沢田研二 「一握り人の罪」
from『三年想いよ』、2014
1. 三年想いよ
2. 櫻舗道
3. 東京五輪ありがとう
4. 一握り人の罪
(5. みんな入ろ)
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一週間、下書きの段階から書いては直し、書いては直し、を何度も繰り返してきました。
本当に、ジュリーの言ってた通りだなぁ。読み返して「この表現はダメだ」と考えあぐねて、だんだん柔らかい言葉に変わってくる・・・それでも残っている「痛い」言葉もある・・・。
今日はジュリーの新譜『三年想いよ』から、いよいよ最後の考察記事です。4曲目「一握り人の罪」と、シークレット・トラックの5曲目「みんな入ろ」を同時に採り上げたいと思います。
「一握り人の罪」と言えば・・・今、ジュリーファンよりもむしろファン以外の方々のweb上での反応がとても多いようです。一昨年の「F.A.P.P.」昨年の「Fridays Voice」の時もそうでした。
いつも読んでくださっているジュリーファンのみなさまには、今回のこの記事が「楽しい」とは言い難い長文になることを、最初にお詫び申し上げます(この埋め合わせは、次回からサクサクと明るいお題記事を連発してゆくことで頑張っていきたいと思います)。
畏れながら、伝授です!
1曲目「三年想いよ」の記事で書きましたが、僕はこの新譜を仕事からの帰宅途中に購入し、歌詞やクレジットを見ずにまず電車内で通して聴きました。
事前にiTunesのサイトにて各トラックの演奏時間をチェックしていて、僕はそれも参考にしながら楽曲内容を予想したわけですが、いざ実際に聴いた時、この「一握り人の罪」には全4曲中最も意表を突かれました。「怒りと悲しみを前面に押し出したラウド・ロック」との予想に反し、まず耳に飛び込んできたのは、美しいアコースティック・ギターのストローク・アンサンブルでした。
美しいメロディーとジュリーの声に身を委ね、集中して聴いていたバラードが演奏を終えた時、体感としてはちょうどiTunesで表記されていた演奏時間(4分台後半)の感覚があり、ポータブルを取り出し再び1曲目から再生しようとしてふと、無音のままタイムカウンターが刻まれていることに気がつきました。5分を過ぎても、まだカウンターは進み続けています。
「これは・・・最後の最後にドキリとさせるような効果音でも入っているのかな?」
と考えた瞬間に始まったのが、「みんな入ろ」。
ビックリしましたよ。
歌詞カードを見ていませんでしたから、「一握り人の罪」という曲が、「みんな入ろ」の児童合唱部まで含めた形での、6分以上にも及ぶ大作だと思い込んだわけです。
帰宅し確認すると、みなさまご存知の通り、歌詞カード最後のページの桜の木の右上に「作詞・作曲・沢田研二」のクレジットと共に、「5. みんな入ろ」と記して歌詞があり、この短い童謡調の曲がシークレット・トラックの扱いになっていることが判明。
「なるほどこういう手法か」と改めて感心しました。
「シークレット・トラック」というのは邦洋ロックの名盤に幾多の例があります(邦楽については実際に楽曲としてはさほど聴いてはいないのですが・・・)。
トラックを単独で意味深に分けられているパターン(例・ジョン・レノンのアルバム『マインド・ゲームス』の6曲目「ヌートピアン・インターナショナル・アンセム」)もあれば、トラックを分けずに前曲からトータル・タイムの追加でひっそりと収録されているパターン(例・ポール・マッカートニーのアルバム『裏庭の混沌と創造』13曲目「エニウェイ」演奏後の追加トラック「アイヴ・オンリー・ガット・トゥー・ハンズ」)もあります。
ジュリーは今回の『三年想いよ』で後者のパターンを採用したことになります。
(ちなみに、僕はLPを所有していないのでまったく分からないのですが、『JULIE IV~今僕は倖せです』に収録されていたと話に聞く「くわえ煙草にて」は、シークレット・トラック扱いだったのでしょうか?)
