フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド 『ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム』 ('83、英)
ロックの誠実さについて、弁明致したい。
物件は、胡散臭いと発売当時から罵られ、今年出た国内版二枚組みのライナーでも括りは変わらない、フランキーのアレである。
私は、このアルバムの「ボーン・トゥ・ラン」がとても好きだ。
ご存知、スプリングスティーンのアレである。(事情を知っている人以外にはわかりにくい表現でごめんなさい。)
そこで訊くが、本家スプ(略してごめん。)のバージョンが誠実で、フランキーの方がいかがわしいという、論拠は何か?
私はそこに薄っぺらい”本物志向”の原理が働いていると極めつけたい。
もしロックに幾ばくかの誠実さを求めるなら、その根拠は楽曲の有する熱量に比例しているだろう。
(こんなデタラメな音楽論、聞いたこともない、と我ながら呆れるが。)
ロック界に言行一致の不文律を持ち込んだのが、かのビートルズだとするなら、本来の熱気はオリジナルの作者のものである筈だ。
だがしかし、時代は変わるボブディラン、本物を志向する斯界の巨人達の末路はあまりに寂しいものだった。ジャニスが去り、ジミが消え、シドはトリップ、ツェッペリンは闇の世界へ飛び去った。
本物たちの時代は終わった。
音楽が時代を変えることはない。その夢は潰えたのだ。
「明日なき暴走」は、ロマンチックな夢でなく、ただの暴走行為となった。イージーライダーの射殺以降、急速に冷え込んだ経済は、われわれの生活を脅かす。盗んだバイクで走り出しても、それは単なる窃盗行為。のんきなおどけ者だ。(おどけな者よ。)
そんな八十年代、ロックを誠実に演奏するということはどういう意味があったのか。
批評性だと?旧弊なことを。
音楽の意味とはそれ自身に求められるものである。自身が有する熱量によって輝くのだ。同時代性などもはや慰めにもならない。
「悪魔を憐れむ歌」に語られているではないか。
警官たちが犯罪的で、犯罪者たちがいまや聖人。
頭が尻尾で、俺の名前はルシファー。
あんたに会えて嬉しいよ。
以上で弁明を終わる。
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