沢田研二 「福幸よ」
from『un democratic love』、2016
1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より
---------------------
音楽劇『悪名』初日の海老名公演は、大盛況、絶好調の幕開けとなったそうですね。
ジュリーをはじめとするキャスト、柴山さんと熊谷太輔さんの演奏もいきなり全開の素晴らしい舞台だったとか。ちなみに僕は恥ずかしながら「海老名」という地名を今回初めて知りました・・・。
今日から大阪公演ですね。観劇されたみなさまのご感想、あちらこちらで拝見させて頂くつもりです。
(熊谷さんツイートより。柴山さん、30歳くらいに見える・・・)
一方、ジュリーの新譜『un democratic love』。こちらも売行好調のようです。
毎年のことながらほとんど宣伝もせず、タイアップも無い状況としては異例のセールス・・・多くのリスナーがこの作品を聴き、ジュリーのメッセージについて考える機会を得ることを願ってやみません。
今日はその『un democratic love』収録全4曲考察の第2回更新となります。
今年の新譜でのジュリーの作詞は、1曲目から順に「安保法制」「被災地の現状」「原発再稼働」「世界平和」と、それぞれのテーマが明確です。
採り上げるのは2曲目「福幸よ」。
2012年リリースの『3月8日の雲』からジュリーは一貫して、被災者の中でも最も辛い立場にある方々について自作詞で踏み込むスタイルの曲を、必ず収録し続けています。それは今年も変わりません。
ただ、変わらない中でジュリーの気持ちはどう動いているのか。「歌」としてどう進化しているのか・・・今日はそうしたことを、柴山さんの作曲手法と合わせながら考えてゆくことになります。
「被災地の現状」をテーマとする曲について、毎年のことですが気力、体力を擦り減らすような感じで執筆に苦心します。非・被災者である僕自身が抱える「うしろめたさ」「申し訳なさ」とせめぎあいながら、それでも正直な気持ちを書こうと必死です。
今回も、夜に下書きしておいたものを朝読み返すと、「無用に被災地の方々を傷つけてしまうのではないか」と思われる箇所が見つかり、細かい表現にまで神経質になる毎日でした。
なんとか書き終えましたが、考察そして気遣いともに「充分」とはとても言えません。みなさまのコメントやご指摘を頂きながら色々と修正できる部分があれば、と思っています。
前回に引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
今年の新譜は、バラード2曲にビート系のロック・ナンバー2曲が挟まれる、という収録構成となりました。
この4曲が全国ツアーでどんな順序で歌われるのかは僕ごときでは想像することもできませんが、1枚のCD作品として非常に纏まった折り目正しい構成になっていると感じます。
ビート系のロック・ナンバーが2曲も収録されること自体が久々。しかも「福幸よ」「犀か象」いずれも縦ノリ(表拍のビートが強調されている)で、LIVEではヘドバンが似合いそうな曲に仕上がっています。
加えてこの2曲、作曲にも変則的な工夫があります。これは4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」も含めて言えること。
「福幸よ」はトリッキーなコード進行、「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」は豪快な転調。そして、これまで「直球」の作曲家というイメージがあった依知川さんの「犀か象」は、あまりに斬新な進行と転調。
収録4曲の中、直球の進行で作曲されているのが泰輝さんの「un democratic love」1曲のみというのがまた僕には興味惹かれるところですし、それが今年の新譜の個性でもあり魅力だと思っています。
さて、今年の新譜収録曲クレジットが分かった時、僕が一番「ジュリーらしいなぁ」と感じたのがこの2曲目「福幸よ」というタイトルでした。
読みが「ふっこう」ですから「復興」の掛け言葉であることは大前提。その上で僕はまずそこにシンプルなアナグラムを見て「今、”復興”の現状は”幸福”の逆・・・つまり”福幸”である。ジュリーはそんな意図を込めたのでは」と想像しました。
