『こっちの水苦いぞ』

2015年4月14日 (火)

沢田研二 「涙まみれFIRE FIGHTER」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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4月に入って暖かくなったと思っていたら、翌週にはいきなり寒くなりまして・・・8日、首都圏では満開の桜の中、季節はずれの雪が降りました。

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前回記事で添付した写真と同じ場所、同じ時間帯に撮影した4月8日の桜です。
朝8時半くらいで、雪も結構強めに降っていたのですが、この写真だとよく分かりませんね・・・残念。

東京ではさすがに積雪とまではいきませんでしたが、北関東では普通に積もったところもあったとか。
こうなるとジュリーファンならば誰しも「四月の雪」が聴きたくなるところで、その恩恵と言いますかオマケでしょう・・・当日は僕が2012年に書いた「四月の雪」の記事に多数の検索ヒットを頂いた模様。久々に自分でその記事を読み返してみると・・・すっかり忘れていましたが、2012年の4月3日にもごく少量ながら「四月の雪」が降っていたようです。
記事を書いたのは、『3月8日の雲』全4曲の考察記事が終わった直後でした。文章からは、あの時の疲労困憊の記憶と共に、若きジュリーの歌声に癒されホッとしている様子が、我が事ながら窺えました。

それは良いとして、まぁ何と恥ずかしい記事でしょう。
考察の甘さ、ジュリー知識の不足はいかんともし難い・・・この記事に限らず、昔書いた記事は今読み返すと本当に穴があったら入りたくなるものばかりです。
そして、そんな状況は今も変わっていません。
今、こうして全力で取り組んで書いている『こっちの水苦いぞ』それぞれの収録曲の記事も、時が経てば自分では恥ずかしさばかりが残ることになるはずです。前回の「泣きべそなブラッド・ムーン」の考察なんて、今もう既に恥ずかしいですからね・・・(泣)。

ただ、そこで頼りになるのが、記事にコメントをくださっているみなさまのお言葉の数々です。

今年のジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』からの考察記事も、いよいよラスト1曲。
ここまで3曲の記事を書いてきて初めて、遅まきながらこのヒヨッコにもこの作品の真のコンセプト、ジュリーの思いというものが見えてきたように思います。しかしそれは、自力で辿り着いたのではありません。
以前から書いているように、僕のブログは「伝授」などと大風呂敷を拡げてはいますがその実は、記事を読んでくださった先輩方がコメントやメールをくださったりして、そこから僕自身が逆伝授を賜っている、というスタイル。それを今回の新譜ほど痛切に感じたことはありませんよ・・・。

ここまで書いてきた新譜の記事で、僕はまず1曲目「こっちの水苦いぞ」執筆の時点では、ジュリーの詞の「ロック性」に拘っています。結果、「反体制」ロックとしての”アングリー・ヤング・マン”を66才のジュリーの中に見出し、ジュリーに便乗するかのように為政者や経済人という「一握り人」を批判することに終始しました。
これは「ロック」をふりかざすことで僕自身の浅慮をオブラートしたとも言え、今読み返すと「もっと他に書きようはなかったのかな」と思う部分が多々あります。

2曲目「限界臨界」でもそんな感情と手法は持続し、「被災者の方々の目線に立つ」とはうわべだけ(と今は思えます)の自分を晒して、やはり今の日本を動かしている人々を批判しました。
そのこと
自体には悔いも諂いもありませんが、やはりジュリーの志には遠く及ばず、問題提起も軽々しかったのではないか、と反省点が多いです。

そんな流れの中で考察に取り組んだ3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」。そこで僕は、1曲目、2曲目と同じような考え方では到底この曲を語れない、という困惑に直面したのでした。「大好きな曲なのに、何故だ?」と戸惑ったまま、記事を書き終えることになって・・・。
そんな僕の「手探り感」をフォローしてくださる先輩方のコメントやメールを拝見し、ようやく「自分はジュリーの本質を見失っていた」と気づきました。

そう思って1曲目、2曲目の記事に頂いたみなさまのコメントについても改めて読み返すと、やっぱりそこに僕の「前のめり」気味の考察に疑問を投げかけてくださるお言葉を多く見つけたのでした。
もう・・・ひたすらお恥ずかしい。
ジュリーは今の日本を、世界を憂いている、為政者への怒りを限界ギリギリで感じている・・・それは確かなことですが、その気持ちは徹底的に「3・11」と共にあり、犠牲になってしまわれた人々、今もその苦しみの中にある人々と共にあり・・・決して「世間に意見している」のではないんですよね・・・。

ジュリーの歌は、ただただ被災地のためにあります。
新譜の中で抜きん出て好きな「泣きべそなブラッド・ムーン」。これほど好きなのに何処か釈然としない、スッキリしない思いを抱えつつ書いた記事に、ジュリーの志を真剣に思うみなさまからの助けを頂きました。
「”君にも”の”君”はこの曲を聴いている僕自身のこと」なんて浮かれた考えを持っていたのは、もしかすると自分だけだったんじゃないか・・・本当に恥ずかしいことですが、でもそんなことを書いてしまったおかげで、僕のあの記事は「君”は誰?キャンペーンの応募窓口」状態となり(ありがとうございます!)、多くのみなさまの様々な解釈をコメントやメールで頂くことに。
それぞれの解釈に深く頷きながら、ジュリーはなんて凄いんだろう、ジュリーを考えるファンはなんて凄いんだろう、とまたまた思い知らされました。

そして今、改めて今年の新譜『こっちの水苦いぞ』の素晴らしさが腑におちた気がしています。
「被災地のために」(言葉にするとありきたりなようですが、ジュリーの本気から発せられる「被災地のために」はとてつもなく重く、真に言葉の通りなのだ、と感じます)の気持ちで立ち向かわなければ絶対に書けない歌詞を擁した曲が、新譜の最後に残っていた・・・僕は随分回り道をしてしまったけれど、この痛烈な悲しみ、悔しさを歌った4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」に、今は心静かな自然体で対峙することができます。

ジュリーと、その素晴らしきリスナーである先輩方に感謝しつつ・・・『こっちの水苦いぞ』からの考察記事もいよいよこれでラスト1曲となります。
「涙まみれFIRE FIGHTER」、僭越ながら伝授!



2012年から続いている『PRAY FOR EAST JAPAN』をコンセプトとした一連の作品で、何故ジュリーが自作詞だけでなく「鉄人バンドのメンバー1曲ずつの作曲」というスタイルを通しているのか(厳密に言うと、4曲入りマキシシングル形式としては2010年リリースの『涙色の空』以降このスタイル)・・・その答を僕は今、「涙まみれFIRE FIGHTER」に見たように思っています。

鉄人バンドとすれば、文字通り「真剣に」向き合わなければ作れないようなテーマを与えられて、しかもそうして作った曲に詞をつけて歌うのが、あのジュリーですからね。いくら普段からのバンド・メンバー、気心は知れているとは言っても、そのプレッシャーたるや僕らファンには計り知れないほど大きいものがあるでしょう。
下山さんなどは「いまだに緊張する」と語っているほど(しょあ様の下山さんLIVEレポートより)。
しかし、鉄人バンドの4人にこそそれができる、いや、このコンセプトで新譜制作に取り組む以上、ジュリーにはもう「作曲は僕のメンバーで」という選択肢しか持ち得ないのではないでしょうか。

そこで、「涙まみれFIRE FIGHTER」です。

いかにもギタリストの作曲作品らしい斬新な転調を擁する曲ではありますが、採譜作業自体は今回の4曲の中で一番すんなりと終わりました。

Firefighter

徹底された短調のメロディーと進行。
ひとつひとつのコードを拾っていると、柴山さんが曲を作った時の気持ちがビリビリと伝わってくるように感じられます。こんな採譜作業は本当に稀です。

このコード進行には、「悲しみ」と「悔しさ」がひたすらに貫かれています。
ジュリーの痛切な歌詞が載る以前から、これはそういう曲だったということ。柴山さんは4年目の今年、重い悲しみの感情を以て、被災地への祈りとしたのですね。

例えば・・・いかにもギタリストらしい、単音フレーズを押し出してからのサビへの移行は、嬰ト短調からロ短調への転調です。これは、普通ならば平行移調のロ長調へと進むであろう箇所が、ドミナント・コードの「F#」を経由してロ短調に移行しているという理屈です。
短調から短調へ・・・これこそ柴山さんの徹底した悲しみの表現。今回の新譜の中で、ジュリーの歌詞とメンバー作曲の気持ちのベクトルが近いのは、間違いなく柴山さんのこの曲でしょう。

さらに言うと、荒々しい転調進行があれども、楽曲全体としての調和、平穏を重んじられている曲でもあります。感情剥き出し、小細工無し、なのです。
もしかすると鉄人バンドの中で柴山さんは、ジュリーと同じくらい「頑固親父」の気質を持ち続けているのかもしれません。
62才にしてその頑固さを貫きつつ、あの温和なキャラクター。ですから皆に愛されるのでしょう。
ジュリーにもね。

今回の新譜で、リリース前の僕の情けない楽曲予想と実際の曲とが最もかけ離れ打ちのめされたのが、この曲でした。それはジュリーの歌詞のこともそうだけど、柴山さんについて僕はまだまだ深いリスペクトが及んでいなかったな、と恥じることでもありました。
「心をこめた歌」というものがあるなら、「心を込めた曲作り」も当然あるわけです。それを今回、僕は柴山さんのコード進行から学んだように思います。

では、ジュリーの作詞についてはどうでしょうか。
多くのみなさまと同じく、この曲を聴いてまず脳裏に浮かんだのは、あの震災の時、テレビ画面で伝えられていた気仙沼の大火災でした。
(今は、原発事故現場のことのようにも思えます)
目をそむけたくなるような光景に、テレビの前の僕らは言葉もなく呆然とするしかなかったのですが、そんな僕らの計り知れないほどの「呆然」・・・「ただ泣くしかなかった」人達・・・実際にその光景を目の前で見ていた人達にジュリーは着目しました。
そしてジュリーは、本来そんな人達を護るべき仕事をしている消防隊員の視点から、彼等を襲った「悲痛」などという言葉では表せないほどの地獄の光景を、この曲「涙まみれFIRE FIGHTER」で歌っています。

遠巻きに 見ているだけの
Bm            

紅蓮の火 音を立て燃え
G

海水の 焼ける鼻を射る匂い
Em                          D    F#

なんという詞を書くのか、ジュリー。
生々しく目に浮かぶ業火。そして海水の焦げる匂いすら、その声と共に耳に突き刺さってくる・・・。

普通の人の感性では、いや詩人の感性をもってしても、ここまでは到底踏み込めない、というところまでジュリーは踏み込んでいます。何故なら、「貴方、そこにいたわけでもないのに!」という被災者の方々からの反発をも覚悟しないと書けない詞だと思いますから・・・。
結果「涙まみれFIRE FIGHTER」は、あの「恨まないよ」や「Deep Love」を凌ぐほどの猛烈な「痛み」を聴き手に感じさせる曲となり、新譜発売から1ヶ月経った今もなお、「最後の1曲は辛すぎて聴けない」と仰るジュリーファンも少なくないようです。
そんな痛烈な曲が2015年新譜のラストに収録た意味とは、非・被災者である僕のような者・・・「風化させない」と口では言いつつも、 日々の生活の中で次第に実感を薄れさせてしまっている多くの日本人に、「誇大でない現実」を突きつけるためではないでしょうか。

今思えば、新譜リリース前のこの曲についての自分の予想は本当に酷いものでした。
楽曲のタイトルが分かった時、この曲が被災地の消防隊員のことを歌ったものだ、とは誰しも想像できたでしょうが、その上で僕の予想はかなり軽々しいもので・・・作詞のジュリー、作曲の柴山さんをナメていた、と言われても仕方ありません。
僕は「FIRE FIGHTER」という語感から、さらに作曲者が柴山さんということも併せ、「痛烈な歌詞ではあるだろうけど曲想は明るいハード・ロックで、あの日から4年過ぎて消防隊員として成長した若者へのエールを込めた曲では」と予想していました。
いえ、それ自体が軽々しい、というのではありません。自分の想像力が欠けていたことを恥じるのです。

柴山さんが作ったのはギリギリとしたマイナー・コードの重いバラード。そして載せられたジュリーの詞は・・・そう、『PRAY FOR EAST JAPAN』の過去3作で、ジュリーは徹底して「誇大でない現実」をそのまま描写する作詞を通しています。夢物語や理想を歌っているわけではないのだ、と何度も思い知らされてきたのに・・・。
そんな僕の甘さこそが「襲い来る風化」と重なりはしないか、と思うと情けないです。

無力感 震え止まらず 悔しさが眼に焼き付いて
Bm                            G

消えぬまま 町の四年が過ぎ去り
Em                             D        F#

襲い来る風化とともに 北国の短い夏よ
Bm                            G

押し寄せる 寂寥だけが今でも
Em                             D    F#

被災地の視点に立てば、「風化」とは襲い来る人災なのだ・・・この歌詞部には多くのファンがショ ックを受けたのではないでしょうか。この「人災」の「人」の中に僕自身を見出すことはとても容易いのです。

歌詞の内容を予想した際にまず考えたのは、ジュリーが新聞記事か何かを読んでインスピレーションを受け作詞した曲なのではないかなぁ、ということでした。
近作では、「Uncle Donald」「Deep Love」「櫻舗道」あたりがそうだったのでは、と考えられますから。

先に書いた通り僕が勝手に想像したのは、あの日被災した少年が4年の歳月で成長して消防隊員となり、ジュリーがその志にエールを送る、という構図。「涙まみれ」と「FIGHTER」というフレーズの組み合わせから、年若い男子を連想したのですが、この出発点から僕は間違っていたなぁ、と今は考えています。
確かに一般的に「FIGHTER」と言えばそれは「男」でしょうし、「涙まみれFIRE FIGHTER」の主人公も年齢は分かりませんが男性ではあるでしょう。
しかし僕はそこに、陳腐な「勇ましさを称える感覚」を持って考えていました。柴山さんの作曲作品で楽曲タイトルが「FIGHTER」と来れば、豪快な明るいロックで決まりだ、という安易な思い込みもありました。
普段から被災地の視点に立つ考え方をしていれば、まず「FIGHTER」とはどんな人だろう、どんなことに立ち向かう人だろう、と想像することはできたはずです。

新譜を聴いている最中に僕をハッと我に返らせた新聞記事がありましたので、ご紹介したいと思います。


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3月25日付『東京新聞』より
企画連載『全電源喪失の記憶』第40回

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そしてこちらは本日4月14日付の『全電源喪失の記憶』第49回。
更新の当日でしたが急遽追加添付させて頂きました。


僕はこれまで「過酷な被災現場」と言うと、そこで物事に立ち向かっている人はすべて男性であるかのように、無意識に想像していたと思います。
何と貧困な想像力・・・。
志半ばで現場を後にする女性が流した悔し涙。
過酷な現場で心挫けそうになった若い女性、その女性を励まし立ち直らせたのもまた女性。
彼女達のような「FIGHTER」の存在を、僕らは頭に叩きこまねばなりません。忘れてはなりません。

こうしたことをもっと早くに認識していれば、僕が「涙まみれFIRE FIGHTER」というタイトルから思い浮かべるものも、ずいぶん違ってきていたのでしょう。

風に煽られ 魔物は走る
G#m   

右往左往するしかなく 拷問のようだった
C#m                         E                    D#7

ジュリーの猛烈な「痛み」のヴォーカル(「拷問」の発音が凄過ぎます)に、走る魔物を俯瞰するかのような凛としたコーラスが絡む・・・「美しい」などと言ってしまって良いのだろうか、と聴き手に頭を抱えさせる不条理も、この曲の完成度の高さ故としなければなりません。
レコーディング作品がここまで「生身」であることに、改めて戦慄を覚えます。

収録曲順の効果も大きいでしょう。今回の新譜は前半2曲と後半2曲がそれぞれひとつの塊であり、その上での4楽章形式の作品のように思えます。
後半の2曲には「重い短調のバラード」という以外に特殊な共通点もあります。「泣きべそなブラッド・ムーン」には最後のサビ直前に半音上がりの転調があり、最終的には嬰ト短調で演奏を終えます。これがそのまま「涙まみれFIRE FIGHTER」のキーとなっているのです。
1枚のCDで作品をリリースする際、普通なら似通った曲想、ましてや同じキーの曲であれば収録位置を離すものです。しかしジュリーの「4曲入りマキシシングル」形式は2012年から既に独自のスタイルとして確立されていて、最早そんな一般論は当てはまりません。

さて、詞も曲も全編が悲愴な情景描写に覆い尽くされているかのようなこの曲にも、柴山さんが提示した僅かな「明るさ」・・・とまでは言えないまでも、過酷な悲しみや苦しみに「立ち向かう者」の意志の尊さを思わせるメロディーが、たった1箇所だけですが登場します。
そしてジュリーは、正にそのメロディー部にこの歌詞のタイトル・フレーズを載せました。

涙まみれ FIRE FIGHTER
  G#m              E7

この「E7」への移行部だけが、ブルースからインスパイアされたような長調のニュアンスのメロディーとなっています。普通セブンス・コードというのはいかにもロックな尖った効果を持つものですが、この曲のこの箇所だけは、不思議に優しいんですよね・・・。
「FIGHTER~♪」と歌うジュリーの声、或いはメロディーに惹かれる、と仰る方は、この厳しい内容のバラードにかすかな光を与えたジュリーと柴山さんの志を感じとれているのかもしれません。僕はそんなふうに「涙まみれFIRE FIGHTER」の楽曲構成を理解していますよ。
いかがでしょうか?


