『OLD GUYS ROCK』

2018年4月 3日 (火)

沢田研二 「屋久島 MAY」

from『OLD GUYS ROCK』、2018

Oldguysrock

1. グショグショ ワッショイ
2. ロイヤル・ピーチ
3. 核なき世界
4. 屋久島 MAY

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こんばんは、熊本城主のDYNAMITEです。
先週あたりからすっかり暖かくなり、僕は季節の変わり目毎度お馴染みの風邪にやられていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

ということで、今年1月14日のジュリー50周年記念LIVE熊本公演に遠征した際、現地・熊本城にて申し込んだ『復興城主プロジェクト』。とりあえず仮の手形だけ発行して貰い、「後日郵送」の正式な城主証を待っている状況でしたが・・・先日遂に届きました!

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いや~、「額でも買おうかな」と思うくらい立派な城主証にテンションが上がりました。
このプロジェクトでは、1万円以上の寄付で誰でも熊本城主になれます。
みなさまも今後熊本を訪れる機会があれば、是非申し込んでみてはいかがでしょうか(現地での申し込みだとその場で写真集も貰えます)。

まぁ、城主証を頂いたとは言え実際には僕は名もなき歩兵ではありますが、これで正式に加藤清正公の配下の者となったわけで、今後は「賤ヶ岳七本槍の中で一番好きなのは福島正則!」と言い辛くなりましたな・・・。


さぁ、『OLD GUYS ROCK』全曲考察シリーズもいよいよラスト1曲となりました。
今日のお題は多くのジュリーファンを仰天させた謎の4曲目「屋久島 MAY」・・・ある意味、収録曲中最も難解なナンバーでしょう。
2003年のシングル『明日は晴れる』に、ジュリーのオリジナル携帯着信メロディー(?)として収録されていた、ということも僕は今年初めて知りました。
ジュリーが何故今年この曲を改めてリメイク、レコーディングし新譜に収録したのか・・・その意図を僕がまるで理解できていないため、今日の記事はあちこちに話が飛びますが(汗)、ご容赦の上おつき合いください。


①ジュリー流「童謡」の中にヒントを探る

僕が生涯で初めて聴いたレコードは・・・3歳か4歳くらいの時、母親が買ってくれた童謡全集でした。
「こがねむし」と「山寺の和尚さん」が特にお気に入りで、その2曲にはなんとなく「怖さ」のようなものも感じつつ(まぁ歌詞は実際とても怖いんですけどね)繰り返し聴いていました。「山寺の和尚さん」なんて今聴くととんでもなくファンキーなロック・ナンバーですが、子供心にはそこまでは分からなかったなぁ。
ふと母親に「あんたは短調の曲が好きみたいだね」と言われて、「短調は悲しい感じ、長調は楽しい感じ」と教わったことをハッキリと覚えています。

「童謡の中に潜む怖さ」で思い出すのが、伝説的テレビ番組『イカ天』にゲスト審査員として出演された大島渚さんがズバリその通りの表現で、3代目グランド・イカ天キング「たま」を絶賛されていたこと。
『イカ天』では5週連続でキングを勝ち抜いたバンドが「グランド・イカ天キング」となりメジャー・デビューを勝ち取るシステムなのですが、その大島さんの言葉が飛び出したのは、「たま」がいよいよ運命の5週目に臨んだ放送回。その時チャレンジャーとなったバンドがあの「マルコシアス・バンプ」(ジュリー絡みでみなさまご存知の秋間経夫さんや佐藤研二さんが在籍)で、ゴリゴリのグラム・ロック「バラが好き」を立て説得力抜群の「マルコシアス・バンプ」に対し、5週目にして番組コンセプトそのものを挑発するかのようにアッと驚く変化球「まちあわせ」を用意した「たま」と、『イカ天』史上に残るハイレベルかつ「まったくタイプの異なる2バンドに敢えて優劣をつける」という審査員泣かせの名対決だったわけです。
結果は、7人の審査員のうち萩原健太さん、吉田建さん、伊藤銀次さんの3人がマルコシアス・バンプに票を投ずるも4対3で「たま」が勝利、5週勝ち抜きを達成します(ちなみに、「このバンドを1週限りの登場とするのは勿体無さ過ぎる」との審査委員長・萩原さんの計らいでマルコシアス・バンプには「暫定イカ天キング」の特例が与えられ、その後暫定週を含めた6週の勝ち抜きにより彼等もグランド・イカ天キングを勝ち取りました)。
この時の4対3の票分けは、「週替わり」の特別審査員に大島さんがいたことが大きかったのですね。
これがもしポンタさんなら、或いはジュリーだったならば、マルコシアス・バンプが逆転していたんじゃないかな。大島さんはマルコシアス・バンプについても絶賛した上で(曲のタイトルを「おまえのバラが好き」にしてくれ、と言いながら大喜び)も、キング対決に限っては「童謡の中に潜む怖さ」を以って「たま」の方を高く評価した、と明言されていました。

で、この放送回での楽曲対決を双方ジュリー・ナンバーで例えるならば、マルコシアス・バンプが「Come On!! Come On!!」(秋間さん繋がりでね)で、「たま」が「屋久島 MAY」といった感じ。
すなわち僕はジュリーの「屋久島 MAY」を、作曲手法からしていかにも「童謡」的だと思っているのです。
こんなことを書くと「ジュリーはロッカーだ、童謡とは何事だ」とお叱りを受けるでしょうが、僕はジュリーの「ロック」を愛しつつも、自らの狭量でそれのみを標榜し本質を見ない、ということはもうやめたのですよ・・・。

そもそも「屋久島 MAY」は2拍子なのですね。これが揺るぎない本質の面です。それはロック的なツービートではなく、童謡独特のもの。しかも日本古来のね。
採譜をすれば明快です。


Yakusimamay

(全編載せるとヤバイので一部のトリミングのみで。ちなみに「ホケキョ」や「ホケキョー」ではなく「ホケキョウ」と表記させているのがいかにもジュリー、という感じで好き!)

そこで僕は、一連の「祈り歌」の中でジュリーが突如この歌を採り上げた収録理由を求め、大島さんに倣って「屋久島 MAY」に「童謡の中に潜む怖さ」を見出そうと、この数日色々な聴き方をしてみました。
でも結局分からない。唯一引っかかるのはノン・クレジットのコーラス隊の存在ですが、荘厳ではあるのだけれど「怖さ」は感じない・・・まだ聴き方が甘いのか、センスが無いんでしょうかねぇ。

頭に浮かぶ光景は、数人の男女がてくてくと林間の山道をゆく姿。「自然への畏怖」・・・今僕はそのくらいしか、曲に込めたジュリーの思いを量れずにいます。
目からウロコなみなさまの解釈、コメントにてお待ちしております(笑)。


②さらに脱線しながら考えてみる

僕は鹿児島出身ですが、屋久島を訪れたことはありません。行ったことのある人は皆「是非」と勧めてくれますからそれは素晴らしいところなのでしょう。

実際にこの目で樹齢2000年とか3000年の屋久杉を見ることが叶えば、その時ジュリーの「屋久島 MAY」の中に「童謡の中に潜む怖さ」を感じられるのかもしれません。2000年以上の生命の前では、人類の欲望のぶつかり合いがいかに愚行であることか・・・そんなふうに思うものなのかなぁ。
それにジュリーの場合だと、かつて見た縄文杉を古稀を迎える年に改めて思い出しながら、「70才?ヒヨッコもいいトコじゃないか!」と考えているとか?

『OLD GUYS ROCK』が福島に捧げられた1枚であることはジャケットが示す通りですが、その中にポンと織り込まれた「屋久島 MAY」にはやはり謎が多いです。
シャクナゲ繋がりで「やくしま」と「ふくしま」を掛けた?
もしかするとLIVEでは「ふくしま」と発音する?
いやいやそれは考えにくいし安易すぎます。そもそも僕は「屋久島 MAY」が古稀ツアーでセトリ入りするかどうかも可能性半々だと考えているのです(演奏上の理由が大きいのですが、それは次のチャプターで)。開演前のBGMに採用かなぁ、とかね。

ただ、4曲入り1枚の作品構成、その楽曲並びにおいて「屋久島 MAY」のようなタイプの意外なタイプの小品で締めくくる、落とすというプロデュースについては幾多のロック名盤に先例があり、大変心地よい、馴染みやすいということは言えるでしょう。
ビートルズなら『アビィ・ロード』の「ハー・マジェスティ」、ウィングスなら『ヴィーナス・アンド・マース』の「クロスロードのテーマ」。邦楽に目を向ければ、佐野元春さんで『Someday』の「サンチャイルドは僕の友達」、杉真理さん『ミストーン』で「タラップにて」。僕は収録ヴァージョンをレコードで持ってはいないけど、ジュリーの「くわえ煙草にて」も加えて良いのかもしれません。
今回の「屋久島 MAY」の場合は、ここまで一連の「祈り歌」が(楽曲的にも演奏的にも)ロックで固められていただけに意外性が高く、「素」のジュリーに聴き手が立ち会えるような・・・ホッとした気持ちになります。

とにかくメロディーが癖になる!ことに尽きます。
僕が今回の新譜で最も好きになった曲は「ロイヤル・ピーチ」ですが、CDを聴いていない仕事中などに頭を駆け巡るのは「屋久島 MAY」の旋律なんですよね。
これ、「五・七・五」じゃないですか。僕は俳句や短歌が大好きですから(毎年カミさんの誕生日には下手な歌を詠んでる笑)、いつの間にやら脳内で自分の好きな句とジュリーのメロディーが合体しちゃって