実際に音源を聴いて、ドキリとその感覚を思い起こしてしまったのが、2番Aメロ冒頭の一節です。
福幸は 遠すぎて 幸福を 遠ざける
G Cm D G Cm D
一方で、いつもお世話になっている先輩が「”福島に幸あれ”とも読める」と仰っていて、それもまた「なるほど」と思いました。
全体として見ると、(福島に限らず)この曲は「未だ復興には遠い被災者の心」に焦点を当てています。それは過去4作でもそうでしたね。
「復興には程遠い」・・・つまり「心の平穏」が訪れない。今なおそんな状況にある方々とは、あの震災で大切な人の命、住み慣れた故郷を失った人達でしょう。
僕も先日、未だ息子さんの行方が分からず「5年経っても気持ちは何も変わっていない」と語るご夫妻の映像をテレビで観たばかりです。
心色 如何許りか
G Gaug G Gaug
命 の 重 さは 量れない
G Bm7 Em C Am D
1曲目「un democratic love」と同じく、この曲でも「命の重さ」を歌うジュリー。
先程、「今年の新譜は各収録曲でテーマがハッキリ絞られている」と書きましたが、当然ながら4曲通してのトータル・コンセプトをジュリーは持っています。それはきっと、「命の重さを考え、人の心の平穏を祈る」ということなのですね。
被災者の方々の「心の平穏」とはどうしたら成せるのか・・・ジュリーは、「考えて考えて」毎年のようにそれを歌ってきました。今年もメンバーいずれかの作った曲でそのことを歌おう、と決めていたでしょう。
そこへ、何かの気脈が通じたかのように柴山さんの新曲が届けられ、ジュリーは「この曲だ!」と即決したのではないでしょうか。
「苦しみ、悲しみに何度も躓きながら、それでも前に進む一歩、また一歩」
・・・いや、僕は綺麗事やカッコつけでこんな表現をしているのではありませんよ。後ほど詳しく柴山さんの作曲手法を解説しますが、「福幸よ」って、本当にそんなメロディーでありコード進行の曲なんです。
「もう、震災のことしか歌にしない」
ジュリーはキッパリとそう断言しています。今回さらに強調された「平和への祈り」も、もちろんその思いから繋がっていることです。
その決意の重さをなかなか受け止めきれないファンも、実は多いようですね・・・。
僕はジュリーのその言葉を熱烈支持してはいますが、「何故そこまで」と思うことはあります。本当に、何故ジュリーはそうまでして被災地への思い、苦しみや悲しみを歌い続けるのでしょうか。
大げさに言えばそれは、ジュリーが「真に強い王者」であるからこその宿命だ、と僕は考えます。
ジュリー自身、「僕はこれを歌うために今までずっとやってきたんだ」と感じているのではないか、と。
ほとんどのみなさまは、僕の言う「真に強い王者」の意味が分からないと思いますので、少し寄り道しますがここで音声の引用とともに説明させてください。
2011年3月27日・・・あの大震災、原発事故が起こってから2週間ほどしか経たない日のことです。
『プロレスリング・ノア』というプロレス団体(以下、『ノア』と略します)で、杉浦貴選手と鈴木みのる選手の初対戦が実現しました。
杉浦選手は当時『プロレスリング・ノア』のチャンピオン。対する鈴木選手はフリーランスで団体枠に縛られず戦いの場を求め渡り歩く「凄腕の浪人」といったスタンス。共にプロレス界でトップの実力を誇る素晴らしい選手ですが、それまでは道を交えることはありませんでした。双方の「対戦してみたい」という要望により遂に実現した黄金カードです。
形としては、言わば鈴木選手が『ノア』に「道場破り」に出向いていきなり最高師範格(団体チャンピオン)に挑戦する、という構図ですから、『ノア』主催のこの試合は当然杉浦選手がベビーフェイス(正義役)で鈴木選手がヒール(悪役)の立ち位置となりました。
試合は、激闘の末に鈴木選手が勝利。
会場に駆けつけた『ノア』ファンにとっては「バッド・エンド」(プロレスでは、悪役が勝利して興行が終わるパターンを、「ハッピーエンド」の逆の意としてそう表現します)です。事件はそんな試合直後に起こりました。
バッドエンドの会場の重い空気の中で、鈴木選手がおもむろにマイクをとり、対戦相手の杉浦選手に痛烈な言葉を投げかけたのです。
そのシーン(音声のみ)をYou Tubeにupしてくださっているかたがいらっしゃいますのでご紹介します(「何か興味の無い話が続いてるな~」とお思いでしょうが、もう少し我慢して、是非こちらをご視聴ください)。
どうでしたか?
