影丸譲也/梶原一騎 『白鯨』 ('68、日)
「帆をあげろーーーッ!!」
威勢のいい声が響き渡り、帆船は港を離れ、大海原へと乗り出した。
幾人もの漕ぎ手が背骨も折れんと繰り出すオールは、タールのような海水を掻き分け、沖へ沖へと船を押しやる。
「・・・ひやぁーっ、こりゃしんどい。」
まだ二十代の好青年スズキくんは、ぽちゃぽちゃのお腹を押さえて息を切らせている。
目深に被った船員帽も斜めにかしいで、風に飛ばされていきそうだ。
「読者でいるぶんには、梶原一騎・男の美学も大いに結構だが、実践するとなるときびしいもんだにゃぁー。
今後はぜひ、『かぼちゃワイン』だとか、お気楽な路線を取りあげて欲しいもんだ。」
「貴様、なにをゴチャゴチャ喋ってる。」
腕に極彩色の彫り物のある船乗りが、床にへばったスズキくんを叱咤した。
「そんなとこでさぼってると、船長に叩き殺されちまうぞ。」
「船長さまの、お成ぁ~り~!!」
どこかで鐘が乱打され、甲板に居並ぶ乗組員たちに緊張が走った。
予定より早い登場だ。
原作どおりなら、船が出港して待てど暮らせど船長は姿を見せず、誰もが寝静まった真夜中に上部甲板をコツコツと歩く、気味の悪い義足の音が聞こえて来る筈だ。
なぜ、段取りを無視するのか。これは、もしや。
操舵室の扉を開けて、顔を出したのは、髑髏の面をかぶった奇怪な人物だった。右足は確かに義足だが、鯨の骨ではない。
形状からして、鶏骨らしい。
「お待たせ!わしが、船長だよ~~~ん!!」
やけにハイテンションで、軽いノリだ。
乗組員たちは、ある意味で恐怖した。こんな軽薄そうな男に、悪魔の化身のような、あの呪われた鯨を倒せるものか。
物語には、そして登場人物にはおのずと品格というものが定められているのだ。
「わしは、あの鯨がにくい!!」
周りの思惑を無視して船長は、キンキン声で断言した。
「あいつは、わしの右足を喰らい、わしの人生を破壊した。わしの船を沈め、わしの輝ける希望の未来を完膚なきまでに奪い去ったのだ!!」
ここで、船長は息を切ると、同意を求める苛烈な瞳で、一同を眺め渡した。
仕方なく、一同は気のない声で唱和した。「・・・イェー。」
髑髏面の男は、我が意を得たりと深くうなずくと、ふところから一冊の本を取り出した。
講談社コミックのオリジナル版『白鯨』だ。プレミアがついて、原書は五千円以上もするシロモノだ。
「同志カジワラ!!男の中の男!!
影丸譲也と初コンビを組んだ『白鯨』は、燃える男のバイブルだ!
六十年代『少年マガジン』の勢いが窺える、豪華四色カラーページ付き!
たいして脱ぎもしないアイドルの水着なんか、クソくらえ!
少年誌はあくまで、マンガ一本槍で勝負だ!
主人公イシュメルが熱血小僧に、クイークェグが頼りがいのあるインディアン、あのモヒカン族チンガーみたいな寡黙な勇者に、そしてスターバック航海士とエイハブ船長は、ジョン・ヒューストンの映画版そのまんまに!
まさに完璧な翻案である!
なんたって、このエイハブの顔が、グレゴリー・ペックのやり過ぎ特殊メイクそのもので、著作権の概念など軽く無視してくれちゃってるあたり、最高だ!
面白ければ、なんでもあり!
まさに、カジワライズム!人間の性、これ悪なり!」
「ま、やり過ぎて時々、ブラックジャック先生に見えますがね。」
「誰ダァ、いま喋った不届き者は?!」
船長は、不用意に話を中断され、逆上して叫んだ。
「ちょこざいな小僧め!!名を、なのれェーーー!!」
スズキくんは、やけくそで叫んだ。
「赤胴鈴の助だァーーー!!♪剣をとっては、ニッポンいちにィ~♪・・・」
「こいつを船倉にブチ込んどけ。」
船長は、冷静に部下に指示を出した。
もがくスズキくんが連れ去られるのを、鼻で笑って見ながら、
「よーし、よく聞けェー!!
