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2009年11月

2009年11月30日 (月)

いがらしみきお『Sink』(’02)/伊藤潤二『よん&むー』(’09)

 「ぐぢゅる、ぐぢゅる、ぐぢゅる」
 
 薄日の差す古本屋の軒先で、店主のおやじが鼻をかんでいる。

 「おや、マスター、どうしました?風邪でも引きましたか?」
 引き戸を開けて、入ってきたのは古本好きの好青年スズキくんだ。

 「うん、そのようだ。」ちん、と鼻をかみ終え、
 「先日、薄着がいちばん!などと見栄張って、ほっつき歩いたのがいけなかった。」

 「それ、毎年言ってませんか?」

 「しかし、結局、人類は寒さには勝てないのだなぁー。今日はもう、店仕舞いでもして、家に帰って『遊星からの物体X』(注・南極基地が舞台)でも観るかなぁー。」

 「かえって調子が悪くなりそうですが。
 それよか、今回はアレなんですね、初の試みでマンガ二本立てなんですね。」

 「うむ。最近、取りあげるべきネタが多いからな。それに、この頃マンガネタが載ってないです、不満ですって抗議してきたのは、スズキくん、きみじゃないか。」
 「抗議だなんて滅相もございません。」笑顔で否定すると、
 「じゃ、行きますか。」
 
 「まずは、いがらしみきお『Sink』、ですが。この物件、面白いんですか?」
 「あぁ、まだ読んでないのね。」
 「はァ、特に追いかけていなかった作家さんなんですけど。『ぼのぼの』とかの人ですよね。」
 「われわれ世代には、4コマギャグの『ネ暗トピア』とかでお馴染みだね。『Sink』はWebコミックで連載されてたもので、未刊のホラー長編『グール』に続き、恐怖ジャンルに挑んだ意欲作です。」
 (パラパラ見ながら)「ギャグとは絵のタッチ、違いますね。」
 「そりゃ当然そうだろ。
 かつて大友の『童夢』が散々持て囃されていたころ、いがらし先生がどんな気持で4コマを描いていたと思うんだ?!」
 「ちくしょう、とか?(笑)」
 「オレにも出来るぞ、この野郎、とか(笑)。同族嫌悪に近い感情が。でも、絵が、絵がなぁーーーーーーッ!!!(笑)」
 「そのへんの葛藤が、長い時間をかけて実を結んだのが、この作品という訳ですか。」
 「作家としての資質というか、キャラクターに感情移入をさせないところは、いがらしも大友も、どっちもそっくりなんだよ。」
 「非常に80年代っぽい属性ですね。」
 「ぼのぼの、なんて、どこが可愛いのか、俺にはわからん。あれは、デザイン的に可愛くしようとしてないよ。なんで、わからねぇんだ世間は?」
 「それ、竹書房的には、非常に否定したい見解でしょうね。」

 「『Sink』は構成要素として、その後のJホラー、黒沢清の、特に傑作『CURE』あたりが大分入ってる。これもさ、キューブリックの『シャイニング』と『童夢』の関係に似てるよね。いがらしは確か、八十年代のインタビューで、同じ東北人だけに、大友のことがめっちゃ憎い!!とか本当に発言してんだよ(笑)。確かに読んだ記憶がある。だから、積年の恨みの対象として、今回、意図的に仮想敵として『童夢』を設定したんじゃないかと思われる節がありますな。」
 「『AKIRA』じゃなくて?」
 「うん、『AKIRA』じゃなくて。あれは、同業者同士でも、精神的には悔しがらないだろ。技術レベルとか、映画化などの二次収入はともかく(笑)。しかし、あの当時、『童夢』の与えた衝撃がこんなに長く尾を引くとは、さすがに私も予想していなかったわ。」
 「三つ子の魂、ってぐらい、気の長いお話ですよね。」
 「そこで、ストーリーの内容の方に目を向けるとさ、これ、実は諸星的というか、半村良の伝奇SFみたいなアイディアが核にあるんだよ。説明しすぎないように、あまり前面に出さないけどね。その辺も、これまた、いがらし先生の趣味趣向に対して、忠実なんだと思うんだよね。
 傑作短編「ガンジョリ」って読んだ?」
 「いえ、まだ・・・。」
 「なんだ、頼りねぇな(ギョロリ)。まさに、東北版『悪魔のいけにえ』を目指しました、ってコンセプトで、あの不穏当な感じをうまいこと移し変えて使ってる。
 『Sink』も、そういう意味ではレベルが高い。
 ホラーファンとして、実に正統派を行く作劇なんだよ。目指すところに、ブレがない。
 だが、ね。」
 
 「え?」
 「不満を言おう。二点ある。

 1)ラストが、なんか本当に『童夢』というか、(大友がキャラクターをデザインした)アニメ版『幻魔大戦』みたいなんじゃーーーーーーッ!!」
 「(笑)」

 「次に、ホラーとしてのモラル(!)の問題に関わるんだが。重大なポイント。
  
 2)切断面の扱いかた。

  これでも、ネタばれには一応の配慮はしてる方なのでな(笑)、あまり具体的には書けないんだが、
  
 私は、あんな風になっちまったとき、あんな状態なのに、血がッ、血が一切出ないのが、演出効果だというのは重々承知の上で、でも、でも、
 やっぱり、やっぱり、不満でしたのじゃーーーーーーッ、いがらし先生ーーーーーーー!!!」

 (転倒。)

 「アッ!!マスター!!しっかり!!まだ、二本立ての予定、あと一本丸ごと残ってますよ!!」

 「・・・ぐぢゅる、ぐぢゅる、ぐぢゅる・・・。」虫の息。
 自らの鼻水で窒息してしまったようだ。

 「うーーーん、困ったなァ。えぇい、これは反則だが、仕方ない。

  つづく!!」(以下次号)

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2009年11月28日 (土)

「びっこのポーの最後」(’76、日)

 ブログとか、こんな嘘臭い場所はないと思う。

 あなたは現在、適当な端末の前に座って、私の綴るたわごとを読まされる羽目に陥っている訳だが(その不幸な境遇についてはご同情申し上げる)、
 あいにく私は、辞める気などないし、手加減するつもりもない。
 だから、読むな。
 自分の理解を越えるものを、一方方向から遮断する諸君に告ぐ。
 いますぐ、読まずに適当なエロページを探しに行きたまえ。
 これは誠心誠意からの忠告だ。
 
 そして、諸君の夢などかないませんように。
 諸君が、爆発しそうな不満をかかえ、手も足も出ずに、醜く、年老いて死んでいきますように。
 (神は、結構親切だ。私の願いは、かなうらしい。)

 「びっこのポーの最後」は、そんな奴らにとどめを刺す歌だ。
 友部正人は、ボブ・ディラン経由でアメリカに憧れ、実際に現地へ赴いて、この歌をつくった。
 行き着いた旅の結論は、情け容赦のないものだった。
 途方もない正確さで吐き出される言葉は、「メキシコ生まれの若親分」の急所を次々と抉っていく。
 これは、音楽による公開処刑だ。
 虚栄は全部剥奪され、ごみ箱に放り込まれる。
 まさか、そんな行為が本当に可能だとは思わなかったが、この歌は、現実に重罪人を血祭りにあげるより、遥かにずっと素晴らしい効果をわれわれにもたらしてくれる。
 それは、重圧からの解放だ。
 気づかないうちに、われわれはまたもや囚われていたのだ。
 つまらぬものに。
 その事実を知ってしまった後には、だから、不思議な昂揚がある。
 醒めた意識の冴えと、爆発する感情の高まりがある。

 攻撃がおそろしく精巧なことは、注意深く聴いて頂ければ解るだろう。
 そして、感情というものが、「嬉しい」「寂しい」「悲しい」といった単純なものではなく、説明も制御もしにくい複雑なうねりであることが首肯されるだろう。
 論より証拠、この曲を試しに歌ってみたまえ。
 文字数や、リズムなど小難しい問題は、あとまわし。
 好きにしてよい。
 だが、この曲の場合、押さえるべき最も重要な部分は、一番最後のリフレインだ。

 ♪ バァーーィ、バイ、バイ、バィー
    バァーーィ、バイ、バイ、バィー
     バァーーィ、バイ、バイ、バィー
      バァーーィ、バイ、バイ、バィー ・・・
 
 どうだ、これなら子供でもこなせるだろう。
 なに、いまさらながら、どんな曲か知らないって?
 ネット万能の世の中だ。検索してみたまえ。簡単に捜せるよ。
 私は意図的に、このブログでは、調べればわかる書誌的データ類は欠如させるようにしている。
 興味があれば、自分で探せばよろしい。

 あぁ、そうだ。
 私は、諸君の無反応な石の壁のような心に、ほんの僅かの引っかき傷でもつけられれば、と思って深夜こんな記事を書いているのだ。なめるな。
 
 考えてみれば、ずいぶん親切なことだ。

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2009年11月25日 (水)

『巨大アメーバの惑星』 ('60、米)

 諸君、これは警告だ。火星に近づくな!

