沢田研二 「核なき世界」
from『OLD GUYS ROCK』、2018
1. グショグショ ワッショイ
2. ロイヤル・ピーチ
3. 核なき世界
4. 屋久島 MAY
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今ジュリーファンの間で話題となっているのは、果たして古稀ツアーの編成がどうなるかという・・・そもそもバンドなのか?というのは僕も考え込むところで、そりゃあジュリーのLIVEはバンドで聴きたいのだけれど、そもそもそれが先入観なのかもしれませんし。
もし、ギター1本の伴奏のみであのスケジュールを駆けるとなればそれこそ「冒険」ですが、前回記事で書いた通り僕は今の時点では「演奏形態の変化が冒険なのではなく、ジュリーの冒険があって演奏形態が変わる」という考え方です。
だからそれはこの先いかようにも変わる。老人(と敢えて言いますが)2人だけの『OLD GUYS ROCK』で「この民衆の歌が聴こえるか?」と声を上げた「冒険」のスタート地点が今年の3.11新譜リリースだったとすれば、「俺も!俺も!」と自らの意思と志でそこに加わろうと手を挙げる有志のミュージシャンの登場を想像するのは飛躍が過ぎるのでしょうか。
年齢も性別も問わず、志ある者に冒険の道は開かれている。ジュリーは待っているのだ、と考えたい今日この頃なのです。
ジュリーと縁深い凄腕のミュージシャン、たくさんいるじゃないですか。別れたばかりの人も含めて。
大きなリスクも覚悟の上で、「民」のパワーを以って集ってくれたら嬉しい・・・まぁこれは本当に勝手な個人的妄想なんですけどね。
なにせツアー・メンバーの情報がまったく無いものですから、ジュリーファンみなさんそれぞれ、考えるところはあるでしょう。
さて今日は新譜『OLD GUYS ROCK』3曲目、「核なき世界」を採り上げます。収録曲中最も激しく、ハードな曲想のロック・ナンバーです。
志を以って「Yeah!」とジュリーの元に声を上げ集ってくるミュージシャンの今後の登場を妄想しつつ、柴山さんのギター伴奏のみで「冒険」のスタートを切ったジュリーがこの歌に託した思いを考えていきましょう。
①『東京に原発を!』読後30年
大都市の真ん中に APP Yeah!
Em
TOKYOの真ん中に APP Yeah!
Em
よろしく賠償 金と嘘ばらまけイイネ
A7 C7 B7 E7 Em
(ここではAメロ冒頭2行を「Em」で通した表記としていますが、メロディーに沿ったクリシェ進行の解釈によるコードネームについては、後のチャプター③にて詳しく書きます)
今回「核なき世界」を一聴して僕はまず、ジュリーもきっと読んだであろう1冊の本を思い出しました。
広瀬隆さんの著書『東京に原発を!』。
改めて調べると1981年に初版発行されたようですが、僕がこの本を読んだのは1988年。
何故ハッキリ覚えているかというと、88年夏にRCサクセションの『カバーズ』(反原発、反核を歌った「サマータイム・ブルース」「ラブ・ミー・テンダー」などを収録。この名盤については2013年に書いた「FRIDAYS VOICE」の記事中で詳しく書きましたのでご参照下さい)がリリースされ、自分のバンドの曲作りの相方であるU君(昨年の松戸公演を共にしました)がそのアルバムの影響著しい「FUNK UP!」という詞を書いてきて、僕が曲をつけたことがありました。「FUNK UP」と書いて「反核(はんかっく)!」と発音するというその歌詞では1番、2番、3番に歌い手の「反核!」のフレーズにそれぞれ違った反応をする人物が1人ずつ登場していて、1番に原発建設現場作業員の親方、2番に忌野清志郎さん。そして3番に広瀬隆さんの名前が。その時恥ずかしいことに僕は広瀬さんのお名前を知らず「これは誰?」と。
そこでU君の指南で初めて『東京に原発を!』なる本の存在を知り、後日読んでみたというわけです。88年、冬休みに入って早々のことでした。
本はおそらく幾度かの引越の際紛失してしまったようで現在は手元になく、今では著述細部の記憶に曖昧な部分もありますが、読後の衝撃は今でもまざまざと思い起こすことができます。
当時、深夜のテレビ討論番組などで度々「原発」が議題となっていました。
世間の関心もかなり高かったと思います。
しかし「なんだか怖い。大丈夫なの?」という立地住民の訴えは「識者」のパネリストに「無根拠」と一蹴され、討論では原発自体の是非はほとんど触れられないまま「リスクをどう捉えるか」に終始するパターンが多かったように思い出されます。
広瀬さんの『東京に原発を!』はそのタイトルが示す通り、「そんなに安全だと言うのなら東京に原発を作ったらどうか」との提言を盛り込んだ内容。
当然それは討論番組で幾度も採り上げられましたが、一部の「識者」曰く「悲観論が過ぎる」「どんな発電にもそれぞれリスクはある。何故原発のリスクだけがことさら高いように言われるのか」「広大な敷地を必要とする原発を土地価格の高い都会に作れば、安価で電気を提供できない」といった「正論」の前に旗色は悪いようでした。
