『赤い蛇』 (’83、日)
(スズキくんの古本探訪日誌より、抜粋)
「出たよ、出ましたよ。」
震えた声で、おやじが云うので、ボクは読みかけの石倉三郎自伝を置いて、振り返った。
古本屋のおやじは、前回の家屋全焼により瀕死の大やけどを負ったので、爛れ切った皮膚に包帯をグルグル巻きつけた、それは哀れなご面相である。
「なにが、出たんですか、マスター?手塚の妖怪探偵団とか。」
「そんなもの、本当のレアじゃない。」
チッ、チッ、チッと舌を鳴らし、おやじはさらに醜さの増した顔をこちらに近づける。
お昼に喰べたと思しきレバニラが強烈に臭った。
「真のレア物ってのはね、存在自体が希少価値でなくっちゃいけない。ただ単に入手困難、再刊できないってだけじゃ、本物とは呼べんとです。」
「おや、急に、九州人になりましたね。
それじゃ、マスターのいうレア物ってのは、なんですか?」
「日野日出志。」
ズバリ言い切ると、傍らのお茶をゴクリ飲み干した。懐中からモゾモゾと、一冊の本を押し抱くように取り出す。
「『赤い蛇』。それ、ボクが昨日貸した本じゃないですか、もう少し丁寧に扱ってくださいよ。」
「だまらっしゃい。日野先生のご本を、深夜帰宅のバスの中で読み始め、周囲の白眼視も全く気にならぬ程に、のめり込んでしまい、完全に止まらなくなり、本来降りるべきバス停をふたつもみっつも乗り過ごしてしまった、恐怖!奇形人間の気持ちが、きみ、判りますか?」
「そんなに、ですか。」
「あたしは、昨晩、産まれて来た不幸を呪いましたよ。ブログ読者に斧を投げつけてやろうか、と思いました。」
「ソレ、作品違いますから。」
「日野先生の場合、重要なのは、似た作家がいない!ってことなんですよ。造形、キャラ、展開、すべてが独特、オリジナルなんです。
その割には、主人公の姉なんか、もろ、つげ義春の影響を感じさせますが。」
「あんた、自分でネタ割ってどうする。」
「でも、エロいからいいんだよ!安保に反対の若者は全員、「紅い花」の少女に萌えてたんだよ!
家社会の伝統としがらみの中で、呼吸困難に陥った近代精神は、欲望の捌け口すら見出せない自虐闘争の明け暮れに、病み、疲れ、打ちひしがれて、血の惨劇の夢を見た。これはそういう話だ!」
興奮したおやじは、テーブルに跳び上がる否や、店の唯一の照明だった裸電球に額を打ちつけた。
「キィィィィィイ!!なぜだ!!なぜ、みんな判ろうとしないんだ!!
日野先生の描く血みどろの情景、あれは愛なんだぞ!
血が流れれば、流れるほど、愛がある!!」
ぱりん、と砕けた電球の破片が、火傷で赤黒くむくんだおやじの皮膚を切り裂いて、めり込んでいく。どす黒い血が流れ、顔面は斑に染まった。
額を覆い隠す鮮血の海の中に、蠢くものがある。
蛆だ。
無数の、醜い蛆虫だ。
「読め!とにかく、読め!読まなければ、きみは三日後に死ぬ!!」
「思いっきり、他作品のネタばらしちゃってますが。」
蛆虫を撒き散らしながら、立ち上がったおやじは、地面に飛び降り走り出した。その前方には、なぜか店の奥の間を仕切る巨大な三面鏡が。
激突する瞬間、思わず眼を瞑ったボクの耳に届いたのは、パリーンという破砕音ではなくて、水面が波打つような奇怪なうねり、響きの気配だった。
白く、透明になったおやじの身体は、見上げるほど大きな鏡をすり抜けて、狂ったゲラゲラ笑いを続けながら、走り去って行く。
店の狭い土間を駆け抜け、往来へと転がり出ると、そのまま加速して通りを走り出した。
時折ぶしゅーっと吹き上がる鮮血と、その中から湧き出して来る蛆虫の、汚れた水溜りを跡に残して。
遠くで、女性の悲鳴が聞こえた。
「すっかり、そういうキャラになっちまいましたか。」
散らかった古本屋の店内で、床に落ちた『赤い蛇』の復刻本を取り上げ、埃りを払いながら、ボクが云った。
「おやじのその後の人生はともかくとして、現在のボクの関心事は、この本の表面に付着した血の汚れが、うまく落とせるかどうかということです。
うまい方法をご存知の方があったら、手紙をください。
住所は、地獄の一丁目、番地は空白で結構。大丈夫、きっと届きます。
お返しに、狂人との上手な付き合いかたを教えてあげましょう。
あまり、彼に関心を持ちすぎないことですよ。ケ、ケ、ケ、ケ、ケ」
うまそうに、卵を割って舐めた。
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