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2009年11月21日 (土)

《架空映画レビュー》 『モスキート・マン』 (’09、日)

 内藤は、孤独な現代青年。どのくらい孤独かというと、趣味は殺した蛇の生き血を啜ることだというくらいだ。
 彼の棲む粗末なあばら家は、無数の蛇が産卵に向かう、通称「へび沼」への通り道にあたっているので、散らかり放題の部屋のいたるところを蛇がにょろにょろ這っている。

 この設定だけで観客の大半は腰が引けてしまうだろうが、映画の制作者はお構いなしに続ける。

 内藤は毎日ガス屋に勤めており、仕事はボンベの配達。山間の辺鄙な田舎町では、都市ガスなど普及しておらず、各家庭はいまだにプロパンガスを使っている。
 彼の仕事は、トラックに幾本ものボンベを載せ町中を廻り、石段や狭い山道など、百キロを越す重量物を手でかついで運び上げることだ。
 繰り返す過酷な労働によって、内藤の背中は深く湾曲し、ボンベの形状に沿って大きく窪んでしまっている。(明らかに色々とマズい描写であり、一部ボカシが入る。)
 店主は好色なおやじで、辛い配達から帰った内藤をねぎらうでもなく、先刻電話で入った注文を怒鳴りながら伝えると、のれんの奥に消える。やがて聞こえる、嬌声とあえぎ声。おやじは仕事もしないで、昼間から年下の内縁の妻とセックスばかりしているのだ。
 顔をしかめる内藤。
 同僚の猿(役者ではなく、本物の猿が演じている)は、歯を剥き出し唸る。
 キィーーーーーーッ。
 「そりゃそうだけどな」平然と答える内藤。

 この場面が、内藤の狂った精神状態を表現しているのか、それとも実際に猿がなんらかの意味ある言葉を話している設定なのかは不明である。
 (せめて字幕をつけて欲しかった。)

 そんな内藤が、ある日突然、恋をする。相手は町外れの巨大な屋敷に、(実はタニシの化身の)婆やとふたりきりで暮らす、大金持ちの令嬢だ。
 この令嬢は、少し足りないが愛すべき人物として描かれており、手にした小刀で挨拶代わりに切りつけてくる。だが、彼女は盲人でもあるので、気のいい郵便配達も、森番も、(実はタニシの化身の)婆やも、現在のところ無事生きながらえている。
 
 「彼女が、ほんとうに目を見開いたとき」ストーリーの預言者役として登場する寺の住職が、広い台所の片隅でお手伝いの手を握りながら囁く。
 「それが、われわれ全員の最後なのかもしれん。」
 「おしょうさま・・・。」
 「喝ァーーーーーッッ!!ほれ、すりこぎ!!」
 「アァ!」

 令嬢は不治の病に冒されており、余命幾ばくもないという設定である。
 主治医はモノクルに黒い山羊髯を蓄えた、あからさまに胡散臭いフェルナンド・レイ風の色男で、実は、強欲で腹黒い町長の腹心の部下だ。
 映画の中盤、突拍子もないタイミングで、猫がつづけざまに頓死するカットが連続するが(劇場版パンフレットに載っていたスタッフの談話「撮影用に準備した猫を全部殺してしまったもんで、ボクが何軒もペットショップを廻る羽目になりました(笑)。」)、それと前後するように、山羊髯の医者が狂ったように高笑いするカットが繰り返し挿入されているので、あるいは彼が毒を盛った張本人なのではないかと誰もが思うが、こうした映画にありがちなパターンとして、台詞によってその事実が追認されることはない。そう思って観れば、あるいはそう見えなくもないという程度だ。
 しかしその推測に従えば、令嬢を毒殺しようと毎日の食事に砒素を混ぜている人物こそ確実に医者なのでは、ということになるのだが、本作の脚本家は、余程奥ゆかしい性格の持ち主なのだろう、その点についてもこれまた巧妙に言及を避けている。
 第一、本来の黒幕たる町長は、悪党の常として、令嬢が資産として所有する広い山林ばかりか、彼女の肉体もあわせて頂戴せんと企んでいるのだから、医者の行動は明らかに主人の命令に背いていることになる訳であって、作劇の技術としてこうした複雑な性格の人物には慎重なキャラクター造形が欠かせないのだが、本作の脚本家は明らかに才能が不足しているので、医者を浅薄で表面的な暴力に固執する、狂った男としてしか描いていない。(だが、これはこれで成功だ。)
 彼の被虐性を表しているのだろう、場面上の必然とは一切関係なく、登場時には必ず黒い鞭を携帯していて、何気ない日常会話の端々に床を叩いて周囲を威圧する。背景に写っている女優に偶然鞭が当たって、彼女が顔を歪めるのが、編集でカットされずに残っている。