ただしその「正論」とは、いわゆる『安全神話』の元で語られる場合においてのみの正論であったことが、2011年のあの過酷な事故で浮き彫りになったのです。
当時、僕自身も含めて大多数の視聴者は、「識者」が振りかざす「正論」を「なるほど、言われてみればそんなものかな」と考え、広瀬さんが著作内で記した「もし事故が起こったら」とのシュミレーション部は「悲観論」であると思い込まされました。
その広瀬さんのシュミレーション中「最悪から2番目の事態」・・・具体的には「電源喪失による冷却システムの崩壊、それにより引き起こされるメルト・ダウン」が東日本大震災時に現実となって初めて、僕らは彼等の「正論」が実は『安全神話』を鵜呑みにした机上の空論に過ぎなかったことを思い知ります。
参考までに書いておきますと、広瀬さんが提示したそれ以上の「最悪の事態」とは「大爆発」です。30年前に読んだ時は「SFみたいな話だな」と感じたものでしたが、それは充分起こり得ることなのだ、と今となっては認識を改めるしかありません。
『東京で原発を!』は、あの震災直後再び話題の本となり店頭の品切が続出したのだそうです。
ジュリーはこの本をいつ読んだのでしょうか。
「核なき世界」冒頭のフレーズから読んでいることだけは間違いなさそうですが、それがずっと以前なのか、震災後なのかは分かりません。とにかく僕はこの歌で、ちょうど30年前に読んでいた『東京に原発を!』を思い出し、当時の自分に「何故恐れない?」と問いかけたい気持ちに駆られました。
ハッキリ言えるのは、30年前に幅をきかせていた邪な「正論」の一例・・・「東京に原発など作れば、万一にも事故が起こった際の周辺地の人々のパニックは地方の比ではない」という、一見「リスク論」ともとれるこの言葉が、「あの震災が東北で良かった」などという某政治家の発言と同レベルの無責任極まりない暴言であったのだということ。
僕らは今こそ机上の空論に惑わされず、福島で起こってしまったことに自らの意思でKURIOSを持たなければなりません。
ここまでが、ジュリーの「核なき世界」を紐解くにあたっての大前提だと僕は考えています。
②民衆の歌が聴こえるか?
前チャプターで原発のことを書きましたが、この曲のテーマはそれのみには止まりません。
ジュリーは誰に向かってどのような立場で、何を思い歌っているのか・・・ここではジュリーの詞について掘り下げていきたいと思います。
怒髪天、ジュリー。
しかし、「限 界 臨 界」「un democratic love」「犀か象」などについても言えるように、ジュリーの「怒り」の詞には、「歌である」故の独特の間合いがあり、僕はそこに、テーマや文字数(曲先ですから)を絞った時に発揮されるジュリーの詩人の資質、才を見ます。
だからこそ、その怒りが何に対してのものなのか、急所は何処か、を考えなければならないでしょう。
ここでの「核なき世界」のタイトルは、「まず”核なき世界”なる言葉を安売りするかのように弄している人」への糾弾ではないでしょうか。
核なき世界 嘘果せても 逃げ果せても
A7 B♭7 E7-5
ジュリーの怒りのとっかかりは、昨年7月に国連本部の条約交渉会議にて世界122か国の賛成を以って採択された『核兵器禁止条約』への、わが国の会議不参加に対して向けられたと僕は推測します。
一見、反原発に集約されたかのように仕上がった詞ですが、根っこはそこかなぁと。
でなければ、歌の最後に畳みかけられる
傘が命を護りはしない 傘が自由を縛り続け
E7 G A C
ここが繋がってきませんからね。
もちろん、採択された前述の条約についても広く様々な考え方があります。ご存知の通り、既存の『核兵器不拡散条約』上国際的に核保有が認められている国はすべて同条約には不参加。また『核兵器不拡散条約』に参加していない事実上の核保有国も同様です。つまり、現在「核」を持たない国だけが今後それを保有しない、イコール核保有国については永遠にそれを認めてしまう、という空虚な宣言に終わる可能性を指摘、懸念する考え方があり、建前上日本はその点を重視しつつ同時に米国の顔色を窺ったことになります。
しかし、それがいかに「現実的」であろうとなかろうと、序文に「ヒバクシャの苦痛」が明記され、核兵器廃絶を願うこの条約に他でもない日本がまったくそっぽを向くというのは僕には納得がいきません。
ジュリー歌詞中の「傘」は当然アメリカの核の傘のこと。「反核」を堂々と声に出すことが「自由」であるならば、その自由を今縛り奪っているものは何なのか。
2012年、ジュリーは「F.A.P.P」で「何を護るのだ国は」と歌いましたが、遂に今年の新曲「核なき世界」では「国はみんなを護りはしない」まで達してしまいました。
何故そこまで断じられるのか・・・今、福島に刮目すれば分かるだろう、とジュリーは歌っています。
「よろしく賠償」「丸投げ」な国を見れば。