こうした収録手法である以上、「みんな入ろ」が夏からのツアーで再現されることは無いでしょう。
あくまで、今年制作した新譜の締めくくりにジュリーが提示し投げかけた1曲、ということ。あとは聴き手がそれに対して何を思うか、です。
無論、手間をかけてそうした手法で収録が為されたからには、「みんな入ろ」にジュリーからの特に重要なメッセージが込められていることは明らかです。
僕の場合皮肉にも、今回のジュリーの新譜が届けられる前後のタイミングで、故郷から歓迎できないニュースが届けられたこともあって、「みんな入ろ」とジュリーから投げられたボールを自分なりの明確な答を得て受け取り、それをこれからこの記事でも書こうとしているわけですが・・・一方で、「どう反応すれば良いのか迷ったファンもきっと多かったんだろうなぁ」というのが率直な想像としてあるにはあります。
「なんだか怖い」という感想もあるそうですね。
「童謡が持つ怖さ」については、『イカ天』でゲスト審査員の大島渚監督が”たま”が5週勝ち抜きを達成した際に、ふと語っていたことがあったなぁ・・・。
それでは、まずは「一握り人の罪」。考察の前半は、純粋に楽曲、演奏、アレンジについて語っていきましょう。
いつものように、鉄人バンドのすべての演奏トラックを書き出してみます。
泰輝さん・・・オルガン(間奏以降同時弾きの左手低音は、右手オルガンとは違う音色のシンセベース)
柴山さん・・・アコースティック・ギター(右サイド)
下山さん・・・アコースティック・ギター(左サイド)
GRACE姉さん・・・ドラムス、マラカス、タンバリン
エレキギターが使われていない、というのがまずこの曲のアレンジの大きな特徴。
当然LIVEでも同じ楽器構成となるでしょう。柴山さんと下山さんの2人が揃ってアコースティック・ギターを持つシーンは本当に久々で、今から楽しみです。
昔 海辺の小 さな
G Am7 G(onB) C
寂れかけてた 村 に
G Am7 G(onB) C
東電が来て
G Am7
原 発 速く 作りたいと
G(onB) B7 Em A7 Dsus4 D
「ひと昔前の話だけど、こんなことがあってね・・・」
と、子供達や若い世代に伝え語りかけるジュリーの歌。また、僕も含めてある程度の年齢以上の聴き手にとっては、「物語」では決してない現実の記憶。そう、これは過去の「誇大でない現実」を語る歌なのです。
今は学校では教えないこと?
教科書には書いてある?
書いてあったとしても受験には関係ない?
左右のアコースティック・ギター2本の伴奏だけで始まる、美しいバラード。
左サイドの下山さんのアコギが、「カガヤケイノチ」のストロークにあまりにそっくりな音色でドキリとします。
一体どうしたら、こんなにキレイでシャキシャキな音が録れるんだろう・・・?
もちろん楽器それ自体の素晴らしさ(下山さんが「新しい娘」としてこのアコギを紹介してくれていたのは、2011年末のことでしたね)や、下山さんの技術の高さもあるでしょう。それに加えて、レコーディング手法にも秘密があるように思われます。下山さんならではの、「こう!」というやり方がきっとあるのでしょうね。
一方右サイドの柴山さんのアコギには空間系のエフェクトが施され、幻想的な音色になっています。
柴山さんの音は「昔」、下山さんの音は「現在」として、ジュリーの「読み聞かせ」での時間軸のリンクを表現しているのでしょうか。それは深読みとしても、「昔」と「現在」を行き来するのがこのジュリーの歌詞の特性であり、その「読み聞かせ」は物語ではなく現実です。「櫻舗道」の記事でも書いた「誇大でない現実を歌う」作詞手法が、「一握り人の罪」では徹底されていると感じます。
Aメロの「G→Am7→G(onB)→C」と流れる淡々としつつも美しい響きは、泰輝さんの大好きなアーティストでありピアニスト、ビリー・ジョエルの得意技。CD音源のアコースティック・ギター・トラックだけ聴くと「G→Am7→G→C」と聴こえるのですが、メロディーから考えて、泰輝さんの鍵盤での作曲段階では左手を「ソ→ラ→シ→ド」と上昇させていたものと推測されます。
僕にとってビリー・ジョエル・ナンバーの中で5本の指に入るほど好きな、隠れた名バラード「場末じみた場面」のAメロにも登場するコード進行。泰輝さんに、この曲への意識はあったのかなぁ。
