沢田研二 「涙まみれFIRE FIGHTER」
from『こっちの水苦いぞ』、2015
1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER
----------------------
4月に入って暖かくなったと思っていたら、翌週にはいきなり寒くなりまして・・・8日、首都圏では満開の桜の中、季節はずれの雪が降りました。
前回記事で添付した写真と同じ場所、同じ時間帯に撮影した4月8日の桜です。
朝8時半くらいで、雪も結構強めに降っていたのですが、この写真だとよく分かりませんね・・・残念。
東京ではさすがに積雪とまではいきませんでしたが、北関東では普通に積もったところもあったとか。
こうなるとジュリーファンならば誰しも「四月の雪」が聴きたくなるところで、その恩恵と言いますかオマケでしょう・・・当日は僕が2012年に書いた「四月の雪」の記事に多数の検索ヒットを頂いた模様。久々に自分でその記事を読み返してみると・・・すっかり忘れていましたが、2012年の4月3日にもごく少量ながら「四月の雪」が降っていたようです。
記事を書いたのは、『3月8日の雲』全4曲の考察記事が終わった直後でした。文章からは、あの時の疲労困憊の記憶と共に、若きジュリーの歌声に癒されホッとしている様子が、我が事ながら窺えました。
それは良いとして、まぁ何と恥ずかしい記事でしょう。
考察の甘さ、ジュリー知識の不足はいかんともし難い・・・この記事に限らず、昔書いた記事は今読み返すと本当に穴があったら入りたくなるものばかりです。
そして、そんな状況は今も変わっていません。
今、こうして全力で取り組んで書いている『こっちの水苦いぞ』それぞれの収録曲の記事も、時が経てば自分では恥ずかしさばかりが残ることになるはずです。前回の「泣きべそなブラッド・ムーン」の考察なんて、今もう既に恥ずかしいですからね・・・(泣)。
ただ、そこで頼りになるのが、記事にコメントをくださっているみなさまのお言葉の数々です。
今年のジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』からの考察記事も、いよいよラスト1曲。
ここまで3曲の記事を書いてきて初めて、遅まきながらこのヒヨッコにもこの作品の真のコンセプト、ジュリーの思いというものが見えてきたように思います。しかしそれは、自力で辿り着いたのではありません。
以前から書いているように、僕のブログは「伝授」などと大風呂敷を拡げてはいますがその実は、記事を読んでくださった先輩方がコメントやメールをくださったりして、そこから僕自身が逆伝授を賜っている、というスタイル。それを今回の新譜ほど痛切に感じたことはありませんよ・・・。
ここまで書いてきた新譜の記事で、僕はまず1曲目「こっちの水苦いぞ」執筆の時点では、ジュリーの詞の「ロック性」に拘っています。結果、「反体制」ロックとしての”アングリー・ヤング・マン”を66才のジュリーの中に見出し、ジュリーに便乗するかのように為政者や経済人という「一握り人」を批判することに終始しました。
これは「ロック」をふりかざすことで僕自身の浅慮をオブラートしたとも言え、今読み返すと「もっと他に書きようはなかったのかな」と思う部分が多々あります。
2曲目「限界臨界」でもそんな感情と手法は持続し、「被災者の方々の目線に立つ」とはうわべだけ(と今は思えます)の自分を晒して、やはり今の日本を動かしている人々を批判しました。
そのこと自体には悔いも諂いもありませんが、やはりジュリーの志には遠く及ばず、問題提起も軽々しかったのではないか、と反省点が多いです。
そんな流れの中で考察に取り組んだ3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」。そこで僕は、1曲目、2曲目と同じような考え方では到底この曲を語れない、という困惑に直面したのでした。「大好きな曲なのに、何故だ?」と戸惑ったまま、記事を書き終えることになって・・・。
そんな僕の「手探り感」をフォローしてくださる先輩方のコメントやメールを拝見し、ようやく「自分はジュリーの本質を見失っていた」と気づきました。
そう思って1曲目、2曲目の記事に頂いたみなさまのコメントについても改めて読み返すと、やっぱりそこに僕の「前のめり」気味の考察に疑問を投げかけてくださるお言葉を多く見つけたのでした。
もう・・・ひたすらお恥ずかしい。