ひとつ家に~ 遊女も寝たり 萩と月~ ♪

なんて具合に再生されたりとか。
あ、この句は横溝正史さんの『獄門島』の小説や映画で知る人にはおどろおどろしいイメージを持たれていると思いますが、「ええっ寝ちゃうの!?まぁ、こんな月の晩じゃしゃあないか~」と苦笑いしながら娘の寝顔をつまみに一杯やってる芭蕉さん、みたいな絵を想像すると、とても愉快な心温まる名句です!(←なんという失礼な解釈・・・汗)

・・・と、グダグダに話が逸れましたが、結局「屋久島 MAY」の収録理由は僕には分からないまま。
それでも、この歌を聴いていると瑣末な諍い、悩みが馬鹿らしくなるというのは確かにあるんだよなぁ。この穏やかさ、煩悩の無さは一体何だろう。「達観」ともまた違う、独特の自然体。
それは、1曲目から3曲目のシリアスさは何だったの?とすら思ってしまうほど。
ここまで新譜3曲、僕はずいぶん重いことを書いてきましたし、古稀ツアーの編成についてもあれやこれやと・・・。でもそれって、自分自身の心配を紛らそうと勝手にあり得ない妄想を振り撒いたに過ぎないわけで。僕は正に煩悩の人なのですな~。
泰然としたジュリーの本質、ジュリーが「整えた」古稀ツアーの大きな楽しみが、この朴訥なメロディーに表れているのかもしれない、と思い直しています。

本当はボ~ッと聴くのが一番良い曲なのでしょうが、あれこれ考えてしまうのは僕の性質ですかね。


③2本のギターが織り成す神々しさ

新譜への収録意図を量りかねている僕でも、「屋久島 MAY」でのジュリーの歌と柴山さんのギターの音に神々しさを感じることはできます。

実は僕はまだシングル『明日は晴れる』収録の正規ヴァージョン(つまり、完全に信頼に足るピッチでは)聴けていません。でも、You Tubeでチラッと聴いた限りではどうやら当時とはキーを変えてきているようですね。
ジュリーの歌が入るということで、今回のテイクはメロディーの最高音が高い「ミ」の音、最低音が低い「シ」の音と、ジュリーの現在の声域にピタリと嵌るようホ長調の設定ででレコーディングされています。

ギターの音色は、収録曲中一番好きですねぇ。
最初にイントロを聴いた時、「出た~!『世界の昆虫図鑑』に載ってるやつ!」と(笑)。
今回の新譜4曲は
すべて2本のギター・アンサンブルですが、「屋久島 MAY」だけそのミックス配置が異なります。他3曲は2つのギター・トラックが明快に左右に分かれているのに対し、この曲はセンター付近で塊に近い感じ。よく聴くと、それぞれのトラックが微妙に左右に振られていることが分かります。
PAN設定は10時と2時くらいでしょうか。

で、音色自体もここまで3曲がゴリゴリのハード・ロックで来て、最後にガラッと変わる・・・これは柴山さんが使っているギターも他3曲(たぶんSG)とは違う、と僕は聴き取ったわけです。
「10時」(僅かに左のトラック)の方は、例の白いフェスナンデス(しょあ様命名「いい風ギター」、もしくはDYNAMITE命名「『世界の昆虫図鑑』に載ってるやつ」)じゃないですか?先の50周年ツアーで、唯1曲「永遠に」で登場したあれです。
そして「2時」(僅かに右のトラック)の方・・・2番の「屋久島の~♪」の「の」からアルペジオで噛んでくる瞬間が僕は特に好きなんですけど、こちらはテレキャスと見ました。いずれも確証はありませんが・・・。

不思議なコーラス・ワークも相俟ってか、2本のギターがそれぞれになんとも神々しい。
「屋久島 MAY」は、ジュリーが作ったメロディー部についてはワン・コードです(全編「ミ・ソ#・シ」の和音伴奏で通すことが可能)。
ジュリーから「好きに仕上げて良いよ」と言われた柴山さん(妄想)は、幾多の手管、ヴァリエーションを見事ギターだけの表現でこの曲に捧げています。
イントロ、エンディングは単音のみで和音は登場しないんですけど、柴山さんはそこで新たな和音進行を考案し組み立てているに違いなく、それがまた荘厳な想像をかきたてられます。
僕の推測では、柴山さんは単音部で

ソ#~ファ#、ミ~  ラ~ソ#、ファ#~
E                           F#m

シ~ラ、ソ#ファ#ミ~  ラ~、シシ~
G#m                            A         B

シ~ラ、ソ#~  ミ~レ#、ド#~
E                       C#m

ファ#~ミ、レ#ド#シ~  ミ~ ♪
F#m          B                    E

とコードを当てているのではないでしょうか。
実際には鳴っていない音を探す・・・「屋久島 MAY」はそんな楽しみも差し出してくれる曲。もちろんそれは柴山さんの尽力によるものです。

先にちょっと書いたように、僕は今回の新譜からこの「屋久島 MAY」だけは古稀ツアーのセトリ入りの可能性半々、と考えています。
これは僕自身がこの曲をうまく「祈り歌」として溶かし込めていない、という個人的状況に加えて、柴山さんのギターが推測通りフェルナンデスとテレキャスだったら、という点からも言えること。
無限のサスティンが奏でる単音と、吸い付くような鳴りのアルペジオ。CDではその2トラックが重なることなく独立しているとは言え、音色がまるで違います。
まさかLIVEでは2本のギターを構え、一方では背負って、瞬時に取り換えて弾くとか?
柴山さんなら何とかしちゃうのかな。

もしセットリスト入りしたら「HU~」およびリフレイン部の「膝はガクガク、ホ~ホケキョウ♪」に参加したい(笑)と思っていますが、みなさまはどうされますか?


2012年からは毎年、ちょうどジュリーの新譜全曲の記事を書き終える頃に春がやってきます。
でも、今年は春が来る方がかなり早かったなぁ。
先月25日の日曜に川越に行った時は、桜も「もうちょい」な感じだったのに、一昨日に訪れた谷根千の桜スポット、寛永寺近くの上野桜木はもう葉桜に。

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満開の桜を見ることができなかったのは残念でしたが、この後いつもお世話になっている先輩の薫陶を受けて、晴れ晴れと過ごすことができました。
4月に入り、ツアーを待つ僕の気持ちも「屋久島 MAY」のメロディーのような自然体になれた・・・かな?


さて、次回からは自由お題にてまた様々な時代のジュリー・ナンバーを採り上げていきます。
何かテーマがないかと考えて思いついたのは・・・50周年ツアーでは、入場してからのシングルB面BGMが楽しみのひとつでしたよね。その振り返りというわけでもないのですが、次回、次々回とジュリー珠玉のシングルB面を2曲続けて採り上げたいと思います。
その後、今年も加瀬さんの命日にワイルドワンズの曲を書いて・・・そこから先はまだ未定。毎年ジュリーの誕生月6月に開催しているactシリーズ月間も、今年は7~9月あたりにシフトします。
と言うのは、古稀ツアーのセトリ・ネタバレ禁止期間が長くなりそうなのですよ~。なにせYOKO君の初日が10月のさいたまスーパーアリーナですから。
さすがにそこまで長期間こちら本館を留守にするのも何ですからね。セトリに関係なさそうなテーマで色々と更新のネタを考えていかねば・・・。

さて、そのさいたまスーパーアリーナ。
ツアー後半日程のチケット申し込みはまだ先で(5月くらいですかね)、なんとか古稀ツアー最大の箱(現在告知されている中では)、あの広い会場を埋め尽くしたいと思って今は仕事関係など色々な人に声がけ、お誘いを頑張っているんですけど、「平日ど真ん中の水曜日、17時開演」という条件はなかなかハードルが高いようで・・・色よいお返事が頂けません。
僕自身はもちろん有給休暇を申し込みむつもりですし、YOKO君も「職場のカレンダーに今から”腹痛で休み”って書いておくよ!」と言っていましたが(笑)、特にジュリーファンでない人はなかなかそこまではねぇ・・・。もう少し頑張ってみますが。

それでは次回、ジュリー・シングルB面のお題にて。
曲はもう決めています。2015年に書いた「バイバイジェラシー」に続き、『過去記事懺悔やり直し伝授!』カテゴリー2本目の記事となります。
よろしくお願い申し上げます。

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2018年3月27日 (火)

沢田研二 「核なき世界」

from『OLD GUYS ROCK』、2018

Oldguysrock

1. グショグショ ワッショイ
2. ロイヤル・ピーチ
3. 核なき世界
4. 屋久島 MAY

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今ジュリーファンの間で話題となっているのは、果たして古稀ツアーの編成がどうなるかという・・・そもそもバンドなのか?というのは僕も考え込むところで、そりゃあジュリーのLIVEはバンドで聴きたいのだけれど、そもそもそれが先入観なのかもしれませんし。

もし、ギター1本の伴奏のみであのスケジュールを駆けるとなればそれこそ「冒険」ですが、前回記事で書いた通り僕は今の時点では「演奏形態の変化が冒険なのではなく、ジュリーの冒険があって演奏形態が変わる」という考え方です。
だからそれはこの先いかようにも変わる。老人(と敢えて言いますが)2人だけの『OLD GUYS ROCK』で「この民衆の歌が聴こえるか?」と声を上げた「冒険」のスタート地点が今年の3.11新譜リリースだったとすれば、「俺も!俺も!」と自らの意思と志でそこに加わろうと手を挙げる有志のミュージシャンの登場を想像するのは飛躍が過ぎるのでしょうか。

