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2010年1月

2010年1月31日 (日)

鬼城寺健『呪われたテニスクラブ』 ('85、日)

 鬼城寺健は、オニジョージ・ケンと読むのだ。
 
 どうだい、この名前?なにか素敵なミラクルを感じないか。
 団鬼六の時代から、「鬼」の一文字を持つ名前は、和製ポルノ作家のトレンドとなった。
 いわば、「心を鬼にしてひどい場面を書くゾ!」という作者の立派な決意の表れだ。受験生のハチマキみたいなものだ。
 (まぁ、今どき、受験とはいえ、そんな古典的な奴らは少ないだろうが。)

 われらが鬼ジョージ先生は、だから、画風・内容ともにエクストリームを志向するハードコア路線の旗手ということになる訳だ。
 あぁ、誤解無きように。
 別に、この作品はハードコア・ポルノじゃないよ。お子様向きのホラーだよ。(本当に?)
 テーマは、ずばり人体破壊だ。

 小学生の女の子七名のテニス部は、引率の森先生(おやじ)、ざぁーます先生(登場人物紹介にも、この名前で表記されている。予想の通り、メガネのおばちゃん。)と杉先生(美女)に連れられて、山花高原のペンションに合宿にやって来た。
 なんで、先生が三人も必要なのか謎だが、まぁ、真夏のペンションだからだろう。東都大テニス部の楽しいお兄さん達も、一緒だ。
 この一帯には、平家の落武者伝説があって、意味不明の事故や怪奇現象が頻発している。そんな土地でペンションを営んでも、客なんか入らないと思うのだが、スキンヘッドでデブ、平口広美似の呑気なオーナーは気にしていない。
 主人公典子は超能力少女で、トランプのカード当てなどお手のもの。
 大学テニス部には、イケメンも居るが、なぜか不釣合いなオカルト好きのメガネ(童貞)が一名居て、こいつが不用意に悪魔復活の呪文なんぞを唱えてしまったもんだから、事態は急速に悪化。
 甦った平家の姫(腐乱死体)に誘惑され、メガネくんは秘密の地下墓地でベッドイン(!)。姫の姿は、魅入られた者には絶世の美女と映る、お約束。
 さらに、その、死体を相手の本番行為を、ペンションで寛ぐ小学生達にテレビを通して生中継(!)。
 そんな愉快な騒ぎの中、典子たちの仲間が、突然行方不明に。嫌な予感がしていると、またしてもテレビから再現VTRが。
 鉄球並みの硬度と化したテニスボールに、脳天をブチ割られ、即死する小学生!!
 
そして、テレビからは、彼女の生き血が滴り落ち、画面に映された死体が変形していく。もはや人間じゃない姿になった死体は、ブラウン管を破壊し、典子たちに襲い掛かって来る。
 落ち武者VS超能力、最終決戦の火蓋は切って落された・・・・・・。
 
 余りの面白さに、ついつい、ストーリーを書き連ねてしまったが、本当に素晴らしいのは、話の乱暴さよりも、鬼ジョージ先生の暴走するペン先なのだ。あえて、「お筆先」と呼びたいくらいだ。
 なんというか、これは劇画からの一撃、「ファッキン!手塚治虫」主義なのである。
 多少はメジャーな例で、似た絵柄を探すと白土三平『カムイ伝』の二十巻を越えたあたり、百姓一揆で話も絵も一番荒れていた頃に近い。
 鬼ジョージ先生は、おそらく、小じんまりと纏まるよりは、「勢い重視!」のスタンスでやって来られたに違いなく、同傾向の天才いばら美喜先生(この凄いお方については、後日項を改めて詳述する。)に比較すると、「絵が、雑。汚い。」という誤った印象を持たれがちであった。
(まぁ、私やスズキくんが単純にそう思っていたわけだが。)
 本作では、その不満は見事、ストーリーと渾然一体となって、解消されている。
 まさに、鬼ジョージ版『悪魔の招待状』だ!
(注・これはAC/DCの名作のことではなく、いばら先生の人体破壊路線の代表作のタイトルである。内容は、ポルトガルの悪魔による三家族惨殺だ。) 
 
 このマンガは、実は同時期に欧米で巻き起こったスプラッタ・ホラー・ブームを受けて制作されたものに違いなく、グチャグチャ粘液度は低いものの、より乾いたマカロニ的な残虐描写が堪能できる。
 (しかも話の骨子なんか、まんまサム・ライミ『死霊のはらわた』だったりする。)
 お互い、異常に怖い顔で睨み合って、血管がブチブチ破裂する超能力合戦も素敵。(実際、ページ数かせぎの意図としか思えない。)
 しかし、大友の『童夢』がちまちまと細密描写を繰り広げていたのに比べ、このロウファイさはなんて爽快なんだ。
 ゴー、ゴー、鬼ジョージ!!と、思わず声援を送りたくなるではないか。

 ブラックメタルやサタンメタルなんか遥かに超越して怖い、鬼ジョージ先生の「異常な顔のどアップ」については、傑作『悪魔つきの少女』のジャケット画を参照されたい。
 
 本物の手ごたえが、ご堪能いただけると思う。

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2010年1月30日 (土)

『カルティキ 悪魔の人喰い生物』 ('59、伊)

 ジャンルに関心のない皆さんにとって、傑作『カルティキ』ですら単なる怪獣映画にしか見えないことは、百も承知だ。
 私が伝えたいのは、これが「良く出来た怪獣映画で、どなたでも充分楽しめますよ。」ということなのだが。わかるかね?この違い。どうだろう。

 かつてそういうマニア以外の諸君を捲きこむために、TVの洋画枠が有効に機能していた時代もあった。
 だから、その当時を知る方々には、
 「マックィーンの『絶対の危機』('58)みたいな映画ですよ。」
という紹介も可能だろう。
 つられてマックィーン主演の他の傑作、『ブリット』だとか、あの忘れ難い『ゲッタウェイ』の話も出来るかも知れない。
 だが、これで話にノッてくれる方は、だいたい四十代、五十代以上だ。
 
 あるいは、もっと俗っぽく、
 「『ウルトラQ』みたいな映画ですよ。」
 という紹介ではどうだろうか。
 『ウルトラQ・ザ・ムービー/星の伝説』('90)を連想させて、陳腐でマイナスか。あれはマズかった。実相寺の株価はさらに下がった。
 
 ま、それはともかく。
 不定形のモンスターが人間を襲う。
 こいつは明らかにハマーの開拓した分野で、宇宙飛行士が腕に怪物をブラさげて地球に帰還する『原子人間』('58)や、放射能を吸収し巨大化する不定形生物『怪獣ウラン』('56)などが始祖とされる。
 これらのヒットを受けて、バッタ物大国(一応、褒め言葉)イタリアが製作した『カルティキ』は、日本未公開作品で、ビデオ時代からタイトルのみ紹介本で流布されてきた幻の一本である。
 私は、単純に、これを観られて嬉しい。

 千五百年前、古代アステカ民族は、戦争や災害があったでもないのに、都を捨てて大移動を行った。その原因は何か。
 住む人の居なくなった都は廃墟となり、禁忌の場所として語り伝えられている。
 この地に、若い二枚目の教授が妻を連れ、探検にやって来る。どうやら、移住の謎は、古代人の崇拝していた女神カルティキに関係があるようなのだ・・・・・・。

 撮影と特撮に、後にイタリア怪奇界の大物となるマリオ・バーヴァが噛んでいるので、締めるべきところは締まった、実に見応えのある映画になっている。
 遺跡での水中撮影とか、カルティキに消化された人間の特殊メイクなど、律儀さに感心させられる出来映え。
 後半、イタリアに舞台が移ってからの展開もちゃんとしていて、「主人公夫婦の内輪喧嘩」「主人公の友人が妻に横恋慕」、さらに「その友人を慕う、情熱系(笑)の黒髪美女」という人間ドラマを横軸に敷いて、怪物の出ない場面もテンションを崩さず、73分を観せ切る堅実さ。
 
 主人公の警察署からの逃亡の仕方とか、クライマックス、砲塔から火炎放射する戦車だとか突っ込みどころがない訳ではないのだが、まぁ、そんなのは腐ったマニアが突けばよろしいではないか。
 (俺は、マニアは全員、人間のクズだ、と確信している。)
 あと、主人公の妻、派手で顔の大きいイタリア美人ね。オープニングのジャングル(セット)で、ノーブラ。強調しとく。ノーブラ。
 
前半では、原住民役の姐さんの、パンツ丸出し、セクシーダンスもございますよ。熱海に来テネ(笑)。
 
 それから、個人的な見どころとしては、カルティキに寄生され悪魔のような性格に変貌していく主人公の友人役が、知り合いのロックシンガー、中町チカラさんに驚く程そっくり。
 中町さんは、その他にも国内外問わず、多数の映画に出演(『狂い咲きサンダーロード』とか)されているので、彼を知っているとさらに映画が楽しく観れますよ。お勧めです。

 こういう楽しい映画が、「白黒だから」とか、「CGじゃないから」とかの下賎な理由で、一部の人達にしか観られていないという現状は、やはり改善していかなきゃいけないんじゃないか。
 誰に頼まれたわけでもなく、勝手に宣伝マンをやりながら、そう思うのだよ。わかるかね?

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つのだじろう『悪魔の手毬唄』 ('76、日)

 暮れなずむ仙人峠から見下ろすと、鬼首村が一望される。
 
 本村の奥まった一隅に鬩ぎ合うようにして並ぶ、仁礼と由良の両屋敷。白い土塀と幾つもの蔵に囲まれ、それぞれに覇を競っている。
 左手には、墓地や陣屋跡を擁する寺の黒い甍が覗き、向かい合う小高い山は一面に、段々に造られた葡萄畑の棚に覆われている。急な斜路を上り詰めたところには、仁礼家の経営するぶどう酒工場がスレート葺きの屋根を広げている筈だ。
 山からは細々と滝が湧き出しており、あの可哀相な「枡で量って、漏斗で飲んだ」死体が発見された滝壺へと流れ落ちる。水の行く先は、深々と黒い水を湛えた大きな沼だ。夕暮れの光の中で不気味に静まり返る沼地の畔は、無数の葦に覆われ、嫋々とたなびく只中に多々良放庵の慎ましい苫屋が見え隠れしている。
 そして、峠を下ってすぐの辻に、青池リカの営む鉱泉宿「亀の湯」の看板が掛かり、あの痛ましい事件から長い時間が経過していることを忘れさせてくれる。煙突から白い筋が流れているのは、女中のお幹が夕餉の支度に勤しんでいるのであろうか。
 
 仙人峠を照らす夕陽は、今にも山の端に差し掛かり、暮れんとするばかり。
 そんな黄昏どきの山道で、異様な風体の人物が二名、対峙している。

 「ごめんくだせぇ。おりんでござりやす。」

  白い頬被りをして、長い木の杖を持ち、腰の曲がった老婆の扮装をしたスズキくんは、ジッと面を伏せたまま、低い声で云った。
 対面する人物も、まったく同じ格好だ。
 やはり、杖を突き、深くこうべを垂れた老婆である。こちらは、何故か焦ったのか、わざとらしいシワガレ声で一気呵成に喋った。

 「へぇへぇ、おりんでござりやす。今度お庄屋様のところへ、帰って参りやした。なにとぞ、可愛がってやってつかぁさい。」

 沈黙。
 ジリジリと時が流れる。
 両者、一歩も譲らず、互いに相手を窺っている気配だ。
 彼方でカラスの群れが、寝ぐらへ急ぐ。忙しない声が遠く響いた。

 「・・・おりんで、・・・・。」

 業を煮やしたスズキくんが躊躇いがちに口を開くと、相手が押し被せるように絶叫した。

 「ござりやぁーーーす!!」

 「なんだ、お前?!」
 キレたスズキくんが杖を投げ捨て掴み掛かると、相手も同じく組み付いて来た。
 しばし峠の山道では、腰の曲がった老婆同士の大格闘という珍しい光景が展開した。
 引っかく。摘む。殴る。蹴る。
 両者とも同じ格好だから、ドッペルゲンガー同士の戦いを見ているような、まさに悪夢の一場面である。

 しかし、「古本好き」という重いハンディキャップを背負っているとはいえ、まだ二十代の若さの好青年スズキくんは、次第に優勢となり、遂には相手を組み伏せることに成功。
 地面に顔を押し付けて、頬被りを外してみれば、

 「あッ、なんだ、あんたは。」
 
 卑屈そうに照れ笑いするその顔は、毎度お馴染み、行きつけの古本屋のおやじだ。
 「いやー、参った参った。強いなー、あんた。ホレボレしちゃうなーッ。」
 汚い歯茎を見せた。

 「マスター、なんでまた、こんなところに。」
 拍子抜けしたスズキくんは思わず素に戻り、問い正した。
 「その声はやっぱり、スズキくんか。」
 おやじは嬉しそうに笑い、背負った笈子を地面に降ろし、背伸びした。
 「あぁ、苦しい。正月に雑煮を喰い過ぎた年寄りみたいな気分だ。二十一世紀のことは、若手に任せて爺いは引退を決め込みたいんだが、この不景気で貰える筈の年金はカット。碌に手当てもありゃしない。逝くも地獄、生きるも地獄とはこのことだよ。」
 「なに、一息に捲くし立ててンですか。質問に答えてください。」
 「きみこそ、なにを素ッとぼけてるんだ。そんな格好をして。」

 「あの、総社の町でコスプレ大会が開催される。
 となりゃ、格好はこれ以外、なにがあるというんですか。ボクは思いつきません。」

 「おぉ、総社ね。忘れている人がいるといけないから、念のため情報を補足しておくと、横溝正史『悪魔の手毬唄』の事件が起こるのは、岡山県鬼首村。山間の小さな村だね。それに隣り合わせに、ラストの印象的なシーンの舞台となる総社の町があって、金田一は事件の手掛かりを求めて、仙人峠を通って歩きで往復したりする。
 その途中で遭遇するのが謎の怪老婆・・・・・・。」
 「おりん、でござりやーす。」
 チリン、と鈴を鳴らした。 

 「そういや、つのだじろうのマンガ版『悪魔の手毬唄』にも、おりんの場面は大きく扱われているんだよ。これを見てくれ。」

 おやじは、汚い茶巾袋から取り出した富士見書房ワイルド・コミックス版の単行本を地面に拡げて、
 「ホレこの通り、見開きと大ゴマを駆使して最大の見せ場として演出してるだろ。
 “ヒタ、ヒタ、ヒタ”なんて書き文字(擬音)にもかなりの気合いが感じられる。つのだも、この場面だけはハズせない、と覚悟を決めたんだろうな!」
 「日本の探偵小説で、名場面・名ゼリフ百選を決めるとしたら、間違いなくトップテンにランクインするシーンでしょうからね。
 でも正直、小説版の出来が良すぎて、映像化してみると意外と普通なんですよね。」
 「うん、小説だと、じわじわ来る怖さが味わえるけど、絵にしてしまうとそれきりだ。市川崑の映画では、余韻部分はカットして、それよか解り易くて見た目も派手な、死体陳列ショーに主眼を於いたつくりになってたな。」
 「土蔵に老婆の影が大写しになって、大空ゆかりが悲鳴を上げるなんて、いまどきコントにもならないですからね。映画公開当時、ドリフがよくパロってましたよね。」
 「おまえ、幾つなんだよ!年齢詐称か?!(笑)」
 
 「ところで、つのだが描く、おりんとの遭遇場面なんですが・・・・・・。」
 スズキくんは、不審そうに頁を指差した。
 「この、丸メガネでおばさんパーマで、チョビ髭の小男は誰です?小学校の校長なんか、出て来ましたっけ?」
 「バカモノ。
 それが、金田一耕助さんだ。」
 「ヒェェェーーーーーーッ!!たたりじゃーーーーーーッ!!」
 「古いなァ。」 

 「つのだ版は、その他にもストーリーとかキャラ設定とか、アレンジがとんでもないことになってるんだよ。
 まず、事件の鍵となる童謡『悪魔の手毬唄』なんだが、ムード歌謡として全国的大ヒット中だ!
 しかも、この歌詞たるや、裏の庭のスズメ三羽がまったく関係ない!つのだ先生が勝手に書き下ろした、セリフ入り殺人ソングだ!