ジュリーは今の日本を、世界を憂いている、為政者への怒りを限界ギリギリで感じている・・・それは確かなことですが、その気持ちは徹底的に「3・11」と共にあり、犠牲になってしまわれた人々、今もその苦しみの中にある人々と共にあり・・・決して「世間に意見している」のではないんですよね・・・。
ジュリーの歌は、ただただ被災地のためにあります。
新譜の中で抜きん出て好きな「泣きべそなブラッド・ムーン」。これほど好きなのに何処か釈然としない、スッキリしない思いを抱えつつ書いた記事に、ジュリーの志を真剣に思うみなさまからの助けを頂きました。
「”君にも”の”君”はこの曲を聴いている僕自身のこと」なんて浮かれた考えを持っていたのは、もしかすると自分だけだったんじゃないか・・・本当に恥ずかしいことですが、でもそんなことを書いてしまったおかげで、僕のあの記事は「君”は誰?キャンペーンの応募窓口」状態となり(ありがとうございます!)、多くのみなさまの様々な解釈をコメントやメールで頂くことに。
それぞれの解釈に深く頷きながら、ジュリーはなんて凄いんだろう、ジュリーを考えるファンはなんて凄いんだろう、とまたまた思い知らされました。
そして今、改めて今年の新譜『こっちの水苦いぞ』の素晴らしさが腑におちた気がしています。
「被災地のために」(言葉にするとありきたりなようですが、ジュリーの本気から発せられる「被災地のために」はとてつもなく重く、真に言葉の通りなのだ、と感じます)の気持ちで立ち向かわなければ絶対に書けない歌詞を擁した曲が、新譜の最後に残っていた・・・僕は随分回り道をしてしまったけれど、この痛烈な悲しみ、悔しさを歌った4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」に、今は心静かな自然体で対峙することができます。
ジュリーと、その素晴らしきリスナーである先輩方に感謝しつつ・・・『こっちの水苦いぞ』からの考察記事もいよいよこれでラスト1曲となります。
「涙まみれFIRE FIGHTER」、僭越ながら伝授!
2012年から続いている『PRAY FOR EAST JAPAN』をコンセプトとした一連の作品で、何故ジュリーが自作詞だけでなく「鉄人バンドのメンバー1曲ずつの作曲」というスタイルを通しているのか(厳密に言うと、4曲入りマキシシングル形式としては2010年リリースの『涙色の空』以降このスタイル)・・・その答を僕は今、「涙まみれFIRE FIGHTER」に見たように思っています。
鉄人バンドとすれば、文字通り「真剣に」向き合わなければ作れないようなテーマを与えられて、しかもそうして作った曲に詞をつけて歌うのが、あのジュリーですからね。いくら普段からのバンド・メンバー、気心は知れているとは言っても、そのプレッシャーたるや僕らファンには計り知れないほど大きいものがあるでしょう。
下山さんなどは「いまだに緊張する」と語っているほど(しょあ様の下山さんLIVEレポートより)。
しかし、鉄人バンドの4人にこそそれができる、いや、このコンセプトで新譜制作に取り組む以上、ジュリーにはもう「作曲は僕のメンバーで」という選択肢しか持ち得ないのではないでしょうか。
そこで、「涙まみれFIRE FIGHTER」です。
いかにもギタリストの作曲作品らしい斬新な転調を擁する曲ではありますが、採譜作業自体は今回の4曲の中で一番すんなりと終わりました。
徹底された短調のメロディーと進行。
ひとつひとつのコードを拾っていると、柴山さんが曲を作った時の気持ちがビリビリと伝わってくるように感じられます。こんな採譜作業は本当に稀です。
このコード進行には、「悲しみ」と「悔しさ」がひたすらに貫かれています。
ジュリーの痛切な歌詞が載る以前から、これはそういう曲だったということ。柴山さんは4年目の今年、重い悲しみの感情を以て、被災地への祈りとしたのですね。
例えば・・・いかにもギタリストらしい、単音フレーズを押し出してからのサビへの移行は、嬰ト短調からロ短調への転調です。これは、普通ならば平行移調のロ長調へと進むであろう箇所が、ドミナント・コードの「F#」を経由してロ短調に移行しているという理屈です。
短調から短調へ・・・これこそ柴山さんの徹底した悲しみの表現。今回の新譜の中で、ジュリーの歌詞とメンバー作曲の気持ちのベクトルが近いのは、間違いなく柴山さんのこの曲でしょう。