 私がこの映画の存在を知ったのは、小学六年のときである。
 かの、一部に強力な影響を与えたことで有名な伝説の雑誌、月刊『スターログ』日本語版の、最初の別冊『異星生物240』(’78)に掲載された一枚のカラースチール写真である。
 いまなら、これが映画本編からの転載ではなく、宣伝用に彩色されたロビーカードであったと確認できるのだが、

 「宇宙服を着た人々が、(火星の)青紫の空の下、くすんだショッキングピンクの巨大食肉植物と肉弾戦を演じている」

 という図柄であった。子供は単純にわくわくした。
 重要なのはイマジネーションである。
 このころ、ちまたは『スターウォーズ』やら『未知との遭遇』が起こしたSFブームに沸いており、国産の特撮の持つダサさに乗り切れなかった子供は、さっさと洋物に乗り換えてしまった。
 このとき何をもって、(既に所有していた)『スターウォーズ フォトストーリーブック』や『スターウォーズ 特撮の秘密』のメジャー方向へではなく、『巨大アメーバの惑星』方面へ進む進路決定をしたのか。われながら納得のいく説明ができそうにない。
 ただ、この『異星生物240』に紹介されている、膨大な未公開SF映画のリストと、見たことも聞いたこともない映画の不思議なスチール群を眺めながら、果たしてこれらの途方もない数の、すごい(に、違いない!)映画を実際に観尽くすことができるだろうかと、気が遠くなるような思いがした。

 という訳で、この一般的観点からすれば何の価値も無い、トラッシュフィルムは、途方もなく重要な一本だ。
 人間の未知の想像力に訴えて来るものは、すべて重要だ。諸君もそれを大切にした方がいい。現在のCG万能の世の中では、決して生まれ得ない表現の宝庫だ。

 例えば、数人の奇特なアメリカ人の皆さんが着ぐるみの中に入って、巨大食肉植物の動きを演じている。女優は、もちろん自ら触手に捲かれて悲鳴をあげる!
 退治の方法は、世にも手軽な超音波小銃。アニメの発射光を合成で書き込む必要がない!発射音もカットできる!
 この銃で狙われた物体は、どういう作動原理か、凍りつき、触れるとボロボロに崩れてしまう。じゃ、原子分解銃なの?すげぇ。
 序盤では威力抜群のこの銃も、次の敵以降、どんどん役立たずになりさがっていくが、その理由はまったくもって不明だ。謎は深い。

 火星の風景は、単なる書割である。チェズリー・ボンステルほど天体画に気合が入っていない、パルプ雑誌系の普通の画家さんが描いた、ただの絵。どうしようもない安っぽさをごまかすため、それから「火星の空気感を演出する」というもっともらしい演出上のこじつけのため、宇宙船外に出たカメラには、常に茶色いフィルターが掛けられ、オプチカルで反転処理までほどこされている。
 見辛い。
 本当にこれは大失敗で、単に見辛い画面が出来上がってしまっただけなのだが、どうだね、諸君?
 その心意気、なんか、いいではないか。
 その嘘に、喜んで金を払おうではないか。
 
 表題の、巨大アメーバは、解説の冊子によれば、ゼリーに絵の具をつけて熱して動かしたものだそうだ。止まっている場面では、別のミニチュアが用意され、うそ臭いことに巨大な一つ目がついていて、小型モーターでぐるぐる回転している!(パトカーか?)
 しかも、表題に偽りなし、こいつが本当にでかい。
 宇宙船との縮尺で計ると、山ひとつぐらいある。おいおい。どんだけ単細胞生物なんだ。
 こんな胡散臭い相手に襲撃され、人類初の火星探検隊は、あわや全滅しかかるのであるが(実際、気のいい通信技師のおっさんなんか、全身ゼリーに飲み込まれ、溶かされてしまう!)、そこへ、人知を超えた火星人のパワーが働き・・・。

 繰り返す。

 人間の未知の想像力に訴えて来るものは、すべて重要だ。
  

 私は、それを「神秘」と呼びたいのだ。

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2009年11月24日 (火)

ウンベルより皆様へ、お詫びとお願い

毎度ご観覧いただきまして有難うございます。ウンベルです。

 11/21 アップしました記事、映画『モスキート・マン』レビューに関しまして、慎んで情報補足を申し上げます。

 この映画は、(現在のところ)存在しません!
 ウンベルの脳内でのみ、限定上映されたものです。
 捜さないように!

 カテゴリー「ありえざる星」は、「架空の本・映画・音楽・マンガのレビュー集」を意図しています。
 取りあげる素材は、実在のものと一切関係ございません。
 「あれ?」と思われましても、それは単なる偶然の一致であることを、予めお断り申し上げておきます。
 
 ともかく、今回の件、事前告知なしでいきなり始めたのは、私の失敗でした。
 本気にしてしまった皆さん、本当にごめんなさい。

 今後は、取りあげる作品が架空の場合は、記事に明記することをお約束致します。

 すなわち、その表記がないものは、すべて実在する。例え入手困難でも。
 という理解でお願いします。
 以上です。

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2009年11月22日 (日)

『イヴの総て』 (’50、米)

 ベティ・デイヴィスは、なんだか安達祐美に似ている。

 となるとキム・カーンズの『ベティ・デイヴィス・アイズ』は、『安達祐美の瞳』になりそうなものだが(「ならないだろ!」という愛ある皆さんからの突っ込みは無視することに)、それはともかく『なにがジェーンに起こったか?』は恐るべき傑作であった。
 ジョーン・クロフォードと姉妹という恐ろしい役柄であって、ロバート・アルドリッチの例によって力技としか言いようがない演出により、動きの少ない筈の密室での監禁劇が、サスペンスフルなアクション映画として成立していた。
 特にラストの海岸での狂いっぷりは見事で、悪い夢でも見ているようなだらだらした拷問シーンが延々と続く。そこまでスピーディな展開を連鎖させて、映画を停滞させなかったアルドリッチが、自信たっぷりに伝家の宝刀を抜き放った瞬間だ。
 鮮烈な、あとに残るビジュアルとアクション。
 それは『ヴェラクルス』の決闘場面であったり、『北国の帝王』のレールに廃油を撒くリー・マーヴィンの姿であったり、『ロンゲストヤード』のあの勝利であったりする。
 ベティ・デイヴィスの顔は、老婆だか子供だかわからなくて、なんかこわい。
 それが全開に生かされたのが、『ジェーン』のあの名場面だったのだと思う。

 『イヴの総て』は、それから遡ること十二年前、ベティ・ディヴィス四十二歳の時の作品だ。(『Cannival God』の記事に続き、またしても四十二歳。私は四十二歳フェチか。)
 顔は、この時点で、既に充分こわい状態に突入していることがわかる。
 輪郭が丸くて、猫みたいな目。そこに、老化によるまぶたの弛みをプラスし、薄くブラッシングして仕上げる。身長低め。特徴あるだみ声。押し出しの効くタイプ。
 デビューが七歳(舞台でいきなり全裸の妖精役!)で業界長いというのも、冒頭申し上げた通り、なんか祐美ちゃんとの共通項を感じさせますでしょ。

 (祐美ちゃんの素晴らしい人間性については、テレ東で昔やってた芸能人接待番組で確認できる。タイのロケで、大人のリゾート満喫!ハーブ風呂でセクシーショット!無理ありすぎ!進行役の若手芸人をやたらと酷使!しかも、旅になぜか無名の弟まで同伴!芸人には、そっちまでヨイショ連発を強要!絶対無理!しまいにゃディナー後、カクテルを傾ける!悪夢のような反則映像の連発だ!)