年齢も性別も問わず、志ある者に冒険の道は開かれている。ジュリーは待っているのだ、と考えたい今日この頃なのです。
ジュリーと縁深い凄腕のミュージシャン、たくさんいるじゃないですか。別れたばかりの人も含めて。
大きなリスクも覚悟の上で、「民」のパワーを以って集ってくれたら嬉しい・・・まぁこれは本当に勝手な個人的妄想なんですけどね。
なにせツアー・メンバーの情報がまったく無いものですから、ジュリーファンみなさんそれぞれ、考えるところはあるでしょう。

さて今日は新譜『OLD GUYS ROCK』3曲目、「核なき世界」を採り上げます。収録曲中最も激しく、ハードな曲想のロック・ナンバーです。
志を以って「Yeah!」とジュリーの元に声を上げ集ってくるミュージシャンの今後の登場を妄想しつつ、柴山さんのギター伴奏のみで「冒険」のスタートを切ったジュリーがこの歌に託した思いを考えていきましょう。


①『東京に原発を!』読後30年

大都市の真ん中に APP Yeah!
Em

TOKYOの真ん中に APP Yeah!
Em

よろしく賠償 金と嘘ばらまけイイネ
          A7              C7   B7       E7  Em


(ここではAメロ冒頭2行を「Em」で通した表記としていますが、メロディーに沿ったクリシェ進行の解釈によるコードネームについては、後のチャプター③にて詳しく書きます)

今回「核なき世界」を一聴して僕はまず、ジュリーもきっと読んだであろう1冊の本を思い出しました。
広瀬隆さんの著書『東京に原発を!』。

改めて調べると1981年に初版発行されたようですが、僕がこの本を読んだのは1988年。
何故ハッキリ覚えているかというと、88年夏にRCサクセションの『カバーズ』(反原発、反核を歌った「サマータイム・ブルース」「ラブ・ミー・テンダー」などを収録。この名盤については2013年に書いた「FRIDAYS VOICE」の記事中で詳しく書きましたのでご参照下さい)がリリースされ、自分のバンドの曲作りの相方であるU君(昨年の松戸公演を共にしました)がそのアルバムの影響著しい「FUNK UP!」という詞を書いてきて、僕が曲をつけたことがありました。「FUNK UP」と書いて「反核(はんかっく)!」と発音するというその歌詞では1番、2番、3番に歌い手の「反核!」のフレーズにそれぞれ違った反応をする人物が1人ずつ登場していて、1番に原発建設現場作業員の親方、2番に忌野清志郎さん。そして3番に広瀬隆さんの名前が。その時恥ずかしいことに僕は広瀬さんのお名前を知らず「これは誰?」と。
そこでU君の指南で初めて『東京に原発を!』なる本の存在を知り、後日読んでみたというわけです。88年、冬休みに入って早々のことでした。

本はおそらく幾度かの引越の際紛失してしまったようで現在は手元になく、今では著述細部の記憶に曖昧な部分もありますが、読後の衝撃は今でもまざまざと思い起こすことができます。

当時、深夜のテレビ討論番組などで度々「原発」が議題となっていました。
世間の関心もかなり高かったと思います。
しかし「なんだか怖い。大丈夫なの?」という立地住民の訴えは「識者」のパネリストに「無根拠」と一蹴され、討論では原発自体の是非はほとんど触れられないまま「リスクをどう捉えるか」に終始するパターンが多かったように思い出されます。

広瀬さんの『東京に原発を!』はそのタイトルが示す通り、「そんなに安全だと言うのなら東京に原発を作ったらどうか」との提言を盛り込んだ内容。
当然それは討論番組で幾度も採り上げられましたが、一部の「識者」曰く「悲観論が過ぎる」「どんな発電にもそれぞれリスクはある。何故原発のリスクだけがことさら高いように言われるのか」「広大な敷地を必要とする原発を土地価格の高い都会に作れば、安価で電気を提供できない」といった「正論」の前に旗色は悪いようでした。
ただしその「正論」とは、いわゆる『安全神話』の元で語られる場合においてのみの正論であったことが、2011年のあの過酷な事故で浮き彫りになったのです。

当時、僕自身も含めて大多数の視聴者は、「識者」が振りかざす「正論」を「なるほど、言われてみればそんなものかな」と考え、広瀬さんが著作内で記した「もし事故が起こったら」とのシュミレーション部は「悲観論」であると思い込まされました。
その広瀬さんのシュミレーション中「最悪から2番目の事態」・・・具体的には「電源喪失による冷却システムの崩壊、それにより引き起こされるメルト・ダウン」が東日本大震災時に現実となって初めて、僕らは彼等の「正論」が実は『安全神話』を鵜呑みにした机上の空論に過ぎなかったことを思い知ります。
参考までに書いておきますと、広瀬さんが提示したそれ以上の「最悪の事態」とは「大爆発」です。30年前に読んだ時は「SFみたいな話だな」と感じたものでしたが、それは充分起こり得ることなのだ、と今となっては認識を改めるしかありません。

『東京で原発を!』は、あの震災直後再び話題の本となり店頭の品切が続出したのだそうです。
ジュリーはこの本をいつ読んだのでしょうか。
「核なき世界」冒頭のフレーズから読んでいることだけは間違いなさそうですが、それがずっと以前なのか、震災後なのかは分かりません。とにかく僕はこの歌で、ちょうど30年前に読んでいた『東京に原発を!』を思い出し、当時の自分に「何故恐れない?」と問いかけたい気持ちに駆られました。

ハッキリ言えるのは、30年前に幅をきかせていた邪な「正論」の一例・・・「東京に原発など作れば、万一にも事故が起こった際の周辺地の人々のパニックは地方の比ではない」という、一見「リスク論」ともとれるこの言葉が、「あの震災が東北で良かった」などという某政治家の発言と同レベルの無責任極まりない暴言であったのだということ。
僕らは今こそ机上の空論に惑わされず、福島で起こってしまったことに自らの意思でKURIOSを持たなければなりません。
ここまでが、ジュリーの「核なき世界」を紐解くにあたっての大前提だと僕は考えています。


②民衆の歌が聴こえるか?

前チャプターで原発のことを書きましたが、この曲のテーマはそれのみには止まりません。
ジュリーは誰に向かってどのような立場で、何を思い歌っているのか・・・ここではジュリーの詞について掘り下げていきたいと思います。

怒髪天、ジュリー。
しかし、「限 界 臨 界」「un democratic love」「犀か象」などについても言えるように、ジュリーの「怒り」の詞には、「歌である」故の独特の間合いがあり、僕はそこに、テーマや文字数(曲先ですから)を絞った時に発揮されるジュリーの詩人の資質、才を見ます。
だからこそ、その怒りが何に対してのものなのか、急所は何処か、を考えなければならないでしょう。

ここでの「核なき世界」のタイトルは、「まず”核なき世界”なる言葉を安売りするかのように弄している人」への糾弾ではないでしょうか。

核なき世界 嘘果せても 逃げ果せても
A7                                          B♭7  E7-5

ジュリーの怒りのとっかかりは、昨年7月に国連本部の条約交渉会議にて世界122か国の賛成を以って採択された『核兵器禁止条約』への、わが国の会議不参加に対して向けられたと僕は推測します。
一見、反原発に集約されたかのように仕上がった詞ですが、根っこはそこかなぁと。
でなければ、歌の最後に畳みかけられる

傘が命を護りはしない 傘が自由を縛り続け
E7         G                 A               C

ここが繋がってきませんからね。

もちろん、採択された前述の条約についても広く様々な考え方があります。ご存知の通り、既存の『核兵器不拡散条約』上国際的に核保有が認められている国はすべて同条約には不参加。また『核兵器不拡散条約』に参加していない事実上の核保有国も同様です。つまり、現在「核」を持たない国だけが今後それを保有しない、イコール核保有国については永遠にそれを認めてしまう、という空虚な宣言に終わる可能性を指摘、懸念する考え方があり、建前上日本はその点を重視しつつ同時に米国の顔色を窺ったことになります。
しかし、それがいかに「現実的」であろうとなかろうと、序文に「ヒバクシャの苦痛」が明記され、核兵器廃絶を願うこの条約に他でもない日本がまったくそっぽを向くというのは僕には納得がいきません。

ジュリー歌詞中の「傘」は当然アメリカの核の傘のこと。「反核」を堂々と声に出すことが「自由」であるならば、その自由を今縛り奪っているものは何なのか。
2012年、ジュリーは「F.A.P.P」で「何を護るのだ国は」と歌いましたが、遂に今年の新曲「核なき世界」では「国はみんなを護りはしない」まで達してしまいました。
何故そこまで断じられるのか・・・今、福島に刮目すれば分かるだろう、とジュリーは歌っています。
「よろしく賠償」「丸投げ」な国を見れば。
それが「FUKUSHIMAの真ん中にKURIOSを」に表れているのではないでしょうか。

この国の仕打ちを恥ずかしく思う、愛すべき国を恥じねばならないそんな気持ちを忍んで、「恥を承知」で僕ら自身=「みんな」で護れ、と。「みんな」は「民」であり、「護る」ものは「非核」「不戦」でしょう。
僕は前記事で、あれほどの事故が起こったのだから「反原発」は思想でもなんでもなく当然のことだ、と自分の考えを書きました。いわんや「核兵器」において日本人がそれを忘れ、ましてや逃げてどうするのだ、という憤りがあります。
今後万一、ひとたびでも世界の何処かで核兵器が使用されれば、誰が勝つとか負けるとか、国力が上だとか下だとか、そんな蛮勇の自己満足はなんら意味を持たず、残るのは永遠の苦しみと悲しみだけです。