 「♪あなたの背後に、手毬を持った白い髪の少女がいたら~」

 って、コレ、モチーフはフェリーニ『悪魔の首飾り』じゃないか!悪魔つながりか?!

 「♪(セリフ)そうよ、勿論殺すのよ!
 キラキラ光る銀の釘を、身体じゅうに打ち込んでやるわ!」

 この、不吉過ぎて常人の神経では耐えられない最低の唄を歌うのが、由良泰子、仁礼文子、別所ゆかりの三人で結成されたアイドルユニットだ!俺はもう、狂いそうだ!しかも、なぜか、全員トップレス!いやん!ばかん!」
 「その点は、エロサービス好きのマスター、高評価なんでは?」
 「ところがそうでもない。つのだの描く女性像は、劇画の脇役みたいで色気が皆無だ。おっぱいなんか、丸い円盤二個が張り付いただけ!目つきも恨みがましく、貧乏臭くて実用に耐えない。いい加減にしろ!」
 「相当、怒ってますね。エロ好きだからこそ出てくる、真の怒りですね。」
 「心の叫びだ。もっと真面目にやれ。
 その他、クライマックスには降霊会が開催され、死んだ犠牲者の霊が真犯人を語る、とか凄いことになるんだが、別段面白くはない。」

 
「エッ?!」
 「マンガとしては、さして面白い出来ではないよ。話の種に読んでみれば、ってレベルだよ。誰でも知ってる名作を、ここまで最低に改竄できる、って行為自体は魅力だけどな。横溝先生、怒って墓から出てくるぞ。」
 
「でも、つのだ先生、この時代に『八ッ墓村』『犬神家の一族』と連続で三本も横溝のマンガ化を任されてるんですよね。」
 「『手毬唄』が一番トチ狂った出来らしいけどな。実際、このシリーズはこれで打ち止めになるわけだし。映画版が'77年公開だから、先行プレミア公開だったんだよ、実は。そういう活躍を期待される場で、如何に自分勝手にやるか。その努力に関しては敢えて賞賛を送りたい。ハズした、という結果も含めて。」

 ふと気づけば、陽はとっぷりと暮れ、辺りは急速に暮色を増していく。
 老婆の扮装をしたふたりは、連れ立って鬼首村を後に、総社の町へと歩き始めた。
 と、前方から、ヒタ、ヒタと迫り来る不吉な足音が。
 
 「やべぇ、本物だ。」

 思わず顔を見合わせ、総毛立つふたりだったが、近づいて来たのは、木綿の絣を着た小柄な老女。
 杖などまったく突いていない。
 おやじが、恐る恐る声を掛けた。
 
 「・・・もし、おばあさん。どなた様だね?」

 老女は耳が遠いのか、しばらく、不信げに「あァ?!」とか、「うゥん?!」とか繰り返していたが、やがて得心したらしく、突如大きな声で返事した。

 「浦辺粂子でございますよぉぉぉーーーーーー!!」

 「なぁんだ、浦辺粂子か。」
 去って行く老女の後姿を見送りながら、おやじは胸を撫で下ろして云った。
 「安心しましたよ、有名女優の浦辺さんで。決して鶴太郎ではない訳ですしね。」
 スズキくんも、緊張のとれた顔で、額の汗を拭う。

 そして、二、三歩踏みかけてスズキくん、立ち止まり、 
 「ん?・・・ちょっと待って。」
 「どうした、スズキ?」
 
 「あの・・・その方、ご存命でしたっけ・・・?!」

 「ギィィィヤァァァーーーーーーーーッ!!!」


 途端、僅か残っていた残照の明かりが消え落ち、真っ黒い闇が頭上から襲い掛かって来て、彼等を押し潰した。

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2010年1月28日 (木)

「おまえにロックの歴史を教えてやろう」

 ロックの創始者は、チャック・ベリーだとか、エルヴィスだとかいろいろ云われているけど、実は全部違う。

 ロックを最初に始めたのはね、北海道の山本さん。
 山本さんが、熊避けに岩をたたいたのが、始まりです。

 もちろん、北海道の人はみんな、危険な動物を追い払うために、家のまわりに埋めてある石をたたく習慣があるのだけど、山本さんのたたき方は、他とはちょっと違っていた。
 二回連続で岩をたたいて、三回目に竹を割った。

 これが地元で驚異的な大ヒットとなり、たちまちチャートを急上昇。ゴールド・レコードを獲得しました。あ、ゴールド・レコードってのは、人の名前ね。

 その後も、いろんな人がロックを演奏してるけど、結局みんな、山本さんの敷いた路線をなぞってるって感じかなぁー。

 俺は、みんな早く目を覚ますといいな、と思ってるよ。
 岩をたたいて、竹を割るなんて、くだらないことだよ。きっと。

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2010年1月26日 (火)

諸星大二郎 『ジュン子・恐喝』 ('70、日)

 「よりにもよって、コレですか。」

 スズキくんは、こたつ台の上にみかんの種を吐き出しながら抗議した。
 台の上には、様々な古文書、例えば室井狂蘭の『信濃秘誌』なんぞが並び、一見格調高く見せかけているが、油断はならない。
 その横には、しれっと、ル・コントス『歩行魚類』が鎮座ましましているからだ。

 「いや、私もどうかと思うのだけれどね。」
 今回は格調高く、古本屋のおやじは優雅に煙を吐き出した。「処女作には作家のすべてがある、なんてもっともらしい連中の鼻を明かしてやりたくてね。」
 「単なる臍曲りですよ、それは。」

 TVでは、『笑っていいとも』がやっている。局が惰性で番組を続けるのは、それについていく視聴者がいるからだ。逼迫しているだろうTV局の台所事情と、タモリのギャラの相関曲線をスズキくんは思った。
 『笑ってる場合ですよ』、『笑っていいとも』と来て、次に始まる番組のタイトルがあるとすれば、これだ。
 『笑えません』。
 (風間やんわりか、とスズキくんは内心突っ込む。)

 「諸星先生には、たくさんの著作があるじゃないですか。しかも傑作揃いだ。マスターもその辺は重々承知でしょう。」
 おやじは、TVなど時間の無駄とばかり、左手にユングの著作を捲りながら、頷く。
 「そりゃあ、作家単体に絞れば、現在うちの書棚に最も多く著作があるお方ですよ。だって何度も読み返しが効くんだもの。捨てられません。
 最初に読んだのが、ジャンプスーパーコミック版の『暗黒神話』かな。
 で、同じく創美社編集の『妖怪ハンター』。『アダムの肋骨』。秋田書店版の『マッドメン』二巻本。で、『コンプレックス・シティ』『地獄の戦士』『子供の王国』と来る頃には、大河連載『西遊妖猿伝』が始まる。」
 「2010年現在、まだ、連載やってますが(笑)。」
 「いや、ホント、その件は今回ね。どうする、どうなる『妖猿伝』、という企画も考えたんだが、なんか2ちゃんのスレで本当にありそうじゃないか。怖いから検索しないけど。たぶん、実際にあるんだよ、ソレ。」
 「なんか、嫌ですね。ガンダムの続きとかと一緒にされたくないですね。」
 「うん。これは由々しき問題でね。
 読者の側からハッキリ差別化しときたい。語るべき場を分けて考えたい。
 私の常々の持論なんだが、

 アニメはもっと社会的に差別されるべきだね。最近、調子に乗りすぎだよ、あいつら。
 諸星先生の偉業と比較できる訳がない。そんなのは、まともな知能を持った人間なら、瞬時に解ることだろう。
 こんなことなら『ヤマト』が出てきた頃に、さっさと潰しておけば良かった。」

 「まぁまぁ(笑)。あんただって、TVの『宇宙戦艦ヤマト』は観てるクチでしょ。だいたい、小学生じゃないですか。当時。」
 「で、『さらば宇宙戦艦ヤマト』で完全に決別、と。ジョン・ウォータースの云う“悪い悪趣味”って、あの映画のことだぜ。畜生。」
 「・・・まぁ、『ヤマト』もまたやるらしいですから。」
 「ぬわにぃぃぃ!!誰が許可したんだ!!(以下罵詈雑言)。」

 「いい加減、諸星先生に話を戻してくださいよ。アニメの悪口は、本当おっかないらしいですよ。あと、声優のことを悪く言うのも禁止です。」
 「エエッ、それもNGなのか?!」
 「特定職業の差別に該当しますんで。続けて。」
 
 「・・・諸星先生、ね。」

 おやじ、先程の激昂を嘘のように鎮めて、
 「最新刊『未来歳時記・バイオの黙示録』やら、『闇の鶯』『栞と紙魚子』シリーズに到るまで。あぁ、『無面目』『諸怪誌異』とかの中国モノやら、『海神記』とかもあったな。
 ひとりの作家で全作品の九割以上読んでる、しかも単行本で、というのは、さすがに私も他に例がないんだよ。まさにワン・アンド・オンリーの作家だね。
 似た例を探すと、あとはラファティくらいか。あ、でも原書で読んでないと自慢にならないな。残念。当然、他に凄い奴がいるわな。」
 「その人、翻訳一冊だけ抜けてるんですよね。しかも重要作『イースターワインに到着』が(笑)」
 「キーーーッ!!その話はするな!!悪魔は死んだ!!」
 再び、収拾がつかなくなって、座っていた位置からピョコリと立ち上がり、叫んだ。

 「話が脱線した。いくぞ、『ジュン子・恐喝』!!
 なんて、景気の悪い題名なんだ!!」

 
「これは、1970年に手塚傘下の『COM』に掲載された、諸星先生の記念すべき第一作ですね。
 内容は、ヤクザが、嘗て同棲していて、今は平凡な会社員の嫁になってる女に、たかりに来て、張り込んでた警察に捕まる。そんだけの話(笑)。
 それを過去と現在のカットバックで描いて、演出構成に閃きはあるけど、地味な印象は拭えない。どんより暗めな、当時流行りのテーマを扱った小品ですね。」
 スズキくんは、冷静に解説する。
 「諸星先生には、これが載る前に、コンテストで佳作になった別の作品があるようですな。
 ともかく、『ジュン子』掲載のあと、数年の雌伏期をおいて、アイディアも鮮やかな名作短編『生物都市』で手塚賞を獲り、なんと、あのジャンプで連載が始まる。伝説の『妖怪ハンター』です(笑)。でも、連載五回で編集者が打ち切り宣言を出し、あえなく頓挫(笑)。
 しかし、さすがに作家性を認められていたんでしょう、今度は歴史的名作『暗黒神話』が始まる。」
 「ま、その辺の話はまた別の機会に。もったいないから。
 で、『ジュン子』なんだが、これどうだったかね、スズキくん?」
 「えぇと・・・ソノ、絵の線が・・・固まってないですね。」
 
 おそるおそる、スズキくんが云うと、意外やおやじ、コックリ頷いた。
 「そこだ。
 
キャリアが四十年にも及ぶ諸星先生だが、実はデッサン力に関してはたいして進化していないのだ。いまだに、こんなもんだ。」
 「エエーーーッ?!」
 「勿論、見せ方は格段に進歩しているが、主線の捉えかたは同じだ。描き慣れて躊躇いによる不安定さがなくなっただけだ。」

 おやじは、自身の読者としての歴史も重ね合わせながら、しみじみとした口調で続けた。
 「80年代初頭に、『マンガ奇想天外』やら『スターログ』なんかで“SFマンガ家三人衆”呼ばわりされていたのが、大友克洋・星野宣之、それに諸星先生だ。
 大友は当時からいわゆる「マンガ」をあんまり描きたくなかったようだ。オレも最初はそれがナウい(笑)と思っていたが、実は違った。『AKIRA』が出たとき、遅まきながら気がついた。あんなの、マンガじゃねえよ。下らない。
 星野先生は、堅実で真面目な作風だったが、如何せん劇画のシャープ化みたいな絵柄が好きになれなかった。ちゃんとしてる。物凄くちゃんとしてるんだが、それ以上の訴求するサムシングに欠けていた。画面外に羽ばたくイマジネーション(笑)という奴だ。

 だから、オレは結果として、諸星先生を支持することにした。
 これは誰も指摘しないから敢えて言うが、『マッドメン』の一巻目で、

 黒いジャングルの中で、アエンの仮面が、現地人の首だけ飲み込んでコッチを睨んでいるカット、超恐えぇよ!!

