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2022年5月

2022年5月20日 (金)

沢田研二 「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」

『FOREVER ~沢田研二ベスト・セレクション』収録
original released on single、1976 UK

Forever
side-A
1. 危険なふたり
2. 立ちどまるな ふりむくな
3. 巴里にひとり
4. あなただけでいい
5. 君をのせて
6. ある青春
side-B
1. 時の過ぎゆくままに
2. 許されない愛
3. あなたへの愛
4. 魅せられた夜
5. 今 僕は倖せです
6. 追憶
side-C
1. ウィンクでさよなら
2. 恋は邪魔もの
3. 燃えつきた二人
4. 胸いっぱいの悲しみ
5. 死んでもいい
6. 白い部屋
side-D
1. 悪い予感
2. WHEN THE LIGHTS WENT OUT
3. ELLE
4. 愛は限りなく
5. 絆(きずな)

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ご無沙汰しております。
みなさま、ジュリーの全国ツアー『まだまだ一生懸命』先行発売争奪戦はいかがでしたか?

まぁまぁ関東中心圏のはずの我が家にインフォが届いたのはギリギリの発売前日金曜でしたが、ジュリーファンの情報網のおかげで事無きを得、前々日までには音楽仲間を動員した争奪戦の段取りを組めました。
結果僕は(自力ではありませんでしたが)7月の渋谷と11月のフォーラムを無事確保し、この購入システムとなって以来初めて、先行受付終了後日を安心して過ごすことができています。

「ツアー初日の渋谷」という大激戦のチケットを僕の分も一緒にとってくれた友人の佐藤哲也君(彼1人だけが渋谷に繋がりました)は、過去ジュリーLIVE3回参加の新規ファン。彼は今年お正月の渋谷も自力でゲットし参加していました。そして、あの怒涛のセトリにまんまと「完オチ」してしまったという流れで、今回の争奪戦は相当気合が入っていたようです。
今回僕はその恩恵にあずかることができました。

一方で希望会場の先行チケットがとれなかった、という方も多くいらっしゃるでしょう。
みなさまにおかれましては、一般発売等での今後のご健闘をお祈り申し上げます。


さて僕はそのチケット先行販売の翌日、スタッフとしてお手伝いさせて頂いた『PEEが奏でる「四谷左門町LIVE」』で無事任務を完遂、公演は盛況に終わって正にホッとひと息、という状況。
ブログ更新の時間がとれる日常に戻りました。

左門町のピーさんのLIVEについては、来月半ばくらいに満を持して長文記事をupする予定です。
ひとまず今月~来月上旬は更新復活の肩慣らしとして、『まだまだ一生懸命』セトリ予想とはまったく関係してこないであろうジュリーの隠れた名曲をお題に、短めの文量で書いていこうと思っています。

今日は「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。


デビュー以来、ジュリーが音楽的にも流行を常に先取りしセールスをリードしてきたことはご存知の通り。
ただそんな中、個人的に「むしろあと1年か2年リリースが遅かったら大ヒットしていたのでは?」と思える(一般的には)マニアックなジュリー・シングルが2曲あります。
いずれも「少しだけ時代を先取りし過ぎた」「1、2年後のリリースなら、世間の音楽流行にバッチリ嵌った」と考える完璧な名曲なのです。

ひとつは「muda」。
ブラス・アレンジを効かせたファンク・ロックで、シングル・リリース当時世間では、米米CLUBが「KOME KOME WAR」や「FUNK FUJIYAMA」のヒットで「和製ファンク全盛」を予感させていた時期だったのですが、同バンド「浪漫飛行」の爆発的大ヒットや、「イカ天」でのフライング・キッズ等フォロワー・バンドの登場による「一般リスナーもファンクに親しむ」ムーヴメントまでには至っておらず、最高にファンキーなジュリーの「muda」は「知る人ぞ知る」名曲に終わりました。
「たられば」の話をしてしまうと、これが「DOWN」くらいの時期にシングル・リリースされていたら、セールスも突き抜けていたと思うんですよねぇ。

そしてもう1曲がズバリお題の「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」です。
76年イギリス発売のシングルですね。
こちらは日本ではなく海外セールスの話になりますが、状況は「muda」のケースとよく似ているのです。

「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」は明らかに、74年あたりからじわじわと世界的流行の兆しがあったディスコ・サウンドを意識して作られています。

