることを選ぶ。
よくわからないことを相手にするんだから、大間違いの記述もありましょうが、そこは恥を掻こうやないですか。どんだけ、お前が偉いっちゅーねん。
(・・・あかん。
これじゃ、ちっとも、レビューになっとらへん。
話を戻す。
どうも、ニセ関西弁が登場した辺りから、怪しい。)
佐藤くんは、インドに修行にいってたくらいだから、当然、インドの言葉で歌います。
これが、まったくわかりません。
悲しいくらい、理解不可能。
歌詞カードと対訳があればまだしも、手がかりゼロですから。
異物感、バリバリ。
そこで、違う方面から曲に入っていってみようではないですか?!お客さん。(イノキ)
一曲目は、十二拍子から始まる曲で、なるほど、数えてみますとちゃんと十二になってる。
6足す6で、12なのね。
われわれが日頃慣らされているのは、4足す4の8とか、16ですから、目の前に十二拍子で演奏している人を見るのは単純に面白い。感動的です。
リズムは世界の共通語です。
民族音楽系の演奏では、平気でヘンなビートが飛び交いますから、まずは一緒に拍子をとってみるのがよろしいかと。
中東方面では二十三分の七とか、異常なやつが平気で演奏されますからね。
ビートがあるか、ないか。
あるなら、それは何拍子か。
(備考・この世には、一定律で演奏されないフリーミュージックが多数存在するが、複数演者のアンサンブルとしては成立しにくい。
その理由として、「合わせ辛いから」という理由が挙げられる。)
リズムの概念は、未知の音楽に接するにあたっては、基本のチェックポイントです。私は小学校の音楽の授業でやったけど、あなた、覚えてます?
クラシックを流して、鉛筆でノートに音符の強弱を一本線で書き取らせるやつ。
あれは、「拍」という概念を教えてたんだ、って今頃気づいてますけど。
(あ、ちなみに私の音楽の成績は常に“2”だった。的確な判定だと感心する。)
でも、子供だって、数ぐらいは数えられるでしょ。
幼児体験は、意外と重要です。
それから、拍以外に音楽を律する要素、「律」というのがある。
音階の枠組み。スケールですね。
キーは何か、というお話。
インド音楽の場合、基調になる音をドローン(持続音)で鳴らし続けていますから、これがキーになる。
弦楽器も、歌も、これに合わせてチューニングされる。
面白いのは、太鼓(タブラ)も音階を出せるところで、調律が違ってくると、演奏中にトンカチで叩いて修整してる。
打楽器だから、音が狂いやすいのは、当然ですから。
これは、かなり、珍妙で面白い光景です。
初めて見る人は、びっくりすると思う。演奏しながら、チューニングしてる。しかも、トンカチ。
してやられた、って感じです。
で、拍子がいつもと違うということは、譜割りが変わるということになりますから、のっかる歌(や楽器)のメロディも自然に違ってしまうワケです。
さらに、そこへ未知の言語が乗っかると、一気に事態が儀式めいてくる。
神秘の世界。
でも、ここで投げないで。
学究や、その道に精進する人はさすがにまずいけど、客は何をしようが構わない。
勝手に聴いて、面白がればいいのだ。
例えば。
一曲目、佐藤くんは一連のメロディを繰り返してから、キメに入ると、
「♪モレ、シャン」
と、必ず云っておりました。
ここは太鼓と呼吸を合わせてキメ押しする、重要ポイントですから、この楽曲のかなめ、すなわち、サビと考えてよろしい。(ま、サビという概念は、厳密には違うんだが、いいじゃないか。大間違いで。)
しかし、それが「モレシャン」って・・・。
日本の、一定の年代から上の皆さんの考える「モレシャン」って、アレだろ。
「ワ~タシの国ではァ~」って喋る、ヘンなフランス人のおばさん。
ここで、偶然の一致によりそう聞えるのは、完全な誤解であるのだが、待て。
音楽を聴くことが、誤解であって何が悪いのだ?
自由に演奏される音楽を、自由に解釈して、なにか不都合があるのだろうか。
これは、「テクストの誤読」とか、ちょいと難しい方面に膨らませられる話なのだが、まぁ、そんなのはどうでもいい。
勝手にしやがれ。ゴダール。ピストルズ。
そういう意味で、この曲は「モレシャン」なのである。
(同様に最後の曲は「トリバキ」、あるいは「バキ」である。)
異物を取り込んで、楽しむ。
そこになんの不都合があるだろうか。
解釈というのは、観客の数だけ存在していて、その中に優れた解釈もあれば、凡庸な意見というのもある。
ライブ演奏を見る、というのは、自分なりの切り口を探す作業なのだ、といつも思う。
金を払って、そのうえ作業だって?
怠惰な輩はそう云うだろうが、そんな姿勢じゃ何も始まらないよ。
閑話休題。
佐藤くんの声は、優しい声なんですよ。そんなに高いところが出るわけじゃないが、彼の人格が滲み出る。温かみのある声です。
まぁ、つべこべ云わずに、いちど、聴きにいらっしゃい。
あたしのように、何を歌っても気違いの絶叫にしかならない人間からすると、ジェラシーメラメラですよ。
次回は、六月六日です。ダミアン、出ます。
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