 あの半ページの縦割りブチ抜きは、忘れられない。
 これこそが、マンガの恐怖表現なのだと思う。」

 「なんか、回答になってない気がするんですが・・・。それでも、諸星先生は絵が下手糞だと仰ってるんですよね?!」
 
 「いや。」
 おやじは、気障に手を振った。「線が不安定だとは云ったが、下手だとは云っていないよ。あれこそが、諸星先生にしか描けない、「異界への扉なのだ。
 マンガの歴史を見てごらんよ、スズキくん。先駆者は常に模倣され、無数のイミテーションは容易に生まれて来る。が、本当に残るのは一握りだ。

 才能とは、単なる器用さではない。
 決して模倣されえない、いびつな何かだ。」

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2010年1月24日 (日)

『バルカン超特急』 ('38、英)

 さぁ、来たぞ。

 これなら誰でも知っている。ヒッチコック映画の傑作『バルカン超特急』だ。
 まさか観てない不心得者がこの世にいるとは思えないが、(ハッキリ書いておく。そんな奴は死んじまえ!)まぁ、なんというかこれは、典型的な娯楽路線のヒッチコック映画だ。
 『北北西に進路を取れ』でも『知りすぎた男』でも、あなたの観たことのある傑作の印象を当て嵌めてみれば、以下綴る私の文章も理解され易いことと思う。

 舞台は、戦争の気配が濃厚に漂うヨーロッパ、架空の国ヴァンドリカ。(しかし劇中に国名は明示されない。必要ないからだろう。)
 製作年度を参照頂ければ、お判りの通り、このやたらと軍人が幅を効かす国は、ナチスが掌握していたドイツ、もしくはオーストリア(この映画の公開は独墺合併の年だ)がモデルとなっている。

 まずオープニングクレジットから本編へ移行する箇所で、あッと仰け反っていただこうか。
 欧州の山並みに、スタッフ・キャストのロールが流れ、終わるとカメラはそのまま同じフレームで、山間の雪に埋もれたちいさな町へ移動する。上空俯瞰で、雪崩れに埋もれた線路と長距離列車、ホームに立つ三人の憲兵を映しながら、街中まで一気に降りてきて、最初の舞台、駅近辺のホテルを中央に捉える。
 すべてワンカット。全体を通して、一番派手なカメラワークはここだけ。
 どうやって撮影したのか考えると、非常に頭が痛いのだが、向かいの尾根にカメラを据えて山麓沿いに移動のレールを組んでおく。高度差は30メートルは必要か。ます遠景をロングで撮ってから、カメラを振って雪の中の駅舎一帯を押さえて、そのままカメラ移動で流れるようにダウン。終端の街中へ辿り着く。
 無理か。
 (後記・真相は、ミニチュアセットと実景のオーバーラップだと和田誠が発言しているのに、遅まきながら気づいた。お恥ずかしい。そう思って再度観直してみると、なるほど駅のホームに立つ三人は完全に人形。町中を通過する自動車もそうでしょ。完璧にだまされた。哄笑するヒッチの顔が見えるようだ。凄いよなぁ。)

 CGも、ステディカムすらない時代の映画撮影というのは、まるで奇術だ。例えばカール・ドライヤーの名作『裁かるるジャンヌ』('29)、ありえない角度で撮られた苦悩するジャンヌ・ダルクの顔が満載である。
 両指を組み合わせ、テーブルに顔を伏せている人間の顔を正面から撮るにはどうすればいいか。映画初期の頃のカメラはとても大きく重い。ドライヤーは中央に穴の開いたテーブルを作らせ、床に穴を掘った。カメラマンは仰向けに地面の下に隠れ、仰角でジャンヌの表情を撮影したのだ。では、そのとき照明の位置は?顔が影になり過ぎないよう慎重に計算されていなくてはならない。すると衣裳も。あぁ、面倒くさい。

 だが、映画の魔術というのは、こういう場所で生まれたのではなかったか。

 そんな手の込んだ撮影シーンを巻頭に持ってきて、スマートに観客を物語へ誘導する。さすがにヒッチコックは上手い。『裏窓』('58)で、例のボロアパートの背面から引きでジェームス・スチュアートの包帯を巻いた足に移動するのと同じ手だ。
 実に使いどころを心得ていらっしゃる。
 全編を見渡しても、こんな撮影が必要な箇所はここしかない。ただし、そんな偉そうなタメグチは、結果として出来上がった作品を微細に検討して初めて云えることなのだ。
 ヒッチコックの真の恐ろしさは、そこだ。
 完成した作品を見れば、各カットが実に論理的に整合性が取れているように見える。それほど美しい。だが、そこに罠がある。
 凡百のヒッチコック信者なら、例えばあの『映画術』に記載されている理論をまるまる鵜呑みにして、見事に誤った使い方を披露してくれる筈だ。
 彼の理論は、あくまで彼個人のものだ。

 天才の映画は、模倣できない。

 
凡庸な諸君は、そこのところを重々わきまえて置くように。
 以上を頭に入れて、デ=パルマの『殺しのドレス』('80)や『ミッドナイト・クロス』('81)を鑑賞してみて頂きたい。感慨深いと思う。
 
 さて、『バルカン超特急』は割り切った娯楽映画である。ゆえに第一義、面白くなくてはならない。そして、ヒッチコックは、観客を楽しませることに才能を惜しむような人物ではないのだ。
 映画を面白くする工夫を常に怠らない姿勢は、例えば、以下のようなシーンに要約される。

 『バルカン超特急』は、列車内で同席していた老婦人が忽然と消え、主人公以外、周囲の乗客も乗務員も誰も彼女を見ていない、という謎を解明する物語である。
 (しかし、こうして書き出してみると、これだけで充分無理のある、いびつなシチュエーションだな。これでちゃんと映画が成立するのだから、大したもんだ。)
 行方不明の婦人を捜して貨車に潜入した主人公が、まず出くわすのが揺れ動く巨大な竹カゴ。これは怪しいと蓋を開けると、飛び出すのは、暢気そうな山羊の顔。可愛い。観客が和んだところへ、背後の荷物をどけると、実は誘拐犯一味である奇術師の等身大立て看板。精巧な出来で、気味悪い。そして人間消失術に使われる、仕掛けのあるボックス。内部に回転床が仕掛けてあり、中に入った者はそのまま、開いている背面の出口から抜け出すことができる。感心しているところへ、背後から襲い掛かる奇術師その人。格闘の末、奇術のボックスへ。回転してよろめいて出てきたところを、頭をゴチン。
 格闘が始まるところで、可愛い山羊が竹カゴの中へスッと頭を引っ込めるところなど、いちいち出した小道具を全面活用。まさに完璧である。

 あぁ、もうひとつ蛇足を承知で。
 これは映画開闢以来、使われている古い手なのだが、重要なやつを。
 見事、拘束されていた老婦人を発見し、閉じ込められた列車のコンパートメントから脱出しようとする主人公。走る列車の窓から出て、隣の客室へ移動しようとするのだが、壁面に身を乗り出した途端に、進行方向から別の列車が接近して来る。あわや接触の寸前、身を伏せる。通過する列車。風圧で手すりから落ちそうになる主人公。ハラハラ、ドキドキ。

 云うまでも無いが、反対から列車が来る必然性はないのである。これこそが、映画を面白くする為の仕掛けだ。観客というものはスリルに巻き込まれている間、事態の悪化は素直に受け入れるという特性を持っている。(好転は、なぜかこの限りでない。)作劇者の立場は、この特権をフルに活用し、ギリギリ整合性のある嘘を吐き続ければよいのだ。
 ヒッチコックの巧いところは、この場面を背後からの連続ショットで収めているところだ。

 手前で、壁面にしがみつく主人公を見せておいて、進行方向に対向列車の煙りをまず出す。手がかりを探し悪戦苦闘する主人公。次に汽笛。まだ、掴めない。列車の姿が迫る。駄目だ、振り落とされるぞ。両手でバーにしがみつき、身を固める主人公。
 通過の轟音と、風圧を画面いっぱいに。
 そして、一瞬で列車が通過していってしまうから、どれくらいスピードが出ているのか観客にも見事伝わる訳だ。
 この間、ワンカット。定石の見事な使用例としか云いようがない。

 この無条件に楽しい娯楽映画のヒットは、ヒッチコックがハリウッドへ進出するきっかけとなった。
 大半が列車という限定された舞台で展開されるにも関わらず、観客はあれよあれよという間に転がっていく物語のテンポに引きずり込まれ、クライマックスの銃撃戦を迎えることになるだろう。
 だから、94分の映画を観終えて、諸君はただ呆然と呟かざるを得ない筈だ。

 こりゃスゲぇ、面白れぇ、と。

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2010年1月23日 (土)

クリスチーナ『DOLL IN THE BOX』 ('80、米)

 この女、大卒である。しかもハーバード。

 最早、差別意識むき出しであるが、なんでまたそんな女がディスコミュージックを歌っているのであろうか。
 もっと他にやることはなかったのだろうのか。G.M.の受付嬢とか。アラブの富豪と結婚するとか。

 例えば、われわれは、菊川玲を知っている。異様に地味なタレントだ。
 私は、つねづね彼女を不思議に思ってきた。どう見ても、これは普通の人だ。特別、華がある訳ではない。それでも一般的認知度が高い理由は、「なぜかTVによく出ている」からであり、なにより「東大出」だったからだ。
 「東大出」。
 わが国における魔法のキーワード。例えば、以下のケースを想定してみたまえ。

  「東大出のAV女優」

 おぉ、なんとなく売れそうな感じがする。さらに付加してみよう。

  「東大出のAV女優の、女教師モノ」

 完璧だ。
 知的で、かつ淫乱という背反するイメージ。なにかコトをしでかしてくれそうではないか。
 AVメーカーの営業でなくても、これは売れると判断するだろう。最早そんな過当競争がさんざん遣り尽くされた現在だが、依然として一定の収益は回収できそうだ。
 どうやら、われわれは全員、人間の知能に関して誤った認識を共通して持たされているようだ。
 しかし、これは知性や、「東大」というブランドに対する信仰ばかりではない。
 例を挙げる。

  「漁師出身のAV女優」

 これだけでは予測がつかない。だが確かに、冬の日本海の波濤が聞こえて来る。

  「漁師出身のAV女優の、熟女モノ」

 素晴らしい。決まった。
 これは現地ロケだ。貧乏な古びた日本家屋。天井の梁から吊るされた地引網。囲炉裏も欲しい。女の呼ばれ方は、当然「おかみさん」だろう。生活臭があってやつれているが、相当にグラマラス。男の要求はすべて拒まない。激しいプレイが予想され、行き着くところは和風SMだろう。
 「漁師」というキーワードを、「海女」さらには「尼」と敷衍すれば、さらに違った世界が開けるのであるが、それは諸君の側で勝手に操作して貰うとして、論点を戻す。
 菊川怜だ。
 いや、違う。クリスチーナだ。

 映画『サタデーナイトフィーバー』と、そのサウンドトラックが世界的にバカ売れしたのは1977年、現象としてのディスコブームはわれわれの知る世界像を一変させた。
 誰だかわからない歌手による、なんだかわからない内容(『ジンギスカン』や『マルコポーロ』について、ボブ・ディランが歌うだろうか?)のディスコソングは、四つ踏みのバスドラとシンセの白鍵盤多用の単純なメロディのループに特徴づけられる、どれもこれも似たり寄ったりな感じ。
 ジョルジオ・モロダーに代表されるユーロの軽薄さと、ブラックミュージック出身のお調子者たちが、富田勲から貸し出されたアープ・シンセサイザーの上で奇跡的な邂逅を遂げ、そこへ踊りながら世界各国の人種が雪崩れ込んできた(南米グァテマラだろうが、韓国パキスタンだろうが誰もが踊っていた!)という印象である。

 オーガスト・ダーネルの名前はご存知だろう。
 知らない?では、変名のキッド・クレオールは?大丈夫?あぁ、そう。安心した。話を続ける。
 オーガスト・ダーネルは、今野雄二によって勝手にプリンスのライヴァル視されていた男だ。ファンキー系だが、よりラテン色が濃い。器用で才能溢れているが、如何せん、プリンス先生の強力すぎるキャラ(※ジャイアンに匹敵)には太刀打ちできない。小粒な印象がある。桂。それは小枝。

 クリスチーナのファーストアルバムは、彼(桂小枝ではない)のプロデュース作品で全面的に曲提供も行っている。
 テーマは、ズバリ、ディスコだ。
 でも、ちょっぴり知的なオーガスト・ダーネルと、東大出のクリスチーナが組んだ場合、ディスコなどという低知能人民の為の白痴的音楽の拡大生産に甘んじる筈もなく、ここで展開されているのは、楽しいディスコ・パロディである。
 シングルも切られた「ブレイム・イット・オン・ディスコ」は、夏木マリ「夏のせいかしら」を意識したとしか思えないファンキーチューンで、恋に落ちたのも、失業保険がカットされたのもすべて全部ディスコのせいなのよ、と他力本願な世界観が全開で押し寄せて来る名曲だ。
 わかっていて、「あえてディスコ」の楽しさは、初期YMOでもご承知だろう、佐藤くん。
 
 ディスコの本質とは、形式である。(どんな形式かは既に述べた。)
 形式さえ踏まえれば、どんなものでもディスコになる。
 (大瀧詠一がなんでも音頭にしていたのは、この思考方式の援用だ。)
 例えば、クリスチーナのシングル「ドライブ・マイ・カー」はビートルズのアレを、ラテン・ディスコ化したものだ。うまいことやって、凄すぎない。良質な部類のアレンジメントだと思う。
 この、「凄すぎない」という要素は重要である。
 本物のディスコは「凄すぎる」からだ。知性の有効なリミッターがない音楽というのは、まともな感覚を持った普通の人間にはしんどい状況だ。(パラパラを踊っていたのが女子高生だったことを想起されたい。)

 音楽を普通に楽しむためには、どうやら、一定の知性が要求されるようだ。

 だが、東大を出る必要はまったく無いので、ご安心頂きたい。 

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2010年1月19日 (火)

『ドック・サヴェジ/魔島』 ('33、米)

 記事タイトル
 「ドック・サヴェッジがその名の通り、マジ野蛮である件」

1.スレ立てた。おまいらの好きなドックについて語れ。

2.おお、スG!

3.>2に同じ。スG。

4.ドック刑事か?あんなん好きな奴いるのか?なんか、ほうけいかわかむりって感じがして、俺様の好みじゃない。
 ロッキー、タイプだ抱かれたい( ^ω^)

5.>4、死ね!ところで、>2に告ぐ。「スG」とはなにか?
 「スージー」?

6.国家の恥さらしは、おまいだ!ウィキ、嫁。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/G

7.オレの持ってるドック・サヴェッジは、全部ハヤカワSF文庫の白背なんだけど、『魔島』が一番古いのかな?
 当時、熱狂した。最高だと思ったwww。

8.その前にハヤカワSFシリーズで何冊か出ているよ。『ロスト・オアシス』とか。

9.やっぱり『マ島』が最強!
 うTの文庫の奥付け見たら、昭和四十九年だった。初版本。

10. スG!!くれくれ。

11.それ、スG!!でも、こないだ近所のブックオフに百円で落ちてたな(笑)。

12.マジレスすると、お前ら全員わKっていない。

 ドック・サヴェッジは、レスター・デントがケネス・ロブスンの筆名で書いた、アメリカパルプ雑誌を代表する大河シリーズ。
 超人的なスーパーヒーロー、クラーク・サヴェッジと五人の仲間の活躍を描く。
 設定の一部は「スーパーマン」やらに引き継がれた。アメリカン・ポップカルチャーの源流のひとつだ。敬意を持って語れ。

13.なんでも、ウィキ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B8

14.いいね、ウィキ。

15.>12へ。孫引きは、ヤメロ。恥ずかしい

16.サヴェッジと、サヴェジ。どっちが正しいの?

17.訳者の故・野田先生は、「サヴェジ」。でも、小さい「ッ」が入るのが、今日では一般的じゃないかな。
 ユーリズミックスのアルバムに、『サヴェッジ』ってあったよね。

18.『魔島』は残虐描写がスG。
 オープニング、博士がナゾの煙りで溶かされる。右手首だけ残して、全身ドロドロになって消されてしまう。
 それがドックの恩師で、怒り狂ったドックが犯人グループを大追跡!
 走って、リムジンを追っかけて、追いつく!

