『釈迦』 ('61、日)
永田雅一がセシル・B・デミルに一方的な対抗心を燃やしたって、何の不思議もないのだし、的場徹の特撮が品格のあるのも、当然だ。
ハリウッドが、クレオパトラ役にエリザベス・テイラーを持って来るなら、オール日本人キャストでブッダの生涯を映画化する企画だって、決して無理じゃない筈だ。
大映の前作『日蓮と蒙古大襲来』('58)も、なんだか充分アレな感じの、きな臭さ満点の映画だったが、なんだかんだで長谷川一夫が日蓮だ。突然の台風で蒙古船団が壊滅したって、そりゃ史劇スペクタクルとしては、まだ正統な部類であろう。
ところで、読者諸君は、ジャンルの古典、映画『十戒』をご覧になったことがおありかな?
これは、相当に奇妙な映画だ。
神の地に足を踏み入れたモーゼは、まず神に一喝される。
「モーゼよ~!!履物を脱げ~!!ここは神聖な地である~!!」
天上から、合成の光が射し、おごそかな声が命令する。やばい。絶対笑かすつもりだ。
だいたい、山の中で履物を気にする神ってなに?小さいぞ、神。
エジプトに神の罰が下る場面も、凄かった。
ナイルの水が血で赤く染まり、空からサソリの雨が降ってくる。サソリだ。駄目だ、面白すぎる。
こうなると、紅海がふたつに割れても、爆笑である。流浪の民、全員が荷物かついで徒歩で渡ってるし。渡り終えると、また閉じるし。なんだそりゃ。自動ドアか。
紅海、自動ドア扱い。
思わず、太字で書いてしまった。
かように不信心な者にとって、宗教スペクタクル映画とは、不合理な事象が次々と襲いかかるホラーかSFのようなものだ。合理的説明が一切省かれているため、『不思議惑星キンザザ』よりか、よっぽど不思議だったよ。
さて、『釈迦』は、ご存知、ゴータマ・シッダールタ太子の生涯を映画化したものだが、それにしても、これまた、なんという奇妙な世界であろうか。
市川雷蔵、杉村春子、京マチ子。
東野英治朗に、北林谷栄、本郷功次郎。山本富士子。
あろうことか、中村玉緒(!)まで、全員が、インド人なのだ。
云いたかないが、“インド人もビックリ”だ。あなたも、きっとそう呟く筈だ。
だからまだ見ぬ奇跡の予感に捉われて、日本映画、未曾有の大惨事を予見した私は、今回身構えて鑑賞したのだが。
結論から云って、そうは問屋が卸さなかった。
大傑作とかではないし、万人必見の映画とも思わないが、本家「十戒」や「天地創造」同様に結構楽しめる、見所ある宗教スペクタクルになっている。
日本人が演じるインド人は、まぁ、当然インド人には見えない訳だが(当たり前だ)、ここはひとつ鷹揚に、劇団四季の『ライオンキング』だと思ってご鑑賞頂きたい。
あれだって、到底ライオンには見えないが、それで抗議が来たという話も聞かない。(どころかロングランだ。)
この唐突な例えは、衣裳の露出具合、金ぴかな感じが何か似通ったサムシングを漂わせているがゆえの連想である。
例えば時代劇なども典型だが、“お芝居”という前提があれば、人は大抵のものを許容してしまう。
バリバリの日本人が外国人を演じる不思議さで云えば、もっと似通った例が、かの宝塚だろう。この場合、国籍も越えているが、性差も越境してしまっている。まったく、アナーキーにも程がある。
『釈迦』は、安定した、古典的な大作づくりの手法で撮られている。
オールスターキャストは、当然のこととして、当時の映画会社が、どの程度まで資金調達が可能だったか(今日のような製作委員会方式で各社出資ではない、大映一社での話だ)、支えたスタッフの技術水準がいかほど高かったかがよく解る。
三隅研次の抜けのいい演出、伊福部昭の荘厳なシンフォニー。雲の広がりや、地平の奥行きを写した撮影も美しい。