 さて、『イヴ』は演劇界の内幕を描いた、退屈しない程度には面白い作品。つまりは普通の映画。
 ベティちゃんの役柄は舞台のベテラン大女優。極端に性格が悪く、口も悪い。当然ながらわがまま。
 七つ年下の劇作家を愛人にしていて、公私問わず約束には何時間も遅刻するし、女優だからもちろん観客を常に見下しているし、勝手に酔っ払って勝手に帰るし、場所を構わず煙草吸いまくり。近くにいたら傍迷惑な、本当に嫌な人間である。
 さすが、“ハリウッドの知性派”ジョゼフ・M・マンキーウィッツ、使いどころを心得てるな。
 最初の本格的な登場シーンなんか、楽屋で、顔中ドーラン塗りまくりなので、おっかないうえに、本当に誰だかわからない。
 あきらかに扱いが漫★画太郎のババァ級で、素敵だ。
 育ててきた新人女優に裏切られ、肩を震わせて泣く場面なんかグッときますよ。イディス・ヘッドの衣裳も脇が開いてるのが妙にエロくてね。殊勲賞もんです。

 この作品は、『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンの貫禄より、ベティちゃんの可愛さをとりたい、という一部の特殊な趣味の方にお勧め。
 (映画としては『サンセット』の方が殺人があるぶん、格上評価となりますから。)
 おしまいに、ベティちゃんの思わず生唾を飲む名台詞をどうぞ。

 「女優だって、年を取るのよ!」

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2009年11月21日 (土)

《架空映画レビュー》 『モスキート・マン』 (’09、日)

 内藤は、孤独な現代青年。どのくらい孤独かというと、趣味は殺した蛇の生き血を啜ることだというくらいだ。
 彼の棲む粗末なあばら家は、無数の蛇が産卵に向かう、通称「へび沼」への通り道にあたっているので、散らかり放題の部屋のいたるところを蛇がにょろにょろ這っている。

 この設定だけで観客の大半は腰が引けてしまうだろうが、映画の制作者はお構いなしに続ける。

 内藤は毎日ガス屋に勤めており、仕事はボンベの配達。山間の辺鄙な田舎町では、都市ガスなど普及しておらず、各家庭はいまだにプロパンガスを使っている。
 彼の仕事は、トラックに幾本ものボンベを載せ町中を廻り、石段や狭い山道など、百キロを越す重量物を手でかついで運び上げることだ。
 繰り返す過酷な労働によって、内藤の背中は深く湾曲し、ボンベの形状に沿って大きく窪んでしまっている。(明らかに色々とマズい描写であり、一部ボカシが入る。)
 店主は好色なおやじで、辛い配達から帰った内藤をねぎらうでもなく、先刻電話で入った注文を怒鳴りながら伝えると、のれんの奥に消える。やがて聞こえる、嬌声とあえぎ声。おやじは仕事もしないで、昼間から年下の内縁の妻とセックスばかりしているのだ。
 顔をしかめる内藤。
 同僚の猿(役者ではなく、本物の猿が演じている)は、歯を剥き出し唸る。
 キィーーーーーーッ。
 「そりゃそうだけどな」平然と答える内藤。

 この場面が、内藤の狂った精神状態を表現しているのか、それとも実際に猿がなんらかの意味ある言葉を話している設定なのかは不明である。
 (せめて字幕をつけて欲しかった。)

 そんな内藤が、ある日突然、恋をする。相手は町外れの巨大な屋敷に、(実はタニシの化身の)婆やとふたりきりで暮らす、大金持ちの令嬢だ。
 この令嬢は、少し足りないが愛すべき人物として描かれており、手にした小刀で挨拶代わりに切りつけてくる。だが、彼女は盲人でもあるので、気のいい郵便配達も、森番も、(実はタニシの化身の)婆やも、現在のところ無事生きながらえている。
 
 「彼女が、ほんとうに目を見開いたとき」ストーリーの預言者役として登場する寺の住職が、広い台所の片隅でお手伝いの手を握りながら囁く。
 「それが、われわれ全員の最後なのかもしれん。」
 「おしょうさま・・・。」
 「喝ァーーーーーッッ!!ほれ、すりこぎ!!」
 「アァ!」

 令嬢は不治の病に冒されており、余命幾ばくもないという設定である。
 主治医はモノクルに黒い山羊髯を蓄えた、あからさまに胡散臭いフェルナンド・レイ風の色男で、実は、強欲で腹黒い町長の腹心の部下だ。
 映画の中盤、突拍子もないタイミングで、猫がつづけざまに頓死するカットが連続するが(劇場版パンフレットに載っていたスタッフの談話「撮影用に準備した猫を全部殺してしまったもんで、ボクが何軒もペットショップを廻る羽目になりました(笑)。」)、それと前後するように、山羊髯の医者が狂ったように高笑いするカットが繰り返し挿入されているので、あるいは彼が毒を盛った張本人なのではないかと誰もが思うが、こうした映画にありがちなパターンとして、台詞によってその事実が追認されることはない。そう思って観れば、あるいはそう見えなくもないという程度だ。
 しかしその推測に従えば、令嬢を毒殺しようと毎日の食事に砒素を混ぜている人物こそ確実に医者なのでは、ということになるのだが、本作の脚本家は、余程奥ゆかしい性格の持ち主なのだろう、その点についてもこれまた巧妙に言及を避けている。
 第一、本来の黒幕たる町長は、悪党の常として、令嬢が資産として所有する広い山林ばかりか、彼女の肉体もあわせて頂戴せんと企んでいるのだから、医者の行動は明らかに主人の命令に背いていることになる訳であって、作劇の技術としてこうした複雑な性格の人物には慎重なキャラクター造形が欠かせないのだが、本作の脚本家は明らかに才能が不足しているので、医者を浅薄で表面的な暴力に固執する、狂った男としてしか描いていない。(だが、これはこれで成功だ。)
 彼の被虐性を表しているのだろう、場面上の必然とは一切関係なく、登場時には必ず黒い鞭を携帯していて、何気ない日常会話の端々に床を叩いて周囲を威圧する。背景に写っている女優に偶然鞭が当たって、彼女が顔を歪めるのが、編集でカットされずに残っている。

 さて、内藤が重いボンベを背負ってお屋敷を訪れると、おおきな鉄柵の門のところで、駆けて来た子供が突然パタリと倒れて、死ぬ。
 驚く内藤の顔のアップにかぶさって聴こえる、ショパンのポロネーズ。屋敷の令嬢が弾いているのだ。
 (キャスティングディレクター談「目の見えない人に、本当にピアノを覚えてもらうのが大変でした。」)
 心地よい音色に恍惚の表情を浮かべる内藤。だが、油断が命取りになり、バランスが崩れて滑り落ちたボンベは彼の足の甲を直撃。「あぎゃーーーっ!」70年代の香港映画のように飛び跳ねまくり、べたに苦痛を表現する内藤。気づいて窓から顔を出す令嬢。
 この出会いがきっかけとなり、ふたりは結ばれる。(直裁的な表現を好むこの映画の監督は、出会いのカットの次に、内藤に背後から激しく責められる令嬢の苦悶の表情を繋いでしまっている。)
 
 深夜、密かに令嬢を連れ出し、水辺のデートを楽しむ内藤。
 「この沼は、ね」
 流木に腰を降ろしての愉しい語らいの時間だ。「へび沼と呼ばれているんだ。」
 「へび沼?」
 「全国の蛇がこの時期、産卵に訪れる秘密の場所さ」
 「まぁ」恥じらいを浮かべる令嬢。「素敵ね。あたしも産卵・・・させて」
 秋吉久美子ばりの意味不明の台詞に、思わず両目がクエスチョンマークになる内藤だったが、次の言葉を考えるより先に、画面を産卵に訪れた全国の蛇の大群が埋め尽くす!

  ゴオォォォーーーーーーーッ!!
 
 「あぁぁーーーーッ!」
 「内藤さん!」
 暗転、余韻なくカット切り替わると、坊主(寺の住職)が詠む経文が聞こえ、不安定な角度で差された線香数本越しに、数珠を握り、黒い和服姿ですすり泣く令嬢が映る。
 同席している、でっぷり肥えた町長と山羊髯の医者が、お互い顔を見合わせほくそ笑むシーンはまるで未亡人物のAVのようだ。彼等はどちらも相手が気をきかして内藤を始末してくれたものと思っているが、真相は違った。
 猿だ。末席に座り、不貞腐れた表情で煙草をふかしている(VFXを使った合成)内藤の同僚の、あの猿。彼もまた、令嬢の財産をつけ狙う者だったのだ。

 「でも、わたしね・・・。」
 人々の去った墓前にたたずみ、(実はタニシの化身の)婆やに話しかける令嬢。
 「いつの日か、内藤さんはよみがえって、必ずわたしを迎えに来る。そんな気がして、ならないの」

 その頃、墓地の上空には、蛇の生き血の魔力でガガンボと同化し再びこの世に蘇った、内藤の呪われた姿があった!

 「ギィィヤァァァァーーーーーッ!!」

 全速力で降下し令嬢を攫わんとする内藤。その姿は身の丈数メートルに及ぶグロテスクな昆虫だ。背負った透明な空気袋が自在に伸縮し、一気に地上まで舞い降りてくることが出来る。 (このデザインにはスタン・ウィンストンの影響が感じられる。)
 令嬢をかばって息絶える(タニシの化身の)婆や。異変に気づいて駆け戻った町長、医者も倒され、もはやこれまでと思われた瞬間。
 猿が、ガスボンベを転がしながら現れた!
 「これを使え!彼女を頼む!」
 (喋りの部分は、明らかに別の俳優の吹き替えである。それを証拠に口と台詞の動きが合っていない。)
 高速回転するボンベに巻き込まれ、あえない最期を遂げる猿。(一瞬なのでハッキリしないが、轢かれた死体がまだ動いている様子からして、撮影時、本当に猿を一匹始末してしまったようだ。ボディダブルの可能性もあり。)
 嫌というほど見慣れたガスボンベの姿に怯む内藤。寺の住職はもてる最大の力を振り絞り、ボンベの口に火を点けると、慌てて空中へ退避しようとする内藤へ向けて、投げつけた!