ともあれこのAメロは、いかにも鍵盤奏者の作曲作品ならでは、という進行です。これがギタリストの作曲ならば、同じメロディーでも和音は「G→Am7→Bm→C」と当てる方が有力で、この場合はビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」のようなアレンジになっていたかもしれません。もちろん”音の料理人”である泰輝さんにはギタリスト的なコード感覚もあって、歌メロではなくオルガンのフレーズにそれが反映されています(2’00”、4’29”で登場するフレーズ)。
オルガンと言えば、間奏のソロも本当に美しいです。
ジュリーの「僕らに還して国を」という歌詞を受けていることもあり、ただ美しいだけでなく、寂しさだったり、嘆きだったり・・・被災地の人達の揺れ動く感情をも思わせます。というのも、この間奏はそんな人々の心の動きを表すかのように、なめらかに転調を繰り返しているんですよね。
左手で同時弾きしていると思われるベース音は、基本2分音符のロングトーン。これがまた優しくて切ない。そして、ここにベース音があるのと無いのとでは、サビ直前にフィル・インするドラムスへの効果が全然違うのです。
GRACE姉さんのドラムスが全面参加するのはそのフィル・イン以降のサビ部で満を持して、という感じですが、それ以前にハイハットのみのフィル部があったり、間奏ではマラカスとタンバリンが登場して細やかにオルガン・ソロをバックアップします。
LIVEではこのパーカッション・パートが再現されるのでしょうか。夏からのツアー、注目ポイントのひとつです。
あと、この曲には印象的なS.E.も採用されています。
川のせせらぎ、水の流れが何かをゆっくり動かすような音・・・でしょうか。
同じようなS.E.をクラトゥーというバンドの曲で聴いたことがあるような気がしますが、まだ該当曲を見つけられていません。
このS.E.で、僕の頭には田園風景が浮かびます。田んぼに沿って流れる小川と、古い水車、清らかな水の小さくもゆったりとした流れ・・・そんな風景です。
おそらく自分の幼少時代の記憶から引っ張り出されてきたものでしょう。
「一握りの罪」はこのように、メロディーや演奏、アレンジに非のうちどころのない大変な名曲です。
ただ、ジュリーの歌詞を読み歌を聴くと、そんな感想だけで考察記事を終えられる曲ではもちろんありません。
個人的には「よくぞこのテーマで、詞曲がガッチリ噛みあったなぁ」と考えていて、ジュリーの歌詞と泰輝さんのメロディーに僕はいささかの乖離も感じません。
これほどまでの「言いたいこと」が、こんなに美しい声で、メロディーで、演奏で歌われることは奇跡です。ジュリーの音楽制作環境は、かつてないほど充実していますし、そもそも、そうした環境も含めてここまでの「境地」を手にした歌手というのは他にいないのではないか、と思います。
しかし「一握り人の罪」については一方で、「美しい曲なのに歌詞が重くて・・・」と仰るファンも大勢いらっしゃいます。それもまた正直な感想なんだろうなぁ、とも思うのです。やはり、内容が内容だけにね・・・。
繰り返すようですが、僕個人は本当に皮肉なことに、「一握り人の罪」、そして続くシークレット・トラック「みんな入ろ」の歌詞をストレートに受け取ることができる体勢が思いもかけず整った(そうならざるを得なかった)タイミングで、今回の新譜を聴いたのでした。
この先書くことはジュリーの歌詞の読解と言うより僕個人の思いであろう、ということは最初に申し上げておきます。それでもきっとご批判もあるでしょうが・・・。
僕の心をざわつかせているのは、「みんな入ろ」に登場する「せんちゃん」が今まさに「僕は入らない!」と駄々をこね始めている、という問題です。
「せんちゃん」・・・日本最南の原発。
遠い遠い田舎の片隅のことで、みなさまあまりこの土地をご存知ではないでしょう。
僕の故郷、鹿児島県の西部に位置する、県内で3番目の人口を擁する町が「薩摩川内市」。市の最西部、東シナ海に面して建てられた九州電力川内原発が「せんちゃん」です。「川内」は「せんだい」と読みます。
川内原発再稼働については昨年から話がくすぶっていて(3年前の震災以前には増設の是非を巡る問題もあったようです)、「まさかなぁ」と思っていたら、今年に入ると「再稼働有力」との情報を全国紙でも見かけるようになりました。
気が気でない中で僕はジュリーの『三年想いよ』を聴き、その翌日、再稼働具体化が公式に発表されました。
地元の反対派の方々の「まるで出来レースじゃないか」という怒りの声をネットで知りました。