ところで、柴山さんの良い意味での「頑固さ」は、自身の作曲だけでなく、そのギター演奏にもハッキリと見てとることができます。
いつものように鉄人バンドの演奏トラックをすべて書き出し、そのあたりの考察も進めていきましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド1)
・エレキギター(右サイド2)
・アコースティック・ギター
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ベース)
・ドラムス

この曲については最初に聴いた時から、右サイドのエレキ2本が柴山さん、左サイドのエレキとアコギが下山さん、とLIVEステージの立ち位置通りの演奏トラックとして耳にスッと馴染みました。

そこでまず特筆すべきは、アレンジ的には2本に分けなくても演奏可能な右サイドのエレキを、柴山さんが敢えて別トラックに区分してきた、という点です。
そのまま同じ音で続けて演奏できるところ、音色を変えて(ミックスも、ややセンター寄りの配置へと移動するなど微妙な変化があるようです)レコーディングされているんですよね。
LIVEでは1本で演奏することにはなるとは言え、これなどは正に柴山さんの、自作曲作品ならではの拘りのレコーディングではないでしょうか。「リードはこの音!」という部分と、ジュリーのヴォーカルをバックアップする部分をストイックに分別しているのだと思います。

リード・ギターの音色は2012年の「Deep Love」に近いですが、こちらはさらに武骨で、ディレイとサスティンがそのまま悲しみの表現となっています。
全国ツアーのステージでの柴山さんはきっと、表情を思い切り崩して渾身の演奏となるでしょう。

下山さんはエレキ、アコギとも黒子に徹しています。
エレキはAメロで登場するブレイクのフレーズ(1番最初に登場するのは0’25”からの箇所)で、フレットをスライドさせて緊張感を高める演奏が印象に残ります。
そしてアコギのストローク。『3月8日の雲』以降の作品ではアコギ使用の比重が高かった下山さんですが、今回はアコギをガッシャンガッシャンと弾きまくるのは(「こっちの水苦いぞ」の一瞬のコーダ部アルペジオを除いて)この4曲目「涙まみれFIRE FIGHTER」ただ1曲。この曲で下山さんがアコギを選んだ、というのもまた、柴山さんが曲に込めた感情を汲んでのことではないでしょうか。
それだけに僕はツアーでのこの曲で下山さんがアコギを持つことを期待していますが、正直可能性は五分五分でしょうか。エレキにも、目立たないながら重要なバッキング・パートが多いですからね。

泰輝さんのキーボードはこの曲も2トラックです。
1曲目「こっちの水苦いぞ」(オルガン、ストリングス、ベースの3トラック)以外はすべて2トラックのレコーディングで、LIVEでの”神の両手”を想像しやすい演奏となっていますが、この曲の場合はちょっと異色な「沈黙の美学」とも言うべきアレンジが特徴。自分は決して目立たず、ヴォーカルや他の演奏楽器(特にギター)をいかに聴かせるか、という演奏なのです。

まずピアノ・・・みなさま、この曲のイントロを初めて聴いた時、柴山さんのリード・ ギターがまるで深い悲しみに「震えている」ように感じませんでしたか?
これは泰輝さんのピアノが「レ#ド#シソ#、レ#ド#シソ#」のメロディーをリード・ギターとユニゾンさせている効果だと思います。まるで泰輝さんのピアノが生身のエフェクターとなっているような・・・。
1番と2番の間の伴奏部では柴山さんのギターが別のフレーズを弾き、泰輝さんのピアノはイントロと同じ音階を弾きます。ここでようやく「ピアノ」の存在に気づくリスナーも多いのかもしれません。

さらにベース。
これほどヘヴィーなバラードを作曲した柴山さんです。きっと柴山さんから泰輝さんに重厚な低音のリクエストがあったのでしょう。「こっちの水苦いぞ」のようないわゆる「擬似ベーシスト」的なトラックではありませんが、サビで重々しいロングトーンを奏で、「悲しみ」「悔しさ」を歌う曲想の土台となっています。
このベース・トラックは、LIVEではきっとビリビリと場内を震わせるように迫ってくる音響を伴って再現されるはずで、ジュリー渾身のヴォーカル、柴山さんの狂おしいギターを際立たせ、お客さんを圧倒的な悲しみに静まりかえらせることとなるでしょう。

GRACE姉さんのドラムスは、淡々としつつも重厚なエイト・ビート(それでも常に”跳ねる”感覚を持ち続けた演奏でもあります)。
素晴らしいのは3’04”からの最後のサビで、決してテクニックだけに走らず、「歌」が必要としているフィルを次々に繰り出します。
ここではドラムスと共にアコギも重要な見せ場。下山さんとGRACE姉さんのLIVEでの再現に期待します!

本当に素晴らしい鉄人バンドの演奏(ジュリーの歌詞に見合う、という時点でもう、ジュリーの新曲の演奏は彼等でなければあり得ない、というレベルにまで来ています)ですが・・・「LIVEで聴くのが楽しみ」と言うにはあまりに「重い」バラード、「涙まみれFIRE FIGHTER」。
僕らファンはツアー前に、この曲を生で聴く覚悟を持つことが求められるでしょう。
ただ、その「重さ」の中で、ジュリーのストレートなメッセージを演奏で体現できる4人があっての「歌」なのだ、と今はCD音源でしっかり噛みしめておきたいです。

最後にもうひとつ。
これは厳密には「演奏」のことではないんですけど・・・この曲のアウトロのギター・ソロ部で、エンディングに向かい次第に強くなっていく轟音のようなエフェクトに、みなさまお気づきかと思います。
これは「フランジャー」と言って、ギターでオーヴァードライヴとかけ合わせると「ジェット・サウンド」と呼ばれる効果が得られるエフェクター(「UNCLE DONALD」CD音源のエンディング間際のギターの音色として採り入れられています)が使われています。

ただしこの「涙まみれFIRE FIGHTER」の場合は、ギター演奏の際にフランジャーがかけられているのではなく、既にレコーディングされたトラックへの「後がけ」。つまり、ミックス作業の段階で表現された仕上げの「アレンジ」であると言えるでしょう。
しかもそれは、ギター・トラックのみならず複数の演奏トラックに施されているのです。

まるで「襲い来る風化」が被災地を覆いつくし飲み込んでしまうかような、戦慄のエンディング。
「本気」なのはジュリーと鉄人バンドだけでなく、新譜制作に関わったエンジニア・スタッフ全員が、「誇大でない現実」を歌うこの曲に真っ直ぐに立ち向かっているのですね。
現代の音響設備を考えますと、このエフェクトはLIVEでも再現される可能性があります。全国ツアーでの大きな注目ポイントのひとつだと僕は考えていますよ!


ということで・・・今年も3月11日にリリースされたジュリーの新譜全4曲の考察記事を書き終えました。
みなさまには、毎年恒例の大長文におつきあい頂くことになり本当に恐縮です。

例年以上に試行錯誤がありましたが、最低限、「自分の正直な思いを書く」という課題だけはクリアできました。そのせいで、恥も晒してしまいましたが・・・。
あとは、考察の至らなさを7月からのツアーでどう補えるか。ジュリーの生の歌声を聴いて考えが変わったり、閃いたりすることがあるのかどうか。
やはり、楽しみです。音楽なのですからね。
ジュリーは今年も素晴らしい音楽を届けてくれた、と言うべきだと思っています。


巷では、音楽劇『お嬢さんお手上げだ 明治編』の東京公演も終わって・・・と思いきや、急遽6月の追加公演が決定したようで、インフォも届きました。
追加の会場は渋谷のさくらホール・・・僕は昨年ピー先生と二十二世紀バンドの初日公演で初めて訪れた所ですが、とても素敵なホールでしたよ。

あ、インフォと一緒に全国ツアーの方の渋谷公演、落選ハガキも頂きました。僕は3日、4日と申し込んでいましたが、4日が川越公演に振替となったようです。3日は無事当選したのかなぁ。心配です。
渋谷公会堂改築前の大楽である4日に参加できなくなったことは残念ですが、振替の川越公演は10月後半。スケジュール・バランス的にはむしろ良かったのかなぁ、と前向きに考えているところです。

それでは次回からは、自由お題にて様々な時代のジュリー・ナンバーを採り上げ、なるべく短めの文量で(本当かよ)コンスタントに更新していこうと思います。
とりあえず次のお題は決めました。
純粋に楽曲としてなら、『PRAY FOR EAST JAPAN』がコンセプトの最近のジュリーの新曲群に今加えられたとしても違和感が無い、という70年代ジュリーの志の高いロック・ナンバーです。
さてどの曲でしょうか。お楽しみに!

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2015年4月 6日 (月)

沢田研二 「泣きべそなブラッド・ムーン」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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週末は少し天気が崩れてしまいましたが、先週関東では、すっかり桜が満開となりました。
毎朝電車を降りて会社まで歩く際、ちょっと迂回すると桜のきれいな公園を通り抜けることができ、最近はそのルートでの通勤が日課です。

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ふと、以前ブログでネット記事をご紹介したことのある『バリケートに分断された桜並木』の、あの富岡町の桜のその後が気になり、検索してみました。
最初にヒットしたのは
こちら
あぁ、地元の方々も国も頑張っているんだ、と一瞬胸躍りましたが、続けてヒットしたのが
こちら
「悔しさ」の続く4年目。
僕ら非・被災者は「遠い地のこと」とこの桜から決して心離さず、「来年こそは」の思いを地元の方々と共に持つことが大切です。自分にできることを少しでも探し実践しながら、応援を続けていかなければ・・・。
(追記:この記事の更新翌日、aiju様がブログで紹介してくださった記事がこちらです)


一方、先月にいち早く桜は満開となっていたという僕の故郷、鹿児島では。
先日、1曲目「こっちの水苦いぞ」の考察記事の中で僕は、「川内原発再稼働までにはあと3つの段階が残されている」と書きましたが、そのうちのひとつ「使用前検査」が去る3月30日に開始されました。
これもやはり全国的には大きなニュースにならず・・・このまま残された段階それぞれがこんな感じでひっそりと進み、ある日突然「再稼働決定」が全国に突きつけられることになるのでしょうか。
九電は既に川内原発について、「7月発電開始」「8月営業運転開始」を発表しているのです。

北の被災地、南の故郷・・・桜に思いを馳せる4月。
こちら首都圏では、『お嬢さんお手上げだ 明治編』東京公演も始まりました。いよいよ春がやってきて、ジュリーファンのみなさまそれぞれ新たな気持ちの切り替えに向かっていらっしゃることと思います。

そんな中、このブログでは引き続きジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』の楽曲考察記事を書いていきますが・・・ここまで前半2曲、重い話ばかりの記事を書いてしまって、ごめんなさいね。
読んでくださるみなさまも、暗い気持ちになってしまったり、呆れたり退いたりしていらっしゃっるのではないかなぁ、とさすがに僕も不安でした。
でも、今日採り上げる3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」は、考察のアプローチをガラリと切り替えるにはふさわしいお題です。

と言うのも・・・。
先週、「さぁ3曲目」と意気込んで下書きにかかろうとして、いきなり困りました。うまく説明できないんですけど、これほど「眉間に皺寄せて語りまくる」ことが似合わない曲も無いのでは?と思ったんですよ。
言葉を重ねれば重ねるほど、ジュリーの思いとは「全然違う」「安っぽくなってしまう」と感じられて、実は最初の2、3日は途方に暮れながらの考察期間でした。
新譜前半の2曲は「自分の考えを正直に書く」ということで何とか乗り切りましたが、「泣きべそなブラッド・ムーン」ではその書き方が通用しそうにありません。

何故だろう。
こんなに優しい曲をジュリーが届けてくれたのに。

もちろんこれは「優しい曲」ではあるけれど、「明るい曲」とまでは言えない・・・いやむしろ深い悲しみを湛えたバラードと言っても良いでしょう。
それでも今回の新譜の中で、多くのジュリーファンがこの曲に心洗われ、救われたように感じていらっしゃるのでは、と想像しています。それほど癒やす力、優しい力に満ち溢れた曲。
額に皺寄せるような重い考察ばかりに終始して、みなさまの感動を台無しにするわけにはいきません。

昨年10月8日の『三年想いよ』南相馬公演には、普段から交流のある先輩方、いつも拝見させて頂いているブログさんなど、僕の知っている先輩方数名が無事参加されました。お話を伺ったり、感想を読ませて頂いたりして、「本当に素晴らしいステージだったんだろうなぁ」とは分かったけど、まだ足りない、もっと知りたい、とも思えて、いつもお世話になっている先輩には「じっくりと詳しいお話を聞かせてください」と昨年お願いしていたんですが、なかなか時間がとれず未だ果たせないまま今年も3月11日を迎え、他でもないジュリーの歌で「10月8日」を思うことができました。
あの日が皆既月食だったこと・・・「自然への畏怖」に敏感なジュリーは、その運命をどう感じたでしょう。

そう考えていてふと、遠くから南相馬公演の無事の成功をひたすらに祈っていた気持ちを思い出しながら書いたらどうかな、と思いました。
ジュリーがあの日を思い出して作った曲なんだ、LIVEには参加できなかったけど、僕も昨年の10月8日に気持ちを戻したつもりで書いてみよう・・・。

僕は現時点ではこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が新譜の中で一番好きです。抜きん出ています。
ただ、いくら大好きな曲でも、それこそこの曲ばかりは、僕などより何百倍も、何千倍も深い感動を持って聴いている方々がいらっしゃることは明らか。それは言うまでもなく、昨年10月8日、『三年想いよ』南相馬公演に実際に参加されていたみなさまです。
ジュリーが昨年11月のあのフォーラムで語った「日々の嫌なことはすべて忘れられる」ほどのステージとは、そのひと月前の南相馬公演を思い出しての言葉だったのではないでしょうか。
どれほど素晴らしいステージだったか・・・。幸い、親しくさせて頂いている先輩方や、いつも拝見させて頂いているブログさんの感想など聞いたり拝見したりして、何とか想像力を振り絞って(生の体感とはまるで比較にならないにしても)、頭に浮かべることはできます。

ジュリーファンはいつも、自分が参加できない会場で公演がある日は、心をその地に向け思いを馳せているものですが・・・昨年の10月8日は本当に、全国のお留守番組すべてのジュリーファンの思いが南相馬の地に向けられ、凄まじいほどの目に見えないエネルギーが会場をとりまいていたのではないかと思います。
まさかジュリーがその日のことをハッキリと曲にして、不参加だった僕らにも改めて届けてくれるとは。

実は・・・これは僕が読んだり聞いたりした範疇に限ってのことなんですけど、「泣きべそなブラッド・ムーン」について、南相馬公演に実際に参加していた人、そうでない人との間で、くっきりとその感想が分かれている歌詞部があります。
サビで歌われる「君」が
誰を指すのか、というね。
南相馬に参加されたファンは、「この”君”って誰のことなんだろう?」とあれこれお考えの様子。
対してあの日遠くから会場へと思いを馳せていたお留守番組のファンは(僕も含みます)、まるで疑いもせず「これは私のことだ!」と考えているようなのです。
ジュリー自身が、「素晴らしかった」「来て良かった」「被災地に受け入れてもらえた」と感動したに違いないあの日のすべてを、その場にいなかった人(ファン問わず)ひとりひとりに「こうだったんだよ」と伝えたい、分かち合いたい、と歌ってくれているんだ・・・そんな確信ですね。
これは逆に、あの10月8日にジュリーの歌を生で聴いていた人には浮かびにくい発想なのかもしれません。一度、その場で手渡されているわけですからね。

ですから僕のように南相馬に参加できなかったファンとしては、この歌詞で2度繰り返される「君にも♪」の、最初の「君」が自分以外の不特定多数、2つ目が自分のこと、と勝手に思い込みながら聴いています。

でも・・・じゃあ「泣きべそなブラッド・ムーン」が楽しい曲かというと、当然そんなことはありません。

ジュリーが南相馬でLIVEをやる、と知った時から僕らは心がざわつきましたし、公演が大成功に終わり、素晴らしいステージ、素晴らしいお客さんだったと分かっても、それで万歳、とは済ませられません。
やっぱり、自分の目でその素晴らしさを確かめていないからそうなのでしょう。

