リチャード・フライシャー『絞殺魔』 ('68、米)
リチャード・フライシャーは、うまく説明できないが、真に映画の天才と呼べる人物だ。
大ヒット作や超大作をいろいろ手掛けているので、娯楽映画の巨匠、巧い職人監督のように語られることもあるが、そのくせ「芸術映画」的な類いのものを一切撮っていないので、いまだに大型店に行っても映画監督コーナーに、この人のコーナーは存在しない。
(まったく、何度探したことか。)
フライシャーの映画は誰でも、一度は観ている筈だ。
ディズニーの『海底二万哩』('54)でデビューし、『ミクロの決死圏』('66)、『ドリトル先生の不思議な旅』('67)といったSFやファンタジー、戦争大作『トラ・トラ・トラ!』('70)、近未来のデストピアを描く『ソイレント・グリーン』('73)、『マンディンゴ』('75)『アシャンティ』('80)といった黒人ロマン、大ヒットしたのに評価がボロボロの『ジャズ・シンガー』('80)、果ては『コナンPART2、キング・オブ・デストロイヤー』('84)なんてのまで手掛けている。
支離滅裂なラインナップ、とてつもないフィルモグラフィー。提灯持ちも裸足で逃げ出す物凄さ。
フライシャーの、どこが天才か。
例えば、この人はカットを割ったり、割らなかったりすることの天才である。
一番ポピュラーな『ミクロの決死圏』を例にとろう。
あの映画は、着想自体が面白いし、抗体がラクエル・ウェルチのウェットスーツに絡みつくお色気シーンもあるし、タイムリミットの設定されたサスペンス性の妙といい、真に娯楽映画のお手本と申し上げていい造りなのであるが、最近DVDで観直してみたところ、
「あのオープニングが衝撃的にやばすぎる」事実に、今更ながら気がついた。
60年代的クールが横溢するタイトルバックデザインからして、尋常ではないのだが、
「博士の空港到着→護衛の車で街中へ→罠にはまるSPたち→かっこ良すぎる狙撃シーン→博士、撃たれる」
この一連の流れの、矢継ぎ早のカット割りは、人体内部セットの数億倍のインパクトを有している。
本当だ。小学生の頃、初めて買った文庫本がアシモフのノヴェライズ版『ミクロの決死圏』だった私が言うのだから、信用して欲しい。
カメラが凄い、とか編集が凄いというより、カットの構成力が凄いのだ。これは完全に監督の力だ。あまりに凄い語り口なので、呆然とさせられる。
例えは適切でないかも知れないが、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』で最初の犠牲者をレザーフェイスが屠殺する場面、ありますよね?
ボカッって頭を一撃、倒れた犠牲者の足が痙攣し、床を叩く。で、鋼鉄の扉をバン!て閉める人皮マスクの怪人。あのテンポ。あんな感じ。
イベントが常にリアルタイムで起こる。
カメラはそれを捉え続ける。
有能な監督は、それを連続して提示するだけで、われわれを映画の中の現実に強制的に立ち合わせてしまうのだ。あぁ、おそろしい。
フライシャーはごく初期はドキュメンタリーやニュースフィルムを手掛けていたそうだから、そこから学んだ一種のテクニックなのかも知れないが、そういやキューブリックもデビュー当時同じような出自を持っていたな。
『ミクロの決死圏』のオープニングは、凡庸な監督なら十数分は必要とする(七十年代の緩いアクション、例えば『ジャッカルの日』なんかを思い出して頂きたい)ところを、ものの数分で駆け抜けてしまう、かっこ良過ぎる反則行為である。
私の知る限り、こういう真似を平気で出来る監督は、例えばヒッチコックだ。要するに真の天才だけである。
もうひとつ。長回しについて。カットを割らない例。
『ドリトル先生の不思議な旅』は、これまた、ハリウッドの王道ミュージカルを逆手にとったような、反則ミュージカルだ。