ただ、県はどうやらやる気満々。そして、県人の意識としてはどちらかと言うと推進派、或いは「再稼働やむなし」の声の方が大きいとされているではありませんか。まずそうした全国紙報道が果たして真実なのかどうか、と疑ってしまっている現状です。
確かに、多くの鹿児島県人には保守的気質があります。僕はそれを特に嫌だと感じたことはないけれど、他県では考えられないような絶対男性上位の考え方などは今でも根強いです。
話せばみな穏やかで暖かい人達でのんびりしていますが、目的が一致した時の強い集団団結力もあります。今、そうしたことが再稼働に向かってしまっているのでしょうか。
しかし・・・2012年に南大隅(県本土の南東部)に核廃棄物処理場誘致の話が持ち上がった時には、地元の方々を中心に反対運動が起こり、県として拒否したという経緯もあります。
何故今回、川内原発再稼働推進の機運となっているのか・・・まだよくは分かりません。「取り戻せない平穏な暮らし」を想像してみようとする人が県内にどれほどいるのだろうか・・・それも分かりません。
もちろん、強い反対の声も多く上がっています。
その中に、ジュリーが選挙応援した彼も噛んできています。実名を出せずにごめんなさい。彼の名前を出して政治的なことをweb上に書くと、すぐ荒れてしまうのだそうです。まぁ、それでも覚悟はしておかなければいけないのでしょうが・・・。
実は僕はこれまで、彼をあまり快くは思っていませんでした。ジュリーが応援した人なのに、何故そんなことするかなぁ、何故そんなこと言うかなぁ、と感じたことが度々ありました。
でも正直、今回の彼の行動は嬉しかった。
鹿児島では今、彼は相当叩かれていると思います。
再稼働反対派の人達からさえ疎んじられている状況も、もしかするとあるのかもしれません。鹿児島は、都会からやってきた人が物事を仕切る、ということに強い抵抗感を抱く土地柄ですからね・・・。
ただ、彼が前面に立つことで、今月行われる鹿児島2区の補欠選挙が全国的なニュースとなっています。新聞によってずいぶん扱いの差がありますけどね。
それでも、「何で彼がわざわざ鹿児島までしゃしゃり出てるの?」という興味本位の疑問から、川内原発再稼働をとりまく差し迫った現況を初めて知る人もいるかもしれません。これまでは、全国的にはほとんど詳細報道が無かったのです。
薩摩川内市は、僕の実家がある霧島市と隣接しています。隣接と言っても、2つの市共に、近年になって合併して大きくなった市で面積も広いですから、川内原発と僕の実家では結構な距離がありますけど。
とは言え、万が一今回の福島原発のような過酷事故が川内で起きてしまったら、霧島市にも重大な影響が必ずあります。
「鹿児島」は「カゴシマ」と記されるようになり、南風が吹く日に桜島の噴火があれば、「死の灰」などとメディアに書きたてられ騒がれるのでしょう。
川内のすぐ北にある「出水」という町は鶴が渡ってくることで全国的に有名な所ですが、どう対処するのでしょうか。
そのまたすぐ北は、もう熊本県の水俣です。
毎日流れてくるであろういたたまれない故郷のニュースに、僕は黙って耐えられるだろうか・・・実家も含め、近辺に暮らす肉親や友人達は、どうするのだろうか。
こうして書いてみると、僕はいかにも鹿児島のことしか考えていない身勝手な奴のようです。
それを否定などできません。恥ずかしいことですが・・・「もし自分の故郷が」と考えて初めて思い至ることがあり、今まさに福島の事故後苦しんでいらしゃる方々への気持ちもまた変わってくる、ということが確かにあるのです。僕のような人間は、そうでもしないとなかなか辿り着くことのできない気持ちです。
福島については事故後に世間で色々な考え方が複雑にせめぎ合っていて、その中には僕の思いとはかなり違うものもあり戸惑うことがあります。
それだけに、今年ジュリーがツアーで南相馬に行く、と知った時は嬉しかった・・・。
ただ、鹿児島公演が無いことが残念です。あったら、無理してでも参加したと思います。こんな時だけにね。
まさか「東電」を「九電」に変えて歌ったりはしないと思いますが、ジュリーの宝山ホール公演を主催している南日本新聞は、ジュリーのメッセージをきちんと伝えられる懐がありますから、川内原発再稼働に反対する一般の方々も、LIVE翌日の南日本新聞を読んで大いに力を得られただろうになぁ、と思ってしまいます。
さてここで、ジュリーが歌った、過去の「誇大でない現実」について思い出してみましょう。