そして、僕などはジュリーについては心配性ですから(ファンはみなさんそうなのかな?)、この曲の穏やかで優しいジュリーの歌詞中にも、所々に切実な悲しみや怒り、そしてやっぱりジュリーの「自責」のような感情をどうしても感じてしまうのです。中でも「鬱憤」「後悔」「懺悔」というフレーズの連呼は特に気がかりで・・・。

今日は考察本題自体は優しく穏やかな内容に、と思っていますが・・・その前に、僕のそんな暗~い感想の一部を、ほんの少しだけ先に書いてしまいましょう。

お正月LIVE『昭和90年のVOICE∞』のジュリーには、笑顔がまったく無かった、というわけではないけれど、とても少なかった・・・これまでとは違いましたよね。
MCが短くなったことについて、僕も最初は昨年のフォーラムのことがあったからかなぁ、と考えたけど、「泣きべそなブラッドムーン」で「誤解なた仕方ない」と歌うジュリーの声を聴いた今はそうは思っていません。
「もうステージでニコニコしていられないんだ。そんな状況じゃないんだ。もう限界だ」と。
「新しい年になったのに、嬉しいことが何もない」と語った渋谷初日公演のジュリーを思い出します。
僕の考え過ぎなら良いけど、7月からの全国ツアーでジュリーが果たして笑顔を見せてくれるかどうか・・・覚悟はしておかなきゃいけないのかなぁ、と。

とてつもなく重たくて
  Gm             A♭

言葉にならないさ想    い
Gm                  Am7-5   D7

ただ、僕がそんなふうに「ジュリー自身が主語」と考えてしまった2番Aメロの歌詞については、先日「臨界限界」の記事に頂いた先輩のコメントを拝見し、「本当の苦しみの中からは言葉など出てこない」という被災者の目線と解釈すべきだった、と今は考え直しています。

個人的に一番胸に突き刺さった箇所は実は1番で

優しさ  じゃ     違うか  ら
E♭maj7  B♭maj7   E♭maj7  B♭maj7

心な    い 言葉   は怒  ろう
E♭maj7  Cm7 Am7-5  Dsus4  D7

僕は、「優しさを振りかざす世間」にこれまで疑問を抱いたことがありませんでしたからね・・・。

さぁさぁ、暗い話はここまでにします。
「泣きべそなブラッド・ムーン」はそれでも「優しい曲」なのです。ジュリーの優しさ、曲の美しさ、完成度の高さ・・・素晴らしい名曲です。
今日は胸が痛くなるような話はここまでの枕にとどめ、ここから先はジュリ ーの歌人生にまたひとつ加わった歴史的な名曲を、純粋に素晴らしいバラードとして紐解いてゆくことに全力を注ぎますよ~。
僭越ながら、伝授!


みなさまは「泣きべそなブラッド・ムーン」とジュリーがつけたタイトルに、どんな光景を想像していますか?
南相馬に参加されたみなさまは当然、その目でご覧になられた土地の風景も合わせ、あの日の皆既月食とそれを見つめるジュリー、という構図をハッキリと思い浮かべることができるかもしれませんね。

一方僕は南相馬の風景を知りませんから、なかなかリアルに映像が浮かんできません(もともと想像力に乏しい、ということもありますが)。
僕が思い浮かべるのは・・・とても失礼なようですが、空を見つめて子供のように泣きじゃくっているジュリーです。この歌詞、タイトルは、「南相馬のブラッド・ムーンがまるで泣いているように見えた」という解釈もできますが、僕には「泣きべそな」という表現が重要なのではないか、と思われます。
「泣きべそ」って、大人の男性が使う言葉としては珍しいですよね。使う時があるとすれば・・・思わず涙を流してしまった時に「自分、泣きべそになったものだなぁ」と自らを切なくも愛おしく、笑い呆れているような瞬間ではないかと思ったんですよ・・・。

「泣きじゃくる」は言い過ぎかもしれませんが、ジュリーは南相馬の1日のどこかで、泣いてしまった瞬間があったんじゃないかなぁ。LIVEが終わってからなのか始まる前なのかは分からないけれど、色々な想いで泣いてしまって、それが南相馬の空を見上げた記憶と重なって、思い出すのは涙で滲んだブラッド・ムーン・・・そんな感じかなぁ、と。

ジュリーが10月8日に見た風景というのは当然LIVE会場近辺だけではなくて・・・僕も参加された先輩方からお話を聞かせて頂いているけど、閑散とした道がずっと続いていたり、除染作業の現場があったり、町の商店街の人々の暮らしであったりするわけですよね。
そうした風景が涙とブラッド・ムーンに集約されていると言うのかな・・・実際その地を知らない僕がこんなことを書くのは軽々しいのかもしれませんが・・・。

ただ、そんな切ない、辛い風景もすべてひっくるめて忘れられない、忘れようのない10月8日のステージだった・・・それを全部、「泣きべそなブラッド・ムーン」という歌ですべての人に伝えたい、渡したいと。
昨年の南相馬公演はジュリーにとって、本音を晒してお客さんの心の誠を受け止められた、「3年目」の特別な1日だったのかなぁ、と想像しています。

先月の終わりくらいまでは、『こっちの水苦いぞ』1枚、4曲だけを繰り返し聴き他の音楽はまったく耳にせず、という状況だった僕も、初めて聴いてから数週間が経ったことで、余裕が出てきたのでしょうね・・・もちろん仕事の移動中のBGMはまだまだ新譜オンリーで、既に記事を書き終えてしまった前半2曲についても今さらの新発見があったりするのですが、自宅では時々ジュリーの昔のアルバムなども思いつくままに聴いたりしています。

今回「泣きべそなブラッド・ムーン」の下書きを始める前に、南相馬にも参加された先輩のまねをして、『JULIEⅣ~今僕は倖せです』から、「涙」を聴きました。
本当に驚かされます。ジュリーの歌心、魂というのは、40年以上前から全然変わっていないのだ、と。

ここでまた僕の好きな将棋の話を例えに出して恐縮ですが、尊敬している関西の名伯楽・森信雄七段(多くの弟子を育て慕われる人柄、人望で有名)が、昨季見事順位戦B級2組への昇級を果たした直弟子の若武者・澤田真吾六段について、こんなふうに評していました。

マイペースの一門の中で、こと将棋に関しては、色んな面で妥協しない一徹さがある。素直なキャラクターの中に「剛」が引き立つ。謎めいた宝物(?)は今のままで、大きく育ってほしいなぁと思う

同じ「澤田」という苗字からの連想というわけでもないのですが、頑固一徹な「剛」を若くして持つ少年というのは、その中に「謎めいた宝物」を秘めているものなのかなぁ、と思いました。僕の知らない、20代前半のジュリーって、そんな感じだったのかな、と思います。
そしてジュリーは、その「謎めいた宝物」をずっと変わらず持ち続けたまま、今に至っているようです。
「涙」から43年後の「泣きべそなブラッド・ムーン」は、1曲まるごとがジュリーの涙のような曲・・・「それは美しい結晶」のような曲なのですね。

72年リリースの「涙」(ジュリー作詞・作曲)について僕がこのブログで採り上げたのは、あの2011年・・・「自分は何をしているのか」「何をすればよいのだろうか」と悩み迷った挙句、被災された先輩の「ジュリーの曲の記事を楽しみにしています」というお言葉に逆に励まされるようにして、「今の自分にできることは・・・」と決意した「3日に1曲」の考察記事更新をノルマとして頑張っていた時でした。
例によって後追いファン故の考察の甘さを、何人もの先輩方のコメントでフォローして頂き、改めて僕の知らなかった「涙」にまつわる色々なエピソードを教わりました。『女学生の友』に連載されていたフォトポエムに大いに興味を抱いたのも、あの時先輩がコメントで触れてくださったからです(今は全連載分の貴重な資料が手元にあり、アルバム『JULIEⅣ~今僕は倖せです』収録のお題曲を採り上げる際、少しずつ「オマケ」コーナーとして記事の最後に添付させて頂いています)。

さらにその後、これは結構最近なんですけど・・・天地真理さんのピアノ演奏をバックにジュリーが歌った「涙」の映像を教えて頂きました。
これが素晴らしかった!
僕はこれまで何度も、「ジュリーはバックの演奏に敏感」なヴォーカリストだと書いてきました。 それは単純に、テンションの高い演奏だと「気が乗る」タイプと言い換えても良い面があるでしょう。
で、この時の「涙」を歌うジュリーって、凄く気持ちが入ってるんですよね。天地さんは元々ピアノの素養をお持ちだったそうですが、「涙」のピアノ演奏では流暢な感じは受けません(緊張されていたのかな?)。ただ、丁寧に神経を集中させて弾こう、という女性独特の気魄が伝わってきて、ジュリーはそんな天地さんの「必死さに乗った」のだと思います。
(ちなみに天地さんについて僕はタイムリーでよく知らぬまま、世間の評価「歌が下手」を長い間信じ込んでいました。しかし最近、1975年リリースの「レイン・ステイション」という素晴らしい歌声の名曲を初めて聴き、自分の思い込みを恥じています)
話が逸れているようですが、この時の「涙」を歌うジュリーの気持ちのベクトルが、南相馬公演のことを思い歌う「泣きべそなブラッド・ムーン」ととても近いように僕には思えてならないのです。

やっぱり、「優しさ」なのかなぁ。

優しくなければ・・・陳腐な表現ですが「心がこもって」いなければ、こんなふうには歌えないですよね。

あの日、南相馬ではちょうどLIVE開演前くらいの時刻から月が欠けていった、と聞いています。
ジュリーは最初のMCで
「みなさん、こんなところにいていいんですか?皆既月食見なくていいんですか?」
と、お客さんの雰囲気を和ませてくれたのだとか。
そしてきっとジュリー自身は、10月8日のお客さんにとても癒された、と思っているのではないでしょうか。この国のこと、世界のこと、色々なことを考えて神経を尖らせていた毎日を忘れてしまうほどに。


僕が「いいなぁ、いいなぁ!」と沁みた箇所はやはり

晴れた東の空には 静かな皆既月食
G#m                       Emaj7

10月8日の全部 花束にし 手渡したい
 C#m                    A#7              D#7

君にも           君に  も
      C#m7  A#m7-5   D#7  G#m


(コードは半音上がりの転調後、嬰ト短調部から)

この「君にも」を2度繰り返したジュリーの気持ち。
よくLIVEでジュリーが、上手側下手側、1階2階ランダムに、柔らかな動きと共にお客さんに語りかけるようにして歌ってくれるシーンがあるじゃないですか(例えば、「届かない花々」の「手をつないでいて♪」のところとか)。あんなふうに、世界中の人達に10月8日の全部を手渡したい、と心から思って歌っているのでしょうね。
「君にも」が1回だけだと、そこまで伝わらなかったと思う・・・気持ちで載せた詞ですよね。

それにしてもこの歌声は・・・過去ジュリー・ナンバーの中でも屈指の1曲ではないでしょうか。
僕は最近actに嵌っていて、「歌で演ずる」ジュリーの才にトコトン惚れ込んでいますが、ここではジュリーに「演じよう」という気持ちはまったく無いですよね。身体ごと心ごと歌っています。
その上でジュリーには、無意識に演じ描ける風景がある・・・本当に凄い歌手ですよ。


実は、いつもはLIVEに参加するまでは新曲を丁寧に聴かないタイプのカミさんが、この「泣きべそなブラッド・ムーン」については早くも大絶賛でして・・・曰く「ドラマティック」だと。歌詞とか背景とか、そういうことを考える前にまずこのジュリーの歌声とメロディーがそのままドラマのようだ、と言うんですね。「ドラマティック」というのは何処か語弊のある言い方なのかもしれないけど、その感想自体は良く分かるのです。

そんな話がきっかけで、「ジュリー、actみたいな歌満載のスタイルで、この曲とか「Fridays Voice」とか、最近のバラードを全面に押し出した音楽劇をやってくれたら凄そうなのにね」なんてことを話しました。テーマを拡げて、『音楽劇・我が窮状』ってのも良いね・・・とか。
「まぁ夢物語だよな」と考えていて、突然思い出しました。ジュリーが「震災をテーマにした音楽劇」についてほんの少しだけど語っていたことがあったはずだ、と。
『Pray』の年の新聞のインタビュー記事だったかなぁ。「やりたいなぁとは考えているけど、僕がやってふさわしいのかどうか分からない」みたいな答え方をしていたんじゃなかったかな。
よく思い出せないんです。ネットでちょっと探 してみたけど見つからなくて・・・(よく言われるんですが、僕はとても検索が下手なのです泣)。
先輩方ならしっかり覚えていらしゃるでしょうね。

でも、音楽劇ってのはやっぱり、ジュリーの社会性とかそういう面とは別のところでやってるから良いものなのかな。産経ニュースに載ってた写真、ジュリー達が皆本当に楽しそうに見えましたしね・・・。


では続いて、そのドラマティックなジュリーの歌声を引き出した、泰輝さんの作曲について。
発売前の個人的な予想は、ロキシー・ミュージックみたいな雰囲気の「お洒落なバラード」というもの。
この予想も見事外れでした。バラードはバラードだったけど、もっと日本的と言うのかな~。良い意味で昭和っぽい、キャッチーな短調のメロディーです。
それを、いざアレンジではロックに仕上げているのが素晴らしい!サビのギターなんて、ガンガンに歪ませていますしね。

一応最後まで採譜もしたけど、案の定僕には荷が重く・・・と言うのも、メロディーにコードをつけるだけならすごく明快な曲(そのあたりに「昭和」の魅力があるとも言えます)なんですけど、2番から噛み込む右サイドのバッキング・ギターに象徴されるよ うに、アレンジメント・コードがメチャクチャ高度なんですよね~。
結果、僕の起こしたコード通りに演奏すると、まるで『火曜サスペンス劇場』のエンディング・テーマ のように聴こえてしまいます・・・(泣)。
いやでもそれはそれでとても良い響きですので(言い訳)、一応歌詞引用部にはコードを振りますが・・・試し弾きはピアノだけにしておいた方が良いかも。
ギターのアレンジメント・コードの採譜はYOKO君に任せた!(今年も大宮のビフォーで答え合わせか?)

泰輝さんの作曲作品は相変わらずメロディーが美しく整えられていて、しかも「小節の頭に向かっていく」印象があります。これがジュリーのヴォーカルに合うのです。
泰輝さん作曲の過去のジュリー・ナンバーでは「涙色の空」に近いのかなぁ、と最初は考えましたが、鉄人バンドの演奏、アレンジをじっくり聴いていくうち、もっと近い曲があることに気づきました。
その話をするには、鉄人バンドの演奏の素晴らしさを語っていくことが近道です。まずはいつものように、レコーディング・トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左トラック1)
・エレキギター(左トラック2)
・エレキギター(右トラック1)
・エレキギター(右トラック2)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ストリングス)
・ドラムス

この曲の演奏の大きな特徴は、エレキギターが計4トラックを数えることです。アコギ無しのエレキだけの4トラック、というのは鉄人バンドのレコーディング音源としてはかなり珍しい。左サイド、右サイドに2トラックずつ。2012年以降の新譜では、基本「間奏」のリード・ギターだけはセンターにミックスされていることが多いですが、この曲と次の「涙まみれFIRE FIGHTER」にはそれが無く、左右2トラックずつ(「涙まみれFIRE FIGHTER」ではそのうち1トラック がアコースティク・ギター)のミックスです。
「泣きべそなブラッド・ムーン」の場合、2’29”からの8小節を「間奏」と考え、エレキギターのツイン・リードを際立たせるために左右に振られているのでしょう。

いやしかし・・・今でこそ左右2トラックずつのギターがそれぞれ鉄人バンドのステージ立ち位置通りの分担の音に聴こえるようになってきているけど、最初はホント、逆に聴こえたりしてたんだよなぁ。
右サイドの空間系のエフェクトがかけられたバッキング(「優しさじゃ違うから」のところから噛んできます)が下山さんの音に聴こえて、「あれ、ステージの立ち位置とは逆だな?」と思っていたのです。

全然言い訳とかじゃなくて真剣に考えていることなんですが、ここ数年で急速に、柴山さんと下山さんのギターの音が似てきていませんか?
もちろん、使用モデル含めて際立った個性の違いというのはそのままですが、届き方というのか、鳴らせ方というのか。『昭和90年のVOICE∞』の時の「希望」の音とか思い出すと特にね・・・。
本来まったくの他人である夫婦が、何十年もの長い時間を共に過ごしていると似てくる、とよく言うじゃないですか。そんな感じなのかもしれないなぁと思って。

