『un democratic love』

2016年4月14日 (木)

沢田研二 「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より


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先週の金曜日は、仕事で外回りの日。
1日暖かい陽気の中、あちらこちらで出逢う桜を楽しむことができました。


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この2枚は会社すぐ近く、新目白通り沿いの神田川。


勤務中の移動の先々の街では、桜だけでなく、スーツ姿のお母さんと真新しい制服を着た子どもが連れ立って歩いている光景に何度も出逢いました。
「あぁ、今日は入学式なんだな~」と、見ているこちらも身が引き締まったのでした。

僕がファンになるずっと前から、ジュリーは「無難な日常」の大切さを歌い続けていたんだなぁ、と思い知らされて・・・僕のような者でも「小難」はしょっちゅうなんだけど、「大難」の無い僕の日常は平和です。
「平和な国に暮らしています」と胸を張って言えます。


さぁ、ジュリー2016年の新譜『un democratic love』全曲考察も、いよいよ締めくくりとなりました。
お題は4曲目収録の「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」。
GRACE姉さんの曲に、2014年の広島・平和祈念式での『子ども宣言』・・・広島の小学6年生2人の子ども代表による『平和への誓い』の言葉を載せ、ジュリーが補作詞するというこれまでにない試みによって、日本の未来、世界の平和へ祈りを捧げるべく作られた、永遠不朽のメッセージ・バラードです。

僕は今、今回の新譜の大トリがこの曲で良かった、としみじみ感じているところです。
ここまで3曲・・・「un democratic love」「福幸よ」「犀か象」、と四苦八苦しながらも真剣に向き合って書いてきて良かったなぁ、とも。
そんなすがすがしさを感じている理由は、この4曲目の記事執筆途中に、まるでご褒美のように嬉しい出来事が2つも重なったからです。

そのうちのひとつ。これはもう、みなさまも僕と同じように喜びを噛みしめていらっしゃることでしょう・・・ジュリーからのリストバンドのプレゼントです。
いつもの澤會さんの封筒の中、余計な文言は無くシンプルに『PRAY FOR JAPAN』のリストバンドが、グッズ・インフォメーションと共に封入されていました。

「輪」=「和」。
緑は「平和」の色。

そこに『PRAY FOR EAST JAPAN』の黄色が含まれて黄緑色になった今回のリストバンド。つまり、これひとつで以前の黄色の意も合わせ持つことになりますから、ジュリーは前のリストバンドを持っていないファンのことも気遣ってくれたのかもしれませんね。

今の思いを形にしてファンに届けてくれたジュリーの心遣いが嬉しく、誇らしく・・・同時に、今年の新譜のコンセプトもこれでハッキリしました。何故ジャケットのリストバンドから文字が消えていたのか・・・それは
「聴いて、みんなそれぞれの文字を考えてみて」
というメッセージだったのではないでしょうか。
ファンが新譜を充分聴き込んだ頃合いを計ったかのような、今回の贈り物でした。
ジュリー自身の文字は、『PRAY FOR JAPAN』。
「祈り」について書こうとしていた今日の考察記事。そのタイミングで『PRAY FOR JAPAN』のリストバンドがジュリーから贈られてきて、改めて勇気が沸いてきました。本当に元気が出ました。

もうひとつの「嬉しい出来事」は・・・小さな小さな、それでも僕にとっては奇跡の偶然。
先週金曜日、満開の桜と街ゆく新入生達の姿に刺激を貰って、その夜からとりかかった、この「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」考察記事の下書き。
広島の子ども代表の『平和への誓い』が題材とあって、幼い頃に1年ほど住んだ経験のある広島の地へと僕が思いを馳せたのは、ごく自然なことでした。

僕の父親が勤めていた大手製薬会社は転勤が多く、僕は名古屋で生まれると、その後は父の転勤に伴って静岡県清水市、静岡県静岡市、広島市、岡山市と転々と移り住みました。
小学3年生の時に父親の実家・鹿児島の祖母が亡くなり祖父1人が残されたため、父は会社に申し出て、出世と引き換えに鹿児島支店生涯勤務となりそれ以後僕は大学進学で上京するまで鹿児島に住むことになりましたが、それまでは本当に引っ越しばかりで。
そんな中で僕が小学校に入学したのは、ちょうど広島に住んでいた時だったのでした。
僅か数ヶ月で岡山に転校となったので、校舎や通学路の景色などの記憶はほとんどありません。覚えているのは、隣に住んでいた「こうちゃん」という同級生の影響で広島カープのファンになったことくらい。

広島で入学したその小学校の名前を、僕はなんとなく「牛根小学校」と記憶していましたが・・・はたと気づきました。「牛根」というのは鹿児島の大隈半島の土地の名称なんですよ。それをゴッチャにして誤って覚えているんじゃないか、と。
ネットで調べたところ、広島に「牛根小学校」という学校は存在しません。
「もしかすると」と、言いようのない突然の予感に奮えつつ、父親に尋ねてみました。すると、「それは牛根じゃなくて牛田小学校だ」との返事が・・・。
何と僕は1972年春に、あの『平和への誓い』の広島の子ども代表・女の子の田村さんが在籍していた、牛田小学校に入学していたのです!

同時に僕が、敬愛するジュリーファンの大先輩でいらっしゃるsaba様の小学校の後輩であったことも判明しました(ブログを拝見していたので)。
今はsaba様も僕も広島とは全然離れた土地に住んでいますし、普通ならこんな偶然はお互い一生知ることは無かったはず。それが、ジュリーの新曲がきっかけで、信じられないほどの素敵なご縁を知るに至ったという・・・凡庸なる身でこんな奇跡みたいな偶然を実感できる日が来ようとは、僕もそれなりに長く生きてる、ってことなのかなぁ。
早速saba様に「突然ですが実は・・・」とお知らせしましたら、本当にビックリしていらっしゃいました。
僕としては、ただただ「光栄」としか言えず嬉しいばかりのご縁で、今日の記事に取り組むにあたってとても明るい、暖かい気持ちになれたこと、本当に良かったと思っているところです。

思えばここまで3曲、何処か不安な心をも抱えながらの記事執筆となっていたかもしれません。それが、最後の1曲で陽が射したような気がしています。
桜の季節にこの曲に向き合うタイミングとなったささやかな運命に感謝しつつ、ジュリー2016年の新譜『un democratic love』から最後の1曲「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」、これから全力で考察してまいります。
よろしくお願い申し上げます。


先日のG7外相会議の『広島宣言』は、本当に意義深いものだったと思います。
アメリカ閣僚の歴史的な献花、他国閣僚も広島を訪れたことで何か感じるものがあったはず。
そして、「核なき世界」へ向けての広島からの発信、その実現をこれからも「世界で唯一にして最後の被曝国」として日本がリードしてゆくと信じたい、そんな世界的機運に期待したい・・・なのに何故今、「日本は核武装すべき」と考える若い政治家が増え、そう考える人達が何故、国のトップである安倍さんの「応援団」なる存在でいられるのか、僕には分かりません。

外交カードとしての核保有?
強い発言力を得るための核武装?

それが世界の常識ならば、日本がそれを変えていかなきゃ、と僕などはそう思う性質なのですよ・・・。

今回ジュリーが詞の題材とした2014年8月6日、子ども宣言『平和への誓い』については、多くのブログ様がYou Tubeの映像をご紹介してくださっているのでみなさまもうご存知かと思いますが、改めてここでもリンクを貼らせて頂きます(
こちら)。
小さな子ども達の言葉が、どんなに偉い(?)大人の政治家の口から発せられる「平和」よりも大きな力で胸に響いてきます。「平和を祈る」って本来こういうことなんだ、と僕らを立ち返らせてくれる・・・そんな力強くピュアな子ども達の言葉です。

ジュリーが歌にしてくれて初めて知った、幼いからこその無垢で純粋な誓い。
それを歌にしてみよう、と思いついたジュリーの感性がまず素晴らしいわけですが・・・驚くべきは、GRACE姉さんの新曲がまるで運命のようにそのジュリーのアイデアを引き寄せていることです。
決してキャッチーとは言えないロック独特の構成に、ここまで無垢、純粋な美しいメロディーを載せることができるGRACE姉さんの不思議な才能。ジュリーやバンドメンバーは唸ったと思いますよ。

今日も前回記事同様に、まずは作曲、メロディーについての考察から始めて、いかにジュリーがそこに言葉を注いでいったのかを考えてみることにしましょう。

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GRACE姉さんの作ったこのメロディーには、『PRAY FOR JAPAN』というジュリーの志が本当によく似合います。

メロディーの最低音は低い「シ」の音で、最高音は高い「ミ」の音。
「キャッチーとは言えない」とは書きましたが、それぞれのヴァースを取り出してみると、この曲は古くからある洋楽ヒット曲などでも使用頻度の高い王道の進行を部分的に擁していることが分かります。


そうした進行に美しいメロディーが載っていると、「どこかで聴いたことがあるような・・・」と感じる場合が多くて、それはこの曲も例外ではありません。
例えばいつもお世話になっている長崎の先輩は「なんとなく”良の悪夢”を思い出す」と仰っていました。
僕は『悪魔のようなあいつ』をまだしっかり鑑賞できていない状況で(2018年6月までには気合入れてDVD全巻制覇する予定)、その先輩に「どんな曲だか分からない~」と言いましたら・・・先輩がお持ちのサントラLPについていたというスコアを見せて頂けました。


Ryounoakumu

何とこれ、大野さんの直筆なんですってね。
サントラ・レコードに収載曲のスコアが普通についてくるなんて、なんと贅沢な時代でしょうか(そう言えば、僕の持っている『太陽にほえろ!』のサントラにもスコアのオマケがありました)。

「良の悪夢」・・・メロディーを追っていくと、なるほど「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の雰囲気、確かに感じられます。

一方、僕が最初にこの曲を聴いた時に思い起こしたのは、ジュリーのファーストアルバム『JULIE』大トリに収録されている「愛の世界のために」。
トニックの1音下のコードを使ったメロディー、或いは「世界」という歌詞フレーズからの連想でしょうか。
あとはAメロ展開部の

語り  合い 話し 合いましょう ♪
F#m7   B      G#m7   C#m

ここは、「愛の世界のために」の「何にもかえがたいやさしさが♪」の箇所と何となく似ています。

また、Aメロ冒頭

平和について これからについて 共に ♪
       E       Emaj7      E7                 A

「ミ・ソ#・シ・ミ」→「ミ・ソ#・シ・レ#」→「ミ・ソ#・シ・レ」と、コードの構成音のひとつが半音ずつ下降していく長調の進行・・・これはみなさまご存知「マイ・ウェイ」、或いは「サムシング」のAメロと同じ理屈です。

さらにアレンジ的なことで言えば、トニック・コード1本でシンプルに、厳かに導入するイントロで、「届かない花々」を連想した人もいらっしゃるかもしれません。

「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の場合は、そんな「何かの曲を思い出す」ような親しみやすいヴァースそれぞれの組み合わせ方・・・全体の構成が変化球なのですね。
僕が最も惹かれているのは、大胆な転調部です。
ホ長調の曲がサビでイ長調に転調し、再びホ長調へと舞い戻ってくる箇所の進行とメロディー。

Welcome to Hiroshima 世界へ ♪
D                               E

被爆地の悲願のPray ♪
D                     E

この時点では(「D」への移動は若干捻った進行ですが)まだホ長調のままです。転調するのは次の

Welcome to Hiroshima Wekcome to
G                              A

世界への真っ直ぐな Appeal ♪
G                            A  B7

ここはイ長調。「拡がり」「飛翔」を感じるスケールの大きな転調です。最後の「A→B7」に載せた「ド#→レ#」のメロディーがまた独特で、ジュリーの迷い無い突き抜けたヴォーカルを引き出しています。
しかも、どうやらこの「ド#→レ#」の部分でこの曲は既にホ長調に舞い戻っているようなのです(「A」がサブ・ドミナント、「B7」がドミナント)。

依知川さんの「犀か象」での転調が一瞬の「居合い」とすれば、GRACE姉さんのこの曲での転調は、拡がっていく「抱擁」の感覚。
サビのホ長調の2行、イ長調の2行それぞれの冒頭に「Welcome to Hiroshima」のフレーズを繰り返し当てたジュリーのセンスが素晴らしいです。
先にリンクさせて頂いた映像で確認できますが、子ども達の「Welcome to Hiroshima」は、いわゆる「日本語的な」発音です。「ウェルカム・トゥ・ヒロシマ」・・・それが良いですし、それで伝わるんですよね。
だからジュリーも無理に英語っぽい発音を避け、子ども達に倣うように発音して歌いたかったのだと思います。結果ジュリーが歌う「Welcome to Hiroshima♪」は、GRACE姉さんの作ったサビの「力を溜める」ようなメロディーにピッタリ嵌っています。

歌メロ最後の

人間を 信  じて ♪
A         C  D     E

「信じて♪」の箇所では「ド・ミ・ソ」→「レ・ファ#・ラ」→「ミ・ソ#・シ」と、和音が2拍間隔で1音ずつせりあがっていきます。曲全体に流れる「拡がってゆく」「抱きしめる」感覚が最も強く感じられる箇所で、歌メロの「結び」にふさわしいですね。

ジュリーは何よりGRACE姉さんの「無垢無心」「純粋」をメロディーに感じたのだと思います。
「2014年の広島の子ども達の言葉を歌にしよう」というアイデア自体はジュリーも新譜制作の前から持っていたとは思いますが、当然「どんな曲でもよい」わけはなく・・・GRACE姉さんの作ったメロディーに、ジュリーが「これがその曲だ!」と思ったのか、それとも最初にGRACE姉さんに『平和への誓い』の話をして、「詞先」に近い作曲作業となったのか、それは僕らファンには分かりません。
ただ、どんなに高度に練り込まれた曲であっても、まず「ピュア」なメロディーでなければあの子ども達の言葉は載せられないと思うんですよ。それを実現させたジュリーとGRACE姉さんは本当に凄いです。

