『三年想いよ』

2014年4月 3日 (木)

沢田研二 「一握り人の罪」

from『三年想いよ』、2014

Sannenomoiyo

1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪
(5. みんな入ろ)

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一週間、下書きの段階から書いては直し、書いては直し、を何度も繰り返してきました。
本当に、ジュリーの言ってた通りだなぁ。読み返して「この表現はダメだ」と考えあぐねて、だんだん柔らかい言葉に変わってくる・・・それでも残っている「痛い」言葉もある・・・。

今日はジュリーの新譜『三年想いよ』から、いよいよ最後の考察記事です。4曲目「一握り人の罪」と、シークレット・トラックの5曲目「みんな入ろ」を同時に採り上げたいと思います。
「一握り人の罪」と言えば・・・今、ジュリーファンよりもむしろファン以外の方々のweb上での反応がとても多いようです。一昨年の「F.A.P.P.」昨年の「Fridays Voice」の時もそうでした。

いつも読んでくださっているジュリーファンのみなさまには、今回のこの記事が「楽しい」とは言い難い長文になることを、最初にお詫び申し上げます(この埋め合わせは、次回からサクサクと明るいお題記事を連発してゆくことで頑張っていきたいと思います)。
畏れながら、伝授です!

1曲目「三年想いよ」の記事で書きましたが、僕はこの新譜を仕事からの帰宅途中に購入し、歌詞やクレジットを見ずにまず電車内で通して聴きました。
事前にiTunesのサイトにて各トラックの演奏時間をチェックしていて、僕はそれも参考にしながら楽曲内容を予想したわけですが、いざ実際に聴いた時、この「一握り人の罪」には全4曲中最も意表を突かれました。「怒りと悲しみを前面に押し出したラウド・ロック」との予想に反し、まず耳に飛び込んできたのは、美しいアコースティック・ギターのストローク・アンサンブルでした。

美しいメロディーとジュリーの声に身を委ね、集中して聴いていたバラードが演奏を終えた時、体感としてはちょうどiTunesで表記されていた演奏時間(4分台後半)の感覚があり、ポータブルを取り出し再び1曲目から再生しようとしてふと、無音のままタイムカウンターが刻まれていることに気がつきました。5分を過ぎても、まだカウンターは進み続けています。

「これは・・・最後の最後にドキリとさせるような効果音でも入っているのかな?」
と考えた瞬間に始まったのが、「みんな入ろ」。

ビックリしましたよ。
歌詞カードを見ていませんでしたから、「一握り人の罪」という曲が、「みんな入ろ」の児童合唱部まで含めた形での、6分以上にも及ぶ大作だと思い込んだわけです。
帰宅し確認すると、みなさまご存知の通り、歌詞カード最後のページの桜の木の右上に「作詞・作曲・沢田研二」のクレジットと共に、「5. みんな入ろ」と記して歌詞があり、この短い童謡調の曲がシークレット・トラックの扱いになっていることが判明。
「なるほどこういう手法か」と改めて感心しました。

「シークレット・トラック」というのは邦洋ロックの名盤に幾多の例があります(邦楽については実際に楽曲としてはさほど聴いてはいないのですが・・・)。
トラックを単独で意味深に分けられているパターン(例・ジョン・レノンのアルバム『マインド・ゲームス』の6曲目「ヌートピアン・インターナショナル・アンセム」)もあれば、トラックを分けずに前曲からトータル・タイムの追加でひっそりと収録されているパターン(例・ポール・マッカートニーのアルバム『裏庭の混沌と創造』13曲目「エニウェイ」演奏後の追加トラック「アイヴ・オンリー・ガット・トゥー・ハンズ」)もあります。
ジュリーは今回の『三年想いよ』で後者のパターンを採用したことになります。
(ちなみに、僕はLPを所有していないのでまったく分からないのですが、『JULIE IV~今僕は倖せです』に収録されていたと話に聞く「くわえ煙草にて」は、シークレット・トラック扱いだったのでしょうか?)

こうした収録手法である以上、「みんな入ろ」が夏からのツアーで再現されることは無いでしょう。
あくまで、今年制作した新譜の締めくくりにジュリーが提示し投げかけた1曲、ということ。あとは聴き手がそれに対して何を思うか、です。
無論、手間をかけてそうした手法で収録が為されたからには、「みんな入ろ」にジュリーからの特に重要なメッセージが込められていることは明らかです。

僕の場合皮肉にも、今回のジュリーの新譜が届けられる前後のタイミングで、故郷から歓迎できないニュースが届けられたこともあって、「みんな入ろ」とジュリーから投げられたボールを自分なりの明確な答を得て受け取り、それをこれからこの記事でも書こうとしているわけですが・・・一方で、「どう反応すれば良いのか迷ったファンもきっと多かったんだろうなぁ」というのが率直な想像としてあるにはあります。
「なんだか怖い」という感想もあるそうですね。
「童謡が持つ怖さ」については、『イカ天』でゲスト審査員の大島渚監督が”たま”が5週勝ち抜きを達成した際に、ふと語っていたことがあったなぁ・・・。

それでは、まずは「一握り人の罪」。考察の前半は、純粋に楽曲、演奏、アレンジについて語っていきましょう。
いつものように、鉄人バンドのすべての演奏トラックを書き出してみます。

泰輝さん・・・オルガン(間奏以降同時弾きの左手低音は、右手オルガンとは違う音色のシンセベース)
柴山さん・・・アコースティック・ギター(右サイド)
下山さん・・・アコースティック・ギター(左サイド)
GRACE姉さん・・・ドラムス、マラカス、タンバリン

エレキギターが使われていない、というのがまずこの曲のアレンジの大きな特徴。
当然LIVEでも同じ楽器構成となるでしょう。柴山さんと下山さんの2人が揃ってアコースティック・ギターを持つシーンは本当に久々で、今から楽しみです。

昔 海辺の小       さな 
G   Am7    G(onB)  C

寂れかけてた  村      に
G     Am7       G(onB)  C

東電が来て
G  Am7

原         発  速く   作りたいと
G(onB)  B7    Em  A7  Dsus4  D

「ひと昔前の話だけど、こんなことがあってね・・・」
と、子供達や若い世代に伝え語りかけるジュリーの歌。また、僕も含めてある程度の年齢以上の聴き手にとっては、「物語」では決してない現実の記憶。そう、これは過去の「誇大でない現実」を語る歌なのです。

今は学校では教えないこと?
教科書には書いてある?
書いてあったとしても受験には関係ない?

左右のアコースティック・ギター2本の伴奏だけで始まる、美しいバラード。
左サイドの下山さんのアコギが、「カガヤケイノチ」のストロークにあまりにそっくりな音色でドキリとします。
一体どうしたら、こんなにキレイでシャキシャキな音が録れるんだろう・・・?
もちろん楽器それ自体の素晴らしさ(下山さんが「新しい娘」としてこのアコギを紹介してくれていたのは、2011年末のことでしたね)や、下山さんの技術の高さもあるでしょう。それに加えて、レコーディング手法にも秘密があるように思われます。下山さんならではの、「こう!」というやり方がきっとあるのでしょうね。

一方右サイドの柴山さんのアコギには空間系のエフェクトが施され、幻想的な音色になっています。
柴山さんの音は「昔」、下山さんの音は「現在」として、ジュリーの「読み聞かせ」での時間軸のリンクを表現しているのでしょうか。それは深読みとしても、「昔」と「現在」を行き来するのがこのジュリーの歌詞の特性であり、その「読み聞かせ」は物語ではなく現実です。「櫻舗道」の記事でも書いた「誇大でない現実を歌う」作詞手法が、「一握り人の罪」では徹底されていると感じます。

Aメロの「G→Am7→G(onB)→C」と流れる淡々としつつも美しい響きは、泰輝さんの大好きなアーティストでありピアニスト、ビリー・ジョエルの得意技。CD音源のアコースティック・ギター・トラックだけ聴くと「G→Am7→G→C」と聴こえるのですが、メロディーから考えて、泰輝さんの鍵盤での作曲段階では左手を「ソ→ラ→シ→ド」と上昇させていたものと推測されます。
僕にとってビリー・ジョエル・ナンバーの中で5本の指に入るほど好きな、隠れた名バラード「場末じみた場面」のAメロにも登場するコード進行。泰輝さんに、この曲への意識はあったのかなぁ。
ともあれこのAメロは、いかにも鍵盤奏者の作曲作品ならでは、という進行です。これがギタリストの作曲ならば、同じメロディーでも和音は「G→Am7→Bm→C」と当てる方が有力で、この場合はビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」のようなアレンジになっていたかもしれません。もちろん”音の料理人”である泰輝さんにはギタリスト的なコード感覚もあって、歌メロではなくオルガンのフレーズにそれが反映されています(2’00”、4’29”で登場するフレーズ)。

オルガンと言えば、間奏のソロも本当に美しいです。
ジュリーの「僕らに還して国を」という歌詞を受けていることもあり、ただ美しいだけでなく、寂しさだったり、嘆きだったり・・・被災地の人達の揺れ動く感情をも思わせます。というのも、この間奏はそんな人々の心の動きを表すかのように、なめらかに転調を繰り返しているんですよね。
左手で同時弾きしていると思われるベース音は、基本2分音符のロングトーン。これがまた優しくて切ない。そして、ここにベース音があるのと無いのとでは、サビ直前にフィル・インするドラムスへの効果が全然違うのです。

GRACE姉さんのドラムスが全面参加するのはそのフィル・イン以降のサビ部で満を持して、という感じですが、それ以前にハイハットのみのフィル部があったり、間奏ではマラカスとタンバリンが登場して細やかにオルガン・ソロをバックアップします。
LIVEではこのパーカッション・パートが再現されるのでしょうか。夏からのツアー、注目ポイントのひとつです。

あと、この曲には印象的なS.E.も採用されています。
川のせせらぎ、水の流れが何かをゆっくり動かすような音・・・でしょうか。
同じようなS.E.をクラトゥーというバンドの曲で聴いたことがあるような気がしますが、まだ該当曲を見つけられていません。
このS.E.で、僕の頭には田園風景が浮かびます。田んぼに沿って流れる小川と、古い水車、清らかな水の小さくもゆったりとした流れ・・・そんな風景です。
おそらく自分の幼少時代の記憶から引っ張り出されてきたものでしょう。

「一握りの罪」はこのように、メロディーや演奏、アレンジに非のうちどころのない大変な名曲です。
ただ、ジュリーの歌詞を読み歌を聴くと、そんな感想だけで考察記事を終えられる曲ではもちろんありません。

個人的には「よくぞこのテーマで、詞曲がガッチリ噛みあったなぁ」と考えていて、ジュリーの歌詞と泰輝さんのメロディーに僕はいささかの乖離も感じません。
これほどまでの「言いたいこと」が、こんなに美しい声で、メロディーで、演奏で歌われることは奇跡です。ジュリーの音楽制作環境は、かつてないほど充実していますし、そもそも、そうした環境も含めてここまでの「境地」を手にした歌手というのは他にいないのではないか、と思います。

