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2009年10月14日 (水)

「青い十字架」(G.K.チェスタトン、『ブラウン神父の童心』所収)

それは本当に推理小説だったのか?

 あなたもきっとチェスタトンが好きだ。ひねりの効いた展開と欠かさぬユーモア、いちいち小気味よく炸裂する逆説=実は正論、そしてなにより具象が抽象に、隠喩が具体的な情景描写に化けてしまうという魔法。「信仰と富貴が“虐殺”に化けてしまう(『黒死館殺人事件』)」あの感じ。

でも、それは本当に推理小説なのだろうか。

 例えば、「青い十字架」である。「ブラウン神父」シリーズの劈頭を飾るこの掌編は、逆立ちした追跡劇だ。英国の片田舎から出てきた朴訥な神父が持つ財宝を、狡猾な怪盗が罠に掛け奪おうとする。それを察知し追跡するフランス警察の名探偵。小躍りする見事なエンターティメントの筋書きだ。こういう枠組みを「古典的」というのだ。絶対に面白くなる筈だ。

 その期待は裏切られない。魯鈍そうな神父は、実は怪盗よりも名探偵よりも深い知恵の持ち主であり、狙う側も追いかける側も(そして読者も)、あっけなく一杯喰わされ、大きな枠組みの絵の中でそれぞれ意図せざる役割を果たしていたことが明らかになる。完璧なる立場の逆転劇。一見無意味そうな塩と砂糖瓶のすり替えや、無造作に壁にひっかけられたスープにすら解決を導く意味が用意されている。なるほど、謎の決着のつけかたは、疑いようもなく推理小説的である。

 にも、関わらず。

 終幕まぎわで、神父は捕縛される怪盗に向け、「あんたがあれを《驢馬の口笛》で引き止めなかった」のは幸いだった、と述懐する。「なんで引き止めるだって?」聞き返す怪盗に、神父は「あれを吹かれた日には、たとえ《あしぐろ》がついていても太刀打できなかった」ろう、と涼しい笑顔を見せる。(中村保男訳、東京創元社)

 もちろん、神父の発言に関して合理的な説明など一切なくて(!)、異変に気づいた時点で、積み上げられた極上のエンターティメントの構造は崩壊し、「なんだかわからないもの」に化けてしまう。

 それはR.A.ラファティの小説や、吾妻ひでおのマンガに極めて近い性質のものだ。

 ギャグと言い切るには収まりが悪い。たいそう可笑しいが、異常だ。現実はぐにゃりねじ曲げられ、座るべき椅子が見つからない、突如オットセイに変化してしまった。

 そうして、いちど異端の貌を目撃してしまった不運な読者は、そういえばなんだ、あれは、冒頭で妙に神秘的に描かれているロンドン郊外の情景は、とか、そもそもなぜクライマックス直前の神学問答はあんなに長い必要があるのか、だとか微妙な細部がやたらと気になり始め、居ても立ってもおれず、無念さを噛みしめながらもう一度最初から読み直しを迫られることになるのである。

哀れ。これであなたもチェスタトンの虜だ。

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かたよった本棚」カテゴリの記事

コメント

例えば、鈴木清順の映画を
観て「意味わかんな〜い」
と言ってしまうひと。
には、楽しみかたを如何に
説明しようとも,骨折り損
だということ。
に繋がりますねぇ。。

投稿: 鉛筆 | 2009年11月23日 (月) 04時17分

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