「核なき世界」とは政治的な詭弁で使うような言葉ではなく、それが真にどういう世界なのかを聴き手が想像することをこの歌は望んでいるように感じます。
本末転倒な「自衛のため」の核保有による国際的孤立の悪夢を将来この国に見させてはいけない、との思い。その思いを成すのは今、国ではなく民である・・・これは僕個人の考え方ですが、ジュリーの「核なき世界」の詞にきっとリンクしていると思っています。
ですから僕はやはりこの曲を、ジュリーが「民」として歌う「democratic Japan」のコンセプト・ナンバーとして考えたいのです。
「民の歌が聴こえるか?」とジュリーに問われているのは僕らひとりひとり。
これはそのまま夏からのツアーでジュリーの「冒険」のテーマとなる、と予想しますがいかがでしょうか。

あと、「詞」の考察と絡めて書いておきたいのは、このような重いテーマで過激なフレーズを叩きつける、畳みかけるジュリーの滑舌の素晴らしさです。
決してメロディーに載せて歌い易い語感の詞ではないと思いますが、ジュリーにかかればこの通り。
発音がしっかり聴きとれるからこそ生きてくるフレーズ。例えば「よろしく賠償」なんて、「カッコイイ」と言ってしまうのは躊躇われるほど痛烈な表現ではありますが、それでもカッコイイものはカッコイイんですよねぇ。


③2人のギタリスト、作曲解釈の一致

2018年、ジュリーが新譜製作に向けて作曲を依頼したのは2人のギタリストでした。柴山さんは言うまでもありませんが、昨年の「ISONOMIA」「揺るぎない優しさ」に引き続いて白井さんが今年も1曲、この「核なき世界」を作曲しています。
ジュリーは今回も作曲者に「PRAY FOR JAPANをテーマに作って欲しい」とサジェスチョンしたはず。
依頼を受けた「OLD GUYS」なギター弾きである柴山さん、白井さんの2人は(ジュリーの詞が載る前の時点で)具体的にどのようなイメージでそのテーマに取り組んだのでしょうか。

柴山さんはそれぞれタイプの異なる2曲を提供していますから想像し易い。尖ったハード・ロックの「グショグショ ワッショイ」が「怒り」「衝動」、優しいメロディーのバラード「ロイヤル・ピーチ」は「平和」「自由」でしょうか。
では白井さんは・・・?僕は今回も新譜全曲を採譜してみて、不思議な偶然(いや、「必然」かな?)に気がつきハッと驚きました。


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「怒り」や「激しい衝動」を自作曲に反映させようという時、ギタリストはどうやら王道から一瞬外れてでも、ハードに尖った進行を挿し込んでくるようです。
まずは柴山さんの「グショグショ ワッショイ」での「怒り」の進行をおさらいしてみましょう。

鎮魂の歌は 止まず
E     G    A   C    

前々記事で書いた通り、これが「E→G→A→B」なら王道、しかしここでは「C」が尖りまくっています。
そして白井さんの「核なき世界」。

国はみんなを護りはしない 何も政治は護れやしない
E7               G                  A              C

何とこの曲のサビ部は、「グショグシ ョワッショイ」Aメロ部とまったく同じ進行。
ポイントは「C」コードの変則的な採用です。
もちろん載せたメロディーは全然違いますし、「グショグショ ワッショイ」はホ長調、「核なき世界」はホ短調と同主音ながらキーも異なります。ただ、主音が通常チューニングの6弦ギターで表現可能な最重低音である6弦の「ミ」を強烈に押し出していること、そこから激しいストローク、カッティングでコード展開させていること・・・今回の「核なき世界」で白井さんは、『PRAY FOR JAPAN』のテーマから「怒り」を採り上げ、それが柴山さんの作曲手法とも一致したものと考えられます。
柴山さんもレコーディングに向けて白井さんのデモを聴いた時、「おっ!」と思ったんじゃないかな。

白井さんのジュリーへの提供曲はどれもそうですが、メロディーとギター・フレーズを馴染ませる発想、構築の過程までをも感じさせてくれる・・・「核なき世界」もそんな1曲です。
例えばAメロ。最終的に仕上がった音源では柴山さんが「Em」のヴァリエーションで通しています。ただ、メロディー・ラインまで加味してコード・ネームを当てるならば、チャプター①で記したものとは別に

大都市の真ん中に APP   Yeah!
Em7       Em6         C(onE)  Em

と解釈できるでしょう。この進行はイントロではハッキリとそのまま再現されていますから、白井さんのデモ段階ではギター・トラックがイントロ、Aメロ(の最初の2行)と同じ弾き方だったかもしれません。
柴山さんが「心得た!」とばかりにさらに激しいアレンジを押し進めたのではないでしょうか。

ちなみにこの進行、「ロイヤル・ピーチ」のそれとは真逆の下降型のクリシェ。トニック「ミ・ソ・シ」の和音に足された音が「レ」(Em7)→「ド#」(Em6)→「ド」(ConE)と半音ずつ変化してゆきます。
「ロイヤル・ピーチ」の記事で「クリシェは胸キュン進行の代表格」と書いたばかりなんですけど、「核なき世界」の場合は癒される進行と言うより「勇壮」「冒険」的なイメージ。当然「怒り」の要素もあるでしょう。
僕がこのパターンのクリシェを最初に覚えた曲は、他でもない井上バンド、大野さん作曲の『太陽にほえろ!』挿入曲、タイトルもズバリ!な「冒険のテーマ」(のちに「ボンボン刑事のテーマ」)でしたね(
こちら)。

柴山さんの激しくかき鳴らすストロークで、LIVE映えは約束されたも同然のこの曲・・・個人的に演奏のイチオシ箇所はエンディングのフィードバックです。
柴山さんは、白井さんがこういう曲を出して来なかったら「グショグショ ワッショイ」の方をフィードバックで終わらせたかったと思うんですよ。
それを白井さんの曲のために譲る、というのが柴山さんの奥ゆかしい、素晴らしい人柄を思わせるようで、この重いテーマにも関わらず僕は爽快な気持ちで「核なき世界」を聴き終えることができます。
今、新たな「冒険」に打って出たジュリーの傍に柴山さんがいることの安心感を感じずにはいられません。
僕はその上で「OLD GUYS ROCK」のこの先の道、ジュリーと意を重ねる有志の登場に期待したいです。


それでは次回更新で今年の新譜『OLD GUYS ROCK』考察シリーズもラストです。
ただ、4曲目収録の「屋久島 MAY」・・・果たして「考察」っぽい内容で書くことができますかどうか(汗)。
柴山さんのギターについては語るところが多いとは言え、ジュリーが今この曲を採り上げた動機を考える、となると僕はお手上げ状態です。
2003年リリースのシングル『明日は晴れる』にジュリーが自作の着信音として作曲、収録していたらしいのですが、何故今になってこの一連の「祈り歌」の中に改めて組み込まれることになったのか。ジュリーがLIVEで教えてくれない限り、僕の頭ではその理由はこの先永久に分からないままでしょう。

そんな中で言えることは、今回の新譜のラストがこの曲でホッとする、暖かい気持ちになるということ。きっとみなさまもそうでしょう。
ジュリーが作った2拍子の朴訥なメロディーは、不思議に癖になります。
あまり深く考え込まず、感じたままにのんびりとした記事にしたい・・・今年この曲に限ってはそれがふさわしいように思います。


みなさまお住まいの地では、桜は咲きましたか?
こちらは、日曜日に花見のつもりで張り切って川越まで出かけたんですけど、新河岸川沿いの桜はまだこれからというところでした(都内は既に満開だったらしいのですが)。
でも今朝通りかかった公園はこんな感じに。

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しばらく暖かい日が続きそうで、「屋久島 MAY」を繰り返し聴くには良い気候です。
陽気モードで頑張ってみようか、と思っています!

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2018年3月19日 (月)

沢田研二 「ロイヤル・ピーチ」

from『OLD GUYS ROCK』、2018

Oldguysrock

1. グショグショ ワッショイ
2. ロイヤル・ピーチ
3. 核なき世界
4. 屋久島 MAY

--------------------

考え過ぎだ、とほとんどの方は思われるでしょうが・・・ジュリーのLIVEに参加し続けてきてここ最近、気になっていることがあります。

ステージ最初のMC時に半ば恒例となっているジュリーの「上機嫌でつとめます」。ご存知の通り、最初にそういう挨拶が始まってのち、それを言わない時期も少しの間だけありましたよね。
では、どういう時に言って、どういう時に言わないのか・・・それが僕には、この愛する国の社会の動きと連動している気がしてならないのです。
もちろんジュリーの「上機嫌」という言葉に他意を感じているわけではありません。「上機嫌」はそのまま「上機嫌」「ごきげん」です。
ただし、その前に無言の「こんな世の中ですが」とか、「我慢ならないことも多々ありますが」といった枕が隠れているんじゃないかなぁ、と。

前回「グショグショ ワッショイ」の記事を書き終えてから、先輩から頂いたコメントやメールを拝見したり、改めて「演奏スタイル」「コード進行」などからいったん離れてじっくり新譜を聴き込んでいるうち、古稀ツアーに向けてのジュリーの「冒険がしたい」の意を僕は安易に捉え過ぎていたかもしれない、と考え始めました。
昨年末のフェスでバンドの解散に触れた際、「まだまだ冒険がしたいんです」ばかりでなく「ごめんなさい」とまでジュリーは言ったと聞きました。
それは「僕のわがままでこういうことになった」ということなのでしょうか。ならば、僕はバンドのことでショックを受けるあまり、ジュリーの「冒険」について考える起点を完全に誤っていました。
演奏スタイルを変えることが「冒険」なのではない、「冒険」のために演奏スタイルが変わる。そういう順序で考えなければいけなかった・・・とすれば。

