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2009年2月 7日 (土)

2.1 音や金時 佐藤哲也LIVEレポ 第二回「夜の歌」

さて2月1日当日。
思えば、佐藤哲也がステージで演奏するのを観る事自体が、17年ぶりなのである。最後に観たのは、おそらくYOKO君とのユニット。その後、SUPER46のグッドマン最終ライブの時に共演した(ゲストでギターを弾いてくれた)けれど、客席から観る、というのは相当久しぶりである。

佐藤の叩くタブラが、あの頃と比べどのように変わっているのか。
これが、今回最大の興味であった。瀬戸口は、佐藤哲也のソロアルバム「うしうし」のプロデューサーでもあるので、一介の素人でしかなかった頃の佐藤タブラの音を一番聴きこんでいるのは自分である、という自負がある。
「うしうし」時に録音され、結局収録されなかった、タブラとスティールギターのみで演奏された、演奏時間8分以上にならんとするインスト楽曲の音源を未だに所持しているほどなのだ。
ただ、佐藤哲也の消息が解った今だからこそ、その曲はお蔵入りと決めた。自分が墓に持って入ります。

音や金時さんというのは変わった造りをしているお店で、ドアを開いて3回笑えば、すぐそこにステージが。奥に客席とカウンター。入口寄りにステージが配置されているというのは珍しい。
瀬戸口は30分前にはもう入場したが、その時は今回共演の沼沢ゆかりさんと国分明子さん、それに佐藤本人が、最後のリハ真っ最中であった。
ステージの上に台座(って言うのかな、あれは)が置かれ、3人、胡坐状態でかなり速いテンポで演奏中。
もう、その時既に。
タブラの音が、衝撃なのである。あぁ、こんな音が出る楽器なんだ、と。
大変失礼ながら、15年前に佐藤が出していた音というのは、タブラよりはボンゴに近かったのかもしれない。瀬戸口が生でタブラという楽器の真髄を知ったのは、この日、初めてと言ってよいだろう。
リハなので、お三方とも普段着だった。話が飛ぶが、ステージ衣裳を身に纏って本番が始まった時の威圧感もスゴかった。それっぽい衣裳を着てタブラやシタールを手にするだけで、三人を取りまく空気がガラッと変わるのだ。

この日、プログラムは3部構成になっていて、第1部が沼沢さんシタール+佐藤タブラ。第2部、国分さんシタール+佐藤タブラ、そして第3部がツインシタールとタブラで、それぞれ1曲ずつを演奏。
1曲といっても、30分から40分の演奏時間だという。
佐藤のMCでの説明から引用させて頂くことになるが、インド古典の楽曲(ラーガ)は、基本として、作曲された旋律に、アドリブを交えた演奏で、まず静かな導入から開始される。和音装飾という観念が存在せず、主旋律をどういった形で極めていくか、というのが演奏時の醍醐味であるという。静かな立ち上がりから、タブラが絡み、徐々にテンポが速くなり、情熱的なまでに速くなったところで、唐突に終わる、というのが基本スタイルなのだそうだ。
また、楽曲それぞれに、演奏時刻が決められている。この日の3曲はすべて「夜の歌」ということらしい。

佐藤が何故ステージでこんなにいっぱい喋ったかというと、沼沢さんという女性が、とにかく独自のゆったりした時間感覚をお持ちで、ステージ開始後のチューニングを、落ち着き払い、慌しい日本人の生き方を諭すように、ゆっくり、ゆっくりと大事に調律していくのである。この感覚を持っている方が、なるほどインドとの相性が良いのかなぁ、と。
ただ、佐藤は一応ステージを仕切っている立場だから、お客さんに気をつかい、その間色々な事を喋ってくれた、というわけだ。
最終的にはネタ切れとなり
「実は今日、来てくれる事になっていた僕の友人がインフルエンザにかかり・・・」
と、佐々木君のネタまで披露してくれてましたが。

(すまん続きます。演奏が始まるのは次回!・・・って、別にウケ狙ってるわけじゃありませんよ。本当に、文章が長くなるんです、最近)

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2009年2月 2日 (月)

