『ノーストリリア』 (’75、米)
あなたは、もう、結末を知っている。
コードウェイナー・スミスが極東問題に詳しい政治学の教授で、米国陸軍情報部の人間であったことも。
スミスの一連の作品は、舞台設定を遥かな未来に置いているので、一応フィクションとして扱われ、一定の読者を獲得しているわけだが、本当は違う。
あれは文字通り、ほんとうにあった出来事の記録だ。
あなたがそれを知らないとは言わせない。
スミスの独創性を讃えるのはたやすい。
ねじくれた設定、詩的イメージを喚起する用語遣い。東西の古典を下敷きにした、博識なるストーリー展開。
それ以上に、スミスは人間性を踏みにじる名人だ。
「人びとが降った日」を見てみよう。(短編集『第81Q戦争』収録。ハヤカワ文庫)
ふたつの惑星間で戦争が行われ、敗色濃厚になった片方の陣営が、相手の惑星の大気圏に自分の国の人民を大量に投下する。とてつもない数の生身の人間が、子供が、母親が、若い男が、老人が、てんでに喚き叫びながら、五体ばらばらとなり、血肉の雨を降らせる。
この小説の持つ真の残虐さは、表面的な流血量にあるのではない。戦争という行為の持つ非人間的な本質を、病巣を繊細なメスで摘出する外科医の指先を詩になぞらえるかの如き冷徹さで描ききっている点にある。
誰もがかつて中国で、朝鮮半島で、そしてベトナムで戦われた戦争を思い浮かべることだろう。
だが、勘違いされないうちに述べておかねばならないが、スミスが戦争責任を感じてこの小説を書いたのかといえば、それは違う。
われわれがくれぐれも覚えておかねばならないのは、スミスは戦争を起こした側の立場の人間だということだ。心理作戦の専門家だった彼は、酷薄な決定を下し、非人間的な命令を伝え、間違いなく多くの人の命を奪った。たまたま敗戦国とならなかったため、裁かれることがなかっただけだ。軍隊に関与するとは、そうした内実を孕んでいる。肩書きだけでティプトリーに憧れたりしないように。
ではスミスの小説は、隠微に政治的で読むに耐えないのか。ここが面白いところだが、そんなことはないのだ。
詩的に翻訳された極東政治は、病んだ想像力により結晶化され、おそろしく精巧な飾り細工をつくりあげている。
私はスミスの小説を、壁の中に閉じ込められた殺人鬼が無限の世界を想像し、解放の祈りを込めて綴る呪文のように思う。その願いが真摯かつ敬虔であるほど、小説は現実を映し出し奇妙な歪みを増していく。
(例えばほら、あの「黄金の船」に乗せられた白痴だ。)
非人間性を的確に理解しなければ、人間性を語ることなどできない。
それはパラドックスではなくて、漠然とした結末しか暗示されていないスミスの未来史への、ひとつの理解の鍵だろう。
最後にとってつけたように『ノーストリリア』について述べるが、本書は今年の九月に、浅倉久志先生による素晴らしい訳文の復刊が出たばかりだ。
(ね、最近だろう?)
スミスのなかでもエンターティメント性に富んでいて、とても愉しい部類の本である。普通に読んでも充分面白い。ぜひ紐解かれんことを。
さらに探求を深めんと思われるなら、「スキャナーに生きがいはない」「黄金の船が、おぉ!おぉ!おぉ!」「シェイヨルという星」などをお勧めする。
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