ここで『ギターマガジン2月号』に掲載された下山さんのインタビュー・・・柴山さんについて尋ねられた下山さんが放った「唯一先輩と呼べる人。慕ってる」発言について僕は真面目に(笑)語りたいのだけれども。
普通、同じバンドの、同じギターというポジションのメンバーについて尋ねられた時、ギタリストは「彼はこういうタイプ、僕はこういうタイプ」といったように、 演奏の個性について語りその上で自分はこんなギタリスト、という主張もするものなんですね。
もちろんそれは相方へのリスペクトを込めてのことです。例えば、ミック・テイラー脱退後にローリング・ストーンズに新加入したロン・ウッドについて尋ねられたキース・リチャーズが「奴は俺と似たタイプのギタリストなんだ」と語ったり。
でも下山さんはごく自然に、「柴山さんとは自分にとってこんな人」ということを、音の話を抜きにあれだけの短い言葉ですべて語ってしまっています。
もうね、人格的なレベルで突き抜けたギタリストが2人も同じバンドに在籍していて・・・ギターという楽器で何をすべきなのか、という感覚が、言葉や理屈を超えて共有されちゃってるんじゃないかな ぁ。

これは2012年からの『PRAY FOR EAST JAPAN』コンセプトの作品を、年に一度作り続けてきたジュリーと鉄人バンドの中に起こった最も素晴らしい音楽的な進化かもしません。これが「普通に上手いバンド」なら、歌詞に演奏が負けてしまうところですよ。
「泣きべそなブラッド・ムーン」のサビで左右から飛び込んでくるゴリゴリのギター2本の音を聴きながら、僕はそんなことを考えているのでした。

さて、4トラックのエレキギターのうち、まず活躍するのは左サイドのパワー・コード。8分音符をダウン・ピッキングで淡々と奏でます。
イントロでは泰輝さんがピアノを弾いていたり、GRACE姉さんがタムで重々しい刻みを入れていたりするので音数も多く聴こえますが、いざ1番のジュリーのヴォ ーカルが始まると、鳴っているのはこのパワー・コードとドラムスだけになります。
たった2つの楽器でこの説得力!
これは昨年の「三年想いよ」のAメロでも採り入れられたアレンジで、全国ツアーでも見事再現され、僕らを驚嘆させてくれました。今年の「泣きべそなブラッド・ムーン」でも同じ驚きに出逢えそうです。
サビでは、左サイド、右サイドともに、歪み系の豪快な音色が満を持して噛んできます(ツイン・リードの箇所では高音部と低音部に分かれます)。
4トラックそれぞれに意味があるアレンジであると同時に、ベースレスをカバーしているんですね。

泰輝さんのキーボードは、たぶん2トラック。
「たぶん」と言うのは、ストリングス系の音以外に、オルガンのように聴こえる箇所があるからです。でもこれは一気の1トラック・レコーディングじゃないかなぁ。
ピアノはとにかく渋いです。イントロをはじめ要所で登場する、「ソシ♭ドファ、ラ♭シ♭ドファ、ソシ♭ドファ、ラドファミ♭レ~♪」という印象的なフレーズ。淡々と赤を描くようなそのフレーズからは、正にブラッド・ムーンを思い浮かべることができます。


GRACE姉さんのドラムス・トラックで最も印象深いのは、やっぱり「タムの刻み」だなぁ。特に、右サイドから「ドコドコ」って聴こえてくるタムは素晴らしい響きにして素晴らしいアレンジ。泰輝さんのピアノのフレーズ同様に、正にブラ ッド・ムーンです。
で、ギターのパワーコード・カッティングがエイト・ビートであるのに対し、この曲のドラムスは16分音符で跳ねるんですよね。そこでふと思いついたのは、もしこの曲が2007~2008年頃の白井良 明さんのアレンジでレコーディングされていたら、ドラムスの打ち込みは「太陽」(アルバム『生きてたらシアワセ』収録)のような仕上がりになっていたんじゃないか、と。
そう考えると「太陽」と「泣きべそなブラッド・ムーン」には、曲想も共通するところがたくさんあるんですよ。
どちらも泰輝さんの作曲作品。これが先程途中になっていた話ですね。
楽曲タイトル、歌詞も「太陽」と「月」でしょ?

これは、ジュリーが南相馬のブラッド・ムーンを想起して歌詞を載せる際、泰輝さんの曲に既に「自然への畏怖」があったんじゃないかなぁと思うわけです。
GRACE姉さんは、「自然への畏怖」についてジュリーを凌ぐほどの感性を持っている人かもしれない・・・女性ですしね。その結果、16分音符で跳ねる自然風景的なドラムス・テイクが生まれたんじゃないかなぁ。
もちろんこの曲の場合は生ドラムだからこその説得力があるわけで、みなさまそれぞれが2014年10月8日のブラッド・ムーン、南相馬の風景を思い浮かべることができるドラムスの響きです。全国ツアーでのこの曲、きっと照明は赤、或いは薄暗いオレンジで、鉄人バンドは影のような暗がりの中からの 演奏・・・そこから聴こえてくるGRACE姉さんのドラムスは、きっとお客さんの耳に印象深く残るはずです。


最後に。
今年は無いみたいだけど、ジュリーはまたいつか全国ツアーで南相馬に行くのかな・・・?
きっと行きますよね。「忘れてないよ」「また呼んでくれてありがとう」と伝えに・・・その時にはきっと「泣きべそなブラッド・ムーン」を歌うでしょう。
前回『三年想いよ』のセットリストには無かった「時の過ぎゆくままに」や「TOKIO」も、きっと。
今度は僕もその場にいられると良いなぁ・・・。

また、今年7月からのツアーで新譜『こっちの水苦いぞ』収録の4曲がどのような演奏順となるのか、というのもファンにとっては楽しみのひとつでしょうが、僕はこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が(新譜の中では)大トリになるのでは、と予想しています。
みなさまはいかがですか?


それでは次回更新は、新譜4曲目の「涙まみれFIRE FIGHTER」・・・いよいよ最後の曲です。
これほど「痛い」曲をCD最後の収録にするとは・・・ジュリーの狙い、心しなければなりません。歌われているのは、「誇大でない現実」であることを。

また、音的なことで言っても、3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」がト短調から始まり最後のサビでは半音上がりの転調後、嬰ト短調となります。そして続く4曲目「涙まみれFIRE FIRETER」は、同じ嬰ト短調。
みなさま、最初に新譜を聴いた時、3曲目と4曲目は似た感じだな、と思われませんでしたか?それは単に重厚なバラードが続いている、というだけでなく、この2曲のキーが揃えられているからなのです。

そして・・・僕にとって「涙まみれFIRE FIGHTER」は、リリース前の予想が最も実際とはかけ離れていただけに、特に大きなショックを受けた曲でした。
素晴らしい曲です。
執筆にはまたもや時間がかかりそうですが、キチンと気持ちを込めて書こうと思います!

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2015年3月29日 (日)

沢田研二 「限 界 臨 界」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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去る24日、遅れていたアマゾンさん予約分の『こっちの水苦いぞ』が届きました(発送メールが届くまで、アマゾンさんにも予約していたこと自体をすっかり忘れるほど聴きまくっている、という毎年のパターン)。
これで手元に2枚。うち1枚は例年通り、YOKO君に引き取ってもらう予定です。

僕も含め、みなさまがアマゾンさんに予約していた『こっちの水苦いぞ』がオリコンで売上枚数カウントされる運びとなり、いきなり9位を記録したそうですね。
正直セールス実績なんてもうジュリー自身は全然気にしてないのかな、とは思うけど、こうして少しでも新譜が話題となり、ファン以外の人が曲を耳にする機会が増えて欲しい、と個人的には願っています。

さて。
実は・・・ブログには今まで書くのを控えていたんですけど、僕は2月末から3月頭までのだいたい10日間くらいでしたか、体調の異変に見舞われ辛い日々を送っていました(actにどれほど救われたか・・・)

胃カメラを飲んだ、という話は「生きてる実感」の記事で書きましたけど、その翌々日からのことです。今日は冒頭で、その時のことを少し書かせて頂きます。

胃カメラを飲むきっかけとなった症状自体、検査の数日前から無くなっていて、検査結果も胃、食道、十二指腸とも異常無しということで、「これで肉体的にも精神的にも完全復活じゃ!」と思っていた矢先でした。
突然喉が痛くなってきましてね・・・最初は「あれ、風邪ひいたかな?」と思う程度でした。
それが、翌日には激しい痛みに変わりました。

僕は昔から扁桃腺が弱くて、でも最近はそんなことも無くなってきていたのですが(最後に扁桃腺で苦しんだのが、忘れもしない2010年の『秋の大運動会~涙色の空』渋谷公演、下手側2列目という神席を病欠してしまった時)、こりゃ久々に来たかな、と思いました。
ところがさらに1日経って、「これはおかしい」と。
とにかく痛みが激しい。凄まじい。いや、扁桃腺を腫らした時だって相当痛いことは痛いんですよ。でも全然違う・・・と言うかそれを遥かに上回るほどの痛み。
唾を飲み込んだ瞬間に痛過ぎて立ちくらみがし、ちょっと声を出しただけでも喉に激痛が走ります。

そこで思い出したのが、検査当日の出来事です。
ご存知のかたも多いでしょうが、胃カメラというのは管を飲み込んだらまず胃の一番奥の十二指腸の入り口付近まで一気に降って、そこから徐々に手前に戻ってくる感じで検査が進みます。
その、最後に戻ってくる時。「食道も大丈夫」と言われいよいよ管を抜こうか、というところで先生が「あっ」と声を上げたのでビックリしていると、「出血してる。飲み込む時に傷がついちゃったんだな」と。
当日は「変なものが見つかったわけではなかったんだ」と安心したものでしたが・・・その時のことを思い出してネットで調べてみたら、胃カメラで喉の奥を傷つけて七転八倒した、という体験談がいくつもヒットしました。世間では「よくあること」とまでは言えませんが、どうやら僕はそのパターンに嵌ってしまったようです。
僕は検査の際、先生に「デリケートなんだなぁ」と言われたほど嘔吐反射が強いタイプで、飲み込む瞬間に「ぐえっ!」と身体が大きくのけぞり、看護婦さんに抑えつけられて何とか、という状況でした(2年前もそうでした。飲み込む時より抜く時の方が苦しい、というタイプの人もいらっしゃるようですが、僕は抜く時は全然平気)。おそらくその時にやっちゃったんでしょうね。

再度病院に行き症状を話し、一応扁桃腺なども診てもらったところ、見える範囲で喉には所見無し。
「奥の敏感な部分を切っちゃったかな。”喉の口内炎”のような痛みが出ているならおそらくその時の傷でしょう」ということになり・・・痛み止めやら殺菌やらの薬を何種類か処方されて帰りました。
痛み止めは、飲んでからしばらくの間は症状がいくらか緩和するものの、すぐまた猛烈な痛みが襲ってきます。夜も眠れず、仕事の会話もままならず、という状況が続き、ようやく3月第1週くらいに痛みが治まったのでした・・・(おかげさまで、今は何ともありません)。

何故、いきなりこんなことを書いたのかというと。
痛みや苦しみというのは、経験しないと分からないものなんだなぁ、と改めて今考えているからです。
僕の痛みなどは、たかだか10日で癒えてしまったものだけれど、その何千倍、何万倍もの心の痛み、身体の不調が4年も続きなお先行きが見えない、というのはどれほどのことなのだろうか、と。

2012年『3月8日の雲』以降のジュリー・ナンバーの中には、思わず「うっ!」と耳を押さえてしまうほど強烈に「痛み」が伝わってくる曲がいくつもあります。
例えば「恨まないよ」「Deep Love」、今年の新譜から「涙まみれFIRE FIGHTER」。みなさまもこの3曲については同じように感じていらっしゃるのでは?
これら3曲の歌詞には、斬新な比喩による激しい言葉遣いや、淡々とした過酷な情景描写、苦しみや悲しみを吐露する被災者の独白形式、といういくつかの共通点がありますね。
しかし今僕は、それら3曲にも増して、今回の新譜で最も激しい「痛み」を歌った曲は今日のお題「臨界限界」ではないのだろうか、という考えに至っています。

「えっ、そうかな?」と思われますか?
確かに僕も、「限界臨界」はむしろここ数年のジュリー・ナンバーの中では気持ち的な「重さ」をあまり受けず、「聴きやすい」曲だな、と思っていました。
それは今でもそう聴こえてはいます。

でも・・・この一週間じっくり歌詞を読みながらこの曲についてあれこれと考え、採譜をして自分でも声に出して歌ってみたりしているうちにハッと思い当たり
「一般の被災者の方々が、もし今回のジュリーの新譜を聴いたら・・・」
と考えてみました。
収録曲の中で最もリアルに感じられ、耳を押さえたくなるほどの「痛み」を感じる曲が「限界臨界」という人達は、僕が考える以上に多いのかもしれない・・・。

何故僕はそうではないのか。
それは、自分が被災者ではないから。
僕などには到底実感できないほどの猛烈な「痛み」がこの曲にあるのではないか、ということです。

あの震災、原発事故で今なお苦しんでいる人達しか真に分かり得ない「痛み」。例えでも何でもなく実際に、今まさに「限界臨界」の渦中に身を置く人達。
まずはその人達にとっての「限界臨界」を本気になって考えずして、この曲を軽々しく分析、考察などしてはいけない・・・そう思いました。

そんなことを一週間ずっと考えたものですから・・・すみません、今日は冒頭から「限界臨界」の「痛み」についてどうしても先に書いておきたかったのです。
ここから、いつもの考察記事になります。

でも、いつものように「伝授!」などと書く気持ちにはとてもなれない・・・。先述の通り、僕にはこの曲のことが「分かるはずがない」と思いますからね。それは、こんな詞を書けるジュリーの感性がどれほど深いか、凄いかということでもあるのだけれど。
とにかく僕はこの曲について、それでも何とか自分なりに考察したことを正直に、一所懸命に書くだけです。
今回も長いです。ごめんなさい。


「臨界限界」の歌詞について、僕はおそらく多くのみなさまから「?」と首をかしげられてしまうような考察を一部持っていますが、まずはみなさまとも共通しそうな感想かなぁ、と思う部分から書いていきましょう。
「限界臨界」という楽曲タイトルについてです。

「限界」とは、「もうこれ以上は耐えられない」というギリギリの状況、或いは心情を表しているでしょう。
対して「臨界」。言葉自体の意味を調べますと、これは「過程」を表すようです。ですから、「臨界」とは「まだその先に起こることがある」状況であり、「限界」はその極限・・・「それ以上はもう無い」状況と言えます。
ジュリーファンとしてはそれでも釈然とはせず、さらなる答えを求めて「臨界 原発」と並べて検索しますと、「臨界状態」という言葉がウィキペディアでヒット。


臨界状態とは、原子炉などで原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続している状態のことをいう

2011年、僕らは「臨界」という言葉を何度も目にしたり聞いたりしました。ジュリーが「臨界」と歌うからには、まず原発の「臨界」の意味を持つことは当然です。

そこでこの曲のタイトル、「限界臨界」。
「限界」が「臨界」している・・・つまり、「もうこれ以上は耐えられない、限界だ!」という極限の苦しみが連鎖反応して延々と継続している、という・・・。
ジュリーは、「過酷」などという表現では生易し過ぎるほどの絶望的な惨状を、このタイトル及び歌詞中で表現していると考えられます。とてつもなく厳しい内容の歌詞である、と言わざるを得ません。

そう考えると、「限界臨界」には、被災地に対する為政者のやりようというものを
「まだそんな仕打ちを続けるつもりなのか!嘲り、馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
とする痛烈な反発であり怒りをして、「反体制ナンバー」という一面が浮き彫りとなります。
その場合、「(被災地を)馬鹿にしている」者は誰かと言うと、「薔薇色政治家達」や「薔薇色経済人達」である、と考えるのが自然でしょう。これは強烈な「ロック」の手法ですよね。確かにその歌詞考察は一局であり本道である、とは僕も思います。

しかし、また別の考察を僕は持ちます。「(被災地を)馬鹿にしている」者とは、実は歌い手(ジュリー)、そして僕ら一人一人であったのだ、とする考え方です。
これはあくまで個人的な考えですので、ジュリーにそんな意志は全然無いかもしれない、とは承知の上で、僕自身への自戒も込めた楽曲解釈としてここで書かせて頂きたいと思います。

話は数ヶ月前、昨年11月にまで遡りまして。
『三年想いよ』ツアー最終日、あの国際フォーラムですね。あの日はみなさまご存知の特殊な出来事がありましたので、僕はかなり変則的なLIVEレポートをブログで書いてしまいました。にも関わらず、多くのみなさまから暖かいコメントを頂きとても嬉しかったことを今でも昨日のことのように覚えています。
その中で、プロの文章家でいらっしゃるカリーナ様から頂いたコメントに、こんな一文がありました。