しかし「一握り人の罪」については一方で、「美しい曲なのに歌詞が重くて・・・」と仰るファンも大勢いらっしゃいます。それもまた正直な感想なんだろうなぁ、とも思うのです。やはり、内容が内容だけにね・・・。

繰り返すようですが、僕個人は本当に皮肉なことに、「一握り人の罪」、そして続くシークレット・トラック「みんな入ろ」の歌詞をストレートに受け取ることができる体勢が思いもかけず整った(そうならざるを得なかった)タイミングで、今回の新譜を聴いたのでした。
この先書くことはジュリーの歌詞の読解と言うより僕個人の思いであろう、ということは最初に申し上げておきます。それでもきっとご批判もあるでしょうが・・・。

僕の心をざわつかせているのは、「みんな入ろ」に登場する「せんちゃん」が今まさに「僕は入らない!」と駄々をこね始めている、という問題です。
「せんちゃん」・・・日本最南の原発。

遠い遠い田舎の片隅のことで、みなさまあまりこの土地をご存知ではないでしょう。
僕の故郷、鹿児島県の西部に位置する、県内で3番目の人口を擁する町が「薩摩川内市」。市の最西部、東シナ海に面して建てられた九州電力川内原発が「せんちゃん」です。「川内」は「せんだい」と読みます。

川内原発再稼働については昨年から話がくすぶっていて(3年前の震災以前には増設の是非を巡る問題もあったようです)、「まさかなぁ」と思っていたら、今年に入ると「再稼働有力」との情報を全国紙でも見かけるようになりました。
気が気でない中で僕はジュリーの『三年想いよ』を聴き、その翌日、再稼働具体化が公式に発表されました。
地元の反対派の方々の「まるで出来レースじゃないか」という怒りの声をネットで知りました。
ただ、県はどうやらやる気満々。そして、県人の意識としてはどちらかと言うと推進派、或いは「再稼働やむなし」の声の方が大きいとされているではありませんか。まずそうした全国紙報道が果たして真実なのかどうか、と疑ってしまっている現状です。

確かに、多くの鹿児島県人には保守的気質があります。僕はそれを特に嫌だと感じたことはないけれど、他県では考えられないような絶対男性上位の考え方などは今でも根強いです。
話せばみな穏やかで暖かい人達でのんびりしていますが、目的が一致した時の強い集団団結力もあります。今、そうしたことが再稼働に向かってしまっているのでしょうか。

しかし・・・2012年に南大隅(県本土の南東部)に核廃棄物処理場誘致の話が持ち上がった時には、地元の方々を中心に反対運動が起こり、県として拒否したという経緯もあります。
何故今回、川内原発再稼働推進の機運となっているのか・・・まだよくは分かりません。「取り戻せない平穏な暮らし」を想像してみようとする人が県内にどれほどいるのだろうか・・・それも分かりません。

もちろん、強い反対の声も多く上がっています。
その中に、ジュリーが選挙応援した彼も噛んできています。実名を出せずにごめんなさい。彼の名前を出して政治的なことをweb上に書くと、すぐ荒れてしまうのだそうです。まぁ、それでも覚悟はしておかなければいけないのでしょうが・・・。
実は僕はこれまで、彼をあまり快くは思っていませんでした。ジュリーが応援した人なのに、何故そんなことするかなぁ、何故そんなこと言うかなぁ、と感じたことが度々ありました。

でも正直、今回の彼の行動は嬉しかった。

鹿児島では今、彼は相当叩かれていると思います。
再稼働反対派の人達からさえ疎んじられている状況も、もしかするとあるのかもしれません。鹿児島は、都会からやってきた人が物事を仕切る、ということに強い抵抗感を抱く土地柄ですからね・・・。
ただ、彼が前面に立つことで、今月行われる鹿児島2区の補欠選挙が全国的なニュースとなっています。新聞によってずいぶん扱いの差がありますけどね。
それでも、「何で彼がわざわざ鹿児島までしゃしゃり出てるの?」という興味本位の疑問から、川内原発再稼働をとりまく差し迫った現況を初めて知る人もいるかもしれません。これまでは、全国的にはほとんど詳細報道が無かったのです。

薩摩川内市は、僕の実家がある霧島市と隣接しています。隣接と言っても、2つの市共に、近年になって合併して大きくなった市で面積も広いですから、川内原発と僕の実家では結構な距離がありますけど。
とは言え、万が一今回の福島原発のような過酷事故が川内で起きてしまったら、霧島市にも重大な影響が必ずあります。
「鹿児島」は「カゴシマ」と記されるようになり、南風が吹く日に桜島の噴火があれば、「死の灰」などとメディアに書きたてられ騒がれるのでしょう。
川内のすぐ北にある「出水」という町は鶴が渡ってくることで全国的に有名な所ですが、どう対処するのでしょうか。
そのまたすぐ北は、もう熊本県の水俣です。

毎日流れてくるであろういたたまれない故郷のニュースに、僕は黙って耐えられるだろうか・・・実家も含め、近辺に暮らす肉親や友人達は、どうするのだろうか。

こうして書いてみると、僕はいかにも鹿児島のことしか考えていない身勝手な奴のようです。
それを否定などできません。恥ずかしいことですが・・・「もし自分の故郷が」と考えて初めて思い至ることがあり、今まさに福島の事故後苦しんでいらしゃる方々への気持ちもまた変わってくる、ということが確かにあるのです。僕のような人間は、そうでもしないとなかなか辿り着くことのできない気持ちです。

福島については事故後に世間で色々な考え方が複雑にせめぎ合っていて、その中には僕の思いとはかなり違うものもあり戸惑うことがあります。
それだけに、今年ジュリーがツアーで南相馬に行く、と知った時は嬉しかった・・・。
ただ、鹿児島公演が無いことが残念です。あったら、無理してでも参加したと思います。こんな時だけにね。
まさか「東電」を「九電」に変えて歌ったりはしないと思いますが、ジュリーの宝山ホール公演を主催している南日本新聞は、ジュリーのメッセージをきちんと伝えられる懐がありますから、川内原発再稼働に反対する一般の方々も、LIVE翌日の南日本新聞を読んで大いに力を得られただろうになぁ、と思ってしまいます。

さてここで、ジュリーが歌った、過去の「誇大でない現実」について思い出してみましょう。


30年ほど前・・・ちょうど、ド田舎の「寂れた」町から華やかな都会へと上京した僕が大学生活を送っていた頃になりますが・・・テレビ朝日の『朝まで生テレビ』という討論番組が、深夜枠では異例の高視聴率を得て放映されていました。
司会の田原総一朗さんを筆頭に、錚々たるパネリストがレギュラー、ゲストに顔を揃え、様々な社会問題をそれぞれの立場、考え方から徹底討論するという内容で、この番組で知名度を上げたパネリストは数知れず。つい最近、東京都知事となった人もその一人。僕は当時、レギュラー・パネリストの中で一番分かり易く、かつ核心を突いた話をしてくれる人、と好印象を持っていたものでしたが・・・。

番組では「何度採り上げてもなか
なか結論が出ない」ということで、数回にわたり討論テーマとして採り上げられていたのが、「原発」の問題でした。
本当に「今だから」言えることは・・・あの頃の議論は争点がズレまくっていたんだな、と。

「何だかよく分からないけど、とにかく怖いから建設そのものに反対」という考えでは、誰も深い議論に入っていくことはできませんでした。どちらかと言うと、「大きなリスクとどう共存していくのか、またはするべきなのか否か」が大きな争点となっていました。
「怖いか怖くないか」ではなく、「必要なのか必要でないのか」が論点でした。討論番組ならばそれは必然の流れだったかもしれませんが、「怖さ」を実感しよう、想像してみようとした人は少なかったように思います。
推進側はもちろん、反対側の多くの人達にしても、30年後の過酷事故を予測できたはずもなく、「事故が起こったら」と必死に声を上げた僅かな参加視聴者は、「博識な知識人」達の議論の中で次第に萎縮していくしかなかった・・・そんなシーンがまざまざと思い出されます。

東電側も信じた
     G                G(onF#)

受け入れ側も信じた
          Em              Em7

安全神話鵜呑みに
    C                     G11(onB)

一握り人の罪
    Am         Dsus4   D

どちらの立場としても、当時は結局「過酷事故は起こらない」と「信じる」しかなかった。そう思い込んだ上で、話を進めていくしかなかった・・・それが「安全神話」の正体だったのかもしれません。

でも・・・もちろん「知識人」の議論とは別のところで、「安全なはずがないだろう」とシンプルに考えた著名人は当時から大勢いたはずです。今考えれば、RCサクセションの「サマータイム・ブルース」はそういう曲だったわけですし。
それをキャッチできなかった僕らの責任は重い、と思います。他でもない「安全圏」に身を置くと信じていた僕らが「気づき」に向かおうとしていなかっただけではないか、と思います。

かつて土地の人々の反対意見を「機動隊投入」で封じた・・・?そんなことがあったんだっけ・・・?
と、僕が格別常識知らずで酷いのかもしれませんが、僕はそんなレベルで「一握り人の罪」を突きつけられているという状況。
とすれば、当時「自分は外野」と決めこむことに何の疑問も持っていなかった僕のような者こそ「一握り人」に含まれるのかもしれない、と・・・考えは堂々巡るのです。

結果、各地に原発は作られました。次々に。反対意見は軽んじられて。それは厳然たる事実。

ジュリーの作詞には、初聴時に耳で聴こえる言葉と、文字(歌詞カード)とが違うというパターンがままあります。当然、ジュリーはダブル・ミーニングとして敢えてそうした手法を採り入れているかと思いますが、「一握り人の罪」にも強烈にそれがありました。

原発に乞われた町
    G                    G(onF#)

原発に憑かれた町
    Em                   Em7

神話流布したのは誰
      C                    G11(onB)

一握り人の罪
    Am        Dsus4   D

このはじめの2行・・・僕には「原発に壊れた町」「原発に疲れた町」と聴こえました。
「最初に歌詞カードを見ずに聴いた」と仰るみなさま、ほとんどそう聴こえたのではないでしょうか。

ある先輩が仰っていました。「文字ではなく、耳に聞こえる言葉の方がジュリーの心の叫びなのでは」と。
そうかもしれません。
また、解釈の仕方によっては、「乞われた町」「憑かれた町」は、寂れた土地に東電がやってきた頃のことを表し、「壊れた町」「疲れた町」は今現在の状況を表している、と考えられなくもありません。

ジュリーはどんなふうにこの歌詞を作っていったのでしょう。最初に「壊れた町」「疲れた町」と書いて、後から当てる漢字を変えたのかな・・・それとも最初から2つの意味を持たせることを決めていたのか・・・。


「詞を作っている時、被災した方の心が痛むかなと思って、だんだん柔らかい言葉に変わってくる。それでも『痛いけれどよく言ってくれた』という歌詞が残っていたら、僕は救われると感じる」