30年ほど前・・・ちょうど、ド田舎の「寂れた」町から華やかな都会へと上京した僕が大学生活を送っていた頃になりますが・・・テレビ朝日の『朝まで生テレビ』という討論番組が、深夜枠では異例の高視聴率を得て放映されていました。
司会の田原総一朗さんを筆頭に、錚々たるパネリストがレギュラー、ゲストに顔を揃え、様々な社会問題をそれぞれの立場、考え方から徹底討論するという内容で、この番組で知名度を上げたパネリストは数知れず。つい最近、東京都知事となった人もその一人。僕は当時、レギュラー・パネリストの中で一番分かり易く、かつ核心を突いた話をしてくれる人、と好印象を持っていたものでしたが・・・。
番組では「何度採り上げてもなかなか結論が出ない」ということで、数回にわたり討論テーマとして採り上げられていたのが、「原発」の問題でした。
本当に「今だから」言えることは・・・あの頃の議論は争点がズレまくっていたんだな、と。
「何だかよく分からないけど、とにかく怖いから建設そのものに反対」という考えでは、誰も深い議論に入っていくことはできませんでした。どちらかと言うと、「大きなリスクとどう共存していくのか、またはするべきなのか否か」が大きな争点となっていました。
「怖いか怖くないか」ではなく、「必要なのか必要でないのか」が論点でした。討論番組ならばそれは必然の流れだったかもしれませんが、「怖さ」を実感しよう、想像してみようとした人は少なかったように思います。
推進側はもちろん、反対側の多くの人達にしても、30年後の過酷事故を予測できたはずもなく、「事故が起こったら」と必死に声を上げた僅かな参加視聴者は、「博識な知識人」達の議論の中で次第に萎縮していくしかなかった・・・そんなシーンがまざまざと思い出されます。
東電側も信じた
G G(onF#)
受け入れ側も信じた
Em Em7
安全神話鵜呑みに
C G11(onB)
一握り人の罪
Am Dsus4 D
どちらの立場としても、当時は結局「過酷事故は起こらない」と「信じる」しかなかった。そう思い込んだ上で、話を進めていくしかなかった・・・それが「安全神話」の正体だったのかもしれません。
でも・・・もちろん「知識人」の議論とは別のところで、「安全なはずがないだろう」とシンプルに考えた著名人は当時から大勢いたはずです。今考えれば、RCサクセションの「サマータイム・ブルース」はそういう曲だったわけですし。
それをキャッチできなかった僕らの責任は重い、と思います。他でもない「安全圏」に身を置くと信じていた僕らが「気づき」に向かおうとしていなかっただけではないか、と思います。
かつて土地の人々の反対意見を「機動隊投入」で封じた・・・?そんなことがあったんだっけ・・・?
と、僕が格別常識知らずで酷いのかもしれませんが、僕はそんなレベルで「一握り人の罪」を突きつけられているという状況。
とすれば、当時「自分は外野」と決めこむことに何の疑問も持っていなかった僕のような者こそ「一握り人」に含まれるのかもしれない、と・・・考えは堂々巡るのです。
結果、各地に原発は作られました。次々に。反対意見は軽んじられて。それは厳然たる事実。
ジュリーの作詞には、初聴時に耳で聴こえる言葉と、文字(歌詞カード)とが違うというパターンがままあります。当然、ジュリーはダブル・ミーニングとして敢えてそうした手法を採り入れているかと思いますが、「一握り人の罪」にも強烈にそれがありました。
原発に乞われた町
G G(onF#)
原発に憑かれた町
Em Em7
神話流布したのは誰
C G11(onB)
一握り人の罪
Am Dsus4 D
このはじめの2行・・・僕には「原発に壊れた町」「原発に疲れた町」と聴こえました。
「最初に歌詞カードを見ずに聴いた」と仰るみなさま、ほとんどそう聴こえたのではないでしょうか。
ある先輩が仰っていました。「文字ではなく、耳に聞こえる言葉の方がジュリーの心の叫びなのでは」と。
そうかもしれません。
また、解釈の仕方によっては、「乞われた町」「憑かれた町」は、寂れた土地に東電がやってきた頃のことを表し、「壊れた町」「疲れた町」は今現在の状況を表している、と考えられなくもありません。
ジュリーはどんなふうにこの歌詞を作っていったのでしょう。最初に「壊れた町」「疲れた町」と書いて、後から当てる漢字を変えたのかな・・・それとも最初から2つの意味を持たせることを決めていたのか・・・。