19.そこ、ワロタwww。

20.同意見(*゚▽゚)ノ。『最も危険な遊戯』の松田優作みたい。

21.>18の続き。
 そこから、ドックと犯人グループの壮絶な殺し合い。
 ピストルを乱射する犯人の顔面に斧を叩き込む!カタナで、腕を切り落とす!
 『ホステル』以上!
 ジャック・ケッチャムより凶悪!

22.その画像うpしてくれ。

23.( ̄▽ ̄)””

24.投稿者により削除されました。

25.投稿者により削除されました。

26.投稿者により削除されました。

27.http://www.youtube.com/verify_age?&next_url=/watch%3Fv%3DR6wolnRLZvY%26feature%3Dplayer_embedded

28.おまいら、マジむかつく。オレのドックは、そんなんじゃない。
 おまいらの家に行って、蛇の皮はいだヤツ、置いて帰る。
 くつしたのニオイ、つけてやる。
 泥のだんごを鼻の穴につめる。

29.せんせーい、小学生いますよー。
 

(゚▽゚*)( ̄▽ ̄);:゙;`(゚∀゚)`;:゙o(*^▽^*)o
 (゚▽゚*)    (*゚▽゚)ノ
        (゚m゚*)
       (*゚▽゚)ノ
      (◎´∀`)ノ
       (*^-^)
        (≧∇≦)(*^ω^*)ノ彡
           (○゚ε゚○)

30.おーい、志村。うしろ、うしろ。

31.・・・誰も『魔島』を愛していないな・・・・・・。

32.エンパイア・ステート・ビルに入っているX-ソンの店員、マジむかつく。


(このスレッドにはこれ以上返信できません。)

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2010年1月17日 (日)

『世界終末の序曲』 ('57、米)

 映画は、知恵と努力の産物だ。
 バート・I・ゴードンの偉業をせせら笑う前に、私は諸君にその資格があるのか否か、問いたい。

 勿論、これは馬鹿げた映画だ。

 「巨大イナゴ(体長二メートル以上!)の大群によって、シカゴ壊滅!世界滅亡の危機迫る!」

 現代の視点で考えれば正気では考えられない企画であるが、ちょっと待て。これに似た映画を観たぞ。あぁ、『スターシップ・トゥルーパーズ』('97)か。確信犯だな。
 『世界終末の序曲』は、以前は『終末の兆し』としても紹介されていた。今回の邦題はアーウィン・アレンの腰砕けパニック映画『世界崩壊の序曲』('80)のもじりだ。発売元オルスタック・ピクチャーズ担当者のとんちに、素直に拍手を送りたい。

 この作品の最大の特徴は、監督バート・I・ゴードンが本編演出以外に特撮も手掛けていることだろう。
 彼は、特殊効果マン出身なのか?否、そこにバート・Iの最大の特徴がある。特撮の専門知識などなくても、巨大怪物の映画は撮れる!
 彼は職人肌の、しっかりした演出家だ。物語はテンポ良く進む。実際に画面に巨大イナゴが出現するまで、誰もが期待して観るだろう。
 さて、問題はそれからだ。諸君の度量と見識が問われることになる。

 オープニング。深夜、郊外の森でデート中のアベックが襲われ、大破した車の残骸だけが見つかる。なぜか死体は、消えてなくなっている。続いて、町一個が壊滅の知らせが届く。150名の住民が行方不明に。建物は倒壊し、戦火にでも晒されたかのような無惨な有様だ。(というか、実際の戦時下の記録フィルムを使用している。ひどい。)
 主人公の女性記者は、放射能関与の可能性に思い当たり、周辺にある農業試験場へ行く。巨大トマトに巨大イチゴ(ハリボテ)。これを食べた昆虫が巨大化し、人間を襲っていたのだ。
 ・・・と、導入部は完全に『放射能X』('53)を踏襲したつくり。このフォーマットは幾多の映画が取り入れている、ジャンルの古典的様式だ。イオニア式石柱みたいなものだ。
 あちらはワーナー資本だから、ハリボテの巨大アリを準備する予算があったが、バート・Iにはそんなものはない。そこで号令一発、

 「実写のイナゴを合成しろ!」

 「しかし監督、イナゴがやたら飛び廻って、思い通りの動きをしてくれません!」半泣きの撮影スタッフが泣きついて来たのだろう。監督、しばし熟考の末、

 「イナゴの羽根を毟り取っちまえ!
 いいんだ、設定で、羽根は巨大化しなかったことにするから!」


 凄すぎる話だ。
 スタッフ全員、徹夜でイナゴの羽根毟り作業(笑)。
 これでバート・Iの演出がへなちょこだったら、クソの役にも立たないクズ映画が出来上がっていただろうが、手間の掛かる特撮シーン全てをコントロールし、軍隊の出動場面や群衆の逃げるシーンなど、既製のストックフィルムを使い倒し、彼は自分の意のままに映画製作を行ってしまった。
 当時のハリウッドで、スタジオやプロデューサーの意向を排除し、思い通りの映画を撮るのは至難の業だ。しかし、出来あがった映画には間違いなく、バート・Iの刻印がある。これじゃ、まるでヒッチコックじゃないか。徹頭徹尾、自分の映画を作ること。その信念が素晴らしい。偶然と必要性が生んだ作家主義だ。
 だから、
 写真を引き伸ばした、巨大ビルディングの上にイナゴが這っているだけ(!)というクライマックスのスペクタクルシーンも、楽しく観られる!
 
 創意と工夫。これが、バート・Iの才能だ。
 到底、凡人には真似などできまい?あんた、その度胸があるかね?せいぜい、怪獣の出てこない怪獣映画(『大怪獣東京に現る』('98))程度でお茶を濁すんでは?それでは事態は何も解決しないよ。

 本作の好評を受けてバート・Iは、「イナゴより演出しやすい(笑)人間を巨大化させる」巨人獣シリーズを製作して、生物巨大化路線をまっしぐら。やがて、ファンの間でミスターB.I.G.の称号を得る(笑)。
 実にいい話だ。
 どんな手を使っても、面白い映画を撮る。彼には間違いなく信念とガッツがあった。そして、鉄面皮。創作者として見習うべき姿勢だ。
 ついては、個人的なフェィヴァリット、『巨大蟻の帝国』('77)のDVD国内発売も各社真剣に検討をお願い致したい。

 あれは祭りの後みたいで、泣けるんだよ。

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2010年1月16日 (土)

『死を呼ぶコックリさん』 ('83、日)

 ろくに暖房もない室内は、ひんやりして霊安室を連想させる。

 「かなわんなぁー。」
 七三分けで、関西弁の男が云った。一番年配で、会議の長らしい。
 「定時を越えると、ビル管理会社の連中が、勝手に暖房切ってまうんや。どんだけ、節約せえっちゅうねん。」

 「墓編集長、とにかく始めましょう。私、まだ他に仕事、残ってるもので。」
 窓の外、街を覆う暗闇に目をやり、口の尖った気の強そうな女が云う。「スズキくん、資料を配って。」

 「へいへい、位牌さん、了解でございやす。」
 古本好きの好青年、現在のところ一介のサラリーマンのスズキくんが、愛想良くコピーを廻し始める。
 会議の出席者は、四名。
 あとの一名は、あきらかに挙動がおかしい中年男だ。宙を向いて、椅子に深く凭れ、ぽっかり開いた口からダラダラよだれを零している。

 「さて、お手元にお配りした資料ですが。」位牌さん、と呼ばれた女が、冷静な口調で述べる。
 「現在、我がびんばり書房で出版を検討している、高園寺司郎の作品です。」

 「うわ。」
 「あちゃー。」


 二名の口から、同時に嘆声が漏れた。
 コピーの中味は、マンガの原稿らしい。稚拙な線で描かれた少女の顔が絶叫している。

 「・・・こらまた、ずいぶん汚い絵やなぁー。」
 呆れたように、墓編集長が云った。「どっかの素人の、学生さんか何かか?」
 「いえ、別の出版社ではありますが、既に数冊、単行本も上梓している立派なプロの漫画家です。」
 「プロって、お前、この絵でか?ほんまに?」
 墓という奇妙な名前の男は、しげしげとコピーを眺めて、気短かそうに言い放った。
 「あかん、あかん。こんなの世に出したら、ウチの恥やないか!
 なんや、この腐った宮西計三みたいな描き込みは?!気色悪いわ!!」

 「しかし、お言葉ですが、墓編集長。」
 右手を挙げてスズキくんが、遮った。
 「ここまで酷いというのは、それはそれで、認めるべきひとつの価値じゃないかと・・・。」

 「新人。お茶淹れてきて。」
 位牌さんは冷酷に宣告した。スズキくんが出て行くと、テーブル越しに身を乗り出し、深いセーターのネック部分から覗く胸の谷間を強調しながら、
 「ちょっと、あんた。ウンベル。ちゃんと仕事しなさい。お給料貰ってるんでしょ!」

 「うがー。」
 ウンベルと呼ばれた中年男は、うつろな視線を向け、大声でゆっくり繰り返した。
 「がぁー。あぁー。おっぱい。おっぱい。けへへへ。」
 
そしてニンマリ笑った瞬間、ウンベルの顔面に位牌さんのパンチが炸裂した。ガクン、と首が仰け反り、ゆっくりと元に戻る。
 鼻血が垂れていた。
 
 困った墓氏は、見て見ぬ振りをしながら、
 「まぁ、それはともかくやな。・・・ストーリーを教えてくれへんか?」
 「ハイ。」
 位牌さんは、手の甲に付着した薄汚い血を拭いながら、メモを読み上げる。
 
 「“・・・榊 夏美は、明るい無邪気な女子中学生。しかし占いマニアだ。
 ある日、自宅でセルフで呼び出したコックリさんを帰すのに失敗し、それ以来、弟は何かに憑りつかれて、言動も行動もおかしくなる。
 よだれを流し、宙を見つめて「あば、あば」と呻くばかりの弟。ひとりで服を着替えることすら出来ない。
 しかしピュアな夏美は、その件に関して一切責任を感じていない。
 心配する父は、医者の勧めに従い、転地療法のために田舎の別荘へと姉弟を連れて来るが、この屋敷こそ、父方の先祖が百年前にフランス人少女をギロチンで処刑した(!)由緒ある場所だった。
 まったく意味不明なフランス人少女の呪いを受け、悪魔のような性格に変貌した夏美は、クラスメートを卑劣な罠に掛けては、地下室に監禁していく。
 コックリさんを始めるのに最適の人数は、四名。さぁ、全員揃ったら、楽しい5円玉プレイの始まりだー!!”」

 「・・・なんじゃ、ソラ?!」
 墓編集長は、全開で突っ込んだ。「なめとるんか?!」

 「なめてますよ、明らかに。」
 給湯室から戻ったスズキくんは、冷静に云った。
 「まぁ、描き込みの程度を見てやってください。冒頭から三分の一くらいは、まだやる気を見せて、背景も含めて細かく緻密ですが、中盤から俄かに崩れ出し、最後の三十ページなんか、完全に投げちゃってます。」
 背広にメガネで、つぶらな瞳(!)の父親が、奇怪なポーズでだんだら模様の床に寝そべり、不審物を捜索するシーン(P.154)を指差し、
 「このように驚くほど、ヒドイことになっていきます。どうやら途中で飽きてる、もしくは自分の画家としての才能の無さにようやく気づいて、今更ながら絶望してしまっているようなのです。」
   
 墓編集長は、嘆息した。
 「・・・甘えんぼう屋さんやなぁー。」

 「最終ページの見開き二ページなんか、決してやってはいけない、やっつけ仕事の見事過ぎるお手本です。適当なナレーションで話を強引に終らせてしまい、読者は完全に置いてけぼり。これで腹の立たない人が居たら、ぜひお目にかかりたい。」

 スズキくんが汲んで来たお茶を飲み、位牌女史は、データを読み上げる。
 「しかし、意外ですが、このボロ作家、高園寺司という名義で出した過去の作品は、みんな軒並み、高評価です。既に絶版ですが、古本屋では異常な高値でプレミアがついております。」
 「こんな、史上最悪のクズ作品がか??」
 「常識を越えてあんまりヒドイので、かえってカルト視されてしまっているようです。」

 「世も末やで。こんな腐れガキの作品がプレミアなんて・・・。」
 
 墓編集長は七三の分け目を神経質そうにいじりながら、気を取り直したらしく続けた。
 「そんでもな、わしかて関西人やねん。銭になるもん、売れとって流行っとるもんはな、絶対無視でけへんのや。
 よっしゃ、ほな、ぼちぼち決を採ろうか?高園寺の作品を出版するのに、賛成の人はおるか?」

 ななつの賛成票が集まった。

 「ななつ・・・って?!」
 全員が右手を挙手するなか、ウンベル一名が両手、両足をすべて挙げてニヤニヤ笑っていた。
 
 「ねぇ、スズキ。」
 会議を終えて、部屋を出て行く途中で、スズキくんは呼び止められた。
 「なんですか、位牌さん?」
 「さっき、会議の前に四人でやったコックリさんなんだけど・・・・・・。ちゃんとお帰りになったっけ?」
 「さぁ。」
 スズキくんは首をひねった。「ボクは見てませんけど。」
 「まぁ、いいや。飲みに行こうか。」
 「え??いいんですか、残業しなくても?」
 「なんか、やる気なくなった。行こ。」

 出て行く二人の背後で、両手両足を宙に差し上げたウンベルが、狂ったようにニヤニヤ笑いを続けていた。

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2010年1月12日 (火)

『恐怖!あした死ぬ私』 ('86、日)

 その奇妙な死体が見つかったのは、この町の人通り疎らな路地裏であった。
 
 全身打撲、脳挫傷。内臓破裂で、出血多量死。
 全身を万遍なく鈍器で潰して廻ったかのような症状だ。
 両目など、眼球も残らぬ程に抉れているのに、不可解なのは、あるべき凶器が痕跡すら、一切見つからないことだった。

 検察医スズキくんは、雑居ビルの谷間で、首をひねる。

 「おやおや、ウンベルさん。やはり、縁起でもない死にかたをしましたか。
 他人に好かれない、不敬を絵に描いたような人物でしたからねぇ。当然の酬いと言えばそれまでだが、形式上でも調書は出さなきゃならない。
 おおぃ、そこのキミ。」

 傍に控えていた警官を呼び止め、

 「被害者と関連のある遺留品を発見したって?」
 「ハッ。こちらであります。」

 案内されたのは、ビルの背面に当たる薄暗い壁面だった。
 ダクトが伝い、配電管が通っているその横に、汚い茶色いしみが大きく広がっている。

 「なんだ、こりゃ。血の跡じゃないか。確かに被害者のものだね?」
 「鑑識の結果待ちですが、情況から見まして、十中八九間違いないかと。」
 「ウーーーム。・・・こりゃ、なんか、文字が書いてあるね・・・。」
 「筆跡がかなり乱れていますが、意味のある、何か記号のようです。」
 「こりゃ、キミ・・・・・・。」