一番最初に白鯨を見つけた者に、ホレ、この銀貨をやるぞ。」
船長は、長い釘を取って越させると、メインマストに硬貨を一枚、打ち付けた。
「なんだ、五十円玉じゃないすか。」
誰かががっかりした声を出した。
「バカモノ。真ん中に穴が開いてるから、固定するには便利なのだ。」
勝手に深く頷くと、大声で叫んだ。
「それでは、帆をあげろ!!地獄に向かって、一直線だ!!」
-その夜。
マストに燃えるセント・エルモの火で、日野日出志『地獄少女』を読みながら、スズキくんは恐怖に震えていた。
夕刻、ようやく船倉から開放されたと思ったら、今夜の不寝番を言い渡されたのだ。
「鯨が現れたら、半鐘を叩いて知らせるんや。わかったな?」
片目の小ずるそうな船員に、遠眼鏡と半鐘を渡されたスズキくんは、否応なしに一番高いメインマストに登らされた。
見下すと、海面から何十メートルもの高さだ。
ビュウ、ビュウと強風の吹きつけるマストの先端部には、幅1mほどの円形の見張り台があって、辛うじて身を屈めて落ちないように支えることが出来た。だが、寒さと高度に足が震えてくるのは如何ともしがたい。
「・・・まったく、最低でございます。」
スズキくんはぼやいた。「一歩間違えれば、自分の命もなくなる過酷な状況に立たされ、持参した恐怖マンガを読み続けるだなんて・・・。」
それでも『地獄少女』のあまりに残酷な運命に、我を忘れて読みふけっていると、遠くで何かの叫ぶ声がした。
「・・・ファァック・ミィー・・・ハァーーード・・・!!。」
「ん?」
スズキくんは目を凝らしたが、水平線に何も見えない。月もない夜、飛びすぎる厚い層雲の下に、真っ黒い茫漠たる海がどこまでも広がっているばかりだ。
「おぉーい、見張り番!」
マストの下で呼び声がした。船長だ。「今、なんか聞えたぞー!」
「いいえー、異常ありませーん!」
スズキくんは怒鳴った。「気のせいでしょう。」
「・・・アィム・カミング・・・カミング・・・ヤー!・・・ヤー!・・・。」
風に乗り、異様な咆哮が、再び、確かに聞えた。
と、思うや、海面をぶち破り、巨大な白い影が闇夜に躍り上がった。
波しぶきが、ザバーッと甲板に降りかかる。
「アアッ!!あれは・・・白ゲイ・・・、
・・・いや、違う。白人のゲイだッッ!!!」
船の間近の海面から浮上した巨体は、黒いレザーのパンツを股間にギリギリ食い込ませ、大きく開いた胸元から、悪鬼の如き胸毛をモジャモジャと生やし、濡れた瞳は物憂げに煙っている。
「白ゲイというか、ハードゲイのようです。」
スズキくんは冷静に船長に報告した。「最低ですね。」
怒り狂った船長は、髑髏のお面をかなぐり捨てると、マストをよじ登ってきた。
「コラァ!!スズキ!!ちゃんと仕事しろー!!」
「あッ、あなたは・・・!!」
「俺は、怪獣男爵だ!」
と、醜いツラを振り向けて、古本屋のおやじは云った。
海中から現れた巨大な白人男性は、常人の数百倍のサイズを誇るおのれ自身を剥き出しにすると、帆船の背後に廻って、腰を使い始めた。
「オウフッ・・・オオゥ、フッ・・・オオウッ・・・。」
船板に大穴を空けられ、浸水し、沈没していく捕鯨船の上で、スズキくんとおやじの死闘は続いていた。
逃げ惑う乗組員たち。いつの間に火の手が上がり、倒れかかる無数のマスト。崩れ落ちる船橋。鳴り響く半鐘の音。ごんごん、ごんごんごん。
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