さらに言うと、荒々しい転調進行があれども、楽曲全体としての調和、平穏を重んじられている曲でもあります。感情剥き出し、小細工無し、なのです。
もしかすると鉄人バンドの中で柴山さんは、ジュリーと同じくらい「頑固親父」の気質を持ち続けているのかもしれません。
62才にしてその頑固さを貫きつつ、あの温和なキャラクター。ですから皆に愛されるのでしょう。
ジュリーにもね。
今回の新譜で、リリース前の僕の情けない楽曲予想と実際の曲とが最もかけ離れ打ちのめされたのが、この曲でした。それはジュリーの歌詞のこともそうだけど、柴山さんについて僕はまだまだ深いリスペクトが及んでいなかったな、と恥じることでもありました。
「心をこめた歌」というものがあるなら、「心を込めた曲作り」も当然あるわけです。それを今回、僕は柴山さんのコード進行から学んだように思います。
では、ジュリーの作詞についてはどうでしょうか。
多くのみなさまと同じく、この曲を聴いてまず脳裏に浮かんだのは、あの震災の時、テレビ画面で伝えられていた気仙沼の大火災でした。
(今は、原発事故現場のことのようにも思えます)
目をそむけたくなるような光景に、テレビの前の僕らは言葉もなく呆然とするしかなかったのですが、そんな僕らの計り知れないほどの「呆然」・・・「ただ泣くしかなかった」人達・・・実際にその光景を目の前で見ていた人達にジュリーは着目しました。
そしてジュリーは、本来そんな人達を護るべき仕事をしている消防隊員の視点から、彼等を襲った「悲痛」などという言葉では表せないほどの地獄の光景を、この曲「涙まみれFIRE FIGHTER」で歌っています。
遠巻きに 見ているだけの
Bm
紅蓮の火 音を立て燃え
G
海水の 焼ける鼻を射る匂い
Em D F#
なんという詞を書くのか、ジュリー。
生々しく目に浮かぶ業火。そして海水の焦げる匂いすら、その声と共に耳に突き刺さってくる・・・。
普通の人の感性では、いや詩人の感性をもってしても、ここまでは到底踏み込めない、というところまでジュリーは踏み込んでいます。何故なら、「貴方、そこにいたわけでもないのに!」という被災者の方々からの反発をも覚悟しないと書けない詞だと思いますから・・・。
結果「涙まみれFIRE FIGHTER」は、あの「恨まないよ」や「Deep Love」を凌ぐほどの猛烈な「痛み」を聴き手に感じさせる曲となり、新譜発売から1ヶ月経った今もなお、「最後の1曲は辛すぎて聴けない」と仰るジュリーファンも少なくないようです。
そんな痛烈な曲が2015年新譜のラストに収録た意味とは、非・被災者である僕のような者・・・「風化させない」と口では言いつつも、
日々の生活の中で次第に実感を薄れさせてしまっている多くの日本人に、「誇大でない現実」を突きつけるためではないでしょうか。
今思えば、新譜リリース前のこの曲についての自分の予想は本当に酷いものでした。
楽曲のタイトルが分かった時、この曲が被災地の消防隊員のことを歌ったものだ、とは誰しも想像できたでしょうが、その上で僕の予想はかなり軽々しいもので・・・作詞のジュリー、作曲の柴山さんをナメていた、と言われても仕方ありません。
僕は「FIRE FIGHTER」という語感から、さらに作曲者が柴山さんということも併せ、「痛烈な歌詞ではあるだろうけど曲想は明るいハード・ロックで、あの日から4年過ぎて消防隊員として成長した若者へのエールを込めた曲では」と予想していました。
いえ、それ自体が軽々しい、というのではありません。自分の想像力が欠けていたことを恥じるのです。
柴山さんが作ったのはギリギリとしたマイナー・コードの重いバラード。そして載せられたジュリーの詞は・・・そう、『PRAY FOR EAST JAPAN』の過去3作で、ジュリーは徹底して「誇大でない現実」をそのまま描写する作詞を通しています。夢物語や理想を歌っているわけではないのだ、と何度も思い知らされてきたのに・・・。
そんな僕の甘さこそが「襲い来る風化」と重なりはしないか、と思うと情けないです。
無力感 震え止まらず 悔しさが眼に焼き付いて
Bm G
消えぬまま 町の四年が過ぎ去り
Em D F#
襲い来る風化とともに 北国の短い夏よ
Bm G
押し寄せる 寂寥だけが今でも
Em D F#
被災地の視点に立てば、「風化」とは襲い来る人災なのだ・・・この歌詞部には多くのファンがショ
ックを受けたのではないでしょうか。この「人災」の「人」の中に僕自身を見出すことはとても容易いのです。