子ども達の『平和への誓い』の言葉の中でジュリーが深く共感したのは、「これからについて」という表現だったんじゃないかなぁ、と僕は思っています。
今「平和」について考えるならば、正に「これから」についても考えなければいけません。あまりに攻撃的な物言いをする人は論外として、たとえ僕とはまったく真逆の考えを持つ人でも、その言葉は「これから」を考えて発せられていると僕は信じ、「たくさんの違う考え」をお互いにしっかりと持ち、話し合っていきたいものです。
実際、友人にそういう人達はたくさんいるんです。彼等の知見から僕が学ぶことも多いですし、彼等も僕の話を聞いてくれます。
恐ろしいのは、「話を聞こうとしない人」。これは、僕自身も気をつけていかなければなりません。

何故今、「安保法制」について世論が真っ二つに割れているのか。僕のような考えの立場から言うと「これ以上はもう歯止めはきかない」ということです。

ザ・タイガースの『ヒューマン・ルネッサンス』収録曲順で言うと今この国は、混迷に揺れる「ただよう小舟」の段階から、安保法制施行によっていつでも「朝に別れのほほえみを」に進んでしまうような態勢となりました。
そこで重大事が起これば、あっという間に「忘れかけた子守唄」に至ります。

安保法制とて、いきなりそのすべての内容が無から生まれたわけではありません。
遡れば、安倍政権は2012年の内閣発足後、2013年には『国家安全保障会議』を発足(武力行使をはじめとする諸例について、首相と閣僚だけで閣議決定することが可能となる。この時点では当然、武力行使とは専守防衛を指していましたが、安倍さんはその先を見ていたようですね)、年末には『特定秘密保護法』も成立。
2014年には『防衛装備移転三原則』(武器開発、輸出を実質上推進するもの)の閣議決定を断行、さらに集団的自衛権行使容認をこれまた閣議決定。これほどの重大案件を閣議決定為し得たのは、前年の『国家安全保障会議』発足あらばこそです。
2015年9月にはご存知の通り安保関連法案が可決成立し、10月には予定通りの『防衛装備庁』(民間企業の武器輸出などを政府が仲介)の発足。
そして2016年、つい先月の3月末に安保関連法が施行となり、法的効力を持つに至りました。

これらはすべて関連があり、繋がってきた法制成立、機関発足の流れです。同様に、今このまま安保法制を野放しにしておけば、さらにこの先そこから繋がった様々な法案が可決してゆくことが予想できます。
まずは「緊急事態法」でしょう。
内閣決議が法律と同等の権限を持つ、というもので、これはもう内容も具体化しています。
じゃあその後は?
反対意見の世論を押さえ込む「言論統制法」が考えられます。実現してしまったら、僕はもうこんな記事は書けなくなりますし、何よりジュリーのコンサートが開催できなくなってしまうかもしれません。
さらに、核兵器の保有を正当化する法制も・・・想像したくもありませんが、その法案名にはとってつけたように「原子力平和利用」なんていう文言が着いてくるのでしょう。これは当然、原発政策とセットになります。

十数年前まで僕は正直、自民党のことをここまで嫌いじゃなかった・・・大下英治さんの「政界三国志」っぽいノンフィクション小説を若い頃夢中になって読んでいましたが、やっぱり自民党を描いた作品が抜群に面白かったんです。
安倍さんのお父さんも魅力的に描かれていて、中曽根裁定による竹下さん、宮沢さんとの総裁指名闘争をめぐるストーリーは特に印象に残っています。
勝利した竹下さんを支えるべく奮闘した若手議員の中には、今は立場が変わった小沢さんもいて、世代が変わり立場も変わり・・・なるほど、かつての自民党内の若い「侍」達は、今はいなくなってしまったのかな。

本音で言えば、僕は部分的には「この点については自民党の方が正論じゃないか」と思う政治課題の議論もあって・・・そうしたことをこの際すべて差し置いてでも今僕が「対自公」の野党を支持するのは、「反戦」「反核」の気持ちだけは絶対に譲れないから。
日本が戦争をしたり、戦争に加担したりする未来は到底受け入れられません。

僕はさっき、この国の「これから」についての最悪のシナリオを想像して書いてしまったけれど、もちろん「平和な国日本」としての「これから」も想像できます。
その実現のためにどうすれば良いか、を考えなければなりません。
かつて、「想像できることは実現できる」と言ったのはジョン・レノンでした。
でも、「想像して、実現へ」の意味では現政権も同じようにしているわけで、僕のような考え方の者はずっと旗色が悪かったのは事実です。想像はしていても、実現をあきらめていたふしがありましたからね・・・。だから僕は、声を上げ始めた若者達に気持ちを立ち返らせてもらって、昨年来頼もしく感じているのでしょう。

「”俺達は戦争はしない”なんて、カッコイイ憲法じゃないか。ジョン・レノンの歌みたいだ」
と言ったのは忌野清志郎さん。
それを安倍さんは「恥ずかしい憲法」とまで言ってしまった・・・僕にはとても支持はできませんよ。

ジュリーの歌は、そんな僕の「感情」とはまた少し違います。むしろ、心を鎮めてくれるような・・・深いところで、心の根っこにピンポイントで届き響いてきます。
それを分からせてくれたのが、ジュリーが題材とした子ども達の『平和への誓い』の言葉でした。ジュリーのピュアな歌声は、「たくさんの違う考えが平和への力になる」という子ども達の言葉そのものです。
僕もどうにか、その境地にまで辿り着きたい・・・。


さて、もちろんこの曲は演奏も素晴らしいですが、ここで熱烈に書いておきたいのはアウトロの柴山さんのリードギター・ソロ。僕はこのソロを最初に聴いた時、どうしようもなく加瀬さんを思い出したんです。
ポイントは2つ。

まず、美しいメロディーをそのままギターの音階で再現していること。ワイルドワンズ・ナンバーでの加瀬さんのソロは、そういうスタイルが多いですしね。

あとは何と言っても音作りです。初めはてっきり12弦ギターだと思いました(みなさまも音源を注意して聴けば、柴山さんがギター・ソロで高い音と低い音を同時に鳴らしていることにお気づきになるでしょう)。
そう言えば僕は、柴山さんのアコギ12弦は知ってるけどエレキの12弦って見たことないぞ、と気がつきまして、しょあ様に「柴山さんのエレキ12弦のモデルって何でしたっけ?」とお尋ねしてみました(僕の『ギター・マガジン』柴山さん掲載号は、現在会社で行方不明になっているのです・・・涙)。
すると「載ってないよ~」とのお返事・・・これはどういうことでしょう。柴山さんが今回の新譜で新たなギターを使用しているのか、それとも完全にオクターバーだけであの音を出しているのか、はたまたユニゾン・パートを高低に分けての2トラックの別録りなのか(でもそれはちょっと考えにくいかな。下山さん不在ではステージ再現ができませんから)。

また、僕はこのソロに柴山さんの2つの魅力を同時に感じています。
ひとつは「凄腕の職人」としてのアレンジ構成力。
下山さんがいなくなって、「ギター・ソロ」にかかる比重はとてつもなく大きくなりました。オクターブ奏法の導入は、バッキング不在のソロ部でバラードの重みを失わないための「音圧」への気配りでしょう。

もうひとつは、バンドマスターとしてのメンバー作曲作品への「音での配慮」です。
近年の柴山さんは特にGRACE姉さんの作曲作品での名演が多く、例えば「PRAY~神の与え賜いし」「三年想いよ」でそれぞれまったく違ったアプローチでソロを弾いています。これはもちろんジュリーの詞に合わせた意もあるでしょうが、何より作曲者の「思い」を受けて弾き方やフレージングを考案しているように思います。
今回は「三年想いよ」と同じ「メロディーをそのまま再現」する手法でした。
ただ、「三年想いよ」がサスティンを効かせたロングトーンだったのに対して「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」がオクターブと、「残響音」の表現が全然違うんです。
前者が「悲しみ」、後者は「希望」と、GRACE姉さんが曲に込めた「思い」を柴山さんがそう受け取ったものと考えてみましたが、いかがでしょうか。

個人的にはこの曲の柴山さんのソロは、夏からのツアーで最大の見どころだと思っています。
見たこともない12弦ギターを弾く柴山さんが観られるのか、最先端のオクターバーの威力を味わうことになるのか・・・いずれにしても、これまで僕が見たことも聴いたこともないアプローチの柴山さんの演奏。
2016年、ジュリーだけでなく柴山さんのギターも、まだまだ底知れぬ進化の途上にあるようです。

後註:柴山さんのエレキ12弦、ぴょんた様が発見し映像をキャプチャーしてくださいました。

Friendshiponsongs

NHK『SONGS』放映時の「FRIENDSHIP」です。これは盲点でした。
よく考えてみますと『SONGS』演奏収録時、ジュリーwithザ・ワイルドワンズはまだ下山さんを加えての編成なんですよね。
下山さんが急病でツアーに帯同できなくなり、テレビスタジオ収録とツアーとでは編成が変わっているわけです(「プロフィール」なんかも、『SONGS』では柴山さんアコギ弾いてますからね)。
それにしても、加瀬さんがアコギ12弦、柴山さんがエレキ12弦という組み合わせは貴重過ぎます。何より曲が「FRIENDSHIP」というのが、今の僕の気持ち的には涙もの・・・。
ぴょんた様、ありがとうございました!

ということで・・・オクターバーの可能性もありますが、僕は夏からのツアーの「「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」のギター・ソロで、柴山さんは上添付画像のエレキ12弦を弾く、と予想しておきます~。


そして、このギター・ソロが「間奏」ではなく「後奏」に配されたアレンジはジュリーのアイデアだったのではないか、と僕は考えています。
ゆったりしたテンポでAメロを丸々ギターの単音で再現し奏でるということは、それだけアウトロの尺が長いということ。「三年想いよ」もそうでしたが、アウトロが長いバラードと言えば、昨年のツアーで体感した「白い部屋」が思い出されます。あとは、セットリストの常連曲「約束の地」「さよならを待たせて」などもそうです。
これらの曲で、ヴォーカル部を歌い終えたジュリーがステージでどんな様子でいるか・・・ジュリーファンならばすぐに脳内映像が出てきますよね。
伴奏をバックに「祈り」を捧げるジュリーです。

夏からのツアーで「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」を歌い終えたジュリーの、柴山さんのソロと共に深い祈りを捧げる姿が今から目に浮かんできます。

すべての被災地への祈り。
この国の未来への祈り。
世界平和への祈り。

客席の僕らも、ジュリーと一緒に祈るでしょう。
いや、難しく「何を祈るのか」と悩む必要はまったくないと思うのです。例えば僕はもしかしたら、柴山さんのギターを聴きながら天国の加瀬さんを思って祈ることになるかもしれません。
どんな祈りであっても、「祈る」ということはすべて根っこで繋がっているのではないでしょうか。昨年僕は加瀬さんのことを考えるたびに、「こういう思いは平和への祈りに似ている」と何度も感じたものです。
今年のツアーの「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」では、何を構えることなくジュリーの歌とバンドの音に身を委ね、ステージのジュリーと一緒に祈る・・・そんなシーンを体感したいと思っています。


ということで・・・今年2016年も無事にジュリーの新譜全曲の考察記事を書き終えることができました。

力強い縦ノリのビートを押し出した「福幸よ」「犀か象」の2曲を中央に挟んで、「祈り」のバラード2曲・・・「un democratic love」に始まり「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」で締めくくられる今年の新譜は、ジュリーの気持ちが前へ前へと向かっているのが伝わってくる名盤でした。

僕はその全4曲に「誇大でない現実」をしっかり見据えた上で「平和な未来」を望み努力する日常の尊さを学んだように思います。
ジャケットのリストバンドの文字空白の中に、ここへきてようやく『PRAY FOR JAPAN』という文字がが浮かび見えるようになりましたから。
懸命に考えることで見えてくるものってあるんだなぁ、それがジュリーのメッセージと、贈り物の意味なのかなぁと勝手に合点しているところです。
今はただ、夏からのツアーが待ち遠しい!


ツアー初日を心待ちにしながら、拙ブログではこれからしばらくの間、自由お題でまた様々な時代のジュリー・ナンバーについて書いていくことになります。
でもその前に・・・。

僕は、拙ブログの恒例事として新たに、毎年4月20日に必ず加瀬さんのことを書く、と決めました。
ジュリーが歌った加瀬さんの作曲作品はすべて記事にしたけれど、ジュリー以外の人、バンドへの加瀬さんの提供楽曲、それに何と言ってもワイルドワンズのナンバー。たくさんあります。

加瀬さんと言えば、「ブルー・ムーン(仮題)」と名づけられた自筆のスコアが発見され、それがワイルドワンズのナンバー「蒼い月の唄」としてリリースされたニュースはもうみなさまご存知ですよね。
僕も音源だけは聴きましたが、まだ正式な形では購入していません。収録されている『オール・タイム・ベスト』が手持ちの『All Of My Life~』と曲目が重複しまくっているので、購入を迷っているんです。
でもいずれ何らかの形で購入するつもりですので、
「蒼い月の唄」の考察記事はまたその時の機会にということで・・・今年は、加瀬さんが作った「平和」の歌を採り上げたいと思っています。
作曲の経緯はおろか、リリース年すら分からない曲ですが、とにかく僕は加瀬さんの素晴らしさについてまずは全力で書くのみです。

次回更新は4月20日。
ワイルドワンズ・ナンバーのお題でお会いしましょう!

