「犬のお告げ」(『ブラウン神父の不信』所収、'26、英)
慎重に記述を進めなくてはならない。チェスタトンはまたしても我々を煙に捲くつもりなのだ。犯人とトリックは、それが充分機能する楽しいものだったとしても、この場合は重要ではない。跳梁する悪魔の正体は、おそらく脳の眠れる半球からやって来たのだ。
『ブラウン神父の不信』は、信仰に関する物語である。
密室殺人や、死からの蘇り。どう見ても奇跡としか思われない事件に神父が遭遇し、理性をもって謎を解き明かしていく。痛快譚だ。
「神を信じなくなった現代の人間は」と、神父は断ずる。「たやすく、非現実を容認する神秘主義者になり変わってしまう。」
そう、一見迷信深そうな、田舎っぽい神父が、実のところ、この物語に登場する誰よりも冷静で理性的な人物なのである。いかにもチェスタトンが好みそうな逆説だ。
しかし、超人的な洞察力を持つ神父を“思考機械”のように冷徹無比なスーパーマンとして描くのではなく、丸顔で小柄な、愛嬌たっぷりの人物に設定したあたりが、捻りと真実味を与え、今日性を失わない理由のひとつとなっている。
本当に神父は、偉そうな真似が大嫌いだ。
『不信』の劈頭を飾る短編「ブラウン神父の復活」で、とある政治的陰謀により、大衆の面前で死からの蘇りを自ら実演する羽目になった神父は、奇跡を、ひいては自分を熱狂的に崇める信者達の姿を見て、逆にカンカンに怒り出す。
「なんて、しょうのない人たちなんだ、ばかにもほどがある。」(中村保男訳)
実際、「死」から蘇った神父が真っ先にしたことは、当地に奇跡の風聞があるがデタラメなり、と司教に電報を打つことだった。
後に、あの情況でよく自制心を保てましたね、と質問されると、不思議そうに目をパチクリさせる。
この純真さ。神父は、図抜けた真似など考え付きもしなかったのだ。
あるいは続く「天の矢」。オベリスクを思わせる邸宅の頂上の密室で殺されたアメリカの億万長者。それに絡む古代の秘宝「コプトの杯」。
だが、ここで重要なのはトリックではない(そんなのは『黄色い部屋』レベルのものだ)。
動機と云う観点から見れば、単なる殺人が遠大な復讐劇に成り変る。道義的に違反しているのは、殺された男であり、犯人は周到に計画を進め、親の仇を討ったのだ。被害者と加害者が逆転してしまう倒置した構図。
チェスタトンは痛烈な皮肉を込めて、聖杯の呪いという象徴的意味を剥ぎ取り、犯罪者の気楽な取り巻き連中を地獄に叩き込む。
極めて単純な逆転であるだけ、攻撃は痛烈だ。ここで俎上に挙げられるのは、私刑を正当化する、植民地アメリカの倫理である。アメリカの正義は単純だ、とチェスタトンは云わんがばかりである。調子いいだけの単細胞に、いったい何が裁けるだろうか。
「犯罪は罰せられるべきであり、個人には誰でもその権利がある。」
彼等は裁判官気取りで、神父に宣言する。
「われわれに犯人を引き渡して頂きたい。」
神父の反論。
「では、殺された億万長者が真に憎むべき犯罪者であり、過去にも殺人を犯している場合には?」
「正義はどちらの側に正しく執行されたといえるのか?」
正義の信奉者たちは沈黙せざるを得ない。彼等はかかる不名誉を受け取ることは出来ないのだ。
さて、「犬のお告げ」は、真に動物愛護の精神に基づく物語である。
飼い主の大佐があずま屋で刺殺された丁度同刻、飼い犬が悲しげに遠吠えをあげた。そして、容疑者と思しき男性を見つけた犬は、狂ったように吠え立てた。
動物にも神秘的な直感って働くんですねぇ、私もあいつが犯人だと思うんです、と述懐する呑気な青年を、神父は一喝する。
この下りは傾聴に値するので、引用しよう。
「人が神を信じなくなると、その第一の影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる。
人が話題に乗せ、これは一理も二理もあるともてはやすものはなんでもかんでも、まるで悪夢の景色のように際限なく伸びてゆき、犬が前兆となり、猫が神秘に、ぶたがマスコットに、かぶと虫がお守りになる。」(前掲訳書より引用)
あなたが犬を神秘の使いとして扱うのではなく、と神父は諭す。単なる動物としてその行動の意味を考えていたら、私と同じように真相に辿り着けていたでしょうに。
しかし、この常識的な論理を取り巻く小説世界の風景は、極めて異常だ。
殺人者の心理を後押しする奇岩『運命の岩』の姿は、不安定な人間の内面を具現化したオブジェのようだ。(ピラミッドを逆様にしたような岩が、高い台のような岩の上に危なっかしく乗っかっている。)こんな岩が広い庭の片隅にあるなんて、現実にはまず考えられないから、これはお膳立てされ、意図的に配置されたものなのだ。完璧な作り物だ。
犯人かと疑われる黒い服の博士。(大佐の娘の婚約者で、外国人。)
秘書の青年の赤い、燃えるような髪。(ホームズ気取りの侮蔑した態度で、警官に奇抜な、非実用的な推理を披露する。)
そして、あずま屋に横たわる大佐の死体が着ている、白い服。赤い血。
色に纏わる絵画的イメージ。それを喚起するに充分だが、さっぱり具体的なヴィジュアルは浮かんでこない。役者の顔が見えない。あくまでマンガ的表現に徹するイメージ。象徴性が服を着て歩いているみたいだ。
着る、といえば、この小説のトリックは、大佐の着ている白い服に大きなヒントがあるのだが、まぁひとつ、これを映画化でもしてスクリーンにかけてごらんなさい。嘘臭くて、とても見れたもんじゃないだろうから。
チェスタトンの生み出すトリックは、彼の小説の中のみで有効な、飛び道具のようなものである。悪魔的態度とは、このことだ。
「ところで、じつを申せば、私はえらく犬が好きときている。」
と、ブラウン神父は言う。
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