 ルーペを片手にしげしげと覗き込んでいたスズキくんは、驚きに顔を上げた。

 「死滅したムー大陸の文字だよ!!」

 「え?」警官は、眉を顰めた。
 「ムー、でありますか?」

 「間違いない。私も、あの地方の出身だから読めるのだ。」
 熱心に屈み込んだスズキくんは、指先で血の跡をなぞりながら、判読作業を開始した。

※      ※      ※      ※       ※ 

 「“・・・三智伸太郎は、サントモではなく、ミチと読むらしい。
 画風は地味だが、安定していて、まともな部類。
 川島のりかず並みにスカスカの絵柄だが、もう少しベタの量が多い。ということは、少しだけ正気に近いということだ。」

 「だから、『恐怖!あした死ぬ私』は、死の恐怖に発狂状態になる話では全然なくて、
 藤子・F・不二雄先生や諸星大二郎先生が得意としたような、“すこし・ふしぎ”なSF寄りのファンタジーということになる。」

 「・・・ハレー彗星接近の夜。町中の人間が、同じ夢を見る。
 ひたすら飢えと渇きに襲われながら、砂漠を行進する悪夢・・・。
 主人公の少女は隊列を離れ、ひとり流砂に巻き込まれて、地下の暗黒世界へ。そこで、杖を持った不気味な老人と出会う。
 老人の非人間的佇まいに恐怖を覚えた少女は、夢中で逃げ出し、そして自室で眼を覚ます。
 「あぁ、おそろしい夢だった。」と、布団から起き上がり、窓から表を眺めると、空に巨大な目玉が浮いている。

 「キャァアアーーーーーーッ!!」


 それは今しがた、夢の中で振り切って逃げ出して来た、あの老人の双眸に他ならなかった・・・・・・。」

 「以上の導入部が、狂った少女の妄想ではなく、整合性あるファンタジーとして展開するところに、三智先生のテイストがある。」

 「仕掛けと理屈はちゃんと用意してあるのだ。実は同様のアイディアは、諸星先生が、“栞と紙魚子”シリーズの「何かが街にやって来る」で展開しているのだが、藤子Fの読みきり短編やドラえもんの挿話の中にも、似たものがあった筈である。
 ただし、これらは無論、ジャンルマンガではないので、そうそう酷いことにはならない。
 だから、少女が全身の骨を打ち砕かれ、眼球も抉り取られて息絶えるラストなど予想も出来ないだろう。
 私が何より好むのは、そんな、支えるべき安全バーを持たない、先行き不穏な物語展開である。残虐性は、あくまで余禄に過ぎない。
 私を血に飢えた怪物だと思ったら、
         大間違いだぞ、スズキ!!」


※      ※      ※      ※       ※ 

 突然、呼びかけられたスズキくんは、きょとんとして、背後の警官を振り返り、その向こう側を指差して、「アッ!」と呻いた。

 大空に、血走ったウンベルの眼球が、町を見下ろして浮かんでいた。

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『釈迦』 ('61、日)

 永田雅一がセシル・B・デミルに一方的な対抗心を燃やしたって、何の不思議もないのだし、的場徹の特撮が品格のあるのも、当然だ。
 ハリウッドが、クレオパトラ役にエリザベス・テイラーを持って来るなら、オール日本人キャストでブッダの生涯を映画化する企画だって、決して無理じゃない筈だ。
 大映の前作『日蓮と蒙古大襲来』('58)も、なんだか充分アレな感じの、きな臭さ満点の映画だったが、なんだかんだで長谷川一夫が日蓮だ。突然の台風で蒙古船団が壊滅したって、そりゃ史劇スペクタクルとしては、まだ正統な部類であろう。

 ところで、読者諸君は、ジャンルの古典、映画『十戒』をご覧になったことがおありかな?

 これは、相当に奇妙な映画だ。 
 神の地に足を踏み入れたモーゼは、まず神に一喝される。

 「モーゼよ~!!履物を脱げ~!!ここは神聖な地である~!!」

 天上から、合成の光が射し、おごそかな声が命令する。やばい。絶対笑かすつもりだ。   
 だいたい、山の中で履物を気にする神ってなに?小さいぞ、神。
 エジプトに神の罰が下る場面も、凄かった。
 ナイルの水が血で赤く染まり、空からサソリの雨が降ってくる。サソリだ。駄目だ、面白すぎる。
 こうなると、紅海がふたつに割れても、爆笑である。流浪の民、全員が荷物かついで徒歩で渡ってるし。渡り終えると、また閉じるし。なんだそりゃ。自動ドアか。

 紅海、自動ドア扱い。

 思わず、太字で書いてしまった。
 かように不信心な者にとって、宗教スペクタクル映画とは、不合理な事象が次々と襲いかかるホラーかSFのようなものだ。合理的説明が一切省かれているため、『不思議惑星キンザザ』よりか、よっぽど不思議だったよ。

 さて、『釈迦』は、ご存知、ゴータマ・シッダールタ太子の生涯を映画化したものだが、それにしても、これまた、なんという奇妙な世界であろうか。

  市川雷蔵、杉村春子、京マチ子。
  東野英治朗に、北林谷栄、本郷功次郎。山本富士子。

 あろうことか、中村玉緒(!)まで、全員が、インド人なのだ。
 云いたかないが、“インド人もビックリ”だ。あなたも、きっとそう呟く筈だ。
 だからまだ見ぬ奇跡の予感に捉われて、日本映画、未曾有の大惨事を予見した私は、今回身構えて鑑賞したのだが。

 結論から云って、そうは問屋が卸さなかった。

 大傑作とかではないし、万人必見の映画とも思わないが、本家「十戒」や「天地創造」同様に結構楽しめる、見所ある宗教スペクタクルになっている。
 日本人が演じるインド人は、まぁ、当然インド人には見えない訳だが(当たり前だ)、ここはひとつ鷹揚に、劇団四季の『ライオンキング』だと思ってご鑑賞頂きたい。
 あれだって、到底ライオンには見えないが、それで抗議が来たという話も聞かない。(どころかロングランだ。)
 この唐突な例えは、衣裳の露出具合、金ぴかな感じが何か似通ったサムシングを漂わせているがゆえの連想である。
 例えば時代劇なども典型だが、“お芝居”という前提があれば、人は大抵のものを許容してしまう。
 バリバリの日本人が外国人を演じる不思議さで云えば、もっと似通った例が、かの宝塚だろう。この場合、国籍も越えているが、性差も越境してしまっている。まったく、アナーキーにも程がある。

 『釈迦』は、安定した、古典的な大作づくりの手法で撮られている。
 オールスターキャストは、当然のこととして、当時の映画会社が、どの程度まで資金調達が可能だったか(今日のような製作委員会方式で各社出資ではない、大映一社での話だ)、支えたスタッフの技術水準がいかほど高かったかがよく解る。

 三隅研次の抜けのいい演出、伊福部昭の荘厳なシンフォニー。雲の広がりや、地平の奥行きを写した撮影も美しい。
 
 多用される合成カットも、品がある。たとえば、城の石垣の連なりは、人間が手で描いたマット画だ。ライブアクションの門と小さな人物を左手前に配置し、遠近法でパースをつけている。アナログ的な温かみを感じるさせる構図だ。
 上手いこと、異国が舞台でも決してどぎつくはない色彩設計になっている。映画全体が、そんな感じの親しみやすさで統一され、絵巻物的な趣きが感じられる。
 
 例えば、冒頭、釈迦生誕と同時に、宮廷の庭に五色の花が咲き乱れるカット。
 仏教伝来以降で、日本人の解釈した極楽浄土のイメージだ。池には勿論、蓮が。小鳥のさえずり。玄妙なる調べ。
 ここでは、本物の花の実写と手描きとをうまく組み合わせて、「一瞬にして浄土と化す庭園」を表現しているのだが、そこへ、「天上天下唯我独尊」という子供の声が被るのは、さすがに、リアリズム演出上いかがなものかとは思われる。(ま、誕生直後、取りあげた看護婦と母親を惨殺して逃亡する『悪魔の赤ちゃん』という例もありますが。)
 だが、周到な計算で、三隅はこういう胡散臭くなる箇所は、絶対リアルに撮らない。
 この場面なんか、手前に宮廷の人々が控えるなか、花の咲く庭越しに、小さく子供の姿を捉えている。幻想一歩手前の、ギリギリ狙いということだ。

 この神秘描写は、全編に共通している。
 人知を越えたものは、湧き出る光明、巻き起こる風、天変地異といった現象によってのみ顕在化され、実体を現すことがない。
 
 従って、王族の身分を捨て、出家し、悟りを得て以降の釈迦は、いっさい画面に顔を出さず、シルエットと後光(合成)のみで映像化されている。
 悟りの境地に到った時点で、もはや生きてる人間の扱いではないのだ。
 大胆で、なかなか勇気の要る選択だが、この映画の場合、史上空前のオールスター大作だから、「誰かが画面に出ずっぱりにならない」という政治的意味合いでも、充分有効に機能している。
 お馴染みの有名俳優さん達が、画面に現れては、それなりの見せ場をつくっては去っていく。見せ場を繋いで見せる、業界用語ではこういうの“串だんご方式”って云うらしいですよ。これ、本当。
 
 そして満を持してのクライマックス、巨大な石像が崩れ落ち、寺院が崩壊するスペクタクルシーン。
 円谷のようにミニチュアで処理せず、二十メートルは越す、実物大の石像を造ってしまったところが、無意味に効いている。バカ正直にも程があるのだが、「あっ、本物だ!」という、誰でも分かるハッタリは、今でも充分効果的である。
 こういう映画の場合、贅沢感、お腹いっぱい感を与えるのは、とても重要なことだ。 
 
 さて、役者の皆さん、全然インド人に見えないというのは既に指摘した通りなのだが、たったひとり、インド人より濃い顔で、この難局を乗り切ってしまった男がいる。

 勝新だ。
 勝新は、勝新にしか見えない。
 

 ブッダに対抗する悪の神官ダイバダッタを、ギラギラと熱演し、宗教映画の抹香臭さを見事かき消してくれる。
 釈迦の妻を強制レイプし自殺に追い込むは、狂った神官東野英治朗に弟子入りし妖術は体得するは、某国の王子をそそのかし王族一党皆殺しは目論むは、まぁ、悪の総元締めみたいな役どころで、ひとり例外的に出ずっぱり。評価の高さが伺える。
 しまいに、地割れに飲み込まれ、死にかけるところを、お釈迦様の伸ばす蜘蛛の糸で救われたりして。

 「それは、原作が違うだろ!」

 当時劇場に詰め掛けたお客さん全員も、(志村に突っ込むが如く)当然突っ込んだ箇所だと思うが、いずれにせよ、おいしい。おいしすぎる。
 
 だから、私が最終的に申し上げたい結論は、以下の通りである。
 三隅研次も最初から同じ結論だったのだろうと思う。

 「どんな突飛な映画だろうと、勝新に任せておけば、大丈夫。」
 
 だから諸君、安心して信心したまえ。

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2010年1月10日 (日)

1/10 ウンベル、本日も大本営発表

 おはよう、ベトナム。こんにちは、ベルリン。
 
 東京は朝の七時。
 地平線から顔出すお日様、新宿の高層ビルの隙間から漏れ落ちる光の束。
 気温の下がるこの季節、空気は透明度を増したようだ。

 ・・・と、格好つけてはみたものの、(私の常であるのだが)
 重要なことをひとつ、書き損ねていた。
 周囲の人間には再三説明してきたことなのだが、よく考えたら、ブログ上で一回も触れたことがなかった。
 何を今更な話で誠に恐縮なのだが、以下ご拝読願いたい。

※     ※      ※      ※      ※

 大城のぼる『愉快な鉄工所』にコメントを寄せて頂いた方、誠に有難うございました。
 同意見の方が他にもいらっしゃる事を知り、たいへん心強く思った次第です。

 そのほか、貴重な意見をくださる皆さん(スズキくん含む)すべての方に、海よりも深く感謝致しております。
 特に、Dくん、佐藤氏の存在抜きには、このブログ自体が在り得ないでしょう。

 以下当ブログの運営方針につきまして、ご説明します。
 どうぞ、ご参照願います。

《このブログは、『スパイ大作戦』のフェルプスくん方式で運営されています!》

 映画『ミッション・インポッシブル』にそんなシーンがあったかどうか、記憶が定かではないが、(どのみち内容の薄い映画でした。)
 TV版の『スパイ大作戦』では、まず冒頭、レストランのお手洗いやら、海岸の電話ボックスやら、ホテルの一室やらで、本部からの秘密指令のテープが再生され、指令を受けたフェルプスくん(主人公)が行動を起こす、という段取りが繰り返されます。
 私の記事は、あの秘密テープのようで在りたい。
(最後、自動的に消滅するところなんか、最高です。)
 シナリオ風のものや、会話調のものはちょっと違いますが、一人称で書かれる記事は、すべてあのテープを吹き込んでいる謎の人物のつもりで取り組んでおります。

 私は、「インタラクティヴなメディア」全般に深い疑念を持っています。
 それは、容易に記事作成者の責任放棄を生むからです。
  
 よって、原則、

 「記事に対するコメントは、すべてフォローなし」
 
 とさせて頂いております。

 誠に申し訳ございません、
 この点、悪しからずご了承頂きますようお願い申し上げます。

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2010年1月 9日 (土)

『ザ・ベスト・オブ・INXS』 ('02、豪)

 宇宙船は、地球周回軌道を廻り続けている。

 『ヒューストンより、D。ヒューストンより、D。』
 「こちら、D。」

 搭乗員は、銀色の宇宙服に身を固めているので、どんな人物なのかよくわからない。
 船内は空気がないので、会話はラジオで行われている。

 「煮物をしようと思って、手を切った。現在、治療中。どうぞ。」
 『こちら、管制室。
 酸素がなければ、火は点かない。煮物はやめとけ、どうぞ。』

 宇宙服の男は、包帯を巻いた指先を船内監視カメラの方に向け、オッケーサインを出した。

 『十五分後に宇宙ステーションとドッキングする。軌道計算はすべて終了。状態は正常。姿勢制御噴射に備えろ。』

 「了解、ヒュ-ストン。」

 『あと、その音楽は止めてくれ。
 さっきからガンガン鳴っているが、うるさくてかなわん。』

 「あぁ、これか?」
 ボリュームをガリガリ。少し小さくなったが、止める気はないらしい。
 「なぁ、ところでベスト盤だけでキンクスを語れると思うか?」

 『こちら、ヒューストン。コンピュータで計算した。無理。』
 「ところがどっこい、80年代ポップス/ロックの宇宙には、ベスト盤程度で語れるバンドがごまんとあるのだ。
 それどころか、ヒットした一曲だけですべてが解る場合もある。なんでも聞いてくれ。どうぞ。」

