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2016年3月

2016年3月30日 (水)

沢田研二 「福幸よ」

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より

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音楽劇『悪名』初日の海老名公演は、大盛況、絶好調の幕開けとなったそうですね。
ジュリーをはじめとするキャスト、柴山さんと熊谷太輔さんの演奏もいきなり全開の素晴らしい舞台だったとか。ちなみに僕は恥ずかしながら「海老名」という地名を今回初めて知りました・・・。
今日から大阪公演ですね。観劇されたみなさまのご感想、あちらこちらで拝見させて頂くつもりです。
熊谷さんツイートより。柴山さん、30歳くらいに見える・・・)

一方、ジュリーの新譜『un democratic love』。こちらも売行好調のようです。
毎年のことながらほとんど宣伝もせず、タイアップも無い状況としては異例のセールス・・・多くのリスナーがこの作品を聴き、ジュリーのメッセージについて考える機会を得ることを願ってやみません。

今日はその『un democratic love』収録全4曲考察の第2回更新となります。
今年の新譜でのジュリーの作詞は、1曲目から順に「安保法制」「被災地の現状」「原発再稼働」「世界平和」と、それぞれのテーマが明確です。
採り上げるのは2曲目「福幸よ」。

2012年リリースの『3月8日の雲』からジュリーは一貫して、被災者の中でも最も辛い立場にある方々について自作詞で踏み込むスタイルの曲を、必ず収録し続けています。それは今年も変わりません。
ただ、変わらない中でジュリーの気持ちはどう動いているのか。「歌」としてどう進化しているのか・・・今日はそうしたことを、柴山さんの作曲手法と合わせながら考えてゆくことになります。

「被災地の現状」をテーマとする曲について、毎年のことですが気力、体力を擦り減らすような感じで執筆に苦心します。非・被災者である僕自身が抱える「うしろめたさ」「申し訳なさ」とせめぎあいながら、それでも正直な気持ちを書こうと必死です。
今回も、夜に下書きしておいたものを朝読み返すと、「無用に被災地の方々を傷つけてしまうのではないか」と思われる箇所が見つかり、細かい表現にまで神経質になる毎日でした。
なんとか書き終えましたが、考察そして気遣いともに「充分」とはとても言えません。みなさまのコメントやご指摘を頂きながら色々と修正できる部分があれば、と思っています。
前回に引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。


今年の新譜は、バラード2曲にビート系のロック・ナンバー2曲が挟まれる、という収録構成となりました。
この4曲が全国ツアーでどんな順序で歌われるのかは僕ごときでは想像することもできませんが、1枚のCD作品として非常に纏まった折り目正しい構成になっていると感じます。
ビート系のロック・ナンバーが2曲も収録されること自体が久々。しかも「福幸よ」「犀か象」いずれも縦ノリ(表拍のビートが強調されている)で、LIVEではヘドバンが似合いそうな曲に仕上がっています。
加えてこの2曲、作曲にも変則的な工夫があります。これは4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」も含めて言えること。
「福幸よ」はトリッキーなコード進行、「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」は豪快な転調。そして、これまで「直球」の作曲家というイメージがあった依知川さんの「犀か象」は、あまりに斬新な進行と転調。
収録4曲の中、直球の進行で作曲されているのが泰輝さんの「un democratic love」1曲のみというのがまた僕には興味惹かれるところですし、それが今年の新譜の個性でもあり魅力だと思っています。

さて、今年の新譜収録曲クレジットが分かった時、僕が一番「ジュリーらしいなぁ」と感じたのがこの2曲目「福幸よ」というタイトルでした。
読みが「ふっこう」ですから「復興」の掛け言葉であることは大前提。その上で僕はまずそこにシンプルなアナグラムを見て「今、”復興”の現状は”幸福”の逆・・・つまり”福幸”である。ジュリーはそんな意図を込めたのでは」と想像しました。
実際に音源を聴いて、ドキリとその感覚を思い起こしてしまったのが、2番Aメロ冒頭の一節です。

福幸は 遠すぎて  幸福を 遠ざける
G          Cm     D     G         Cm     D

一方で、いつもお世話になっている先輩が「”福島に幸あれ”とも読める」と仰っていて、それもまた「なるほど」と思いました。
全体として見ると、(福島に限らず)この曲は「未だ復興には遠い被災者の心」に焦点を当てています。それは過去4作でもそうでしたね。

「復興には程遠い」・・・つまり「心の平穏」が訪れない。今なおそんな状況にある方々とは、あの震災で大切な人の命、住み慣れた故郷を失った人達でしょう。
僕も先日、未だ息子さんの行方が分からず「5年経っても気持ちは何も変わっていない」と語るご夫妻の映像をテレビで観たばかりです。

心色   如何許りか  
G  Gaug  G        Gaug

命 の 重  さは 量れない
G Bm7  Em   C      Am  D

1曲目「un democratic love」と同じく、この曲でも「命の重さ」を歌うジュリー。
先程、「今年の新譜は各収録曲でテーマがハッキリ絞られている」と書きましたが、当然ながら4曲通してのトータル・コンセプトをジュリーは持っています。それはきっと、「命の重さを考え、人の心の平穏を祈る」ということなのですね。

被災者の方々の「心の平穏」とはどうしたら成せるのか・・・ジュリーは、「考えて考えて」毎年のようにそれを歌ってきました。今年もメンバーいずれかの作った曲でそのことを歌おう、と決めていたでしょう。
そこへ、何かの気脈が通じたかのように柴山さんの新曲が届けられ、ジュリーは「この曲だ!」と即決したのではないでしょうか。

「苦しみ、悲しみに何度も躓きながら、それでも前に進む一歩、また一歩」

・・・いや、僕は綺麗事やカッコつけでこんな表現をしているのではありませんよ。後ほど詳しく柴山さんの作曲手法を解説しますが、「福幸よ」って、本当にそんなメロディーでありコード進行の曲なんです。

「もう、震災のことしか歌にしない」
ジュリーはキッパリとそう断言しています。今回さらに強調された「平和への祈り」も、もちろんその思いから繋がっていることです。
その決意の重さをなかなか受け止めきれないファンも、実は多いようですね・・・。
僕はジュリーのその言葉を熱烈支持してはいますが、「何故そこまで」と思うことはあります。本当に、何故ジュリーはそうまでして被災地への思い、苦しみや悲しみを歌い続けるのでしょうか。

大げさに言えばそれは、ジュリーが「真に強い王者」であるからこその宿命だ、と僕は考えます。
ジュリー自身、「僕はこれを歌うために今までずっとやってきたんだ」と感じているのではないか、と。

ほとんどのみなさまは、僕の言う「真に強い王者」の意味が分からないと思いますので、少し寄り道しますがここで音声の引用とともに説明させてください。


2011年3月27日・・・あの大震災、原発事故が起こってから2週間ほどしか経たない日のことです。
『プロレスリング・ノア』というプロレス団体(以下、『ノア』と略します)で、杉浦貴選手と鈴木みのる選手の初対戦が実現しました。
杉浦選手は当時『プロレスリング・ノア』のチャンピオン。対する鈴木選手はフリーランスで団体枠に縛られず戦いの場を求め渡り歩く「凄腕の浪人」といったスタンス。共にプロレス界でトップの実力を誇る素晴らしい選手ですが、それまでは道を交えることはありませんでした。双方の「対戦してみたい」という要望により遂に実現した黄金カードです。