少し補足しますと。
2人の対戦実現の直前、やはり時期があの大震災直後だっただけに、ベビーフェイスのチャンピオンである杉浦選手は「強敵を迎え撃つにあたって、被災地のプロレスファンに向けてメッセージを」といった感じの取材も受けることになるわけです。
そこで杉浦選手は「プロレスで元気を与える、勇気づける、なんてとても言えない(言える状況ではない)。そんなのは自己満足」といったことを語ったのでした。
ご紹介した音声は、それを雑誌記事で読んだ鈴木選手が烈火のごとく怒った、という流れを受けての、試合後のシーンなのです。
僕は、雑誌に載った杉浦選手の言葉は正直な気持ちの吐露だったと思います。
だって、特にあの時期は日本じゅうみんなが多かれ少なかれ杉浦選手と同じようなことを考えて悩み、自問自答し、自分に突きつけていたのですから。
それに杉浦選手は当時ベビーフェイスとは言っても、寡黙なコワモテで「不機嫌モード全開」のファイトスタイルが身上(それが彼の魅力なのです)。気の効いたリップサービスは苦手な選手です。
それは鈴木選手も充分承知している・・・その上で「お前はチャンピオンだろうが!」と一喝しました。
被災地で食べ物がない、水に困っている・・・それは分かっているから、日本じゅうみんなが「何とかしよう」と頑張っている。プロレスの王者(チャンピオン)には他の役割がある。被災地のファンの「心」を助けるのが強いチャンピオンだろう、と鈴木選手は訴えたのでした。
あのデリケートな時期にこれほどの感性を持ち、激情にまかせたとは言えしっかりと言葉にした鈴木選手は本当に凄い・・・5年が経ち、戦いを通じて志を通わせていった杉浦、鈴木両選手は今、手を組んで『ノア』マットで暴れまわっています(今年に入って杉浦選手がヒールターンし、鈴木選手のチームに合流)。
ずいぶん長い寄り道となりましたが・・・要は「強い王者(チャンピオン)の特別な役割」について、僕はお話ししたかったのです。
今、「歌」の王者を日本で探すとしたら、それはジュリーだと僕は思っています。
歌唱力が一番、ということではありません。
一番売れている、ということでも当然ありません。
圧倒的な実力、実績、志、存在感を持ち、休むことなく活動を続ける「真に強い王者」ということです。
ジュリーは自分のことを「強い」とも「王者」であるとも考えていないと思います。
でも、今ジュリーが自分の気持ちに正直に歌い続けていることが、そのまま「真に強い王者」の宿命のように僕には思えてなりません。
2014年の南相馬公演に参加された先輩の「今日ほど”勝手にしやがれ”という曲が誇らしく思えたことはありません」というお言葉が今も強く僕の胸に残っています。形は違えど、そんなに単純な話ではないと分かってはいるけれど・・・それは正に鈴木選手の言葉にあった「俺はお前達の声のおかげで立ち上がることができた。今度は俺の声でお前達立ち上がれ!」をジュリーが体現したシーンだったのかなぁ、と。
南相馬と言えば、当地公演の翌年リリースとなった「泣きべそなブラッド・ムーン」の歌詞中に「鬱憤、後悔、懺悔」というフレーズが登場しますよね。
この曲については僕の歌詞解釈も二転三転しましたが、『こっちの水苦いぞ』ツアーを体感し、「怒り、憤り、嘆き」の歌だと結論づけました。「鬱憤、後悔、懺悔」は、大切な人の命を失った被災者の気持ちをジュリーが懸命に想像し、全力で慮って編み出された言葉だったのではないか、と今は考えています。
その「後悔」「懺悔」のフレーズが今年はこの「福幸よ」で再び使われています。「泣きべそなブラッド・ムーン」同様に、被災地の方々の独白として。
どうしようもない、やるせない、そんな思いは変わらずそこにあるのだけれど
後悔に懺悔 忘れるもんか
Am Bm Cm D
この「忘れるもんか」が、今年の「福幸よ」で見せたジュリーの新たな力強さ。
「あの震災で大切な人の命を失った、一番辛い思いを持ち続ける人達の気持ちを何とか想像してみる」というジュリーの作詞アプローチは、2012年の「恨まないよ」、2013年の「Deep Love」、2014年の「三年想いよ」、2015年の「泣きべそなブラッド・ムーン」を経て、今年「福幸よ」に辿り着いたのではないでしょうか。
そして僕は、この曲はジュリーが柴山さんのメロディーに力を得て詞を書いたに違いない、と確信します。
では、僕がどうしてそこまで言い切れるのか・・・今回「福幸よ」で魅せてくれた柴山さんの作曲手法について、ここから詳しく紐解いていきましょう。
採譜自体にさほど時間はかかりませんでしたが、「柴山さん、ここまで徹底しているのか!」と驚きの連続でした。