 船体が震動し始めた。方向を微調整する噴射が始まったようだ。

 『ヒュ-ストンよりD。それは、一発屋ということか?』
 「そうだ。瞬間的なスーパーノヴァだ。
 オーストラリアの片田舎から出てきて全米ツアーをやるまでにのし上がったINXSも、そんなバンドだ。本日はこのバンドを伝授!どうぞ。」

 『・・・彼等は、数曲のトップテンヒットを持っていたと思うが。』
 「どれも、同じようなもんじゃん。」

 噴射が停止し、宇宙船の軌道が調整されたようだ。
 背後の窓を、「急カーブ、徐行」の黄色い看板が飛びすぎる。

 ジョージア、青缶のエメラルドマウンテンブレンドをグビリと飲んで、
 「当時僕は地元の高校に通っておりましたが、諸先輩方とは違ってまだXュリーには目覚めておらず、国内では佐野元春さんや杉真理さん、あとは洋楽中心の生活を送っておりました。どうぞ。」

 『口調がなんか変化したぞ。さては好感度を上げる作戦だな?どうぞ。』

 「この頃はMTV全盛の時代でして、彼らを知ったのも小林克也氏の『ベストヒットU.S.A.』だったと思います。
 覚えているのは、夜明けの埠頭で演奏する“オリジナル・シン”のクリップぐらいで、後は一切記憶に残っておりませんが、軽快かつアーバンな16ビートに乗せて、むせびなくサックスの音色が格好良かったです。以上。」

 『“以上”じゃねぇよ!続けろ。どうぞ。』

 「かなり俗悪趣味で、歌詞も下らないし、ビジュアルも最低。露骨にピーター・バラカン氏が嫌悪するタイプのミュージシャンだと思いますが、記憶に残っているということは、やはり何かの意味があったのでしょう。
 そう思って今回、思い切ってベスト盤を購入!特典DVDの映像は、これ!お宝ですか?
 『画像出ねぇじゃねぇかよ!だいたい、特典のDVDなんか付いてないし。』

 「参加ミュージシャンのクレジットを見たら、コーラスで、あのYOKOも尊敬するダリル・ホール氏の名前が!ガーーーン!そうだったんだー!思わぬ衝撃でした。」

 『歳ごまかして若い口調になってんじゃねぇよ。どうぞ。』

 「実際の音を聴けば、例えばB'zさんなんかの演ってるJ-POP路線に多大な影響を及ぼしているのが、よくお判りになると思います。
 これは、脱線しますが、ストロベリースィッチブレードを手掛けたデヴィット・モーションが初期のCHARAさんなんかをプロデュースしているのと同じ理屈です。
 80年代洋楽のエッセンスを吸収した世代が、90年代以降のJ-POP隆盛の基盤となっている。というのが僕の仮説です。」

 『なぁーーーにが、仮説だ!!
 じじいが懐メロやってます
、ってのとどこが違うんだ!!』

 「ひとつ違いがあるとすれば、コンピュータの投入です。」
 『なに、コンピュータ?YMO?』
 「(こいつ、コンピュータと言えばYMOかよ、と嫌悪感をあらわにしつつ、それでもキャラクターイメージに背いてはならない、と持ち前の計算高さで思い直し)
 INXSも、ポリスも、デュラン・デュランも、カルチャークラブも、カジャグーグーですら、リズムは人力なんですよ!
 サンプリング技術が進化し、素人でも高いお金を払ってソフトを買ってくれば、本格的なドラム打ち込みが実現できる、現代はそんな便利な時代ですが、
 この頃は、そんなことは全然ない!黎明期にあったのは、せいぜいドンカマくらいです。」
 『ドンカマ?』
 「リズムマシンのクリック音のことです。機械が発する音ですから、正確無類で、かつ無機的な訳です。開拓者YMOなんか、わざと千分の一単位で周期をずらして、人間的なグルーヴを得ようとした、なんて坂本龍一が豪語してましたがね。
 これに合わせてドラムを叩く、あるいは、ギター、キーボードを弾く。まず、これに耐えられる人間と、耐えられない人間が居るのです。」

 『で、アンタは?どっちなの?』
 「別に。
 それが、何か?」

 宇宙船は急カーブを曲がり、降り車線に入った。
 建築資材を満載したトラックが、反対車線を轟音を上げて通過する。
 Dは、泰然として、続ける。

 「ともかく、80年代のミュージシャンに突きつけられた課題は、“機械といかに共演するか?”ということでした。
 INXSも、ポリスも、デュラン・デュランも、カルチャークラブも、カジャグーグーですら、機械と戦ってたんですよ!
 相手は決してミスらないし、やってみりゃ判るだろうけど、もう大変なんですよ!」
 『現代のJ-POPにはその苦労がない、とでも?』
 「J-POPジャンルにも、僕の好きな優れたミュージシャンは沢山います。80年代当時の連中に比べて、技術的に優る人材も多数いらっしゃるでしょう。
 しかし、先人の苦労とは比較になりません。

 『あんた、それ、自分のブログじゃ決して云わない本音だね。
  ・・・ところで、“INXS”ってなんて読むの?』
 「この、格好いい表記は、“インエクセス”と読むのです。」
 『うわぁ、死ぬほどカッコイイぜ!!・・・・・・おっと!』
 「どうしましたか?トシ?」

 『こちら、ヒューストン。宇宙ステーションに到着した。』

 機体の前方に、周期的に回転をしながら衛星軌道を廻る、銀色のドーナツ状の構築物が見えてきた。 

 「こちらD。了解、直ちにドッキング姿勢に入ります。」

 『おまえ、ドッキング得意だもんな!』

 「うるせぇ!!」
 Dは、宇宙船のハッチを開くと、ステーション側のエアロックに取り付き、ピンポン、とベルを鳴らして、
 「こんにちは、宅配です。お届け物を持って上がりました。」

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2010年1月 7日 (木)

『愉快な鉄工所』 (’41、日)

 鉄工所が愉快な筈はない。

 極度に熱せられ、鋳型に流し込まれる溶けた鉄鋼は、作業する者の髪の毛の先端をジリジリ焦がすだろう。
 立ち込める瓦斯は肺腑を抉り、鼻腔はいつも煤で真っ黒だ。
 
 それでもわれわれは働き続けなくてはならないし、他にすべきことは無い。

 大城のぼるの『愉快な鉄工所』は、真珠湾攻撃の年に出版された。代表作『火星探検』と共に、少年期の手塚治虫が愛読した一冊だ。
 絵の巧さ、上品さは言うまでもない。カラーも上手だ。キャラクターもすっきりした造形をとっていて、線のシャープさ、デフォルメの確かさに舌を捲く。
 それから少年の夢を具象化したような、気球、鉱山鉄道、巨大産業地帯、ロボットなど次々に登場するデザインも美しい。
 本当のところ、ストーリーと構成が弱く(例えば誰が主役なんだか解らない)、お話としての構成力には随分と欠けた作品なのだが、まぁ、いいではないか。
 私は、諸君がつまらぬ理屈など捏ねずに、この古典を無条件に愉しんでくれることを希望する。

 少しだけ、絵の話をしよう。
 田河水泡『のらくろ曹長』を見ながら確認したのだが、この時代のマンガの絵というのは、横画面フィックスで、人物は基本的に左右に移動する。
 上下動はあるが、画面枠をはみ出してしまうことはない。
 上手なカメラが微妙にパンして、例えば、「驚いて厨房に飛び込み、お釜の中に逃げ込んだブル連隊長と、テリア大尉、騒動の原因になった虎に化けたのらくろ」を一度に映し出す。
 これだけの情報量が、分割のないワンカットの中に描かれている。
(現代のマンガ家なら、無意識にやると最低3コマ、「出現」→「驚愕」→「退避後の結果」を費やす筈だ。)
 会話で話が転がり出しても、シーンは固定されたままだ。舞台劇を観ている感覚に近い。
 この時代のマンガが随分のんびりした印象を与えるとしたら、画面の切り替わりかた、コマ割りのテンポ感による影響が大きい。
 そこから強弱に乏しく、単調な印象を受けるとしたら、あなたは相当に現代に毒されている。
 クローズアップの多用、豊富な書き文字、流線による視点の誘導。情報は的確に伝達され、作者の思った通りの効果を上げる。
 だが、その効用は認めるとして、一方で、読者に窮屈で偏狭な読み方を強いてはいないか。
 連続性を高め、特定の効果だけを狙って配置されるものに、余分な想像力の入り込む余地はない。
 時間を忘れ、頁をめくる手が止まらない。それは、決して幸福なばかりの体験ではないのだ。私は、そこに、ある種の強制力の発現を確認する。
  
 鉄工所が愉快な筈がない。

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2010年1月 6日 (水)

『呪われた巨人ファン』 (’85、日)

(シーン1、ごく普通の住宅、二階の勉強部屋。) 

 部屋の片隅に、ダンボール箱を被った男が蹲っている。
 なぜ、男と解るのかと云えば、箱の丈が短すぎて毛脛が剥き出しだからだ。
 褪せたダンボールの側面には、マジックで舌を垂らしたおっさんの顔が描いてあり、一枚の紙切れが貼られている。

 死亡診断書
 「名前・うんべるけなひ」
 「死因・スポーツマンガ嫌悪症、あと下らぬマンガに散財」


 ふすまがスーッと開き、顔面血だらけのスズキくんが入ってくる。

 「ウンベルさん。」
 「うわぁッ!!・・・なんだ、スズキくんか。どうしたんだ、その顔は?」
 
 「これですか。」
 潰れた片目を醜く歪め、「来る途中、自動車に当て逃げされました。去年の夏から二度目です。」
 「洒落にならないなぁー。半分、実話じゃないか。」

 「前回は示談金をふんだくってやりましたがね。」ケケケと笑い、
 「それにしても、ひどい扱いじゃないですか。
 苦労して、城(きずき)たけし『呪われた巨人ファン』を捜し出してきたボクの貢献を、なんだと思ってるんですか。」

 「だから、こうして“しろひ”のコスプレでお出迎えしている。」
 バン、と箱を叩いて内部でそっくり返った様子だ。
 「こんなの、キミ、まXだらけの店員でもやらないぜ。」
 
 「レジ、打てないからじゃないですか。
 それよか、どうでした?待望の『巨人ファン』は?いい具合に、相場もお高めでしたよ。」

 「キミには本当に感謝している。当ブログのマンガコーナーはキミ抜きには成立しないくらいだ。
 今度、まだらの卵入りのスキ焼きでも奢ってやるよ。
 しかし、こりゃなんだな、世評ほど狂ったマンガとは思えんわなー。」
 「意外と普通でしたね。
 確かに、辻褄の合わない展開をするんですが、異常の連続ではないんです。」

 「ここで、読んでない方のために、一応ストーリー紹介をしておこうかな。古本屋でも高くなってるし、復刻の陽の目も見そうにないからね。」
 「まさに、呪われた一冊!」
 「作者の城たけしは、これ一冊残して歴史の闇に葬り去られたのだったね。
 よし、それじゃ、景気づけに場面を転換するぞ。」

(シーン2・赤い血ぬられた満月が照らす、石造りの砦のような建物。)

 ブヒィーーーッ!
 ブヒィーーーッ!と、哀しげな動物の鳴き声がする。

 「あッ!!これは、“恐怖!!ブタの町”だ!!」

 驚くスズキくんを尻目に、悠然と残飯をあさるウンベル。
 「なに、きみへのサービスだよ。」
 「嬉しくないなぁー。」
 「両親が豚になる設定がまったく同じということで、日野日出志『恐怖!!ブタの町』は、宮崎駿『千と千尋の神隠し』に影響を与えている、というのが私の説なんだが、当たっているかなぁ。友成純一『狂鬼降臨』第二話が、直接の影響下にあるのは間違いないんだが・・・。」
 「それよか、『呪われた巨人ファン』の話ですが。」
 「ウーーーム、進行するねぇー。こりゃ大物だ、将来の出世は保証付きだね。」
 「いい加減なこと云ってないで、今月の給料を上げてください。冗談抜きで。
 それじゃ、行きますか。」

《あ~ ら~ す~ じ~》 

 昭和五十年代の話。巨人ファンの少年ひろしは、五万人が詰め掛けた後楽園球場で「巨人-阪神」の試合を観戦し、掛布のサヨナラで阪神が勝利するのを目撃する。
 しかし、家に帰ると母親が、勝ったのは巨人だという。錯乱するひろしだったが、ニュースを確認すると確かに母の云う通りだ。ちくしょう。なんてことだ。
 そんなプロ野球の勝敗程度の、クソのような出来事で現実不信に陥った小学生は、一緒にスタンドに居た証人の酔っ払いを捜して、担ぎ込まれた水道橋の大学病院に行き、彼があの夜に死亡していたことを知る。
 帰路、酔っ払いの亡霊が出現、亡妻への連絡を頼まれ任務を果たすことに。無事託された死亡診断書を届けるも、ババァに、よくここが判ったね、と云われる。
 「だって、死亡通知に書いてあるじゃないか。」
 「なに云ってるんだい、これ、白紙だよ。」
 ギャーーーッ!!
 最早現実を信じられなくなったひろしは、グレて登校拒否。ダンボールを被り、「阪神ファンの“しろひ”でーーーす!!」と名乗り、ますます反現実世界に没入していくのであった・・・。

 「ここまでで半分くらいかな。全体に意外と、と云うか、当然かも知れんが、野球がらみのネタが多くてね。わしゃ、これから箱人間が発狂して大暴れして、いよいよ面白くなるかと思ったら。」
 「ウンベルさん、野球大嫌いですもんね。“しろひ”は、通りすがりの女の子を驚かすくらいで、たいした活動しないんですよね。」
 「部屋で、ダンボールのまま首吊り状態の場面は良かったけどな。でも、ありゃ本人じゃなくて人形だったし。」
 「交通事故で、顔ぐちゃぐちゃの女の子が訪ねて来るシーンは良かったですよ。あと、遡りますけど、酔っ払いのおっさんが死んだ病院の手術室。」
 「残酷シーンばかりじゃないか!お前はウンベルか?!
 でも、女の子、実はXんでない、という・・・。」(伏字、自主規制。)

 「川島のりかず先生の発狂美学を信奉する人間としては、この設定、この話でハッピーエンドはありえないと思うんですよ!
 それじゃ、全然残るものがないですよ。
 ボクの評価は、ハッキリ云って、低いです。」

 「・・・無理ないかな。
 この人、誰かのアシスタント経験者だよね?予想より、ちゃんとした漫画力がある。あんまり、壊れてないもんね。ブヒッ。」
 「え?」
 「ブヒッ!ブヒッ!ブヒッ!」

 会話しながら、残飯をあさっていたウンベルが、突如呻き出したかと思うと、その身体はみるみる、一頭の薄汚れた豚に!

 「以前の『赤い蛇』レビューで、この展開、予想は出来てました。」
 スズキくんはふところから、巨大な斧を取り出した。
 真っ赤な満月の照り返しを受けて、ギラリと刃が光る。

 「なにか、言い残すことはないですか?」
 「ブヒッ!ブヒッ!」
 「そうですか、わかりました。」

 一刀両断!
 