形としては、言わば鈴木選手が『ノア』に「道場破り」に出向いていきなり最高師範格(団体チャンピオン)に挑戦する、という構図ですから、『ノア』主催のこの試合は当然杉浦選手がベビーフェイス(正義役)で鈴木選手がヒール(悪役)の立ち位置となりました。
試合は、激闘の末に鈴木選手が勝利。
会場に駆けつけた『ノア』ファンにとっては「バッド・エンド」(プロレスでは、悪役が勝利して興行が終わるパターンを、「ハッピーエンド」の逆の意としてそう表現します)です。事件はそんな試合直後に起こりました。
バッドエンドの会場の重い空気の中で、鈴木選手がおもむろにマイクをとり、対戦相手の杉浦選手に痛烈な言葉を投げかけたのです。
そのシーン(音声のみ)をYou Tubeにupしてくださっているかたがいらっしゃいますのでご紹介します(「何か興味の無い話が続いてるな~」とお思いでしょうが、もう少し我慢して、是非
こちらをご視聴ください)。

どうでしたか?

少し補足しますと。
2人の対戦実現の直前、やはり時期があの大震災直後だっただけに、ベビーフェイスのチャンピオンである杉浦選手は「強敵を迎え撃つにあたって、被災地のプロレスファンに向けてメッセージを」といった感じの取材も受けることになるわけです。
そこで杉浦選手は「プロレスで元気を与える、勇気づける、なんてとても言えない(言える状況ではない)。そんなのは自己満足」といったことを語ったのでした。
ご紹介した音声は、それを雑誌記事で読んだ鈴木選手が烈火のごとく怒った、という流れを受けての、試合後のシーンなのです。

僕は、雑誌に載った杉浦選手の言葉は正直な気持ちの吐露だったと思います。
だって、特にあの時期は日本じゅうみんなが多かれ少なかれ杉浦選手と同じようなことを考えて悩み、自問自答し、自分に突きつけていたのですから。
それに杉浦選手は当時ベビーフェイスとは言っても、寡黙なコワモテで「不機嫌モード全開」のファイトスタイルが身上(それが彼の魅力なのです)。気の効いたリップサービスは苦手な選手です。
それは鈴木選手も充分承知している・・・その上で「お前はチャンピオンだろうが!」と一喝しました。

被災地で食べ物がない、水に困っている・・・それは分かっているから、日本じゅうみんなが「何とかしよう」と頑張っている。プロレスの王者(チャンピオン)には他の役割がある。被災地のファンの「心」を助けるのが強いチャンピオンだろう、と鈴木選手は訴えたのでした。
あのデリケートな時期にこれほどの感性を持ち、激情にまかせたとは言えしっかりと言葉にした鈴木選手は本当に凄い・・・5年が経ち、戦いを通じて志を通わせていった杉浦、鈴木両選手は今、手を組んで『ノア』マットで暴れまわっています(今年に入って杉浦選手がヒールターンし、鈴木選手のチームに合流)。


ずいぶん長い寄り道となりましたが・・・要は「強い王者(チャンピオン)の特別な役割」について、僕はお話ししたかったのです。

今、「歌」の王者を日本で探すとしたら、それはジュリーだと僕は思っています。
歌唱力が一番、ということではありません。
一番売れている、ということでも当然ありません。
圧倒的な実力、実績、志、存在感を持ち、休むことなく活動を続ける「真に強い王者」ということです。

ジュリーは自分のことを「強い」とも「王者」であるとも考えていないと思います。
でも、今ジュリーが自分の気持ちに正直に歌い続けていることが、そのまま「真に強い王者」の宿命のように僕には思えてなりません。
2014年の南相馬公演に参加された先輩の「今日ほど”勝手にしやがれ”という曲が誇らしく思えたことはありません」というお言葉が今も強く僕の胸に残っています。形は違えど、そんなに単純な話ではないと分かってはいるけれど・・・それは正に鈴木選手の言葉にあった「俺はお前達の声のおかげで立ち上がることができた。今度は俺の声でお前達立ち上がれ!」をジュリーが体現したシーンだったのかなぁ、と。

南相馬と言えば、当地公演の翌年リリースとなった「泣きべそなブラッド・ムーン」の歌詞中に「鬱憤、後悔、懺悔」というフレーズが登場しますよね。
この曲については僕の歌詞解釈も二転三転しましたが、『こっちの水苦いぞ』ツアーを体感し、「怒り、憤り、嘆き」の歌だと結論づけました。「鬱憤、後悔、懺悔」は、大切な人の命を失った被災者の気持ちをジュリーが懸命に想像し、全力で慮って編み出された言葉だったのではないか、と今は考えています。
その「後悔」「懺悔」のフレーズが今年はこの「福幸よ」で再び使われています。「泣きべそなブラッド・ムーン」同様に、被災地の方々の独白として。
どうしようもない、やるせない、そんな思いは変わらずそこにあるのだけれど

後悔に懺悔 忘れるもんか
Am       Bm  Cm        D

この「忘れるもんか」が、今年の「福幸よ」で見せたジュリーの新たな力強さ。
「あの震災で大切な人の命を失った、一番辛い思いを持ち続ける人達の気持ちを何とか想像してみる」というジュリーの作詞アプローチは、2012年の「恨まないよ」、2013年の「Deep Love」、2014年の「三年想いよ」、2015年の「泣きべそなブラッド・ムーン」を経て、今年「福幸よ」に辿り着いたのではないでしょうか。
そして僕は、この曲はジュリーが柴山さんのメロディーに力を得て詞を書いたに違いない、と確信します。

では、僕がどうしてそこまで言い切れるのか・・・今回「福幸よ」で魅せてくれた柴山さんの作曲手法について、ここから詳しく紐解いていきましょう。

3291878100


採譜自体にさほど時間はかかりませんでしたが、「柴山さん、ここまで徹底しているのか!」と驚きの連続でした。


『PRAY FOR EAST JAPAN』をテーマに作られた柴山さんの名曲群の中でも、柴山さんの人柄が最も色濃く反映された作曲作品だと思います。
当たり前のことですが、細部に至るまで一切の手抜きはありません。今年の柴山さんの「祈り」が何処にあったのかを、様々な箇所から読み解くことができるロック・ナンバーです。

思えば昨年、柴山さんは「涙まみれFIRE FIGHTER」の徹底した短調の構成に「ただただ悲しい、苦しい」という思いを託しました。
今年は一転
「それでも顔を上げよう。元気出そう」
そんな思いが込められていると感じます。言葉にすると安っぽいようですが、それは採譜作業をし楽曲構成を紐解くことで導き出した、僕の素直な感想です。

「元気出そう」・・・でも顔を上げようとする時、前を向こうとする時の逡巡や戸惑い、躓きまでをも柴山さんはコードとメロディーで表現しています。「何とか気持ちを奮い起こして立ち上がろう」・・・そんな曲だと思うんです。
全体としては明快なト長調。でもイントロと1番直後の間奏、そしてアウトロに配されたキメのギター・リフ部についてはホ短調です。