沢田研二さんは、おそらく正直さと誇り高さゆえの知性で私たちのなかにある優越感や欺瞞を指摘されますよね

もちろんその時は、あの日のステージ上のジュリーの姿を思い浮かべながら「あぁ、仰る通りだなぁ」と感銘を受けたんですけど、それとは別に・・・ジュリーという歌手の、ある大きな一面を簡潔に表現されているお言葉のように思えて、僕は後々までそのお言葉自体を強く心に残していたのでした。

そんな中、今回の新譜・・・特にこの2曲目「限界臨界」についてじっくり考えた時、唐突にそのお言葉がジュリーの歌詞と重なってしまったのです。

「欺瞞」ももちろんですけど、「優越感」という言葉が、いつしか僕の心をざわつかせていました。
もやもやと僕の中にあった恥ずべき部分をジュリーは暴いてくれたのだ、と思いました。

2012年からの新譜の記事を書いている時、夜にババ~ッと下書きしたものを翌朝読み返すと、やたらと修正したくなるのは・・・自分の傲慢がそこに見えているからではないか、と思い当たりました。
そこで今回、「自分が修正したくなる箇所」に気をつけてみると、やはりその通りだったんですよね・・・。
前回記事で僕は「怖いから書き直す」なんて書いたけど、本当に怖いもの、恥ずかしいものは自分自身の中にあったのだ、と気づかされました。

想像を絶する痛み、苦しみはそれを受けた当人でなければ分かりっこない。
冒頭にも書きましたが、それでもなんとかその立場になって考えてみよう、「限界臨界」とはどんな気持ちなのか必死に想像してみようとすること・・・それをしなければこの曲の本質は見えてこないと思いますし、ジュリーがつけたタイトルも伝わってこないような気がします。
いくら僕がジュリーの「愛と平和下さい」を頼もしく嬉しく思い、心から共感できたとしても、それだけではまったく意味が無い、ということです。

いえ、みなさまがどうなのかは分かりません。
ただ僕自身の3・11以降の有りようを振り返りますと・・・被災地のことを語ろうとする時、動けない弱い人達を思う時、悲しみに耐える人達に言葉をかけようとする時・・・「自分は被災者ではない」という、ある意味においての傲慢な「優越感」が、無意識にでもありはしなかっただろうか、と。
その優越感が、受け取る側にとって「馬鹿にされたような」表現となり、それと気づかぬまま誰かの心を踏みにじり、心折れさせてはいなかっただろうか・・・。

そして、もしかするとジュリーもそんなふうに考えることがあったのではないだろうか、とも。

どれ程の美辞麗句で どれ程の嘘をかさね
B                             B(onA)

心を踏みにじったか
B(onG#)            A

どれ程の慇懃さで どれ程の演技力で
B                         B(onA)

心を折れさせたのか
B(onG#)             A

ただし!
この曲でジュリーにもし僕の考えるような「自戒」があったとしても、それは「自虐」ではありません。被災地を思うことから繋がった、平和国家・日本に誇りを持つ一国民としての謙虚な決意だと感じます。
ジュリーはそれを、今この国を動かしている為政者達にも伝えようとしているのでは?
作詞作業が昨年末から今年の2月くらいまでの期間だったとすれば、具体的に「痛切な反省」というキーワードが浮かび上がりそうです。そうすると、「亜細亜を見下してきた」という難解な歌詞部に込められたジュリーの思いも読み解けるようではありませんか。

薔薇色政治家達が 薔薇色経済人達と
B                          B(onA)

世界をひらに乗せ
B(onG#)          A

これほど「薔薇」という文字を恐ろしく感じた歌詞はありません。普通なら、美しさや妖艶さをイメージさせる、華麗な言葉であるはずですからね。
こんな痛烈な意味を持たせる変換ができるものなのだ、と・・・これは歌詞カードを見て初めて分かること。

ジュリーはワープロを使って作詞するのだそうですね。低レベルながら僕にも経験がありますが、それまでノートに手書きで作詞していたのがワープロに変わった時、作風もガラッと変わってくるのです。「漢字変換」に意識が向くようになって、「言葉遊び」的な手法を採り入れることが増えてきます。
その点ジュリーは(これも長い年月をかけて)、「言葉遊び」なんていう次元を超えた漢字変換による言葉の意味の深化、或いは表現について独自の手法を切り開きました。『PRAY FOR EAST JAPAN』のテーマを得た2012年からの自作詞曲がそれを裏づけています。

職業作詞家とはまったく異なる、日本ロック界唯一無二の詩人となったジュリー。
前回記事で僕はこの新譜の歌詞について、「こんなことはジュリーにしかできない」と書いたところ、「いや、ジュリーだけでなく、この人のこういう曲もあります」と、先輩にいくつか教えて頂きました。
それは僕の不勉強のいたすところではありましたが、でもジュリーの場合は4年・・・もうこれで16曲ですよ。血の滲むような思いで取り組んだこのテーマの詞がもう16篇を数えます。この愚直なまでの継続にこそ、詩人・ジュリーの本質が秘められています。
そしてそれはこの先も、恐るべき精神力で貫かれ、20篇、30篇へとなってゆくでしょう。
ジュリーは歌の天才ですが、作詞については努力型、継続型だと思います。
必死の努力が継続するとこんな途方も無い境地に辿り着くことがある・・・「人間力」とも言うべき個性が開花することがあるのだ、と感動させられます。この4年のジュリーの詞を何度も読み返し読み続けてきて・・・コツコツと積み重ねていくことの尊さを教えてくれるジュリーを僕はますます尊敬し、好きになっていくのです。

さて、「限界臨界」の歌詞については、「痛み」と同時にやはり「平和」についても考えねばなりません。

何故僕が、この曲での「愛と平和下さい」というジュリーの言葉にこれほど感動させられたのか。
「愛と平和」なんて、よく聞く言葉であり、歌詞ですよね。巷には「腐るほど」溢れています。安売りされていますよ。それだからこそ、本気で考えて「愛と平和」を口にした人の言葉というのは違うのです。皆同じようなことを言うから、余計に違うのですよ。
ジュリーの「愛と平和」は本物です。それがとても嬉しく、頼もしいのです。

今のネット時代でよくあることとして・・・様々な社会問題について僕らが「知る」時、事実の報道以外に、専門家や識者の論評が独立した記事として検索されやすい環境がある、という面が挙げられます。
いわば執筆者個人の考えがあたかも「報道」であるような錯覚を覚えてしまう・・・プロバイダのトップ画面の最新ニュース一覧などにそのようなことが多いです。それ自体はまぁ良いとして、それらの論評の中に、執筆者と反対の意見を持つ不特定多数を「嘲笑する」ような文体のものが最近は非常に多くなってきています。
例えば、改憲論を持つ執筆者が「護憲を主張する人は無知である、馬鹿者である」とあざけっている、或いは威圧するような口調の記述です。もちろんその逆のパターンとして、護憲論者が改憲論者を同じような口調で貶める、という場合もあります。

こうした論評は、”「知らない」こともこれから「知っていこう」”と意欲を持つ人達が、執筆者とは逆の考え方を先に学んでいた場合に、まず頭から「お前はこんなことも知らないのか」と嘲笑、恫喝し萎縮させ手を退かせる、黙らせる、というやり方。
それが極まると、建設的な意見の記述などは一切省き、ただただ相手をなじる、あざけることに終始した単なる「中傷」へと転落していきます。

考え方の違う者同士でこんなことを双方やっていると、それを見ていて「関わり合うのは怖いな」、と「考える」 ことをやめてしまう人達が多くなってしまうのではないだろうか、と不安になります。そうなれば双方、不利益しか無いでしょう。
何故もっと丁寧、真摯な書き方、言い方ができないのか。「知ろう」とする人たちの意欲を削ぐのか。

メディアばかりの話ではありません。
ジュリーが「この道しかない、なんて思考停止ですよ」と語ったのは、「この国は思考を停止している」と言ったのではなく、「この国は、思考停止を国民に押しつけている」と言いたかったのではないか、と僕は思っています。加えて、国民を「嘲る」かのような発言の多さにも危機感を抱いているでしょう。

国のトップ中のトップである安倍さんは、これまで安全保障や原発の問題について「国民に丁寧に説明していく」と繰り返し発言してきま した。
ならば、昨年8月9日長崎での被曝者団体の方々との懇談の場などは、その絶好の機会であったはずです。しかしその時団体側からの「我々は集団的自衛権の行使容認に納得していません」という訴えに対して安倍さんは、「見解の相違ですね」と、斬って捨てるような言葉を返しました。これは「話にならん」と言っているに等しい言葉です。このことは比較的まんべんなく全国のニュースでも採り上げられたようですから、ご存知のかたも多いでしょう。
もし「丁寧に説明していく」気持ちがあるならば
「みなさんの体験を考えれば、納得できない、と仰るのも分かります。しかし私は今わが国を取り巻く状況を考え、みなさんの生活を守るために決断しました」
と、反対意見との対話を模索する言葉を首相自ら発するべきだったのではないでしょうか。

僕は政治的な考え方について意見交換できる友人に恵まれています。そう、それは互いを理解する機会に「恵まれている」と考えるべきなのです(僕は、男友達に限っては、自分とは真逆の考え方を持つ友人の方がどちらかと言えば多いのです)。
でも安倍さんは違うようです。長崎での発言のみならず、最近は一事が万事そんな調子。それが鵠志のつもりであれば大きな間違いで、「馬鹿にしている」態度と見る人の方が多いでしょう。
基本的な考え方は以前から変わっていないにせよ、昔はもっと人の話を聞き、丁寧に説明してくれる人、というイメージを持ってはいたんだけどなぁ・・・。

ジュリーはそんな「拒絶」的なやり方のアンチテーゼとして、「知らないことを知ってみよう」「自分のこととして考えてみよう」という「共有」のメッセージを持って、「平和」のテーマに切り込んでいるように思えます。

僕が思うのは、自分と話している相手が「この話題についてこの人はあまり詳しくは知らないな」「あまり興味を持っていないな」と感じたら、より丁寧に、正直に話す・・・そういうことをしなきゃなぁ、と。ジュリーの歌からそんなふうに感じ、考えるきっかけとなりました。
「何故このことを知らないんだ?」という、人から見れば”上から目線”のような書き方、話し方は今後完全に捨て去らなければならない、と強く思っています。
第一、僕自身が「知らないこと」というのは山積みであって、これから勉強してゆくことは当然。


これ以上被災者を 動けない弱い者を
F#                   E                         G

悲しみに耐える者を
                         G

馬鹿にしない   本音汲んで下さい
       B      B(onA)   B       B(onA)

限界 臨界    心 誠下さい  限界 臨界
   B       B(onA)   B   B(onA)  Em            B

「馬鹿にしない」は、新譜のすべての歌詞の中で特に重要なジュリーの言葉だと僕には思えています。
「本音を話そう、誠を受けよう」・・・本当に難しいことですが、やらなきゃいけないことなんだよなぁ・・・。


ジュリーの歌声が、僕にはこう聴こえています。
「馬鹿にしない」の決意に立ったジュリーが、まず実際に今「限界臨界」の只中にある人々に対して
「僕らはみなさんを苦しめてきた。痛切な反省をもってこれからも本音を語ってゆく。どうかその本音を汲んで、みなさんの心の誠を下さい」
国に対しては、これ以上僕らを「馬鹿にした」やり方への我慢の限界をもって
「僕らと同じ気持ちに立って欲しい。これから先の希望が持てる、愛と平和の国にして下さい」
と、本音で歌っている・・・これが個人的な「限界臨界」サビ歌詞部の解釈です。

それともうひとつ・・・ジュリーが「馬鹿にしない」と本音を投げかけている人達 (と、僕は思っている)の中に「未熟でも若い者」という言葉が登場しますよね。
僕はその人に心当たりがあります。
ジュリーが選挙応援までした人ですが、僕にとっては最初とても印象が悪かった人で、ジュリーファンとしては、その「喧嘩上等」のような言動(と僕には見えていた)に、「せっかくジュリーが応援してくれたのに」と拒否反応すらあったわけですが・・・。
これは前作『三年想いよ』収録の「一握り人の罪」の考察記事でも書いたことなんですけど、昨年4月に行われた鹿児島2区の補欠選挙の際、「川内原発の問題を選挙の争点にしなければおかしい」と、孤軍奮闘してくれたのが彼でした。
良くも悪くも知名度のある彼が絡んだことで、田舎の選挙が大きく全国報道されることもありました。
正直、僕はあの時とても嬉しかったです。
だからこそその後も、「自分のことを野良犬だなんて言っちゃダメだ」とか、「政党名はもう少しなんとかならなかったのか」とか、「そんなことじゃ、応援したジュリーの株が下がってしまうよ」とか・・・やっぱり今でも「何でかなぁ」と気がかりの多い人です。
ただ・・・それは僕が彼を「馬鹿にしている」ことになりはしないだろうか、と。

鹿児島のこともあったし、僕などが彼を馬鹿になどして良いはずがありません。
ジュリーも彼には「未熟」の評価を持ちつつも、その本音たる部分を穏やかに汲み取っているのかもしれないなぁ、と思ったのです。だいたい、「未熟」と言うなら僕自身こそが正にそうじゃないか。

そもそもジュリーは、「自分の株が下がる」とかいう見栄みたいなものとはまったくかけ離れた境地で、正直な気持ちを歌い伝えようとしているわけで・・・。
つくづく、ジュリーの潔さよ!
レベルの低い夕刊紙、週刊誌にどんな根も葉も無いことを書かれようが、ジュリーはまったく意に介してはいないでしょう。立ち向かおうとしているのは、もっと強大なものであるはずです。
それにしても・・・いつもお世話になっている先輩が笑っていたけど、今年のお正月LIVEが終わってからの、『日刊ゲンダイ』の例の記事をはじめとするあのくだらないメディアの書きよう、言いように対して、著名人も含めた多くのジュリーファンが、何故か「所詮夕刊紙の書くことだから」とスルーすることがまったくできず、本気になって怒り、真面目に理を説き反論したというのは・・・ある意味素晴らしかったと言うか何と言うか。
かく言う僕も、10代の頃から『東京スポーツ』のプロレス欄を愛読し、根拠の無い創作記事をむしろ楽しみにしていたクチで、夕刊紙の何たるかを重々承知していたはずの人間。それなのに、あの『日刊ゲンダイ』のいい加減な記事に本気で噛みつき、「こうこうこうだからこうである。あなたは間違っている」みたいなことをLIVEレポートの場を借りて真面目に反論しているという・・・。
ジュリーがあの時期の多くのジュリーファンの「本気で怒っている」様子をもし知ることがあったら、きっとこう言うでしょうね。「別のところに、そのパワー使え」と。


・・・と、ここまで歌詞について本当に個人的な、ひとりよがりな解釈ばかりとなりましたが、僕が今どんなふうに「限界臨界」という曲を聴いているか、ということで、誤解を怖れず色々と書かせて頂きました。
ここからは、楽曲構成、演奏、アレンジの考察へと進んでまいります。こちらは相対的にして普遍的なな楽曲評価を目指します。「限界臨界」がいかに名曲であるかを、フェアに語っていきますよ!