『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマに作られた柴山さんの名曲群の中でも、柴山さんの人柄が最も色濃く反映された作曲作品だと思います。
当たり前のことですが、細部に至るまで一切の手抜きはありません。今年の柴山さんの「祈り」が何処にあったのかを、様々な箇所から読み解くことができるロック・ナンバーです。
思えば昨年、柴山さんは「涙まみれFIRE FIGHTER」の徹底した短調の構成に「ただただ悲しい、苦しい」という思いを託しました。
今年は一転
「それでも顔を上げよう。元気出そう」
そんな思いが込められていると感じます。言葉にすると安っぽいようですが、それは採譜作業をし楽曲構成を紐解くことで導き出した、僕の素直な感想です。
「元気出そう」・・・でも顔を上げようとする時、前を向こうとする時の逡巡や戸惑い、躓きまでをも柴山さんはコードとメロディーで表現しています。「何とか気持ちを奮い起こして立ち上がろう」・・・そんな曲だと思うんです。
全体としては明快なト長調。でもイントロと1番直後の間奏、そしてアウトロに配されたキメのギター・リフ部についてはホ短調です。
最初にこのリフを聴いた瞬間、僕は「どん底」のそれを連想しました。「どん底」はまだ記事お題にしていない曲ですので、この場でちょっとイントロのコード進行をおさらいしておきますと
「B♭m→G♭dim(→F7)」
ちなみにこの添付資料のスコアなんですが・・・今年に入って『A WONDERFUL TIME.』のエレクトーン・スコアの件をきっかけにお友達になった同い年の男性ジュリーファンの方が、ジュリーの貴重なスコアを他にいくつもお持ちで、何とこの「どん底」のバンドスコア(そんなものがこの世に存在していたとは!)まで見せて頂くことができたのです。
バンドスコアというのは音源で鳴っているすべての楽器の音が採譜されていますから、アレンジフェチの僕にとっては最も萌えるスコア形態です。
この「どん底」のスコアを新譜リリース直前に勉強していなければ、僕は今回の「福幸よ」のイントロを
「Em→C→B7」
と採譜してしまっていたでしょう。でもこれだと「しっかりし過ぎて」いる・・・正しくは「どん底」に倣って
「Em→Cdim(→B7)」
となります。
代理コードのディミニッシュが、何やら「心の不穏」を象徴しているようなギター・リフ部です。
リフ部4回し目の「C→D」から歌メロにさしかかると、ト長調の全容が見えてきます。
エイト・ビートの長調であるからには「明るい曲」と言って間違いではないのですが、「明るさ」を「前を向く」意と捉えた場合、「福幸よ」では「何度も何度も立ち止まり、そこからまた歩き出す」ような進行が特徴的。この「何度も立ち止まる」箇所が柴山さんの投げてきた(もちろん良い意味での)変化球です。
普通の作りならば、ト長調の曲ですとコードはトニックが「G」で、サブ・ドミナントの「C」とドミナントの「D」が進行の基本となります。
ところが柴山さんは、歌メロ部の「C」であるべき箇所を徹底的に「Cm」に変換させています。
その場合、メロディーも微妙に変化します。例えばAメロ冒頭であれば
おもいでが ち かすぎて ♪
シシシドシ シ♭ラソミ レ(←ト長調王道のメロ)
シシシドシ シ♭ラソミ♭レ(←柴山さんのメロ)
エンディング・リフレイン部ですと
ふっこうよ あゆめ ♪
ミ ミ ミ レドレ(←ト長調王道のメロ)
ミ♭ミ♭ミ♭レドレ(←柴山さんのメロ)
このように、柴山さんは本来「C」であるべき箇所を悉く「Cm」に置き換え、「ミ」の音を「ミ♭」に変換、「躓く」「立ち止まる」といったニュアンスを出しています。
何度も立ち止まりながらもその度に思い直し意を決して顔を上げる・・・もちろん「復興」を実感し今はしっかり前を向いて力強く足を踏み出せている被災地の方々も多くいらっしゃるでしょう。でも、復興だ復興だと言われている中の「被災地の現状」を考えれば、そうではない方々もまた数多くいらっしゃる。
柴山さんが(ジュリーの詞が載る前の段階から)この曲に込めたのは、そんな方々の「困難な一歩一歩」だったのではないでしょうか。「忘れるなんてできない。背負っていくんだ」という一歩一歩です。
エンディングのリフレイン部、「Cm→G」で畳みかけるマーチング風の進行などはその最たるもの。
福幸よ歩め 福幸よ歩け
Cm G Cm G
福幸よ福幸 よ 歩め歩 け ♪
Cm G E7 Am Cm D
最後に用意されたこの大サビは、この曲を「辛い中にも前向き」な構成にしたかった柴山さんの意図をハッキリと感じさせてくれます。それはジュリーの詞とガッチリ噛みあって、迷い、戸惑いの部分含めて詞曲が乖離する箇所などまったくありません!