最初にこのリフを聴いた瞬間、僕は「どん底」のそれを連想しました。「どん底」はまだ記事お題にしていない曲ですので、この場でちょっとイントロのコード進行をおさらいしておきますと


Donzoko2

「B♭m→G♭dim(→F7)」

ちなみにこの添付資料のスコアなんですが・・・今年に入って『A WONDERFUL TIME.』のエレクトーン・スコアの件をきっかけにお友達になった同い年の男性ジュリーファンの方が、ジュリーの貴重なスコアを他にいくつもお持ちで、何とこの「どん底」のバンドスコア(そんなものがこの世に存在していたとは!)まで見せて頂くことができたのです。
バンドスコアというのは音源で鳴っているすべての楽器の音が採譜されていますから、アレンジフェチの僕にとっては最も萌えるスコア形態です。

この「どん底」のスコアを新譜リリース直前に勉強していなければ、僕は今回の「福幸よ」のイントロを

「Em→C→B7」

と採譜してしまっていたでしょう。でもこれだと「しっかりし過ぎて」いる・・・正しくは「どん底」に倣って

「Em→Cdim(→B7)」

となります。
代理コードのディミニッシュが、何やら「心の不穏」を象徴しているようなギター・リフ部です。

リフ部4回し目の「C→D」から歌メロにさしかかると、ト長調の全容が見えてきます。
エイト・ビートの長調であるからには「明るい曲」と言って間違いではないのですが、「明るさ」を「前を向く」意と捉えた場合、「福幸よ」では「何度も何度も立ち止まり、そこからまた歩き出す」ような進行が特徴的。この「何度も立ち止まる」箇所が柴山さんの投げてきた(もちろん良い意味での)変化球です。

普通の作りならば、ト長調の曲ですとコードはトニックが「G」で、サブ・ドミナントの「C」とドミナントの「D」が進行の基本となります。
ところが柴山さんは、歌メロ部の「C」であるべき箇所を徹底的に「Cm」に変換させています。
その場合、メロディーも微妙に変化します。例えばAメロ冒頭であれば

おもいでが ち かすぎて ♪
シシシドシ シ♭ラソミ レ(←ト長調王道のメロ)
シシシドシ シ♭ラソミ♭レ(←柴山さんのメロ)

エンディング・リフレイン部ですと

ふっこうよ あゆめ ♪
ミ  ミ ミ レドレ(←ト長調王道のメロ)
ミ♭ミ♭ミ♭レドレ(←柴山さんのメロ)

このように、柴山さんは本来「C」であるべき箇所を悉く「Cm」に置き換え、「ミ」の音を「ミ♭」に変換、「躓く」「立ち止まる」といったニュアンスを出しています。
何度も立ち止まりながらもその度に思い直し意を決して顔を上げる・・・もちろん「復興」を実感し今はしっかり前を向いて力強く足を踏み出せている被災地の方々も多くいらっしゃるでしょう。でも、復興だ復興だと言われている中の「被災地の現状」を考えれば、そうではない方々もまた数多くいらっしゃる。
柴山さんが(ジュリーの詞が載る前の段階から)この曲に込めたのは、そんな方々の「困難な一歩一歩」だったのではないでしょうか。「忘れるなんてできない。背負っていくんだ」という一歩一歩です。

エンディングのリフレイン部、「Cm→G」で畳みかけるマーチング風の進行などはその最たるもの。

福幸よ歩め 福幸よ歩け
Cm        G   Cm        G

福幸よ福幸 よ  歩め歩 け ♪
Cm        G  E7    Am  Cm D

最後に用意されたこの大サビは、この曲を「辛い中にも前向き」な構成にしたかった柴山さんの意図をハッキリと感じさせてくれます。それはジュリーの詞とガッチリ噛みあって、迷い、戸惑いの部分含めて詞曲が乖離する箇所などまったくありません!

また、「普通ならこうなるのに敢えてそうはしない」という柴山さんの「込めた思い」故の変則部は、コード以外にメロディーそのものにも見ることができます。
1番、2番の最後の着地部がそれです。「普通」のパターンと柴山さんが作ったパターンの違いを2番の詞に音階をつけて表記してみますと

ひがんにとどけよ たましいよ ♪
レレシレ ミシラソ  ラシラソソ(←王道のメロ)

レレシレ ミシラソ  ラシラソレ(←柴山さんのメロ)


語尾の音がポ~ンと高い「レ」に跳ね上がっているんです。ここは普通は「ソ」です。その方が着地としては整っていますが、多少変則でもそれを高い「レ」の音に引き上げることで、「何度もやり直す」「まだまだ進んでいく途上」の感覚がメロディーに組み込まれます。
ジュリーやバンドメンバーにも当然このメロディーの意図するところは阿吽に伝わっていたはずで、「ここ、良いよね」とレコーディングしながら皆で話したりしたのかなぁ、と妄想しています。


それに、この曲は演奏も凄いんですよ。
その意味で、僕が全国ツアーでのこの曲で注目するのは、「柴山さん、泰輝さん、依知川さんの”ソロ”を照明さんがフォローする演出がされるか否か」です。
そう、3人のパートの見せ場が代わる代わる繰り出される構成が「福幸よ」アレンジ最大の肝。これは、気をつけて音源を聴けばみなさまも必ず聴き取れます。

ただ、「ソロ」とは言ってもそれぞれが僅か1小節なのです(だから凄い、ということなんですけど)。しかもほとんど「順不同」ですからね・・・これをピンスポット当てることになったら、照明さんは相当大変ですよ~。
そう言えば、2010年『秋の大運動会~涙色の空』ツアー初日の渋谷公演で、「明日」で繰り出される2小節交代の柴山さんと下山さんのギター・ソロ・リレーで照明さんが完全に逆逆になっちゃってたことがあったなぁ、なんて懐かしく思い出したりしています。
難易度は今年の「福幸よ」の方が数倍上ですが・・・さてどうなるでしょうか。
もし途中で迷ってしまったら、GRACE姉さんにスポット当てちゃうのも手かもしれません。3人の”ソロ”に隠れていますが、ここはGRACE姉さんも凄まじい入魂のビートで攻めまくっていますからね。


そうそう、個人的にこの曲の音作りで謎が解けていないのは、ギター・リフ部などで何やら「ゴ~ッ」という効果音のような音が鳴っている点。
ベースにフランジャーをかけ、ギターで言うところの「ジェット・サウンド」を応用しているのか、それとも演奏トラック全体に「後がけ」のミックスを施しているのか。
謎を解くためには、夏からのツアーで昨年の大宮公演のような「コンソール真後ろの席」を引き当ててミキサーさんの手元をチェックするしかないんですけど、さてそううまく事が運びますかどうか。
ちなみに昨年そんな貴重な席を共に体感した相方のYOKO君は、すっかり「大宮ソニックのミキサーのお兄さん」にゾッコンの様子。先日音楽仲間で集まった飲み会でも「短髪の真面目そうな彼」と言って、昨年の大宮公演のミキシングを絶賛していました。