これまで何度も引用してきましたが、先の3月2日付の毎日新聞夕刊に掲載されたジュリーの言葉が、「一握り人の罪」を聴くと胸を突くように思い出されます。
だからこの曲は、痛いけど柔らかい。僕はたまたま故郷の問題があって、今回こういう記事を書いてしまったけれど、本来はああだこうだと考えるよりもまず、柔らかな歌に身を委ねるべきなのでしょう。
大切なのは理屈じゃなくて人の心なんだ、シンプルなことなんだ、とジュリーに言われたように思います。


額に皺の寄るような話を長々としてしまいました。
改めて最後に、僕が「一握り人の罪」という名曲に特に感動させられた点を2つほど挙げて、記事の締めくくりとしましょう。

ひとつは、これはもうほとんどのジュリーファンのみなさまが同じように感じられているのでしょうが・・・1番の「嗚呼無情」でのジュリーの「嗚呼」というヴォーカルです。
息を飲むしかないですね。(レコーディング音源としては)本当に久々にジュリーの「ああ」が降臨しました。
LIVEで思い出されるのは、昨年の『Pray』ツアー、セッットリストの大トリで歌われた「さよならを待たせて」。今年は、それ以上の「ああ」が「一握り人の罪」の生歌で聴けるはずです。感嘆よりも、深い悲しみをたたえたものにはなるのでしょうが・・・。

もうひとつは、「狂った未来」に「待った」をかけ、続く歌詞フレーズ「繰り返すまい明日に」に視界がパッと開けるような光を投げかけてくれた、泰輝さんの素晴らしいアレンジ・アイデアです。
「一握り人の罪」のサビのメロディーは、1番、2番にそれぞれ2回連続して、合計4回登場します。当然すべて同じメロディーになっているのですが、2番の最後のリフレインのみ、それまでとはコード進行が一変し、ジュリーの声が一層美しい響きで伝わってきます。
「理屈は分からないけど、最後のサビが特にグッとくる」と仰るかた、いらっしゃいませんか?

原発に怯える町 原発に狂った未来
    G              B7    Em              Dm7  G7

繰り返すまい明日に 一          握り人の罪
       C                     G11(onB) Am       Dsus4

嗚呼無情
D         G

太字で表記したコードネームが、変化している箇所です。特に「未来」に当てられた「Dm7→G7」が本当に素晴らしい!
この進行自体は、ポール・マッカートニーの「ブルーバード」や「もう一人の僕」「ア・サートゥン・ソフトネス」などの曲で僕も会得しているつもりでいましたが、超王道の「G→Em→C」の進行をこんなふうに変換させる手法があるんですね。
「最後の1回だけ」というのが泰輝さん会心のアイデアだと思います。ジュリーや鉄人バンドのメンバーは、曲が提示された段階ですぐにこの変化に気づいて「いいねぇ!」と大絶賛だったんじゃないかなぁ。


今年もまた、色々と考えさせられる新譜でした。
感じるものは人それぞれ違うでしょう。でも、この4曲が夏からのツアーでどんなふうに再現されるのか、それを大きな楽しみに今は待ちたいと思います。

そうそう、ぴょんた様のブログを拝見して「あ、そうかも!」と目からウロコだったのが、1曲目「三年想いよ」に登場する、歌メロと同じ音階を弾くリード・ギター・トラックについて。
ぴょんた様は、1番後の間奏が下山さん、アウトロ1回し目が柴山さん、2回し目以降が2人のユニゾンではないか、と推測していらっしゃいました。これ、改めて聴き直してみると、確かにそんなふうに感じるんです。
それなら、ギタリスト2人が各2トラックを担当してレコーディングしたことになり、作業バランス的にも納得。LIVEではすべて柴山さんが弾くかもしれませんが、CD音源についてはぴょんた様の仰る通りかもしれない、と手を打ちました。さすが、そのあたりは愛情が考察を深める、ということでしょうね。僕の場合はどうしても、理屈から型にはめようとして考察してしまうから・・・いやいや勉強になりました。

僕はこれからもこの名盤を繰り返し聴きまくって過ごしますが、ブログの方は一転しまして、LIVEではなかなか聴けないようなジュリーの様々な時代の名曲をお題に採り上げ、楽しい内容の楽曲考察記事をしばらく続けていく予定です。

なるべく短めの文章で(汗)、そのぶん更新頻度を上げていければ、と思っています。
よろしくお願い申し上げます!

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2014年3月27日 (木)

沢田研二 「東京五輪ありがとう」

from『三年想いよ』、2014

Sannenomoiyo

1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪

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関東では暖かい日が続くようになりましたが、みなさまお住まいの地域はどうですか?
こちらの桜はぼちぼち、といったところですね。「爛漫桜」となるのは来週でしょうか。
ジュリーから「櫻舗道」という新曲が届けられたこともあって、今年は桜を見るにも例年とは違う感動や切なさがあります。みなさまもきっとそうでしょう。

さて、音楽劇『悪名』公演が始まりましたね。
実は僕はまだいつ参加するのか決めかねている(ポール・マッカートニーの再来日が正式に告知されて、財布の紐がきつくなってる説もあり・・・汗)んですけど、まずは初日に参加されたみなさまの感想を楽しみにしています(僕は音楽劇に関してはLIVEと違ってネタバレは全然平気)。
個人的には、ジュリーの歌う様子や、柴山さんをはじめとするバックの演奏がどんな感じだったのかが気になるところです(演奏者が客席からどのくらい見えるのか、どんな楽器構成になっているのか、ジュリーやキャストの歌のシーンが何曲くらいあるのか、など)。

また、最近のジュリー絡みの情報ですと、『ロックジェット』の発売も楽しみですね~。
4月発売の56号は、『THE TIGERS 2013』ツアー・レポートを軸とした”ザ・タイガース再結成保存版”とも言うべき内容だそうですから、これはもう一家に一冊。
みなさまには申し訳ありませんが、僕は今回もいち早くフラゲしたいと思ってます(汗)。

そして、56号、57号と連続でソロのジュリー特集も組まれるそうで・・・いやぁ本当に嬉しい!
きっと、多くのジュリーファンが『ロックジェット』編集部に寄せた声がこの企画へと繋がったのでしょう。何と言っても『ロックジェット』には、『3月8日の雲』以降のジュリーの作品について素晴らしい文章を書き続けてくださっている佐藤睦さんがいらっしゃるのが心強いです。

連続特集の内容は、「シングルとアルバムに分けてジュリーの歴史を振り返る」ということだそうで(56号は、まずシングルなのかな?)、いかにも『ロックジェット』らしく、”ロックなジュリー推し”を掲げて告知。
まぁ僕個人は今でこそジュリーが”歌謡曲”と評されることにまったく抵抗はありませんが(どうカテゴライズされようとジュリーはジュリー。ジャンルなど超越している、と今は考えています)、『ジュリー祭り』直後に本格堕ちした頃は、「ジュリーこそロック!」と何度も書いていましたからね。当然、ロック視点のジュリー評は大歓迎です。
実績のある色々な評論家さんやミュージシャンの方々がそんな視点でジュリーを語ってくださることを、僕はずっと心待ちにしていました。その気持ちは、これまで何度もブログに書いてきましたし。
今こそ、僕がタイムリーで見逃してしまっていた時代のジュリーのロックを教えて欲しい、と・・・それが『ロックジェット』の56号、57号で叶えられそうな予感がします。

特集はきっと、単なる過去作品の列記に留まらず・・・そして必ずや佐藤睦さんが、今回の新譜『三年想いよ』についてもページを割いてくださるはずです。
本当に楽しみです!

あと、これはもうご存知のかたがほとんどかと思いますけど、Eテレさんの再放送リクエストが話題になっていますね。
http://www.nhk.or.jp/e-tele/onegai/detail/30530.html


ジュリーファンがリクエストするのは、もちろん『みんなのうた』。『みんなのうた』と言えば、「あなたが見える」。ジュリー、サリー、タローのユニット、TEA FOR THREEのシングル「君を真実に愛せなければ他の何も続けられない」のカップリング曲です。
ここは是非ファンの力を結集し、再放送決定に期待!

思えば・・・2011年にEテレさんが『みんなのうた』リクエスト企画を募った際にも、「あなたが見える」は多くのジュリーファンの票を集めたようで、翌2012年の2月~3月に待望の再放送が実現しました。
2011年の、まだ寒い時期でしたね。みなさまがこぞって投票なされていたすぐ後・・・ほんの10数日後に、あの痛ましい震災が起こってしまったのでした。
僕にとって東日本大震災は、「あなたが見える」の記事を書いた頃の記憶とリンクしているのです。

あれから3年。
今日も拙ブログは、ジュリーの新譜『三年想いよ』からのお題での更新です。

採り上げるのは、3曲目収録「東京五輪ありがとう」。
ある意味、収録曲中最も一般リスナーへのハードルが高く、評価を得ることが難しいナンバーかもしれません。しかしそこには、ジュリーの身近さ、男らしさがあることを僕らは知っています。

そしてこの曲には「懐かしさ」「楽しさ」もあります。
今回も色々と難しい問題について書かせて頂くことにはなりますが、ひとしきり考えた後には心をまっさらにして、夏からのツアーでは、真っ直ぐな目と感受性で素直にノッて楽しみたい痛快なロック・ポップ・チューンだと思っています。
僭越ながら、伝授!

僕の事前の楽曲内容予想は、半分当たり、半分ハズレ・・・といった感じかな。
16ビートのロック・サウンドという点だけは当たりましたが、歌詞の内容は微妙に予想とは違いました。真正面から反原発、という内容を予想していたのです。そこまで限定的ではありませんでしたね。
いや、ジュリーの歌詞の根底で原発の問題がメインになっている、とは言えるのですが・・・。

最初に語りたいのは、純粋に楽曲、演奏、アレンジの完成度と爽快感です。この曲を「明るいロック・ナンバー」と言い切ることに、僕は躊躇いはありません。
短調(「Am」)の曲なんですが、冒頭からバ~ン!と来るサビ部はその都度長調(「C」)に着地しているのです。柴山さんは当初「希望の祈り」を頭に、この曲想に取りかかったと思いますよ。コード進行も、王道中の王道です。直球の作曲ですね。

今回も、鉄人バンドのすべての演奏トラックを書き出して色々と考察してみましょう。

柴山さん・・・エレキギター(センター&右サイドのリード・ギターと右サイドのバッキングの2トラック)
下山さん・・・エレキギター(左サイド)
泰輝さん・・・シンセサイザー(パワー・ブラス、疑似エレキ・ベースの2種)
GRACE姉さん・・・ドラムス

アレンジは正に鉄人バンドのLIVEでの基本スタイル=真骨頂とも言うべきもので、明快な曲想もあって、他収録曲と比べて「これで行こう!」とメンバーが最終決断するまでにかかった時間は短かったんじゃないかなぁ。
ズバリ、「いつもの沢田さんのLIVEのようにやろうよ!」というアプローチだと思います。
それだけに、「歌詞には意表を突かれたけど、音はすんなり耳に入ってくるなぁ」と感じたファンが多いのではないでしょうか。
そして同時に、「なんだか懐かしい感じだな」という印象を抱いたかたもいらっしゃるかな?

