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2009年10月

2009年10月25日 (日)

杉浦茂 『南海キッド』('54、日)

 ときどき、私は思うのだ。

 実は、この世にはただ一人のマンガ家しかいないだわな~~~、などと途方もない空想を。お茶でも飲みながら縁側で。ちゃぶ台の向こうを見つめて。

 その男の名は、杉浦茂。世界最強の戦士。

 『南海キッド』を紐解こう。杉浦先生の場合、テキストなど、本当どれでもいいんだが、たまたま私がすぐ手に取れる位置にあったのが、今年の六月に復刻が出たこれだった。とても美しい造本で丁寧なつくりだ。さ、さ、どのページでもいいから、適当に開けて。お嬢さん。67ページ?派手な場面をありがとう。
 両足をロープで縛られ、やしの木二本に逆さづりにされた野球帽の少年が、自分を捕まえた南洋の首狩り族相手にのんきに挨拶している。彼はまさに蛮人の手により処刑されんとしているのだ。
 次のカット、酋長の巨大なまさかりが一閃しロープは切り離された!でも瞬間、幸運にも少年の履いていた両方の靴が脱げ、彼はパチンコの仕掛けよろしく宙を「ポーン」と飛んでいく。驚く一同。

 さあ、これでわかっただろ?この世界には重力がない。しなったやしの木の造り出す巨大な反撥力が、少年の体を損ねることはない。(普通に考えれば、このように縛られた時点で首の骨が折れてますから。)加速度による衝撃など言うまでもなし。
 でも、実はそれ以前に、この世界では残虐死もないんだ。ま、『少年児雷也』のスペクタクルシーンで人間が見事まっぷたつになってますがね。「イテッ!」「ヤメテー!」ってたぐいの。恐るべし、おやじのボディは見事まっぷたつ。切り口から胃やら腸も踊り出しております。神田森莉か。でも、それ以前にここまでやってる。見事に。
 最初見たとき私は目を疑った。なんだ、この唐突なスプラッター描写は??しかも展開と全然関係ないじゃないか。過剰かつ無意味すぎる。そしてスマート過ぎだ。クーーーッ、カックイイ。(これで完全にファンになりました。二十歳の頃の話です。)

 でも、表面的な残虐性だけを捉えて「本当は怖ろしい杉浦」なんて括ってみても仕方あるまい?本当に怖ろしいのは、そんな杉浦茂の在りよう自体なのであります。 

 一見杉浦マンガにないものは、他にもたくさんあるようにも見える。リアルなセックス、心理に肉迫する書き込みとか、社会性。手塚治虫からの影響(杉浦先生の方が先輩だから当然ですが)。劇画がもたらしたもの。飯綱落とし。暴力。石川賢。つげ。石井隆。複雑なストーリー構成、人格の異なるさまざまなキャラクター、多角的な視点の獲得。うんぬん。うんぬん。
 という認識は実は完全な間違いで、杉浦先生はこれらの、どろどろした人間性の暗渠部分をマンガの流れにこそ乗せなかったが、一枚絵というかたちで風景に封じ込めていらっしゃる。誰もがよく異和感をもって指摘する、「突然飛び出すリアルな背景」というのがそれだ。往年の映画スターのスチール模写なんかと一緒に、ちゃんと描かれてらっしゃるのだ。実は。