 ぼっかぁぁぁーーーーーーーんんんん!!!

 大爆発で見事、四散する内藤の身体。
 スタッフはここで日頃の恨みを晴らせとばかりに、令嬢役の女優に向かって、用意してきた豚の臓物を手当たり次第に投げつける!
 (ガガンボに赤い血や内臓があるようには思われないのだが。)
 血やら腱やらでどろどろになった令嬢が、いくら泣き叫んでも執拗な攻撃は一向に衰えをみせない。虐げられ続けた日頃の恨みは恐ろしい限りだ。
 うろたえ切った住職が制止しようとする一瞬を振り切り、遂にぶちきれた令嬢が目を見開き。
 そのとたん、画面は暗転。真っ暗になってしまった。
 
 (俳優もスタッフも、全員死亡したようだ。それは、この映画にエンドクレジットが一切ないことで確認できる。)

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2009年11月19日 (木)

『グッバイ、クルエル・ワールド』 (’84、英)

 破滅に瀕した世界を思え。新型核兵器戦略構想。レーガノミクス。フォークランド紛争。
 非現実的ともいえる規模で拡充を続けた米ソ二大陣営の軍事力は、妥当な接点など見出せないまま、永遠の睨み合いを繰り返し、ある種の臨界に達しようとしていた。
 揺籃期のコンピュータ・テクノロジーは、どうやらドイツ表現主義的な未来像を描き出す方向を選択するのではなくて、もっと卑近な、例えばドット絵で形づくられる外宇宙からの侵略者に代弁されるような、チャーミングな能率主義に着地しようとしていた。
 本質を失くし空洞化したポップは、最早権威に対する攻撃の道具とはなりえず、真摯な裏づけをなくした芸術運動は、安直で手っとりばやい拝金主義に傾き、それ自体が循環する既得権益となった。恥知らずの美徳は称揚され、貧困に対する揶揄、社会の異端分子に対する公然たる隠蔽工作が始まった。つまり、安いリベラリズムということだ。一方でミリオンセラーがワールドワイドで固有文化を喰い散らかし、ブロックバスター方式に代表されるような大作主義は、市場を蹂躙し、回復不可能なまでに搾取した。あとには雑草も生えない、そんな場所が、数十年経た現在も世界にままある。ある種の爆弾が破裂したのだ。例えば国家経済の破綻といった種類の。
 富める者と富まざる者と。選択の余地のない峻別。
 二極化の時代。マーケティング理論は王者の名をほしいままにした。(そして、今日のわれわれの世界は、その方法論的などん詰まりに位置している。)
 彼等はまたもや選択に誤りを犯したのだ。あの頃。

 コステロが輝くのは、だから、そんな恥知らずな時代を背景としてだ。

 80年代のロックスター、本来持つべきアクティヴィティを喪った時代の、不幸なスター。
 自己矛盾は承知のうえ。マイケルは道化の猿より、本質的に猿だったが、彼の不幸は自身がそれを自覚していたことだろう。
 それにしても、人はなぜ彼の死を悼むのか。その感情はどの程度本物か。スターはいまやあなたの「お気に入りのペットの犬」でしかないのだろうか。冒涜とはどんな現象か。呪術社会以外のところで、祭儀化された死に意味などあるか。それとも、われわれの暮らしているのは、相も変らぬまじない師の居る村なのか?(どうやら、そのようだが。)

 反ロックスターとしての意味を捉え直すこと。エルヴィス・コステロが自覚的に取り組んだのは、そうした行為だった。パブリシティを最大限に利用する方法。例えば、その名前だ。プレスリーのファーストネームと、アボット&コステロの「コステロ」。名前に意味を持たせようとする慣習を先んじて笑い飛ばし、返す刀でおのれのアイデンティティすら斬り捨てる。自虐の人だ。ロックンロールの自虐者だ。
 初来日の際は、ゲリラ活動として銀座の大通りに繰り出し、アトラクションズと共にトラックの荷台から演奏した。当時海外の新人ミュージシャンといえば、東京国際音楽祭に出演するのが関の山と認知していたから、われわれは心底戦慄した。フォークシンガーならともかく、ロックとは。これが本場のパンクか。(実は違った。)しかし、この男、いったい何をしでかそうというのか?傑作セカンドアルバム『ディス・イヤーズ・モデル』から、『アームド・フォーセス』へと続く流れは、そうした露悪的な衝動に突き動かされたものだ。
 過剰な行為。過剰すぎる言動、語彙。誤解の再生産。シングル「オリヴァーズ・アーミー」にはアバの「ダンシングクィーン」のフレーズがちゃっかり織り込まれていたが(おそらくキーボードの名手スティーヴ・ナィーヴの茶目っ気だろう)、そんなお遊び以上に過剰だったのは、実はコステロ自身のボーカルミックス配分だった。ありえない大声。なにも、あんなにでかい必要はないだろう。街角ではふたりの人間が顔を合わせると、お天気の話をするようにそう囁きあった。挑戦的な歌詞はおまけだ。
 矢継ぎ早のアルバムリリース。明らかに世間が必要とする以上に供給され続ける新曲の数々。アルバム『ゲット・ハッピー!!』に到っては、おせっかいにもA面十曲、B面十曲の計二十曲が入っていた。これでは余程のファンでも一曲一曲をじっくり記憶しておくことなど出来ない。とてもそんな余地などないのだ。先に退路を絶っておいてから、さあ逃げろと唆す。いまや、矛盾は、本来の語意以前の状態に還元され、「盾&矛」となった。隙あらば戦闘開始ということだ。

 だから、来るべき変節は必然だった。間断ない緊張は、長引くほどに日常となる。寿命より長い緊張など存在しない。誰もが生と死の間を薄く引き伸ばされて生きているではないか。
 『トラスト』の退屈さは、そういう意味だ。反ロックスターという看板はだから、本質的に闇夜のカラスだ。木を見て、森も見る。わかりやすい差異などない。全体が部分の集合なら、好きなところから始めればいい。ノー・アクションよりも行動だ。しかし、うまい字は書きたいものだ。そうだ、習字教室に入ろう。

 という訳で、趣味全開、まるで勝手にグラム・パーソンズの衣鉢を継ぎます宣言をしたかの如き、カントリーカバーアルバム『オールモスト・ブルー』が出た。が、見事に不発。誰も得をしない恐怖の蟻地獄がそこにあった。

  「カントリーを聴きたい奴は、コステロなんか聴かない。」

 自然の摂理だ。カントリーを聴きたい奴は、ジョニー・キャッシュを聴くものだ。
 本人としても無謀を恥じたのであろう、再びホームグラウンドの英国風味に足を戻し、次はじっくり作り込んだ傑作『インペリアル・ベッドルーム』が登場する。
 これは逆立ちした頂上決戦だ。メロディの振れ幅の拡充と、音処理の精錬。ジェフ・エメリックの起用。流麗なストリングス。アコーディオン。適切なサウンドエフェクト。それが普通にポップの王道として機能するのではなくて、万事ねじくれた軌跡を描いている。例えば、過去の自身を告発する「マン・アウト・オブ・タイム」は、イントロとアウトロに、咆哮する高速パンクのジャムセッションが被る。ここでのコステロは、己れの恥を知る人だ。音楽はどの方向を向いて演奏されるのか。そこに必要な誠実さはあるだろうか。
 そんな問いかけに「ポップ」という解を導こうとしたのが、『パンチ・ザ・クロック』ということになる。
 アラン・ウィンスタンレーとクライヴ・ランガーによる、キメにピアノを配したR&Bアレンジ。T.K.O.ホーンズに、アフロジディアックの黒いコーラス。
 あまりに表面的過ぎるがゆえ、このアルバムでのコステロの立ち居振る舞いは完璧だ。第一級の娯楽作品。しかも漂うB級のやるせなさ。嗚呼、それゆえに、当時われわれは彼を支持したのではなかったか。似たような出自を持つスティングほど傲慢かつ、うさん臭い人間はいないではないか。
 理想的な反ロックスター。すなわち、ポップスター。ジ・インポスター(にせ者)。明らかに気が効いている。
 しかし、演じる御当人は相当しんどかったようで、遂に、葛藤がそのまま焼き付けられたかのようなアルバム『グッバイ、クルエル・ワールド』がやって来た。
 
 われわれのコステロ史観では、総じてこのアルバムから彼の凋落が始まった、ということになっている。
 無条件にかっこよいセカンド、切れ味といきおいの『ゲット・ハッピー!!』、音楽的ピーク『インペリアル』、痛快な『パンチ』。
 この中にフェィヴァリットがある者が、実に全体の九割。あとは、「SHE」とか押す輩で、人間の屑呼ばわりされるので注意。
 そして私の適当な集計を続けると、『グッバイ、クルエル・ワールド』を支持する者は『キング・オブ・アメリカ』が嫌い。『キング』賛成派の多くは『クルエル』を物足りなく思っているということになっている。
 基本認識が180度違えとも、両者の意見に共通する見解は、以下の通りである。
 すなわち、