特に泰輝さんのシンセに、70年代後半から80年代に流行した音作りのような感触があるのです。
阿久=大野さん時代からエキゾティクス期のジュリーがお好きなかたや、エイティーズの洋楽ロックを好むかたの琴線に触れやすい演奏、アレンジになっていると思うんですけど、いかがですか?

ヴォーカルの合間合間に切り込んでくる泰輝さんのシンセサイザーは、上記しましたが「パワー・ブラス」というパッチの音色かと思われます。
最近ではトランペットやトロンボーン、サックスなどのブラス系管楽器もシンセサイザーでそれぞれそっくりな音は出せるんですけど、こうした「敢えて生音とは違う、シンセっぽい」響きの音色が、16ビートのロック・ナンバーとの相性抜群。
今となっては確かめる術は無いのですが、泰輝さんは『ひとりぼっちのバラード』で演奏された「ダーリング」で同じ音を使っていたように僕は思うんですよね。
以前のようにツアーがDVD化されれば、そんな比較の楽しみも後から出てくるのになぁ・・・ツアーが終わるごとに毎回思うことながら、あの素晴らしいステージが映像に残らないというのはとても残念です。

またこの曲では、泰輝さんが弾く「擬似エレキ・ベース」のアレンジを採り入れている点も見逃せません。
『3月8日の雲』収録の「恨まないよ」や、次回執筆の新譜4曲目「一握り人の罪」にもシンセベースが登場しますが、それらは曲中ずっと鳴っているわけではなく、限定的な登場です。それが「東京五輪ありがとう」では完全に「もしエレキベースの演奏者がいたら」と想定したフレージング・トラックとなっています。
この曲、CDのレコーディングについては別録りの可能性もありますけど、LIVEでは、泰輝さんの”神の両手”が縦横無尽に駆け巡るであろうこと、まず間違いありません。下段左手がベースでしょうね。

GRACE姉さんのドラムスも入魂です。
収録曲中唯一のパワー・ロック系の曲想ということで、”鬼姫ロール”が炸裂しまくっていますね。何の気なしに聴いていると目立つのは最後の1箇所だけですが、実はこのロール、2’52”、3’08”、3’12”と3箇所で登場していますよ~。是非注意して聴いてみてください。
これまた、LIVEでの再現が楽しみ!

そしてギター。
左サイドの下山さんは基本「ずんずん、ちゃ~、ちゅく、ずんずん、ちゃ~♪」というカッティングがメイン。ディストーションの引っかくようなブラッシングが随所に見られます。音や弾き方は、昨年お正月の『燃えろ東京スワローズ』ツアーで魅せてくれた「everyday Joe」のカッティング部に近いかな、と思いました。

柴山さんは2トラックだと思います(セカンド・リードが追加トラックの場合は3トラックですが、リードギターは1発弾きで、ミックスで位置を振ってるような気がする)。
まず右サイドはバッキングと、ディストーションに強めのフランジャーを掛けあわせたセカンド・リード。「ジェット・サウンド」というヤツですね。
おそらくこの右サイドのバッキングのフレーズが、柴山さんの作曲段階の構想に近い演奏ではないでしょうか。
センターのリード・ギターはディレイが強め。柴山さんらしい王道のフレージングで、これはSGじゃないかな。
一番の見せ場である間奏ソロでは他楽器が刻みだけになりますから、LIVEでは柴山さんの主役タイム確定。ステージ前方までカッ跳んできて、身体を振ったり伸び上がったりしながら演奏する柴山さんの雄姿が、今から目に浮かぶようです。

このように、柴山さんの作曲や鉄人バンドの演奏だけとってみると、いかにも明快なロックナンバーで、LIVEではノリノリ!の曲と言えそうなのですが・・・さぁそこでジュリーの歌詞についてはどうなんだろう、と。

これはねぇ・・・他の収録3曲以上に色々と考えてしまうんですよ。ファンではなくてね、夏からのツアーで「観に行ってみようか」と参加された一般のお客さんの受け取り方が、どうなのかなぁと考えるのです。
新譜の他3曲は、良くも悪くもストレートな反応があるでしょう。でも、「東京五輪ありがとう」だけは、その点想像がつきにくい。LIVEで客席がいきなりノリノリになるのか、じっと固まった反応になるのか・・・まったく分からないのです。

オリンピックって、4年に1度の開催の度に毎回、各テレビ局とのタイアップでいわゆる「応援歌」としてのテーマソングが何曲かリリースされますよね。
僕はそんな音楽戦略を全然否定はしません。普段はまったく見向きもしないバンドやアーティストでも、仕事絡みでいち早く聴いた時に、「これは爆発的にヒットしそうだ」という明るいエネルギーを感じる曲も過去にたくさんありました。そうした純粋さは多くの人達に力をもたらしてくれると思いますし。
ただ、そうした曲が巷に多いだけに、パッとタイトルだけ知ったら、ジュリーの「東京五輪ありがとう」もそんな並びの曲として受け取られる可能性はあります。
いや、LIVEで実際にこの曲を生で聴いても、歌い始めでは普通にそういう解釈で耳に入ってくるのかもしれません。

では、一般のお客さんは、曲が進んでどの辺りで「あれっ?ちょっと待てよ」と考えるでしょうか。

東京五輪万々歳 東京五輪おめでとう
Am F     G     E7  F   Dm    G        C  E7

被災地を救うため 東京五輪ありがとう
Am F     G       E7  F   Dm    G       C  E7

普段からジュリーの発信に触れていなければ、「被災地」というフレーズだけで「気づき」に至ることは難しいでしょう。「一般論」的な「被災地のために」と受け取られてもこれは仕方のないところです。

一方ジュリーファンであれば、冒頭の「東京五輪万々歳」の時点で早速「これは」と考えることになります。
「万歳」と「万々歳」では明らかにニュアンスが違いますからね。言葉が適切ではないかもしれませんが、「万々歳」には「本意ではないけど」という雰囲気があるように感じるのです。

ここで、昨年9月7日の『Pray』渋谷公演でのジュリーのMCについて振り返ってみましょう。
それはちょうど、オリンピック&パラリンピックの7年後(当時)の開催国がいよいよ明日決する、というタイミングでの公演でした。実際にそのMCを生で聞くことができた僕は、LIVEレポートでジュリーの言葉についての感想も書きました。畏れながら、ここで少し僕のその文章から引用します。


「明日の夜明けには、落選が決まるでしょう」
とジュリーがおどけるように言ったものですから、会場からは「え~~~っ?」という反応。
でも僕は、その後のジュリーの言葉を待たずとも、ジュリーが今回のオリンピック招致についてどんなふうに考えているか分かりました。
(中略)
たまたまLIVE前日、例の「コントロールされている」発言報道について
「ジュリー怒ってると思うよ。でも渋谷(のMC)でその件には触れないだろうね」
とカミさんに話していたのが・・・意外やMCでも採り上げた、ということは「みんな、考えてみ」というメッセージだと思うのです。
ジュリーは決して開催自体が悪いと言ってるわけではないので・・・結果、招致が決まったからには、僕ら一般の人達もそれぞれ考えることがあるはず。「やっぱりダメです」というのは許されない状況になったのですから。

このことは、招致が決定したその後、トークショーでもジュリーは話題に採り上げて
「決まったからには、被災地のためにやるべきだ」
と熱く語ってくれたのだそうですね。

   あの町を 忘れないで
Am  G       C  A7         Dm

思     い出して
F#m7-5  B7      E7

「東京五輪ありがとう」の詞では、そんなジュリーの素直な思いがズバリ直球で書かれています。ひょっとしたらトークショーの頃にはもう、歌詞のアイデアがハッキリジュリーの頭にあったのかもしれません。
「これは今歌わなイカン!」と。

招致決定前夜のMCでは、「原発事故のことがあるから、日本には行きたくない、という人だっている(外国選手や観客を指しているのではないか、と思いました)」との言葉もありました。
そもそも、対ファン限定の場であるトークショーはともかくとして、ジュリーはLIVEのMCで自らの社会的な考えを語るというのはそう多くはありません。僕も新規ファンとは言え、『ジュリー祭り』以降は数十回のステージ(まだ100回までは行ってない・・・と思う)を観てきた中で思い出して考えますと、ハッキリそれを感じたのは、たったの2回です。
ひとつは今語っている、五輪招致について。
もうひとつは、「かの人」が東京都知事を辞職し国政への参入を表明した時。

僕の参加していない会場でまだ例はあるのでしょうが、そんなに多くはないはずです。
これをして、ジュリーがLIVEのMCでそうしたことを語るのは、「黙っていられないほど腹の底から怒っていてる時」なのではないか、と思います。

ならばジュリーは、オリンピック&パラリンピック招致前夜の渋谷公演で、何に対して怒っていたのか。
答は、「東京五輪ありがとう」の歌詞中にあります。

   I. O. C. 完全ブロック 表            なしね
Am  G    C  A7      Dm     F#m7-5  B7     E7

アンダーコントロール 騙す訳   ない
Am G            C         Dm    C  E7

新譜『三年想いよ』リリース直前の毎日新聞夕刊記事は、みなさまご存知ですよね。その中に、こんな一文がありました。


「東京に五輪を呼ぼうとした人は、『原発事故はやっかいだな』と思っていたに違いないよね」とぽつりと漏らした

I.O.C.の「原発事故のその後は大丈夫なのか?」という至極当然なアタックを、日本は「表なし」の「アンダーコントロール」という言葉で完全ブロックしたのだ・・・それが「東京五輪ありがとう」という曲の主旨です。
この2行が歌詞の根幹。ジュリーが歌いたかったことの本質を表しているのではないでしょうか。

僕もそうでしたが、最初に歌詞カードを見ずに曲を聴くと、ここは普通に「おもてなし」に聞こえます。それがいざ歌詞を読むと、「表なし」。さてどういうことでしょう。
ジュリーは昨年流行語となった「おもてなし」を否定しているのでは決してなく、「アンダーコントロールって言い方は、表じゃない」と言っているのです。
いや「表」だ、と誰かが言うならば。

言ったからには騙すわけないよね、コントロールするんだよね、あと6年・・・本当にやるんだよね・・・。

強烈です。
シニカルな歌詞に込めたこのジュリーの主張は、今の被災地の現状や、過去に怒った現実の過ちを淡々と歌った他収録3曲と比べて、ハッキリと攻撃的で激しいものです。「アンダーコントロール」と歌う部分は英語発音完全無視で母音をくっつけるような感じでメロディーに載っていますが、これは「日本人が放った言葉」としてジュリーが歌詞に組み込んだ、ということではないでしょうか。英語表記にするのとでは、意味が違うんだと思います。

歌がここまで進むと、一般のリスナーも
「あれっ、これは五輪開催にうかれ喜んでいるハッピーソングではあり得ないな」
と気がつくでしょうか。

「五輪は被災地のために」と言葉で言ったり書いたりすることは簡単です。重要なのは、観る側の僕らも含めて、関わっていく一人一人が真剣なその意識を持てるかどうか。
被災地復興の遅れの具体的原因として、資材の高騰と人手の不足が挙げられています。そこへ来て、五輪招致に伴う諸々の建設計画などの実現によってその人手不足に一層拍車がかかるのではないか、と危惧する声も高まっています。