いよいよやる気か、ジュリー。
覚悟を固めたのか。

大きな会場で、一生懸命歌う姿を晒し、礎石の志を一層広く世間に示そうと。
本当に届けなければいけない所・・・身をもって考えて貰わねばならない連中にも聞こえる場所まで。その本丸にまで花束をもって「祈り歌」を届けようと。

ジュリーの「派手にやりたい」の本意・・・しょせん僕の考えることですから見当外れなのだろう、とは思いつつも。大きな期待と、そして大きな心配が半々です。
ジュリーのようなビッグネームがそれをすれば、一部の心無い非難や中傷、反発、ことによると妨害すらまぬがれません。今までの比じゃあない。

だから・・・なのでしょうか。
この先将来のある、まだまだ若いバンドメンバーを巻き込まないようにしたのでしょうか。
一心同体の柴山さんと2人で『OLD GUYS ROCK』の道をゆくと決めた・・・のでしょうか。

「それでこそ僕が惚れたジュリーだ!」と誇る気持ちもあれば、誰かに「ヒヨッコの分際で考え過ぎですよ」と笑い飛ばして欲しい気持ちもあります。
いずれにしても、ツアー開幕を待つしかありません。
7月までは本当に長いですね。


改めてジャケットのシャクナゲの花を考えます。
今年の新譜が、福島に捧げられた1枚であることを。
そうなると一層分からないのが4曲目「屋久島 MAY」の収録理由で、僕の頼りない感性で思いつけるのは、「癒しの小品で落とす」という世のロック名盤を踏襲したとか、「やくしま」と「ふくしま」を掛けたのではないかとか、説得力皆無なものばかり。まぁ「屋久島 MAY」の考察記事までもう少し考えてみたいと思います。

今日採り上げるのは2曲目「ロイヤル・ピーチ」。
今年の新譜考察シリーズは、1曲目「グショグショワッショイ」を底の浅い考えのまま更新してしまい、悔いの残るスタートとなりました。
ここから巻き返します。前記事の反省も踏まえ、気合を入れ直して踏み込みます!


①福島の桃の話

僕は果物全般好きですが、特に子供時代からずっと好きな果物がイチゴと桃。
しかし独身時代が長く、イチゴはしょっちゅう買って食べていましたが桃はめったに口にできませんでした。自力で皮を剥けないのです(恥)。

その後結婚して家に皮を剥いてくれる人ができたので、毎年たくさん食べられるようになりました。
ここ数年は福島の桃をよく食べています。当たり前のことです。おいしくて、しかも安いのですから。
何故これほどおいしい桃が、他県産のそれと比べて(未だに)こうも価格が安いのか。そこに思い及ばない人は想像力の欠片も無い、と言わざるを得ません。

2014年でしたか、ジュリーとも縁深い糸井重里さんがインスタか何かで福島産の桃をどっさり購入している写真を投稿したところ、酷い誹謗中傷が相次いだというニュースを読んだことがあります。
「何ベクレル?」という低レベルなひやかしはそれでもまだマシな方で、いかにも物知り風に「桃はいたむのが早いので、出荷前の1回しか検査をしていない」などと事実無根のデマまでもが横行する始末。
糸井さんは「何度も丁寧に検査を重ね出荷している生産者の努力をバカにするのか」と激怒されました。

今年の新譜『OLD GUYS ROCK』リリース情報解禁より少し前、JASRACさんの新規登録でジュリーの新曲らしき楽曲タイトルを見た時、僕はいったん「ロイヤル・ピーチ」の「PEACH」を「BEACH」と読んでしまい、「沖縄の歌かな?ジュリーは50周年ツアーで沖縄行ってるしな~」などと見当違いなことを考えました。
「柴山さんが作曲してるみたいですよ!」ということで、取り急ぎ普段から仲良くしてくださるカズラーの先輩お2人に速攻お知らせして、そのやりとりの中で「ロイヤル・ピーチ」の話になり、ぴょんた姉さんに「Pだよ?」と勘違いを修正頂いたわけですが、そもそも僕は「ロイヤル・ピーチ」なる言葉を知らなかったんです。
調べると、福島の桃が出てきました。伊達産の桃が皇室に献上されている、ということも初めて知りました。

伊達市は、プロのタブラ奏者であり昨年の松戸公演を共に参加した僕の長年の友人、S君の故郷です。
彼はあの震災後すぐに故郷のお父さんを亡くしました。原発事故や津波とは直接の関係はありませんが、震災の心労が色濃かったと言います。S君は、当時「ホット・スポット」なる言葉で取り沙汰されることが多かった伊達にひとり残されたお母さんを案じて東京での同居案を申し出たそうですが、お母さんはお父さんが眠る故郷の地に留まる道を選択されました。

あれほどの過酷な事故が起こった以上、僕は「反原発」なんて理屈抜きに当然のことだと思っています。それは思想でもなんでもない。
ただし現実は、世の人々がそこに社会的な思想を見、標榜する、喧伝する、対立するという構図が生まれてしまっています。ですからあの震災後に福島のことを語る時、僕は自分が「反原発」以前に「反差別」である、とハッキリ言っておかねばなりません。
ジュリーが選挙応援演説までした某議員に当初マイナスのイメージを抱いたのは、その点で「自分やジュリーとはずいぶん違う考えなんじゃないか」という引っかかりを感じていたからです。
だからと言って、何故言い争わなければならないのか。僕にはできない、と悶々とした・・・それが2012年『3月8日の雲』リリースから晩夏に至るまでの半年間。
「ジュリーも差別側なのだ」と誤解してしまった福島の先輩とずっとやりとりをしながら、僕は自らの反論をすべて押し殺し、ただただお話を聞くことしかできませんでした。まったくの無力でした。
その経験が僕の中で絶対に譲れない「反差別」の強い気持ちに繋がっています。

その先輩は鉄人バンドの中で下山さんのことが特に好きだったのですが、今回「ロイヤル・ピーチ」のタイトルを知った時、僕はまず下山さんが以前ブログに書いていらした桃の話を思い出しました。
下山さんのお友達に桃を作っている人がいて、事故後「もう桃作りをやめてしまおうか」と悩んでいました。下山さんが「俺が食いたいんだ。来年もお前の作った桃を俺に食わせろ」とぶつかっていくと、お友達は「ほんとけ?」と言ったのだそうです。
このお友達の言葉にこそ、根深い核心があります。「福島で作った桃を、お前は食べたいのか?食べてくれるのか?」ということなのでしょうから。

7年が経った今でも「食べる奴がいるから出荷されるんだ、食べるのをやめろ」などという声があるのは酷い話です。いや、僕なぞは「酷い話だ」と言うだけで済むけれど、生産者の方々はどんな気持ちでいるのか。
こんな状況でも「原発事故による精神的苦痛」に対する賠償を7年目で打ち切ると言うのか。東電、そして「よろしく賠償、(東電に)丸投げイイネ」な政府は。
誰が何を言おうと、僕は今年もまた福島の桃をおいしくいただきます。


②近い「あの世」と遠い「この世」


前回も書きましたが、僕はジュリーの「この世からあの世はどうしようもなく遠い、でもあの世からこの世はすぐ近くなんだ」という考え方がとても好きです。
「あの世」の人は、思い立てばひょいとこの世にやってきて何かを残してくれる。この世の人は普段はそのことに気づけずにいるけど、ふとした瞬間に「あっ?」と感じることがある・・・僕は「ロイヤル・ピーチ」もそんな歌のひとつだと思っています。

僕は今回の新譜4曲の中で圧倒的にこの「ロイヤル・ピーチ」が好きになりました。
周囲にもそう仰るジュリーファンは多いのですが、みなさんこの歌の「優しさ」をとても前向きに聴いていらっしゃるようです。僕はその点がちょっと違って、どうしようもなく辛い歌だ、と感じます。
辛い歌だけど「大好き」だと言える・・・『三年想いよ』で「櫻舗道」を聴いた時を思い出します。「好き」のベクトルがよく似ているのです。
あくまでも少数派、個人的な解釈となりますが、このチャプターでは「ロイヤル・ピーチ」のジュリーの詞について書いていきたいと思います。

もう しあわせも もう かなしみも
  C               E♭  C               E♭

もう あきらめも  笑  う
  C               B♭ Am7  Dsus4   D

サビの最後に登場する「笑う」が、僕の歌詞解釈とみなさまのそれとの分かれ道になるでしょう。
「明るく笑い飛ばしてしまおう」というのがおそらく多数派ではないでしょうか。しかし僕はこの「笑う」を、歌の主人公の「無力感」の象徴と見ます。

先に、福島の桃のことを書きました。僕が毎年食べている桃は生産者の方々の懸命の努力、丁寧な検査を経て出荷されたものだと考えた時、想像は「僕らの目には触れない、出荷できなかった桃も中にはあるのだろう」という点に至ります。
それでも、あのような事故が起こってしまったのに、無事出荷できる桃が今年も実る。奇跡のような不思議な力によって育っている。その力とは何なのか。

この歌に登場する「君」と主人公は、共に桃作りをしていた夫婦だったのだろうと僕は考えます。
しかし奥様の方があの震災後(或いは震災で)亡くなられた・・・主人公は心折れそうになりながらも桃作りをやめなかった。酷い風評被害に苦しみ、その中で懸命に頑張り、今年も胸を張って出荷できる桃が育つ。
でも、自分では同じように育てているのに、中には出荷できないものもあるかもしれない。
どうしたら、すべてを無事出荷できるような桃に育てられるのだろう?