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2016年4月 7日 (木)

沢田研二 「犀か象」

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より


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4月となりました。
音楽劇『悪名』大阪公演も大盛況に終わったようです。素晴らしい舞台が続いているそうですね。

そんな中僕はと言うと・・・先週から体調を崩し、土日に花見に出かけることも叶いませんでした。
まぁ、満開の桜には通勤途中の公園で出逢うことができていますけど。

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僕の体調不良は日常茶飯事、みなさまは「またか~」とお思いでしょうが、今回は相当凹みました。
今はすっかり良くなっているからこんなことも書けるんですけど、人生で初めて体験する症状がいくつか表れましてね・・・。

例えば、某(元)大臣が辞任後かかったと言われている「睡眠障害」。これは辛かった!
肉体的には確実に疲れているし、気持ちは「寝なきゃいかん」と思っている・・・でもいざ眠りに落ちようとした瞬間に、酷い吐き気で意識を戻されるんですよ。
それがちょうど一週間前の木曜日の夜のことでした。
結局その日は一睡もできず・・・
調べたら「入眠障害」という症状分類になるらしいです。
「心と身体のバランスが崩れる」ってこういう状態を言うのかなぁ、と生まれて初めて考えてみたり・・・まずビックリした、というのが正直なところ。今回の僕の場合、睡眠障害っぽいその症状は僅か1日のことでしたから「たまたまの不調」だったのかもしれませんが、もしこれが数日続いていたらと思うとゾッとします。

その他いくつかの変調があり、「年齢なのかなぁ」とか「ストレスかなぁ」とか考えこんでしまって。
と言うのは、それぞれの細かな症状をネットで調べると、原因としてまず「ストレス」と出るわけですよ。
僕はこれまで精神的ストレスを実感したのって、20代に仕事で苦労した時(専門的な教育も受けていないのに高いスキルを求められ、勤務時間外に独学で必死に勉強するしかなかった)くらいしか心当たりがありません。
確かに今は、ジュリーの新譜に向き合って、色々なことを相当突き詰めて考えていますし、踏み込んだことも書いているので一部からの風当たりも強い・・・やっぱりそれなりの負荷は感じています。
でも、基本楽しんでやってるはず・・・なのです。

だから、ストレスとは言ってもそれは加齢によるもので、身体の何処かがくたびれてきて、それが知らず知らず心体に負荷をかけていたのかなぁ、と。
いつもお世話になっている先輩が仰るには
「人は”9”がつく年齢の年に身体の変調が起こりやすい」らしく、僕は正に今49歳の年を過ごしているわけで・・・ちょっと早い気もしますが、メノポーズの可能性も考えられます。こう見えても僕は女性ホルモンが多い体質なんですよ(残念ながらジュリーと違ってそれがルックスにまでは反映されていません笑)。

今日の記事は、個人的には「聴けば聴くほど」のスルメ感覚で急速に好きになっていった曲がお題ということで、「意外と短期間で更新できそうだな」と思いつつ先週から下書きをしていましたが、そんなこんなでそれも数日間の中断。ずいぶんお待たせしまくっての、この日の更新となってしまいました。
改めて、「何事もない日常」がいかに大切かを考えさせられた日々なのでした。


さて本題。
10日からG7外相会議が始まります。「核なき世界」を広島の地から世界へ発信し、今後日本がその舵取りをしてゆく。そんな未来を願うばかりですが・・・。

先日、アメリカ共和党の次期大統領候補であるトランプ氏が、「日本と韓国の核保有容認」に言及しました。これは氏特有の現実主義的な考え方と鮮度の高い表現力を根底にするもので、詳しく話せば本当に長くなるんですけど、当事者であるこの日本でも「世界で唯一の被爆国である日本だからこそ、堂々と核を持つ資格がある」と考える政治家が増えてきている現状。個人的にはまったく受け入れがたい考え方です。
先日の4月1日の閣議によれば
「憲法9条は、一切の核兵器保有、使用をおよそ禁止しているわけではない」
という現政権の解釈が公にされ答弁されました。
つまり「今は保有しない方針だが、保有すること自体は違憲ではない」ということ。
とうとうここまで来たか、と感じます。
加えて、大阪維新の会の松井代表が先立って「我が国の核兵器保有の是非を話し合うべき」と発言。どうやらこの党は「是」の立場であるようです。

よく「原発推進と国の核保有、核武装はまったく別の話」と語られることがあります。でも、「核を持ちたい」と考える政治家はほぼ原発推進です。
使用しないプルトニウム331キロをアメリカに移送中だったこともあり、先日ワシントンで開催された『核安全保障サミット』で安倍さんは、「我々は使用目的のないプルトニウムは持たない」とアピールしましたが、日本はそれでもまだ47トン(47000キロ!)ものプルトニウムを保有しています。これは、核兵器を持たない国の保有量としては歪なまでに大きな数字です。

その莫大な量を「原発で使うため」の目的にすり替えるとは・・・2012年の総選挙での「できる限り原発に依存しない社会の構築」という自民党公約は、もう世の中から忘れられているとでも言うのでしょうか。
「潜在的核保有国」から「実質の核保有国」へと向かうこの国の流れを嫌でも予感させられる中で、ジュリーの新譜『un democratic love』から今日の考察お題は、3曲目「犀か象」。
アルバム『greenboy』収録の「Aurora」以来、久々の依知川さん作曲作品がレコーディングされました。

新譜の記事を書き始めてから、先輩方から様々なご意見やアドバイスを頂き本当に有り難く思っている中で・・・やはり今回も、ジュリーの歌詞について感じたことを正直に書き、社会性の強い題材にも言及してゆく切り口は変えずに取り組みたいと思います。
ジュリーのメッセージはもちろん、純粋に楽曲としての考察ポイントも多い魅力的なビート・ロック・ナンバーです。よろしくつき合いのほどを・・・。


この曲では、ジュリーの歌詞の前に依知川さんの作曲についての考察から書いていきましょう。
「何故ジュリーの詞がこういうスタイルになったか」を、依知川さんが作ったメロディーやコード進行から読み解くことができる、と考えるからです。

”『Barbe argentée』セットリストを振り返る”シリーズで「お気楽が極楽」を採り上げた際、僕はこれまでの依知川さんのジュリーへの提供曲を「(白井良明さんの)アレンジでトリッキーに装飾されているけど、基本はどれも直球パターン」と書きました。
2016年、久々のジュリーへの楽曲提供。さて依知川さんはどんな直球を投げ込んでくるかな、と楽しみにしていましたが・・・何と「犀か象」は今回の収録4曲の中で抜きん出て変化球!
ジュリー・ナンバーに変態進行の名曲は数あれど(褒めてます!)、まさかここへきて、しかも依知川さんの提供で新たな名曲がそこに加わろうとは・・・。

めくるめくコードの流れ、いきなりの転調、変幻自在のサビ配置の威力。硬派な中にどこか可愛らしさが同居するメロディー。「面白い曲だな~」と柴山さん達に褒められ、スタジオで巨体を恐縮させて照れている依知川さんの姿が目に浮かぶようです。

160331050


進行、構成こそ超・変化球ですが、ひとつひとつのコードは正直で明確な和音があてられていて、採譜の作業自体は早かったです。でも、採譜しながら何度も「ええ~っ、そんなトコ行っちゃう?」と驚嘆の連続。非常に入魂度の高い名曲です!


『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマに作曲し、ジュリーがそれに歌詞を載せる・・・依知川さんにとっては初めての大仕事です。「被災地への祈り」を真剣に考え取り組んだことでしょう。
依知川さんはまず、「元気の出るメロディー」を主軸に作曲にとりかかったと思います。
ただ「元気一辺倒」では何か違う・・・被災地の現状を思えば、そこにシリアスな悲しみの音も挿し込まなければいけないと考え、それがこの変則的な構成を生み出したのではないでしょうか。

興味深いのは、「サブ・ドミナントやドミナントのコードをマイナーに転換する」という、2曲目「福幸よ」で柴山さんが徹底して魅せてくれたアイデアと同じ手法を、依知川さんもこの「犀か象」で部分的に採り入れていることです。さらに言うと、その作曲手法は僕の中で「下山さんの得意技」というイメージがあるのです。
これは、今回の新譜にいくつか見られる不思議な符号のひとつです。
また、「福幸よ」との共通点としては他に「マーチング風」アレンジの導入が挙げられます(「福幸よ」はエンディングの大サビ、「犀か象」は間奏ギター・ソロ部)。

「犀か象」のキーはニ長調。
メロディーの高低幅は狭く、最高音も高い「ミ♭」。ジュリーが思いっきり「遊べる」くらいの音域だったことも、作詞に影響しているかもしれません。

ニ長調の曲は初っ端のコードが「D」であることが多いですが、この曲は「G」で始まるサビ部を冒頭に配置しています。畳みかけるビートとジュリーのヴォーカルがいきなり耳に飛び込んでくる感覚は、前曲「福幸よ」直後の収録順だからこそスリリング。
その効果で、2度目の登場となる同進行のサビ部は「おっ、きたきた!」と思わせる(直前のジュリーの「バイヤ♪」が効き過ぎ!)と同時に、「イントロの時点では難解に聴こえてしまうけれども実はポップなメロディー」を復習するような感じで聴くことができます。

また、エンディングに向かって「神をも畏れない再稼働」というフレーズが3回繰り返されますよね。
実はこれ、歌詞とメロディーは3回同じなのに、あてがっているコードはそれぞれ違うんですよ。

地震多発も犀か象 舌の根乾き犀か象
G              A         Bm            E

神をも畏れない犀か象
Em           A           Bm

神をも畏れない犀か象
G             A           Bm

神をも畏れない犀か象 ♪
G             A           D

ね?
(ちなみにジュリーの「舌の根乾き」という表現は、先述した2012年の総選挙の際の自民党公約を念頭に置いていること、まず間違い無し)
イントロは、まるで進行途中から曲が切り込んできたように聴こえ、対してエンディングの「D」はキレイなトニックへの着地。それがジュリーの歌メロに始まりジュリーの歌メロ声に終わる、という・・・歌詞のテーマとも合っていて素晴らしい構成だと思います。

転調は一瞬の早業、という感じ。依知川さんにとっては「居合い」の感覚でしょうか。
1番で言うと

知事は青海鼠で 国は鹿馬(しかうま)
Cm           G       Cm      D

こんな日本な筈ないよ
Em     A    Em  A

侍   いなくなってしまった ♪
F#m  Bm              Em    A

「知事は♪」からト長調に転調していることは歴然。
問題は、何処で(ニ長調に)戻っているのか、ということなんですが、僕は上記2行目まではト長調が続いていると解釈してみたいです(「侍♪」からニ長調)。
だって、2行目の「Em→A」と3行目の「Em→A」では全然受ける音のイメージが違うじゃないですか(2行目は、まるでポール・マッカートニーの「アンクル・アルバート」ばりの美しさ!)。
いずれにしても斬新な転調です。「居合い」の転調に「侍」のフレーズが歌詞として載ったのも奇跡的。名曲の条件はレコーディング前から揃っていますね。

初めて『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマにジュリー・ナンバーを作曲した依知川さんは、「どんな詞が載るのかなぁ」と楽しみにしていたと思います。
で、ジュリーがつけたタイトルが「犀か象」。
依知川さん、最初はさぞビックリしたでしょうね(笑)。
ところが詞の内容や言葉使いは、依知川さんが提示した細部の工夫、冒険的なコード進行、全体に漂うキュートな空気感にバッチリ合っているわけです。
依知川さんは、すごく嬉しかったと思いますよ。

ジュリーの作詞について僕は2曲目「福幸よ」の記事で「ジュリーは柴山さんの曲に力を得たのでは」と書きましたが、この「犀か象」は「依知川さんの曲にジュリーが乗った」のではないかと考えています。
それではここから、その点を念頭にジュリーの歌詞について詳しく書いていきましょう。

「ただ明るい、だけではいけない」との思いが依知川さんにあってのことでしょう、通常メジャー・コードであるべき箇所をマイナーに転換した箇所。まずドミナント・コードをマイナーにしたのが、1番の

犀が腹を切るの 象がゴミを食うの
D           Am       D            Am

2番の

メルトダウン煙  水素爆発廃墟
D              Am    D           Am

また、「サブ・ドミナント・コードをマイナーに転換」(「福幸よ」とまったく同じ理屈)したのは、1番で

知事は青海鼠で 国は鹿馬(しかうま)
Cm           G       Cm       D

2番で

大臣最後金目 政治馬鹿(うましか)
Cm         G      Cm       D

このように、依知川さんが変化球を投げた箇所で、ジュリーは悉く辛辣な歌詞を載せてきています。
全体的に明るい曲調の中で要所要所に「厳しさ」を加味している点は、正に詞曲の合致。

現在、12万箇所で住宅の庭先などに除染廃棄物が放置され、廃棄中間処理施設の敷地確保は、政府計画の僅か3%に留まっているという状況です。
それでも政府は再稼働推進。
「基準を満たしている」とは言っても「安全です」とは言わない規制委員長。有事に誰が責任をとるのか、核のごみをどう処理するのか。
「犀が腹を切る」「象がゴミを食う」・・・ジュリーの比喩は「できもしない」ということを表します。