多用される合成カットも、品がある。たとえば、城の石垣の連なりは、人間が手で描いたマット画だ。ライブアクションの門と小さな人物を左手前に配置し、遠近法でパースをつけている。アナログ的な温かみを感じるさせる構図だ。
上手いこと、異国が舞台でも決してどぎつくはない色彩設計になっている。映画全体が、そんな感じの親しみやすさで統一され、絵巻物的な趣きが感じられる。
例えば、冒頭、釈迦生誕と同時に、宮廷の庭に五色の花が咲き乱れるカット。
仏教伝来以降で、日本人の解釈した極楽浄土のイメージだ。池には勿論、蓮が。小鳥のさえずり。玄妙なる調べ。
ここでは、本物の花の実写と手描きとをうまく組み合わせて、「一瞬にして浄土と化す庭園」を表現しているのだが、そこへ、「天上天下唯我独尊」という子供の声が被るのは、さすがに、リアリズム演出上いかがなものかとは思われる。(ま、誕生直後、取りあげた看護婦と母親を惨殺して逃亡する『悪魔の赤ちゃん』という例もありますが。)
だが、周到な計算で、三隅はこういう胡散臭くなる箇所は、絶対リアルに撮らない。
この場面なんか、手前に宮廷の人々が控えるなか、花の咲く庭越しに、小さく子供の姿を捉えている。幻想一歩手前の、ギリギリ狙いということだ。
この神秘描写は、全編に共通している。
人知を越えたものは、湧き出る光明、巻き起こる風、天変地異といった現象によってのみ顕在化され、実体を現すことがない。
従って、王族の身分を捨て、出家し、悟りを得て以降の釈迦は、いっさい画面に顔を出さず、シルエットと後光(合成)のみで映像化されている。
悟りの境地に到った時点で、もはや生きてる人間の扱いではないのだ。
大胆で、なかなか勇気の要る選択だが、この映画の場合、史上空前のオールスター大作だから、「誰かが画面に出ずっぱりにならない」という政治的意味合いでも、充分有効に機能している。
お馴染みの有名俳優さん達が、画面に現れては、それなりの見せ場をつくっては去っていく。見せ場を繋いで見せる、業界用語ではこういうの“串だんご方式”って云うらしいですよ。これ、本当。
そして満を持してのクライマックス、巨大な石像が崩れ落ち、寺院が崩壊するスペクタクルシーン。
円谷のようにミニチュアで処理せず、二十メートルは越す、実物大の石像を造ってしまったところが、無意味に効いている。バカ正直にも程があるのだが、「あっ、本物だ!」という、誰でも分かるハッタリは、今でも充分効果的である。
こういう映画の場合、贅沢感、お腹いっぱい感を与えるのは、とても重要なことだ。
さて、役者の皆さん、全然インド人に見えないというのは既に指摘した通りなのだが、たったひとり、インド人より濃い顔で、この難局を乗り切ってしまった男がいる。
勝新だ。
勝新は、勝新にしか見えない。
ブッダに対抗する悪の神官ダイバダッタを、ギラギラと熱演し、宗教映画の抹香臭さを見事かき消してくれる。
釈迦の妻を強制レイプし自殺に追い込むは、狂った神官東野英治朗に弟子入りし妖術は体得するは、某国の王子をそそのかし王族一党皆殺しは目論むは、まぁ、悪の総元締めみたいな役どころで、ひとり例外的に出ずっぱり。評価の高さが伺える。
しまいに、地割れに飲み込まれ、死にかけるところを、お釈迦様の伸ばす蜘蛛の糸で救われたりして。
「それは、原作が違うだろ!」
当時劇場に詰め掛けたお客さん全員も、(志村に突っ込むが如く)当然突っ込んだ箇所だと思うが、いずれにせよ、おいしい。おいしすぎる。
だから、私が最終的に申し上げたい結論は、以下の通りである。
三隅研次も最初から同じ結論だったのだろうと思う。
「どんな突飛な映画だろうと、勝新に任せておけば、大丈夫。」
だから諸君、安心して信心したまえ。
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