最後に。
「心色」「涙色」「悲鳴色」「絶望色」・・・如何許りか、と僕も今回必死に考えました。不安な生活、悲しみの日常、いかばかりなのでしょう・・・。
なんとか4つの色を想像し、大切な人の命を失った人達の気持ちを想像しようとする時、人生経験の貧困な僕はたったひとつの「痛み」に拠り所を求めるしかなく・・・それは病に倒れた母親との別れの体験です。
余命宣告を受けた母は、医者である叔母の勧めなどもあり鹿児島市内の有名な緩和ケア病棟に入ることがほぼ決まっていました。でも土壇場になって母は、自宅のある隼人町から電車で50分かかる市内の病院に入ることを拒み、自らの意思で町内の名もない小さな病院で過ごすことを決断しました。
本人の口から聞いたことはありませんが、理由はハッキリ分かります。その病院から歩いて数分の場所に、当時の父親の職場があったからです。それが母にとって何より「心の平穏」だったということなのです。

被災地の悲しみを、自分のこととして考える・・・それは非・被災者にとってとてつもなく難しいこと。
「俺達の気持ちがお前らに分かってたまるか!」と言われることも覚悟して、それでも僕らはその努力しなければいけない、と思っています。

今、失われた命の重さを背負い続ける被災者の方々からすれば、「復興」とはただただ虚しいばかりの漢字2文字なのでしょう。
それでも彼等彼女等が僅かでも、「心の平穏」を感じることがあり前を向く気力が湧く瞬間があるとすれば・・・ジュリーはそう思いそれを祈ればこそ、単に「復興」なんて漢字2文字をそのまま使うわけにはいかなかったのではないでしょうか。

「福幸」という漢字の当て方は、自然発生的な福島のスローガンとして県内或いは仮設住宅のある街、避難先などでよく使われているのだそうです。
僕はそれも今まで知らずにいました。

ジュリーは懸命に考えて考えて、「福幸よ」の漢字使いをタイトルとすることを決めたのでしょう。
この曲を聴いて、「ジュリー、よくぞ言ってくれた。自分も元気出さなきゃなぁ」と思う人が被災地に僅かでもいてくれたら・・・と願わずにはいられません。
ジュリーの「語呂合わせ」はそれほど真剣です。
「やっぱり、この曲のタイトルが今回の収録曲の中で一番ジュリーらしいかなぁ」
と、今また僕は発売前の感覚に舞い戻っています。

ジュリーの祈りと柴山さんの祈りが奇跡のように噛み合った、本当に素敵な新曲。
僕にはもう、夏からのステージ・・・「福幸よ」
の最後のリフレイン部で、ジュリーが拳を握りしめながらビートに乗って歌う様子、柴山さんが笑顔で入魂のダウン・ピッキングでリズムを刻む様子が、見えています。
思い返せば、「どれだけハードでシビアなセットリストになっても、柴山さんがステージにいれば明るさは失われないはず・・・」と、2012年のツアーからずっとそんなふうに思って、安心して初日を迎えていたような気がします。今年の「福幸よ」は、改めてんなことを再確認させてくれるような曲でした。
最初に「柴山さんの人柄が反映されたような曲」と書いたのは、そういうことです。

LIVEでは、皆が縦ノリのビートに乗って、笑顔で楽しんでよい曲だと僕は思っていますよ。
それが、この曲に「福幸」の2文字を当てたジュリーに応えることにもなるのではないでしょうか・・・。


それでは、次回のお題は「犀か象」です。
「”犀か象”・・・あぁ、これも”再稼働”の語呂合わせのタイトルだね」・・・と、僕はそんな解釈で片づけるだけの「大人」でありたくない、と今思っています。


「犀」や「象」なんて動物達が歌詞に登場する面白そうな曲・・・これは一体何を歌っているんだ?

子供の頃、少年の頃の僕はそういう感性と理解欲を持っていたはず。そこから何か真実を得ようと思っていたはず。好きなアーティストの新曲を聴く、って本来はそういうことですよね。
面白おかしく言葉を料理して、そこに社会的なメッセージを込める作詞手法は忌野清志郎さんの得意技でしたが、ジュリーも負けてはいませんよ。

更新までには、またもお時間を頂くことになります。
これから日々全力で下書きに取り組みますが、週末には息抜きに桜も見に行かせてくださいね(汗)。

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2016年3月23日 (水)

沢田研二 「un democratic love」

from『un democratic love』、2016

Undemocraticlove

1. un democratic love
2. 福幸よ
3. 犀か象
4. Welcome to Hiroshima
    ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より


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すっかり暖かくなりましたね。
(でも、明日からまたしばらく寒いらしい・・・)
久々の更新です。今回から、2016年のジュリーの新譜『un democratic love』収録全4曲をお題に、考察記事を更新していくことになります。

3月11日のリリースから、もう2週間近くが経ちました。
今年も変わらず「誇大でない現実を歌う」ジュリー。
毎日聴いています。次々に新しい発見があり、気づきがあり・・・今年も色々と考えさせられました。

音的なことで言えば、昨年までは「う~ん、このギターは柴山さんか下山さんか・・・」と悩みまくることも大きな楽しみのひとつでしたが今年はそれがなくて、最初は寂しい気持ちもありました。
でも、すべてのギター・トラックが柴山さんの演奏と踏まえた上で、柴山さんが新たに採り入れてきた音作りについてあれこれ想像するのがまた楽しくなってきて。
そのあたりは、おもに4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の記事で散々語り倒したいと思っています。

さて、例年通り
「一応アマゾンさんに予約しておいて、発売日に届かなかったら街のお店に直接買いに行き、遅れて届けられたもう1枚はYOKO君に引き取ってもらう」
作戦だったこの新譜。今年も池袋のタワー・レコードさんに出かける気満々でいたのですが、意外や発売日前日の10日夜、アマゾンさんから「発送作業完了しました」のメールが届きました。
アマゾンさんの予約で発売日にCDが届いたのは、『3月8日の雲』以来5年目にして初めてのこと(2013年の『Pray』の時は自分のミスもあったんだけど)。
やっぱり気持ちが良いものです。来年以降もこの感じで頼みますよ、アマゾンさん!