 もともと帝展に出品するような画家だった先生は、それらを立派に描破する能力があった。だが、マンガ家の立場として、物語ることはしなかった。やれば出来るかもしれないが、「マンガ家風情がそんなに偉ぶっちゃいけない。」
 (このコメントだけで、もう、なんか胸が熱くなります。)
 奇想天外、自由闊達なイメージで知られる先生は、だから誰より実は形式主義者だ。
 マンガの主流がさらなるディープな深みを求めて邁進していった、60年代から70年代。ひと時代前以上の遺物と見做されていた画風(そりゃ大間違いの認識だ!)を抱え、先生は長く懊悩を噛み締める日々を過ごされたのだと思う。
 そうした日々の成果、サイケデリック!としか形容できない名作「ミフネ('70年)」を収録した、晶文社の単行本『モヒカン族の最後』の重要性は、残念ながらあまり指摘されないのだが、これぞマンガ表現の可能性を杉浦先生が真摯に突き極めようとしていた、偉大なる実験成果だ。それも円熟と自信を持って、ではなくって、おぼつかぬ腕にペンを握って。
 まぁ、先生の高潔さからして絶対に不得意だろう下ネタ系のギャグまで試みてらっしゃるのには、正直胸の痛む気がするが。でも、かつての自作をリライトされた表題「モヒカン族の最後」における書き込み。この異常なかっこよさは、なんなんだ?私はこの本を開くたびに、おなかいっぱいになる。溜息が出る。すげぇ。
 そして今私は、すべての先生のマンガに共通する重要な要素に気づいた。

 杉浦先生の最大のひみつ。
 画面に、力点を持ち込まないこと。特定の方向に作用する力がない。あえてそれは設けない。
 物語も、キャラクターも、背景の木いっぽんまでも、すべては空間に任意に(自らの醸す力場によって)配置されている。だから先生のペンは自在に走れる。
 当然その結果として、先生のマンガは第三者には代替不可能なものになる。(当たり前だ、簡単に交換可能な作家などこの世にあってたまるものか!)無粋に働く重力など、ここでは必要ない。鉄砲の弾があたっても、「イテッ!」で済む世界。なんという自由。闊達さ。

 だいたい現実世界の法則を、マンガの次元に当て嵌めて価値を計ろうなんてのは、浅墓な思い上がり以外の何者でもない。ね。お嬢さん。杉浦先生、最強でしょ?

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2009年10月18日 (日)

XTC『ノンサッチ』 (’92、英)

 誠実につくられた音楽は、それだけで万人に価値を要求できるものだ。悪いことはいわない、諸君、今すぐこの前提を無条件に受け入れて頂きたい。事態は切迫しており、迷っている余地などないのだ。雷鳴が轟く。いのちが脅かされている!

 特に深夜、XTCのアルバムを聴いていて、アンディ・パートリッジの声が山下達郎に聞こえたときには。

 かつて、私の知っている人達はみんなXTCに好意的だった。あれはいつ頃の話だろうか。ショップでは洋楽ポップスのレコード棚へ真っ先に直行するような人種の間で、その名前は確かにひとつの暗黙の符号だった。『ドラムス&ワイヤース』...『ブラックシー』...『イングリッシュ・セツルメント』...『ママー』...『ビッグ・エキスプレス』。めくるめく傑作群。

 長いキャリアでシングルヒットひとつ恵まれず、ドラマー脱退・神経症の発病などの事情からライブ活動休止にまで追い込まれ、結果アルバム制作はどんどんストイックかつ職人的色あいを強めていって、デュークス・オブ・ストラトスフィア名義のミニアルバム二枚を挟んだ後、かの『スカイラーキング』が満を持して到来。この時点で、XTC自体の変節はもはや確定的になっていたが、われわれはなお期待し聴き続けた。 英国ポップの文脈に、新たな血文字が刻印されるのを見届けようと。誰もが血が見たかったのだ。

 だから、次の『オレンジズ&レモンズ』はそれなりに辛いアルバムだ。(ジャケットなどかなり痛い。)だが、「メイヤー・オブ・シンプルトン」があるじゃないか。(この曲が是であり、「ザ・ラヴィング」がクズなのはどうしてか。いまだにうまい謂い廻しが見つかりそうにない。)私はかなりの努力家だ。このアルバムを好きになろうと努力した。買ったばかりのCDラジカセで、何度も何度も聴き、歌詞カードも繰り返し熟読してみた。だが、毎回末尾の「チョークヒルズ・アンド・チルドレン」の頃には言い知れぬ疲労感と退屈を覚えているのだった。

 そうして、無為に日々を送っていたところへ、『ノンサッチ』が出た。ジャケットに輝く英国建築、そして血。

 しかし、アンディは全編に渡り、完全に唱法を変えていた。ポール・マッカートニーやブライアン・ウィルソンのようなメロディを本人に成り変って歌う。これは、達郎だ。山下達郎のような、誠実な姿勢だ。かつて万事に苛立っていた気狂いカミナリ小僧の面影など、微塵もない。とても立派で堂々としている。悪魔は去ったのだ。またもや負けてしまったのだ。夜明けの光が差し込んで、見目麗しい美女の献身が、悪を滅ぼす。いい話じゃないか。何億回繰り返しても。そうだろう?

