『デッドリー・スポーン』 (’83、米)
「奇跡は誰にでも、一度起きる。だが、起こったことには、誰も気づかない。」
(楳図かずお『わたしは真悟』より引用)
恐ろしく低予算の、荒れた映像。16mmフィルムをブローアップして、35mmに焼いて劇場で公開したのだという。
当時のアマチュア・フィルムメーカーが夢見るようなことを実際に成し遂げてしまったのが、この映画だ。奇跡は信じる者に起きるのだ。
『デッドリー・スポーン』。
さえないアメリカの田舎町に、宇宙生物がやって来て、人間を喰いまくる。ただそれだけのシンプルな映画。スタッフもキャストも、全員無名だった。
かの『エイリアン』('79)が復権させた、未知の生物に人間が次々と襲われる、五十年代SF映画の黄金パターン。
ダン・オバノンの考えが、それだけ普遍性を持っていた証拠だろう。同ジャンルを踏襲した映画は、(それなりに好き者の)われわれでさえ食傷するほど作られ、80年代ちょっとしたブームを来たすことになる。
一方で、『ハロウィン』『13日の金曜日』を始祖とするスラッシャー映画の系譜と、リック・ベーカー(『狼男アメリカン』等)あたりが牽引した特殊メイクの深化。
血まみれの残酷度を上げることが、逆転して、乾いた明るさを映画にもたらす。
だから、傑作『デッドリー・スポーン』の登場は、ある種、時代の必然だった。
それにしても、当時のブームを振り返ると、なんと人間がよく動いていたことかと思う。
裏方だったSFXマンがスター扱いされ、無名の新人俳優が主演を勝ち獲る。
カロルコ、エンパイアなど新興資本の勃興、旧来のハリウッドシステム自体の弱体化、ビデオ文化の普及に伴う新しい顧客ニーズの汲み上げ。
何につけ、ブームとはそうしたものなのだろう。業界全体を支配した熱気は、たいしたことにない屑フィルムさえ輝かしてしまう。
70年代終わりから80年代前半までのアメリカ映画には、従来の興行界の常識を覆す、説明しがたいエネルギーが横溢していた。
『デッドリー・スポーン』は、そんな時代の申し子だ。
まず何より特筆すべきは、怪物のデザインだろう。
無数の短い牙が生えまくった、口だけの醜い姿。胴体もあるにはあるが申し訳程度。鉤爪の生えた細長い足は巨体を動かすには力不足で、のろのろとしか移動できない。
幼生体はオタマジャクシを伸ばしたような形状で、既にして凶悪な牙が多数生えている。 判りにくい例えで申し訳ないが、『ピラニア』('78)の歯を持つ、『シーバース』('75)。これが一番正確な記述だ。
この怪生物が、その後のジャンルムービーに与えた影響力は絶大で、かの巨匠トビー・フーパーまでが傑作『スペース・インベーダー』('86)で怪物のデザインを丸パクリ。(正確にはスタン・ウィンストンのデザインだが。とはいえ、この映画の企画自体、50年代SFの80年代的リメイクという別の共通項を持っていたりする。)
全編に漲る気の効いたユーモアは、さらに悪ノリを加えたピーター・ジャクソンの『バッドテイスト』('87)に引き継がれ、『ブレインデッド』('92)に到る。(ニュージーランドの片田舎でせっせと四年をかけて宇宙人侵略映画を撮っていたジャクソンが、本作の直接的な影響下にあるのは間違いなかろう。ラストのオチも似てますし。)
『トレマーズ』('89)の地底怪獣グラボイズは、怪物のスピード面が強化された正統な嫡子ということになるだろう。あいつも、立派な口だけのモンスターだ。
そうしたジャンルの王道要素に加えて、『死霊のはらわた』('81)を嚆矢とする、やり過ぎなスプラッタ描写まで取り入れ、こういう下らない映画を目当てにわざわざ足を運ぶ、胡乱な観客のニーズに、満遍なく応えた仕上がり。
余り有り難みはないが、お色気方面にも抜かりなく、冒頭のシークエンスでは、ネグリジェのおばさんがスケスケのヌードを披露してくれたりする。