「メルトダウン煙」「水素爆発廃墟」のフレーズ並びは、2011年の事故映像を呼び起こすもの。
「メルトダウン」とは「炉心溶融」のことですが、これを東電はずっと「炉心損傷」と過少評価し続けてきました。5年経った今年ようやくメルトダウンを認め国会で陳謝するに至りますが、じゃあ5年間何故認めなかったかと言うと「炉心溶融の判定基準を記したマニュアルの存在に気づかなかった」ためだという・・・。
もしそれが言葉通りなら「想定外」とはどの口が言っていたのかという話でしょうし、本当は気づいていたとすれば、5年間の隠蔽行為だったことになります。
今も現場で必死に頑張っている方々のことを思うと、この東電上層部の「集団的無責任」ぶりはあまりに酷い。これをして一事が万事とするなら、あの事故が真に「人災」であった可能性は非常に高まってきます。

そうした福島第一原発事故原因徹底検証、責任追及無しに再稼働はあり得ない、という道筋は当然と誰もが分かりそうなものなのに、「知事は青海鼠」「国は鹿馬」。ジュリーはこの「鹿」と「馬」を言いたいがために「犀」と「象」に登場願っているようですね。

原発事故の収束について「最後は金目」と言ったのは、「かの人」の息子さんでした。
最近また大臣としてテレビで見かける機会が増えていますが、ジュリーは特にこの人には怒っているのか、歌詞では続けて「政治馬鹿」と、遂に1番の「鹿馬」ではなくハッキリ「馬鹿」と斬って捨ててしまいました。辛うじて発音は、「うましか」ですけど。

先に少し触れた『核安全保障サミット』で安倍さんは「日本は二度とあのような事故を起こさないとの決意の下、原子力の平和的利用を再びリードすべく歩み始めた」と語りました。さて世界各国は、どのように受け取ったでしょうかね・・・。
そこで「再稼働推進」については安倍さんは「世界で最も厳しいレベルの新規制基準を作った」と主張したそうですが、原子力規制委員会の再稼働認可において「避難計画」が規制基準の対象外という時点で、あの過酷事故を経験し多くの避難者の存在を今も抱える国として「厳しいレベル」とはとても思えないのですが・・・。

再稼働していた関西電力高浜原発3、4号機はトラブルが相次いでいました。そしてその後3月9日、大津地裁の判決により運転は差し止められています。
以下、おっかないのを覚悟で書きますと・・・。

大津地裁による稼働差し止め決定という司法判断は、福井地裁の2015年の判決に続くもので、これをして原発推進派が福井地裁に対して行ってきた「特異な裁判官による特異な判決だ」という批判は、まったく筋が通らなくなりました。
原発推進の立場をとる『日本経済新聞』『産経新聞』の2紙は、司法判断そのものへの疑問を訴えています。つまり、原発稼働についての判断は特殊な知識を持つ専門家によって為されるべきで、一介の裁判官が判断して良いことではない、というものです。
しかしこれは「再稼働してもらわないと困る」という経済人の考えありきの理屈で、司法をド素人扱いする不遜にして強弁な批判と言わざるを得ません。
大津地裁は「原発反対」と言ったのではなく、「規制基準が不充分により現在の稼働は停止」としたわけで、それは中立な司法判断なのですから。

また、愛媛県の伊方原発3号機が先日、7月の再稼働を目指して使用前検査に入りました(「使用前検査」について僕は故郷・鹿児島の川内原発再稼働に向けての動きが具体化した際に勉強しましたが、鹿馬(国)が主導する規制審査、さらには青海鼠(県知事)の認可がある以上、それは「再稼働ありき」の形式的な段階に過ぎないことがその後の推移でよく分かりました)。
さすがに今は国も県も規制委員会も電力会社も「この原発は安全ですから動かします」とは言えず、その代わりに「安全確保に万全を尽くす」」とした上で、反対意見を軽んじ再稼働へと突き進むようです。

そんな有り様に対してジュリーが痛烈に皮肉った歌詞表現は、まず1番で
「安全じゃないっしょ」
この言い回しには、「何度も言ってるのに聞こえないの?」という意味が込められているでしょう。
さらには2番で
「安全じゃないっちゅ」
これは
「どうも貴方たちには僕の言うことが理解できないようですから、赤ちゃん言葉で言い変えてみました」
くらいの強烈な表現。
ジュリー、相当怒っていますよ。

と、ここまでは今回も額に皺寄せるようなことばかり書いてしまい、また自分に負荷をかけてしまったのかもしれませんが・・・これはジュリーが歌う「誇大でない現実」を僕なりに押さえておかないと曲に向き合った気がしない、という個人的な嗜好によるものです。
楽曲の素晴らしさはそんなことに左右はされません。その上で、このジュリーの作詞はピュアな感性にこそ訴える名編だと思っています。

「犀か象」のタイトル、次々に登場する「犀」「象」「鹿」「馬」の動物達・・・面白いアイデアですよね。
そして、面白おかしく言葉を料理したジュリーが歌詞で何を言おうとしているのかが「分かりやすい」ことこそがこの曲の最大の狙いです。少年少女達、子供達に訴えかける力が強い、ということだと思うんです。

「大人」である僕は一瞬「犀か象=再稼働」の語呂合わせとして歌詞を分かった気になってしまい、そこでいったん思考がストップしました。
でも、こういう曲を耳に得た若い、幼い感性はきっとそんなふうには済まさないでしょう。
「誰にでも分かりやすい」面白い比喩で聴く者を惹き付け、その中にある重要なメッセージを届ける・・・これはロック、フォーク含みポップ・ミュージック真髄の手法です。メッセージのベクトルは様々ですが、僕が少年時代に聴いた人で言うと、まず忌野清志郎さんがその代表格。桑田佳祐さんやサンプラザ中野さんの詞にもそれを感じたことがあります。

そして最近ではジュリーです。
でも『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマとした楽曲でこのスタイルを採り入れたのは、「犀か象」が初めてですね。それが今年の新譜の個性のひとつです。
依知川さんの曲に「乗った」ジュリーが踏み込んだ一歩は見事成立していますし、物を分かったような気でいた「大人」の僕をピュアなロック少年に引き戻してくれたような感覚があります。そう、「犀か象」はとてもピュアに痛快なロックなんですね。

もちろん、僕のような情けない「大人」ばかりの世の中であるはずがありません。
今年の新譜を聴いてすぐにこの曲を特に好きになれたジュリーファンは、ジュリーの真髄、作法に敏感な人で、
歌詞のテーマについても日常からアンテナを張ることができている人だと思います。
僕は時間がかかりました。最初に「えっ、こんな感じでこのテーマを歌うの?」と思ってしまいました。
何度も繰り返し聴いて詞曲とも大好きになった「犀か象」・・・購入直後のいかにも「大人だよね」な自分の感想を、今では恥じています。

あと、歌詞中で「ジュリーが一番言いたかったこと」じゃないかと僕が思うのは

侍   いなくなってしまった ♪
F#m  Bm              Em    A

ここですね。
お正月に「サムライ」を歌ったこともあって、今回改めて「ジュリーのイメージする”侍”ってどんな人達のことだろう」と考えてみました。

人それぞれ思う浮かべる人物は違うでしょうけど、僕はやはり歌詞のテーマから、80年代末に『朝まで生テレビ』で原発の賛否、展望について本音でやり合っていたパネリスト達を「侍」に重ねました。
皮肉なことに、彼等パネリストの中でも僕が特にイメージしてしまったのは、昨年亡くなられた野坂昭如さんだったんですよ。
「皮肉なことに」と僕が言うのは、長いジュリーファンの先輩方ならお分かりのはず。「嫌なこと思い出させて!」と呆れる先輩もいらっしゃるかもしれません。
そう、かつて野坂さんは大ヒット中の「サムライ」の衣装にクレームをつけたことがあるそうですね。
当時のジュリーファンは怒ったでしょう。僕ももし当時今と同じくらいにジュリーファンで、洋楽の知識もあったとしたら、「いや、野坂さん、あれはデヴィッド・ボウイがベルリンで表現していたステージへのリスペクトがまずあって・・・」と反論したくなったはずです。

『朝まで生テレビ』で観ていた頃の野坂さんについて僕は、「ちょっと左に寄り過ぎていて怖いなぁ」と感じていました。ただ、多くのレギュラー・パネリストの中で、体裁に囚われず本音で自分の考えをハッキリ言っていた、という点では野坂さんが頭抜けていたように思います。
スタジオに招かれた一般のかたの「(原発は)なんだか怖い」という発言に対して多くのパネリストが「それじゃ話にならん」と理屈でねじ伏せ委縮させてしまう中、「恐怖」を人間の自然な感情、立ち振る舞いとして擁護していたのも野坂さんでした。
思えばそれは今ジュリーが「神をも畏れない犀か象(再稼働)」と歌っていることと目線は近かったんじゃないかなぁ、と思うんです。

そういう人が今はもういなくなってしまった・・・たとえ言いたくても公の場では控えるようになってしまった・・・こんな日本なはずないじゃないか、と。


最後になりましたが、この曲は間奏もすごく面白いので僭越ながら解説を少し。
ジュリーの「パオ~~!」という豪快なシャウト(LIVEでの再現が楽しみ!)を合図に始まるこの間奏は、「犀か象だ犀か象だ」(「再稼働だ再稼働だ」)と賛否お構いなしに突き進もうとする今の状況をマーチングのリズムで風刺したものと考えられます。
ブルース構成ならいざ知らず、エイトビートのポップなナンバーで間奏が12小節というのがまず斬新。
コードは「G→F#7」「G→Bm」「G→A」で4小節ずつ。どれも「G」を起点にしているのに、それぞれのニュアンスがまったく違って聴こえるのが凄いです。
これはコード進行の面白さ(依知川さんの作曲段階からのアイデアでしょう)もさることながら、柴山さんの音階移動表現が最高に名演なのですね。
過激でパンキッシュに攻めたてる音色と運指が、曲想的には対極と言ってもよい1曲目のバラード・ナンバー、「un democratic love」と共通しているというのがまた素晴らしい。

今年、レコーディングのギターを1人で受け持つことになったことも関係しているのかもしれませんが、柴山さんの音もこれまでとは何処か変わったように僕は感じています。このことも、次回「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の記事で大いに触れる予定でいますが・・・。


ということで、ジュリー2016年の新譜『un democratic love』全曲考察も残すところあと1曲となりました。

先日『東京新聞』で、原発事故のため広島県に避難、転居されたご家族の記事を読みました。
避難指示区域から各土地に移り住んだ同様の境遇の方々が多くいらっしゃる中、それぞれの避難先の学校でお子さんが原発事故に絡んだ心ない「いじめ」に逢っている、と伝え聞いていたそのご家族のお母さんは、子供の転校先となる学校の先生にそのことを前もってご相談したのだそうです。すると先生は
「お母さん、ここは広島ですよ」
と。
広島では、何十年の時が経とうと戦争の悲惨さ、「核」の恐ろしさは語り継がれ「平和教育」が徹底しているんだ、という先生の誇りであり確信でしょう。
それが、今回ジュリーが詞の題材とした2014年の子供達による『平和への誓い』に息づいています。

この子供達の言葉・・・ジュリーが今年の新譜で歌にしてくれて初めて知った、という人は多いかと思いますが(僕もそうです)、日本人として心に刻み、皆で世界へ伝えていかなければならないんですよね。
「戦争できる国であることが普通」なんてのが世界の常識だとしたら、日本はそんな世界を変えてゆくメッセージを発信し続けるべきです。
人間を信じて・・・次回更新も顔晴ります!

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2016年3月30日 (水)

沢田研二 「福幸よ」

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より

---------------------

音楽劇『悪名』初日の海老名公演は、大盛況、絶好調の幕開けとなったそうですね。
ジュリーをはじめとするキャスト、柴山さんと熊谷太輔さんの演奏もいきなり全開の素晴らしい舞台だったとか。ちなみに僕は恥ずかしながら「海老名」という地名を今回初めて知りました・・・。
今日から大阪公演ですね。観劇されたみなさまのご感想、あちらこちらで拝見させて頂くつもりです。
熊谷さんツイートより。柴山さん、30歳くらいに見える・・・)

一方、ジュリーの新譜『un democratic love』。こちらも売行好調のようです。
毎年のことながらほとんど宣伝もせず、タイアップも無い状況としては異例のセールス・・・多くのリスナーがこの作品を聴き、ジュリーのメッセージについて考える機会を得ることを願ってやみません。

今日はその『un democratic love』収録全4曲考察の第2回更新となります。
今年の新譜でのジュリーの作詞は、1曲目から順に「安保法制」「被災地の現状」「原発再稼働」「世界平和」と、それぞれのテーマが明確です。
採り上げるのは2曲目「福幸よ」。

2012年リリースの『3月8日の雲』からジュリーは一貫して、被災者の中でも最も辛い立場にある方々について自作詞で踏み込むスタイルの曲を、必ず収録し続けています。それは今年も変わりません。
ただ、変わらない中でジュリーの気持ちはどう動いているのか。「歌」としてどう進化しているのか・・・今日はそうしたことを、柴山さんの作曲手法と合わせながら考えてゆくことになります。

「被災地の現状」をテーマとする曲について、毎年のことですが気力、体力を擦り減らすような感じで執筆に苦心します。非・被災者である僕自身が抱える「うしろめたさ」「申し訳なさ」とせめぎあいながら、それでも正直な気持ちを書こうと必死です。
今回も、夜に下書きしておいたものを朝読み返すと、「無用に被災地の方々を傷つけてしまうのではないか」と思われる箇所が見つかり、細かい表現にまで神経質になる毎日でした。
なんとか書き終えましたが、考察そして気遣いともに「充分」とはとても言えません。みなさまのコメントやご指摘を頂きながら色々と修正できる部分があれば、と思っています。
前回に引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。