また、「普通ならこうなるのに敢えてそうはしない」という柴山さんの「込めた思い」故の変則部は、コード以外にメロディーそのものにも見ることができます。
1番、2番の最後の着地部がそれです。「普通」のパターンと柴山さんが作ったパターンの違いを2番の詞に音階をつけて表記してみますと
ひがんにとどけよ たましいよ ♪
レレシレ ミシラソ ラシラソソ(←王道のメロ)
レレシレ ミシラソ ラシラソレ(←柴山さんのメロ)
語尾の音がポ~ンと高い「レ」に跳ね上がっているんです。ここは普通は「ソ」です。その方が着地としては整っていますが、多少変則でもそれを高い「レ」の音に引き上げることで、「何度もやり直す」「まだまだ進んでいく途上」の感覚がメロディーに組み込まれます。
ジュリーやバンドメンバーにも当然このメロディーの意図するところは阿吽に伝わっていたはずで、「ここ、良いよね」とレコーディングしながら皆で話したりしたのかなぁ、と妄想しています。
それに、この曲は演奏も凄いんですよ。
その意味で、僕が全国ツアーでのこの曲で注目するのは、「柴山さん、泰輝さん、依知川さんの”ソロ”を照明さんがフォローする演出がされるか否か」です。
そう、3人のパートの見せ場が代わる代わる繰り出される構成が「福幸よ」アレンジ最大の肝。これは、気をつけて音源を聴けばみなさまも必ず聴き取れます。
ただ、「ソロ」とは言ってもそれぞれが僅か1小節なのです(だから凄い、ということなんですけど)。しかもほとんど「順不同」ですからね・・・これをピンスポット当てることになったら、照明さんは相当大変ですよ~。
そう言えば、2010年『秋の大運動会~涙色の空』ツアー初日の渋谷公演で、「明日」で繰り出される2小節交代の柴山さんと下山さんのギター・ソロ・リレーで照明さんが完全に逆逆になっちゃってたことがあったなぁ、なんて懐かしく思い出したりしています。
難易度は今年の「福幸よ」の方が数倍上ですが・・・さてどうなるでしょうか。
もし途中で迷ってしまったら、GRACE姉さんにスポット当てちゃうのも手かもしれません。3人の”ソロ”に隠れていますが、ここはGRACE姉さんも凄まじい入魂のビートで攻めまくっていますからね。
そうそう、個人的にこの曲の音作りで謎が解けていないのは、ギター・リフ部などで何やら「ゴ~ッ」という効果音のような音が鳴っている点。
ベースにフランジャーをかけ、ギターで言うところの「ジェット・サウンド」を応用しているのか、それとも演奏トラック全体に「後がけ」のミックスを施しているのか。
謎を解くためには、夏からのツアーで昨年の大宮公演のような「コンソール真後ろの席」を引き当ててミキサーさんの手元をチェックするしかないんですけど、さてそううまく事が運びますかどうか。
ちなみに昨年そんな貴重な席を共に体感した相方のYOKO君は、すっかり「大宮ソニックのミキサーのお兄さん」にゾッコンの様子。先日音楽仲間で集まった飲み会でも「短髪の真面目そうな彼」と言って、昨年の大宮公演のミキシングを絶賛していました。
最後に。
「心色」「涙色」「悲鳴色」「絶望色」・・・如何許りか、と僕も今回必死に考えました。不安な生活、悲しみの日常、いかばかりなのでしょう・・・。
なんとか4つの色を想像し、大切な人の命を失った人達の気持ちを想像しようとする時、人生経験の貧困な僕はたったひとつの「痛み」に拠り所を求めるしかなく・・・それは病に倒れた母親との別れの体験です。
余命宣告を受けた母は、医者である叔母の勧めなどもあり鹿児島市内の有名な緩和ケア病棟に入ることがほぼ決まっていました。でも土壇場になって母は、自宅のある隼人町から電車で50分かかる市内の病院に入ることを拒み、自らの意思で町内の名もない小さな病院で過ごすことを決断しました。
