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2009年11月19日 (木)

『グッバイ、クルエル・ワールド』 (’84、英)

 破滅に瀕した世界を思え。新型核兵器戦略構想。レーガノミクス。フォークランド紛争。
 非現実的ともいえる規模で拡充を続けた米ソ二大陣営の軍事力は、妥当な接点など見出せないまま、永遠の睨み合いを繰り返し、ある種の臨界に達しようとしていた。
 揺籃期のコンピュータ・テクノロジーは、どうやらドイツ表現主義的な未来像を描き出す方向を選択するのではなくて、もっと卑近な、例えばドット絵で形づくられる外宇宙からの侵略者に代弁されるような、チャーミングな能率主義に着地しようとしていた。
 本質を失くし空洞化したポップは、最早権威に対する攻撃の道具とはなりえず、真摯な裏づけをなくした芸術運動は、安直で手っとりばやい拝金主義に傾き、それ自体が循環する既得権益となった。恥知らずの美徳は称揚され、貧困に対する揶揄、社会の異端分子に対する公然たる隠蔽工作が始まった。つまり、安いリベラリズムということだ。一方でミリオンセラーがワールドワイドで固有文化を喰い散らかし、ブロックバスター方式に代表されるような大作主義は、市場を蹂躙し、回復不可能なまでに搾取した。あとには雑草も生えない、そんな場所が、数十年経た現在も世界にままある。ある種の爆弾が破裂したのだ。例えば国家経済の破綻といった種類の。
 富める者と富まざる者と。選択の余地のない峻別。
 二極化の時代。マーケティング理論は王者の名をほしいままにした。(そして、今日のわれわれの世界は、その方法論的などん詰まりに位置している。)
 彼等はまたもや選択に誤りを犯したのだ。あの頃。

 コステロが輝くのは、だから、そんな恥知らずな時代を背景としてだ。

 80年代のロックスター、本来持つべきアクティヴィティを喪った時代の、不幸なスター。
 自己矛盾は承知のうえ。マイケルは道化の猿より、本質的に猿だったが、彼の不幸は自身がそれを自覚していたことだろう。
 それにしても、人はなぜ彼の死を悼むのか。その感情はどの程度本物か。スターはいまやあなたの「お気に入りのペットの犬」でしかないのだろうか。冒涜とはどんな現象か。呪術社会以外のところで、祭儀化された死に意味などあるか。それとも、われわれの暮らしているのは、相も変らぬまじない師の居る村なのか?(どうやら、そのようだが。)

 反ロックスターとしての意味を捉え直すこと。エルヴィス・コステロが自覚的に取り組んだのは、そうした行為だった。パブリシティを最大限に利用する方法。例えば、その名前だ。プレスリーのファーストネームと、アボット&コステロの「コステロ」。名前に意味を持たせようとする慣習を先んじて笑い飛ばし、返す刀でおのれのアイデンティティすら斬り捨てる。自虐の人だ。ロックンロールの自虐者だ。
 初来日の際は、ゲリラ活動として銀座の大通りに繰り出し、アトラクションズと共にトラックの荷台から演奏した。当時海外の新人ミュージシャンといえば、東京国際音楽祭に出演するのが関の山と認知していたから、われわれは心底戦慄した。フォークシンガーならともかく、ロックとは。これが本場のパンクか。(実は違った。)しかし、この男、いったい何をしでかそうというのか?傑作セカンドアルバム『ディス・イヤーズ・モデル』から、『アームド・フォーセス』へと続く流れは、そうした露悪的な衝動に突き動かされたものだ。
 過剰な行為。過剰すぎる言動、語彙。誤解の再生産。シングル「オリヴァーズ・アーミー」にはアバの「ダンシングクィーン」のフレーズがちゃっかり織り込まれていたが(おそらくキーボードの名手スティーヴ・ナィーヴの茶目っ気だろう)、そんなお遊び以上に過剰だったのは、実はコステロ自身のボーカルミックス配分だった。ありえない大声。なにも、あんなにでかい必要はないだろう。街角ではふたりの人間が顔を合わせると、お天気の話をするようにそう囁きあった。挑戦的な歌詞はおまけだ。
 矢継ぎ早のアルバムリリース。明らかに世間が必要とする以上に供給され続ける新曲の数々。アルバム『ゲット・ハッピー!!』に到っては、おせっかいにもA面十曲、B面十曲の計二十曲が入っていた。これでは余程のファンでも一曲一曲をじっくり記憶しておくことなど出来ない。とてもそんな余地などないのだ。先に退路を絶っておいてから、さあ逃げろと唆す。いまや、矛盾は、本来の語意以前の状態に還元され、「盾&矛」となった。隙あらば戦闘開始ということだ。

 だから、来るべき変節は必然だった。間断ない緊張は、長引くほどに日常となる。寿命より長い緊張など存在しない。誰もが生と死の間を薄く引き伸ばされて生きているではないか。
 『トラスト』の退屈さは、そういう意味だ。反ロックスターという看板はだから、本質的に闇夜のカラスだ。木を見て、森も見る。わかりやすい差異などない。全体が部分の集合なら、好きなところから始めればいい。ノー・アクションよりも行動だ。しかし、うまい字は書きたいものだ。そうだ、習字教室に入ろう。