『PRAY FOR EAST JAPAN』と『LOVE AND PEACE』。
根幹のテーマは変わらず重い・・・でも僕の受け止め方は、過去4作とはまるで違ったものでした。
おそらくかなりの少数派であることを自覚した上で僕の初聴時の気持ちを正直に書くと

「スカ~ッとした!」
「元気が出る!」
「勇気が沸く!」

というもの。
11日夜、仕事から帰宅するとCDが無事届いていて、夕食の前に歌詞カードを読みながらひとまず1度聴きました。これまでの4作を同じ状況で聴いたとすれば、テーマの重さ、直球の歌詞に感動と同時に大きなダメージを受け、聴いた直後に食事をとることなどまずできなかったでしょう。
ところが今回は・・・食欲が止まらない!
カミさんが呆れ果てるくらいの勢いでバリバリご飯を食べました。本当に不謹慎だとは思うけれど、自分自身で持てあますほどのエネルギーが沸き出ていました。
それが僕の『un democratic love』第1の感想です。

ジュリーの歌詞について確実に伝わるのは
「もう堪忍ならん。言うたる!」
というコンセプト。
さらに、僕はジャケット・デザインからもそれを感じました。覚えておられるかたもいらっしゃるかな・・・昨年の『こっちの水苦いぞ』が赤色になった時、僕はそれを「給水停止予告」の紙に例えました。学生時代、貧乏なくせにバンド活動にうつつを抜かしていた僕は、料金を滞納の末に家の水道を止められた経験があります。
まず「○日までにお支払いください。さもないと給水停止しますよ」という内容が書かれた青い紙が届きます。払わずにいるとその後同じ内容の黄色の紙が来て、最終的には赤色の紙が「最後通告」として届きます。「もう待てません。止めますよ」と。
僕はその赤色の警告を、昨年の『こっちの水苦いぞ』のジャケットに重ねたわけです。
ただ肝心なのは、その赤色の紙にも「最終の支払い締切日」というのは記載されていて、その日までに支払いさえすれば水道が止まることはないんです。
ですから『こっちの水苦いぞ』の時点でジュリーには「まだ防げる」「まだ助かる」という感覚もあったように僕は感じました。
しかし、今年のシルバーは・・・。
みなさまはそうそう経験は無いかと思いますが、赤色の紙も無視して支払締切日を過ぎるといよいよ本当に水道が止まります。そうするとキッチンのステンレスが、正に『un democratic love』のジャケットのような鈍い銀色に変わり果てるんですよ。
これをして僕は今回のジャケットを「安保法制強行採決」後の断水の色として受け止めたのです。これは個人的な「思い込み」の感覚ではありましたけど。

そこで実際に歌を聴いたら、「いや、まだだ。まだ間に合う!」という気持ちに変わりました。


「祈るだけでなく考えなきゃダメだ、と言うけれど・・・考えてないとでも思ってるの?」
ジュリーが今年のお正月LIVE『Barbe argentée』でのMCで語った言葉です。
セットリスト大トリの「耒タルベキ素敵」のエンディング・リフレインでは、鬼気迫る声で「ピ~~ス!」と絶叫したジュリー・・・ではジュリーはどんなふうに「考えて」いるのか。それがこの新譜に集約されていました。
詞の内容は重いです。重いのだけれど、少数派を自覚した上で、不謹慎を承知の上で僕の気持ちを正直に言うと、『3月8日の雲』以降の新譜で初めての「爽快!」。「重さ」からくるダメージが一切無かったんです。
「ジュリーはこんなふうに考えていたんだ。僕もそう思う!」という喜びがありました。
以前「我が窮状」の記事で「ジュリーの作詞作品で、ジュリーの言いたいことがよく分かる、なんて曲はこの1曲だけ」と書きましたが、今回の新譜から、タイトルチューンの「un democratic love」が新たにそこに加わりました。

ただ、自分の気持ちがハッキリしている、伝えたいことがハッキリしていればいるほど、それを言葉や文章にするのは途方もなく難しいのだ、ということも今回実感させられました。
下書きを書いては消し書いては消し、を繰り返し、思っていた以上に時間がかかってしまいました。

「祈り」「嘆き」は変わらない中で、僕は今年の新譜に「前進」を感じます。いや、実はそれは前作『こっちの水苦いぞ』から既にありました。先の先を走り続けているジュリーに、僕が追いつけなかっただけ。
「前進」・・・単に「前に進む」以外に重要なのは、「この先」を見据えている、ということ(そのために、「誇大でない今の現実を知る」ことが大切なのですが)。

誤解を恐れずに言うなら、今回ジュリーの詞は以前にも増して「偏って」います。
もし某大臣がこのCDを聴いたとしたら、「政治的公平性に欠けるので販売中止命令を」なんて言い出しても不思議ではありません。
それは冗談として(今のところは、ですが)。
どんな考え方であるにせよ、音楽作品はもとよりメディアについてもそれぞれで「偏って」いるのが当然の姿だと僕は思っています。これが軒を並べて翼賛になることが怖いのであって、権力を支持し音頭をとろうとするメディアと、権力に疑問を抱き逐一チェックし反論するメディアが共存している状況自体は健全だ、と。
最悪なのは、権力に脅かされてメディアの上層部がビビることです。志ある人が現場で頑張っているなら、そこは上の者が毅然と「いやいや、何を言われてもこれまで通りやりますよ」と態度を表明すべきでしょう。

本当に「たくさんの違う考え」がハッキリ分かれて発信されるようになった時代。
僕らはそんな幾多のメディアの中から、漠然と情報を「受ける」のではなく、自分で考えて「選び身につける」ことをしなければいけない・・・もう待ったなしでそんな時代が来ていると感じます。
ジュリーが「みなさんそれぞれが、自分のこととして考える時が来ましたね」と話してくれたのは昨年のお正月のことでしたが、それはそういうことなんだろうなぁと。
その一方で、「自分と違う考え」を知ることもまた大切です。そこから見えてくるものは多いのです。

僕は、自分のことを「流されやすい」タイプだと自覚しているので、新聞については複数のものを可能な限り多く読むように心がけています。
あの震災から5年。
その間も各新聞の報道姿勢はそれぞれが加速度をつけてかけ離れてゆき(或いは沈黙を良しとし)、選択肢も多くて、何が真実であるのかすら分からない、という状況に陥るかたも多いのではないでしょうか。
例えば、昨年9月に参議院で強行採決され、遂に今月29日に施行される安保法制が、まず最初に衆議院で採決された翌日。各大手新聞の見出しは

読売「日本の平和確保に重要な前進」
朝日「戦後の歩み 覆す暴挙」
毎日「国民は納得していない」
産経「日本の守り向上へ前進だ」

ご覧の通りの真っ2つ。
「法案賛成、推進」の立場をとる読売、産経の2紙がいずれも「前進」という言葉を使っています。
さきほど僕は今回のジュリーの新譜に「前進」を感じる、「前進」とは「この先」を見据えた言葉である、と書きました。ところが、物事の考え方が違えば「前進」に込められた意味も180度違ってきます。

法案賛成の立場から「前進」を掲げて見据える「この先」・・・採決、のちの成立を機に先々押し進めていくべきことがある、という両紙の考えを暗に示しています。
それは9条改憲であり、ゆくゆくは核武装でしょう。

「え、核武装はさすがに飛躍では」と思われますか?
ほんの数年前までは、「核武装」なんて言葉にするだけで問題になっていたはずが、今では与党若手議員の政策理念として普通に語られるようになりました。
「戦争にいきたくない、などという考えは身勝手」と言い放った直後に、しょうもない詐欺話で(いったんは)離党した議員さんなどもその一人です。
そもそもほんの数年前までは、反対にしろ賛成にしろ今の安保法制のような考え方が普通に国会で議論され採決されるとは思いもしなかった国民がほとんど。
同様に、愛すべきこの国が「核武装による国際的孤立」に陥るという悪夢は、もう10数年先にも現実化の可能性をはらんでいると見るべきです。