それが「FUKUSHIMAの真ん中にKURIOSを」に表れているのではないでしょうか。
この国の仕打ちを恥ずかしく思う、愛すべき国を恥じねばならないそんな気持ちを忍んで、「恥を承知」で僕ら自身=「みんな」で護れ、と。「みんな」は「民」であり、「護る」ものは「非核」「不戦」でしょう。
僕は前記事で、あれほどの事故が起こったのだから「反原発」は思想でもなんでもなく当然のことだ、と自分の考えを書きました。いわんや「核兵器」において日本人がそれを忘れ、ましてや逃げてどうするのだ、という憤りがあります。
今後万一、ひとたびでも世界の何処かで核兵器が使用されれば、誰が勝つとか負けるとか、国力が上だとか下だとか、そんな蛮勇の自己満足はなんら意味を持たず、残るのは永遠の苦しみと悲しみだけです。
「核なき世界」とは政治的な詭弁で使うような言葉ではなく、それが真にどういう世界なのかを聴き手が想像することをこの歌は望んでいるように感じます。
本末転倒な「自衛のため」の核保有による国際的孤立の悪夢を将来この国に見させてはいけない、との思い。その思いを成すのは今、国ではなく民である・・・これは僕個人の考え方ですが、ジュリーの「核なき世界」の詞にきっとリンクしていると思っています。
ですから僕はやはりこの曲を、ジュリーが「民」として歌う「democratic Japan」のコンセプト・ナンバーとして考えたいのです。
「民の歌が聴こえるか?」とジュリーに問われているのは僕らひとりひとり。
これはそのまま夏からのツアーでジュリーの「冒険」のテーマとなる、と予想しますがいかがでしょうか。
あと、「詞」の考察と絡めて書いておきたいのは、このような重いテーマで過激なフレーズを叩きつける、畳みかけるジュリーの滑舌の素晴らしさです。
決してメロディーに載せて歌い易い語感の詞ではないと思いますが、ジュリーにかかればこの通り。
発音がしっかり聴きとれるからこそ生きてくるフレーズ。例えば「よろしく賠償」なんて、「カッコイイ」と言ってしまうのは躊躇われるほど痛烈な表現ではありますが、それでもカッコイイものはカッコイイんですよねぇ。
③2人のギタリスト、作曲解釈の一致
2018年、ジュリーが新譜製作に向けて作曲を依頼したのは2人のギタリストでした。柴山さんは言うまでもありませんが、昨年の「ISONOMIA」「揺るぎない優しさ」に引き続いて白井さんが今年も1曲、この「核なき世界」を作曲しています。
ジュリーは今回も作曲者に「PRAY FOR JAPANをテーマに作って欲しい」とサジェスチョンしたはず。
依頼を受けた「OLD GUYS」なギター弾きである柴山さん、白井さんの2人は(ジュリーの詞が載る前の時点で)具体的にどのようなイメージでそのテーマに取り組んだのでしょうか。
柴山さんはそれぞれタイプの異なる2曲を提供していますから想像し易い。尖ったハード・ロックの「グショグショ ワッショイ」が「怒り」「衝動」、優しいメロディーのバラード「ロイヤル・ピーチ」は「平和」「自由」でしょうか。
では白井さんは・・・?僕は今回も新譜全曲を採譜してみて、不思議な偶然(いや、「必然」かな?)に気がつきハッと驚きました。
「怒り」や「激しい衝動」を自作曲に反映させようという時、ギタリストはどうやら王道から一瞬外れてでも、ハードに尖った進行を挿し込んでくるようです。
まずは柴山さんの「グショグショ ワッショイ」での「怒り」の進行をおさらいしてみましょう。
鎮魂の歌は 止まず
E G A C
前々記事で書いた通り、これが「E→G→A→B」なら王道、しかしここでは「C」が尖りまくっています。
そして白井さんの「核なき世界」。
国はみんなを護りはしない 何も政治は護れやしない
E7 G A C
何とこの曲のサビ部は、「グショグシ
ョワッショイ」Aメロ部とまったく同じ進行。
ポイントは「C」コードの変則的な採用です。
もちろん載せたメロディーは全然違いますし、「グショグショ ワッショイ」はホ長調、「核なき世界」はホ短調と同主音ながらキーも異なります。ただ、主音が通常チューニングの6弦ギターで表現可能な最重低音である6弦の「ミ」を強烈に押し出していること、そこから激しいストローク、カッティングでコード展開させていること・・・今回の「核なき世界」で白井さんは、『PRAY FOR JAPAN』のテーマから「怒り」を採り上げ、それが柴山さんの作曲手法とも一致したものと考えられます。
柴山さんもレコーディングに向けて白井さんのデモを聴いた時、「おっ!」と思ったんじゃないかな。
白井さんのジュリーへの提供曲はどれもそうですが、メロディーとギター・フレーズを馴染ませる発想、構築の過程までをも感じさせてくれる・・・「核なき世界」もそんな1曲です。
例えばAメロ。最終的に仕上がった音源では柴山さんが「Em」のヴァリエーションで通しています。ただ、メロディー・ラインまで加味してコード・ネームを当てるならば、チャプター①で記したものとは別に
大都市の真ん中に APP Yeah!