今年の新譜は、バラード2曲にビート系のロック・ナンバー2曲が挟まれる、という収録構成となりました。
この4曲が全国ツアーでどんな順序で歌われるのかは僕ごときでは想像することもできませんが、1枚のCD作品として非常に纏まった折り目正しい構成になっていると感じます。
ビート系のロック・ナンバーが2曲も収録されること自体が久々。しかも「福幸よ」「犀か象」いずれも縦ノリ(表拍のビートが強調されている)で、LIVEではヘドバンが似合いそうな曲に仕上がっています。
加えてこの2曲、作曲にも変則的な工夫があります。これは4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」も含めて言えること。
「福幸よ」はトリッキーなコード進行、「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」は豪快な転調。そして、これまで「直球」の作曲家というイメージがあった依知川さんの「犀か象」は、あまりに斬新な進行と転調。
収録4曲の中、直球の進行で作曲されているのが泰輝さんの「un democratic love」1曲のみというのがまた僕には興味惹かれるところですし、それが今年の新譜の個性でもあり魅力だと思っています。

さて、今年の新譜収録曲クレジットが分かった時、僕が一番「ジュリーらしいなぁ」と感じたのがこの2曲目「福幸よ」というタイトルでした。
読みが「ふっこう」ですから「復興」の掛け言葉であることは大前提。その上で僕はまずそこにシンプルなアナグラムを見て「今、”復興”の現状は”幸福”の逆・・・つまり”福幸”である。ジュリーはそんな意図を込めたのでは」と想像しました。
実際に音源を聴いて、ドキリとその感覚を思い起こしてしまったのが、2番Aメロ冒頭の一節です。

福幸は 遠すぎて  幸福を 遠ざける
G          Cm     D     G         Cm     D

一方で、いつもお世話になっている先輩が「”福島に幸あれ”とも読める」と仰っていて、それもまた「なるほど」と思いました。
全体として見ると、(福島に限らず)この曲は「未だ復興には遠い被災者の心」に焦点を当てています。それは過去4作でもそうでしたね。

「復興には程遠い」・・・つまり「心の平穏」が訪れない。今なおそんな状況にある方々とは、あの震災で大切な人の命、住み慣れた故郷を失った人達でしょう。
僕も先日、未だ息子さんの行方が分からず「5年経っても気持ちは何も変わっていない」と語るご夫妻の映像をテレビで観たばかりです。

心色   如何許りか  
G  Gaug  G        Gaug

命 の 重  さは 量れない
G Bm7  Em   C      Am  D

1曲目「un democratic love」と同じく、この曲でも「命の重さ」を歌うジュリー。
先程、「今年の新譜は各収録曲でテーマがハッキリ絞られている」と書きましたが、当然ながら4曲通してのトータル・コンセプトをジュリーは持っています。それはきっと、「命の重さを考え、人の心の平穏を祈る」ということなのですね。

被災者の方々の「心の平穏」とはどうしたら成せるのか・・・ジュリーは、「考えて考えて」毎年のようにそれを歌ってきました。今年もメンバーいずれかの作った曲でそのことを歌おう、と決めていたでしょう。
そこへ、何かの気脈が通じたかのように柴山さんの新曲が届けられ、ジュリーは「この曲だ!」と即決したのではないでしょうか。

「苦しみ、悲しみに何度も躓きながら、それでも前に進む一歩、また一歩」

・・・いや、僕は綺麗事やカッコつけでこんな表現をしているのではありませんよ。後ほど詳しく柴山さんの作曲手法を解説しますが、「福幸よ」って、本当にそんなメロディーでありコード進行の曲なんです。

「もう、震災のことしか歌にしない」
ジュリーはキッパリとそう断言しています。今回さらに強調された「平和への祈り」も、もちろんその思いから繋がっていることです。
その決意の重さをなかなか受け止めきれないファンも、実は多いようですね・・・。
僕はジュリーのその言葉を熱烈支持してはいますが、「何故そこまで」と思うことはあります。本当に、何故ジュリーはそうまでして被災地への思い、苦しみや悲しみを歌い続けるのでしょうか。

大げさに言えばそれは、ジュリーが「真に強い王者」であるからこその宿命だ、と僕は考えます。
ジュリー自身、「僕はこれを歌うために今までずっとやってきたんだ」と感じているのではないか、と。

ほとんどのみなさまは、僕の言う「真に強い王者」の意味が分からないと思いますので、少し寄り道しますがここで音声の引用とともに説明させてください。


2011年3月27日・・・あの大震災、原発事故が起こってから2週間ほどしか経たない日のことです。
『プロレスリング・ノア』というプロレス団体(以下、『ノア』と略します)で、杉浦貴選手と鈴木みのる選手の初対戦が実現しました。
杉浦選手は当時『プロレスリング・ノア』のチャンピオン。対する鈴木選手はフリーランスで団体枠に縛られず戦いの場を求め渡り歩く「凄腕の浪人」といったスタンス。共にプロレス界でトップの実力を誇る素晴らしい選手ですが、それまでは道を交えることはありませんでした。双方の「対戦してみたい」という要望により遂に実現した黄金カードです。

形としては、言わば鈴木選手が『ノア』に「道場破り」に出向いていきなり最高師範格(団体チャンピオン)に挑戦する、という構図ですから、『ノア』主催のこの試合は当然杉浦選手がベビーフェイス(正義役)で鈴木選手がヒール(悪役)の立ち位置となりました。
試合は、激闘の末に鈴木選手が勝利。
会場に駆けつけた『ノア』ファンにとっては「バッド・エンド」(プロレスでは、悪役が勝利して興行が終わるパターンを、「ハッピーエンド」の逆の意としてそう表現します)です。事件はそんな試合直後に起こりました。
バッドエンドの会場の重い空気の中で、鈴木選手がおもむろにマイクをとり、対戦相手の杉浦選手に痛烈な言葉を投げかけたのです。
そのシーン(音声のみ)をYou Tubeにupしてくださっているかたがいらっしゃいますのでご紹介します(「何か興味の無い話が続いてるな~」とお思いでしょうが、もう少し我慢して、是非
こちらをご視聴ください)。

どうでしたか?

少し補足しますと。
2人の対戦実現の直前、やはり時期があの大震災直後だっただけに、ベビーフェイスのチャンピオンである杉浦選手は「強敵を迎え撃つにあたって、被災地のプロレスファンに向けてメッセージを」といった感じの取材も受けることになるわけです。
そこで杉浦選手は「プロレスで元気を与える、勇気づける、なんてとても言えない(言える状況ではない)。そんなのは自己満足」といったことを語ったのでした。
ご紹介した音声は、それを雑誌記事で読んだ鈴木選手が烈火のごとく怒った、という流れを受けての、試合後のシーンなのです。

僕は、雑誌に載った杉浦選手の言葉は正直な気持ちの吐露だったと思います。
だって、特にあの時期は日本じゅうみんなが多かれ少なかれ杉浦選手と同じようなことを考えて悩み、自問自答し、自分に突きつけていたのですから。
それに杉浦選手は当時ベビーフェイスとは言っても、寡黙なコワモテで「不機嫌モード全開」のファイトスタイルが身上(それが彼の魅力なのです)。気の効いたリップサービスは苦手な選手です。
それは鈴木選手も充分承知している・・・その上で「お前はチャンピオンだろうが!」と一喝しました。

被災地で食べ物がない、水に困っている・・・それは分かっているから、日本じゅうみんなが「何とかしよう」と頑張っている。プロレスの王者(チャンピオン)には他の役割がある。被災地のファンの「心」を助けるのが強いチャンピオンだろう、と鈴木選手は訴えたのでした。
あのデリケートな時期にこれほどの感性を持ち、激情にまかせたとは言えしっかりと言葉にした鈴木選手は本当に凄い・・・5年が経ち、戦いを通じて志を通わせていった杉浦、鈴木両選手は今、手を組んで『ノア』マットで暴れまわっています(今年に入って杉浦選手がヒールターンし、鈴木選手のチームに合流)。


ずいぶん長い寄り道となりましたが・・・要は「強い王者(チャンピオン)の特別な役割」について、僕はお話ししたかったのです。

今、「歌」の王者を日本で探すとしたら、それはジュリーだと僕は思っています。
歌唱力が一番、ということではありません。
一番売れている、ということでも当然ありません。
圧倒的な実力、実績、志、存在感を持ち、休むことなく活動を続ける「真に強い王者」ということです。

ジュリーは自分のことを「強い」とも「王者」であるとも考えていないと思います。
でも、今ジュリーが自分の気持ちに正直に歌い続けていることが、そのまま「真に強い王者」の宿命のように僕には思えてなりません。
2014年の南相馬公演に参加された先輩の「今日ほど”勝手にしやがれ”という曲が誇らしく思えたことはありません」というお言葉が今も強く僕の胸に残っています。形は違えど、そんなに単純な話ではないと分かってはいるけれど・・・それは正に鈴木選手の言葉にあった「俺はお前達の声のおかげで立ち上がることができた。今度は俺の声でお前達立ち上がれ!」をジュリーが体現したシーンだったのかなぁ、と。

南相馬と言えば、当地公演の翌年リリースとなった「泣きべそなブラッド・ムーン」の歌詞中に「鬱憤、後悔、懺悔」というフレーズが登場しますよね。
この曲については僕の歌詞解釈も二転三転しましたが、『こっちの水苦いぞ』ツアーを体感し、「怒り、憤り、嘆き」の歌だと結論づけました。「鬱憤、後悔、懺悔」は、大切な人の命を失った被災者の気持ちをジュリーが懸命に想像し、全力で慮って編み出された言葉だったのではないか、と今は考えています。
その「後悔」「懺悔」のフレーズが今年はこの「福幸よ」で再び使われています。「泣きべそなブラッド・ムーン」同様に、被災地の方々の独白として。
どうしようもない、やるせない、そんな思いは変わらずそこにあるのだけれど

後悔に懺悔 忘れるもんか
Am       Bm  Cm        D

この「忘れるもんか」が、今年の「福幸よ」で見せたジュリーの新たな力強さ。
「あの震災で大切な人の命を失った、一番辛い思いを持ち続ける人達の気持ちを何とか想像してみる」というジュリーの作詞アプローチは、2012年の「恨まないよ」、2013年の「Deep Love」、2014年の「三年想いよ」、2015年の「泣きべそなブラッド・ムーン」を経て、今年「福幸よ」に辿り着いたのではないでしょうか。
そして僕は、この曲はジュリーが柴山さんのメロディーに力を得て詞を書いたに違いない、と確信します。

では、僕がどうしてそこまで言い切れるのか・・・今回「福幸よ」で魅せてくれた柴山さんの作曲手法について、ここから詳しく紐解いていきましょう。

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採譜自体にさほど時間はかかりませんでしたが、「柴山さん、ここまで徹底しているのか!」と驚きの連続でした。


『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマに作られた柴山さんの名曲群の中でも、柴山さんの人柄が最も色濃く反映された作曲作品だと思います。
当たり前のことですが、細部に至るまで一切の手抜きはありません。今年の柴山さんの「祈り」が何処にあったのかを、様々な箇所から読み解くことができるロック・ナンバーです。

思えば昨年、柴山さんは「涙まみれFIRE FIGHTER」の徹底した短調の構成に「ただただ悲しい、苦しい」という思いを託しました。
今年は一転
「それでも顔を上げよう。元気出そう」
そんな思いが込められていると感じます。言葉にすると安っぽいようですが、それは採譜作業をし楽曲構成を紐解くことで導き出した、僕の素直な感想です。

「元気出そう」・・・でも顔を上げようとする時、前を向こうとする時の逡巡や戸惑い、躓きまでをも柴山さんはコードとメロディーで表現しています。「何とか気持ちを奮い起こして立ち上がろう」・・・そんな曲だと思うんです。
全体としては明快なト長調。でもイントロと1番直後の間奏、そしてアウトロに配されたキメのギター・リフ部についてはホ短調です。

最初にこのリフを聴いた瞬間、僕は「どん底」のそれを連想しました。「どん底」はまだ記事お題にしていない曲ですので、この場でちょっとイントロのコード進行をおさらいしておきますと


Donzoko2

「B♭m→G♭dim(→F7)」

ちなみにこの添付資料のスコアなんですが・・・今年に入って『A WONDERFUL TIME.』のエレクトーン・スコアの件をきっかけにお友達になった同い年の男性ジュリーファンの方が、ジュリーの貴重なスコアを他にいくつもお持ちで、何とこの「どん底」のバンドスコア(そんなものがこの世に存在していたとは!)まで見せて頂くことができたのです。
バンドスコアというのは音源で鳴っているすべての楽器の音が採譜されていますから、アレンジフェチの僕にとっては最も萌えるスコア形態です。

この「どん底」のスコアを新譜リリース直前に勉強していなければ、僕は今回の「福幸よ」のイントロを

「Em→C→B7」

と採譜してしまっていたでしょう。でもこれだと「しっかりし過ぎて」いる・・・正しくは「どん底」に倣って

「Em→Cdim(→B7)」

となります。
代理コードのディミニッシュが、何やら「心の不穏」を象徴しているようなギター・リフ部です。

リフ部4回し目の「C→D」から歌メロにさしかかると、ト長調の全容が見えてきます。
エイト・ビートの長調であるからには「明るい曲」と言って間違いではないのですが、「明るさ」を「前を向く」意と捉えた場合、「福幸よ」では「何度も何度も立ち止まり、そこからまた歩き出す」ような進行が特徴的。この「何度も立ち止まる」箇所が柴山さんの投げてきた(もちろん良い意味での)変化球です。

普通の作りならば、ト長調の曲ですとコードはトニックが「G」で、サブ・ドミナントの「C」とドミナントの「D」が進行の基本となります。
ところが柴山さんは、歌メロ部の「C」であるべき箇所を徹底的に「Cm」に変換させています。
その場合、メロディーも微妙に変化します。例えばAメロ冒頭であれば

おもいでが ち かすぎて ♪
シシシドシ シ♭ラソミ レ(←ト長調王道のメロ)
シシシドシ シ♭ラソミ♭レ(←柴山さんのメロ)

エンディング・リフレイン部ですと

ふっこうよ あゆめ ♪
ミ  ミ ミ レドレ(←ト長調王道のメロ)
ミ♭ミ♭ミ♭レドレ(←柴山さんのメロ)

このように、柴山さんは本来「C」であるべき箇所を悉く「Cm」に置き換え、「ミ」の音を「ミ♭」に変換、「躓く」「立ち止まる」といったニュアンスを出しています。
何度も立ち止まりながらもその度に思い直し意を決して顔を上げる・・・もちろん「復興」を実感し今はしっかり前を向いて力強く足を踏み出せている被災地の方々も多くいらっしゃるでしょう。でも、復興だ復興だと言われている中の「被災地の現状」を考えれば、そうではない方々もまた数多くいらっしゃる。
柴山さんが(ジュリーの詞が載る前の段階から)この曲に込めたのは、そんな方々の「困難な一歩一歩」だったのではないでしょうか。「忘れるなんてできない。背負っていくんだ」という一歩一歩です。

エンディングのリフレイン部、「Cm→G」で畳みかけるマーチング風の進行などはその最たるもの。

福幸よ歩め 福幸よ歩け
Cm        G   Cm        G

福幸よ福幸 よ  歩め歩 け ♪
Cm        G  E7    Am  Cm D

最後に用意されたこの大サビは、この曲を「辛い中にも前向き」な構成にしたかった柴山さんの意図をハッキリと感じさせてくれます。それはジュリーの詞とガッチリ噛みあって、迷い、戸惑いの部分含めて詞曲が乖離する箇所などまったくありません!