今度の参議院選挙(或いは衆参W選)は、相反する「前進」と「前進」のぶつかり合いとなります。
僕には、自民党の政策すべてがダメだ、というふうにはとても考えられません。しかし、「安保法制強行採決」「原発再稼働」「武器輸出推進」の3点が、まったく受け入れ難いのです。この3点を受け入れられないがために、今の僕は相当頑なになっているんだろうなぁ、と思う・・・その自覚はあります。
「共産党に入れるくらいならむしろ自民党」というタイプだった僕をして、この数年は「とにかく自公以外」に転換してしまったほどです。

今、ジュリーの新譜の歌詞に深く共感します。
でもこれだけは先に書いておきたい・・・音楽って、ロックって、アーティストの物事の考え方への共感、心酔がすべて、なんてことは決してないです。

僕の場合は、音楽のみならずジュリーの社会的な考え方を熱烈支持、というスタンスでこれから記事を書くわけですが、多くのファンの中には、ジュリーを愛するが故に歌詞を読んで怒ったり、落ち込んだり、というかたもいらっしゃるでしょう。
僕とは正反対の考え方ですが、「安保関連法案に賛成、原発再稼働に賛成、それでもDYNAMITEなんぞより全然ジュリーのことが好きじゃ!」というかたはきっと多くいらっしゃる。自然なことだ、と思ってます。
この新譜を聴いて怒るファンは気骨のある人だろうし、落ち込むファンは優しい感性の持ち主だと思う・・・変にスカしてる世間より、それで全然いいじゃない!と。

そういう作品が、今年も届けられたということ。


中でもいきなりのド直球が1曲目、タイトルチューンでもある「un democratic love」。
今日はこの、個人的には今回の4曲の中で圧倒的に好きな曲がお題です。
違うご意見、ご批判あるかとは思いますが、今日はこの名曲を心から「好き」という気持ちに正直に、僕の感じたこと、考えたことを書かせて頂きます。
よろしくお願い申し上げます。


タイトルに「LOVE」とある通り、愛の歌だと思います。
「本当の愛」の歌。

今、相反する「前進」はすなわち相反する「愛国」。
歌い手である主人公は、「君」の偏狭な「愛」に言い寄られ苦しみの中にありながら
「自分も君と同じ愛を持っているのに、何故僕と君の愛の形はそんなに違うんだ」
と「君」の愛を拒絶し、自らの愛の在り処を隠しだてなく吐露しています。

ジュリーがその心を投影し歌い演じたこの曲の主人公である「語り手」は、「日本」という国そのもの。僕はそう考えます。強引で偏狭な愛を上から押しつけてくる「君」を拒絶する・・・この歌は「日本国の独白」です。
また、主人公に言い寄る「君」は現政権・・・特にそのトップである安倍さんを指す、と解釈します。これは、「Pray~神の与え賜いし」に登場する「かの人」と同じくらいに明快だと僕は思っています。

本当は双方同じであるはずの「国を愛し、誇りとする心」の、あまりに隔たりある現状。

祈りますとも   君の国のため
   F7        B♭m        A♭    D♭

君と同じ以上に   自由が好きだよ ♪
      C7     Fm  B♭7    E♭m7      A♭sus4

「君がどんなふうに僕をたぶらかそうと、僕は平和への祈りを止めないよ」・・・それが、ジュリーの「自由」。
そう、ジュリーが歌詞中に織り込んだキーワードは2つ・・・「自由」と「民主主義」です。

現政権は「自由民主党」って言うくらいだから、そりゃあ「自由」も「民主主義」も大好きなんでしょう。
でも。

「自由ってなんだ?」
「民主主義ってなんだ?」
「愛ってなんだ?」
「僕のそれとはずいぶん違うじゃないか?」

主人公である日本国は、「君」にそう問いかけます。

もしかしたら君は   本当の愛知らない
D♭      A♭(onC)    B♭m      B♭m(onA♭)

怒らないで君は  勝手だから ♪
G♭       D♭(onF)   E♭7   A♭

「怒らないで」・・・これは、「ブチキレ答弁ばかりしないで、話を聞いてほしい」ということでしょう。

いつもなし崩しだ  会話にならない
D♭      A♭(onC)  B♭    B♭m(onA♭)

聴く耳持たなきゃ 大人    だよね ♪
G♭   D♭              E♭m7   A♭  D♭

この「大人」というのも重要なキーワードのひとつ。
それを読み解くためには、「大人」の対義語を考えればよいでしょう。「子供達」「若者達」です。
子供達の「平和への誓い」の言葉も、「路上から国会へ」を実現させた若者の熱く切実な懇願も、現政権は聴く耳持たず。それがこの歌詞中の「大人」。
「子供達」については4曲目「Welcome to Hiroshima ~平成26年(2014年)8月6日『平和への誓い』より」の記事で語ることになりますので、ここでは「若者達」のことを書いておきましょう。

「un democratic love」の詞については、聴き手が『民主主義ってなんだ?』『民主主義ってこれだ!』という2冊の本を読んでいるかどうかだけでも、相当受け止め方が違ってくると思います。
ジュリーも読んだのかもしれないなぁ、とも。
この2冊は実は批判する人も多いです。良くも悪くも突かれる隙が多いんだろう、とは思います。世の評価はこれまた真っ2つと言って良いでしょう。

僕個人としては今、「自由と民主主義のための学生緊急行動」を掲げ登場した若者達にZOKKONの状態。何より「パワーレス・パワー」が頼もしい。
でも彼等が主役に躍り出た当初から、先述したような「隙の多さ」・・・そのいかにも若者らしい「危なっかしさ」も確かに目についていて、そうした面がマイナスになりはしないか、と心配したものでした。
昨年のジュリーの全国ツアー『こっちの水苦いぞ』で歌われた「限 界 臨 界」を聴き、「あぁ、”未熟”というのは褒め言葉なんだ。素晴らしいことなんだ」と思いあたり、その心配はキレイに一掃されることに。
ただそれは僕が勝手にそう解釈しただけであって、さてジュリーはあの若者達をどう思っているんだろう?というのは、昨年からずっと気になっていたことでした。

今年のお正月LIVE『Barbe argentée』初日のMCで、ジュリーは少しだけ彼等に触れてくれました。
「期待するところはあるけれども、こんなもんや」
と、右手の親指とひとさし指で小さな隙間を作って。
ジュリーは続けて
「(それよりも)考えても考えてもどうにもならなくて、とにかく毎日の仕事を精一杯やるしかない・・・そんな人達がこの国を支え形作っているんだと思う。自分もそんな人達の中の1人でありたい」
と言ったわけですけど、ジュリーから「期待している」という言葉を引き出しただけであの若者達は素晴らしいと僕は思いましたし、何よりジュリーはそのMCから引き続いてのセットリストで、まず9条への思いを託した「我が窮状」を歌い、原発事故をコンセプトとした「F.A.P.P」を歌い、そして「君達がボスを選べよ」と、あの若者達の登場を予言したような2010年にリリースの「若者よ」を歌いました。さらに続けて歌われたのが「限 界 臨 界」。しかも、ジュリーの声域的にはまったくキー移動の必要がない「若者よ」は、「限 界 臨 界」とキーを揃えたロ長調で歌われました。
これがジュリーのメッセージでなくて何でしょう。