  「このアルバムは、明らかに壊れている。」

 私は当時『キング』を支持した側の者である。中途半端なものは嫌いだ。徹底するなら、とことんやっていただきたい。若かったので、そう思った。(高三ですから。)
 2004年に出た『クルエル』の二枚組みエディションでは、おせっかいとしか思えないくらい大量のデモが付け加えられているので、以下述べる見解はより実地で確認し易くなっているのだが、あらためて聴くと、本編でも以下の要素が随所に出てくるのが解る。

 実は『クルエル・ワールド』と、次回作『キング・オブ・アメリカ』はひとつながりだ。

 アトラクションズを従えた『クルエル』の楽曲は、『キング』の演奏へと進化する過程である。 それぞれ、アレンジの目指すところは、呆れる程違って聴こえるが。
 曲を書く作者のテンションの中では、両者の収録曲は完全に繋がっていて、そこにあるのは、結果としてポップでこそあれど、意図して演出された形式としてのポップではない。この差は決定的だ。コステロが実際意識したのは、例えば偉人リチャード・トンプソンの名曲群に並ぶことではなかったか。
 渋すぎる『キング』のバンド編成(ジム・ケルトナーにジェームス・バートン!)に惑わされてはいけない。歌っている男は、差異なく歌いつなごうとしている。
 その精神が、実は『クルエル』を失速させる要因だ。
 まったく、同僚に対する敬意などないのかね。

 その回答は、『キング』の次回作『ブラッド&チョコレート』で出た。アトラクションズとの最後の共演(と、私は勝手に思っている)の、このアルバムはいわば置き土産だ。少年マンガの、伝説の最終回のようなものだ。
 ここでの起死回生策が鮮やか過ぎて、以降のコステロの活動は「まだやってるの、こち亀?」の如く色褪せてしまった。
 したがって『ブラチョコ』は重要作であるが、最初に手にすべきものではない。

   もう、ここにはいない友のために祝杯をあげよう。

   あのコメディアンどものためではなくて。

 それにしても、だ。
 コステロとアトラクションズの関係を念頭に置いてあえて問い掛けたい。
 
 コメディアンとは一体誰のことだ。

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2009年11月16日 (月)

『どうぶつ宝島』 ('71、日)

 「われら、かくシャルルマーニュを悩ませり。」

     ※      ※      ※

 これがどんな意味なのかだって?知らん!
 わしにも、わからんのだ。
 だが、おそらく、その・・・ひとつの、警告だな。これは。

 ジム、りんごを取ってくれ。
 わしは、宝島の地図をひろげるからな。あぁ、うん、これでいい。見えるな?
 
 進路は間違っとらんようだ。
 われわれは、素晴らしい未来に向けて航行中なんだ。
 どこへ?
 サハラ砂漠に吹く熱風に向かって、だ!ガハハハハ、暗号だゾ。わかるか。そうか、そうか。
 ところで、昨晩、おまえのかわいいガールフレンドはいただいたゾ。
 無論、合法的なやりかたで、だ!ウァッ、ハッハッハ!!

  怒るな。怒るな。

  痛いって。テテテ。

  だから、痛いって!!  

痛いってのがわからんのか、小僧!!  (銃声。)
 
  
 ・・・やっと、静かになったな。フゥ。
  
 杉浦先生の項目でも述べたが、「画面にいかなる力点も持ち込まない」のが、マンガらしいマンガを成立させるひとつの方法なんだ。
 ところが、わしはかたちや重さのあるものが好きでな。シャリ。(りんごをかじる。)
 だって、どんなお宝でも、かわいい女の子でも、持ち上げられにゃ意味がないもんな!! 
 
 シャリ。シャリ。

 だから、わしは軽業の修行に精を出しておったのだよ。若いじぶん。
 重さや、質量をきちんと描き込んでおいて、人物の存在感をつくり、アクションのぎりぎりのクライマックスでそれを裏切る。
 バカげたトリックじゃろ。
 でも、観客がそのウソを受け入れるなら、それは成立するんじゃ。
 訓練された軽業が、奇跡のように見えてくる。
 要は、タイミングじゃ。(りんごを壁にたたきつける。)
 そして、アングルが肝心じゃよ!

 しかも、いいことがある。
 これは実にふしぎなんだが、受け入れた観客は、やがてそのウソを自ら望んで、欲するようになる。
 これは予想外だったが、理由はすぐにわかった。

 かれらは、わしによく似た人たちだったのじゃ。
 アッ、八ッ、ハッ!!

 奇跡の到来を待ちわびておったのじゃ。いつも。いつの時代も。

 だから、その願い、かなえてやるべきじゃないのかね?
 わしには、その力があるし、誰もがそれを望んでおる。
 (そんな力、わしにしかないのかも知れん。)
 それに物語のウソが読者をしあわせにするなら、作者としても願ったり、かなったりじゃ。
 わしは、繰り返し、繰り返しその物語を語っていけばいい。

 それが、わしの見つけた宝島という訳じゃ。

 さぁ、行こう。
 わしのウェブセイルは、びんびんじゃゾ!!!
 ハッ、ハッ、ハッ!!!

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2009年11月15日 (日)

すすめ!「先公 MY★LOVE」第二回

「さぁ、それじゃ行きましょうか、この世の果てまで!!」Img_0001_2

「・・・じゃ、オレ、このへんで・・・」

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2009年11月14日 (土)

『ガリバーの宇宙旅行』 ('65、日)

 よい子のみなさん、こんにちわ。

 みなさんは、どんな夢を持っていますか。
 職活は、婚活は、うまくいっていますか。おおきなおせわ?ありがとう。

 テッド少年は、国籍不明のふろう児。
 映画館で映画をただ観しようとして、みつかって放り出されます。
 首ねっこをつかまれ、おしりを蹴飛ばされるという、現代では通用しなくなった古典的な手法で。

 紋切りがたについて、はすみしげひこ(東大学長)が語っているのを聞いたことがあるでしょう。
 凡庸な表現というのは、実はとても重要なものであるのです。
 それはともかく。

 テッド少年といっしょに映画を観ていた、おっさん顔の犬(まゆげがあります)も、映画館のおじさんにつかまって放り出されます。
 テッド少年は、おやもなく、すむ家もなく、しょじ金もなくて、将来にたいする希望をうしなっています。
 「いったい、どうしろっていうんだよ?」
 ごみ箱に捨てられた兵隊にんぎょうに話しかける少年。
 やがて、疲れてみちばたにたおれ、眠りこみます。
 そして、夢がはじまります。

 だれもいない遊園地のロケット館から、ディズニー的な森のおくにたつガリバー博士の屋敷まで。
 未知のうちゅう空間から、隕石ぐん、時間の逆行するふしぎな世界へ。
(だれでも『イエローサブマリン』をそうきすると思いますが、じつはこちらの方が公開はさきです。)
 そして、きょだいロボットの反乱によって、崩壊にひんしたあおい希望のほしへ。

 いちぶの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)をごらんになった方は、おきづきのとおりで、ぜんたいのテイストに共通するものがあります。
 (いくつかの場面をのぞき)非ディズニー的な志向を持つということや、60ねんだいに隆盛したグラフィックデザインをだいたんに取りいれたポップな色調など。
 おまけに、『ガリバー』は(たいして印象にのこるナンバーがないものの)ミュージカルじたてとなっておりまして、さかもと九が歌います。パラダイスキングの科学者軍団も、歌いながら地球人を解ぼうします。
 でも、それでスクリーンが騒々しくにぎやかになる訳ではなくって、この映画はふしぎとヨーロッパ的なさめたくうきがただよっております。
 デザイン画のれんぞくを丁寧にうごかして、つないだような。
 マンガ映画はフルアニメーション(いちびょう二十四コマ)が常識のじだいだったから、逆に可能になったぜいたくな表現です。

 東映動画のせんれんについては、多くのことがいわれておりますが、はやい話、われわれがいっぱんに考えるアニメとは隔絶しているということです。
 手塚が『鉄腕アトム』('63~66)をTV用にいちびょう八コマで制作したときに、わが国のアニメの歴史はおおきく変わったのです。
 “アニメ立国”といった駄ぼらをぶちあげた大ばか者が現れたのも、この流れにそってです。
 めんどうなので、このへんのくわしい事情については、アニメーター大塚康生先生の名著『作画汗まみれ』をお読みください。熱のこもった、とてもおもしろい本です。

 でも、大塚先生は『ガリバー』はお好みではなかったようで、原画で参加しているのに扱いは二、三ページどまり。まだ新人だったミヤザキハヤオが出ばってきて、ラストの演出をまったく変えてしまった驚きについて述べられています。
 ミヤザキが考えたラストとは、ヒロインの女の子ロボットがパカッとあいて、中からぜんらの美少女がでてくる(!)という、オタク世界のあけぼの的展開でありまして、この人は最初からそういう人だったのだなぁー、と納得させられることうけあいです。
 でもその場面の作画は、名手森やすじ先生がたんとうされているので、劇場におこしの全国のよい子のみなさんも、危険ななにかを刺激されなくてすんだのでありました。
 (寸どめは、名人にしかできません。)

