『サスペリア』 (’77、伊)
いや、しかし変な映画だったな。
監督に映画が私物化される感じって、わかるかい。大林とかで、あるよね。
プライベート・フィルムすれすれの低空飛行。そんなのを、劇場映画として成立させるなんて、余程心臓に自信がなけりゃできない。
『サスペリア』はね、だからホラーじゃないんだよ。「A MOVIE」って、アレなんだな。
全然、怖くないもの。というか怖がらせるつもりでやってないね。
生理的不快感(天井いっぱいの蛆虫)とか、痛覚への刺激(全身針金に包まれ悶絶死)とか、描写はいちいち具体的だけどね。
恐怖と怪奇。でも、アルジェントの求めるものは、ジェットコースターではない。
なんというか、歌舞伎の段取りみたいな、まったりしたもの。それに色彩。
色彩は、当然、重要な要素だと思うんだ。ジェシカ・ハーパーの可愛さと同様(笑)。
この映画を設計するときに、アルジェントは初期のディズニーのカラー長編を意識したんですって。
ヒロインのイメージは、「白雪姫」。そう思って見ると、確かによく似ている。ジェシカちゃんがマンガみたいな顔なのが悪いと思うんだけど(笑)。
全体に赤を多用したセットに、ど派手な原色のライティングをあてられると、確かにみるみる非現実な空間に誘われますわな。
主な舞台は、バレエ学院。
世界各地から留学生が集う名門、という設定にはなってるんだが、何をどう教えていている学校なのか一切不明(笑)。教師もスタッフも、全員異常だし。なぜか、地下には巨大プールがあり、天井裏には腐敗した生肉の固まりが置いてある。なぜか(笑)。
だいたい、ヒロインからして、ニューヨークからわざわざ留学に来たくせに、まともに踊る場面が全然ない。唯一ある舞踏シーンでは、めまいを起こして転倒してますから。
だから、これらはすべて表象でしかない。書き割り。
舞台も、人物も現実感ゼロ。
アルジェントは、そこを狙って撮ってるし、われわれもそう思って観るべき。監督の趣味の悪さに、いちいち突っ込みを入れながら。
そうすりゃ、かなり愉しめる筈だ。
アルジェントの世界は、ものすごい悪趣味も、平気でアリだ。
だいたい、全編を覆い尽くすゴブリンの音楽からして、絶対笑かすつもりだろう、と思われる趣味の悪さなんだがね。(あ、好き?ファンで?ごめん。)
断言しよう、
そもそもこの映画、日常描写すら、まともな箇所はまったくない!
いっとき、主人公のルームメイトになる女なんて、どう見てもカタギじゃない(笑)。部屋なんか、青と白の壁紙に、濃く黒い蛇状の模様がうねうね這ってる。極妻より派手。
で、その部屋の中央、カウチに凭れて、黒の丸髷にアイラインばっちりのメイクで、豪華な金色のナイトガウンの女(=悪の黒柳徹子)が、電話機片手にずーーーーっと男に電話して続ける。
主人公が話しかけても、超常現象による危機を訴えても、ちっとも聞いて貰えない。
あきらめてジェシカちゃんは(悪の徹子の部屋を)出て行ってしまうんだけど、この場面が何を意味しているのか。
「なにも意味していないでしょう。」
というきみは、残念でした、落第だ。もう一度、小学校からやり直し。
この場面の意味は、「主人公は追い詰められており、誰にも話を聞いて貰えない」という心理的危機状況の、文字通りの視覚化(!)なのである。
なんだそりゃ。マンガじゃないか。その通り!
でも諸君、お断りしておく。アルジェントは、もちろん大真面目なのである。
(あの黒手袋も、当然本気だ。)
心理的状況を、逐一、悪趣味に翻訳してみせるのが、『サスペリア』の手法である。
本当に、ただただ、それだけで話が出来上がっているので、真面目な人はきっと怒り出すだろうと思う。
ヒッチコックが映画としてのバランスを考えながら上手にやっていたことを、アルジェントは自己流でとことん我儘にやってしまった。
例えば、
冒頭の、笑っちゃうぐらい、激しい雨に洗われる国際空港から、見事に止まらないタクシー、絵に描いたように無愛想な運転手。
これは、主人公の到着時の不安を、ど派手に視覚化したものだ。
続いて、逃げ出した女学生のへんてこな公開首吊り処刑。巻き添えで眉間にガラスが刺さって絶命する人。誰、この人。(本当に意味不明なのである。)
この場面では、彼女達の抱く恐怖(「こ・・・殺される!」)を、そのまま現実に、ストーリーに転化して見せてしまう。
窓の外を眺めれば、金色に光る眼が見えるし、窓ガラスを破って太い腕が伸びてくる。物理法則を無視して。
そんな馬鹿な。
これは映画で最初の殺人であって、明らかに魔女とは違う別の犯人がいるんだが、最後までその件について、合理的な説明は登場しない。
ようするに、増幅する恐怖心理の連鎖。そのビジュアルイメージによる絵解き。
これが、ストーリーの骨子そのものであり、実はすべてだ。
リアリティなど、くそくらえ。
合理的近代精神など家に置き去りにして、劇場に観に来んかい!ということであろう。
不気味な召使、嘘臭いまでに厳格な女教師、顔が不気味な子供。
盲目のピアノ弾きと赤十字マークの盲導犬。
(この人の殺害シーンは、本当に凄い。真夜中酔って帰宅途中に、狂った愛犬に喉笛を噛みちぎられて死亡しました、としか云い様がない。不幸な事故だ。
これを、実は魔女の呪いでうんぬんで、と解釈できる人は相当なお人好しだろう。)
それに、正体不明すぎて、何をしたいのか全然わからない伝説の魔女。学校を経営したり、結構人の役に立ってるつもりですが。やはり、駄目ですかね。
この物語を成立させている心理的背景、不安が、すべてアルジェントの個人的妄想であるのは、間違いない。
脚本を共同執筆した、妻で女優のダリア・ニコロディの立場は、だから、フィリップ・K・ディックの『宇宙の眼』で力場発生装置に投げ込まれた人のようなものだったかも知れない。
個人の主観原理により構成された宇宙。
あぁ、そう考えると、もっと構造が似ている物語が、他にあったな。
フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』です。コレだ。SFオタクの妄想の中に投げ込まれた編集者の話。
こんな目には遭いたくない、という作家の持つ恐怖を現実化したという意味で、『サスペリア』と共通するではないか。
作家個人の、ある種のポートレイトという点でも。ま、ブラウンの方が遥かに大人ですが。
同じようなテーマの、ピーター・フィリップスの短編「夢は神聖」というのもいいですが、あれは合理精神が最後に勝つからな。
妄想の持つ狂気の論理に則って解決する、という点でやはりブラウンをお勧め。
面白いからってイタリア映画ばっかり観ていると、バカになるぞ!
不勉強な諸君は、次回までにがんばって読んどくように。
じゃあ、本日の講義はこれまで。足元に気をつけて帰ってね。
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