いつの時代も、若者の才覚はいともたやすく大人の欺瞞を鋭く見抜きます。
しかし僕自身はそんな才覚を持ち得ていたであろう短い貴重な時期を、ただ漫然と過ごしてきてしまいました。おそらく僕と同世代の、多くの「今の大人」達もそうだったかもしれません。
その結果が今のこの国の状況だとすれば、若い人達に「あなたはどの面下げてこんな文章を書いてるんだ」と言われたとしても、返す言葉はありません。

そして、70年前「もう2度と戦争はすまい」と誓ったこの国に、いつまた「忌まわしい時代」に遡ろうとする暴君が現れる日が来るか分かりません。
そんな暴君は実はこれまでにも何人か現れていたのかもしれない・・・その暴君の思惑を、僕らの見えないところでずっと防ぎ続けてきたのが憲法第9条である、というのが僕の考えです。

安倍さんは、どうやら暴君の器(と言うのもおかしな表現ですが)ではないように見えます。もちろん彼のいわゆる「お友達」や「応援団」の人達は問題外。
真の暴君とは、指導力と魅力(と錯覚してしまうようなもの)を持ち、国民的人気を得る颯爽としたルックスの人でしょう。そんな人に「その場しのぎの改憲なんぞは、アメリカに”ちょっとオマエ行ってこい”と指図されるきっかけを自ら作っているようなものだ」と、改憲すら飛び越えて「自主憲法制定」を掲げられたら、僕レベルの思慮の持ち主では「なるほど」ととりこまれてしまうことがあるかもしれない・・・僕は本当はそれが一番怖い。

ジュリーはこの曲で安倍さんのことを(というのは僕の個人的解釈ですけど)「強権」「冷酷」「不遜」「脆弱」「狡猾」「ダダっ子」等々、散々にブッた斬っています。
でも、実は歌詞中で一番痛烈なのは

放射能みたいに 気味わ    るい よ ♪
G♭    D♭                E♭m7  A♭7 D♭

この表現だと思います。
おそらく、真の暴君にはこの感覚が(最初は)無い・・・それだけに怖い、と思うのです。
安倍さんは今、鵠志のつもりで束の間の権力に酔い、将来現れるかもしれないそんな暴君のためにそれとは気づかずせっせと下ごしらえをさせられているだけのように見えて仕方がありません。
正に「君の愛は軽率」「君の愛は簡単」ですよ。

真の暴君の姿は、今はまだ隠れて見えません。
ひょっとしたら、「今はアイツを矢面に立たせておけば好都合」と考え腹の底では安倍さんを馬鹿にしている与党内の政治家達の中に、もう「彼」は目に見えて存在しているかもしれませんが、僕には分かりません。
だから、今なんとか安倍さんに考え直してもらうしかない。今がギリギリ間に合う時だ・・・少なくとも、何かすり合わせることができる部分はたくさんあるはず。
あくまで個人としての思いですが、「un democratic love」を聴いて、僕はそんなことも考えたのです。

しかしながら、じゃあ「undemocratic love」が、僕のように考える人でないと好きになれない狭量な楽曲かと言うと、絶対にそんなことはありません。
この美しいメロディー、緻密な進行。近年のジュリー・バラードの中でも傑出した名曲、名演です。

ジュリーはこのバラードに痛烈な政権批判を盛り込みましたが、『PRAY FOR EAST JAPAN』のテーマで作曲に取り組んだ泰輝さんは最初の段階では「海」をイメージしていたのではないでしょうか。
理由は、イントロのピアノの進行が「マイアミ2017」を思わせるからです。泰輝さんがビリー・ジョエルのこの名曲を知らないはずがありませんからね。

イントロが広く美しい海のイメージなら、歌メロの間隙を縫って随所に挿し込まれるピアノのフレースには、荘厳な「人の魂」を感じます。泰輝さんの「祈り」でしょう。
そういう意味では、「un democratic love」でのジュリーと泰輝さんの「気」はピタリと合っています。

耳で聴いただけの段階では、メロディーはとても美しくて素直で澱みなくて、スラスラと採譜もできちゃうタイプの曲だろうなぁ、と思いました。しかし、いざ取り組んでみたら・・・とんでもなかった!
ジュリーの詞も凄いけれど、泰輝さんの作曲も本当に凄いんです。

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凡庸な僕にとっては、変ニ長調というだけで採譜が大変。ギターがメインの曲なら1カポのCでやるんですけど、この曲はピアノがメインですからねぇ・・・弾いてみたら凄まじい黒鍵の嵐でした。


2番直後の間奏部以外に調の変化は無いんですが、随所に挿し込まれたフックは、「あれっ、どうなってるの?」と何度も頭を悩ませてくれました。
Aメロはまず王道進行。
2番目の和音は、例え同じメロディーであってもギタリストの作曲だと「Fm7(onC)」で、ピアニストだと「A♭(onC)」になるケースが多いみたい。これは、両刀のポール・マッカートニーのいくつかの楽曲比較で学んでいたことです。
僕が特に痺れたのはその次の展開。

祈りますとも   君と国のため
   F7        B♭m       A♭     D♭

君と同じくらいに   自由が好きでも ♪
      C7   Fm    B♭7     E♭m7      A♭sus4

この「C7」を見つけるのにどれほど時間がかかったか(能力の問題ですが)。最初は理屈から考えて「Gm7-5」を当てたりしながら「ありゃ、全然違う?」みたいな。
今となっては「どう聴いてもこうしかないよね」と思うんですけど、マッサラな状態でCDに合わせて和音を探している過程では、本当に「う~ん」「いやぁ~」「ぐぅ~」と声が出ちゃうくらい悩みましてね・・・その呻き声をカミさんが不審がっていたほどです。

2番の後の転調が登場するギター・ソロ部は
「G♭maj7→Fm7→G♭m7→Badd9→
Amaj7→A♭m7→D♭→A♭」
と起こしてみたけど微妙に自信無し。
今年も大宮でYOKO君の採譜と突き合わせてから結論を出すことになるかなぁ。
でも、このソロ部も進行自体は泰輝さんの作曲段階から決まっていたと推測します。いかにもピアニスト、な流れですからね。

新曲4曲の中でバンドの演奏が一番「凄い!」と僕が感じているのは2曲目「福幸よ」ですが、その他の曲・・・もちろん「un democratic love」も素晴らしい名演です。
先述した泰輝さんのピアノはもちろん、やはり鮮烈なのはベースの存在。
ピアノ1本で導入するこの曲で、ドラムス、ギターに先んじて噛んでくるのが依知川さんのベース。運指で弦をすべる音の太さ、まるでストリングスが加わったかのような音圧でジュリーの声を包み、ヴォーカルの表情さえもその瞬間から変化させているようです。
リズム・アタックの基本はGRACE姉さんのキックとユニゾンで、間奏以降は重厚な8分音符の連打へと移行。終盤の畳みかけるようなジュリーのヴォーカルも、このベース・トラックあればこそでしょう。

柴山さんのソロは、得意のサスティンとディレイに加え「ガレージ感」を意識しています。そのパンキッシュな音作りに、ジュリーの詞を踏まえた上での柴山さんの楽曲解釈を感じます。