 大塚先生が『ガリバー』にのれなかった理由ですが、たぶん、わたしが「ピチカートⅤには賛成いたしかねる」とかんがえていたのと同じではないかと思います。

 さて、そんな悪夢からさめたテッド少年は、ごみ箱の兵隊にんぎょうをひろいあげ、おやじ顔の犬といっしょに、朝日のまちへ出ていきます。
 すれちがったリヤカーのおじさんに、じぶんから話しかけます。
 「おはようございます。」
 おやじも、笑ってにっこりあいさつ。
 ま、がんばっていきまっしょい、ということですね。めでたし、めでたし。

 このおやじがガリバー博士の現実のすがただったら、『タイムバンデッツ』(『バンデットQ』という邦題はどうもなじみません)になっているところですが、そんなこと全然ありませんでした。残念だ。
 ミヤザキも、少女のことをかんがえるエネルギーの何分のいちでいいから、もっとこうした洒落た方向にふりわけてくれればいいのに。
 日本アニメ再生のために、そう思います。

 では、よい子のみなさん、さようなら。 

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2009年11月12日 (木)

『801Live』 (’76、英)

ブライアン・イーノの立ち位置を、イアン・ギランだと考えてみるのはどうか。

 フィル・マンザネラという男は、かなり気前のいい人物らしく、ロキシー仕事が一段落した76年、こんな企画物ライブを残している。
 ビル・マコーミックのベースとサイモン・フィリップスのドラムというだけで充分強力なうえに、他にキーボード、ギター(スライド)がそれぞれ別にいる豪華仕様であるからして、イーノ先生は好きにしていてよろしい。

 (メインのギターはマンザネラ全開、弾きまくりだ。気前いいから。それにしても、つくづく凄い名前だ。マンザネラ。)

 オリジナルジャケットでのイーノのクレジットは、「シンセ、ギター、ボーカル」の表記であるが、実質「ボーカル」担当と考えられる。(だいたい実は楽器、全然弾けないですから、あいつ。)
 で、イーノの歌なんであるが、これがちょいと凄い。
 声質がもともとそうなんであろうが、なんかケミカルな声なんですよ。
 無機的で、コケティッシュな声。技巧や力みが全然ない。所詮うまくなりようがないだけだろうが。
 そんなへなちょこ野郎の声が、このアルバムの奇妙なポップさを創り出してしまったと言っていい。端正だが、常に脱力している。自然体で、しかも虚弱体質だ。
 グラムの残党が、カンタベリーロック系(元マッチングモール)のベースと、ジャズ畑出身でハードロックもこなす凄腕セッションドラマー(調べたら、現在TOTOでドラム仕事中!完全にバカ者だ!)を率いて、イーノと競演する。
 しかも曲はイーノがアンビエント化する先駆けとなった、『アナザーグリーンワールド』収録曲も!
 無茶だ、無茶すぎる。
 そんなごった煮を、うまく集約してみせているのが、イーノの唱法の天賦の才(天然ともいう)なのであろう。

 別に、イーノがシド・バレットで、バックが『神秘』期のピンク・フロイドだという観点もありうるが、残念ながらつまらない。しかも間違っている。
 私としては、あいつがイアン・ギランだと思って聴くのを断然お勧めする。

 なお、このアルバムには誰でも知ってる有名曲のカバーが二曲収録されていて、クライマックスに投入されるのがなんと「ユー・リアリー・ガット・ミー」というのも実に恐怖だが、
 (よく考えていただきたい。一体地球上の誰がイーノに歌って欲しいだろうか、そんな曲を?選曲に周到な悪意が感じられてならない。)
 もう一曲が、なぜかあの「トゥモーロー・ネヴァー・ノウズ」で、これ、意外や普通にかっこいい、良い出来なのである。(当然ミスターナントカよりもね。)
 原曲より軽快で、明るい演奏。しかも立派に変な曲。演奏するメンバー、特にイーノ(ハゲ)の笑顔が身近に感じられて、なんか嫌だ。
 でも、実のところ、80年代バンドのサイケデリアに多大な影響を与えたのが、ビートルズの原曲ではなくって、ここでの801の演奏だったんじゃないか、という超適当な推論は成り立つ気がする。
 傍証として、トーキングヘッズ『リメイン・イン・ライト』のラス曲「オーバーロード」が、この曲の回転数を落としたみたいだった、という事実が私により確認されておりますが、よく考えてみたら、あれもイーノ自身のプロデュースだったな。ぎゃっふん。

 ところで、801というのは、イーノがソロ二作目『テイキング・タイガーマウンテン』録音中に見た夢に出てきたバンド名だそうで、偶然性を重視する(単なる思いつきを珍重する)いい加減な男としては、無視できない符丁だったのであろう。
 でも、それって、よく考えたらバクチ打ちの理論だよな。

 そんな奴でも、ビル・ゲイツから仕事が来る程度には出世できる!
 これぞ、まさにサクセス・ストーリーの幕開けといえよう!

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2009年11月10日 (火)

『ノーストリリア』 (’75、米)

 あなたは、もう、結末を知っている。
 コードウェイナー・スミスが極東問題に詳しい政治学の教授で、米国陸軍情報部の人間であったことも。
 スミスの一連の作品は、舞台設定を遥かな未来に置いているので、一応フィクションとして扱われ、一定の読者を獲得しているわけだが、本当は違う。
 あれは文字通り、ほんとうにあった出来事の記録だ。
 あなたがそれを知らないとは言わせない。

 スミスの独創性を讃えるのはたやすい。
 ねじくれた設定、詩的イメージを喚起する用語遣い。東西の古典を下敷きにした、博識なるストーリー展開。
 それ以上に、スミスは人間性を踏みにじる名人だ。

 「人びとが降った日」を見てみよう。(短編集『第81Q戦争』収録。ハヤカワ文庫)
 ふたつの惑星間で戦争が行われ、敗色濃厚になった片方の陣営が、相手の惑星の大気圏に自分の国の人民を大量に投下する。とてつもない数の生身の人間が、子供が、母親が、若い男が、老人が、てんでに喚き叫びながら、五体ばらばらとなり、血肉の雨を降らせる。
 この小説の持つ真の残虐さは、表面的な流血量にあるのではない。戦争という行為の持つ非人間的な本質を、病巣を繊細なメスで摘出する外科医の指先を詩になぞらえるかの如き冷徹さで描ききっている点にある。
 誰もがかつて中国で、朝鮮半島で、そしてベトナムで戦われた戦争を思い浮かべることだろう。
 だが、勘違いされないうちに述べておかねばならないが、スミスが戦争責任を感じてこの小説を書いたのかといえば、それは違う。
 われわれがくれぐれも覚えておかねばならないのは、スミスは戦争を起こした側の立場の人間だということだ。心理作戦の専門家だった彼は、酷薄な決定を下し、非人間的な命令を伝え、間違いなく多くの人の命を奪った。たまたま敗戦国とならなかったため、裁かれることがなかっただけだ。軍隊に関与するとは、そうした内実を孕んでいる。肩書きだけでティプトリーに憧れたりしないように。

 ではスミスの小説は、隠微に政治的で読むに耐えないのか。ここが面白いところだが、そんなことはないのだ。
 詩的に翻訳された極東政治は、病んだ想像力により結晶化され、おそろしく精巧な飾り細工をつくりあげている。
 私はスミスの小説を、壁の中に閉じ込められた殺人鬼が無限の世界を想像し、解放の祈りを込めて綴る呪文のように思う。その願いが真摯かつ敬虔であるほど、小説は現実を映し出し奇妙な歪みを増していく。
 (例えばほら、あの「黄金の船」に乗せられた白痴だ。)
 非人間性を的確に理解しなければ、人間性を語ることなどできない。
 それはパラドックスではなくて、漠然とした結末しか暗示されていないスミスの未来史への、ひとつの理解の鍵だろう。

 最後にとってつけたように『ノーストリリア』について述べるが、本書は今年の九月に、浅倉久志先生による素晴らしい訳文の復刊が出たばかりだ。
 (ね、最近だろう?)
 スミスのなかでもエンターティメント性に富んでいて、とても愉しい部類の本である。普通に読んでも充分面白い。ぜひ紐解かれんことを。
 さらに探求を深めんと思われるなら、「スキャナーに生きがいはない」「黄金の船が、おぉ!おぉ!おぉ!」「シェイヨルという星」などをお勧めする。

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2009年11月 8日 (日)

『フレッシュ・ゴードン』 ('74、米)

フレッシュ!! アァー! (失礼。)

 嘘の様だが、私はこの映画を捜していた。必死にではなくて、適当にだらだらと。この世にはそういう捜され方に甘んじる作品が確かに存在する。

 あれは穀潰しの大学生時代、レンタルビデオ文化華やかなりし頃、衝撃を受けた映画は星の数ほど無駄にたくさんあって、中でも『悪魔のいけにえ』と並んで私のつぼを刺激したのが、このいい加減極まるパロディーポルノなのだった。

 学生自主映画の『いけにえ』と形態こそ違うが、ペントハウス制作の『フレッシュ・ゴードン』もまた、無謀なくらい低予算に徹した、しかも宇宙超大作だ。
 この世界(どの世界なのか?)には後発で『アタック・オブ・ザ・キラートマト』(’78、米)という有名人が居て、同じ低予算でもあちらが見事に語るべき要素を持たない、単純すぎる馬鹿映画であるのに比べ、『フレッシュ・ゴードン』は殺伐とした撮影になにか奇妙なサムシングを感じさせる、不快な作品に仕上がっている。

 邪悪な惑星から人類を色情狂に変えるセックス光線が発射され、地球は存亡の危機にさらされる。
 人里離れた山奥で、金色の巨大ペニス型ロケットを開発していたバカ博士と、アイスホッケー(単にバカっぽい競技だということか)のアメリカ代表選手と、登場以降常にレイプの標的にされまくる、頭のねじの緩んだ若い娘(職業不明)は、いんちき臭い宇宙空間を越え、悪のウォン皇帝を倒しに立ち上がる! 