2.1 音や金時 佐藤哲也LIVEレポ 第一回「序章・旅からの帰還」

佐藤哲也は常に変化し続ける男だった。
瀬戸口が20歳の夏に出会った時から、ずっとそうだった。30歳手前まで、バンドを組んだり、楽曲を提供し合ったり、一緒にステージに立ったりしていた間も、気づけば彼は、ほんの1年前とは全く違う事をやっており、凄まじいスピードでその期間を突っ走り、またいずことも知れぬ求道の旅に出た。
1993年、SUPER46のライブで彼が「タブラを叩く」と言い出した時も、それは一過性のものだと僕は思っていた。
常に動き回る。常に積極的。常に新しい切り口を追求する。
そしてその姿勢はひとつところに留まる事なく、その後見出した更なる新境地へととって変わり、周囲の思惑などおかまいなしに時を駆け抜ける。
佐藤の音楽に対する追求心は、彼の持つ温和で、気遣いと優しさに満ちた性格とは全く正反対なまでに激烈であり、浮気症であった。
92年を境に、突如インド音楽へと傾倒していった彼も、そのうち全く異質なジャンルへと道を変えていくのだろうと思っていた。

ところが。
90年代半ば、インドにタブラ修行に行く、と言って彼の地へ旅立った佐藤哲也が、なかなか帰って来ない。
現地の事情もあるのだろうが、連絡さえとれなくなった。冗談ではなく、生きているのかどうかすら解らなくなってしまった。

一度、佐々木利剛君が、「これ、哲ちゃんじゃない?」と言ってきた事があった。ネット上で公開されていたインド音楽についての考察文を探し当てたのだ。文体はまぎれもなく彼のものだ、とは思った。そこには、相変わらずの彼のキャラクターがしっかり覗いていたけれど、肝心の内容が全く理解不能であった。恐ろしく専門的な論文で、インド音楽の素人が読んで太刀打ちできるものではなかった。「同性同名の別人かもしれない」という疑念が瀬戸口の頭をよぎった。

後で知った話だが、彼は本格的にタブラ及びインド声楽を習得するため、現地の大学へ入学していたのである。その時にはすでに、理解ある女性との結婚も果たしていた。
自らを「根無し草」「放浪者」と自認してきた彼が、知らない間にインドにて同時に2つの大きな根を下ろしていたのだった。

さらに月日は経過した。
SUPER46の面々と同様、音楽を通じて佐藤と深い関わりのあったYOKO君が、2007年末、ネット上で「佐藤哲也」の文字を探し当てた。
インド声楽セミナーの講師として、その名前はあった。
YOKO君は悩んだ。その時は誰一人、佐藤が現地の大学に通っている事など知る由もない。YOKO君にとって最後に見た佐藤哲也の面影は、ニコニコしながらタブラを叩く放浪者の姿だった。タブラのセミナーであれば佐藤本人の可能性は高いが、声楽とくればこれは別人ではないか。10年以上経っても、YOKO君にとって、佐藤哲也とはギターを弾き、タブラを叩く放浪ミュージシャンだった。学士でもなければ講師でもない。佐藤はそういう男であった。
一瞬「突然講義を受けに行って確かめてやろう」と考えたYOKO君も、仕事に追われていた事もあり、結局そのセミナーに足を運ぶ事はなかった。
インド声楽講師佐藤哲也が、「ちょっとそこの帽子のキミ、歌ってみてごらん」などと懐かしさで笑いながらYOKO君をシゴく、という、5年間は酒の肴になるようなオイシイ逸話は夢と消えた。

翌2008年秋。
瀬戸口が管理している当ブログに、突如「元SUPER46の佐藤です。覚えてるか~」という、あまりにも気さくなコメントが寄せられた。
驚いた瀬戸口はすぐさま佐々木君、YOKO君に連絡をとり、再会の段取りをした。
10数年ぶりの再会は果たされた。
一同は初めてそこで、無事にインド古典声楽修士課程、タブラ学士課程を修了した佐藤が、前年に後進の指導のため帰国していた事を知らされた。佐々木君が探し当てた論客も、YOKO君が探し当てたセミナーの講師も、まごう事なき佐藤哲也本人であった。
それは同時に、一同それぞれが、出会ってからずっと見続け、見送ってきた「旅する男」・佐藤が、いくつもの頂を超え、遂に終着点を迎えていた事を知った瞬間でもあった。

(瀬戸口註: ゴメン続きます。
何か最近、軽~く文章を書き出したつもりが、いつの間にやらこうなってしまう。何処がライブレポやねん!
音や金時さんは次回登場!)

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