僕には、過疎地域出身だからこそ、分かることがあります。都会の華やかさに実感が持てない感覚です。

五輪開催期間中、東京は多くの海外からの観光客を迎え、秋葉原あたりで様々な国の人達がメイドさんと写真を撮ったりするのでしょう。華やかなことです。否定などしませんよ。大いに結構。それは必要なことですし明るい光景でしょう。
ただ、同じ日本の離れた田舎に暮らす人々にとって、テレビなどで報道されるそんなシーンは、現実の世界だと思えないんですよ。自分はその輪の中にはいない、という前提で観てしまうのです。それが「地方の田舎」の住人の自然な発想です。

そんな地域を、何とかする五輪にできないか。
具体的には今回はもちろん、東日本の被災地ということになります。それができれば、「東京五輪ありがとう」と皆が言える。ジュリーのこの曲に対してのリスナーの感覚もも生まれ変わる。40年を経て生まれ変わったザ・タイガースの「誓いの明日」のように、聴こえ方が全然違ってくるはず。
ただし、あと6年しか時間がないんだよ、とジュリーは言っているんですね。

と、ここまで色々額に皺が寄るようなことを書いたのだけど・・・最初にも言った通り、「東京五輪ありがとう」は楽曲自体本当に痛快な、ノリノリの曲なんですよ。
だから、いざLIVEでこの曲が始まれば、何も考える必要もなく曲に身体を任せられる・・・それができる普段の「心構え」でいたいです。僕は、夢のような非日常の歓びは、やっぱり日常の心構え次第だと思っています。
まぁ、そう言う僕がいざとなったら固まってしまってしかめ面になってた・・・なんてこともあり得るのかな?
正直それも分からない・・・でもこの曲が明るい照明で演奏され歌われるのを生で観るのは、とても楽しみです。

CD音源では伊豆田洋之さんが歌っている重要な追っかけコーラスのパートを、LIVEで鉄人バンドの誰が担当することになるのか、というのも大きな楽しみのひとつ。
普通に考えれば柴山さんでしょうか。
泰輝さんはね、シンセのキメのフレーズと歌う箇所がちょうど重なる感じになるから、難しいんじゃないかなぁ。右手で16分音符の駆け上がるフレーズ、左手でベース、さらに追っかけコーラスも担当、なんてことになったら”神の両手”どころの忙しさではありませんからね。泰輝さんは、ヴォーカルとのユニゾン部のコーラスを受け持つことになるでしょう。
一番コーラスをとり易い演奏パートになっているのは下山さんなんだけど・・・さすがにナイですかね。


それでは次回更新は、4曲目「一握り人の罪」(+隠しトラックの5曲目「みんな入ろ」)を採り上げます。
「誇大でない現実を歌う」ジュリーが、時代を少し遡って過去に歴然とあった「現実」を歌います。そう・・・「重い」と言う以前に、これは現実の物語なのだということ。
そんな歌詞が、泰輝さん作曲の繊細緻密、素晴らしいバラードのメロディーにピタリと載っています。

僕の故郷のことも、少し書くつもりでいます。
しっかり頑張らないと。

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2014年3月21日 (金)

沢田研二 「櫻舗道」

from『三年想いよ』、2014

Sannenomoiyo

1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪

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3月11日の発売日からちょうど1週間遅れた18日に、アマゾンさんに予約していたジュリーの新譜CD『三年想いよ』が届けられました。
だいたい去年の『Pray』の到着と同じくらいのタイミングでしたか。一昨年の『3月8日の雲』は3週間くらい待ちましたから、それを考えると、普通の商品であればまぁ・・・待てない遅延日数でもなかったのかな。

ただ、ジュリーの新曲ですからねぇ。その1週間がどうしても待てないわけで。
発売日にタワーレコードで購入を済ませていた僕の手元には、これで2枚の『三年想いよ』が並びました。
アマゾンさんから届いた方のCDは例年通り、新曲だろうがセットリストだろうが、ジュリーに限らず自分の好きなものすべてにおいて信じられないほどに我慢が効く鋼鉄の意思を持つ男・YOKO君に引き取ってもらうことにします。彼独特の感想も今から楽しみです。

さて。
来週の音楽劇『悪名』初日を前に、みなさまのテンションも上がっておられることでしょう。
僕はと言えば、毎日『三年想いよ』を聴き続けています。まったく飽きませんね。
聴くたびに発見があり、夏からのツアーでどう再現してくれるのか、と夢想してしまいます。

今週前半は、暖かい日が多かったですね。
そうかと思えば、また週の後半には雨も降り急に気温が下がったり・・・今日はもう都心近辺は天気も良く、暖かくなっていますけどね(と思ったら昼過ぎから風が出てきて肌寒くなってきた)。
極端な気温の変化・・・震災から三年目の春、東日本の桜の開花ももうすぐそこまで来ていますが、待ち遠しいながらも、ジュリーが新譜で提示した美しくも哀しい光景を思い、過ごす日々です。

本題に入る前に今日はまず、ピー先生が「一枚の写真」で歌ったフレーズ「わくらば」以来久々に僕の無学を晒すことになるんですが・・・実は、今回ジュリーが歌った「三寒四温」という言葉を、これまで僕は知らなかったのですよ・・・。
まったく恥ずかしいことです。「わくらば」の時はカミさんも知らなかったんですけど、今回ばかりは「は?」と冷たい目で見られました。「天気予報とかで普通に出てくる言葉じゃん」と。
そ、そうでしたか・・・(大恥)。


[三寒四温]
冬季に寒い日が三日ほど続くと、その後四日間ぐらいは暖かいということ。また、気候がだんだん暖かくなる意にも用いる

要は、冬季或いは冬から春への移り変わりの季節に、寒暖の周期がだいたい7日(1週間)ごとに巡ることを表した言葉ということで・・・分かってみると「そういえば、見覚えも聞き覚えもあるかもなぁ」と。情けない。

人っ子居ない ふるさと
Em     F         Em     D

三 寒  四 温                  春は来たのか
C  D7  G  Bm(onF#)  Em  D7         G


「春は来たのか」という疑問形の詞に込められた、花吹雪の中に佇む人のどうしようもない無力感。誰にぶつけるでもなく心に押し止めている悔しさや、「春は来たんだ」と自分に言い聞かせ奮い立たせているようなやるせなさ・・・。
今日のお題は、『三年想いよ』2曲目に収録された、悲しく美しいピアノ・バラード、「櫻舗道」です。
僭越ながら、伝授!

僕は今回の新譜4曲すべて大好きですが、一番好きな曲がこの「櫻舗道」です。最近のジュリーの新譜で、数回聴いただけで「収録曲の中でこれが抜きん出て好き!」とハッキリ断言できる感覚というのは久しぶりのことで、「櫻舗道」は僕が”日替わり・個人的に一番好きなジュリー・ナンバー”として数えている10数曲の中にいきなり食い込んできました。

曲として個人的に好き、という以外にも、「櫻舗道」にはアレンジ考察上で特筆すべき点があり、近年の完全鉄人バンド体制の作品群の中でも重要な1曲になっていると思います。
まずはその辺りから語っていきましょう。

2011年から始まった、ジュリーと鉄人バンドによるレコーディング・スタイル・・・つまりは、「PRAY FOR EAST JAPAN」をコンセプトにまず鉄人バンドの各メンバーが曲を作り、ジュリーがそのメロディーに詞を載せる、という制作順序ですね。
僕はこれまで、曲は鉄人バンドのメンバーが先に作るけれど、ジュリーの詞が完成した後からもう一度鉄人バンドの間で綿密な打ち合わせがあり、場合によってはメロディーの修正含め、楽器編成、ギターやキーボードの音色の決定など、最終的なアレンジが練られていると推測してきました。
その推測の上で、「この曲のこの音はジュリーのこういう歌詞を表現しているのではないか」といったことを『3月8日の雲』『Pray』収録曲についていくつか書かせて頂きました。

ただ、それはあくまで推測の域を出ない考察でした。
もしかしたら、すべてのアレンジ、演奏が完成した上でジュリーが作詞をする、という作業順序かもしれないですし、そうでなくても、詞のフレーズとアレンジの相関関係を語るのは聴き手としての自分の思い込み、強引な後付けの解釈があったかもしれません。

しかし「櫻舗道」には、ジュリーの詞とバンドのアレンジに絶対の関連性を見出せる箇所があります。
イントロとエンディングの泰輝さんのピアノです。

これは邦楽ポップス特有の王道パターンで、「桜アレンジ」とも言うべきピアノ演奏。
揺れるように上下しながら、全体としては高音部から低音部へと次第に下がっていく音階。それが、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを表現している、というわけですね。
泰輝さんは右手でその「桜」を表現した音階を弾き続け、和音移動は左手の低音のみで補っています。
このピアノのアレンジ・アイデアが提示された時、「よし、この曲は最小限の楽器トラックで仕上げよう!」ということになったんじゃないかなぁ・・・。

こうしたピアノ・アレンジを採り入れた「桜」をモチーフとした邦楽バラードは楽曲によって様々なアレンジのヴァリエーションがあります。また、ポップス系に限らず僕の知らない演歌の曲などでも使われている例があるのではないかと思っています。
「桜」=日本人の感性に特化した演奏表現なので、感情移入もしやすく、それぞれのアーティストのファンに「名曲」とされている作品がきっと多いのでしょう。

ジュリーの「櫻舗道」然り。
そして、鉄人バンドが最近の3作で「ジュリーの歌詞の内容を受けてアレンジを組み立てていた」という僕のこれまでの推測を裏付ける曲が「櫻舗道」である、と言えそうなのです。
何故鉄人バンドが、下山さんがギターで作曲したこのバラードを、アコースティック・ギターのアルペジオではなく泰輝さんのピアノ弾き語りをメインとしたアレンジに仕上げたのか・・・それは、この曲が「桜」の歌だったから。
(ちなみに泰輝さんのピアノと言えば・・・今回の記事で僕が任意の引用歌詞に付記したコードネームは、下山さんの作曲段階ではこうだったんじゃないかなぁと想像しながら、ピアノではなく、音源には入っていないアコースティック・ギターを演奏しながらメロディーに当てはめたものです。
音源での泰輝さんのピアノはさらに細かなテンションコード、経過音などが加わり複雑な和音構成となっていて、僕程度の力で聴き取り採譜が可能な演奏ではありませんでした涙)

「桜」を歌った多くの邦楽曲は、明るい希望を盛り込んだものもあれば、新しい季節の別れの悲しみを歌ったものもありますが・・・ジュリーの「櫻舗道」は特定の地に咲く桜と人の、「誇大でない現実」の悲しみを歌ったバラードです。
あの原発事故によって、普通には立ち入りできなくなってしまった地の「櫻舗道」の歌でしょう。

この素晴らしい名曲を紐解く前に、まず書いておかねばならないなぁ、と思っていることがあります。

僕は2012年に「F.A.P.P.」、2013年に「Fridays Voice」と、これまでジュリーが原発問題を採り上げた曲について考察記事を書いてきましたが、文中でジュリーの作詞姿勢を「ロッカーであれば当然」と言い切る一方で、肝心の自分自身の意思や考え方をハッキリと書くことはしませんでした。
「怖い」「うしろめたい」という複雑な・・・いや卑屈な思いが、そこにあったのです。

