尾崎みつお『女吸血鬼マリーネ』 ('85、日)
さぁ、諸君。未来の恐怖に出会うのだ。
あるいは、恐怖の未来に。
その名は、尾崎みつお。うーむ。いまいち締まらないようだが、気にするな。
とはいえ、『女吸血鬼マリーネ』は、明らかに意欲作だ。
ラヴクラフトをモチーフにした悪魔信仰。巨大な城の如き洋館。100%白人の吸血美女。非日本的なバタ臭さを変換することなく、そのまま現代に持ち込もうという目論み。
傑作になりそうな瞬間はあるのだが、それを見事に取り逃がす。この残念な感じを記述してみるのも無駄ではないだろう。
主人公恵子は、水前寺清子の髪型を持つ、女子中学生。
不安定な尾崎みつおの作画力によるキャラクター造形は、特に冒頭数ページ、この娘を大友克洋風に描いてしまっている。リアルだが、決定的に可愛くないということだ。
だが、違いはある。
大友が決してやらない描写、そして本物のチーターにはない要素、足の長さに注目していただきたい。常にパンタロンを着用している彼女の足は、日本人にあるまじき長さを誇っている。そして、パン線くっきり。これは好印象を生む。マニアですな。
しかし、まさかとは思うが、映画『ヘル・ハウス』の霊媒フローレンス(パメラ・フランクリン)を意識しているとしたら、恐るべき相克だ。これ、まったく違うものだもの。
ここにも描写力の無さが生む悲劇を見ることができるのかも知れない。
さて、恵子の兄、医者の哲雄は、四十年前に死んだ女吸血鬼マリーネに魅入られ、関係を結ぶ。(止めのコマだが、ベッドシーンが数コマある。)
彼を救おうと、駆けつける三人の男。
黒髭、トレンチコートの中田博士はオカルトの権威。期待させる風貌ながら、残念だが、市の図書館で古い記録を調べるぐらいしか役に立たない。
哲雄の同僚、川崎は退屈な人物。主人公を庇うが、やすやすマリーネに突破され、これまた役に立たず。残念だ。
最後に残る超心理学者、源隼人はもろロディ・マクドゥオールの如きタートルネックの二枚目。でも、椅子を投げる程度で、全然活躍しない。
結果として、『マリーネ』は凡庸なオカルトもどきに終始するのだが、この原因として吸血鬼の攻撃が異様に地味なことが挙げられる。
以下ちょっと具体例を述べておこう。
嵐の夜。吹きつける風、叩きつける雨。ドアが叩かれるが、開けるとそこには誰もいない。
室内に戻り、おびえる主人公の少女。
次に、窓ガラスがラップ現象により、ビリビリと鳴る。
「うわぁ!」・・・再び、おびえる主人公。
窓に気を取られていると、いつの間にか部屋の暗がりに、女が立っている。
黒いマントの洋装。外人の女だ。
振り返り、気づいて、またしてもおびえる主人公。
意味の解らぬ威圧感(=外人の女が近寄って来るだけ)に押され、遂に部屋の角に追い詰められて、恐怖のあまりに失神してしまう。なぜ?
倒れた主人公の喉もとに迫る、吸血鬼の牙。あわやこれまで、という瞬間。
突然、電話が鳴り響く。
おびえる吸血鬼。え?
スーッ、と闇に溶けて消え去っていく吸血鬼。主人公は、こうして窮地を脱するのでありました・・・。
いかがだろうか?場面を書き写していて、まったく意味が分からず、キョトンとする諸君の顔が浮かぶようだ。
実のところ、私自身にも意味がよく解らないのだ。電話におびえる吸血鬼なんて、初めて見た。(こそ泥か?)
しかも、これを妙に堅い、写実的なタッチでやるもんだから、笑いや突っ込みに転化することなく、「変な場面だったな。」と思いこそはすれど、そのまま普通に流れていってしまう。あぁ、もったいない。
もう少し、なにか妥当な方法はなかったのだろうか。もどかしい思いに駆られるのは、誰も皆同じだろう。
総括するに、このマンガ、先のキャラクター紹介でもお判りの通り、出るべきものは全部出ている。ハマーホラー的な吸血美女、老婆の召使い、洋館。墓地。悪魔の呪文。欧米オカルトの定番は見事に用意されている。
だが、なにひとつ、生かしきれていない。
それこそ、なにひとつ、だ。
女吸血鬼マリーネの正体は、堕落した霊媒(!)と、悪魔との間に生まれた怪物であるらしいのだが、異常な外見をしている訳でもなければ、ど派手な超能力を駆使する訳でもない。せいぜい、部屋ひとつ、ガタガタいわす程度。
最後に、眠っていた墓地で掘り起こされ、いきなり胸に杭を打たれ、とどめを刺されるのだが、こいつ寝てばかりで、ろくな抵抗もしない。やる気はあるのか。放っておいても別に問題なかったのではないか。
お前も、吸血鬼なら、もっとドバーッといけ。ドバーッと。
とはいえ、私は物語におおむね満足した。
誰か、小栗虫太郎の名作『黒死館殺人事件』を、『新青年』連載時「夥しい素材の羅列に過ぎない」と酷評した人がいたらしいが、
その伝に倣うなら、これもオカルト素材の典型を寄せ集めただけのシロモノだ。
しかも、日本的な土壌に根付かせることなく、ぶざまに接ぎ木してあるだけだ。
それは、素晴らしいことではなかったか?
これは、未来の恐怖なのだ。
現在のわれわれの浅薄な認識ではその意味合いはまだまだ、存分に理解できていないだけのことだ。
では、『吸血鬼マリーネ』を一体どう扱えば、恐怖マンガとして成立しただろうか。
この問題ひとつ考えるだけで、充分に夜は長すぎる。
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