鮮血を吹いて宙に舞う豚の首!白眼を剥いて地面に落ちた、その苦悶の表情が、みるみるスズキくんそっくりになっていく!

 「しまった!!!」
 臍を噛み、砦のような建物の尖塔を見上げると。

(シーン3・建物の塔の頂上部分。照らし出す赤い満月。)

 軍服を身に纏った巨大なスズキくんの像が、剣を振りかざし直立している。

 そして、このブログ記事を読んでいる読者の顔も、全員スズキくんに・・・・・・・。

 不安げに見守るスズキくんの顔、顔、顔・・・・・・。

 「ギィヤァァァーーーーーーッ!!」

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2010年1月 3日 (日)

『ゴールド・パピヨン』 ('84、仏)

80年代フランスを代表するエロティック・アドヴェンチャー大作!
・・・・・・に、成る筈だったバカ映画!!
本当につまらないから、うっかり観ると死ぬぞ!!要注意だ!!

 
以上でレビューを終えてもいいのだが、あと少し続ける。
 
 『ゴールド・パピヨン』の原題は“Gwendline”、五十年代アメリカのカルト漫画家ジョン・ウィリーのボンデージコミックが原作だ。
 (ボンデージってのは、吊るしたり、縛ったり、叩いたり、のことね。ま、判るだろうけど。)
 カルトに眼がないあたしゃ、当然、原作の復刻はちゃんと所持しておりますので申しますが、
 原作は、全然こんな話じゃございません!
 
 でも、お断りしておきますが、原作のほうが話がちゃんとしていて立派、という訳では全然ない。
 早い話、

 「良家の可愛い令嬢グウェンドリンちゃんが、悪女(レズで、サドで、女王様)と、悪漢ダーシー(女王様の手下。この人、どう見ても『タイムボカン』のボヤッキーのデザインネタなんだよね、どうも。吉田竜夫のエッチ!)に毎回見事に捕まって、些細な理由(ダイヤの隠し場所を吐かせる拷問とか)により、あんなこと、こんなことをされ捲る!!それを助ける女スパイU89も、ドジなので一緒に縛られてしまい、皮のベルトで猿轡されて、なおもキャーキャー悲鳴をあげ続ける!!唸る、鞭!!」

 という、見る人が見れば、モンドテイストがたまらない、
 あるいは、『まいっちんぐ!マチコ先生』以下のエロ度数しかない、
 そんな他愛もない内容が、エンドレスにリピートされ続ける、という代物。マンガに必要とされるストーリーとは、テーマとは何か。ジャンプ編集部の誰か、教えてやってくれ(笑)。

 しかし、この映画版は、それに輪をかけて、本当に酷いのだから驚く。
 
 フランスを代表するバカ監督、ジャスト・ジュカン(代表作『エマニエル夫人』)が、何を勘違いしたのか、期待された通りにお色気SM映画にすりゃいいものを、
 よせばいいのに、スピルバーグの向こうを張って(・・・なぜ?)、偽インディ・ジョーンズ映画に仕上げてしまった!
 しかも、偽インディとしての出来は、『キングソロモンの秘宝』以下!『ロマンシング・ストーン秘宝の谷』級の失敗作だ!
 
 「砂漠に消えた父親を捜して、メイドのU89号(意味不明)と、あからさまにセットと判るインチキ臭い中華風味のアジアの奥地を訪れたグウェンドリンは、冒険家気取りのクソ野郎ウィラードと恋仲になり、AやらBやらカマシているうち、秘境の地底にダーシー博士(恰幅のいい髭のおっさん)の創りあげた、女だらけのアマゾネス帝国を発見!長い顔、長い胸のへんなババァ(女王、日本髪)を倒して、ようやく地上に出たら、クラウス・ノミのパクリ、シンセ・オペレッタ風の下らない主題歌が流れて、映画が終わってしまった!!」

 公開当時、エロを期待して詰め掛けた客が、全員怒り狂って劇場を破壊した、という伝説が信憑性を持って信じられる、まさに完璧なハズシ映画だ。
 一応裸は出るには出るが、問題はそれを披露する、主演のフレンチギャル二名である。
 主演は、カーリーヘアーの大竹しのぶ、相方はスィングアウトシスターのボーカルの女だ!
 ソフィー・マルソー『ラ・ブーム』の頃から深く怪しんでいたが、フランスのキャスティング・ディレクターの目線は絶対おかしい!狂っとる!
 そしてこれは、エロい映画では当然の法則であるが、主人公が女性二人組の場合、必ずレズれ!
 当然の話だ。なぜ、レズらないのか?!
 
 だが、待て。

  「だいたい、全然エロ映画じゃないじゃん、コレ。」
 
 なるほど。そういう冷静な見方もありますな・・・・・・。確かに。

 しかし、こうも(期待して)見事にハズした映画は、人生において貴重である。という訳で、私の記憶の名画座にランクイン。
 その隣では『スペースサタン』が上映され、『悪魔の性・キャサリン』が、『殺意の夏』が燻った煙りを上げているのでありました・・・・・・。

 以上の文章、嘘だと思うなら、今すぐ連絡してくれ!DVD持って、お前の家に参上するから!!必ず最後まで観て貰うから、覚悟しておけ!!

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『機動旅団八福神』 (’04~'09、日)

 リアリティを追求して、曖昧さの駅に辿り着く。
 
 で、いつも雨降りだ。


 ごく最近といっていい近未来、戦争に負け中国に支配されている日本。
 敵国アメリカとの戦争に使用されるのは、核爆発さえ受け止める絶対防護スーツ。
 それに乗り込む少年少女たちの、成長の物語。

 以上が外枠。
 この文章を読んでも、実はこのマンガをさっぱり理解したことにならない。

 福島聡の絵柄は、どう見ても大友克洋の水脈から湧き出して、アニメ方面へ流れていって、渋く纏まった感じ。
 明らかにうまいんだが、万人受けするかどうかは疑問符がつく。
 マンガ的デフォルメを入れたくて、でも難しい。そういう、質量感のある絵柄です。
 寺田克也の表現方法が、ある程度、普及し共有化されていってる現状(アニメ系エロマンガ誌の表紙なんかごらんなさい。)を鑑みるに、この人の絵はむしろ、損かなァ、と。
 もっと下手なのに、もっと売れてる人が結構いる訳ですよ。
(デスノートのマンガ家さんとか。←冗談ではなく、何回聞いても名前が覚えられない。)
 福島聡が地味な印象を与えるとしたら、アニメ畑の皆さんは、もう一度よく考え直してみた方がいい。

 で、話の内容なんですが、これはいわゆる「キャラもの」です。
 ま、そりゃ色んな事件がありますよ、日米近未来戦ですから。京都で核爆弾テロ、とか。(緊急事態が未然に阻止される訳じゃないところが、2000年代の作品なんでしょう。『ドーベルマン刑事』なら絶対止めてる(笑)。)
 でも、福島先生は最初からこれを、人物列伝のように企画していたんじゃないかという節があって、さまざまなキャラクターが出てきてエピソードを繋げていく。
 例えば、
   主人公の入隊、
   ヒロイン(改造人間)との出会い、
   鬼軍曹(女)登場、
   王玲花が便所でオナニー(笑)、
   あからさまに言動の怪しい男(二重スパイ)の演説、
   元自衛隊員が吠え、
   二枚目気取りのゲス野郎が、米軍基地での初恋エピソードを披露、
   サバゲーマニアが実戦登用、
   大人のおもちゃ屋の娘が救急隊員になる、
 などなど。
 この間、米軍は偵察機を飛ばして日本の基地を攻撃したりしてますが、実はそっちは本線じゃない。
 敵側ロボット(重度犯罪者の脳髄を組み込んだ、遠隔操作型。操るのは、母親殺しの気違い。)が出てきて交戦が続いても、同じこと。
 こういう外し方は、相当気合が入っていないと出来ない。

 ありえない、アニメ的なウソを現実として語ろうとするなら、飛び道具的な要素を絡めてでも、そのギャップを埋めるしかないだろう。
 だから、機動兵器「福神」の内部充填剤は、大人のおもちゃを改良してつくられるのだし、隊員には真性マゾが必要なのです(笑)。
 冗談のようですが、これは作者として勇気ある選択です。はぐらかしや、照れがあっては出来ません。
 結果、「わかりにくい」と不満を云われても、「だって現実の方こそ、充分に解りにくいじゃないか!」ということなのであります。

 以上の流れからお分かりでしょうが、最終巻で描かれるのは、「満を持しての最終決戦」ではなく(いや、一応それもあるんですが、一話限りで終わり。)、かの『行き行きて、神軍』を狙ったとしか思えない、「あなたにとって戦争とは、何でしたか?」インタビュー大会なのでありました(!)。
 本当に、これだけで一巻出来てる。でも、個々人の感想はあるけど、お互い議論はしないから安心して読んで頂きたい。この辺も、ゼロ年代の作品らしいところだと思います。
 したがって、キレイに纏まりません。
 話的には宙ぶらんのまま、幕切れです。だって、現実にオチなんかありませんもん。

 リアルであるということを真剣に追求すると、曖昧さに行き着くのです。

 物語のダイナミズムが戦争を語るんじゃなくて、個々の人物の記憶としての戦争像。
 絵柄も含めて、福島先生はとことんリアリスティックなお方でありました。

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2010年1月 2日 (土)

『どんづる円盤』 (’78、日) <完結編>

   (承前)

    第六話、古物都市

 スズキくんは、身じろぎもせず座っていた。
 おやじはジッと腕を組み、考え深げに眼を閉じている。
 微かに、風が出てきたようだ。
 見上げれば、夜が漆黒の翼を広げ、一帯のまばらな灯りを包み込んで拡がっている。暗黒の大宇宙は底知れぬドス黒さに満ち溢れ、嵌め込まれたダイヤモンドの細かい粒のような星々さえもギラギラと凶暴な光を放って、なんだか落ち着かない。
 
 「最終章は、佐田雅男の手記の体裁で語られます。」
 
 スズキくんは、ようやく意を決したらしく、話し始めた。
 「この章が読者を混乱に陥れるのは、そこです。思考内容が地の文で次々に述べられ、マンガとしてのアクションがない。」
 「一番最後のオチ部分を除けば、だろう?」
 おやじは瞳を開いた。決して寝ていた訳ではないらしい。
 「あれこそが、恐怖マンガの常道への回帰だと、わしは思うね。」

 スズキくんはぐるぐる手を振り回しながら、
 「いや、だからこそ、話が余計ややこしくなるんです。それまでの説明をさらに錯綜させてしまう。
 でも、まァ、いいや、まずはストーリーの叙述を完成させてしまいませんか?
 それから残った問題について、じっくり検討するとしましょう。」

 おやじは右手を軽く差し上げた。やれ、と目配せする。
 流星が、南の空に光って消えた。

※     ※     ※     ※

11) エピローグ、最後の恐怖

 東京。佐田の自宅。
 ノートに向かい、その後の事件の経緯を書き綴る佐田。
 
 「円盤が去り、巨大ゴキブリは残らず死滅したが、
   ゴキブリの運んできた病原菌のために、大量の病人が出た。」

 「円盤のことは、誰も信用してくれない。
 テレパシーで僕達に話しかけてきたのは、確かにゴキブリだった。
 円盤の搭乗者がゴキブリだったなんて、誰が信じてくれるものか。
 だが、僕達は見たんだ。」


 妹ミチルは、あれからずっと眠ったままである。
 何かの原因により、昏睡状態に陥ってしまったようだ。

 「ゴキブリは、人類が生まれて来る以前、遥か古代から現在まで生き続けている昆虫だ。
 考えようによっては、地球を支配してきたとも云える。
 恐龍が滅んだように、人類もやがて滅ぶかも知れないが、ゴキブリは変わらず生き続けるだろう。」
   
 「円盤のゴキブリは、人間より優れた超能力を持っていた。
 あれは、宇宙のどこかで進化し発達した、恐るべき新種だったのだろうか。」


 考え深げに、窓の外を見やる佐田。

 「あいつは、神ということを云っていた。
 すると、われわれを助けたのも、神の意志を代行してのことか。」


※     ※     ※     ※

 「さて、この次の一行、二重に赤線、アンダーバー願おうか、スズキくん。」
 おやじは、カッと眼を見開いて云った。
 「チェックメイト。王手。」

※     ※     ※     ※

 「もし、ゴキブリが神の使徒だとしたら、今、家の中にいるゴキブリはわれわれ人間を監視しているのではないだろうか。」

※     ※     ※     ※

 「これって、“ゴキブリは神に等しい”って意味ですよね?」
 湧き上がる興奮を隠し切れずに、スズキくんが云った。

 「そうだ。
 この物語が、実は[ゴキブリによる人類飼育テーマ]を語っていたことが、ここで初めて明らかになるのだ!!」

 「意味不明だった<前編>(4)での、佐田家天井裏に張り付いたゴキブリの描写はこの為だった訳ですか?!」
 「重要な伏線だよ。作者は周到に筆を進めている。
 白川まり奈の頭の中に、最初からこの種明かしがあったのは、間違いない。但し、余りに壊れまくったストーリー展開に皆が翻弄されてしまい、最後の説明ですべてを救うどころか、さらなる混乱をきたしてしまったのだ。」

※     ※     ※     ※

 「ゴキブリは子供を大事にして、卵が孵るまで母親が持ち歩き、育てる。
 人間のようにどこかに生み捨てたりはしない。」


 昏睡を続ける、妹ミチルが寝ている部屋。
 自室の暗闇の中で、手記の執筆を続ける佐田雅男。
  
 と、ふいに、ミチルが暗がりで眼を見開く!

 「あの巨大ゴキブリも、自分の子孫を残そうと考えたのだろう。
 だから、円盤に潜り込んで現代にやって来たのだ。
 荒廃した未来の世界よりも、今のほうが生き延び易いだろうし、
 きっと、卵だって産もうとした筈だ。
 そうだ、その卵はどこかに隠れているのに違いない。」


※     ※     ※     ※

 「この記述は、すぐ前の前提と矛盾しますね。」
 スズキくんが、冷静に指摘する。
 「だって、“母親が持ち歩き、育てる”んでしょう?“人間のように、生み捨てたり”しませんよね?!」
 「私は、こういうとき、『たかがマンガですから』って、片付ける連中が嫌いなんだよ。」
 おやじは云う。
 「スズキくん、きみの云う通りだ。
 この記述は、先の説明と明らかに食い違っている。だがね・・・・・・。」
 
 「だが、なんです?」
 「いや・・・ともかく、最後まで続けよう。」

※     ※     ※     ※

 一階の自室で、手記の執筆を続ける佐田。
 不吉な予感に捉われ、天井を見上げると、天板びっしりに蠢く、無数のゴキブリ!!
 「ウァアアーッ!!」

 
異変に部屋を飛び出す佐田。階段を駆け上がる。
 
 「ミチルの部屋から出てくるぞ、どうしたことだろう?!」

 ドアの隙間から、行列となって吐き出される夥しいゴキブリの群れ!!