だいたい、いざ歌唱のシーンが始まると、役者の地の喋りを寸断し、吹き替えとかプリレコとかあらゆる装飾を駆使して、華麗に盛り立て捲くるのがミュージカル映画の基本なのだが、フライシャーはやはりここでも普通ではなかった。
いきなり、役者が台詞の合間に、素の声で歌い出すのである。
変だ。
ちゃんと声が出ていなかったりするし、聞き辛かったりもする。明らかに失敗。でも、こういう実験的なことを平気な顔でやってしまうところが、フライシャーの真に恐ろしいところである。
観客は滑らかな歌唱が紡ぎ出す無類のファンタジーに酔う筈なのに、これじゃ全員、船酔いだ。 勘ぐるに、この不自然なナチュラルさは、明らかに、監督の狙った質の悪いいたずらではないのか。モンティ・パイソン的な。そのぐらい、変だ。
で、調子に乗ったフライシャーはさらに恐ろしい悪質な冗談を仕掛けてくる。
猫用の肉を売ってるマシュ-が港で踊る長い、長いシーンは、ワンカットで撮影されている。
踊りながら水夫の傍をすり抜け、町のおかみさんに愛想を振りまき、少女をからかい、しまいにボートを伝って向う岸までジャンプ。アクションてんこ盛り。
この間、ずっと歌いながら、笑いながら。
観ているこっちが、ハラハラドキドキ、現場のたいへんさと緊張感を共有させられてしまう、本当におっかないシーンだ。
この間、カメラはズーッと据えっ放し。頼む、カットを割ってくれ!
こんな変な場面を考え付き、実際撮ってしまったフライシャーは本当に凄いと思う。
最終的に誰が得する訳でもないのだから、やはり映画は監督のものなのだな、とおかしなところで納得。
この映画は、ドリトル先生が動物語を話すという、まったくもってクソの役にも立たない特技を持ち合わせているため、CGではない本物の動物をたくさん投入しての撮影となった。
云うことを聞かない動物相手の撮影に、役者もスタッフも心底へろへろになったようだが、フライシャーひとりニコニコの上機嫌で撮影に臨んでいたそうだ。
彼は、動物が大量に出演する、こういうタイプの映画を本当に撮りたかったのだ、と後に語っている。
さて、前置きが長くなったが、『絞殺魔』は、こうしたフライシャーの特性がストレートにドラマと結びついた傑作だ。
これはボストンで実際に起こった犯罪事件を題材にしたもので、いわゆる実録犯罪物にあたる作品。
実話ネタでも、心配ご無用。退屈とは無縁の面白さ。
1962年にボストンで女性が連続して絞殺される事件が発生する。最初は老女ばかりだが、途中から若い女ばかりが狙われるようになり、捜査陣は混乱する。(老女連続犯は老女専門の場合が多い。役に立つ豆知識だ。)
州知事は事態収拾のため、アメリカの良心、ヘンリー・フォンダに特命を下し、陣頭指揮に当たらせるが、なおも殺人は続く。困りあぐねた警察首脳は、心霊探偵(!)に相談を持ち掛けるが、満を持して鳴り物入りで登場した超能力者は、軽く常軌を逸したオカルトパワーを見せつけ、自信満々に犯人を指摘するのだが、苦労の末発見されたのは、トイレの便器の水で身体を洗うのが趣味の、ただの変態であった。見事、失敗。探偵は闇に消える。
この映画は二部構成になっていて、ここまでが前半。
錯綜する捜査の行方と、犯人による連続殺人が平行して描かれ、まったく噛み合わない。ここで登場するのが、この映画のトレードマーク、スプリット・スクリーン。分割画面ってことだ。
ワイドスクリーンを細かく割って、例えば片方の画面に被害者が、片方に呼び鈴を鳴らす犯人が居たりする。あるいは、聞き込みに散開する刑事を十六分割で一気に見せ、個々の顛末を細かいカットで連続して展開させたりする。
MTVなんかで、あなたもお目にかかったことがあるでしょ?