自分の立ち位置を曖昧にしたにも関わらず、また、何の力も持たない一介の小市民が書いた文章にも関わらず、「ジュリーが脱原発を打ち出した楽曲について書いたブログ」というだけで、上記2曲はじめ『3月8日の雲』『Pray』収録曲の記事には、少ないながらもジュリーファン以外の反響がありました。ジュリーファンとはまったく関係のないところで、原発問題を世に問うているブログさんや、ツイッターでのみなさまからのリンクをいくつか頂きました。その中には、熱心に震災からの復興や原発事故の問題に取り組んでいらっしゃる一般の方々や、「Uncle Donald」の記事へのリンクには、脱原発をはじめ日々積極的な活動、発信を続けておられる弁護士さんもいらっしゃいました。

僕はそうしたことがとても嬉しかったけれど、一方では好意的でない反響も当然あるのです。
「こんな記事を書いて、変な人にからまれるんじゃないだろうか」という怖さであったり(そういう話は本当によく聞きますから)、「ジュリーの志については書いたけど、僕自身は何ひとつ言っていないに等しいじゃないか」といううしろめたさであったり・・・そんなことをグルグルと考えさせられたものでした。

何より、原発の問題について僕自身の考え方がハッキリしていなかった、というのは一番の負い目でした。
客観的な詳しい勉強もしていなかったし(最近ようやく始めたところです)、何をもって是か非かということが、ジュリー含め自分の知る音楽作品を通してでしか、図れずにいました。
いや、一応は「こう思う」というのはあった・・・かな。

僕にはまず、「脱原発」の声の前に、今回の事故での避難をせず(或いは地理的に避難の必要がなく)福島県内に留まり、言葉を堅く閉ざしてじっと暮らしている方々に降りかかる悪しき風評をなんとかしなければいけない、という考えがあります。これは、実際によく知るかたが正しくそうしたことで苦しんでいらしたことで強く影響されたもので、「考えがハッキリ纏まってきた」と自覚している今でもその基本姿勢だけは変わらずずっと持ち続けています。

福島県は、北海道、岩手県に続いて3番目に広い面積を持つ都道府県で、事故のあった原発立地から遠く離れた土地も当然あります。そうした場所にお住まいの方々が、「福島県在住」というだけで差別を受けるが如き風評被害に苦しんでいる現状があるのです。
また、帰還困難区域に近くともその地に留まることを決めたり、留まらざるを得なかった方々も、当然ながら同様・・・それ以上の苦しみの中にいらっしゃるはずです。

僕は2011年の事故後しばらく、まずはそのことで考えさせられる機会を多く持ちました。
ですから今でも、他意は無くとも結果として福島県をすべてひとまとめに「フクシマ」と片仮名表記している文章などを目にすると、それがどれだけ真摯なものであっても、強い抵抗を覚えてしまいます。それによってひどく傷つく方々が実際にいらっしゃるからです。

この三年間、僕が漠然と持ってしまっていたのは
あんな大変な事故が起こってしまい、これだけ苦しんでいる方々がいらっしゃるのだし、いくら何でもこの先の各地原発の再稼働なんて話は、実際にはありえないだろう」
という甘い認識でした。
それが今、他でもない自分の故郷で沸き起こった再稼働具体化のニュースに直面させられ、大きな不安に気持ちがかき乱されています。
「じゃあ今までは他人事だったのか」と言われれば、ひとことも返せない・・・自分の考えが纏まった今だからこそ、それは僕が己を大いに恥じる部分です。
このことについては、次々回更新の「一握り人の罪」の記事で触れるつもりでいますが・・・。

2012年リリースの『3月8日の雲』以降、ジュリーの作詞アプローチについてはファンの間でも賛否あるようです。特に、原発をテーマとした曲についてよくそんな話を耳にしました。
それは、是か非か、というイデオロギー的なことではなく
「ジュリーには、辛く重い現実を忘れさせてくれる、夢の中の世界のような歌を歌って欲しい」
ということ。
そう仰る先輩方は、僕の周囲にも多くいらしゃいます。

しかしジュリーは2011年のあの重大な原発事故を受けて、この先もずっとそれを歌っていくと決めました。
僕としては、はそんなジュリーの姿勢を応援しています。それは、社会性の強いテーマに基づいた作品作りを支持しているという部分ももちろんありますが、何より「PRAY FOR EAST JAPAN」というテーマを得たジュリーの作詞を純粋に「凄い」と感じるからです。

2012年からのジュリーの作詞は、桁違いにそのスキルが上がり、レベルアップしていると僕は思っています。
しかもそれが、「これは職業作詞家には到底書けないんじゃないか」という切り口、フレーズで迫ってきますから、「ジュリーを聴いていないと、他では触れられない作品」としての価値があると考えているのです。

悲しみを、怒りを歌う・・・その根底でジュリーは「誇大でない現実を歌う」という作詞手法に着手しています。
現実を見つめ、そこから真実を追い求めよう、見てとろうとする心は、本来人間が持つ「健全さ」なのだ、とジュリーはこの新譜で語りかけてくれているような気がします。例えそうした姿勢が今の世では一部の人に避けられ、疎んじられ、果ては忘れ去られていることすらあろうとも。
「櫻舗道」は、正にそんな1曲ではないでしょうか。

まるで、いたたまれないドキュメント映像の中のワンシーンを切り取った一枚の写真のような光景が、「櫻舗道」のジュリーの詞からは浮かんできます。


櫻           舗道 防護服着て
G Bm7-5  Am7   D7      G

櫻            舗道 くぐった花吹雪
Em G#dim Am7     D7          G

ありありと浮かび上がる、3つの色。
晴れ渡り澄み切った空の青。爛漫櫻の鮮やかなピンク色。そこに入り込んだ、防護服の白。
(本来その場には存在しないはずの)くすんだ白色の上に、舞い散る無数の桜の花びらが音もなく降りかかった瞬間を、ジュリーの詞は切り取っています。

どんな状況であれ、桜はただ美しい。
それが悲しい。
淡々と歌うジュリー。その歌声に秘めた感情。

「声を上げずにじっと黙っている人はたくさんいる」
そうジュリーは語っていましたが、今回の新譜で、「三年想いよ」と「櫻舗道」の2曲は、ジュリーがそんな人達を頭に置いて作詞しているように僕には感じられます。
そしてそれは、「歌」だからこそ伝わってくるのでしょう。

「櫻舗道」の伴奏は泰輝さんのピアノ1本。
間奏とエンディングで下山さんのリードギター(空色のストラト・・・だと思うけどどうかなぁ。今まで生のLIVEで聴いてきた曲で言うと、「Pleasure Pleasure」のソロの音に近いような・・・)が登場する以外は他楽器の演奏はありません。
鉄人バンドはレコーディング段階で既にLIVEでの再現を見越していると思うけど、この曲は柴山さんとGRACE姉さんがコーラスのみに専念することになりますよね。ジュリーに「我が窮状」という曲があり、近年何度もツアー・セットリストに採り上げられていますから、それを踏まえて、鉄人バンドとしても堂々の、自信溢れる「櫻舗道」のアレンジかと思います。

さらに、ピアノが中央やや右寄り、ギターが左寄りというミックスは、ジュリーのLIVEでの泰輝さんと下山さんの立ち位置そのままのミックスであることに気づいていらっしゃる方々も多いでしょう。たとえ楽器トラックが2つしか無くとも、そこは徹底されているのですね。

リリース前の記事で、演奏やアレンジについての僕の予想は見事に(本当に感動的な形で)外れてしまいましたが、曲想については何とか当たりました。
そしてその時に書いた「下山さんがアコースティック・ギターで作曲したのではないか」という推測も、たぶん当たっているんじゃないかな、と思っています。実際に曲に合わせてアコギを弾いてみると、いかにもアルペジオで展開する曲作りだなぁ、と実感できるのです。
ジュリーの歌詞が違えば、それこそ「Beloved」のようなアレンジに仕上げられていたのではないでしょうか。

僕の胸 まだ青空なく
G     C        G      C

淋しさは いや増すばかり
Em  F            C           D7

このAメロにも登場しますが、下山さんはこのト長調の曲に「F」のコードを多用しています。それが、バラードでありながら甘くなり過ぎない、粘り強いメロディーを生み出しています。
「Beloved」同様に、標高の高い景色を連想させる、凛としたバラードだなぁと僕は感じます。

あと、この曲のコーラスに伊豆田洋之さんが加わっているのかどうかは僕の耳では判断できないのですが(ハッキリ「伊豆田さんの声だ」と自信を持って聴き取れるのは「東京五輪ありがとう」だけなのです・・・)、本当に素晴らしいコーラス・ワークですよね。
サビ部の一番低い声は、下山さんが歌っているんじゃないかな。

また、「非常線の生まれ故郷」という歌詞部に重なるようにして、驚くほどに透き通った高音のコーラスが噛んできます(2’10”あたりから)。それはまるで、手の届かない高いところから、覆い包まれるような感覚です。
1番の同じ箇所にはコーラスは無く、曲中唯一の登場。これもジュリーの「非常線」という特殊な歌詞フレーズから導き出された鉄人バンドの「アレンジ」と言えるのではないでしょうか。
コーラスというにはあまりに美しい音だったので、僕も最初は「キーボード」かな?と自然に考えました。
でも、シンセのボイス音って、同じパッチで音階移動した時に擬似母音の変化は無いんですよ。注意深く音源を聴くと、ここでは母音が「あ」から「う」へとなだらかに変わっていますから、「あぁ、これは肉声だ」と気づかされたのでした。
「櫻舗道」ではジュリーのヴォーカルの母音にドキリとする箇所がいくつもありますが、僕はこの部分のコーラスにもそれを感じています。

最後に。
今年の『三年想いよ』全国ツアーで、ジュリーは南相馬市に行きます。インフォメーションのLIVEスケジュールが届く前・・・お正月コンサート『ひとりぼっちのバラード』MCで、ジュリーからそのことがファンに告げられました。

東北での公演は他にも組まれている中で、やはり南相馬という場所はファンからすると特別な感じがします。
スケジュールは昨年の段階で決まっていたのでしょう。渦中に飛び込む、という意識がジュリーにあるのかどうかはわかりませんが、新譜の作詞作業がツアー・スケジュール確定後だったとすれば、ジュリーが今回の収録曲の中で「南相馬のステージで歌うこと」を念頭に置いた作詞作品があっても不思議ではありません。
その曲はきっと「櫻舗道」でしょうね。

以前から「機会があったら福島に行こう」とカミさんと話していましたし、LIVEが土曜日ならば僕らも南相馬まで泊まりがけで観に行きたい、と考えていましたが、残念ながら今回は平日の公演。
でも、僕の知る限りでは3人の先輩が、遠方の南相馬公演への参加を決め、チケットを申し込まれたそうです。
そして、地元在住のジュリーファンのかたが
「ジュリーが来てくれる。ファンのみんなも来てくれる」
と大変喜んでいらしたと聞きました。ただ同時に、ジュリーやファンの方々の会場までの道中も心配されていたそうです。ひどく交通の便が悪いところだから、と。

どうかお気をつけて・・・無事にLIVEを楽しまれますように、と僕はこの場所から祈るばかりです・・・。


それでは、次回は3曲目「東京五輪ありがとう」のお題記事での更新です。
またまた詞も曲も難しい考察お題が続きますが・・・なんとか3月中には書き上げたい、と思っています。
頑張ります!