 さて、内藤が重いボンベを背負ってお屋敷を訪れると、おおきな鉄柵の門のところで、駆けて来た子供が突然パタリと倒れて、死ぬ。
 驚く内藤の顔のアップにかぶさって聴こえる、ショパンのポロネーズ。屋敷の令嬢が弾いているのだ。
 (キャスティングディレクター談「目の見えない人に、本当にピアノを覚えてもらうのが大変でした。」)
 心地よい音色に恍惚の表情を浮かべる内藤。だが、油断が命取りになり、バランスが崩れて滑り落ちたボンベは彼の足の甲を直撃。「あぎゃーーーっ!」70年代の香港映画のように飛び跳ねまくり、べたに苦痛を表現する内藤。気づいて窓から顔を出す令嬢。
 この出会いがきっかけとなり、ふたりは結ばれる。(直裁的な表現を好むこの映画の監督は、出会いのカットの次に、内藤に背後から激しく責められる令嬢の苦悶の表情を繋いでしまっている。)
 
 深夜、密かに令嬢を連れ出し、水辺のデートを楽しむ内藤。
 「この沼は、ね」
 流木に腰を降ろしての愉しい語らいの時間だ。「へび沼と呼ばれているんだ。」
 「へび沼?」
 「全国の蛇がこの時期、産卵に訪れる秘密の場所さ」
 「まぁ」恥じらいを浮かべる令嬢。「素敵ね。あたしも産卵・・・させて」
 秋吉久美子ばりの意味不明の台詞に、思わず両目がクエスチョンマークになる内藤だったが、次の言葉を考えるより先に、画面を産卵に訪れた全国の蛇の大群が埋め尽くす!

  ゴオォォォーーーーーーーッ!!
 
 「あぁぁーーーーッ!」
 「内藤さん!」
 暗転、余韻なくカット切り替わると、坊主(寺の住職)が詠む経文が聞こえ、不安定な角度で差された線香数本越しに、数珠を握り、黒い和服姿ですすり泣く令嬢が映る。
 同席している、でっぷり肥えた町長と山羊髯の医者が、お互い顔を見合わせほくそ笑むシーンはまるで未亡人物のAVのようだ。彼等はどちらも相手が気をきかして内藤を始末してくれたものと思っているが、真相は違った。
 猿だ。末席に座り、不貞腐れた表情で煙草をふかしている(VFXを使った合成)内藤の同僚の、あの猿。彼もまた、令嬢の財産をつけ狙う者だったのだ。

 「でも、わたしね・・・。」
 人々の去った墓前にたたずみ、(実はタニシの化身の)婆やに話しかける令嬢。
 「いつの日か、内藤さんはよみがえって、必ずわたしを迎えに来る。そんな気がして、ならないの」

 その頃、墓地の上空には、蛇の生き血の魔力でガガンボと同化し再びこの世に蘇った、内藤の呪われた姿があった!

 「ギィィヤァァァァーーーーーッ!!」

 全速力で降下し令嬢を攫わんとする内藤。その姿は身の丈数メートルに及ぶグロテスクな昆虫だ。背負った透明な空気袋が自在に伸縮し、一気に地上まで舞い降りてくることが出来る。 (このデザインにはスタン・ウィンストンの影響が感じられる。)
 令嬢をかばって息絶える(タニシの化身の)婆や。異変に気づいて駆け戻った町長、医者も倒され、もはやこれまでと思われた瞬間。
 猿が、ガスボンベを転がしながら現れた!
 「これを使え!彼女を頼む!」
 (喋りの部分は、明らかに別の俳優の吹き替えである。それを証拠に口と台詞の動きが合っていない。)
 高速回転するボンベに巻き込まれ、あえない最期を遂げる猿。(一瞬なのでハッキリしないが、轢かれた死体がまだ動いている様子からして、撮影時、本当に猿を一匹始末してしまったようだ。ボディダブルの可能性もあり。)
 嫌というほど見慣れたガスボンベの姿に怯む内藤。寺の住職はもてる最大の力を振り絞り、ボンベの口に火を点けると、慌てて空中へ退避しようとする内藤へ向けて、投げつけた!

 ぼっかぁぁぁーーーーーーーんんんん!!!

 大爆発で見事、四散する内藤の身体。
 スタッフはここで日頃の恨みを晴らせとばかりに、令嬢役の女優に向かって、用意してきた豚の臓物を手当たり次第に投げつける!
 (ガガンボに赤い血や内臓があるようには思われないのだが。)
 血やら腱やらでどろどろになった令嬢が、いくら泣き叫んでも執拗な攻撃は一向に衰えをみせない。虐げられ続けた日頃の恨みは恐ろしい限りだ。
 うろたえ切った住職が制止しようとする一瞬を振り切り、遂にぶちきれた令嬢が目を見開き。
 そのとたん、画面は暗転。真っ暗になってしまった。
 
 (俳優もスタッフも、全員死亡したようだ。それは、この映画にエンドクレジットが一切ないことで確認できる。)

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コメント

若者が描かれている小説
『パイレーツによろしく』
を読んだのは随分と過去。
著者である川西蘭、
そこに登場する青年、共に
同世代なのだけれど…,
共感するまでには到らず
だった。だから、氏による
他の作品を手に取ることは
していない。
最初に選んだものが、自分
の感受性に,不快な残像を
与えてしまったからだ。。

投稿: 鉛筆 | 2009年11月23日 (月) 03時38分

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