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この曲の採譜はスムーズに終わりました。曲を流しながらコードを振ってみた後、楽器を合わせて細部修正したのは、サビ最後の「Em」の箇所だけ。
だからと言って「ありがち」な進行ということではありません。むしろ斬新、ロックに尖っています。
過去のジュリー・ナンバーに限らず、僕が普段から好む洋楽曲のコード感と近い進行があったりして、大いに楽しみながらの採譜作業でした。

新譜の発売情報でタイトルとクレジットが分かった時、収録4曲の中で最も曲想を予想し辛かったのが実はこの曲。「限界臨界」というタイトルからメロディーを頭に浮かべるのが難しかったですね。ラップっぽいビートばかり思いついてしまって。
激しいロックなのかバラードなのか・・・イメージに悩む中、それでもなんとか予想はしてみました。最初は過去のGRACE姉さん作曲作品「まほろばの地球」のようなリフ全開のハード・ロックで、言葉を畳みかけるようにガンガン来る感じかな、と思いましたが、結局は「海に還るべき・だろう」のような後ノリの穏やかなレゲエ・ポップ・チューンと予想しました。

全然違った・・・。
これは、GRACE姉さん作曲の過去のジュリー・ナンバーで言えば、昨年の「三年想いよ」に近いです。
これまで、ドラマーのGRACE姉さんは一体どんなふうに作曲をするのかな、と考えたことが何度もあります。グロッケン以外にも自宅に鍵盤楽器をいくつか持っていて、鍵盤を鳴らしながら組み立てていくのではないか、というのが以前からの僕の勝手な推測。
ただ、「三年想いよ」、そして今年の「限界臨界」を聴くと、一番最初のとっかかりの段階・・・つまり和音構成よりも先の単体のメロディーを頭に浮かべる、という作業がきっとあって、それは電車や車での移動中に窓の外を眺めながら作られているんじゃないかなぁ、と。
「三年想いよ」も「限界臨界」も、「淡々と車窓の景色が流れていく、過ぎてゆく」・・・そんな感じのメロディーだと思いませんか?
車窓を過ぎ去る景色は、「それぞれの人々、それぞれの生活」を感じさせます。GRACE姉さんの最新2曲には、それがあると僕は思う・・・。

GRACE姉さんはそうして生まれたメロディーを自宅に持ち帰って、鍵盤の伴奏に馴染ませるようにして「曲」へと仕上げていったのではないでしょうか。
おそらく右手が3和音、 左手がルート1音の基本形。
「限界臨界」のAメロには2小節ごとのクリシェがあります。作曲段階からCDのキーと同じだったとすれば、右手で「シ・レ#・ファ#」の和音を鳴らしながら、左手を「シ→ラ→ソ#」と移動させ、Aメロを載せていったのでは・・・まぁ、あくまで推測ですけど。

「これ以上・・・」からの進行は、ロックしていますね。
コードは「F #→E」と移行するので、これはこの曲のキーであるロ長調のドミナン ト→サブ・ドミナント。本来それはとてもポップな進行のはずなのに、体位する伴奏は「ド#レ#ミ~、ミファ#ソ~、ソラシ~♪」とハードにせり上がり、「G」のコードを引っ張って、「馬鹿にしない」からトニックの「B」へと華麗に着地します。
歌詞が激しくなるこのサビ部・・・その激しさ、狂おしさに反して「視界が開ける」「美しい」と表現したくなるほどの極上のサビですが、じゃあ詞曲が乖離しているのかというと、そんなことはありません。
これはまず、ジュリーのヴォーカルの凄さの証明。
それまで抑えに抑えていたものが一気に解放されるというのでしょうか。GRACE姉さんが、Aメロの出だしと同進行でこれほど印象の異なるメロディーを載せた「聴かせどころ」を、歌手・ジュリーの本能が嗅ぎとっているかのような、柔軟なヴォーカル。ですからなおさら、「馬鹿にしない・・・」という痛烈な歌詞を載せることこそがこの曲にふさわしかったのだ、と思うのですよ。

また、僕がこの曲のジュリーの声で一番痺れるのは、2番のサビの最後で「限界臨界」と歌った後の、間奏への合図となる「うめく」ようなシャウトです。
過去のジュリー・ナンバーで言えば・・・「勇気凛々」間奏直前のヴォーカル→シャウトを思い起こした人はいらっしゃいませんか?そう、「限界臨界」はとても厳しくシビアな内容の歌だけれど、ジュリーの声は実はとても優しくて、これならたとえ厳しい歌詞であっても、弱者の勇気たりえる曲となっているのでは、とも思います。
「優しさ」はGRACE姉さんの作曲にも感じられ、全体を構成する3つのヴァースそれぞれに「反復進行」というメロディー作りの手法を採り入れることで、耳触りが爽やかになっています。

では、演奏についてはどうでしょうか。
今回も、鉄人バンド入魂の演奏トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド)
・エレキギター(センター)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(シンセブラス)
・ドラムス

左右それぞれのギター・トラックは、ステージでの立ち位置通りに右が柴山さん、左が下山さんと考えて良いと思います(次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」がその点なかなか悩ましかったりするんですけど、それについては次回)。
この曲は基本エイト・ビートの作りの上に、柴山さんのストロークとGRACE姉さんのドラムスが16ビートで載り、全体のあの切り刻むような雰囲気を創り出しています。ストロークはパワー・コード主体で、ガンガンに歪ませた音は柴山さんのイメージ通りです。

対して左サイドのギター・・・下山さんだと思いますが、これは最初、2トラックを別録りで演奏したものを繋げているのかなぁと思ってしまったほど、両極のエフェクト設定が登場します。
まずイントロ、エフェクトは武骨な歪み系です。ところがジュリーの歌が始まる「どれ程の・・・」の1拍目から「じゃら~ん♪」と噛んでくるギターは一転、穏やかな空間系のエフェクトで(コーラス・ディレイかな)、イントロとはまったく設定が異なるのです。
続けて弾いていて、こんなに瞬時に設定を切り替えられるものなのかどうか、僕の知識では分かりません。ただ下山さんは、いわゆる「後掛け」のエフェクト処理はしない人のような気がします。きっと僕の知らない切り替え方があるのでしょう。
「1トラックで一気に弾いている」と考える理由は、サビ(目立たないながらも大暴れの熱演)で歪み系と空間系の両方のエフェクトがかかっているからです。

それでは、センターにミックスされた間奏リード・ギターはどうでしょうか。
最初は「これは下山さんだ」と思いました。フレージングや音階(特に3’27 ”の音)に下山さんっぽいロックな「心地よいズレ感」がありますし、音色についてもストラトじゃないかなぁ、と。
ただ、聴いているうちにディレイのサスティンの感じが柴山さんのように も思えてきて・・・。
でも、もしこれがSGならもっとハウらせる(フィードバックを強調する)ような気がするなぁ。いずれにしても、この曲のアレンジをギタリスト2人の体制でステージ再現するなら、CD左サイドのパートを担当する人が間奏でリード・ギターに切り替えるのが自然ですから、LIVEでは下山さんが弾く、というのが僕の予想です。

泰輝さんのキーボードは2トラック。ピアノとシンセ・ブラスの2つの音色が、いかにも泰輝さんらしい職人的な絡み方でこの曲のポップ性を高めています。
シンセ・ブラスは生楽器に近い音ではなく、敢えて「シンセっぽい」パワー・ブラスの設定(鍵盤をひとつ弾くと複数のホーン・セクション・アンサンブルを思わせるような音が出る)で、おそらく「東京五輪ありがとう」のそれと同じ音だと思います。
きっと泰輝さんはLIVEで、この2トラックを豪快に同時弾きで再現してくれるのでしょうね~。そんな光景が見えるアレンジになっているのです。
「これ以上被災者を」からの尖ったヴァースでは、ピアノを両手弾き。右手がコード、そして硬派なメロディーをサポートする左手の低音(通常より1オクターブ低いところで弾いているようです)が渋く炸裂し、「馬鹿にしない」からのサビでは、それまで右手で弾いていたコード演奏を左手に切り替え、右手がヒラリと上段のキーボードに舞ってシンセ・ブラスに移行する・・・今から泰輝さんの雄姿が目に浮かんでくるようです。

GRACE姉さんのドラムスは、先に少し触れた通りエイト・ビートの楽曲上に16分音符で跳ねるリズムを載せています。こうした演奏を聴くと、「あぁ、ドラマーの作曲作品なんだなぁ」と思えます。
僕が特に素晴らしいと思うのがキックで、要所で「ダブルアクション」という技を使っているんじゃないかな。
シンバルの刻みの切り替えも絶妙。「キンキンキン・・・♪」と高い音で鳴っているのは、ライド・シンバルのカップ近辺を叩いているのでしょうか。この「刻み」を次曲「泣きべそなブラッド・ムーン」では何とタムでやる箇所があるんですよね~。
GRACE姉さん、今年も「歌心全開」の演奏です!

収録全4曲中、演奏トラックが最も少ない「限界臨界」は、CD音源と相当に近いLIVE再現が期待できるでしょう。 だからこそ注目はジュリーのヴォーカルです。
例えば、記憶も新しい昨年の「三年想いよ」のように、生で聴いてこそ曲のメッセージが伝わる・・・そんなヴォーカルが聴けるような気がしています。
僕のような非・被災者には「分かるはずのない」切実なメッセージも、ジュリーの生の歌声を聴けば、ほんの少しだけでも分かってくるかもしれません・・・。


それでは、次回は新譜3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」を採り上げます。
心乱される切ないアレンジ、胸かきむしられるメロディー、そしてあのジュリーの声と歌詞・・・確かに悲しい歌ではあるんだけど、それ以上にジュリーの「優しさ」が感じられる美しい名曲で、新譜を聴き終えたジュリーファンの人気、推す声も特に大きいようですね。
僕も現時点ではこの3曲目が収録曲中最も好きなんですが、実はこの曲にも今回の「限界臨界」と同じような、ジュリーの自責(いや、この曲の場合は「苦悩」なのかなぁ)が吐露されているように感じられてならない歌詞部があって、それがお正月LIVEでのジュリーの笑顔の少なさ、ヒシヒシと伝わってきたジュリーの秘めたる決意とも重なるような気がして・・・複雑な感情が襲ってくることもあります。
あんなに優しい曲なのに、「優しさじゃ違うから」という歌詞も登場しますしね・・・。
とにかく、大名曲であることは間違いないです。

あと・・・細かな採譜作業はこれからですが、たぶん僕の実力では正確な採譜は厳しいかな、と予想される箇所が(汗)。その点については、「それだけ泰輝さんの曲作りが緻密で高度なんだ!」と語りまくってお茶を濁すしか手はなさそうです(汗汗)。

いずれにしましても、執筆、更新までにはまたまた時間がかかってしまうかも・・・。
どうか気長にお待ち頂けますよう。

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2015年3月21日 (土)

沢田研二 「こっちの水苦いぞ」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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2015年3月11日発売、ジュリーのニュー・マキシシングル、『こっちの水苦いぞ』。
みなさま、もうお聴きでしょうか?

何の計算もせずに、飾らずに、怖れずに、本音でぶつかってきましたね・・・ジュリー。
不言実行、覚悟のメッセージ。
反原発とLOVE & PEACE、そして鎮魂と・・・懺悔?
それが具体的に何かは分からないけれど、ジュリーは被災地への思いを激しい自責の感情すら加えて投げかけているように思われてなりません。

ここまで「商売」とかけ離れてリリースされた音楽作品を、僕は初めて聴きました。
近年はメディアでの宣伝も無く、プロモートが組まれることなども無く、それでも毎年新譜をリリースし続けてきたジュリー。そんな中でも今年は特に、「激しさ」と共に「純粋さ」「清潔さ」が伝わってきます。
これは「売る」ために歌われた歌じゃない。
今までそんなふうに感じられた音楽はジュリー以外にもいくつか聴いたことはあったけど、ここまで頭抜けて、強くそう感じた作品はありませんでした。

歌手とは、まず「歌いたい」から歌を歌うものなのでしょう。しかしそこに販売戦略のためのスタッフが絡み、プロモートが組まれ、スポンサーの利権が絡むとどうしてもそれだけでは済まなくなる・・・いや、それは決して非難されることではなくて、当たり前のことです。
ただ、そうやってリリースされた音楽作品は、制作から発売までの過程がテンポと効率重視の分担作業になり、歌手の基本的な「歌いたい」という情熱が最終的に薄まってしまうように感じられます。

ところが。
『こっちの水苦いぞ』を聴いて思うのは、今のジュリーには「歌いたい」「伝えたい」しか無いな、と。
「伝えたいから作った、歌いたいから歌った、そして大切な日に発売した」という純粋さ、清潔さですね。
そんな商売っ気度外視の動機が音楽作品として成立してしまうことがまず奇跡です。歌っている内容が内容だけに、誰にでもできることじゃない、本当に。
何故ジュリーがわざわざ原発、戦争など政治色の濃い社会派のテーマを歌わなければならないのか・・・という心配のような感情も、ファンの間で今少なからずあるらしいのだけれど。
何故、と考えれば・・・「ジュリーにしかできないから」と結論づけるしかないと思うんだよなぁ。

実際、今のジュリーの考え方に近い志を持つ歌手、ミュージシャンは僕らが知るより多く世にいるんじゃないか、と思います。そうでなければおかしい、とも。
ただ、輝かしい実績のある歌手は、そのキャリア故に「やりたくとも自由にできない」、若い歌手は「やっても届けられない」という状況にあるのかもしれません。

ところがジュリーは、それが自然にできてしまう。世間に届かせてしまう。
あれほどのキャリアを持ちつつも、今はプロモート戦略にとり込まれることもありません。そりゃあ普通に考えれば、プロモートやスポンサーがついてのCDリリースならば、こんな内容の作品制作、発売はおそらく無理です。関わった人達すべてに志があったとしても、それだけでは通らないことがあるでしょう。
ジュリーの場合、長い時間をかけて築いてきた特異なスタンスが、今それを可能にしています。
「今まで長くやってきたのは、これを歌うためだったんだ」・・・ジュリーはそう思っているかもしれない、というのは、僕の勝手な思慮浅い考えでしょうか?

いつもお世話になっているJ先輩が、大阪弁護士会の対談でのジュリーの
「自分はたいしたものだと思う。 だからこそ(そんな自分を)キチンと使っていかなきゃいけない」
といった内容の言葉に、深く感銘を受けていらっしゃいました。「自分はたいしたもの」と言った直後にそんな言葉、普通の人は出てこないよ、と。
確かにその通りです。
「だからまぁ残りの人生は自由にやりますよ」
とか
「今まで何とかこんな感じでやってこれたから、これからもこのままいきますよ」
と語るくらいが普通。
ところがジュリーは、「自分をしっかり使う」と言ってのける・・・。この俯瞰力にしてこの自然体。
何という歌手でしょうか。
しかも、今この状況のジュリーに鉄人バンドのようなメンバーがついているという、さらなる奇跡。「メッセージ性の強い音楽をやるために同志を集めて・・・」などとまどろっこしいお膳立ての必要もなく、ただ自分が歌いたいことを、純粋にロックバンドでそのまま歌える環境が今のジュリーに当然のようにある、というのはね・・・。

さらに言うとジュリーは今年から、「伝える」と同時に「立ち向かう」気構えをもって新たな歌人生へと一歩踏み込んだように思えます。
先輩方がこれまで何度かタイムリーで体感されてきた「ジュリー十数年に1度の大きな変化」を、僕も先の正月LIVE『昭和90年のVOICE』で予感はしていて、とうとう自分も「その時」にタイムリーに立ち合えるかもしれない、と武者震いしたものでした。
新譜を聴いて、それは確信となりました。
「PRAY FOR EAST JAPAN」のテーマは不変でも、『こっちの水苦いぞ』は最近3作とは違うと僕は感じています。大げさに言えばこれは、新たなジュリーの、新たなファースト・アルバム。
もちろんそれは、2011年3月11日からジュリーが継続している「思い」があって成し得ているわけで、『3月8日の雲』からすべて線で繋がってはいるのですが・・・。

新譜でのジュリーの歌詞は、発売前の僕の安易な予想など丸ごと吹き飛ばしてしまうようなものでした。
やっぱり凄い。
さすがはジュリー、こうでなければ!

今日は、この記事の中で政治的な私見も書きます。
せっかくジュリーがこんな新曲を、こんな歌詞を、「今だからこそ」ぶつけてきてくれたのだから、考える余裕のある人は考えるべきなんじゃないかと思うのです。
『昭和90年のVOICE∞』オーラスの東京国際フォーラムでジュリーが語った通り、「それぞれが、自分のこととして考える時」が、今来ています。考える内容は人によって様々でしょうが、僕は僕の考えたことを書くしかありませんからね。

僕のようなファンは「沢田研二に洗脳された」なんて世間に言われることすらあり得るけれど、それは違います。だって僕は元々、これから書こうとしているような物事の考え方をずっと以前、ジュリーファンとなる前から確かに持っていて、じゃあ以前は今と何が違っていたかと言うと、「声にできなかった」・・・つまり、怖がっていたということです。
「もうそんな(怖がって黙っている)場合じゃない」と気持ちを強くしたきっかけは、2014年のお正月LIVEでジュリーが「大変な年ですよ」と話してくれた時ですね。
洗脳なんてされてないけど、パワーは貰っています。だから昨年、長い間記事にするのを躊躇っていた「我が窮状」をお題に採り上げることができましたし、今回の新譜についても同じスタンスです。
ただ、そのぶんいつも以上の大長文になります。その点は、ごめんなさいね・・・。

あれから4年。
今年は、国が定めた「集中復興期間」の期限でもある2015年です。政府トップは今も「国が前面に立っての復興」を威勢よく掲げているけれど、来年度以降の復興予算は、財源も規模もまったくの未定。
それが、「4年目」の実態。「襲い来る風化」の現実。

「4年目とは、励ます側があきらめてはいけない時期だ」と仰ったタイガースファンの先輩がいます。その4年目のタイミングで、ジュリーは「祈り」と共に「怒り」「悔しさ」を前面に立てた新譜をリリースしました。
何に怒っているのか、何を悔しいと思っているのか・・・それを「考えない」ではもう済まないんだよ、と。

あとはやっぱり・・・国の舵取りに強い違和感を覚えながらも、「自分一人が何を言っても無駄。もうダメかも・・・」と今にも投げてしまいそうな僕のような性根の弱い者にとって、『こっちの水苦いぞ』はシンプルに気骨を注入してくれる音楽だったということです。
僕にとって『こっちの水苦いぞ』は、とてつもなく心強いロック作品でした。
実は僕は少し前から、ジュリーを「ロック」とカテゴライズすることに「待った」がかかる瞬間を自覚することが多くなっている(ジュリーはジャンルでは括れない、という考えが大きくなってきている)のですが、それでもこの新譜を前にしては
「これこそがロックだ!今、日本にこれ以上のロックがあるなら聴かせてみろ!」
と叫ばずにはいられません。

このジュリーの2015年の新譜を、東日本大震災から4年目のこの新譜を、日本の平和国家としての歩みが危うくなっている今リリースされたこの新譜を、多くの一般の人達に聴いて貰いたいと考えます。
みなさまも、自信を持って色々な人にお薦めしてみてはいかがでしょうか?もちろん、すべての人に笑顔で受け入れられるような作品ではありませんが、「聴いて欲しい」と思いませんか?
聴かせたい人が「沢田研二」の名前をまったく知らなくたって良いのです。申しぶんのない実力を持った歌手とロックバンドが、今の時代にリリースすべき音楽を普通に発表したのだ、と。普通のことなのに、他にこういう音楽は今は無いのだから、と。

「怒り」「悔しさ」を持て余し震えながら、「先行きに迷っている」人達というのは被災地はもちろん、日本全国に今たくさんいらっしゃると思います。そんな人達に、ジュリーのこの新曲を聴いて貰う・・・被災地のことを思い、平和を願って僕らジュリーファンに何が出来るかと言ったら、もうそれしかない。ジュリーにすれば、「そら、ファン目線の勝手な考え方やろ」と思うだろうけど・・・。
それに、僕はこうしてくどくどと文章で書いてしまっていますが、このCDを人に勧める時に、褒め言葉を並べたり、こちらの感想など語るのは本来余計なこと。
聴いた人が何を感じるか、ですよね。

究極の「ミニ」であるこのブログでは、そこを敢えて大絶賛の語りまくりにて大変恐縮ながら・・・『こっちの水苦いぞ』全曲考察、今日はその1曲目。
「国益」の言葉のもとに経済的私益を窺う輩に堂々と物申した、ジュリー渾身のCDタイトルチューンです。
考察の甘い点や独りよがりな解釈、勉強不足の記述など多々あると思いますが・・・全力伝授です!