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2014年3月15日 (土)

沢田研二 「三年想いよ」

from『三年想いよ』、2014

Sannenomoiyo

1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪

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いい声だなぁ。いい音だなぁ。
いい音楽だなぁ。

2014年3月11日リリース、ジュリーの新譜『三年想いよ』・・・僕は、とてつもなく好きです。
まさか、『3月8日の雲』を超えるほどに好き、と思える素晴らしい名盤が届けられるとは思ってなかったなぁ。

確かに、てらいなく「素晴らしい」と言ってしまうのが躊躇われるほどに、歌詞の内容は重いです。
どんなにジュリーの声が素敵で、どんなに鉄人バンドの音がイカしていても、作品からにじみ出る悲しみを抜きにこのCDを聴くことはできません。
ただ・・・これは多くの先輩方も仰っていますが、曲想が全体的に穏やかで明るく、キャッチーであるというのが今回際立った特徴。
『3月8日の雲』以降、重い歌詞をなかなかすぐには受けつけることができない、と仰る先輩方にとっても、その点が大いに救いになっているようです。

単純にそれぞれの曲構成を紐解けば
「あぁ、どこかで聴いたような気がする」
という、親しみや懐かしみのある、耳馴染みの良いメロディー、コード進行が曲中にスッとさりげなく差し出されていて、穏やかに身体に染み入ってきます。音楽的に「慣れ親しんだものへの安心感」でしょうか。
しかし、そんな親しみやすさを感じる一方で僕は、今回の新譜4曲をこれまで触れたことのないまったく新しい究極の音楽に出逢ったかのようにも聴いたのでした。

僕には独創の才というものが無く、こと音楽については過去の既存の作品と比較したり曲想や演奏をカテゴライズしたりして考察することしかできません。
もちろんそれはそれで音楽を楽しめることではあって、これから執筆する4曲、いや5曲か・・・の考察記事でそのあたりの類似曲例についても書こうとは思いますが、実際に今回のCDを聴く前に執筆した「予想」記事・・・これは、僕のそうした凡人ぶりがモロに反映されていました。
「こういう前例がある。だからこうじゃないか」
といった感じでね・・・。

例えば僕は無意識に、全収録4曲の中で「原発問題を歌ったもの」は1曲のみと決め付けていたわけです。最近の2作品がそうだったから、という理由で。
いかにも視野の狭い予想です。蓋を開ければ、ジュリーの詞で原発に言及した曲は4曲中3曲(厳密には、5曲中4曲)を数えていました。

何より、ジュリーの歌詞を考えた時に・・・いくらジュリーが「これから先はこういう歌しか歌わない」と決めて、言いたいことを言う、歌いたいことを歌う、という姿勢を明確にしたにせよ、演奏するバンドをはじめとして、それに応えられるだけの気持ちと技術を持ったスタッフがジュリーの周りに存在しなければ、ここまでの作品は生まれません。
聴き手としては、まったく初めて触れる音楽の制作環境・・・本当に奇跡だな、と思います。
『涙色の空』を聴いた時、ジュリーが未踏の地を行こうとしている、と思いました。ジュリーはいつの間にかその場所に辿り着いていた・・・歌いたいことを歌う、その最高の制作環境を、ジュリーは手にしていたんだなぁ、と。
ですから、ジュリーはもちろん凄いですが、鉄人バンドも凄いです。しかも自然に、当たり前のように凄い。

さらに、目立たないことかもしれませんが、ミックスだって凄いのです。
各楽器やヴォーカル・トラックのフェーダーのバランス、フェイド・アウトのタイミング、挿し込まれるS.E.のPAN設定と処理。正に入魂ですよ。素晴らしいスタッフの人達がジュリーの音楽制作を支えていることが、ミックスひとつとっても分かります。
そのあまりのミックスの素晴らしさに、ミキサーとしてクレジットされている小岩孝志さんのジュリーとの関わりをおさらいしてみました。何と、1999年の『いい風よ吹け』からチーフ・レコーディング・エンジニアを一任されています。それ以前にも、アシスタント・エンジニアとしてクレジットがあります。
もう、「ジュリーのやってきた音楽」を、録音段階から知り尽くしている凄い人だということなんですね。

そういったことをまず最初に感じた今回の新譜。
僕は、ジュリーが積み上げてきたものの大きさ、完全に信頼できるスタッフとの人間関係を、改めて『三年想いよ』という作品を聴いて思ったのでした。

拙ブログでは今年もまた、ジュリー渾身の新譜4曲(5曲)を、CD収録順に1曲ずつ採り上げて考察記事を書いていきます。
実は今現在、僕の故郷鹿児島県で原発再稼働に向けての具体的な動きがあり、そのことで僕自身色々と考えが変わった、と言うか纏まってきた部分があります。『三年想いよ』を聴き始めたタイミングでそれがあった、というのも僕にとっては何かしら運命的な話です。
特に4曲目「一握り人の罪」の記事にて、そのあたりは詳しく書かせて頂くことになるでしょう。

枕が長くなりました。
それでは今日は、新譜1曲目のタイトルチューン「三年想いよ」を採り上げての楽曲考察記事となります。
本当に畏れながら、という感じですが・・・伝授です!

それにしても1曲目から、詞も曲も演奏もヴォーカルも完全に予想が外れて・・・ただただ聴き入るのみでしたよ。
「三年想いよ」は確かに大きな悲しみを歌った内容ではありましたが、ヴォーカルについては、何人かのかたが「(僕を含めた多くファンの)予想に反して、穏やかな歌声なのでは?」と事前に語ってくださっていて、それは正にその通りでした。
慟哭の表現が皆無ではないにせよ、限りない慈しみに満ちたジュリーの声。感情を抑え、淡々と語りかけてくれているかのように聴こえるヴォーカル、そして言葉。
名曲です。僕は「もしかしたら耳をそむけたくなるほどの激しく重い声、曲、演奏なのでは」と覚悟して聴き始めましたから、余計にこの穏やかなメロディーに載ったジュリーのヴォーカルが心に沁みました。

僕は3月11日の発売日夕刻に池袋のタワー・レコードでCDを購入し(アマゾンさんは3年連続でダメでした。いや、もう慣れたけど)、帰宅の満員電車の中、ポータブルでの初聴となりました。
そこで僕がどのようにこの1曲目を聴き進めていったのか・・・話を進める前にまず、鉄人バンドによるすべての演奏トラックを書き出しておきましょう。

GRACE姉さん・・・ドラムス
柴山さん・・・エレキギター(右サイド)
下山さん・・・エレキギター(左サイド)
柴山さんか下山さん・・・リードギター(センター)
泰輝さん・・・ピアノ、シンセサイザー2種(トラックは同一かもしれませんが、くぐもったエレクトリック・ピアノのような音色と、木管系の音を加えたオルガンのような音色の2種が登場します)

まずイントロ。
エレクトリック・ピアノ風の寂しげな音色で、静かに泰輝さんのアルペジオが流れます。
不穏な、抗いがたい記憶の底に吸い寄せられていくかのようなアルペジオ導入。音階が「レラソラ、レラソラ・・・」となっていることで、この時点では曲が短調なのか長調なのかがまだ判別できません。
さらに言えば、全体のテンポもここではまだ不明。スロー・テンポの曲を、16分音符のアルペジオで導入させている可能性もあるのです。
「慟哭の短調バラード」を予想していた僕は、これをニ短調のスロー・バラードのつもりで聴き始めていました。

すると、意外なタイミングでGRACE姉さんのエイト・ビートが噛み込んできてまずはビックリ。

えっ、テンポ早め?
と。

何回か聴くと慣れてきますが、いやぁドキリとするドラムスの入り方でした。フィル・インのフレーズを当て込むのではなく、普通の淡々としたエイト・ビートが「パッとフェーダーを上げました」みたいなタイミングで、小節3拍目の裏から突然噛んでくるのです。

4小節が過ぎ、今度はギターのミュート・アルペジオが入ってきます。突然、生き生きとした雰囲気が演奏に吹き込まれ、ニ長調の曲であることがここで判明します。
このギター、Aメロ2回し目から登場する下山さんのトラックと音階、運指は似ていますが、エフェクト設定とミックス配置が異なっていまから、これは間奏とエンディングで歌メロをなぞる、泣きのリードギター・ソロと同一のトラックと考えられます。
この箇所では左サイドからもギターの音が聴こえてくるんですけど、これはセンター・トラックのエフェクト・リターンを左サイドに振っているもので、ギターの音が2トラック鳴っているのではありません。
イントロ部については、LIVEでは下山さんが担当することになると予想しますが、音源では間奏、エンディング(これはLIVEでは柴山さんがフィードバックを強めに弾くでしょうね)とイントロを加えたリード・ギター・トラックは柴山さんの演奏なのでは、というのが僕の考えです。

で、この段階でようやく僕は
「うわ、明快に長調じゃん!しかも、アップテンポとまでは言えないけど、ビート系だ・・・事前の予想は完全に外れた!」
と、(何故か)喜んでいたわけです。
ところが、ジュリーが「我が妻」と歌いだした、その瞬間。
「は?」
と、僕はポータブルを止めイヤホンを外し、電車内でキョロキョロとしてしまいました。
「え、今誰か僕に声をかけなかった?」と。
うめくような、それでいて耳に大きく響く誰かの声が聞こえたように思ったのです。

「気のせいか・・・こんな時に、まったく!」
僕はCDを再度1曲目の頭出しにして、もう一度イントロから聴きはじめて・・・再びさっきと同じ箇所で、両耳、いや脳に直接飛び込んでくる、人のうめき声のような音。
これは・・・CDに入っている音だ!