 「おい、ミチル!起きろよ、たいへんだぞ!」

 佐田、ドアノブに手を掛け、引き開け、
 恐怖に凍りついた!!!

 蒲団に転がった妹ミチルの全身を食い破り、孵化するゴキブリの大群!!
 どす黒い空洞となった眼窩から、鼻の穴から、
 ポッカリあいた恐ろしい口の穴から、
 あとから、あとから無限に這い出してくるゴキブリで、部屋は埋め尽くされていた!!


 佐田、最後の独白。

 「円盤のゴキブリは、ただ単に人類を助ける目的で、巨大ゴキブリを殺したのではない。
 もし、未来において奴らが飢えたとき、巨大ゴキブリは彼等の『食糧』を食い荒らす存在となるだろう。
 だから、助けたのだ。」

 「われわれは、彼らによって飼育されているのだ。
 地球という、飼育箱の中で。
 いや、地球は彼らにとって、未来の牧場なのかもしれない。」
  

   (END)

   第七話、古いろの誕生

 「・・・終わりましたね。」
 「うん、ようやく終わったようだ。」

 闇に沈んだ屯鶴峯を眺めながら、ふたりは深い息を吐いた。
 夜気は冷たさを増し、たいした標高でもないのに、妙に肌寒い感じがする。
 彼方に見える民家の明かりも、心なし少なくなったようだ。

 「集英社版の妖怪ハンター、章題をすべて載せることが出来て、わしは満足だよ。」
 「シリーズ以外の短編も二本含んでますがね。だいたい、ジャンプで連載されるも五本で打ち切りとなり、最終話なんか、先日までまったく復刻されなかったという。
 諸星先生自身が“不遇なシリーズ”と回顧されてますね。」
 
 「その先見の明がなかった編集者、一度顔を見てやりたいもんだが。
 ま、それはともかく。」
 おやじは、落ち着き払って続けた。
 「ゴキブリには二種類あったんだよ。
 巨大ゴキブリと、円盤のゴキブリは、別の種族だったってことなんだ。」

 「それが混乱の要因ですね。
 それにしても、最後、ミチルの身体から孵化したゴキブリは、小さい、普通のサイズのゴキブリでしたが?!」 
 
 おやじは、軽く手を振り、いなすと、
 「いや、あれは巨大ゴキブリの子供なんだろう。
 子供だから、小さいんだ(笑)。
 円盤のゴキブリが、人類の歴史以前から、この地球を支配している知性種だとすれば、巨大ゴキブリは知能を持たない、突然変異種ということになる。
 環境汚染が生んだ、ミュータントなんだよ。」

 「ははぁ。」
 スズキくんは、記憶を手繰り寄せ、溜息をついた。
 「<前編>の第一話、ラストで『地球環境を大切に』なんて、そぐわないこと云ったりして、あんた、アレも伏線だったって訳ですか。」

 しばし試す眇めつしていたスズキくんは、口を開いた。

 「ところで。最後に判らないことが、ひとつあるんです。」
 「何かね?」
 「先ほど、“ゴキブリは卵を産み捨てない”のくだりで、何か云い淀まれましたよね。
 あれは、どういう意味があるんですか?」

 「あァ、あれか。」
 おやじは、ニヤリと笑った。
 「スズキくん、きみは実際にゴキブリの卵を眼にした経験はないかね。」
 「エェ、あの、黒光りする、小さなお財布みたいなやつですよね?」
 「つまり、必ずしも、産み捨てない習性じゃないってことさ。

 例えば、ほら。」

「うわわぁぁぁぁーーーーーーーッ!!!」

 
どす黒い空洞となったおやじの眼窩から、
 鼻の穴から、
 ポッカリあいた恐ろしい口の穴から、
 あとから、あとから続く無数のゴキブリの洪水が、スズキくんの顔面目掛けて溢れ出して来た!!


 
その夜以来、ふたりを見掛けた者はいない。
 

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『デッドリー・スポーン』 (’83、米)

「奇跡は誰にでも、一度起きる。だが、起こったことには、誰も気づかない。」
 
(楳図かずお『わたしは真悟』より引用)

 恐ろしく低予算の、荒れた映像。16mmフィルムをブローアップして、35mmに焼いて劇場で公開したのだという。
 当時のアマチュア・フィルムメーカーが夢見るようなことを実際に成し遂げてしまったのが、この映画だ。奇跡は信じる者に起きるのだ。
 『デッドリー・スポーン』。
 さえないアメリカの田舎町に、宇宙生物がやって来て、人間を喰いまくる。ただそれだけのシンプルな映画。スタッフもキャストも、全員無名だった。

 かの『エイリアン』('79)が復権させた、未知の生物に人間が次々と襲われる、五十年代SF映画の黄金パターン。
 ダン・オバノンの考えが、それだけ普遍性を持っていた証拠だろう。同ジャンルを踏襲した映画は、(それなりに好き者の)われわれでさえ食傷するほど作られ、80年代ちょっとしたブームを来たすことになる。
 一方で、『ハロウィン』『13日の金曜日』を始祖とするスラッシャー映画の系譜と、リック・ベーカー(『狼男アメリカン』等)あたりが牽引した特殊メイクの深化。
 血まみれの残酷度を上げることが、逆転して、乾いた明るさを映画にもたらす。
 だから、傑作『デッドリー・スポーン』の登場は、ある種、時代の必然だった。
 
 それにしても、当時のブームを振り返ると、なんと人間がよく動いていたことかと思う。
 裏方だったSFXマンがスター扱いされ、無名の新人俳優が主演を勝ち獲る。
 カロルコ、エンパイアなど新興資本の勃興、旧来のハリウッドシステム自体の弱体化、ビデオ文化の普及に伴う新しい顧客ニーズの汲み上げ。
 何につけ、ブームとはそうしたものなのだろう。業界全体を支配した熱気は、たいしたことにない屑フィルムさえ輝かしてしまう。
 70年代終わりから80年代前半までのアメリカ映画には、従来の興行界の常識を覆す、説明しがたいエネルギーが横溢していた。

 『デッドリー・スポーン』は、そんな時代の申し子だ。
 
 まず何より特筆すべきは、怪物のデザインだろう。
 無数の短い牙が生えまくった、口だけの醜い姿。胴体もあるにはあるが申し訳程度。鉤爪の生えた細長い足は巨体を動かすには力不足で、のろのろとしか移動できない。
 幼生体はオタマジャクシを伸ばしたような形状で、既にして凶悪な牙が多数生えている。 判りにくい例えで申し訳ないが、『ピラニア』('78)の歯を持つ、『シーバース』('75)。これが一番正確な記述だ。
 この怪生物が、その後のジャンルムービーに与えた影響力は絶大で、かの巨匠トビー・フーパーまでが傑作『スペース・インベーダー』('86)で怪物のデザインを丸パクリ。(正確にはスタン・ウィンストンのデザインだが。とはいえ、この映画の企画自体、50年代SFの80年代的リメイクという別の共通項を持っていたりする。)
 全編に漲る気の効いたユーモアは、さらに悪ノリを加えたピーター・ジャクソンの『バッドテイスト』('87)に引き継がれ、『ブレインデッド』('92)に到る。(ニュージーランドの片田舎でせっせと四年をかけて宇宙人侵略映画を撮っていたジャクソンが、本作の直接的な影響下にあるのは間違いなかろう。ラストのオチも似てますし。)
 『トレマーズ』('89)の地底怪獣グラボイズは、怪物のスピード面が強化された正統な嫡子ということになるだろう。あいつも、立派な口だけのモンスターだ。

 そうしたジャンルの王道要素に加えて、『死霊のはらわた』('81)を嚆矢とする、やり過ぎなスプラッタ描写まで取り入れ、こういう下らない映画を目当てにわざわざ足を運ぶ、胡乱な観客のニーズに、満遍なく応えた仕上がり。
 余り有り難みはないが、お色気方面にも抜かりなく、冒頭のシークエンスでは、ネグリジェのおばさんがスケスケのヌードを披露してくれたりする。
(「シナリオの書き方」などには載っていないが、冒頭部分にヌードを出すのは、娯楽映画の重要な作法である。例、『殺人魚フライングキラー』『ゾンゲリア』)
 まさに、完璧。ジャンル映画の満艦飾だ。
 ファンが作る自主映画というのは、往々にして駄目な遺伝子を混入し易い筈なのだが、なぜか、この映画に於いては、悲惨な事態は巧妙に回避されてしまう。
 オタク映画特有の気恥ずかしさがないので、一般観客の皆さんにも、安心して楽しんで頂ける筈だ。
 主演が、ヒルデブランド兄弟(SFアートのジャンル画家、当時は結構売れっ子)の、どっちかの家の長男(笑)という悪条件はさておき、何ゆえかくもバランスのいい娯楽映画が成立し得たのか。

 以下推測してみよう。
 ひとつには、これも自主映画だが、ジョージ・A/ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)を下敷きにした物語の構造がある。
 墓場から死者が次々と蘇えり、一軒屋に籠城する人々を襲う。誰でも知ってる『ゾンビ』('78)の、前編に当たる白黒映画。ゴアメイクも効果的で、(当時はまだ目新しい)内臓描写も強烈。ドキュメントタッチのクールなカメラワークは、低予算映画の枠を超えたインパクトを世間に与えた。
 この手法を踏襲すれば、セットは在りものを使うだけでいい。家一軒、破壊する覚悟があればだが。セットは本物。そうすれば、誰も知らないような、冴えない俳優さん達もかえってリアルに見えてくる。
 その分浮いた予算は、怪物のプロップに廻すことが可能だ。
 なにせ、動きの遅いモンスターだ。なめられないよう、とにかく、たくさん作れ!『スクワーム』('76)に負けるな!
 無惨に喰い千切られる人の顔面(皮膚が餅の如くグニョーッと伸びる)や、切り落とされた手首(アップにすると、素材感がバレバレ)、すっこ抜ける首(かわいいカツラ付き)など、特殊メイクも隙あらば大量投入!(ま、多少の安っぽさは否めないが。不思議なもので、慣れればそれすらチャーミングに見えてくる。あばたもえくぼ効果か。)
 となると、逆に、役者は無名の連中でなくてはならない、必然性が生じる。
 主役はあくまで口だけの怪物なんだから、次々と死んでいく犠牲者たちは、顔も知らない皆さんでなくては。変な上昇志向を振りかざす奴なんか、願い下げ。
 残虐かつバカげた死に方を厭わない、わずかなギャラの為ならなんでもする、献身的精神の持ち主が理想的だ。(特に、首をもがれ、窓から落下する女優さんは、本当見上げた根性。あんた、今輝いてるよ!)
 これは主役不在の集団劇であるが、どのみち、一番おいしい役は、ヒルデブランド家の坊やで決まりなんだし(笑)。
 音楽なんか、もう、シンセ一台で充分。カーペンターだってそうしてるよ。

 以上の記述でお判りの通り、ジャンルの前任者達の達成を多々踏まえた上で、かなり危険なバランスで成立している、曲芸のような映画である。
 監督の演出はまともだが、場を攫うほど腕がある訳ではない。
 前半なんか、かなりお寒くなる瞬間(アタマの、ベッドルームで最初の犠牲者夫婦のシーケンスなんかヤバかった。ただ撮ってるだけ。夫婦モノのAVみたいだ。)も、確かに存在している。
 だが、後半部にかけての、異様な熱量の盛り上がりはどうだ。
 無名の役者諸君もなんだかノリノリ状態ではないか。一体どうしたんだ。
 この駄目映画に、何が起こっているというのか。

  冷静に考えれば、それは一度っきりの奇跡と呼ぶしかあるまい?
  信じる者に、奇跡は起こったのだ。
 
 しかし、その後、この映画から大成して、一般映画の観客に知られるようになる存在は出なかった。
 映画自体も、ジャンル内で消費され、特にジャンル映画制作者の側に多大な影響を及ぼしたが、レンタルビデオ屋の棚に行儀よく収まり、それ以上の展開はなかった。
 まァ、当時一部の人達が間違いなく「傑作」と認知した。
 それだけのことだ。

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2010年1月 1日 (金)

1/1 ウンベル、新春に呪いの風を運ぶ

 諸君!お前のアトランティス大陸は見つかったか?!
 無理?!
 あ、そう。(意外とあっさり撤収。)
 ウンベルだ!本年もよろしくねッ!

 しかし、本年度も、課題図書が山積みで新年を迎えることとなり、非常に不本意だ。
 アポロが月に行くことがあっても、私が自分の蔵書を全て読みきることはないのではないか。不吉な予感が胸を横切る。

 また、古本ハンターことスズキくん以外、まったく関心を示さない事項であろうが、
 『蔵六の奇病』カラー本を、元旦に俺は見た!(少年画報版、ですねー。)
 表示価格一万五千円!ひゃー!!きびしィなァー!
 
 それだけなら、まだいいが。
 年末ブロードウェイで、お買い物(「白雪姫は悪魔の使い」「人魂のさまよう海」など)をした際、ふと、レジ横のショーウィンドウを覗くと。なんと。

 城たけし『呪われた巨人ファン』が!!!

 心臓が止まるかと思った!!
 しかし、さらに、その横に陳列されていたのは!!

 川島のりかず『中学生殺人事件』!!

 しかも、両者共に値段のラベルがついていない!!

 
・・・・・・・・こわい!!こわすぎる!!

 
その瞬間、俺の頭の中の打算コンピュータがスパークし、動きが完全に止まってしまった!!
 いったんお買い物のレジ、完全に終えちゃってるという今の状況もやばい。
 それに、いまだ捌けていない、のりかずの名作『フランケンの男』が七千八百円する、という相場状況から推測するに、
 こりゃ、一万円は下らない。
 しかも、大物が二冊。同時に。
 あまりにも、ビッグタイトルだ。最後の、ラスボス級だ。
 ラスボスが、ダブル。
 そんなゲーム、聞いたこともねぇよ。

 出せるか?
 出せるか、ウンベル?!

 ・・・・・・・・・・・・うぅぅぅむ。

 (以下心の中のエクスキューズ。)

 しかし、この二冊をいきなり手にしてしまうと、俺自身何か終わった感漂う、燃え尽き症候群に陥ってしまうのでは?
 (後で思うと、たぶん、絶対、それはないのよ。)

 人生にはもっと楽しいことがあるぞ、何を生き急ぐ??
 (これは、妥当な見解。)

 そもそも、のりかずが万単位なんて、絶対おかしいよ、資本主義経済!!
 (しかし、これが現実だぞ。)

 いや、問題はそういうことじゃないんだ。うぅぅッ。

 さまざまな思惑がアタマを埋め尽くし、オレは師走の夜の街に逃亡した!!

 そして、心を決めて元日行くと、その二冊は瞬時に消えてしまっていた!!

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