僕は今回、この新譜の購入が発売日から3日遅れてしまいました。
今年もアマゾンさんに予約していましたが、発売日には届かず。これはまぁ想定していたことで、発売日の3月11日に店まで買いに行き、遅れて届けられるアマゾンさんからの1枚はYOKO君に引き取って貰うつもりでした(これも近年恒例のパターン)。
ところが11日、12日と、仕事のスケジュールもあって大きなCD店に足を運ぶことができなくなってしまいました。僕が実際にCDを手にしたのは、翌13日。

購入できずにいたその間、いち早く購入し聴いた先輩方の感想が次々に飛び込んできました。
「曲は好きだな~」
そんな声が多かったです。

「曲は好き」?
それはつまり、「歌詞は好きじゃない」ってこと?

そんなふうに悪く考えてしまって・・・実際にこの耳で聴くまではちょっと怖かったなぁ。
いざ聴くと、そんな不安は消し飛びましたね。
「た、確かにその通り!まず曲が凄くイイ!」

この2ケ月ほど僕はどっぷりACTの音源に嵌っていて、つい最近「寝ても覚めても」なんて書きましたが、『こっちの水苦いぞ』を聴き始めて、改めて「寝ても覚めても」ってこういうことなんだな、と思ったり。
とにかく、他の音楽を一切聴かなくなるのです。
この全4曲ですべての時間が満たされてゆく、圧倒的吸引力・・・みなさまのご感想通りです。これまで以上に素晴らしい楽曲、素晴らしい演奏ですよ。

でもね。
歌詞がこうでなかったら、僕はここまでに我を忘れるほどには引き込まれていな い、とも思うのです。

ジュリーのこの詞はどうでしょう!
とてつもないじゃなですか。凄過ぎるじゃないですか。

ブログに記事を書く、なんて考えは頭からスッ飛ぶくらいの衝撃でした。ただただ、ジュリーの声から発せられる言葉を繰り返し繰り返し聴くだけ。
多くのジュリーファンは、稀有な歌人生を歩む偉大な「歌手としてのジュリー」を大いに誇りにしていると思います。僕は思います・・・今こそそこに「詩人としてのジュリー」への誇りを是非加えたい!
身も心も削らんばかりにしてこの歌詞を完成させたジュリーをたやすく「詩人」だなんて表現するのは不謹慎かもしれないけど・・・この世に「詩人」という生き方があったとして、その魂を持つ者が今の社会への思いを作品に解放したならば、自然にこういう詩が生まれるはずです。
ただし、詩人の魂を持つ者は世にほんの僅かしか現れません。そう簡単には出逢えません。
ジュリーファンは恵まれています。

しかもこのジュリーという詩人は、「歌」の神様のような人でもあります。
ジュリーの詩人としての言葉は、優れたメロディーがあって、優れた演奏があってこそ生まれ、「書く」のでもなく「詠む」のでもなく、奇跡の声で「歌」われます。
『こっちの水苦いぞ』は、聴き手がジュリーの魂に直に触れるような1枚。こんな音楽は、本当に稀有です。

さらに・・・これは個人的なことなんだけど、ジュリーが歌詞の中で使ってくれたある言葉が、僕に大きな衝撃と予期せぬ感動をもたらしました。それがこの1曲目「こっちの水苦いぞ」の冒頭部。

池袋のタワーレコードで無事にCDを購入して(5枚置いてありました)、すぐにポータブルに入れて、街の移動中に聴き始めた1曲目「こっちの水苦いぞ」。
イントロのギターリフで、「おっ、カッコ良さそうな曲。ロックンロールかな?」とウキウキしながらジュリーの声を待ち構え、すぐに力強いあのヴォーカルが耳に飛び込んできた、次の瞬間でした。
「えっ、ジュリー、今” 桜島”って歌った?
と。
さらには
「”せんだい”・・・?”川内”か!”川内”・・・その次は何て言ってるの?」
たまらず僕は移動を中断して喫茶店に入り、コーヒーを注文するなり歌詞カ ードを広げました。

誰  の  ための  等閑な再稼働
G7  F7 G7   F7  G7  F7    G7 F7

桜島と川内断層
C7     F7        G7  F7  G7  F7

涙が出てきました。
ジュリーが、僕の故郷があんな状況に陥っている今ハッキリと、そのことを歌ってくれた、と思って・・・。

ご存知のかたも多いでしょうが、鹿児島県錦江湾にある桜島は、その名の示す通り元々は「島」の火山でした。それが「大正大噴火」(1914~1915年)と呼ばれる大きな噴火で大量の溶岩が流れ出た結果、東の大隅半島と陸続きになったのです。
実は現在、桜島の地下マグマがちょうど大正大噴火の時に近い容量にまで戻っていて、「10年以内に、100年に1度の大規模な噴火が起こり得る状態」であるとされています。問題は、研究でそういうことが分かっていても、またその時が近くなって予知ができたとしても、人力ではそれを止められないということ。しかも、どのくらいのことが起こるのかは、誰にも分からない。
そんな中、降って沸いた川内原発再稼働へのシナリオ。規制基準がどう、避難計画がどう、と机上のことを言う前に、もう二度と「想定外」は許されないのだ、と思わないのでしょうか?

去る3月18日、玄海原発1号機と島根原発1号機の廃炉決定のニュースが大きく報道されるその陰に隠れるようにして、原子力規制委員会は川内原発1号機の工事計画を認可しました。なのに、全国のニュースは廃炉決定の報道ばかり・・・。
工事計画とは、機器や設備が「想定される地震で」損傷しないか、などを確認するものだそうです。
「想定される地震」・・・?

安  全  言わない 原  子力委員長
G7 F7  G7     F7   G7 F7       G7 F7

福島の廃炉想う
C        F         G7  F7  G7  F7

「想定外」が起こった際の責任を被りたくないがために、「新たな規制基準は満たしています」とは言っても、「安全です」とは誰も言わない・・・国も、県も、原子力規制委員会も、もちろん電力会社も。

18日の工事計画認可を受けて九電は、1号機同様に審査に合格している2号機全体の工事計画認可を先送り、まず1号機の再稼働を優先させる方針です。
再稼働までには、使用前検査、保安規定認可、2号機の一部設備のみの工事計画認可(2号機の一部発電機が1号機の非常用と位置づけられているため)という段階が残されています。
そのひとつひとつの段階が今回のように、目立った全国的報道がなされないまま進み、いざ再稼働、という時だけ大きなニュースになってしまうのでしょうか。
だいたい、川内原発の避難計画で受け入れ先ともなっている隣県熊本の水俣市から「ちょっと待ってくれ」と声が上がっているというのに、立地県の鹿児島だけで話を纏めて再稼働実現なんて前例を作ったら、高浜だってなし崩しになってしまいますよ?

もちろん僕などは、2011年の福島第一原発の事故があったからこそそう思えているわけで、それまでは原発の是非など深く考えたことはありませんでした。
あの過酷な事故があって僕は、当然のように今後の日本は脱原発政策へと舵を切り、その方針で世界をもリードしてゆくとばかり考えていました。それが復興した日本を世界に見てもらうことにもなる、と。
ところが、今この国を動かす政治家や経済人達に、そんな思いは毛頭無いらしい・・・。
再稼働に前のめりに突き進む日本。その先鋒とされているのが川内原発です。
ジュリーは今回の新譜で、その川内原発のことを歌い、皆に伝えてくれました。

僕はこの新譜を購入する前日、7月からの全国ツアーの申し込みを済ませていました。同じようにされたファンのみなさまは多いと思うけど、10月の公演は渋谷を2日分申し込んで、どちらか片方だけでもなんとか抽選通ってくれ、と祈りながら・・・。
でも、いざ新譜を手にしてジュリーが「桜島」と歌うあの声を聴いた時、どうしようもなく鹿児島宝山ホールに行きたくなってしまいました。
何故、無理してでも発売日当日にショップに走らなかったのか。
まだ締切日まで余裕があったのに、何故焦って申し込んでしまったのか。
おそらく新譜購入とチケットの申し込みの順番が逆だったら、僕は週ド真ん中の平日公演である鹿児島宝山ホールへの遠征を決断していたと思います。

九電の思惑通りになれば、ジュリーの鹿児島公演がある10月には、川内原発再稼働が決定している可能性すらあります。そんなことはない、と信じているけど。

そうした状況だからこそ、この歌を故郷で聴きたい。
「保守王国」と言われ原発再稼働への反発が他立地県に比べて鈍い、ともされている僕の故郷は、真にそう言われるような状況なのか。再稼働に反対する人々の熱はどれほどのものなのか。
ジュリーの歌はどのように鹿児島のお客さんに届けられるのか。受け入れられるのか。
それを肌で感じたい、と思いました。

しかし既に渋谷を2日も申し込んでしまった以上、さらに鹿児島遠征などという贅沢はとてもできませんから、これも運命と思ってあきらめるしかありません。
こうなったら少しでも多くの故郷の人達に、ジュリーの歌を聴いて欲しい。少しでも多くの地元の一般の方々に宝山ホールのジュリーLIVEに参加して欲しい。
今はそう願うばかりです・・・。

まぁそんな個人的な感傷は別としても、やっぱり「3月11日発売」へのジュリーの拘り・・・僕も「発売日に聴く」ことに拘るべきだったなぁ、と反省しています。
いつもは忘れていて、3月11日当日(或いはその数日前から)になって初めて被災地を思う、なんてのは論外。毎日思っていて、じゃあその中で3月11日という日には何を思うか、考えるのか。

3月11日の朝刊紙はすべて、当然被災地への祈り、震災犠牲者の方々への鎮魂を1面で報じました。
ですがその中には、日々震災関連の報道を続けている中で改めてこの日は、という新聞もあれば、単純に「今日がその日だから」という新聞もあります。

これまで何度か書いたことがありますが、僕は自分が流されやすいタイプだと自覚しているので、新聞は可能な限り複数目を通すことを心がけています。そうすることで見えてくるものは、とても多いのです。
ですから、「戦争も辞さず」なんて識者(?)の論説が幅をきかせるまでに至ってしまった某有名新聞ですら日々目を通しますし、そこから学ぶこともあります。
それにしても・・・元々そうした主張の色濃かったその新聞については今さらの驚きは無いし、以前から把握していた個性ではあるけれど(僕の考え方とは随分違いますが)、他の新聞やメディアの中にね・・・「国に倣え」や「国の顔色伺い」への方針転換を強く感じることが、この数年で本当に多くなりました・・・。


さてそんな状況下、各新聞が一様に被災地への鎮魂を1面で報じた3月11日。
これまで『レベル7』と題した原発事故徹底検証の連載記事などで、日付関係無く震災関連の報道を高い頻度で1面に採り上げ続けてきた東京新聞は、3月11日朝刊1面でこのような写真を掲載しました。

20150311

高度9000メートルから夜明け前の国道6号を望む。
国道6号を走る切れ切れの車の灯りが、都心へと向かっています。点在する光の塊は、手前から東京電力福島第一原発、同第二原発、いわき市、水戸市。
そして一番奥の地平線・・・真夜中なのに煌煌と我が物顔で灯る密集した光が、本来薄い黒色であるべき地平線を、オレンジ色に染めてしまっています。これこそ、今僕が住んでいる首都圏の光。
あの原発事故の直後は、こうではなかったのです。今でもハッキリ覚えている・・・1時間かけて自転車を漕いで仕事から帰宅していた日々の、暗い夜道を。

節電しよう 節電を
G7 F7        G7 E♭

我慢   しますみんな 希望見つけるその日まで
G7 F7 C7     F7        G7   F7         G7      E♭

「節電しよう」なんて、身も蓋もない歌詞じゃない?と思ってしまうようなリスナーへ向けて、敢えてジュリーはこの詞をぶつけてきます。


ジュリーが突きつけたレッドカード。
覚悟を決めてグイッと踏み込んだその歌声は、予想を遥かに超える驚くべきものでした。
これは何なんだ?
66歳・・・?信じられない!

まるで、社会に激しい怒りを持った若いヴォーカリストにして詩人が、腕ききのバンドメンバーと共にその思いをすべてブチまけたデビュー・アルバムの1曲目ような歌声じゃないですか。
3’14”のシャウトなどは、正に10代のパンク・ロッカーのそれです。決して「キメ!」というシャウトではありません。つまり、この部分でシャウトを入れよう、という計算によるものではなく、思いを振り絞って歌っていたらそこで自然に叫んでしまった、という感じ。

この1曲目については、歌詞のコンセプトとして「怒り」が一番ストレートに伝わってきますね。
もう「それは違うんじゃないか」と歌う心境じゃない。ジュリーはとうとう「許さん!」まで行きました。それは近年、僕もまったく同じ気持ちでいました。
ただ、「反原発」や「世界平和」といったメッセージが、ジュリーの場合は大上段なアジテーションではないのだ、ということも僕は是非強調しておきたいのです。
世論を誘導しよう、というのではなく、ジュリーは一般市民としての自分、という素朴な目線で素直に歌っています。その上で、激しい怒りがあるのです。

トルコに押しつけ 羞恥の事実
B♭           E♭               G7  F7  G7  F7 

リスクだらけ 世界基準
B♭        E♭          D

昨年4月の時点で基準値以上の汚染水が流れ出ているのが分かっていながら、公表もしなければ対策も練らなかった・・・最近になってそんな事実が明るみに出てなお、「ブロックされている」と強弁をふるうような国が原発輸出とは恥ずかしい。
ジュリーが「周知の事実」を「羞恥」と変換させたくなるのも無理はありません。

さらに、歌われるのは原発問題だけにとどまりません。

インドに擦り寄る 苦渋の米国
B♭           E♭               G7  F7  G7  F7

相互利益で安全保障
B♭           E♭      D

僕は最初、この「インドに擦り寄る米国」の歌詞部がよく分かりませんでした。
インドと言うと、中国と微妙な関係にあるからそれで?くらいのことしか思い浮かばなかったのです。
調べてみると、「そういえばそうなんだっけ?」とこれまで特に気にとめていなかったことを色々と思い出したり知ったりしました。
インドは、武器輸入大国なのですね。
そうしたことも絡めて、アメリカがそこに日本も巻き込んでの「日米印同盟」とも言 うべき関係構築を模索している、という情報もヒットしました。

相互利益で安全保障。
欲望全開の凄惨と傷悲。
なるほどこれか!と腑に落ちました。

日本の国民は未だに「武器輸出」と言われてもピンと来ていないと言うか、現実感無く遠い世界の言葉のように思っているふしがあります。
それをして「平和ボケ」と揶揄されるならば、あまんじて受けなければならないでしょう。日本がとうとう参入を決めた世界の軍事マーケット・・・武器輸出の解禁について、今具体的にどのようなことが進められているか、まったく興味を持たない人達が大多数、なんて状況がもし現実ならばね・・・。

日本政府は、今年10月をメドに「防衛装備庁」(仮称)なる防衛省の外局を発足させる方針を固めています。これが日本の武器輸出、輸入を一元的に管理するための新たな組織。防衛装備としての武器開発、製造に関わる企業の業績を伸ばす、という「成長戦略」の一環とされます。
「あなたの企業が作った武器をどの国に売れば良いか、段取り含めて国が仲介しますよ」ということを、この新設された組織が行っていくことになります。これは今年、現実に起ころうとしている話です。
こういうことも、興味の無い人にはまったく興味の無いことなのでしょうか。
「防衛装備移転三原則」なんておかしな呼称の法律制定により、日本の武器輸出が堂々可能になった時から既に、僕には世間の無反応に強烈な違和感がありますが・・・本当にこうしたことは、みなさまにとってどうでもよいことなのでしょうか?