また、「普通ならこうなるのに敢えてそうはしない」という柴山さんの「込めた思い」故の変則部は、コード以外にメロディーそのものにも見ることができます。
1番、2番の最後の着地部がそれです。「普通」のパターンと柴山さんが作ったパターンの違いを2番の詞に音階をつけて表記してみますと

ひがんにとどけよ たましいよ ♪
レレシレ ミシラソ  ラシラソソ(←王道のメロ)

レレシレ ミシラソ  ラシラソレ(←柴山さんのメロ)


語尾の音がポ~ンと高い「レ」に跳ね上がっているんです。ここは普通は「ソ」です。その方が着地としては整っていますが、多少変則でもそれを高い「レ」の音に引き上げることで、「何度もやり直す」「まだまだ進んでいく途上」の感覚がメロディーに組み込まれます。
ジュリーやバンドメンバーにも当然このメロディーの意図するところは阿吽に伝わっていたはずで、「ここ、良いよね」とレコーディングしながら皆で話したりしたのかなぁ、と妄想しています。


それに、この曲は演奏も凄いんですよ。
その意味で、僕が全国ツアーでのこの曲で注目するのは、「柴山さん、泰輝さん、依知川さんの”ソロ”を照明さんがフォローする演出がされるか否か」です。
そう、3人のパートの見せ場が代わる代わる繰り出される構成が「福幸よ」アレンジ最大の肝。これは、気をつけて音源を聴けばみなさまも必ず聴き取れます。

ただ、「ソロ」とは言ってもそれぞれが僅か1小節なのです(だから凄い、ということなんですけど)。しかもほとんど「順不同」ですからね・・・これをピンスポット当てることになったら、照明さんは相当大変ですよ~。
そう言えば、2010年『秋の大運動会~涙色の空』ツアー初日の渋谷公演で、「明日」で繰り出される2小節交代の柴山さんと下山さんのギター・ソロ・リレーで照明さんが完全に逆逆になっちゃってたことがあったなぁ、なんて懐かしく思い出したりしています。
難易度は今年の「福幸よ」の方が数倍上ですが・・・さてどうなるでしょうか。
もし途中で迷ってしまったら、GRACE姉さんにスポット当てちゃうのも手かもしれません。3人の”ソロ”に隠れていますが、ここはGRACE姉さんも凄まじい入魂のビートで攻めまくっていますからね。


そうそう、個人的にこの曲の音作りで謎が解けていないのは、ギター・リフ部などで何やら「ゴ~ッ」という効果音のような音が鳴っている点。
ベースにフランジャーをかけ、ギターで言うところの「ジェット・サウンド」を応用しているのか、それとも演奏トラック全体に「後がけ」のミックスを施しているのか。
謎を解くためには、夏からのツアーで昨年の大宮公演のような「コンソール真後ろの席」を引き当ててミキサーさんの手元をチェックするしかないんですけど、さてそううまく事が運びますかどうか。
ちなみに昨年そんな貴重な席を共に体感した相方のYOKO君は、すっかり「大宮ソニックのミキサーのお兄さん」にゾッコンの様子。先日音楽仲間で集まった飲み会でも「短髪の真面目そうな彼」と言って、昨年の大宮公演のミキシングを絶賛していました。


最後に。
「心色」「涙色」「悲鳴色」「絶望色」・・・如何許りか、と僕も今回必死に考えました。不安な生活、悲しみの日常、いかばかりなのでしょう・・・。
なんとか4つの色を想像し、大切な人の命を失った人達の気持ちを想像しようとする時、人生経験の貧困な僕はたったひとつの「痛み」に拠り所を求めるしかなく・・・それは病に倒れた母親との別れの体験です。
余命宣告を受けた母は、医者である叔母の勧めなどもあり鹿児島市内の有名な緩和ケア病棟に入ることがほぼ決まっていました。でも土壇場になって母は、自宅のある隼人町から電車で50分かかる市内の病院に入ることを拒み、自らの意思で町内の名もない小さな病院で過ごすことを決断しました。
本人の口から聞いたことはありませんが、理由はハッキリ分かります。その病院から歩いて数分の場所に、当時の父親の職場があったからです。それが母にとって何より「心の平穏」だったということなのです。

被災地の悲しみを、自分のこととして考える・・・それは非・被災者にとってとてつもなく難しいこと。
「俺達の気持ちがお前らに分かってたまるか!」と言われることも覚悟して、それでも僕らはその努力しなければいけない、と思っています。

今、失われた命の重さを背負い続ける被災者の方々からすれば、「復興」とはただただ虚しいばかりの漢字2文字なのでしょう。
それでも彼等彼女等が僅かでも、「心の平穏」を感じることがあり前を向く気力が湧く瞬間があるとすれば・・・ジュリーはそう思いそれを祈ればこそ、単に「復興」なんて漢字2文字をそのまま使うわけにはいかなかったのではないでしょうか。

「福幸」という漢字の当て方は、自然発生的な福島のスローガンとして県内或いは仮設住宅のある街、避難先などでよく使われているのだそうです。
僕はそれも今まで知らずにいました。

ジュリーは懸命に考えて考えて、「福幸よ」の漢字使いをタイトルとすることを決めたのでしょう。
この曲を聴いて、「ジュリー、よくぞ言ってくれた。自分も元気出さなきゃなぁ」と思う人が被災地に僅かでもいてくれたら・・・と願わずにはいられません。
ジュリーの「語呂合わせ」はそれほど真剣です。
「やっぱり、この曲のタイトルが今回の収録曲の中で一番ジュリーらしいかなぁ」
と、今また僕は発売前の感覚に舞い戻っています。

ジュリーの祈りと柴山さんの祈りが奇跡のように噛み合った、本当に素敵な新曲。
僕にはもう、夏からのステージ・・・「福幸よ」
の最後のリフレイン部で、ジュリーが拳を握りしめながらビートに乗って歌う様子、柴山さんが笑顔で入魂のダウン・ピッキングでリズムを刻む様子が、見えています。
思い返せば、「どれだけハードでシビアなセットリストになっても、柴山さんがステージにいれば明るさは失われないはず・・・」と、2012年のツアーからずっとそんなふうに思って、安心して初日を迎えていたような気がします。今年の「福幸よ」は、改めてんなことを再確認させてくれるような曲でした。
最初に「柴山さんの人柄が反映されたような曲」と書いたのは、そういうことです。

LIVEでは、皆が縦ノリのビートに乗って、笑顔で楽しんでよい曲だと僕は思っていますよ。
それが、この曲に「福幸」の2文字を当てたジュリーに応えることにもなるのではないでしょうか・・・。


それでは、次回のお題は「犀か象」です。
「”犀か象”・・・あぁ、これも”再稼働”の語呂合わせのタイトルだね」・・・と、僕はそんな解釈で片づけるだけの「大人」でありたくない、と今思っています。


「犀」や「象」なんて動物達が歌詞に登場する面白そうな曲・・・これは一体何を歌っているんだ?

子供の頃、少年の頃の僕はそういう感性と理解欲を持っていたはず。そこから何か真実を得ようと思っていたはず。好きなアーティストの新曲を聴く、って本来はそういうことですよね。
面白おかしく言葉を料理して、そこに社会的なメッセージを込める作詞手法は忌野清志郎さんの得意技でしたが、ジュリーも負けてはいませんよ。

更新までには、またもお時間を頂くことになります。
これから日々全力で下書きに取り組みますが、週末には息抜きに桜も見に行かせてくださいね(汗)。

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2016年3月23日 (水)

沢田研二 「un democratic love」

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より


---------------------

すっかり暖かくなりましたね。
(でも、明日からまたしばらく寒いらしい・・・)
久々の更新です。今回から、2016年のジュリーの新譜『un democratic love』収録全4曲をお題に、考察記事を更新していくことになります。

3月11日のリリースから、もう2週間近くが経ちました。
今年も変わらず「誇大でない現実を歌う」ジュリー。
毎日聴いています。次々に新しい発見があり、気づきがあり・・・今年も色々と考えさせられました。

音的なことで言えば、昨年までは「う~ん、このギターは柴山さんか下山さんか・・・」と悩みまくることも大きな楽しみのひとつでしたが今年はそれがなくて、最初は寂しい気持ちもありました。
でも、すべてのギター・トラックが柴山さんの演奏と踏まえた上で、柴山さんが新たに採り入れてきた音作りについてあれこれ想像するのがまた楽しくなってきて。
そのあたりは、おもに4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の記事で散々語り倒したいと思っています。

さて、例年通り
「一応アマゾンさんに予約しておいて、発売日に届かなかったら街のお店に直接買いに行き、遅れて届けられたもう1枚はYOKO君に引き取ってもらう」
作戦だったこの新譜。今年も池袋のタワー・レコードさんに出かける気満々でいたのですが、意外や発売日前日の10日夜、アマゾンさんから「発送作業完了しました」のメールが届きました。
アマゾンさんの予約で発売日にCDが届いたのは、『3月8日の雲』以来5年目にして初めてのこと(2013年の『Pray』の時は自分のミスもあったんだけど)。
やっぱり気持ちが良いものです。来年以降もこの感じで頼みますよ、アマゾンさん!

『PRAY FOR EAST JAPAN』と『LOVE AND PEACE』。
根幹のテーマは変わらず重い・・・でも僕の受け止め方は、過去4作とはまるで違ったものでした。
おそらくかなりの少数派であることを自覚した上で僕の初聴時の気持ちを正直に書くと

「スカ~ッとした!」
「元気が出る!」
「勇気が沸く!」

というもの。
11日夜、仕事から帰宅するとCDが無事届いていて、夕食の前に歌詞カードを読みながらひとまず1度聴きました。これまでの4作を同じ状況で聴いたとすれば、テーマの重さ、直球の歌詞に感動と同時に大きなダメージを受け、聴いた直後に食事をとることなどまずできなかったでしょう。
ところが今回は・・・食欲が止まらない!
カミさんが呆れ果てるくらいの勢いでバリバリご飯を食べました。本当に不謹慎だとは思うけれど、自分自身で持てあますほどのエネルギーが沸き出ていました。
それが僕の『un democratic love』第1の感想です。

ジュリーの歌詞について確実に伝わるのは
「もう堪忍ならん。言うたる!」
というコンセプト。
さらに、僕はジャケット・デザインからもそれを感じました。覚えておられるかたもいらっしゃるかな・・・昨年の『こっちの水苦いぞ』が赤色になった時、僕はそれを「給水停止予告」の紙に例えました。学生時代、貧乏なくせにバンド活動にうつつを抜かしていた僕は、料金を滞納の末に家の水道を止められた経験があります。
まず「○日までにお支払いください。さもないと給水停止しますよ」という内容が書かれた青い紙が届きます。払わずにいるとその後同じ内容の黄色の紙が来て、最終的には赤色の紙が「最後通告」として届きます。「もう待てません。止めますよ」と。
僕はその赤色の警告を、昨年の『こっちの水苦いぞ』のジャケットに重ねたわけです。
ただ肝心なのは、その赤色の紙にも「最終の支払い締切日」というのは記載されていて、その日までに支払いさえすれば水道が止まることはないんです。
ですから『こっちの水苦いぞ』の時点でジュリーには「まだ防げる」「まだ助かる」という感覚もあったように僕は感じました。
しかし、今年のシルバーは・・・。
みなさまはそうそう経験は無いかと思いますが、赤色の紙も無視して支払締切日を過ぎるといよいよ本当に水道が止まります。そうするとキッチンのステンレスが、正に『un democratic love』のジャケットのような鈍い銀色に変わり果てるんですよ。
これをして僕は今回のジャケットを「安保法制強行採決」後の断水の色として受け止めたのです。これは個人的な「思い込み」の感覚ではありましたけど。