これが、この曲で唯一その箇所にしか登場しない、泰輝さんの木管系の音色のキーボードでした。
後から落ち着いて聴くと、ハッキリとキーボードの音なんですよ。でも最初は本当に、人の声のように聞こえたのです。それこそ、鎮められた魂がこの曲にのりうつったような・・・大げさに言えば、そんなふうに感じました。
まぁ、初聴の段階から「すべての音を聴きもらさずに聴くんだ!」などと、できもしないのに欲張りな気持ちで臨んでしまった僕のような者にしか、キーボードが人の声に聴こえた、なんていうこの勘違い感覚は起こり得ないとは思いますけどね・・・。

ただ、脳に拡がっていくように聴こえたのは、正にそうした狙いで小岩さんがミックスしてくれているから。
そしてこの「歌いだし」に配された音は、「三年前へと思いを辿る」歌の主人公(被災者の方々一人一人)の、悲しい記憶の起点を呼び起こす瞬間を表現しているのだと思います。
泰輝さんの音作り、鉄人バンドのアレンジ・・・徹底していますよ。魂が入っています。一部の無駄も、余計な装飾も無いのです。それがジュリーの歌とシンクロする・・・本当に凄いです。

こうした「えっ、えっ?」という初聴での新鮮なインパクトこそが、個人的に信頼しているアーティストやバンドの「新曲を聴く」際の醍醐味なんですよね。

ジュリーのヴォーカルが始まると、センターのギターはかき消えていて、右サイドの柴山さんのバッキング・ギターに切り替わります。エイト・ビートのダウン・ストローク連打。ベースレスの鉄人バンドがビート系のナンバーを演奏するにあたって、新曲、過去のシングル・ヒット曲を問わず、また柴山さん、下山さんを問わず高い頻度で披露される奏法です。
この「三年想いよ」では(少なくともCD音源については)、柴山さんがそれを受け持つことになりました。

そして「孫たち」のヴォーカル部からは、下山さんのギターと泰輝さんのピアノが演奏に加わります。
下山さんは、1曲目からいきなり伝家の宝刀を抜いてきましたね。「恨まないよ」「Uncle Donald」でジュリーファンにもお馴染みとなった、LOSER版「春夏秋冬」に代表される下山さん必殺のディレイ・ピッキング・アルペジオが、左サイドから耳に、曲全体に、心地よく馴染んでいきます。

また、この淡々としたビートに要所要所でピアノの音が鳴り始めると、「景色が通り過ぎていく」感覚が得られます。「三年想いよ」と似たようなアレンジ・アプローチの有名曲では(ポリスの「見つめていたい」や、大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」などを思い浮かべてください)、ハイウェイで疾走する車窓の景色といったところでしょうが、この曲の場合は同じ車窓は車窓でも、被災地の現状の風景がゆっくりと流れていくような映像が浮かびませんか?
或いは、曲のリズムとテンポ自体が、「三年」という時間の経過を表しているようにも思えます。

サビ部には転調があります。
下山さんが単音で「レラソ#ソファ~♪」と弾いて道標を作り(俗っぽいパターンだと「レド#ドシシ♭~」と、経過のフレーズが単にルートの半音下降になってしまいがちなところですが、下山さんの”第一感”はひと味もふた味も違うのです。今回のすべての下山さんの演奏のうち、御本人が「うまくいったかな」とご満悦なのが、転調直前のこのフレーズだと推測します!)、調号が変化します。

恥じているんです 助けられたのに命
B♭   C          D   B♭ C          D       

無力な 木偶の坊  私  だったこと
B♭ C   Am     Dm  Gm B♭      A

ジュリーがタイトルフレーズの「三年想いよ♪」と最初に歌うのを受けて、曲は満を持してのギターソロへ。
先にも書きましたが、間奏とエンディングのリードギター・ソロは柴山さんの演奏ではないか、と僕は考えています。
ピックのタッチ(初めの1音への入り方など)や音色(フィードバック気味のサスティンなど)からもそう考えるのですが、一番のポイントはこの曲のギター・ソロが完全にGRACE姉さんの作った歌メロを踏襲して演奏されていることです。下山さんだったら、少しメロディーを崩して独自のフレージングを織り交ぜると思うんですよ。
LIVEで過去の(鉄人バンドでのレコーディング以外の)曲が演奏される時、柴山さんのソロはオリジナル音源通りのフレーズを弾くことが多く、下山さんのソロは自分なりのフレージングに変化させることが多い、というイメージが僕にはあり、そうしたことからも、「完全に歌メロ通り」の演奏はいかにも柴山さんらしいんじゃないかなぁ、と考えるわけです。

この曲のエンディングはフェイドアウトです。
前作「Uncle Donald」のフェイドアウトは、「あなた(ドナルドおじさん)の言葉を聞いていたい」と、「この先もずっと」というジュリーの気持ちを表現していたのでは、と考えましたが、この曲もおそらく「この先もずっと忘れない」ことを表しているように感じます。
このフェイドアウト、単純にギターソロを引っ張って、というだけではありません。
ソロの2回し目からユニゾンのリードギターがもう1トラック加わるんですよね。
目立たない割に手間のかかるレコーディングですが、鉄人バンドは手を抜きません。こうしたオーヴァーダブへの徹底した拘りは、2010年リリースの”鉄人バンド期”第1作である『涙色の空』以前の彼等には見られなかったことで、3・11をテーマに掲げた『3月8日の雲』を境に、ジュリーの作詞アプローチばかりでなく、鉄人バンドの「音作り」にも大きな変化があったのだ、と分かります。

夏からのツアーで新譜4曲は当然セットリストに採り上げられるはずですが、興味深いのは、CDではフェイドアウトの「三年想いよ」をいざLIVEでどのように終わらせるか、ということです。
これについて僕は大胆な予想をします。クロス・フェイドっぽいメドレー形式の導入です。
具体的には・・・下山さん、泰輝さん、GRACE姉さんの3人が、徐々に演奏の音量を下げていきます。最後には柴山さんのリード・ギターだけが残り、頃合を見て渾身のフィードバックを炸裂させ、そこに次曲「櫻舗道」の美しいピアノのイントロが重なってくる、というアイデア。
1997年の『サーモスタットな夏』ツアーでの「ミネラル・ランチ」~「PEARL HARBOR LOVE STORY」に似た感じの繋がり方、と言えばみなさまもイメージしやすいでしょうか。
まぁ所詮は、”全然当たらない”ことにかけては幾多の実績を誇る(涙)僕の予想に過ぎませんけどね・・・。

さて、ここまで曲の進行を追いながら鉄人バンドの演奏やアレンジについて書いてきましたが、いくら僕でも最初から楽器の音ばかりを念入りに聴いていたわけではありません。
一番集中して耳をそばだてたのは、やっぱりジュリーのヴォーカル、そして歌詞でした。

リリース前、毎日新聞の記事で「三年想いよ」の歌詞の一部が明らかになった時、僕はそこからこの曲を「Deep Love」への返歌ではないか、と予想しました。

つらい もう限界です 見つけて  下さい
     Bm        E                     D  A    D

これは、行方不明となり今も「探されている」側の人たちの、「1本の髪の毛」「1滴の涙」から発せられる声ならぬ叫びではないのか・・・と。「返歌」という自分が思いついたカテゴライズに自分で飛び乗ってしまった、安易な予想だったなぁと今にして思います。

いや、この曲に限らず収録曲すべてについて、もしこれが普通のアーティストの楽曲タイトルならば、かなりいい線の予想をしたのではないか、とは自分では思っているのです。しかしそこはやっぱりジュリー、「人の考えないところを考える」人なのですよ。
しかも「人の考えないところ」というのが今回の場合は本当に真っ当な、純粋な、素直な思いに沿った人こそが辿り着けるものではなかったのでしょうか。
難しくしない、ややこしくしない、カッコをつけない、他人の評価を気にかけない・・・被災地の現在を見つめ、自分の気持ちの真実を見つめ、そのままを歌う。
シンプルであればこそ、これは並大抵の歌手の発想ではありません。しかしジュリーにとってそれがごく自然な当たり前のことであり、「自分の気持ち」だったのでしょう。

今回の新譜でのジュリーのコンセプトは、「あれから三年経った今、何を思うか」というストレート過ぎるくらいにストレートなものでした。ジュリーはそれが素直にできる人でした。
僕にはそんな想像力が欠けていました・・・。

僕も妻帯者ですから、ジュリーがこの悲しい歌でまず「我が妻」と呼びかけた時には、ドキッとしました。
でも・・・あの震災で、実際に大切な人を失ってしまった人達の気持ちというのは、その人本人でないと絶対に分かりません。分かるはずが無いのです。
それでも、何とか想像してみようとする。自分の身に置き換えてみようとする・・・「所詮分からないんだから」などと考えるわけにもいきません。

どうすれば被災者の方々の気持ちが分かるのか・・・それすら分からない、と悩み迷った時・・・今ここにジュリーの「三年想いよ」という歌があります。

ジュリーだって「分からない」と思っていると思うのです。
だから、真剣に想像してみる。深い悲しみをもって三年を生きてきた人達、それぞれ一人一人の気持ちに、なんとか自分もなってみようとする・・・そうして生まれたのが、「三年想いよ」という曲ではないでしょうか。

僕もそうですし、世の多くの非・被災者の方々もそうだと思いますが、3・11以降被災地への思いを持った時、「何もできない」「何をすれば良いのか」「何ができるのか」と、どうしようもなく自分を責めたくなることがあります。
ジュリーもそうだと思う・・・だから、「自分にできることは何か。あの震災からのことを歌にし続けることくらいだ、とジュリーは思ったのでは」とお二人の先輩が語っていらした時、毎日新聞の記事にあった

「詞を作っている時、被災した方の心が痛むかなと思って、だんだん柔らかい言葉に変わってくる。それでも『痛いけれどよく言ってくれた』という歌詞が残っていたら、僕は救われると感じる」

というジュリーの考え方が、ストンと胸に落ちたように感じました。

「自分を責める」と言えば、この曲の歌詞中の「無力な木偶の坊」なるフレーズ・・・これは命残された被災地のかたの自責を代弁している、と考えて良いとは思いますが、それにしてはジュリーの言葉があまりにきつい。痛い。
きっと、ジュリーは自分自身に向けてこの「無力な木偶の坊」という蔑みの言葉を吐き出したんじゃないだろうか、とすら僕には思えるのです。

激しい自責故に、「失ってしまった人」への愛情の表現はその分深くなる。
それが昨年の「Deep Love」だったのか、と今さらながら思うところですが、今回の「三年想いよ」ではとにかく最後の最後、ジュリーの「好きだよ」に震えました。
何という「好きだよ」でしょうか。
こんなにありきたりのフレーズが、こんなに胸に突き刺さった歌は、他に無い・・・。

三年経って思う、時間が経ったからこそ気づかされる、大切な人への感謝と愛情を素直に、正面から歌った曲。それが「三年想いよ」という曲です。
大きな愛情への気づきがあればこそ、悲しみも大きい・・・拭えない。「あの日がすべて夢だったなら」と思わずにはいられない、三年目の3月11日。

ありがとう 温もり やさしさ 好きだよ
         D           A          G            D

あの日 すべて夢ならば 三年   想いよ
        Bm         E                 D  A     D

聴き手に想像力を与えてくれる曲です。
この歌詞が共感できない、なんて人はいないでしょう。是非ジュリーファン以外の多くの人に聴いて欲しい曲だと思っています。


さて、次回更新は2曲目「櫻舗道」です。
新譜CDの全曲が好きだけど、どれか1つ最高に好きな曲を挙げなさいと言われたら・・・僕は「櫻舗道」かな。
ところがこの美しいメロディーのバラード、下山さんの作曲段階からなのか泰輝さんのアレンジでそうなったのかは分からないんですが、和音移動の難易度が高過ぎる・・・僕レベルじゃマトモに採譜すらできないじゃん!

というわけで、悪戦苦闘中です。
すぐには更新できないかもしれませんが・・・ともかく、引き続き全力で頑張ります!

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