ドラマチックだが、面倒くさい、実にわざとらしい手法である。
なんでこんな手の込んだことをするかというと、話を省略するため、あるいは場面の緊迫感をさらに膨らませるためだったりするのだが、根底にある思想はひとつ。
映画を面白くするため。これはもう間違いない。
一見取り留めなさそうに見える手法が、捜査の空転と犯罪の進行を見事に伝え、面白く見せる役割を果たしているのに気づくとき、われわれは驚嘆と畏敬の念に駆られるしかない。
あぁ、フライシャー、凄ぇなぁー、と。
そして、後半。
先に言っておくが、この映画の真犯人はトニー・カーティスである。ご存知かな?『グレート・レース』なんかに出ていた二枚目俳優だ。
映画出演には数年のブランクがあって、この映画で再起をかけていたらしいが、なるほど、往年のキザトトくん(註・『グレート・レース』は『チキチキマシン』の元ネタ映画として有名)もすっかり脂ぎった中年になって、ホワイトトラッシュのガス屋の親父を演じるにはピッタリの風貌。
折りしもJ.F.K.暗殺事件があった翌日、会社が休みになって、妻や娘と葬儀の中継を観ていたトニー・カーティス、ふらりと立ち上がる。
「どこへいくの?」と、妻。
「・・・ちょっとボイラーの点検に行ってくる。」
と、見せかけ、まんまと他所の家に侵入し、女を絞殺しようとするも失敗。走って逃げる。後から、路地裏を全力で追って来る女の彼氏。
両者、ひたすら走る。
この追撃シーンの迫力は、尋常じゃない。あなたもいい歳なら、犯罪や事件の現場に実際に居合わせたことがあるでしょう。まさにあんな感じ。
例えば、ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』で、狂ったピーター・フォークが我が子を殺そうとしてて、何度母親が制止しても子供たちが父親のもとに駆け寄ろうとする、とんでもない場面があったでしょ。あれですよ、あれ。
映画の持つ力を実感する瞬間だ。
そして、トニー・カーティスは逮捕され、実は二重人格らしいということになる。(これ、この映画の原作者が独自に主張してる説らしく、本物のボストン絞殺魔が二重人格だという話は他では聞かないそうだ。以上他所様のブログの孫引き。)
こっからは、犯罪を否認するトニー・カーティスと、ヘンリー・フォンダの精神世界での格闘戦に発展するのでありますが、そういや、ヘンリー・フォンダといえばヒッチコックの犯罪実録物『間違えられた男』で、濡れ衣を着せられる誠実かつ哀れな男を熱演しておりましたなー。今回は立場を逆転させて、人を追い詰める側です。底意地悪いキャスティングですなぁー。
この終盤のくだりは、才気奔るフライシャーの、ちょいとヒッチを入れてやろう、という遊びごころが全開で、最後なんかまんま『サイコ』のパロディーみたいに終わってしまう。お前はヒップホップの連中か、ってぐらいあからさまにネタにして使っている。
しかし、そういう盗人猛々しい連中とは異なり、とにかく才能溢れるフライシャー、取調べ室の場面なんざ、本家ヒッチの撮れない凄まじい長回しが炸裂するパワープレイだ。
壁の白と、トニーくんの着ているシャツの白。やがて白日に晒される精神世界の白い色。狂気。彼が錯乱し、面会に来た妻の首を思わず絞めてしまう場面なんか、とんでもなく良く出来ている。
前半の、細かく分割されたカメラワークが単なる演出意図の表れだったことが良く分かる、この辺りの迫力は、本当になんだろう、凄いとしか形容できない。
フライシャーは、本当、不思議な映画監督だ。
だいたい、父親が『ポパイ』『ベティ・ブープ』でお馴染みのマックス・フライシャーだという出身の辺りからして、解らない。なぜだ。
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