そこで実際に歌を聴いたら、「いや、まだだ。まだ間に合う!」という気持ちに変わりました。


「祈るだけでなく考えなきゃダメだ、と言うけれど・・・考えてないとでも思ってるの?」
ジュリーが今年のお正月LIVE『Barbe argentée』でのMCで語った言葉です。
セットリスト大トリの「耒タルベキ素敵」のエンディング・リフレインでは、鬼気迫る声で「ピ~~ス!」と絶叫したジュリー・・・ではジュリーはどんなふうに「考えて」いるのか。それがこの新譜に集約されていました。
詞の内容は重いです。重いのだけれど、少数派を自覚した上で、不謹慎を承知の上で僕の気持ちを正直に言うと、『3月8日の雲』以降の新譜で初めての「爽快!」。「重さ」からくるダメージが一切無かったんです。
「ジュリーはこんなふうに考えていたんだ。僕もそう思う!」という喜びがありました。
以前「我が窮状」の記事で「ジュリーの作詞作品で、ジュリーの言いたいことがよく分かる、なんて曲はこの1曲だけ」と書きましたが、今回の新譜から、タイトルチューンの「un democratic love」が新たにそこに加わりました。

ただ、自分の気持ちがハッキリしている、伝えたいことがハッキリしていればいるほど、それを言葉や文章にするのは途方もなく難しいのだ、ということも今回実感させられました。
下書きを書いては消し書いては消し、を繰り返し、思っていた以上に時間がかかってしまいました。

「祈り」「嘆き」は変わらない中で、僕は今年の新譜に「前進」を感じます。いや、実はそれは前作『こっちの水苦いぞ』から既にありました。先の先を走り続けているジュリーに、僕が追いつけなかっただけ。
「前進」・・・単に「前に進む」以外に重要なのは、「この先」を見据えている、ということ(そのために、「誇大でない今の現実を知る」ことが大切なのですが)。

誤解を恐れずに言うなら、今回ジュリーの詞は以前にも増して「偏って」います。
もし某大臣がこのCDを聴いたとしたら、「政治的公平性に欠けるので販売中止命令を」なんて言い出しても不思議ではありません。
それは冗談として(今のところは、ですが)。
どんな考え方であるにせよ、音楽作品はもとよりメディアについてもそれぞれで「偏って」いるのが当然の姿だと僕は思っています。これが軒を並べて翼賛になることが怖いのであって、権力を支持し音頭をとろうとするメディアと、権力に疑問を抱き逐一チェックし反論するメディアが共存している状況自体は健全だ、と。
最悪なのは、権力に脅かされてメディアの上層部がビビることです。志ある人が現場で頑張っているなら、そこは上の者が毅然と「いやいや、何を言われてもこれまで通りやりますよ」と態度を表明すべきでしょう。

本当に「たくさんの違う考え」がハッキリ分かれて発信されるようになった時代。
僕らはそんな幾多のメディアの中から、漠然と情報を「受ける」のではなく、自分で考えて「選び身につける」ことをしなければいけない・・・もう待ったなしでそんな時代が来ていると感じます。
ジュリーが「みなさんそれぞれが、自分のこととして考える時が来ましたね」と話してくれたのは昨年のお正月のことでしたが、それはそういうことなんだろうなぁと。
その一方で、「自分と違う考え」を知ることもまた大切です。そこから見えてくるものは多いのです。

僕は、自分のことを「流されやすい」タイプだと自覚しているので、新聞については複数のものを可能な限り多く読むように心がけています。
あの震災から5年。
その間も各新聞の報道姿勢はそれぞれが加速度をつけてかけ離れてゆき(或いは沈黙を良しとし)、選択肢も多くて、何が真実であるのかすら分からない、という状況に陥るかたも多いのではないでしょうか。
例えば、昨年9月に参議院で強行採決され、遂に今月29日に施行される安保法制が、まず最初に衆議院で採決された翌日。各大手新聞の見出しは

読売「日本の平和確保に重要な前進」
朝日「戦後の歩み 覆す暴挙」
毎日「国民は納得していない」
産経「日本の守り向上へ前進だ」

ご覧の通りの真っ2つ。
「法案賛成、推進」の立場をとる読売、産経の2紙がいずれも「前進」という言葉を使っています。
さきほど僕は今回のジュリーの新譜に「前進」を感じる、「前進」とは「この先」を見据えた言葉である、と書きました。ところが、物事の考え方が違えば「前進」に込められた意味も180度違ってきます。

法案賛成の立場から「前進」を掲げて見据える「この先」・・・採決、のちの成立を機に先々押し進めていくべきことがある、という両紙の考えを暗に示しています。
それは9条改憲であり、ゆくゆくは核武装でしょう。

「え、核武装はさすがに飛躍では」と思われますか?
ほんの数年前までは、「核武装」なんて言葉にするだけで問題になっていたはずが、今では与党若手議員の政策理念として普通に語られるようになりました。
「戦争にいきたくない、などという考えは身勝手」と言い放った直後に、しょうもない詐欺話で(いったんは)離党した議員さんなどもその一人です。
そもそもほんの数年前までは、反対にしろ賛成にしろ今の安保法制のような考え方が普通に国会で議論され採決されるとは思いもしなかった国民がほとんど。
同様に、愛すべきこの国が「核武装による国際的孤立」に陥るという悪夢は、もう10数年先にも現実化の可能性をはらんでいると見るべきです。

今度の参議院選挙(或いは衆参W選)は、相反する「前進」と「前進」のぶつかり合いとなります。
僕には、自民党の政策すべてがダメだ、というふうにはとても考えられません。しかし、「安保法制強行採決」「原発再稼働」「武器輸出推進」の3点が、まったく受け入れ難いのです。この3点を受け入れられないがために、今の僕は相当頑なになっているんだろうなぁ、と思う・・・その自覚はあります。
「共産党に入れるくらいならむしろ自民党」というタイプだった僕をして、この数年は「とにかく自公以外」に転換してしまったほどです。

今、ジュリーの新譜の歌詞に深く共感します。
でもこれだけは先に書いておきたい・・・音楽って、ロックって、アーティストの物事の考え方への共感、心酔がすべて、なんてことは決してないです。

僕の場合は、音楽のみならずジュリーの社会的な考え方を熱烈支持、というスタンスでこれから記事を書くわけですが、多くのファンの中には、ジュリーを愛するが故に歌詞を読んで怒ったり、落ち込んだり、というかたもいらっしゃるでしょう。
僕とは正反対の考え方ですが、「安保関連法案に賛成、原発再稼働に賛成、それでもDYNAMITEなんぞより全然ジュリーのことが好きじゃ!」というかたはきっと多くいらっしゃる。自然なことだ、と思ってます。
この新譜を聴いて怒るファンは気骨のある人だろうし、落ち込むファンは優しい感性の持ち主だと思う・・・変にスカしてる世間より、それで全然いいじゃない!と。

そういう作品が、今年も届けられたということ。


中でもいきなりのド直球が1曲目、タイトルチューンでもある「un democratic love」。
今日はこの、個人的には今回の4曲の中で圧倒的に好きな曲がお題です。
違うご意見、ご批判あるかとは思いますが、今日はこの名曲を心から「好き」という気持ちに正直に、僕の感じたこと、考えたことを書かせて頂きます。
よろしくお願い申し上げます。


タイトルに「LOVE」とある通り、愛の歌だと思います。
「本当の愛」の歌。

今、相反する「前進」はすなわち相反する「愛国」。
歌い手である主人公は、「君」の偏狭な「愛」に言い寄られ苦しみの中にありながら
「自分も君と同じ愛を持っているのに、何故僕と君の愛の形はそんなに違うんだ」
と「君」の愛を拒絶し、自らの愛の在り処を隠しだてなく吐露しています。

ジュリーがその心を投影し歌い演じたこの曲の主人公である「語り手」は、「日本」という国そのもの。僕はそう考えます。強引で偏狭な愛を上から押しつけてくる「君」を拒絶する・・・この歌は「日本国の独白」です。
また、主人公に言い寄る「君」は現政権・・・特にそのトップである安倍さんを指す、と解釈します。これは、「Pray~神の与え賜いし」に登場する「かの人」と同じくらいに明快だと僕は思っています。

本当は双方同じであるはずの「国を愛し、誇りとする心」の、あまりに隔たりある現状。

祈りますとも   君の国のため
   F7        B♭m        A♭    D♭

君と同じ以上に   自由が好きだよ ♪
      C7     Fm  B♭7    E♭m7      A♭sus4

「君がどんなふうに僕をたぶらかそうと、僕は平和への祈りを止めないよ」・・・それが、ジュリーの「自由」。
そう、ジュリーが歌詞中に織り込んだキーワードは2つ・・・「自由」と「民主主義」です。

現政権は「自由民主党」って言うくらいだから、そりゃあ「自由」も「民主主義」も大好きなんでしょう。
でも。

「自由ってなんだ?」
「民主主義ってなんだ?」
「愛ってなんだ?」
「僕のそれとはずいぶん違うじゃないか?」

主人公である日本国は、「君」にそう問いかけます。

もしかしたら君は   本当の愛知らない
D♭      A♭(onC)    B♭m      B♭m(onA♭)

怒らないで君は  勝手だから ♪
G♭       D♭(onF)   E♭7   A♭

「怒らないで」・・・これは、「ブチキレ答弁ばかりしないで、話を聞いてほしい」ということでしょう。

いつもなし崩しだ  会話にならない
D♭      A♭(onC)  B♭    B♭m(onA♭)

聴く耳持たなきゃ 大人    だよね ♪
G♭   D♭              E♭m7   A♭  D♭

この「大人」というのも重要なキーワードのひとつ。
それを読み解くためには、「大人」の対義語を考えればよいでしょう。「子供達」「若者達」です。
子供達の「平和への誓い」の言葉も、「路上から国会へ」を実現させた若者の熱く切実な懇願も、現政権は聴く耳持たず。それがこの歌詞中の「大人」。
「子供達」については4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の記事で語ることになりますので、ここでは「若者達」のことを書いておきましょう。

「un democratic love」の詞については、聴き手が『民主主義ってなんだ?』『民主主義ってこれだ!』という2冊の本を読んでいるかどうかだけでも、相当受け止め方が違ってくると思います。
ジュリーも読んだのかもしれないなぁ、とも。
この2冊は実は批判する人も多いです。良くも悪くも突かれる隙が多いんだろう、とは思います。世の評価はこれまた真っ2つと言って良いでしょう。

僕個人としては今、「自由と民主主義のための学生緊急行動」を掲げ登場した若者達にZOKKONの状態。何より「パワーレス・パワー」が頼もしい。
でも彼等が主役に躍り出た当初から、先述したような「隙の多さ」・・・そのいかにも若者らしい「危なっかしさ」も確かに目についていて、そうした面がマイナスになりはしないか、と心配したものでした。
昨年のジュリーの全国ツアー『こっちの水苦いぞ』で歌われた「限 界 臨 界」を聴き、「あぁ、”未熟”というのは褒め言葉なんだ。素晴らしいことなんだ」と思いあたり、その心配はキレイに一掃されることに。
ただそれは僕が勝手にそう解釈しただけであって、さてジュリーはあの若者達をどう思っているんだろう?というのは、昨年からずっと気になっていたことでした。

今年のお正月LIVE『Barbe argentée』初日のMCで、ジュリーは少しだけ彼等に触れてくれました。
「期待するところはあるけれども、こんなもんや」
と、右手の親指とひとさし指で小さな隙間を作って。
ジュリーは続けて
「(それよりも)考えても考えてもどうにもならなくて、とにかく毎日の仕事を精一杯やるしかない・・・そんな人達がこの国を支え形作っているんだと思う。自分もそんな人達の中の1人でありたい」
と言ったわけですけど、ジュリーから「期待している」という言葉を引き出しただけであの若者達は素晴らしいと僕は思いましたし、何よりジュリーはそのMCから引き続いてのセットリストで、まず9条への思いを託した「我が窮状」を歌い、原発事故をコンセプトとした「F.A.P.P」を歌い、そして「君達がボスを選べよ」と、あの若者達の登場を予言したような2010年にリリースの「若者よ」を歌いました。さらに続けて歌われたのが「限 界 臨 界」。しかも、ジュリーの声域的にはまったくキー移動の必要がない「若者よ」は、「限 界 臨 界」とキーを揃えたロ長調で歌われました。
これがジュリーのメッセージでなくて何でしょう。

いつの時代も、若者の才覚はいともたやすく大人の欺瞞を鋭く見抜きます。
しかし僕自身はそんな才覚を持ち得ていたであろう短い貴重な時期を、ただ漫然と過ごしてきてしまいました。おそらく僕と同世代の、多くの「今の大人」達もそうだったかもしれません。
その結果が今のこの国の状況だとすれば、若い人達に「あなたはどの面下げてこんな文章を書いてるんだ」と言われたとしても、返す言葉はありません。

そして、70年前「もう2度と戦争はすまい」と誓ったこの国に、いつまた「忌まわしい時代」に遡ろうとする暴君が現れる日が来るか分かりません。
そんな暴君は実はこれまでにも何人か現れていたのかもしれない・・・その暴君の思惑を、僕らの見えないところでずっと防ぎ続けてきたのが憲法第9条である、というのが僕の考えです。

安倍さんは、どうやら暴君の器(と言うのもおかしな表現ですが)ではないように見えます。もちろん彼のいわゆる「お友達」や「応援団」の人達は問題外。
真の暴君とは、指導力と魅力(と錯覚してしまうようなもの)を持ち、国民的人気を得る颯爽としたルックスの人でしょう。そんな人に「その場しのぎの改憲なんぞは、アメリカに”ちょっとオマエ行ってこい”と指図されるきっかけを自ら作っているようなものだ」と、改憲すら飛び越えて「自主憲法制定」を掲げられたら、僕レベルの思慮の持ち主では「なるほど」ととりこまれてしまうことがあるかもしれない・・・僕は本当はそれが一番怖い。