75年にあのビージーズが「ジャイブ・トーキン」「ブロードウェイの夜」でシングル・ヒット連発。これによりビージーズはその後完全にディスコ路線へとシフト、76年には「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」が大ヒットしました。
「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」を盟友・YOKO君に初めて聴かせた際、彼が「ビージーズのアルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』(「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」収載)を思わせる名曲」と言ったのは僕もまったく同感で、ビージーズのアレンジをさらにソリッドに、さらにゴージャスに進化させた完璧なアレンジ、演奏、ヴォーカル(ジュリーのテンションは英国リリース曲の中で最も高いです!)だと思っています。

ただ、「愛の逃亡者」の見事なリベンジとなる筈だったジュリーのイギリス戦略、このシングルは2年ほど「早過ぎ」ました。
と言うのも「一般ピープルをも巻き込んだディスコ・サウンドの世界的ブーム」到来までには、翌77年末公開の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(トラボルタ主演、主題歌はこれまたビージーズの「ステイン・アライブ」)の爆発的ヒットを待たなければならないからです。

僕は『サタデー・ナイト・フィーバー』を全編通して観たことがないですし、その後の空前のディスコ・サウンド・ムーヴメントにもさほどの思い入れは持ちませんが、その流行なくしてストーンズの「ミス・ユー」(78年)やウイングスの「グッドナイト・トゥナイト」(79年)、キンクスの「スーパーマン」(79年)といった大好きな曲が生まれ得なかったことは理解しています。
ちなみにジュリー・ナンバーで言えば、「アメリカン・バラエティー」(「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」と並ぶジュリーのディスコ・ロック2枚看板)、「サンセット広場」(阿久さんの歌詞に「トラボルタ」「フィーバー」のフレーズが登場)という大名曲も生まれてはいなかったはず。
決して軽視してはいけないムーヴメントなのです。

もし「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」が78年リリースだったら、これほどの完成度を誇るディスコ・サウンド・シングルを、英国チャートは放っておかなかったでしょう。
フランス以上の成功も夢ではなかった、と考えるのですがいかがでしょうか。


後追いファンの僕はこの曲を、以前に大分の先輩から授かったカセットテープ(ジュリーの海外シングル曲を編集して作ってくださったもの)で初めて聴きました。
本格ジュリー堕ち後数年が経った頃で、「まだこんな未知の名曲があったのか!」と驚いたものです。

ジュリーのヴォーカルはもちろん、演奏のグルーヴ(特にベースが凄い!)、ホーン・セクションのミックス・バランス、意表を突くエンディング・・・どこをとっても完璧。しかもB面「FOOLING AROUND WITH LOVE」がまたディスコ・サウンドならではの素晴らしいソウル・バラード、ときています。
こんな名シングルが広く知られずにいるのも逆にジュリーの偉大さなのでしょうけど、現在普通に音源購入できないのは本当に勿体無い話ですよね。

「ELLE」「ROCK'N ROLL CHILD」等も併せ、『ジュリー海外シングル・コレクション』発売を切に希望します。


それでは、オマケです!
記事お題「WHEN THE LIGHTS WENT OUT」と76年繋がりということで、福岡の先輩よりお預かりしている『ヤング』バックナンバー、76年2月号からどうぞ~。

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「2月号」ということは、先輩方がこれをリアルタイムで手にされたのは1月半ばくらいなのかな。
となると、LIVEはもちろんとして、みなさまは「もうすぐ公開」の
ジュリー主演映画『パリの哀愁』を楽しみに待っていらした時期?

そして現在・・・映画と言えば『土を喰らう十二ヶ月』のヴィジュアルが出ましたね!
公開の11月には『まだまだ一生懸命』ツアーで東京、奈良、京都の公演があります。MCで「もう観てくれた?」なんて話が飛び出すのかなぁ?
ジュリーファンにとって楽しみな秋になりそうです。


それでは次回更新は来月頭、ジュリー・ナンバーにお題を借りたゆる~い「旅日記」になると思います。

多忙そして人出の心配もあって、我が家はゴールデンウィーク中おとなしく過ごしました(1日だけ、ジュリー道の師匠の薫陶を受けに都内に出かけて、「ツアーの情報、まだですかねぇ」とかお話ししてました笑)。
その代わり、人出の少ない時期を狙って来週の土日にコロナ前以来となる夫婦旅行を計画しています。
もちろん油断はせず感染対策は万全に。
新潟の上越市というところに行って、上杉謙信公のパワーを貰ってきます!

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