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2009年11月 4日 (水)

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド 『ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム』 ('83、英)

 ロックの誠実さについて、弁明致したい。
 
 物件は、胡散臭いと発売当時から罵られ、今年出た国内版二枚組みのライナーでも括りは変わらない、フランキーのアレである。

 私は、このアルバムの「ボーン・トゥ・ラン」がとても好きだ。
 ご存知、スプリングスティーンのアレである。(事情を知っている人以外にはわかりにくい表現でごめんなさい。)
 そこで訊くが、本家スプ(略してごめん。)のバージョンが誠実で、フランキーの方がいかがわしいという、論拠は何か?
 私はそこに薄っぺらい”本物志向”の原理が働いていると極めつけたい。

 もしロックに幾ばくかの誠実さを求めるなら、その根拠は楽曲の有する熱量に比例しているだろう。
 (こんなデタラメな音楽論、聞いたこともない、と我ながら呆れるが。)
 ロック界に言行一致の不文律を持ち込んだのが、かのビートルズだとするなら、本来の熱気はオリジナルの作者のものである筈だ。
 だがしかし、時代は変わるボブディラン、本物を志向する斯界の巨人達の末路はあまりに寂しいものだった。ジャニスが去り、ジミが消え、シドはトリップ、ツェッペリンは闇の世界へ飛び去った。
 本物たちの時代は終わった。
 音楽が時代を変えることはない。その夢は潰えたのだ。

 「明日なき暴走」は、ロマンチックな夢でなく、ただの暴走行為となった。イージーライダーの射殺以降、急速に冷え込んだ経済は、われわれの生活を脅かす。盗んだバイクで走り出しても、それは単なる窃盗行為。のんきなおどけ者だ。(おどけな者よ。)

 そんな八十年代、ロックを誠実に演奏するということはどういう意味があったのか。
  
 批評性だと?旧弊なことを。
 音楽の意味とはそれ自身に求められるものである。自身が有する熱量によって輝くのだ。同時代性などもはや慰めにもならない。
 「悪魔を憐れむ歌」に語られているではないか。
 
 警官たちが犯罪的で、犯罪者たちがいまや聖人。
 頭が尻尾で、俺の名前はルシファー。
 あんたに会えて嬉しいよ。

 以上で弁明を終わる。

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