Em7 Em6 C(onE) Em
と解釈できるでしょう。この進行はイントロではハッキリとそのまま再現されていますから、白井さんのデモ段階ではギター・トラックがイントロ、Aメロ(の最初の2行)と同じ弾き方だったかもしれません。
柴山さんが「心得た!」とばかりにさらに激しいアレンジを押し進めたのではないでしょうか。
ちなみにこの進行、「ロイヤル・ピーチ」のそれとは真逆の下降型のクリシェ。トニック「ミ・ソ・シ」の和音に足された音が「レ」(Em7)→「ド#」(Em6)→「ド」(ConE)と半音ずつ変化してゆきます。
「ロイヤル・ピーチ」の記事で「クリシェは胸キュン進行の代表格」と書いたばかりなんですけど、「核なき世界」の場合は癒される進行と言うより「勇壮」「冒険」的なイメージ。当然「怒り」の要素もあるでしょう。
僕がこのパターンのクリシェを最初に覚えた曲は、他でもない井上バンド、大野さん作曲の『太陽にほえろ!』挿入曲、タイトルもズバリ!な「冒険のテーマ」(のちに「ボンボン刑事のテーマ」)でしたね(こちら)。
柴山さんの激しくかき鳴らすストロークで、LIVE映えは約束されたも同然のこの曲・・・個人的に演奏のイチオシ箇所はエンディングのフィードバックです。
柴山さんは、白井さんがこういう曲を出して来なかったら「グショグショ ワッショイ」の方をフィードバックで終わらせたかったと思うんですよ。
それを白井さんの曲のために譲る、というのが柴山さんの奥ゆかしい、素晴らしい人柄を思わせるようで、この重いテーマにも関わらず僕は爽快な気持ちで「核なき世界」を聴き終えることができます。
今、新たな「冒険」に打って出たジュリーの傍に柴山さんがいることの安心感を感じずにはいられません。
僕はその上で「OLD GUYS ROCK」のこの先の道、ジュリーと意を重ねる有志の登場に期待したいです。
それでは次回更新で今年の新譜『OLD GUYS ROCK』考察シリーズもラストです。
ただ、4曲目収録の「屋久島 MAY」・・・果たして「考察」っぽい内容で書くことができますかどうか(汗)。
柴山さんのギターについては語るところが多いとは言え、ジュリーが今この曲を採り上げた動機を考える、となると僕はお手上げ状態です。
2003年リリースのシングル『明日は晴れる』にジュリーが自作の着信音として作曲、収録していたらしいのですが、何故今になってこの一連の「祈り歌」の中に改めて組み込まれることになったのか。ジュリーがLIVEで教えてくれない限り、僕の頭ではその理由はこの先永久に分からないままでしょう。
そんな中で言えることは、今回の新譜のラストがこの曲でホッとする、暖かい気持ちになるということ。きっとみなさまもそうでしょう。
ジュリーが作った2拍子の朴訥なメロディーは、不思議に癖になります。
あまり深く考え込まず、感じたままにのんびりとした記事にしたい・・・今年この曲に限ってはそれがふさわしいように思います。
みなさまお住まいの地では、桜は咲きましたか?
こちらは、日曜日に花見のつもりで張り切って川越まで出かけたんですけど、新河岸川沿いの桜はまだこれからというところでした(都内は既に満開だったらしいのですが)。
でも今朝通りかかった公園はこんな感じに。
しばらく暖かい日が続きそうで、「屋久島 MAY」を繰り返し聴くには良い気候です。
陽気モードで頑張ってみようか、と思っています!
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