 この皇帝というのが、メイクも喋りも、かのMGM『オズの魔法使い』(’39、米)のライオンおやじそのものでありまして、無意味に笑かしてくれます。
 それから、心に子供を飼う難儀な中年男子諸君には、ジム・ダンフォースやデビッド・アレンが中心となったモンスターの特撮、一つ目ペニス蛇やら甲虫男に魔神グレート・ゴッドポルノのシーンがお楽しみ頂けるでありましょう。
 たとえどんなくだない映画でも、若く才能溢れるスタッフが無私の(ギャラなし伝説がある)膨大なエネルギーを注ぎ込んだ証しは、美しく輝くものだ。
 特にビートルマンとの剣戟は見事。過去の資料に「カマキリロボット」とあるのは完全に間違いで、これはモデルアニメ界の神様ハリーハウゼンが企画段階でボツったモデルの完全再現であります。素晴らしい。この滑らかな動きを得るのに、どれだけ掛けてるんだ。泣ける。
 映画全体としては、(世代的例えで恐縮だが)、かの「俺たちひょうきん族」の映画パロディコントに非常に似通った構造で、唐突すぎる展開と、弛緩したドラマライン、適当な冗談をまぶした、食えないピザ生地のようなものだ。

 と、以上を語れば、一般的にはこの映画の話は終わりなのだが、何か釈然としないものが残る。

 私が一番衝撃を受けたのは、まさにその“食えない”要素であって、
 例えばモデルアニメ場面の見事さに比べ、全然適当な本編の特撮シーン(博士の家のミニチュアとか本当に酷い)の対比とか、
 無理やりな消化試合を繰り返し続けるストーリー展開(だが、実は意外と原作を忠実に再現)だとか、
 総じて、木造で高層建築を建てんが如き、異常に悪すぎる映画全体のバランス配分なのであった。
 それは各キャラクターの性格、言動にも明確に現れており、端的にいえば、
  
 「登場人物はセックスばかりしているのに、ぜんぜんやる気が感じられない」

ということだ。こういう映画は他にもあって、ヨーロッパじゃ文芸大作と呼ばれている。
 観客の安易な感情移入を拒否する作劇の姿勢は、実はすさんだ低予算映画の現場を忠実に反映した結果であろうが、心無い感じが時に妙にかっこよく、斬新な創作態度のように思われてしまうのだ。
 
 だが、諸君、これは罠だ。
 壊れた映画は、ただ、ただ、ひたすらに壊れているのだ。
 そこに注意。

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2009年11月 7日 (土)

テスト画像貼り付け 「先公 MY★LOVE」

Img888 公開試験中!

ウンベルは必死だ!

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2009年11月 4日 (水)

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド 『ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム』 ('83、英)

 ロックの誠実さについて、弁明致したい。
 
 物件は、胡散臭いと発売当時から罵られ、今年出た国内版二枚組みのライナーでも括りは変わらない、フランキーのアレである。

 私は、このアルバムの「ボーン・トゥ・ラン」がとても好きだ。
 ご存知、スプリングスティーンのアレである。(事情を知っている人以外にはわかりにくい表現でごめんなさい。)
 そこで訊くが、本家スプ(略してごめん。)のバージョンが誠実で、フランキーの方がいかがわしいという、論拠は何か?
 私はそこに薄っぺらい”本物志向”の原理が働いていると極めつけたい。

 もしロックに幾ばくかの誠実さを求めるなら、その根拠は楽曲の有する熱量に比例しているだろう。
 (こんなデタラメな音楽論、聞いたこともない、と我ながら呆れるが。)
 ロック界に言行一致の不文律を持ち込んだのが、かのビートルズだとするなら、本来の熱気はオリジナルの作者のものである筈だ。
 だがしかし、時代は変わるボブディラン、本物を志向する斯界の巨人達の末路はあまりに寂しいものだった。ジャニスが去り、ジミが消え、シドはトリップ、ツェッペリンは闇の世界へ飛び去った。
 本物たちの時代は終わった。
 音楽が時代を変えることはない。その夢は潰えたのだ。

 「明日なき暴走」は、ロマンチックな夢でなく、ただの暴走行為となった。イージーライダーの射殺以降、急速に冷え込んだ経済は、われわれの生活を脅かす。盗んだバイクで走り出しても、それは単なる窃盗行為。のんきなおどけ者だ。(おどけな者よ。)

 そんな八十年代、ロックを誠実に演奏するということはどういう意味があったのか。
  
 批評性だと?旧弊なことを。
 音楽の意味とはそれ自身に求められるものである。自身が有する熱量によって輝くのだ。同時代性などもはや慰めにもならない。
 「悪魔を憐れむ歌」に語られているではないか。
 
 警官たちが犯罪的で、犯罪者たちがいまや聖人。
 頭が尻尾で、俺の名前はルシファー。
 あんたに会えて嬉しいよ。

 以上で弁明を終わる。

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2009年11月 3日 (火)

アラン・ムーア 『フロム・ヘル』 ('04、英)

 まず書誌的間違いから。アラン・ムーアは原作者であり、作画はエディ・キャンベル。原書の出版元は米国のTop Shelf Productions, Inc.で、英国産ではない。さらに云えば2004年は邦訳の底本となったエディションが出た年であって、そのずっと以前に単行本は出ていた。

 (だがこれは洋書コミック店で分厚い原書を覗き見しながら、あまりの文字量の洪水に溜息をついていたダメ男の記憶だ。『Vフォーヴェンデッタ』も『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』も翻訳前から持っていたのだから、「フロム・ヘル」を読んでいなかったのは、明らかな怠慢だ。)

 以上の前説は(既にお気づきの方もおありだろうが)、実はどうでもいい。社交辞令だ。
 これから重要なことを言う。
 アラン・ムーアの著作を一冊も持っていない諸君。
 諸君は大きな考え違いをしていないか。

 ムーアは一部アメコミ読者の占有物ではない。
 『ウォッチメン』は確かにマンガで初のヒューゴー賞受賞作だったが、それはSF界がムーアの本質を正しく理解していたからではない。
 こと『フロム・ヘル』に関しては、題材として史上最も有名な連続殺人事件を扱っているので、歴史ファン、ミステリーファンに強力にアピールできる内容となっている。リサーチも緻密だ。翻訳ミステリ賞くらい獲るかも知れない。だが、しかしそれがムーアの本質ではないのだ。

 ムーアのもっとも重要なポイントは、彼がオリジナルなコミック作家だということだ。
 
 ムーアのようにマンガを描いた奴はいなかったし、ムーアのようにコミック界で振舞った人間は居なかった。
 (彼は、DC、マーベルといった大企業の鼻ッ面を思い切り叩いて絶縁した男だ。)
 物事を本気で突き詰めようと思ったら、相応の覚悟が必要だ。例えそれがマンガのコマ割りという馬鹿馬鹿しさの極みのようなシロモノだろうと。
 ムーアはいつも全知力で作品に取り組む。
 手抜きややっつけといった言葉は、ムーアの辞書には存在しないのだ。
 なのに、だ。
 そんな誠実きわまる男の仕事に対して、「読みにくい」の一言はないんじゃないのかね、親愛なる読者諸君?
 神は死んだのだろうか?北極グマさえも?そして、あんたは人でなしの鬼畜生だろう。この野郎。

   あぁ、失礼。

 無論、私は諸君がどれだけ真剣なのかを知っている。
 その言葉の真の意味で、常に面白い作品を求めていることも。
 
 だから、悪いことは言わない。
 今すぐムーアをお読みなさい。
 どの本でもいい。
 だが、一般向けに考えれば、この『フロム・ヘル』からどうぞ。

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『Slave of the Cannival God』 ('78、伊)

