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2010年2月13日 (土)

好美のぼる『悪魔のすむ学園』 ('86、日)

 怪奇マンガの末路を考えてみよう。闇はどこへ消えたのか。
 かつて、へび女に戦慄しミイラ少女に恐怖した人々は、どこへ行ったのだろうか。
 
 大雑把な想定をするなら、まず貸本・赤本といった大手出版とは切り離されたアンダーグラウンドの媒体があって、マンガが「悪書」と呼ばれた時代から、脈々と不健全な出版物を世に送り込んでいた。そこには露骨な暴力描写の犯罪物や西部劇、古典的な因果物、時代物、怪奇物など主流から埒外とされるものなら何でもあって、相応の隆盛を極めていた。
 しかし、マンガの単行本スタイルが新書判に移行し、貸本文化が廃れるにつれ、それらの本を出していた出版社も作家達も身の処し方を真摯に検討せざるを得ない窮地に追い込まれていく。
 例えば、水木しげる先生はもろに貸本の世界から出てきた人だし、大手の雑誌に描いてヒットを飛ばした数少ない例外のひとりだ。楳図かずお先生だって勿論そうなんだが、どう見てもこれらの天才達は一握りのレアケースに過ぎない。
 基本的に大多数の作家は、受け皿を失くし、貧窮して歴史の闇に消えていったものと思われる。
 貸本から新書判へ出版形態を切り替えて、呪われた出版活動を続けていたひばり書房がどうやら末路を迎えるのが1989年頃らしい。(あのスズキくんも血まなこで探している、川島のりかずの伝説的な名作『中学生殺人事件』が最後の出版物であるようだ。)史家が探っても正確なピリオドが特定できない辺りにも、まさに闇に葬られた感が漂うようだ。
 見ようによっては昭和の時代と心中したようにも受け止められる、少壮出版社の死は、何だか因縁めいていて、これをもって怪奇マンガの終焉と位置づけたくなるのは、私だけではないだろう。

 さて、そんな物情騒然たる、怪奇マンガ末期の時代を背景に、好美のぼる先生の最後の闘いが始まる。

 好美先生は、大正九年生まれ。『悪魔のすむ学園』の執筆時には、御歳六十六歳であらせられる。曙出版より『明治毒婦列伝』やら『世界文学漫画全集』やら大人向コミックを手掛けられ、やがてホラージャンルに開眼、『呪いのウロコ少女』『呪いのワンピース』『呪いの肌着』やら、『妖怪屋敷』『怪奇手相コミック・あっ!生命線が切れてる』など、立風レモンコミック、笠倉出版などあちこちの出版社で、その独特の脱力感以外に特に語るべきものを持たない傑作を連発されていた。(なお、先生は1996年二月、故人となられている。)
 
 好美先生の画風は、ひとくちに説明するなら、達者な手抜き、妙に生真面目かつ優しげなキャラクター達がカクカクした、ユーモラスかつ一本調子な動きを見せる、およそ洗練とは程遠い、前時代のシロモノだ。物語の運びも、アバウトかつ適当で、せわしない現代に生きる我々の眼から見れば、おおらかで牧歌的な印象が残る。なんだか、とってものんきな感じ。
 台詞や書き文字のセンスも独特で、例えば“口裂け女”に次ぐ第二弾、『目裂け女』(もちろん、「私の目、きれい?」というのがキメ台詞)では、「その目、とってくれろ!」に対して掴まれた少女は「キャグー」という意味不明の悲鳴を上げる。
 (・・・なんなんだ、それは?)

 『悪魔のすむ学園』は、そんなトラディッショナルな世界の延長線上に、(よせばいいのに)「パソコン」という当時最先端の機器を登場させることで、迂闊に読んだ不心得者をして、深い、深い改悛の境地に導くという、他ではちょっと見られないような、大変有り難いオーラを発散している。
 意地の悪い上級生三人組に、執拗にいじめられる主人公の中学生少女。なんとかやり返してやろうと、必死に敵のデータ(血液型やら生年月日程度の内容)を収集し、夜の学校へ忍び込んで、教室のパソコンを使って彼女達の弱点を探すという、勝手なイメージが先行する、テクノロジーへの誤解に満ちた展開。
 パソコンによるいじめっ子の性格分析など何の役にも立たず(当然だ。これでは、只の占いである。)、ブチ切れた主人公が「パソコンなんて、何よ!」とキーボードをやけくそになって連打すると、モニターの画面から、
 「ウハハハハハハ・・・!!」と不気味な笑い声が!