不思議なことだろ 近いあの世から
Em      D         G  C     Bm        Am7

何かを   使って   育てて くれてる
D    E♭dim   Em  D6  C    Bm Am7  D

「あの世」の君が不思議な力で手を貸してくれているから、この立派な桃ができるのだ、と。
それしかあり得ない、と。
自分もそんな不思議な力を持っていれば当然その力を使ってすべての桃を作る・・・でも。

術はありはしない 頑張る  しかない
D    E♭dim  Em    C    Bm   Am7   D

曲中、寂寥のディミニッシュ・コードが採り入れられているBメロのこ箇所に、ジュリーの「何かを使って」と共に「術はありはしない」の切ない詞は載りました。
「この世」に住む自分はその不思議な力を持たない。「君」が時々助けてくれるけど、自分自身は無力。
だから、ただひたすら頑張るより他に術はない。

先述した糸井さんの怒りは、そんな「頑張る」被災者をバカにするような一部の心無い、想像力を持たない人達に向けられたものです。ジュリーが2015年にリリースした「限 界 臨 界」で歌った怒りと同じです。
そう考えるとやはり「ロイヤル・ピーチ」は辛い、切ない歌だと僕には思えてなりません。

この解釈が正しいかどうかの自信はありません。
でも僕は未だこの詞に「明るさ」は見出せない。だからこそ愛おしい。ジュリーの心を感じるから歌もこんなに美しい、大好きだ、と思っています。
これから咲こうという花、実ろうという果実に「あの世」からの便りを感じ、「この世」の無力を想い、笑う・・・それが僕の聴きとっている「ロイヤル・ピーチ」。
みなさまのお考えはどうでしょうか。



③王道にして斬新、珠玉の柴山バラード!


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美しいバラードを、ディストーションの効いたエレキで歌うOLD GUYS ROCK。
前回「グショグショ ワッショイ」の記事では、柴山さんの尖ったロックな変則進行について多くを書きました。では「ロイヤル・ピーチ」はどうでしょうか。

斬新な転調、目眩めく展開。いかにもギタリストらしい緻密な作曲という点では同じです。
ただしこの曲の場合は、Aメロ、Bメロ、サビのヴァースを独立させて紐解くと、それぞれキャッチーでおいしい「王道」進行が盛り込まれていることが分かります。
その繋ぎ目、つまり曲想の展開のさせ方が柴山さんの工夫であり、斬新なアイデアなのですね。

王道の進行となれば当然、世に同じ理屈の進行を擁する曲は幾多あるわけです。
まずはAメロ。キーはト長調。

君の育て  た桃  花もうすぐ咲き
G     Gaug   G6 G7  Am    F        D

ここは「胸キュン進行」の代表格と言えるクリシェです。クリシェというのは、ある同じ和音を続けてゆく中で、一定の間隔で半音ずつ変化する音を足してゆくという進行。下降型と上昇型があり、ジュリー関連で下降型を用いた曲は「僕のマリー」「愛はもう偽り」「緑色の部屋」「Uncle Donald」など。上昇型では「I'M IN BLUE」「涙のhappy new year」「渚でシャララ」そして柴山さん作曲の「Fridays Voice」などが挙げられます。
「ロイヤル・ピーチ」のAメロはト長調のトニック「ソ・シ・レ」の和音から「レ」の音を起点として、「レ#」(Gaug)「ミ」(G6)「ファ」(G7)の音が足されていきます。
上昇型のクリシェですね。

Bメロがまた美しい王道進行。
冒頭の「不思議なことだろ 近いあの世から」のメロディーに、「さよならを待たせて」を連想したジュリーファンは多いのではないでしょうか。
Aメロとの繋がりは調号の変化こそ登場しませんが、最初のコードがメジャー(G)ではなくマイナー(Em)です。その点が「さよならを待たせて」と異なり、AメロとBメロを大きくひとつとして捉えた際の「移旋」のニュアンスを持つ繋がりであると言えます。

サビは明快に転調し、キーは変ロ長調。

もう 花びら が  花びらが 舞うよ
B♭ F(onA)  Gm  F        E♭B♭ A♭  F

「舞うよ」の「よ」の和音でタイガースの「スマイル・フォー・ミー」を連想された方はいらっしゃるかなぁ。
そこまで行かなくても、有名なスタンダートの名曲「翼をください」から「とんでゆきたいよ」の箇所を思い出した、という方は?
すなわちこれもまた王道なのです。このように、「王道」の美しさが随所に散りばめられた進行なのに、それぞれの繋がりがひと筋縄ではいかない、というのが柴山さんの本領発揮、入魂度の高さと見るべきでしょう。

また間奏のソロ(「グショグショ ワッショイ」同様この曲も、2本のエレキギターの重ね録りであるにも関わらず単音ソロ部にリズム・バッキングはありません。あくまで「ギター1本での再現」を見据えたアレンジです)は、歌メロ部とは別の進行が考案されています。
Em→Bmの響きは、ウィングスの「ピカソの遺言」みたいで個人的にはとても好きな進行です。

採譜していて「あれっ?」と思ったのはキー設定。メロディーの最高音が高い「ミ」の音、最低音は低い「ソ」の音で、これはジュリーの現在の声域と照らし合わせるとかなり低めです。
最低音の「ソ」は1番で言うと「近いあの世から」の「か」の部分。「グショグショ ワッショイ」での「ラ」や「FRIDAYS VOICE」での「ソ#」よりもさらに低く、僕が把握している限りジュリー史上最も低い音なのです。
それでもジュリーが何ら苦にせず歌えているのは本当に凄いことですが(僕自身は低音は「ラ」までしか出せません)、「歌い易さ」だけを考えると最高を「ファ#」、最低を「ラ」、つまりイ長調で設定した方が適正だったはず。それに、柴山さんの作曲も最初はイ長調だった可能性が高い。クリシェ部、転調部含めてその方がフォームの移動が自然ですから。
では何故この低いキー設定に?

これは、ジュリーがこの曲を「力を入れて高いメロディーを朗々と歌い上げるような発声はしたくない」と考えたからではないでしょうか。
実際ジュリーのヴォーカルは、囁くように淡々と、そして優しい歌い方です。とすれば最高音が登場するAメロ「ロイヤル・ピーチ」の「ル」の発声、ここがしっくりくるかどうか、がジュリーの基準となったでしょう。
この歌い方は、ジュリー・ヴォーカルの語尾テクニックとしてはレアな「抜く」感じの発声で特に美しく迫ってきます。具体的には「花もうすぐ咲き」の「き」や、「語りかける桃」の最後の「も」です。
2音に分かれる1文字のメロディー、その2音目をフッと抜いているんですよね。それが切なく優しい声、詞とメロディーだからこそ、激しく胸を打たれます。

演奏面で僕が惹きつけられるのは、2本のギター・トラックで右サイドがアルペジオ、左サイドがコード・バッキングと分かれる箇所です。
この曲が古稀ツアーでギター1本の伴奏で再現されるなら、柴山さんがどちらのパートを採用するのかも大きな注目ポイントでしょう。楽しみです!


先の日曜日、桜が開花するかもしれないとの話もあり雑司が谷近辺の散策に出かけましたが、桜はまだまだという感じでした。
こちらは気温も今週半ば冬に逆戻りするらしく、体調に気をつけながら、再び暖かくなるという週末の開花を楽しみに待つことになりそうです。
みなさまお住まいの地はいかがでしょうか。

それでは次回お題は「核なき世界」です。
直球と言えばそうですが、ジュリーらしい暗喩、痛烈な皮肉も数多く散りばめられていて、こういう詞にこそジュリーの「怒髪天」を見る思いがします。

今年も僕のジュリー道の師匠の先輩から新譜の感想メールを頂きまして、「核なき世界」は収録曲中唯一、先輩と僕の歌詞解釈がピタリと合っていた曲。
先輩の感想は「ロイヤル・ピーチ」については僕のそれとはかなり違っていて、「僕はやっぱり考え過ぎなのかなぁ」と思いましたし、「グショグショ ワッショイ」にいたっては、先輩は僕の考察記事を読んでくださった後でハッキリ、「全然違う~」と呆れ笑っていらっしゃいました(今はあの記事を恥ずかしく思っています)。
でも、「核なき世界」はそんな先輩とも「護る」「恥」などキーワードの解釈がまったく同じでした。今日以上に「踏み込んだ」考察が必要な曲だけに、大変心強く思っているところです。
引き続き頑張ります!