 最後まで観てしまうことの不思議。
 
 私は疑問だ。それに嫌なのだ。
 このブログについて周りの人に説明するときに、「本や映画、CD、マンガとか、パッケージメディア全般に関するレビュー」です、と自ら言ってきた。でも、始めてからたいして日も経たぬのに、今回はネット動画で観た映画について取りあげる。なにが“パッケージ愛”だ。まったく、いい加減だよなぁー。

 視聴したのが英語版だったので、そのタイトルをそのまま表記したが、今回の映画は『ホーリーマウンテンの秘宝/ 密林美女の謝肉祭』というタイトルで、国内でもVHSで出ていた。(調べたらDVDでも出たようで、タイトル『食人伝説』(笑)。) 
 お察しの通り、とてもゆるい映画だ。
 一世を風靡した70年代イタリアのモンド映画、『世界残酷物語』から『食人族』(’80)に到る流れはご存知だろう。
 当時のブームに乗っかって、元ボンドガール(初代)ウルスラ・アンドレスが脱ぎまくる!(ヌードシーンは実は二回だけだが。)
 人肉を食う!(正体はなにかの動物の生肉。)
 そして、ものすごく嘘臭い斧による頭部切断!(切り口のかわいいプロップ使用。)
 必然性のない大蛇との格闘!(当然ウルスラが自ら蛇を身体に巻きつけ、キャーって叫ぶ。)
 尺伸ばしの為としか思えない、動物実写フィルムによる残酷描写が連発!(無念の表情で蛇に呑まれるお猿さん。爬虫類の群れ。池の亀。エッ、亀?)
 
 そんな映画が、果たして面白いのだろうか?

 おそろしいことに、「どうせ途中で飽きるだろう」と適当に観始めた私は、そのままずるずる引きずり込まれ、一時間三十四分、ニューギニアの沼地をさまよう羽目になったのだ。
 そして、我に返った今、この映画の魅力を説明せねばならず、非常に困惑している。

 例えば、そう、以下のようなシーンはどうだろう。 

 凶暴な食人族の襲撃を逃れて、いかだで河を遡る主人公達。
 と、仲間の不注意から大事な探検グッズが水に落ちた。こりゃいかん、と慌てて手を突っ込み、必死に水を掻き回す現地人キャストA。そのアクションが不自然に長い。これは何かあるぞ、と観客が思った瞬間、ハリボテの鰐のクローズアップ!
 「ガォーーー!!」「ギャーーーッ!!」
 水中にそのまま引きずり込まれる男。喰いちぎられた手首の切断面をこれみよがしに振り回す熱演だったが、手間のかかる水中格闘シーンは哀れ省略。
 血に染まる泥河。顔を覆い、すすり泣くヒロイン。(動画キャプションにはGirlと解説があるが、実際は四十二歳の立派なおばはんである。) 

 このテの映画では、だから、まぁ、一応観客の期待通りのことが起こる。
 エロとグロ以外で、何かの表現が突出したりはしない。
 世界映画史に、間違っても残らない一本だ。このころのイタリアは狂ったように、こうしたいい加減な映画を量産しまくっていた。
(例えば『夢魔-レディ・イポリタの恋人-』を観たまえ。まったく面白くないのに、最後まであなたは観てしまい、困った顔になる筈だ。)
 先のシーンに関連づけて言えば、
 「ありえないくらい巨大すぎる鰐が人間を頭から丸呑みにしてしまう」(『アナコンダ』だ)とか、
 「水中にいたのは、鰐かと思ったら、気のいいハゲたおやじ(ダニー・デ・ピート)でした」とか、
 「鰐に喰われると思った瞬間、横から現れた巨大タガメが獲物を攫っていった」だとか、
 観客の予想以上に面白い(あるいは、つまらない)ような事態は起こりえない。
 原住民の中にちょっと可愛い娘がいるぞ、と思えば彼女はちゃんとヌード付きの濡れ場を披露してくれる。ま、その行為中に槍で刺されて即死したりしますが。いいじゃないですか。ちょっとしたサービスですよ。でも、その過不足ない登場と退場には、存外感心させられた。

 こうしたジャンル映画の決して凄過ぎない適当さの魅力、昼間や深夜に東京十二チャンネルが垂れ流していた、洋画劇場枠をだらだら観続ける快楽については、これまで多くのことが言われてきた。
 が、的確にその理由を説明できた者は誰もいない。
 
 そもそも、われわれはなぜ、すべてをわかっていて、なお最後まで観てしまうのだろうか。
 それが娯楽の本質だとでもいうつもりか。
 
 だとしたら相当に不愉快な話だ。

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2009年11月 1日 (日)

伊藤潤二『うずまき』('00、日)

 スズキくんは、古本好きの好青年。
 今日も今日とて、行きつけの怪しいおやじの店へやって来た。

 「ごめんください。・・・あれ、どうしたんですか、軒先に段ボール引っ張り出して?」
 「おかしいな、確かに持ってる筈なんだが・・・あぁ、スズキくん、いらっしゃい。」
 おやじはホコリ除けに掛けていたマスクを外し、汚い歯を見せた。
 「お茶でもどうだい。あたしもちょっと休憩するとしよう。」
 「ボクは缶コーヒーしか飲みませんから。」
 「あ、そ。好きにしなさい。それはそうと、こないだ持ってきてくれた本ね。」
 「伊藤潤二『うずまき』ですね。」

 「いやー、面白かったわ。名前は知ってても、当時押さえ損ねていた本だったんだよね。嬉しい発見だった。」
 「ボクは大好きなので、まずは分かる人にはお勧めの一冊です。」
 「確かに。でも、知らない人にどういう話ですかと訊かれたら、“うずまきに呪われた町の話”としか説明しようがないんだよな(笑)」
 「全然説明できないんですよ。だから、よくこんな変なことを思いつくなー、と非常に感心しまして。潤二先生は、間違いなく才能がありますね。」
 「異常なことを思いつく才能(笑)。しかも、私の発見した潤二の法則。事態はどんどん予想以上に悪くなっていく(笑)」
 「(笑)」
 「吸血妊婦の話とかあるじゃない。あれって、吸血鬼が大量発生、怪奇植物が手術室を埋め尽くし、犠牲者がどんどん出る。最悪の結末を呈示しておいて、”その後怖くて病院には近づけません”でおしまい。フォローなし、変化球投げっぱなし。確信犯的しらばっくれ  (笑)」
 「ボクはもともと日野日出志とか好きでして。伊藤潤二だと、あぁいうところが、貸本マンガチックでたまりません。」
 「潤二先生は、ノッて来ると際限なく変なアイディアが出るんだろうな。“首吊り気球”とかね(笑)。これがまた、見事にそのまんま(笑)」
 「(笑)」

 「つまりね、潤二氏の場合、題名とワンシチュエーション、キービジュアルが先に閃くんじゃないかと思う。あとは、それを読むに足るストーリーに拵える作業なんだろうが、とにかく生真面目かつ細かい性格の方でしょ。描線も初期の頃だと、特に神経質だ。だがしかし、極限まで行くとぶちキレる(笑)」
 「確かにどの話も、最後の方、常にキレてますね。『うずまき』の場合、キャラでいえば、斎藤秀一くんの存在ですかね。常に目の下の不吉な影がある高校生です(笑)。台風がヒロインを狙って来る話なんて、もう完全な狂人と化してますもんね」
 「台風に向かって絶叫したりしてね。うん、あんな感じだね。でも彼は事実上のストーリーテラーというか、諸星大二郎先生の妖怪ハンターでいえば、稗田礼次郎役なんだよね。いろいろな秘密を知ってる(笑)」
 「ボクは、とにかくヒトマイマイの話が大好きでして(ニタリ)」
 「あのナマナマしい感じは凄い。人間変身テーマのちょっとした傑作ですよ。しかし、真面目に読んでくと、なんなんだあの展開は。“それでどうなったかというと・・・”」
 「“学校で飼うことになったのです”」

 (両名爆笑)

 「道具立ては極めて陰湿でも、潤二先生の狂気は、完全に陽性の狂気だよな。そんなのあるのか?(笑)それが最後、解放的な笑いにつながる。なんか、ほのぼのするんだよね。私は癒されました(笑)。ともかく、『うずまき』では、読者には確実にカタルシスが約束されているね。ハッピーエンドだけがお話の醍醐味ではないことを、現代のお嬢さん方にも知って欲しいもんだ」
 「でも、あれこそが、究極のハッピーエンドなのかも知れませんよ(笑)。・・・ところでマスター、なにかお探しで?」
 「いやなに、『うずまき』読んでたら、高寺彰彦の『悪霊』を思い出したんだ。このふたつは、最後のオチがまったく同じなんだよ。スズキくん、もう読んでる?」
 「いや、その本は、初めて聞きました」
 「じゃ、きみが缶コーヒー飲み終わるまでに、捜しとくわ!」

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