本人の口から聞いたことはありませんが、理由はハッキリ分かります。その病院から歩いて数分の場所に、当時の父親の職場があったからです。それが母にとって何より「心の平穏」だったということなのです。
被災地の悲しみを、自分のこととして考える・・・それは非・被災者にとってとてつもなく難しいこと。
「俺達の気持ちがお前らに分かってたまるか!」と言われることも覚悟して、それでも僕らはその努力しなければいけない、と思っています。
今、失われた命の重さを背負い続ける被災者の方々からすれば、「復興」とはただただ虚しいばかりの漢字2文字なのでしょう。
それでも彼等彼女等が僅かでも、「心の平穏」を感じることがあり前を向く気力が湧く瞬間があるとすれば・・・ジュリーはそう思いそれを祈ればこそ、単に「復興」なんて漢字2文字をそのまま使うわけにはいかなかったのではないでしょうか。
「福幸」という漢字の当て方は、自然発生的な福島のスローガンとして県内或いは仮設住宅のある街、避難先などでよく使われているのだそうです。
僕はそれも今まで知らずにいました。
ジュリーは懸命に考えて考えて、「福幸よ」の漢字使いをタイトルとすることを決めたのでしょう。
この曲を聴いて、「ジュリー、よくぞ言ってくれた。自分も元気出さなきゃなぁ」と思う人が被災地に僅かでもいてくれたら・・・と願わずにはいられません。
ジュリーの「語呂合わせ」はそれほど真剣です。
「やっぱり、この曲のタイトルが今回の収録曲の中で一番ジュリーらしいかなぁ」
と、今また僕は発売前の感覚に舞い戻っています。
ジュリーの祈りと柴山さんの祈りが奇跡のように噛み合った、本当に素敵な新曲。
僕にはもう、夏からのステージ・・・「福幸よ」の最後のリフレイン部で、ジュリーが拳を握りしめながらビートに乗って歌う様子、柴山さんが笑顔で入魂のダウン・ピッキングでリズムを刻む様子が、見えています。
思い返せば、「どれだけハードでシビアなセットリストになっても、柴山さんがステージにいれば明るさは失われないはず・・・」と、2012年のツアーからずっとそんなふうに思って、安心して初日を迎えていたような気がします。今年の「福幸よ」は、改めてんなことを再確認させてくれるような曲でした。
最初に「柴山さんの人柄が反映されたような曲」と書いたのは、そういうことです。
LIVEでは、皆が縦ノリのビートに乗って、笑顔で楽しんでよい曲だと僕は思っていますよ。
それが、この曲に「福幸」の2文字を当てたジュリーに応えることにもなるのではないでしょうか・・・。
それでは、次回のお題は「犀か象」です。
「”犀か象”・・・あぁ、これも”再稼働”の語呂合わせのタイトルだね」・・・と、僕はそんな解釈で片づけるだけの「大人」でありたくない、と今思っています。
「犀」や「象」なんて動物達が歌詞に登場する面白そうな曲・・・これは一体何を歌っているんだ?
子供の頃、少年の頃の僕はそういう感性と理解欲を持っていたはず。そこから何か真実を得ようと思っていたはず。好きなアーティストの新曲を聴く、って本来はそういうことですよね。
面白おかしく言葉を料理して、そこに社会的なメッセージを込める作詞手法は忌野清志郎さんの得意技でしたが、ジュリーも負けてはいませんよ。
更新までには、またもお時間を頂くことになります。
これから日々全力で下書きに取り組みますが、週末には息抜きに桜も見に行かせてくださいね(汗)。
| 固定リンク
| コメント (6)
| トラックバック (0)
最近のコメント