歌詞の内容を予想した際にまず考えたのは、ジュリーが新聞記事か何かを読んでインスピレーションを受け作詞した曲なのではないかなぁ、ということでした。
近作では、「Uncle
Donald」「Deep Love」「櫻舗道」あたりがそうだったのでは、と考えられますから。
先に書いた通り僕が勝手に想像したのは、あの日被災した少年が4年の歳月で成長して消防隊員となり、ジュリーがその志にエールを送る、という構図。「涙まみれ」と「FIGHTER」というフレーズの組み合わせから、年若い男子を連想したのですが、この出発点から僕は間違っていたなぁ、と今は考えています。
確かに一般的に「FIGHTER」と言えばそれは「男」でしょうし、「涙まみれFIRE FIGHTER」の主人公も年齢は分かりませんが男性ではあるでしょう。
しかし僕はそこに、陳腐な「勇ましさを称える感覚」を持って考えていました。柴山さんの作曲作品で楽曲タイトルが「FIGHTER」と来れば、豪快な明るいロックで決まりだ、という安易な思い込みもありました。
普段から被災地の視点に立つ考え方をしていれば、まず「FIGHTER」とはどんな人だろう、どんなことに立ち向かう人だろう、と想像することはできたはずです。
新譜を聴いている最中に僕をハッと我に返らせた新聞記事がありましたので、ご紹介したいと思います。
3月25日付『東京新聞』より
企画連載『全電源喪失の記憶』第40回
そしてこちらは本日4月14日付の『全電源喪失の記憶』第49回。
更新の当日でしたが急遽追加添付させて頂きました。
僕はこれまで「過酷な被災現場」と言うと、そこで物事に立ち向かっている人はすべて男性であるかのように、無意識に想像していたと思います。
何と貧困な想像力・・・。
志半ばで現場を後にする女性が流した悔し涙。
過酷な現場で心挫けそうになった若い女性、その女性を励まし立ち直らせたのもまた女性。
彼女達のような「FIGHTER」の存在を、僕らは頭に叩きこまねばなりません。忘れてはなりません。
こうしたことをもっと早くに認識していれば、僕が「涙まみれFIRE FIGHTER」というタイトルから思い浮かべるものも、ずいぶん違ってきていたのでしょう。
風に煽られ 魔物は走る
G#m
右往左往するしかなく 拷問のようだった
C#m E D#7
ジュリーの猛烈な「痛み」のヴォーカル(「拷問」の発音が凄過ぎます)に、走る魔物を俯瞰するかのような凛としたコーラスが絡む・・・「美しい」などと言ってしまって良いのだろうか、と聴き手に頭を抱えさせる不条理も、この曲の完成度の高さ故としなければなりません。
レコーディング作品がここまで「生身」であることに、改めて戦慄を覚えます。
収録曲順の効果も大きいでしょう。今回の新譜は前半2曲と後半2曲がそれぞれひとつの塊であり、その上での4楽章形式の作品のように思えます。
後半の2曲には「重い短調のバラード」という以外に特殊な共通点もあります。「泣きべそなブラッド・ムーン」には最後のサビ直前に半音上がりの転調があり、最終的には嬰ト短調で演奏を終えます。これがそのまま「涙まみれFIRE FIGHTER」のキーとなっているのです。
1枚のCDで作品をリリースする際、普通なら似通った曲想、ましてや同じキーの曲であれば収録位置を離すものです。しかしジュリーの「4曲入りマキシシングル」形式は2012年から既に独自のスタイルとして確立されていて、最早そんな一般論は当てはまりません。
さて、詞も曲も全編が悲愴な情景描写に覆い尽くされているかのようなこの曲にも、柴山さんが提示した僅かな「明るさ」・・・とまでは言えないまでも、過酷な悲しみや苦しみに「立ち向かう者」の意志の尊さを思わせるメロディーが、たった1箇所だけですが登場します。
そしてジュリーは、正にそのメロディー部にこの歌詞のタイトル・フレーズを載せました。
涙まみれ FIRE FIGHTER
G#m E7
この「E7」への移行部だけが、ブルースからインスパイアされたような長調のニュアンスのメロディーとなっています。普通セブンス・コードというのはいかにもロックな尖った効果を持つものですが、この曲のこの箇所だけは、不思議に優しいんですよね・・・。
「FIGHTER~♪」と歌うジュリーの声、或いはメロディーに惹かれる、と仰る方は、この厳しい内容のバラードにかすかな光を与えたジュリーと柴山さんの志を感じとれているのかもしれません。僕はそんなふうに「涙まみれFIRE FIGHTER」の楽曲構成を理解していますよ。
いかがでしょうか?