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2018年3月14日 (水)

沢田研二 「グショグショ ワッショイ」

from『OLD GUYS ROCK』、2018

Oldguysrock

1. グショグショ ワッショイ
2. ロイヤル・ピーチ
3. 核なき世界
4. 屋久島 MAY

--------------------

さぁ、今年も気合入れてジュリーの新譜全曲の楽曲考察に取り組みます。
2018年、変わらぬ「祈り歌」の新譜はタイトルもズバリ!な『OLD GUYS ROCK』。カッコイイですねぇ。
通勤途中、帰宅後・・・聴きまくっています。
これがジュリーの、何者にも縛られない渾身の新譜。今、「祈り歌」こそがジュリーの自由なロック。
何故なら、ジュリーが「祈り歌」をやめる時があるとすれば、それは正にジュリーの自由が奪われた時だからです。そんなことがあってはなりませんが、もしその時が来たら、「自由を奪われる」という事態は僕ら一般人ひとりひとりにも等しく起こります。
「この国はそこに向かってしまうのではないか」との不安は、ジュリーが3月11日にリリースする毎年の新譜が蹴散らしてくれます。僕自身の自由もこの手の中にある、と思えます。これまでも、これからも、ジュリーが歌い続ける限りそうであって欲しい・・・。
新譜リリース情報が例年に比べ遅かった今年、「もしかしたらジュリーは祈り歌の創作に区切りをつけてしまったのでは」などとあり得ないことを一瞬でも考えてしまった自分をひたすら恥じています。

いやぁそれにしても、ガツンと来るメッセージは毎年のことながら、今年はまさかの演奏形態に衝撃を受けました。みなさまも同様でしょう。「そう来たか!」と。
本当にジュリーは僕らの安易な「常識」「想定」などひと跳びに越えてゆきますね。

収録4曲すべて、エレキギター2本の重ね録り。伴奏はたったそれだけ。
しかも、2トラックであるにも関わらず単音ソロ部のリズム・バッキングを敢えて挿し込まず、「ギター1本あれば、いつでも、どこでも完璧に再現できる」アレンジおよびミックスとなっています。
ですから多くのジュリーファンのみなさまが「今回の新譜の伴奏はギター1本」と捉えていらっしゃるのはごくごく自然なこと。どちらかと言えば、聴き始めてすぐに2本のギターの振分けを確認してしまう僕の耳の方がどうかしているのです(笑)。

「新譜に一気2曲の提供」は、ジュリーと共に歩んできた長い道のりの中でも今年が初めてのこととなる柴山さん。その柴山さん作曲による収録冒頭の2曲でジュリーは、それぞれアプローチこそ違いますが共通のテーマに基づく詞を載せてきました。

震災で亡くなられた人と、今生きている人。
彼岸と此岸を繋ぐもの。

「この世」から「あの世」まではどうしようもなく遠い。逆に「あの世」から「この世」は近いんだ、すぐそこなんだ、というジュリーの考え方が僕はとても好きです。
「この世」にいる僕らは、「あの世」からひょい、と自分のそばに来てくれている人に普通は気づけません。でもふとした時に「あれっ?」と思える瞬間がある・・・そうすると、その人を想う悲しみの中から勇気が沸いてきて、立ち上がれる。頑張れる。
今年の柴山さん提供の2曲には、詩人・ジュリーのそんな感性が反映されています。

今日はまず1曲目「グショグショ ワッショイ」の考察です。魂込めて書きます!

①どうなる?古稀ジュリーのツアー編成大冒険!

3月11日、早速『OLD GUYS ROCK』収録曲の採譜に一日中取り組み、ひと息ついて携帯をチェックすると、ジュリーファンお2人の方からメールが届いていて、それが2通ともほぼ同じ内容。7月からの古稀ツアーでのバンド編成(演奏形態)を、新譜を聴いた上で僕がどう予想するかをお尋ねくださったものでした。

やはりこの新譜を聴いたら、まずみなさんそこを考えますよね。正に僕もそうでした。

もちろん一番「普通」に考えられるのは、柴山さんを中心とした新たなバックバンドの結成です。
ただ、ジュリーは今年から何か新たなスタイルを始めようとしているのではないか・・・僕は直接会場で聞いてはいないけど、50周年ツアーでの大阪、東京各ラスト公演で現バンドとは今回が最後、と知らせてくれた際にジュリーが表明したという「冒険がしたい」との言葉。
その意味を改めて今回の新譜を併せて考えると、これまでとはまるで違った編成や演奏スタイルでのツアーも考えられます。

僕らファンとしてはとにかくツアー開幕を待つしかありませんが、今日は僕なりにジュリーの「新たなLIVE編成」を3パターンほど考えてみました。
お題曲考察の前に、このチャプターではそのあたりを書いていきましょう。

パターン①
柴山さんと2人だけで全公演を突っ走る!


収録曲とは別にタイトルがつけられた今年の新譜『OLD GUYS ROCK』。一聴すれば明々白々、その意はすなわち「俺とカズのロック」でした。
そしてそれがそのままツアー・タイトルへとシフトされている・・・「まさかなぁ」とか「さすがにそれはなかろう」というのはあくまで一般的な考え方に過ぎません。
僕も本格ジュリー堕ちから10年(いや、先輩方からすれば「たかが10年」ではあるんですけど)、ジュリーには自分の頼りない「常識」など通用しないのだ、と何度も思い知らされてきましたしね。

あの怒涛のスケジュールを、永遠の相方・柴山さんとたった2人だけで駆け抜ける・・・たとえ僕らにとっては仰天・想定外なアイデアでも、ジュリーにとっては自然な選択肢、手法なのかもしれないなぁ、と。
もちろん僕とて何の予備知識もなければそんなことは考えもしなかったでしょうが、新譜を聴いた今となっては、ツアー初日・武道館のステージにジュリーと柴山さんの2人しか立っていなくても驚きません。

「我が窮状」も「un democratic love」も、柴山さんならばギター1本でアレンジ、伴奏できます。負担はメチャクチャ重いですが、それを涼しい顔で、笑顔で、時には眉間に皺寄せてでもやってのけるのが柴山さんです。
その場合セトリ的にも従来とは違った選曲が予想され、「遠い旅」や「TRUE BLUE」「幻の恋」といった個人的に大好きなナンバーにも期待が膨らみます。

パターン②
特別出演・日替わりゲストありの変則公演


これは、これまでのジュリーのステージ・アプローチを観ていると可能性はかなり低いかなぁとは思いますが・・・基本はパターン①の柴山さんとの2人公演で、日によって、或いは会場によって一部ゲスト・コーナーを設けるというスタイル。過去にジュリーと縁の深い名うてのミュージシャンが、ジュリー古稀ツアーへのお祝いに華を添えるという手法です。
亡くなられたメンバーもいるので完全な形とは言えないけど、PYGやJAZZ MASTERの一時的な復活、なんていう夢も広がりますよね。

パターン③
『OLD GUYS』2人+サポート・バンド


個人的な理想形がこれ!
分かり易く有名どころの例で言うと、吉川さんと布袋さんとか、稲葉さんと松本さん。つまり「ヴォーカリスト+ギタリスト」がステージの主を張り、そこにサポートのバンドがつくというスタイルです。
サポート・メンバーは体力自慢、バリバリの若手の起用を夢想。柴山さんはそれらメンバーとは一線を画し、立ち位置もジュリーのすぐ横(若干後ろ)で・・・こうなれば正真正銘『OLD GUYS ROCK』ツアーです。
今回はジュリーの古稀記念ツアーではありますが、フロントはジュリーと柴山さんの2人という・・・いかがでしょうか。ちょっと飛躍し過ぎかな?

この3パターンの中で一番あり得そうなのは(同時に、一般的にはとてもあり得そうもないのは)①のパターンだと思いますが、いずれにしても僕の勝手な妄想。
ただ、古稀ツアーからまたジュリーの新たな一歩が始まることだけは間違いないので、しっかりとその最初のシーンを観ておきたい・・・なんとか初日の日本武道館だけは、2階スタンドの一番上でも良いので確実に参加したいと思っています!

②やつならどうすっどうすっか

このチャプターでは、ジュリーの詞について書きます。


(後註)いったん更新しておいて恥ずかしい次第なのですが、僕がここで書いた歌詞解釈は酷く浅いです。是非、先輩から頂いているコメントの方も併せてお読みください。

新譜リリース情報が解禁となった段階で、収録曲のタイトルから「どんな内容の詞なのか」とファンの間で特に話題をさらっていたのがこの1曲目「グショグショ ワッショイ」でした。
「グショグショ」は涙、「ワッショイ」はお祭り。
おそらく震災復興がテーマ。
と、僕もそこまではなんとか想像できていましたが、ちょっと引っかかっていたこと・・・ジュリーは2013年に「復興を宴にするな」と歌っているんですよね。ですから僕は「宴」(=「お祭り」)の歌詞フレーズにずっとマイナスのイメージを持っていたんです。
いざ聴いてみると「グショグショ ワッショイ」はやはりお祭りの歌でした。しかし、「Pray~神の与え賜いし」で言及される「宴」とは180度捉え方が違います。
国から押しつけられた宴と、気力を振り絞って立ち上がり自らの力で催す宴の違い。
もちろん重い心境や情景を含む詞には違いありませんが、前向きで、元気が出る歌でしたね。ジャケットのイメージが明るいのは、この詞ありきでしょう。

これはまた「友情の歌」でもあります。僕はジュリーが歌うこのテーマの歌に弱い・・・涙腺崩壊です。
たまたま先日「絆(きずな)」のお題で記事を書いていて、その時色々と考えたことがありました。
辛い時、打ちひしがれている時、励ましてくれる友人。それでも再び立ち直るには結局自分の力と志で成すしかない。被災地に今生きる人達にとって話はそんな簡単なレベルではないとしても、震災の爪痕がまざまざと残る町でそれでも立ち上がろうとする人に、どんな友人の存在、想いがその助けとなるのか。

変わり果てた町 やつならどうすっどうすっか
F#m             B   F#m                 B

ジュリーのこの詞に尽きると思います。
あの時もしも、自分の方がいなくなって、「やつ」(友人)が残されていたとして、じゃあ「やつ」なら今どうしているだろう?癒えない心を抱えつつも、この町を取り戻そうと頑張っていたんじゃないだろうか。
今自分が無力感と絶望で何もせずにただ下を向いているだけなら、「やつ」に会わす顔が無いぞ、と。
そうして奮い立ち、自分の意思で復興の宴とともに鎮魂の歌を歌っていると、「やつら」が自分のすぐそばに来てくれているのが分かる。「やつら」の声がハッキリ聞こえる・・・「グショグショ ワッショイ」って、そんな歌なのではないでしょうか。
ジュリーが投影した主人公が豪快に歌うサビ部、「ワッショイ」の追っかけコーラスに参加しているのは、「やつら」なのです。そんな処理になってるでしょ?