 だから、認めてくれ。今すぐ署名を。誠実につくられた音楽は、それだけで万人に価値を要求できるものなのだ!

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2009年10月14日 (水)

「青い十字架」(G.K.チェスタトン、『ブラウン神父の童心』所収)

それは本当に推理小説だったのか?

 あなたもきっとチェスタトンが好きだ。ひねりの効いた展開と欠かさぬユーモア、いちいち小気味よく炸裂する逆説=実は正論、そしてなにより具象が抽象に、隠喩が具体的な情景描写に化けてしまうという魔法。「信仰と富貴が“虐殺”に化けてしまう(『黒死館殺人事件』)」あの感じ。

でも、それは本当に推理小説なのだろうか。

 例えば、「青い十字架」である。「ブラウン神父」シリーズの劈頭を飾るこの掌編は、逆立ちした追跡劇だ。英国の片田舎から出てきた朴訥な神父が持つ財宝を、狡猾な怪盗が罠に掛け奪おうとする。それを察知し追跡するフランス警察の名探偵。小躍りする見事なエンターティメントの筋書きだ。こういう枠組みを「古典的」というのだ。絶対に面白くなる筈だ。

 その期待は裏切られない。魯鈍そうな神父は、実は怪盗よりも名探偵よりも深い知恵の持ち主であり、狙う側も追いかける側も(そして読者も)、あっけなく一杯喰わされ、大きな枠組みの絵の中でそれぞれ意図せざる役割を果たしていたことが明らかになる。完璧なる立場の逆転劇。一見無意味そうな塩と砂糖瓶のすり替えや、無造作に壁にひっかけられたスープにすら解決を導く意味が用意されている。なるほど、謎の決着のつけかたは、疑いようもなく推理小説的である。

 にも、関わらず。

 終幕まぎわで、神父は捕縛される怪盗に向け、「あんたがあれを《驢馬の口笛》で引き止めなかった」のは幸いだった、と述懐する。「なんで引き止めるだって?」聞き返す怪盗に、神父は「あれを吹かれた日には、たとえ《あしぐろ》がついていても太刀打できなかった」ろう、と涼しい笑顔を見せる。(中村保男訳、東京創元社)

 もちろん、神父の発言に関して合理的な説明など一切なくて(!)、異変に気づいた時点で、積み上げられた極上のエンターティメントの構造は崩壊し、「なんだかわからないもの」に化けてしまう。

 それはR.A.ラファティの小説や、吾妻ひでおのマンガに極めて近い性質のものだ。

 ギャグと言い切るには収まりが悪い。たいそう可笑しいが、異常だ。現実はぐにゃりねじ曲げられ、座るべき椅子が見つからない、突如オットセイに変化してしまった。

 そうして、いちど異端の貌を目撃してしまった不運な読者は、そういえばなんだ、あれは、冒頭で妙に神秘的に描かれているロンドン郊外の情景は、とか、そもそもなぜクライマックス直前の神学問答はあんなに長い必要があるのか、だとか微妙な細部がやたらと気になり始め、居ても立ってもおれず、無念さを噛みしめながらもう一度最初から読み直しを迫られることになるのである。

哀れ。これであなたもチェスタトンの虜だ。

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2009年10月13日 (火)

『ファンハウス 惨劇の館』 (`81、米)

トビー・フーパー!
浅薄なアメリカ映画に、神秘と怪奇を吹き込む男!
最後の、恐怖の伝道師!
これは彼の黄金の八十年代の幕開きを告げる傑作だ!