 「そんなにパソコンをバカにしたものではないぞ!!」
 「・・・だ、誰なの?!」
 「わしは、パソコンサタンだ!!」

 ・・・出ちゃったよ(泣)。

 好美先生の描く妖怪全般にそうだが、かの『デビルマン』のデーモン族を粗雑にトレースしたかの如きロウファイさ。根が丁寧な方なのだろう、主線の太さなど望むべくもなく、神経質な細い線でワイルドに描きなぐったものだから、ただのへたくそにしか見えない。
 
 「おまえは、ヒステリーを起こして、知らぬ間にY7のキーを十三回と、キーボックスのキーを全部押した。それは、わしを呼び出すシグナルなのだ!」
 「だから現れたのだ、わかったか?!」
 
 力説されても1mmも理解できないが、それにしても「Y+7」とは何か?まさか、(想像するに恐怖だが)「F7」を間違えていまいか?それから、「キーボックス」のキーって、まさか「キーボード」か? そんな馬鹿な。
 (念のため確認してみたが、ご存知の通り、キーボックスとは、警備などで鍵を収納しておく例の金属ケースの総称である。番号入力のテンキーがついてたりはするが、パソコンとはまったく関係ない。)
 恐怖に逃げようとする少女に、パソコンサタンは冷酷に言い放つ。

 「もう、手遅れだ。おまえは、わしのレーザーをあびたのだ!」

 みるみる、デーモンを炒め焦がしたような怪物に変身していく少女。キャーッ。
 好美先生、レーザーの概念も誤解しているようだが、まぁ、いい。突っ込みは諸君に任せておく。

 かくて、偶然呼び出されたパソコンサタンは、少女の下らない仕返しに手を貸すことになるのだが、まぁ、1986年当時一部マニアにしか知られていなかったパソコンの扱いが不適切なのは大目に見ることにして、なんだ、この古臭い、工夫ゼロの古典的な復讐譚は?道具立てが陳腐な上に、誰も死なないではないか。『ドラゴンボール』か?
 主人公がいじめた上級生達に対し、顔を変形させるとか、げろを吐かせるとか、必然性のない嫌がらせをやたら繰り返していって、やがて心底改心した彼女達が、人を呪った後遺症(・・・あるらしい。)で高熱に苦しむ主人公をお見舞いに訪れ、見事和解し、ハッピーエンド。え。
 これは小道具の扱いがあまりに杜撰だとか、そういうレベルの話ではない。
 かつて物語の背後に無限に広がっていた、広大な闇の世界が微塵にも感じられない。
 人が誰も死なないなら、そこに恐怖などありえない。
 恐怖マンガは本質的な訴求力を失って、単なるギャグに成り下がってしまったのだ。
 なんてことだ。当時の子供ですら、本気で怯えた者は皆無だっただろう。

 大げさに悲嘆に暮れる必要などまったくないのだが、ここにひとつの怪奇マンガの終着点を確認することが出来る。古典的な怪奇マンガが最早ギャグマンガの世界以外では成立し得ない、という、極めて恐るべき異常事態の到来である。
 しりあがり寿や、江口寿史やなんかが往年の怪奇マンガを好んでパロディー化してみせるのもこの頃。
 やがて九十年代に入って、Jホラーの台頭と相まって、少女マンガ系から再び、恐怖マンガのブームが巻き起こってくるのだが、それはスプラッタやサイコホラーといった、よりヴィヴィッドな意匠を用いた、まるで別世界の産物だった。

 怪奇マンガの黄金時代は終わったのだ。
 寿ぐ者もなく、まして嘆く者とてなく。

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