ジュリーはこの曲で安倍さんのことを(というのは僕の個人的解釈ですけど)「強権」「冷酷」「不遜」「脆弱」「狡猾」「ダダっ子」等々、散々にブッた斬っています。
でも、実は歌詞中で一番痛烈なのは

放射能みたいに 気味わ    るい よ ♪
G♭    D♭                E♭m7  A♭7 D♭

この表現だと思います。
おそらく、真の暴君にはこの感覚が(最初は)無い・・・それだけに怖い、と思うのです。
安倍さんは今、鵠志のつもりで束の間の権力に酔い、将来現れるかもしれないそんな暴君のためにそれとは気づかずせっせと下ごしらえをさせられているだけのように見えて仕方がありません。
正に「君の愛は軽率」「君の愛は簡単」ですよ。

真の暴君の姿は、今はまだ隠れて見えません。
ひょっとしたら、「今はアイツを矢面に立たせておけば好都合」と考え腹の底では安倍さんを馬鹿にしている与党内の政治家達の中に、もう「彼」は目に見えて存在しているかもしれませんが、僕には分かりません。
だから、今なんとか安倍さんに考え直してもらうしかない。今がギリギリ間に合う時だ・・・少なくとも、何かすり合わせることができる部分はたくさんあるはず。
あくまで個人としての思いですが、「un democratic love」を聴いて、僕はそんなことも考えたのです。

しかしながら、じゃあ「undemocratic love」が、僕のように考える人でないと好きになれない狭量な楽曲かと言うと、絶対にそんなことはありません。
この美しいメロディー、緻密な進行。近年のジュリー・バラードの中でも傑出した名曲、名演です。

ジュリーはこのバラードに痛烈な政権批判を盛り込みましたが、『PRAY FOR EAST JAPAN』のテーマで作曲に取り組んだ泰輝さんは最初の段階では「海」をイメージしていたのではないでしょうか。
理由は、イントロのピアノの進行が「マイアミ2017」を思わせるからです。泰輝さんがビリー・ジョエルのこの名曲を知らないはずがありませんからね。

イントロが広く美しい海のイメージなら、歌メロの間隙を縫って随所に挿し込まれるピアノのフレースには、荘厳な「人の魂」を感じます。泰輝さんの「祈り」でしょう。
そういう意味では、「un democratic love」でのジュリーと泰輝さんの「気」はピタリと合っています。

耳で聴いただけの段階では、メロディーはとても美しくて素直で澱みなくて、スラスラと採譜もできちゃうタイプの曲だろうなぁ、と思いました。しかし、いざ取り組んでみたら・・・とんでもなかった!
ジュリーの詞も凄いけれど、泰輝さんの作曲も本当に凄いんです。

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凡庸な僕にとっては、変ニ長調というだけで採譜が大変。ギターがメインの曲なら1カポのCでやるんですけど、この曲はピアノがメインですからねぇ・・・弾いてみたら凄まじい黒鍵の嵐でした。


2番直後の間奏部以外に調の変化は無いんですが、随所に挿し込まれたフックは、「あれっ、どうなってるの?」と何度も頭を悩ませてくれました。
Aメロはまず王道進行。
2番目の和音は、例え同じメロディーであってもギタリストの作曲だと「Fm7(onC)」で、ピアニストだと「A♭(onC)」になるケースが多いみたい。これは、両刀のポール・マッカートニーのいくつかの楽曲比較で学んでいたことです。
僕が特に痺れたのはその次の展開。

祈りますとも   君と国のため
   F7        B♭m       A♭     D♭

君と同じくらいに   自由が好きでも ♪
      C7   Fm    B♭7     E♭m7      A♭sus4

この「C7」を見つけるのにどれほど時間がかかったか(能力の問題ですが)。最初は理屈から考えて「Gm7-5」を当てたりしながら「ありゃ、全然違う?」みたいな。
今となっては「どう聴いてもこうしかないよね」と思うんですけど、マッサラな状態でCDに合わせて和音を探している過程では、本当に「う~ん」「いやぁ~」「ぐぅ~」と声が出ちゃうくらい悩みましてね・・・その呻き声をカミさんが不審がっていたほどです。

2番の後の転調が登場するギター・ソロ部は
「G♭maj7→Fm7→G♭m7→Badd9→
Amaj7→A♭m7→D♭→A♭」
と起こしてみたけど微妙に自信無し。
今年も大宮でYOKO君の採譜と突き合わせてから結論を出すことになるかなぁ。
でも、このソロ部も進行自体は泰輝さんの作曲段階から決まっていたと推測します。いかにもピアニスト、な流れですからね。

新曲4曲の中でバンドの演奏が一番「凄い!」と僕が感じているのは2曲目「福幸よ」ですが、その他の曲・・・もちろん「un democratic love」も素晴らしい名演です。
先述した泰輝さんのピアノはもちろん、やはり鮮烈なのはベースの存在。
ピアノ1本で導入するこの曲で、ドラムス、ギターに先んじて噛んでくるのが依知川さんのベース。運指で弦をすべる音の太さ、まるでストリングスが加わったかのような音圧でジュリーの声を包み、ヴォーカルの表情さえもその瞬間から変化させているようです。
リズム・アタックの基本はGRACE姉さんのキックとユニゾンで、間奏以降は重厚な8分音符の連打へと移行。終盤の畳みかけるようなジュリーのヴォーカルも、このベース・トラックあればこそでしょう。

柴山さんのソロは、得意のサスティンとディレイに加え「ガレージ感」を意識しています。そのパンキッシュな音作りに、ジュリーの詞を踏まえた上での柴山さんの楽曲解釈を感じます。

GRACE姉さんのドラムスには、最近のジュリー・ナンバーでは珍しくコンプレッサー系のエフェクトをセンドリターンさせているようです。
「押しつけられている愛」をどうにかしようと奮闘しているようにも聴こえ、これもまたジュリーの詞がこうでなければ生まれなかったアイデアではないでしょうか。
シンプルなエイト・ビートを淡々と叩き続けている中に、GRACE姉さんのこの曲のコンセプトへの「決意」も感じさせてくれます。

一方、今年の新譜では、下山さんがいなくなり依知川さんが入ったことで、単に楽器の違いだけでなくミックス処理も変わりました。ここ数年の鉄人バンドの作品に見られていた「ステージでの立ち位置通り」のトラック配置ではなくなったのです(柴山さんのサイド・ギター・パートのみ引き続き徹底されています)。
立ち位置通りとするなら依知川さんのベースを左に振らなければなりませんが、「ベースを片側のPANに振る」という手法は、基本的にもう40年以上前に姿を消しているんですよ(もちろん、『60年代回帰』をコンセプトとした作品で「敢えて」それをやる、という場合はあります。ジュリーで言うと『G. S. I LOVE YOU』がそうです)。

今回は、収録4曲で泰輝さんがピアノを弾くかオルガンを弾くか、或いはその両方を弾くかによって各演奏トラック配置が分かれます。
「un democratic love」の場合はピアノのみ。ピアノの一部のフレーズや、ドラムスのフィルなどが時折左寄りに振られていますが、基本左サイドは「空位」となっています。僕は下山さんのことを引きずっている感覚もまだあって、初めてこの曲を聴いた時には、1番が終わってドラムスとエレキギターが噛み込んできた瞬間、「あぁ、ここで左からアコギが聴こえてきたらどれほど・・・」と感傷的になったりもしましたが・・・。

最後に、正に「魂の」ヴォーカルについて。
初めて聴いた時は、「怒りにまかせた猛々しいヴォーカルのバラード」だと思いました。
ところが歌詞を咀嚼し何度も聴き返していくと、ピアノ1本で歌い始める出だしの箇所からもう、何かジワッと胸を温かくする感覚・・・「ジュリー、なんて優しい歌声なんだ!」と感じるようになっていきました。

これこそが、この国を本当に愛する人の「声」です。
僕はそう思います。

同時に、すごく「ロック」を感じるヴォーカルなんです。こんなふうにバラードを歌うジュリーの「囚われの無さ」に驚嘆します。
頑固な中に柔らかさがある・・・ジュリーが自ら作詞し歌うからこそ、「un democratic love」の詞曲はガッチリ噛みあい優れた楽曲として成立しています。
「この国がこんな状況になっているのに、他の名のあるロッカー達は何をやってる?」なんてことを生意気に書いたこともこれまで何度かあったけれど、よく考えたらそれは無理ってものですね。
実力、実績、経験、志、環境、勇気・・・そのすべてを持っている歌手でないとできることじゃない。
このジュリーのヴォーカルは、今の日本で唯一のもの。僕らは、そんな奇蹟のような歌に今タイムリーで触れているのです。

泰輝さんの作ったメロディーは、近作の中では下山さん作曲の「カガヤケイノチ」や柴山さん作曲の「Fridays Voice」に比するほどの音域の広さを擁します。
1番の歌詞で言うと、最低音は「勝手だから」の「だ」で、低い「シ♭」の音。最高音は「君の愛は強権」の「権」で、高い「ファ」の音となっています。
この音域、高低ともに今のジュリーが最も歌いやすい音の範囲にピッタリと収まっているのが凄い。キーは変ニ長調ですが、おそらく泰輝さんは最初、ハ長調かニ長調で作曲したのでしょう。それをレコーディングの段階で半音上げるか下げるかして、ジュリーが最も「魂を込められる」音域に移調したのではないでしょうか。

ヴォーカル最大の聴きどころはやはり最高音部。

君の愛は束縛    君の愛は強権 ♪
      D♭     E♭m7    F7            B♭m

高い「ファ」の音へ一瞬で駆け上がるジュリー。
気高いロック・ヴォーカルです。しかも、これほどの内容を歌っていながらにして、この自然体。
何故そんなことができるのか・・・それは偽りなく「自分の気持ち」だからでしょう。
「気持ちを込めて歌う、というのがどういうことなのかを思い知らされた」というのは、2010年リリースのジュリーwithザ・ワイルドワンズ「涙がこぼれちゃう」の歌入れに立ち会った時の吉田Qさんのお言葉ですが、どれほど才能があろうと、どれほど歌が上手かろうとなかなかできないことを、ジュリーは年を重ねるに連れさらに高みへ高みへと進化しながらやってのけます。

「強い国」?
「美しい国」?
この国で一番強くて美しいものを壊さないでくれ。

僕には、「un democratic love」のジュリーの声がそう言っているように思えます。

歌はもちろん、作詞も、制作スタンスも・・・元々ジュリーが持っていた稀有な資質が、『PRAY FOR EAST JAPAN』と『LOVE AND PEACE』のコンセプトと共に底知れない高みへと昇る、今なおその途上にあります。
「もうここまで」という感じがまったくしない・・・天賦の才能だけでは為し得ないことですね。「粘り強く続ける」ことがどれほど尊いかをジュリーは教えてくれます。
もうジャンル云々じゃない、すべてを凌駕している・・・。
そう思いつつもやっぱり僕は今年の新譜1曲目「un democratic love」を聴いた瞬間から、「最高にロックだな、ジュリー!」と興奮していたのでした。

君の愛は冷酷   君の愛は不遜
      D♭     E♭m7  F7        B♭m  B♭m(onA♭)

命の    重さに   気づかないんだ
   G♭maj7  D♭(onF)   E♭7         A♭

君の愛は脆弱   君の愛は違憲
      D♭     E♭m7  F7        B♭m  B♭m(onA♭)

un democratic love don't love me so ♪
    G♭maj7     A♭                     G♭maj7→



民主主義ならざる愛
僕をそんなふうに愛さないでくれ


「日本」がそう歌っているんだよね、ジュリー?
このバラードは、世界の誰の歌よりもロックです!


いやいや、この1曲を記事更新するだけで、凄まじく時間がかかってしまいました。
先月に野党5党が提出した廃止法案は審議すらされないまま放置され、安倍さんは在任中の改憲への意欲を語ります。
僕は、本来は政権や体制そのものを否定する者ではない・・・とにかく「戦争を否定する者」として、この「un democratic love」の記事を書いたつもりです。
僕のような者がこんな内容の記事を書けていること自体が「自由」であり「民主主義」なのだ、と言われればそれはその通りなんですけどね・・・。

ただ、毎年そうなんですけど、音楽として優れていなければ僕はこんなに熱くはなれないんです。
特に今回の新譜は、僕とは真逆の考え方のファンの心をも撃つ大変な名盤だと信じます。
だから、「話し合いましょう」と思う・・・「この先」僕らが何処に向かっているのかについて。

今年の新譜は、1曲目が「安保法制」、2曲目が「被災地の現状」、3曲目が「原発再稼働」、4曲目が「世界平和」と、それぞれのテーマがハッキリしています。
その意味では、次回の2曲目が収録曲中最も執筆に時間がかかるかもしれません。
今日の1曲目「un democratic love」も相当踏み込んだことを書いたけれど、「元気に暮らせている自分が、しっかりと声にしなきゃ」という気持ちを持ってひたすら頑張れば良かった・・・でも2曲目「福幸よ」ではまず、今なお悲しみや苦しみの中にいらっしゃる人達のことを最優先に考えなければいけません。
「元気な自分がうしろめたい」という気持ちと戦わねばなりませんし、かと言って過剰にへりくだった卑屈な心で考察できるほどジュリーの歌は甘くありません。

またしても更新までには日数を要するかと思います。どうかご了承くださいますよう・・・。
とにかく、全力を尽くすより他ないのです。「福幸よ」は柴山さんの作曲が熱く楽しいロックですから、それがきっと力になってくれる・・・そう思っています。

週末には『悪名』も始まりますね。観劇されたみなさまのご感想も楽しみにお待ちしております。

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