「今、日本が満を持して世界の軍事マーケットに参入すれば、それを必要とする国々の関心、期待は当然高い。我々の技術は、このマーケットに無限の可能性を持っている。大きな利益を生み出せる。経済は活性化され、国民は潤う。しかも武器輸出先の国との関係も強固なものとなり、安全保障の観点からも大いに効果がある」・・・それが確実な自信なのか机上の過信なのかはさておき、理屈自体は分からなくもないです。経済界からの支持、期待も理解できます。
しかし、いくら「戦闘当事国への輸出はしない」と歯止めをかけたところで、輸出先を経由して日本製の武器や兵器部品が第三国へと渡ってゆく、という流れは当たり前に考えられること。
「そこまでは知らんよ」と放置するつもりならば、それはもう国益でなく「自分さえ良ければ」という私益でしょう。最終的には日本が「世界の何処かで戦争が起こっていないと困る国」になってしまいます。

あれほどの重大な原発事故を体験した日本が、「国益のために」トルコに原発輸出する、というのもその意味においては同じ話で、ジュリーは1番と2番の同じヴァースで「原発」「戦争」という2つの「欲望全開の凄惨と傷悲」を並べてきたのですね。

「核で潤う」
「戦争で潤う」
日本という国は、それだけはしちゃいけないと思う。

「凄惨と傷悲」という歌詞カードの印刷文字を見てどんな思いを持つか・・・この漢字使いは、ジュリーから聴き手への問いかけではないでしょうか。
最近は僕も、「経済」「潤う」「国益」という「甘い」言葉が飛び交ったらちょっと怪しいぞ、よく考えてみよう、と心がけてはいましたが、今回ジュリーが「苦いぞ」と言い切ってくれたおかげで、スッとしました。
痛快な気持ちにさせてくれるロックンロールの魂・・・「こっちの水苦いぞ」の歌詞と曲想って、実はピッタリ合っているんですよ!

それでは続いて、そのロックンロールな楽曲構成の考察へと移っていきましょう。


発売前の僕の予想は、過去の下山さん作曲のジュリー・ナンバーで言うと「終わりの始まり」のようなサイケデリックなハード・ロック、というものでしたが、案の定見事に外れました。
後に鉄人バンドの演奏考察で再度触れますが、僕はこの曲を最初に聴いた時、ドアーズを思い起こしたんですよ。ドアーズを想起したならば少なくとも「サイケデリック」という点は予想が当たったのかと言うとさにあらず。これは、ゴツゴツのハードなブルース・ロックを演奏する時のドアーズの雰囲気なんですね。
キレッキレの演奏から、特に彼等の5枚目のアルバム『モリソン・ホテル』を思わせます。僕はドアーズのアルバムの中では3枚目『太陽を待ちながら』とこの『モリソン・ホテル』の2枚が特に好きなのです(一般的に人気が高いのはファーストとセカンド)。

そう思っていたところに、いつもお世話になっている鉄先輩(←初めて使う言葉笑)からの経由でジプシーズの「渇く夜」という曲を教えて頂きました。
なるほど・・・と思える曲でした。今回の下山さん作曲の原型となっている曲かもしれません。
じゃあ「こっちの水苦いぞ」は「渇く夜」と大きく何が違うかと言うと・・・これはもう、変態転調ですな~。
今年も気合入れて採譜、清書しましたよ~。

15031501

いや~、毎年毎年採譜に手こずらせてくれます、下山さん。今年も素晴らしい変態進行(褒めてます)!

これ、ホント毎年そうなんですが、下山さんの曲は「あれっ、何処行くの?」みたいに戸惑いながらも、苦労して苦労して最終的にはすべて理解できる、というのが醍醐味なんです(泰輝さんの曲は難解過ぎて途中で採譜を挫折、というパターンも恒例だけど、今年もその予感が汗)。
ありがちな「G7」の進行かな、と思っているとバシバシ「E♭」「B♭」なんてコードが噛んでくるし、サビではいきなり「D」がキーのクリシェがあるし、ギターソロの間奏部だけ独立した鬼進行になるし、最後の最後にアコギが出てきてメジャーセブンで終わるし・・・。

えっ、隣に並べてあるスコアは何か、ですって?
これはね~。

こっちの水        苦いぞ
D         D(onC)  D(onB)

下山さんが大胆に転調させる(ト長調からニ長調)キメのサビ部。この不思議にメロディアスなコード進行・・・これのパターン知ってる、何だっけなぁ、としばし悩んだ後に「あっ、これだ!」と発見した、ビートルズの「ディア・プルーデンス」(『ホワイト・アルバム収録』)のスコアです。
「UNCLE DONALD」の時も思ったけど、下山さんは同じ和音のルートだけをクリシェさせるだけで、凄く美しいメロディーを載せてくるんですよね。

ちなみにこのサビ部、ヴォーカルとコーラスにウォール・サウンドばりの深いエフェクトが施されていますね。
ジュリーの声は、諭してくれているようにも聴こえるし、迷いや混沌を表現しているようにも聴こえるし・・・ただここで思うことは、サビに辿り着くまでに歌われたジュリーの言葉の厳しさを和らげてくれるかのような、とても心地よいヴォーカルだということです。
特に2番でのリフレインは、反響が徐々に深くなっているような感じ(実際は、コーラス・トラックが増していることによる効果)で、気持ち良く浸っていると、ジュリーの「お~!」というせり上がる母音が炸裂。次のギター・リフにまで重なります。これがカッコイイんだよな~。

この、唐突にニ長調のルート・クリシェに変化するサビもたいがい変態転調ですが、もっと凄いのは間奏。
いきなり変ロ長調(コード進行はE♭→B♭)、と思ったら3小節目は1音ぶんガクッと下降して変イ長調(進行はD♭→A♭)。これが2度繰り返されて、何事も無かったかのようにさらに半音下のト長調のギター・リフに舞い戻っていくという・・・。
下山さんって本当に「間奏で突然転調して平然と元のキーに着地する」という構成が好きなんですね。

それでは演奏について。まずは鉄人バンドの演奏トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左サイド)
・エレキギター(右サイド)
・エレキギター(センター)
・アコースティックギター
・キーボード(ベース)
・キーボード(オルガン)
・キーボード(ストリングス)
・ドラムス
・タンバリン

左右のギターは、ミックス配置から考慮し左サイドが下山さん、右サイドが柴山さんの演奏と推測した上で、まずは各ギター・トラックの考察から。

左サイドのギターの見せ場はやはりイントロから耳に飛び込んでくる、あの印象的なリフ・フレーズでしょう。
このリフは音階で書くと「ソ~ソファ、ソドシソ♪」となりますが、そこはギターという特殊な弦楽器、ただ音符の羅列だけでは表現できないニュアンスがあります。
ここでは、「ドシ」の2音をチョーキング・ビフラートで演奏していることが大きな特徴。
下山さんがこうしたフレーズを弾く際に、チョーキングのジャスト最高音(この曲のリフの場合は「ド」の音)よりほんの少しだけ低い音の鳴りをビフラートで強調するテイクは、「Pleasure Pleasure」でも見られました。
このような粘っこいチョーキング・ビフラートのフレーズ・リフから入る名曲は洋楽にも多くの例があり、僕の好きなものから1曲挙げるとすれば、
これかな~。
あと、ト長調の曲なのにこのリフの「ファ」の音がシャープしない、というのも重要なポイントです。
ブルーノートの尖ったロックということですよ!
さらには「欲望全開の」から表拍で縦に刻むカッティング。これが2回し目から突如高いフレットでの演奏に移行します。それだけでガラリと曲全体の印象が変わるのですから凄いですね。

次に、右サイドのギター。
おもに表拍カッティングを左サイドのギターよりも軽快な歪み音で奏でるバッキング・パートです。
これはミックス位置を考えるまでもなく柴山さんの演奏でしょう。「うわ、柴山さんっぽい!」と感じたのは2番歌メロ直前の「ちゅくちゅくぎゅん!」ね。
これはそのすぐ前のリフ部がイントロとは変わって8分音符2発の頭打ちのアレンジに変化しているからこそ、休符部の間隙を縫っての炸裂が可能なのです。

問題はセンターにミックスされた間奏リード・ギターです。下山さんの作曲作品ですから、普通に下山さんが弾いている、と推測すべきでしょうが・・・音色、或いはコード・トーンに沿ったフレージングは、柴山さんの持ち味を強く感じさせるんですよね・・・。でも、自信はまったくありません(汗)。
このCDでのソロが下山さん、柴山さんいずれにせよ、「こっちの水苦いぞ」の3つのエレキギター・トラックをLIVE再現しようとした時、右サイドのパートを担当する人が間奏を弾く方が理にかなっている、ということは言えると思います。ですから、もしLIVEで下山さんの方が間奏ソロを弾くとすれば、その場合イントロからのリフ・フレーズは柴山さんが担当する(CDの左サイドのトラックの一部を柴山さんが弾く)ことになる、というのが僕の考えです。
と言いつつ・・・さて本番どうなるでしょうか。

泰輝さんのキーボードは3トラックあります。
この曲のアレンジで、ギター・リフと共に大きな肝となっているのがオルガンです。例えばAメロのヴォーカルの裏にアルペジオで鳴っているオルガン・・・これが ドアーズの手法を思わせるんですよ。
また、このオルガンの音色と明快なギターリフの組み合わせは、60年代後半のロックンロールのエッセンスでもあります。お世話になっている先輩方の中に、この曲について「GSみたいでとっつきやすい」と仰る声がありました。それは、無意識に耳に飛び込んでいるであろうオルガン・アレンジからもそう感じておられるはずで、とても貢献度の大きいトラックだと思います。
対して、サビに登場するストリングス系の音は「隠し味」的な演奏ですね。エフェクトとの相性も抜群。
そして泰輝さんもうひとつの演奏トラックは、大活躍のシンセベースです!
昨年の「東京五輪ありがとう」を経て、どうやらジュリーと鉄人バンドの間で「本格的なベースライン」の音色導入は完全に解禁となった模様です。
「もしバンドにベーシストがいたらこう弾く」という演奏。普通にベーシストが参加したバンドの音としてこの曲を聴いても、何ら違和感のないトラックですね。
「東京五輪ありがとう」「こっちの水苦いぞ」・・・ベースライン導入の鉄人バンド・レコーディング・ナンバーがいずれもギタリストの作曲作品というのが興味深い。
柴山さんや下山さんがスタジオ・リハの段階で、「ベースの音が欲しい!」と泰輝さんにリクエストしている光景を妄想しちゃいますね。

GRACE姉さんのドラムスは、高いチューニングが刺激的。演奏者は異なりますが、チューニングだけでなくフレージング含め、『第六感』や『いい風よ吹け』のドラムスに近い魅力を感じます。
また、最後のギターリフ・エンディングで曲が一度ピタッ!と終わる瞬間の音がスネアでもタムでもクラッシュでもなく、スリリングなオープン→クローズのハイハットというのが最高にカッコイイ!
タンバリンは、1番、2番ともに「欲望全開の」から始まる歌詞部で登場。時々「サティスファクション」のリズム(「NOISE」のリズムとも言う)が飛び出しますから、試しに気をつけて聴いてみて!

さて、この曲のアレンジで何より驚かされたのが、忽然と登場するアコギ・アルペジオをフィーチャーした、最後の最後のコーダ部でした。
アコギは後から別録りしたトラックをミックス編集していると考えられます。演奏は下山さんでしょう。
一緒に鳴っているのはGRACE姉さんのリム・ショットか、それとも特殊なパーカッションか・・・リム・ショットだとすれば、ドラムス・トラックと同一で一気に演奏されているのかもしれません。
本当に不思議な終わり方ですよね。初めて聴いた時はみなさんビックリされたでしょう。
アコギのアルペジオは「D」のコード・ヴァリエーションになっていて、4弦開放での「レ」の音を土台に、2、3弦のフレットを移動させているようです。ロン・セクスミスの「レス・アイ・ノウ」という曲を思い出しました。
最後の和音は「Dmaj7」。しかし音の理屈は分かっても、このアレンジが何を意図するのか、というのは僕にはまだ分かりません。いかにも下山さんらしい「標高の高さ」というのは感じるんですけどね。

そこで、7月からのツアーで大きな見どころのひとつとなるのが、この曲のエンディングがどう再現されるのか、或いは構成を変えてくるのか、という点。
コーダ部を割愛してGRACE姉さんのハイハットと共にピタッ!と終わらせるのか、それとも下山さんがエレキで最後のフレーズを演奏してくれるのか。(あ、さすがにこの曲でアコギ・スタンドの導入は、いかな霊力の使い手でも無茶だと思います笑)。

こうして色々と紐解いていきますと、やっぱり鉄人バンドの作曲、演奏、アレンジは本当に素晴らしい、と改めて思います。究極を言えば、鉄人バンドがついているからジュリーは凄い詩人になったし、今回の新譜のような歌が歌えるのではないでしょうか。

歌われている内容は激しい怒りだけれど、「こっちの水苦いぞ」は、まずゴキゲンなロック・ナンバー。ツアーで、お客さんはどんな感じでノるのかな?
曲想から自然に考えれば、この曲にはヘドバンが合います。ギターのカッティングに合わせて、首を縦にガンガン振るパターンですね。
でもジュリーLIVEの客層をイメージすると、そうはならないかもしれない・・・。とすれば、やっぱり表拍の連続手拍子かなぁ。1小節に4打。こちらは会場内の光景までハッキリと目に浮かんできます。
僕はどちらのスタイルもウェルカム。会場の先輩方に合わせますよ~。
今から、生歌、生演奏でこの曲を聴くのが楽しみです!(全曲楽しみですが)


それでは 次回更新は引き続きジュリーの新譜から、2曲目「限 界 臨 界」を採り上げます。
詞の内容を考えると、少なくとも次回2曲目考察記事までは、政治的なテーマについての私見もある程度は書かなければならないなぁ、と覚悟しています。

僕は普段から楽曲お題の新しい記事を書く際、まず自分の書きたいことをバ~ッとランダムに下書き状態で溜めていって、後にそれらを文章で繋げて清書する、ということをしています。
最近のジュリーの新譜はどれもそうだけど、いざ「文章を繋げる」時に、溜め込んである下書きでの自分の言葉遣いが「すごくきつい表現だな」と思えてしまうことが本当によくあって、手直し手直しでなんとか平穏な言い回しに、という作業が生じとても時間がかかります。
ジュリーが「(歌詞を書いていて)被災者のみなさんの心が痛むかな、と思ってだんだん柔らかい言葉になってくる」と語ったことがありましたよね。やっていることのレベルは比較にならないと分かっていても、ジュリーのそんな気持ちはすごくよく分かるなぁ、なんて思っています。
それに僕の場合は臆病だから、「叩かれるかな」「誤解されるかな」と怖れながら手直しをしている部分もあります。それでも僕はこの新譜を深く心に刻みたいし、みなさまがどう感じたかを教えて頂きたいし、そのためには僕自身ができる限りの気遣いもしていかないとね・・・。

政治的なことを書くと、いつもこのブログを読んでくださるみなさまの中にも、つまらないなぁと思ったり、考え方の違いで眉をひそめたりする人も多くいらっしゃるのでしょうが、今回ジュリーがここまで踏み込んできた以上、僕も今は「自分の考えをキチンと正直に書こう」という気持ちが大きいです。
執筆には時間がかかり更新間隔が空いてしまうかもしれませんが、気長に更新をお待ちくださいね。

『お嬢さんお手上げだ 明治編』が始まっていますね。
僕は観劇予定がありませんが、全公演が予定通りに無事開催され、大盛況、大成功をもって楽となることを心から祈っています。

ジュリーの音楽劇はこの後、火曜日に鹿児島公演なんですね。金曜日に熊本公演があるということは、ジュリーはずっと南九州に滞在かなぁ。この季節はデコポンです。ジュリーにたくさん食べて欲しいです。
これからこのブログでは新譜の記事が続き、重い雰囲気を感じることもあるかもしれませんが、音楽劇各地公演のみなさまのご感想なども、よろしければコメントに書いてやってくださいませ・・・。

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