「詞を作っている時、被災した方の心が痛むかなと思って、だんだん柔らかい言葉に変わってくる。それでも『痛いけれどよく言ってくれた』という歌詞が残っていたら、僕は救われると感じる」
これまで何度も引用してきましたが、先の3月2日付の毎日新聞夕刊に掲載されたジュリーの言葉が、「一握り人の罪」を聴くと胸を突くように思い出されます。
だからこの曲は、痛いけど柔らかい。僕はたまたま故郷の問題があって、今回こういう記事を書いてしまったけれど、本来はああだこうだと考えるよりもまず、柔らかな歌に身を委ねるべきなのでしょう。
大切なのは理屈じゃなくて人の心なんだ、シンプルなことなんだ、とジュリーに言われたように思います。
額に皺の寄るような話を長々としてしまいました。
改めて最後に、僕が「一握り人の罪」という名曲に特に感動させられた点を2つほど挙げて、記事の締めくくりとしましょう。
ひとつは、これはもうほとんどのジュリーファンのみなさまが同じように感じられているのでしょうが・・・1番の「嗚呼無情」でのジュリーの「嗚呼」というヴォーカルです。
息を飲むしかないですね。(レコーディング音源としては)本当に久々にジュリーの「ああ」が降臨しました。
LIVEで思い出されるのは、昨年の『Pray』ツアー、セッットリストの大トリで歌われた「さよならを待たせて」。今年は、それ以上の「ああ」が「一握り人の罪」の生歌で聴けるはずです。感嘆よりも、深い悲しみをたたえたものにはなるのでしょうが・・・。
もうひとつは、「狂った未来」に「待った」をかけ、続く歌詞フレーズ「繰り返すまい明日に」に視界がパッと開けるような光を投げかけてくれた、泰輝さんの素晴らしいアレンジ・アイデアです。
「一握り人の罪」のサビのメロディーは、1番、2番にそれぞれ2回連続して、合計4回登場します。当然すべて同じメロディーになっているのですが、2番の最後のリフレインのみ、それまでとはコード進行が一変し、ジュリーの声が一層美しい響きで伝わってきます。
「理屈は分からないけど、最後のサビが特にグッとくる」と仰るかた、いらっしゃいませんか?
原発に怯える町 原発に狂った未来
G B7 Em Dm7 G7
繰り返すまい明日に 一 握り人の罪
C G11(onB) Am Dsus4
嗚呼無情
D G
太字で表記したコードネームが、変化している箇所です。特に「未来」に当てられた「Dm7→G7」が本当に素晴らしい!
この進行自体は、ポール・マッカートニーの「ブルーバード」や「もう一人の僕」「ア・サートゥン・ソフトネス」などの曲で僕も会得しているつもりでいましたが、超王道の「G→Em→C」の進行をこんなふうに変換させる手法があるんですね。
「最後の1回だけ」というのが泰輝さん会心のアイデアだと思います。ジュリーや鉄人バンドのメンバーは、曲が提示された段階ですぐにこの変化に気づいて「いいねぇ!」と大絶賛だったんじゃないかなぁ。
今年もまた、色々と考えさせられる新譜でした。
感じるものは人それぞれ違うでしょう。でも、この4曲が夏からのツアーでどんなふうに再現されるのか、それを大きな楽しみに今は待ちたいと思います。
そうそう、ぴょんた様のブログを拝見して「あ、そうかも!」と目からウロコだったのが、1曲目「三年想いよ」に登場する、歌メロと同じ音階を弾くリード・ギター・トラックについて。
ぴょんた様は、1番後の間奏が下山さん、アウトロ1回し目が柴山さん、2回し目以降が2人のユニゾンではないか、と推測していらっしゃいました。これ、改めて聴き直してみると、確かにそんなふうに感じるんです。
それなら、ギタリスト2人が各2トラックを担当してレコーディングしたことになり、作業バランス的にも納得。LIVEではすべて柴山さんが弾くかもしれませんが、CD音源についてはぴょんた様の仰る通りかもしれない、と手を打ちました。さすが、そのあたりは愛情が考察を深める、ということでしょうね。僕の場合はどうしても、理屈から型にはめようとして考察してしまうから・・・いやいや勉強になりました。
僕はこれからもこの名盤を繰り返し聴きまくって過ごしますが、ブログの方は一転しまして、LIVEではなかなか聴けないようなジュリーの様々な時代の名曲をお題に採り上げ、楽しい内容の楽曲考察記事をしばらく続けていく予定です。
なるべく短めの文章で(汗)、そのぶん更新頻度を上げていければ、と思っています。
よろしくお願い申し上げます!
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