(他は「ポルターガイスト」「スペースバンパイア」「スペースインベーダー」、それに「スポティニアス・コンバッション」だ!)

そう、せっかちなサム・ライミなら全開で床を叩き割って顔を出すだろう殺人鬼を、トビーはいとも典雅に画面に放り出す!
リック・ベイカーにしちゃ多少特殊メイクがチャチ(お面に見える)なのは事実だが、それが何だ。

映画の値打ちは「何が映っているか」じゃないんだ(それじゃまるっきり心霊写真だろ?)、
「何を、どう映すか」で勝負だ!
という訳で、トビー圧勝!判定の余地なし!

ポップコーン飛び交うカーニバルでのスラッシャーが、最後はまるで欧州映画のような虚無的テイストを残す。
このあっけなく、無情な幕切れはまるでフェリーニ「サテリコン」ではないか。(いやパゾリーニか?)

映画に神秘と怪奇を求めるきみ!悪いことは言わない、買え!

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『狩人の夜』 (`55、米)

 名優チャールズ・ロートン。呪われた唯一の監督作。

 と書くと伝説めくが、この場合の「呪い」は、当時異常に客が入らなかった、という確固たる事実に基づいている。
 お話は宗教寓話とサイコホラーのでたらめなミックスでありまして、教育映画のような導入部からして尋常でない匂いがぷんぷん。

 若い父親が数名で銀行強盗を働き、仲間を殺して奪った大金を、逮捕直前に幼い娘の人形に隠す。パパはそのまま処刑されてしまうが、刑務所の同房でこの金の存在を知った宗教詐欺(偽牧師)かつ結婚詐欺師の男が、未亡人に取り入ろうと姿を現す。

でね、
 未亡人(われわれ世代には“ポセイドンアドベンチャー”でお馴染みシェリー・ウィンタース)はあっさり殺され、
 そこから、河を下って逃げる幼い娘と兄の少年と、狂ったおやじの地獄のチェイスが始まる!
(河岸の泥にはまって絶叫、とかベタなやつが)

 それにしても、この映画のモノクロ撮影のありえない美しさ、いちいちキマる印象的なカットは神の力か?

・水底に車ごと沈められ、髪をゆらゆら揺らめかす未亡人の姿を捉えた長い水中ショット
(まったくデビッド・リンチ。釣り船のジジイがそれを見つけ絶叫するくだりは“ジョーズ”だ)

・舟を岸辺に泊め、近隣の農家に忍び込む子供たち。母屋と納屋の、ふたつの三角屋根のきれいな幾何学的シルエット、月の照り返しでさざめく水面、移動するふたつの小さな影。これをワンショット、ロングで収めるという、はなれわざ。

・前述のシーンの続き。子供たちがようやく納屋の藁を寝床にまどろんだところへ、偽牧師が馬に乗り近づく。黒い帽子に黒い服。「♪神の腕に頼るのだ~」という不気味な歌をアカペラで朗唱し続けるおかしさ。怖さ。
気づいて上体を起こす少年越しに、こいつの姿が遠景に映り込んで来る場面は実に見事。

 その偽牧師を演じるロバート・ミッチャムの怪しい芝居に、リリアン・ギッシュ!

 多くの孤児達を預かる、一見偽善的にとられかねない老婦人の役柄を、実践的かつ偏狭な性格に設定した上で、かつての国民的大女優(現役のババァ)に演じさせる。
凄いのは、この人の最初のクローズアップで、足なめでゆっくりPANアップしていく、それだけでもう、息を呑むような美しさがある。

 クライマックス、ギッシュが猟銃を抱いて椅子にかけている、唐突な西部劇オマージュの場面も、だから不思議と心に傷を残すのだ。

 もともとの脚本が意図した教条主義的な宗教ドラマが、何か過剰なドラマに横滑りしていった結果、「奇妙」としか言いようのない、バランスの悪い映画が出来上がった。こりゃもう観客にうけない。

 もっと客のためを考えてヒットした、ヒッチコックの「サイコ」は1960年の公開であります。

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