ところで、柴山さんの良い意味での「頑固さ」は、自身の作曲だけでなく、そのギター演奏にもハッキリと見てとることができます。
いつものように鉄人バンドの演奏トラックをすべて書き出し、そのあたりの考察も進めていきましょう。
・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド1)
・エレキギター(右サイド2)
・アコースティック・ギター
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ベース)
・ドラムス
この曲については最初に聴いた時から、右サイドのエレキ2本が柴山さん、左サイドのエレキとアコギが下山さん、とLIVEステージの立ち位置通りの演奏トラックとして耳にスッと馴染みました。
そこでまず特筆すべきは、アレンジ的には2本に分けなくても演奏可能な右サイドのエレキを、柴山さんが敢えて別トラックに区分してきた、という点です。
そのまま同じ音で続けて演奏できるところ、音色を変えて(ミックスも、ややセンター寄りの配置へと移動するなど微妙な変化があるようです)レコーディングされているんですよね。
LIVEでは1本で演奏することにはなるとは言え、これなどは正に柴山さんの、自作曲作品ならではの拘りのレコーディングではないでしょうか。「リードはこの音!」という部分と、ジュリーのヴォーカルをバックアップする部分をストイックに分別しているのだと思います。
リード・ギターの音色は2012年の「Deep Love」に近いですが、こちらはさらに武骨で、ディレイとサスティンがそのまま悲しみの表現となっています。
全国ツアーのステージでの柴山さんはきっと、表情を思い切り崩して渾身の演奏となるでしょう。
下山さんはエレキ、アコギとも黒子に徹しています。
エレキはAメロで登場するブレイクのフレーズ(1番最初に登場するのは0’25”からの箇所)で、フレットをスライドさせて緊張感を高める演奏が印象に残ります。
そしてアコギのストローク。『3月8日の雲』以降の作品ではアコギ使用の比重が高かった下山さんですが、今回はアコギをガッシャンガッシャンと弾きまくるのは(「こっちの水苦いぞ」の一瞬のコーダ部アルペジオを除いて)この4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」ただ1曲。この曲で下山さんがアコギを選んだ、というのもまた、柴山さんが曲に込めた感情を汲んでのことではないでしょうか。
それだけに僕はツアーでのこの曲で下山さんがアコギを持つことを期待していますが、正直可能性は五分五分でしょうか。エレキにも、目立たないながら重要なバッキング・パートが多いですからね。
泰輝さんのキーボードはこの曲も2トラックです。
1曲目「こっちの水苦いぞ」(オルガン、ストリングス、ベースの3トラック)以外はすべて2トラックのレコーディングで、LIVEでの”神の両手”を想像しやすい演奏となっていますが、この曲の場合はちょっと異色な「沈黙の美学」とも言うべきアレンジが特徴。自分は決して目立たず、ヴォーカルや他の演奏楽器(特にギター)をいかに聴かせるか、という演奏なのです。
まずピアノ・・・みなさま、この曲のイントロを初めて聴いた時、柴山さんのリード・
ギターがまるで深い悲しみに「震えている」ように感じませんでしたか?
これは泰輝さんのピアノが「レ#ド#シソ#、レ#ド#シソ#」のメロディーをリード・ギターとユニゾンさせている効果だと思います。まるで泰輝さんのピアノが生身のエフェクターとなっているような・・・。
1番と2番の間の伴奏部では柴山さんのギターが別のフレーズを弾き、泰輝さんのピアノはイントロと同じ音階を弾きます。ここでようやく「ピアノ」の存在に気づくリスナーも多いのかもしれません。
さらにベース。
これほどヘヴィーなバラードを作曲した柴山さんです。きっと柴山さんから泰輝さんに重厚な低音のリクエストがあったのでしょう。「こっちの水苦いぞ」のようないわゆる「擬似ベーシスト」的なトラックではありませんが、サビで重々しいロングトーンを奏で、「悲しみ」「悔しさ」を歌う曲想の土台となっています。
このベース・トラックは、LIVEではきっとビリビリと場内を震わせるように迫ってくる音響を伴って再現されるはずで、ジュリー渾身のヴォーカル、柴山さんの狂おしいギターを際立たせ、お客さんを圧倒的な悲しみに静まりかえらせることとなるでしょう。
GRACE姉さんのドラムスは、淡々としつつも重厚なエイト・ビート(それでも常に”跳ねる”感覚を持ち続けた演奏でもあります)。
素晴らしいのは3’04”からの最後のサビで、決してテクニックだけに走らず、「歌」が必要としているフィルを次々に繰り出します。
ここではドラムスと共にアコギも重要な見せ場。下山さんとGRACE姉さんのLIVEでの再現に期待します!