 という訳で、趣味全開、まるで勝手にグラム・パーソンズの衣鉢を継ぎます宣言をしたかの如き、カントリーカバーアルバム『オールモスト・ブルー』が出た。が、見事に不発。誰も得をしない恐怖の蟻地獄がそこにあった。

  「カントリーを聴きたい奴は、コステロなんか聴かない。」

 自然の摂理だ。カントリーを聴きたい奴は、ジョニー・キャッシュを聴くものだ。
 本人としても無謀を恥じたのであろう、再びホームグラウンドの英国風味に足を戻し、次はじっくり作り込んだ傑作『インペリアル・ベッドルーム』が登場する。
 これは逆立ちした頂上決戦だ。メロディの振れ幅の拡充と、音処理の精錬。ジェフ・エメリックの起用。流麗なストリングス。アコーディオン。適切なサウンドエフェクト。それが普通にポップの王道として機能するのではなくて、万事ねじくれた軌跡を描いている。例えば、過去の自身を告発する「マン・アウト・オブ・タイム」は、イントロとアウトロに、咆哮する高速パンクのジャムセッションが被る。ここでのコステロは、己れの恥を知る人だ。音楽はどの方向を向いて演奏されるのか。そこに必要な誠実さはあるだろうか。
 そんな問いかけに「ポップ」という解を導こうとしたのが、『パンチ・ザ・クロック』ということになる。
 アラン・ウィンスタンレーとクライヴ・ランガーによる、キメにピアノを配したR&Bアレンジ。T.K.O.ホーンズに、アフロジディアックの黒いコーラス。
 あまりに表面的過ぎるがゆえ、このアルバムでのコステロの立ち居振る舞いは完璧だ。第一級の娯楽作品。しかも漂うB級のやるせなさ。嗚呼、それゆえに、当時われわれは彼を支持したのではなかったか。似たような出自を持つスティングほど傲慢かつ、うさん臭い人間はいないではないか。
 理想的な反ロックスター。すなわち、ポップスター。ジ・インポスター(にせ者)。明らかに気が効いている。
 しかし、演じる御当人は相当しんどかったようで、遂に、葛藤がそのまま焼き付けられたかのようなアルバム『グッバイ、クルエル・ワールド』がやって来た。
 
 われわれのコステロ史観では、総じてこのアルバムから彼の凋落が始まった、ということになっている。
 無条件にかっこよいセカンド、切れ味といきおいの『ゲット・ハッピー!!』、音楽的ピーク『インペリアル』、痛快な『パンチ』。
 この中にフェィヴァリットがある者が、実に全体の九割。あとは、「SHE」とか押す輩で、人間の屑呼ばわりされるので注意。
 そして私の適当な集計を続けると、『グッバイ、クルエル・ワールド』を支持する者は『キング・オブ・アメリカ』が嫌い。『キング』賛成派の多くは『クルエル』を物足りなく思っているということになっている。
 基本認識が180度違えとも、両者の意見に共通する見解は、以下の通りである。
 すなわち、

  「このアルバムは、明らかに壊れている。」

 私は当時『キング』を支持した側の者である。中途半端なものは嫌いだ。徹底するなら、とことんやっていただきたい。若かったので、そう思った。(高三ですから。)
 2004年に出た『クルエル』の二枚組みエディションでは、おせっかいとしか思えないくらい大量のデモが付け加えられているので、以下述べる見解はより実地で確認し易くなっているのだが、あらためて聴くと、本編でも以下の要素が随所に出てくるのが解る。

 実は『クルエル・ワールド』と、次回作『キング・オブ・アメリカ』はひとつながりだ。

 アトラクションズを従えた『クルエル』の楽曲は、『キング』の演奏へと進化する過程である。 それぞれ、アレンジの目指すところは、呆れる程違って聴こえるが。
 曲を書く作者のテンションの中では、両者の収録曲は完全に繋がっていて、そこにあるのは、結果としてポップでこそあれど、意図して演出された形式としてのポップではない。この差は決定的だ。コステロが実際意識したのは、例えば偉人リチャード・トンプソンの名曲群に並ぶことではなかったか。
 渋すぎる『キング』のバンド編成(ジム・ケルトナーにジェームス・バートン!)に惑わされてはいけない。歌っている男は、差異なく歌いつなごうとしている。
 その精神が、実は『クルエル』を失速させる要因だ。
 まったく、同僚に対する敬意などないのかね。

 その回答は、『キング』の次回作『ブラッド&チョコレート』で出た。アトラクションズとの最後の共演(と、私は勝手に思っている)の、このアルバムはいわば置き土産だ。少年マンガの、伝説の最終回のようなものだ。
 ここでの起死回生策が鮮やか過ぎて、以降のコステロの活動は「まだやってるの、こち亀?」の如く色褪せてしまった。
 したがって『ブラチョコ』は重要作であるが、最初に手にすべきものではない。

   もう、ここにはいない友のために祝杯をあげよう。

   あのコメディアンどものためではなくて。

 それにしても、だ。
 コステロとアトラクションズの関係を念頭に置いてあえて問い掛けたい。
 
 コメディアンとは一体誰のことだ。

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コメント

あっそうだっ!,思い出し
ましたぁ…
伊藤銀次さんの曲を。。
氏は当然、聴いているはず
だぁ。
やっぱりあの人はプロだ。

投稿: 鉛筆 | 2009年11月21日 (土) 08時03分

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