(「シナリオの書き方」などには載っていないが、冒頭部分にヌードを出すのは、娯楽映画の重要な作法である。例、『殺人魚フライングキラー』『ゾンゲリア』)
まさに、完璧。ジャンル映画の満艦飾だ。
ファンが作る自主映画というのは、往々にして駄目な遺伝子を混入し易い筈なのだが、なぜか、この映画に於いては、悲惨な事態は巧妙に回避されてしまう。
オタク映画特有の気恥ずかしさがないので、一般観客の皆さんにも、安心して楽しんで頂ける筈だ。
主演が、ヒルデブランド兄弟(SFアートのジャンル画家、当時は結構売れっ子)の、どっちかの家の長男(笑)という悪条件はさておき、何ゆえかくもバランスのいい娯楽映画が成立し得たのか。
以下推測してみよう。
ひとつには、これも自主映画だが、ジョージ・A/ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)を下敷きにした物語の構造がある。
墓場から死者が次々と蘇えり、一軒屋に籠城する人々を襲う。誰でも知ってる『ゾンビ』('78)の、前編に当たる白黒映画。ゴアメイクも効果的で、(当時はまだ目新しい)内臓描写も強烈。ドキュメントタッチのクールなカメラワークは、低予算映画の枠を超えたインパクトを世間に与えた。
この手法を踏襲すれば、セットは在りものを使うだけでいい。家一軒、破壊する覚悟があればだが。セットは本物。そうすれば、誰も知らないような、冴えない俳優さん達もかえってリアルに見えてくる。
その分浮いた予算は、怪物のプロップに廻すことが可能だ。
なにせ、動きの遅いモンスターだ。なめられないよう、とにかく、たくさん作れ!『スクワーム』('76)に負けるな!
無惨に喰い千切られる人の顔面(皮膚が餅の如くグニョーッと伸びる)や、切り落とされた手首(アップにすると、素材感がバレバレ)、すっこ抜ける首(かわいいカツラ付き)など、特殊メイクも隙あらば大量投入!(ま、多少の安っぽさは否めないが。不思議なもので、慣れればそれすらチャーミングに見えてくる。あばたもえくぼ効果か。)
となると、逆に、役者は無名の連中でなくてはならない、必然性が生じる。
主役はあくまで口だけの怪物なんだから、次々と死んでいく犠牲者たちは、顔も知らない皆さんでなくては。変な上昇志向を振りかざす奴なんか、願い下げ。
残虐かつバカげた死に方を厭わない、わずかなギャラの為ならなんでもする、献身的精神の持ち主が理想的だ。(特に、首をもがれ、窓から落下する女優さんは、本当見上げた根性。あんた、今輝いてるよ!)
これは主役不在の集団劇であるが、どのみち、一番おいしい役は、ヒルデブランド家の坊やで決まりなんだし(笑)。
音楽なんか、もう、シンセ一台で充分。カーペンターだってそうしてるよ。
以上の記述でお判りの通り、ジャンルの前任者達の達成を多々踏まえた上で、かなり危険なバランスで成立している、曲芸のような映画である。
監督の演出はまともだが、場を攫うほど腕がある訳ではない。
前半なんか、かなりお寒くなる瞬間(アタマの、ベッドルームで最初の犠牲者夫婦のシーケンスなんかヤバかった。ただ撮ってるだけ。夫婦モノのAVみたいだ。)も、確かに存在している。
だが、後半部にかけての、異様な熱量の盛り上がりはどうだ。
無名の役者諸君もなんだかノリノリ状態ではないか。一体どうしたんだ。
この駄目映画に、何が起こっているというのか。
冷静に考えれば、それは一度っきりの奇跡と呼ぶしかあるまい?
信じる者に、奇跡は起こったのだ。
しかし、その後、この映画から大成して、一般映画の観客に知られるようになる存在は出なかった。
映画自体も、ジャンル内で消費され、特にジャンル映画制作者の側に多大な影響を及ぼしたが、レンタルビデオ屋の棚に行儀よく収まり、それ以上の展開はなかった。
まァ、当時一部の人達が間違いなく「傑作」と認知した。
それだけのことだ。
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