あの世の者もこの世の者も、老いも若きも一緒に、涙グショグショの笑顔でワッショイワッショイ。
「ジュリー、また素っ頓狂なタイトルつけてきたなぁ」と発売前に苦笑いした僕はまだまだ考えが浅い、と痛感させられました。「グショグショ ワッショイ」・・・これほどこのテーマにピッタリなフレーズはありません。

「すべての被災地」ということで言えば、僕は今年の1月、やはり震災の爪痕が大きく残る熊本の町を見てきました。この曲でその光景が思い出されました。
たまたまBリーグのオールスター・ゲームの開催が重なっていたこともあるのでしょうが、熊本の町を行く人達はとても元気で活気に溢れ、「復興、やってやる」「この町を取り戻す」という志の賑やかなお祭りを見ているような気がしました。
東日本にだって、きっとそれはできる。
いや、僕が目にしていないだけかもしれない。もしかしたらジュリーはそんな光景を東日本のどこかで見たのかもしれない、と考えてみたりします。

今年の新譜全曲についても言えますが、ジュリーは何か具体的な光景或いは情報を得て、「祈り歌」の作詞をしていると思います。
それが何かは僕らファンにはほとんど分かりません。でも想像することはできます。
ジュリーは頑ななまでの「3月11日リリース」で、正にその想像力、そして自ら考え体験することの貴さを毎年僕らに投げかけてくれています。
それでもセンスに乏しい僕は、1月の熊本公演に参加していなかったら「グショグショ ワッショイ」にここまでの解釈はできなかったかもしれません。

先月の20日に亡くなられた「平和の俳人」金子兜太さんが、かつてこんな言葉を残されています。

必ず時代には棄てられる人がいる。詩人はそれを見てなきゃダメだ。それが見ていられないような詩人は詩人じゃない。

今のジュリーは、この国を見つめる詩人です。しかも僕らが敬愛するこの詩人は・・・決して見棄てない!
歌い続ける限り、ジュリーの『PRAY FOR JAPAN』は終わりません。改めて今、そう確信しています。

③緻密にして豪快、柴山さんの目眩く転調ロック!

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過去の柴山さん作曲のジュリー・ナンバーの中、僕が特に楽曲構成について惹かれているのが「やわらかな後悔」と「F.A.P.P」。いずれも難解な転調が繰り返される高度な作曲作品で、まるでまったく異なる複数の曲を合体させたかのような進行を擁します。
今回の新譜2曲で柴山さんは久しぶりにその宝刀を抜いてきました。その上で2曲それぞれが16ビートのロック、4ビートのバラードとタイプを違えているというのも、柴山さんの「ジュリーの新たな祈り歌」に向けた気魄の証ではないでしょうか。

「グショグショ ワッショイ」の構成が大きくAメロ、Bメロ、サビに分けられることはみなさまお分かりでしょう。実はこの3つ、すべてキーが異なるのです。
Aメロは、ハードなリフ・ロックを象徴するホ長調。

鎮魂の歌は止まず
E     G    A  C   E   A G    E    A G

心は癒えやしないが
E    G     A C       E    A G    E    A G

これが「E→G→A→B」ならば王道で、ジュリー・ナンバーでは「悲しき船乗り」「希望」「3月8日の雲」がそのパターンですが、今回の柴山さんは「E→G→A→C」。
この「C」がメチャクチャ尖ってます。
これをして「レ→レ#→ド→シ」という半音下がりの斬新なメロディーが成立。ジュリーのヴォーカルも音が下降するごとにキレていますね。

Bメロは、一瞬ト長調に見せかけておいてニ長調!

あの世の者も この世の者も
G            D           F#      B    A

活きの良いやつ いますぐ来たれやい
G             D                C       D  E

これまたもし「B」の箇所が「Bm」ならば王道。キャッチーでポップなメロディーが載ったはずですが、「B」に置き換えることで前後の「F#」「A」との関連性がガラッと変わり、パワフルで武骨なメロディーが載ります。
昨年の「福幸よ」同様、「曲先」の製作におけるジュリーと柴山さんの「詞曲一致」にはツーカーの域を超えた運命的な相性も感じさせます。

「来たれやい」は3段階1音上がり和音進行で、「立ち上がる主人公の姿が見える」よう。
その最後の「E」が何とそのままドミナントとなって、サビのキーはイ長調です。

おどけてワッショイ とむらいワッショイ
A          G             A          C

グショグショ ワッショイショイ
A                G           E

しつこいようですが、これも「A→G→A→G」ならば王道。ここでも「C」が素晴らしい仕事をしていますが、Aメロの「C」とは使い方が全然違うんです。
Bメロ部も含め、この曲に登場する「C」のコードはすべて進行の理屈を異とし、かつロックならではの尖ったニュアンス。いやぁ柴山さん、「OLD GUYS ROCK」の新譜タイトルをあらかじめ知らされていたかのようなロック・ナンバーをブチ込んできました。
逆に言えば、この柴山さんの曲があったからこそジュリーは「OLD GUYS ROCK」のフレーズを思いついたのかもしれませんね。

自身の声域もあるのでしょう、柴山さんの作るジュリー・ナンバーには音域が広いものが多いです(最高峰は「FRIDAYS VOICE」)。「グショグショ ワッショイ」でその点魅力的なのは、メロディーの最低音(低い「ラ」の音)がサビ最後の最後で登場すること。
「さあ来いやい」の「やい」ですね。
「FRIDAYS VOICE」に登場する低い「ソ#」よりは半音高いんですけど、なにせ〆のロングトーンですからねぇ。柴山さんの作曲奥義=ジュリー・ヴォーカルの真骨頂。ドスの効いた低音ヴォーカルに痺れます。

ギター演奏の肝は「ブラッシング」だと思います。
「ブラッシングって何?」という方は、サビ直前の2拍に注目。音(音階)をピタッと止めて、「がっ、がっ、がっ、がっ♪」と言わせていますよね。これがそうです。
ギター・テクニックとしてはいろはの”い”ですが、それをカッティングとの合わせ技で魅せてくれるのがイントロから登場するリフ部。
「じゃ~ん、じゃ~んか、じゃ、じゃ~、じゃ♪」
ではなく
「じゃ~ん、じゃ~か、ちゅくじゃ~、じゃ♪」
なのですよ。

今回の新譜収録曲すべてに言えますが、こういうアレンジで来られたら素人ギタリストとしても完コピせずにはいられない!
「グショグショ ワッショイ」は当初CD無しで練習しているとイントロ4小節目で「こっちの水苦いぞ」そのまんまのドラムス・フィルが脳内で勝手に鳴って単音がおろそかになったり

7  年 さあ来いやい
A G E   D    C    A

の後の空白から曲が「忘却の天才」に変身しちゃったり、と往生しましたが(笑)、聴き込みに聴き込みを重ねて今はだいぶイイ感じになってきていますよ~。
当然古稀ツアーでも歌われるでしょうから、編成がどうあれ柴山さんのギターをじっくりと観て答え合わせをするのが今から楽しみです(そんな席が来ればね)。


さて、今日の考察はここまで。
古稀ツアーの前半公演、チケット申し込みの締切が迫っています。いつもはインフォが到着したらパパッと振込を済ませる僕ですが、今回は悩みまくり。
狙いの会場にどうしても都合のつかない平日の公演が多いのですよ~(泣)。
ようやく最終決断をしまして・・・無念ですが、前半は初日・武道館と地元・和光の2箇所に絞ります。

気の毒なのはYOKO君で、前半は参加会場無し。
2人で「この日だけは何としても俺達が行って盛り上げないと!」と相談した、今ツアー最大キャパの会場・10月のさいたまスーパーアリーナが彼の初日です。
3ヶ月以上にも及ぶネタバレ我慢を鋼鉄の意志でやり遂げ、広い広い大会場の最上段からダイブするYOKO君を目撃したい人は皆、さいたまスーパーアリーナに集まれワッショイワッショイ!
いや真面目な話、あの大きな会場を満員のお客さんで埋めてジュリーを迎えたい・・・その一心です。微力ながら、さらなる声がけをこれから頑張りますよ~。


それでは次回考察お題は当然『OLD GUYS ROCK』の2曲目、「ロイヤル・ピーチ」です。
現時点では新譜4曲中最も好きな曲。『三年想いよ』をリアルタイムで聴いた時、「櫻舗道」がどうしようもなく好きになってしばらくの間頭から離れなかったという体験をしていますが、今回「ロイヤル・ピーチ」はその時の感覚とよく似ています。
「グショグショ ワッショイ」とは、根底にジュリーの「彼岸と此岸」についての考え方がある点で共通。しかしこちらはとても切ない、悲しい歌です。
そして美しい・・・ジュリーの声も柴山さんのギターも、楽曲構成や転調進行に至るまで、息を飲むほど美しい孤高のバラードです。

容易に歌詞解釈できる曲ではありませんし、原発事故やその後の風評被害といった重いテーマにも触れざるを得ませんが、引き続き全力で取り組みます。
よろしくお願い申し上げます!

今週こちら東京近辺は暖かい日が続いています。週末には早くも桜の開花が予想されているとか。
北から南まで、1日も早い春の訪れを祈ります。

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