本当に素晴らしい鉄人バンドの演奏(ジュリーの歌詞に見合う、という時点でもう、ジュリーの新曲の演奏は彼等でなければあり得ない、というレベルにまで来ています)ですが・・・「LIVEで聴くのが楽しみ」と言うにはあまりに「重い」バラード、「涙まみれFIRE FIGHTER」。
僕らファンはツアー前に、この曲を生で聴く覚悟を持つことが求められるでしょう。
ただ、その「重さ」の中で、ジュリーのストレートなメッセージを演奏で体現できる4人があっての「歌」なのだ、と今はCD音源でしっかり噛みしめておきたいです。
最後にもうひとつ。
これは厳密には「演奏」のことではないんですけど・・・この曲のアウトロのギター・ソロ部で、エンディングに向かい次第に強くなっていく轟音のようなエフェクトに、みなさまお気づきかと思います。
これは「フランジャー」と言って、ギターでオーヴァードライヴとかけ合わせると「ジェット・サウンド」と呼ばれる効果が得られるエフェクター(「UNCLE DONALD」CD音源のエンディング間際のギターの音色として採り入れられています)が使われています。
ただしこの「涙まみれFIRE FIGHTER」の場合は、ギター演奏の際にフランジャーがかけられているのではなく、既にレコーディングされたトラックへの「後がけ」。つまり、ミックス作業の段階で表現された仕上げの「アレンジ」であると言えるでしょう。
しかもそれは、ギター・トラックのみならず複数の演奏トラックに施されているのです。
まるで「襲い来る風化」が被災地を覆いつくし飲み込んでしまうかような、戦慄のエンディング。
「本気」なのはジュリーと鉄人バンドだけでなく、新譜制作に関わったエンジニア・スタッフ全員が、「誇大でない現実」を歌うこの曲に真っ直ぐに立ち向かっているのですね。
現代の音響設備を考えますと、このエフェクトはLIVEでも再現される可能性があります。全国ツアーでの大きな注目ポイントのひとつだと僕は考えていますよ!
ということで・・・今年も3月11日にリリースされたジュリーの新譜全4曲の考察記事を書き終えました。
みなさまには、毎年恒例の大長文におつきあい頂くことになり本当に恐縮です。
例年以上に試行錯誤がありましたが、最低限、「自分の正直な思いを書く」という課題だけはクリアできました。そのせいで、恥も晒してしまいましたが・・・。
あとは、考察の至らなさを7月からのツアーでどう補えるか。ジュリーの生の歌声を聴いて考えが変わったり、閃いたりすることがあるのかどうか。
やはり、楽しみです。音楽なのですからね。
ジュリーは今年も素晴らしい音楽を届けてくれた、と言うべきだと思っています。
巷では、音楽劇『お嬢さんお手上げだ 明治編』の東京公演も終わって・・・と思いきや、急遽6月の追加公演が決定したようで、インフォも届きました。
追加の会場は渋谷のさくらホール・・・僕は昨年ピー先生と二十二世紀バンドの初日公演で初めて訪れた所ですが、とても素敵なホールでしたよ。
あ、インフォと一緒に全国ツアーの方の渋谷公演、落選ハガキも頂きました。僕は3日、4日と申し込んでいましたが、4日が川越公演に振替となったようです。3日は無事当選したのかなぁ。心配です。
渋谷公会堂改築前の大楽である4日に参加できなくなったことは残念ですが、振替の川越公演は10月後半。スケジュール・バランス的にはむしろ良かったのかなぁ、と前向きに考えているところです。
それでは次回からは、自由お題にて様々な時代のジュリー・ナンバーを採り上げ、なるべく短めの文量で(本当かよ)コンスタントに更新していこうと思います。
とりあえず次のお題は決めました。
純粋に楽曲としてなら、『PRAY FOR EAST JAPAN』がコンセプトの最近のジュリーの新曲群に今加えられたとしても違和感が無い、という70年代ジュリーの志の高いロック・ナンバーです。
さてどの曲でしょうか。お楽しみに!
| 固定リンク
| コメント (9)
| トラックバック (0)
最近のコメント