GRACE姉さんのドラムスには、最近のジュリー・ナンバーでは珍しくコンプレッサー系のエフェクトをセンドリターンさせているようです。
「押しつけられている愛」をどうにかしようと奮闘しているようにも聴こえ、これもまたジュリーの詞がこうでなければ生まれなかったアイデアではないでしょうか。
シンプルなエイト・ビートを淡々と叩き続けている中に、GRACE姉さんのこの曲のコンセプトへの「決意」も感じさせてくれます。

一方、今年の新譜では、下山さんがいなくなり依知川さんが入ったことで、単に楽器の違いだけでなくミックス処理も変わりました。ここ数年の鉄人バンドの作品に見られていた「ステージでの立ち位置通り」のトラック配置ではなくなったのです(柴山さんのサイド・ギター・パートのみ引き続き徹底されています)。
立ち位置通りとするなら依知川さんのベースを左に振らなければなりませんが、「ベースを片側のPANに振る」という手法は、基本的にもう40年以上前に姿を消しているんですよ(もちろん、『60年代回帰』をコンセプトとした作品で「敢えて」それをやる、という場合はあります。ジュリーで言うと『G. S. I LOVE YOU』がそうです)。

今回は、収録4曲で泰輝さんがピアノを弾くかオルガンを弾くか、或いはその両方を弾くかによって各演奏トラック配置が分かれます。
「un democratic love」の場合はピアノのみ。ピアノの一部のフレーズや、ドラムスのフィルなどが時折左寄りに振られていますが、基本左サイドは「空位」となっています。僕は下山さんのことを引きずっている感覚もまだあって、初めてこの曲を聴いた時には、1番が終わってドラムスとエレキギターが噛み込んできた瞬間、「あぁ、ここで左からアコギが聴こえてきたらどれほど・・・」と感傷的になったりもしましたが・・・。

最後に、正に「魂の」ヴォーカルについて。
初めて聴いた時は、「怒りにまかせた猛々しいヴォーカルのバラード」だと思いました。
ところが歌詞を咀嚼し何度も聴き返していくと、ピアノ1本で歌い始める出だしの箇所からもう、何かジワッと胸を温かくする感覚・・・「ジュリー、なんて優しい歌声なんだ!」と感じるようになっていきました。

これこそが、この国を本当に愛する人の「声」です。
僕はそう思います。

同時に、すごく「ロック」を感じるヴォーカルなんです。こんなふうにバラードを歌うジュリーの「囚われの無さ」に驚嘆します。
頑固な中に柔らかさがある・・・ジュリーが自ら作詞し歌うからこそ、「un democratic love」の詞曲はガッチリ噛みあい優れた楽曲として成立しています。
「この国がこんな状況になっているのに、他の名のあるロッカー達は何をやってる?」なんてことを生意気に書いたこともこれまで何度かあったけれど、よく考えたらそれは無理ってものですね。
実力、実績、経験、志、環境、勇気・・・そのすべてを持っている歌手でないとできることじゃない。
このジュリーのヴォーカルは、今の日本で唯一のもの。僕らは、そんな奇蹟のような歌に今タイムリーで触れているのです。

泰輝さんの作ったメロディーは、近作の中では下山さん作曲の「カガヤケイノチ」や柴山さん作曲の「Fridays Voice」に比するほどの音域の広さを擁します。
1番の歌詞で言うと、最低音は「勝手だから」の「だ」で、低い「シ♭」の音。最高音は「君の愛は強権」の「権」で、高い「ファ」の音となっています。
この音域、高低ともに今のジュリーが最も歌いやすい音の範囲にピッタリと収まっているのが凄い。キーは変ニ長調ですが、おそらく泰輝さんは最初、ハ長調かニ長調で作曲したのでしょう。それをレコーディングの段階で半音上げるか下げるかして、ジュリーが最も「魂を込められる」音域に移調したのではないでしょうか。

ヴォーカル最大の聴きどころはやはり最高音部。

君の愛は束縛    君の愛は強権 ♪
      D♭     E♭m7    F7            B♭m

高い「ファ」の音へ一瞬で駆け上がるジュリー。
気高いロック・ヴォーカルです。しかも、これほどの内容を歌っていながらにして、この自然体。
何故そんなことができるのか・・・それは偽りなく「自分の気持ち」だからでしょう。
「気持ちを込めて歌う、というのがどういうことなのかを思い知らされた」というのは、2010年リリースのジュリーwithザ・ワイルドワンズ「涙がこぼれちゃう」の歌入れに立ち会った時の吉田Qさんのお言葉ですが、どれほど才能があろうと、どれほど歌が上手かろうとなかなかできないことを、ジュリーは年を重ねるに連れさらに高みへ高みへと進化しながらやってのけます。

「強い国」?
「美しい国」?
この国で一番強くて美しいものを壊さないでくれ。

僕には、「un democratic love」のジュリーの声がそう言っているように思えます。

歌はもちろん、作詞も、制作スタンスも・・・元々ジュリーが持っていた稀有な資質が、『PRAY FOR EAST JAPAN』と『LOVE AND PEACE』のコンセプトと共に底知れない高みへと昇る、今なおその途上にあります。
「もうここまで」という感じがまったくしない・・・天賦の才能だけでは為し得ないことですね。「粘り強く続ける」ことがどれほど尊いかをジュリーは教えてくれます。
もうジャンル云々じゃない、すべてを凌駕している・・・。
そう思いつつもやっぱり僕は今年の新譜1曲目「un democratic love」を聴いた瞬間から、「最高にロックだな、ジュリー!」と興奮していたのでした。

君の愛は冷酷   君の愛は不遜
      D♭     E♭m7  F7        B♭m  B♭m(onA♭)

命の    重さに   気づかないんだ
   G♭maj7  D♭(onF)   E♭7         A♭

君の愛は脆弱   君の愛は違憲
      D♭     E♭m7  F7        B♭m  B♭m(onA♭)

un democratic love don't love me so ♪
    G♭maj7     A♭                     G♭maj7→



民主主義ならざる愛
僕をそんなふうに愛さないでくれ


「日本」がそう歌っているんだよね、ジュリー?
このバラードは、世界の誰の歌よりもロックです!


いやいや、この1曲を記事更新するだけで、凄まじく時間がかかってしまいました。
先月に野党5党が提出した廃止法案は審議すらされないまま放置され、安倍さんは在任中の改憲への意欲を語ります。
僕は、本来は政権や体制そのものを否定する者ではない・・・とにかく「戦争を否定する者」として、この「un democratic love」の記事を書いたつもりです。
僕のような者がこんな内容の記事を書けていること自体が「自由」であり「民主主義」なのだ、と言われればそれはその通りなんですけどね・・・。

ただ、毎年そうなんですけど、音楽として優れていなければ僕はこんなに熱くはなれないんです。
特に今回の新譜は、僕とは真逆の考え方のファンの心をも撃つ大変な名盤だと信じます。
だから、「話し合いましょう」と思う・・・「この先」僕らが何処に向かっているのかについて。

今年の新譜は、1曲目が「安保法制」、2曲目が「被災地の現状」、3曲目が「原発再稼働」、4曲目が「世界平和」と、それぞれのテーマがハッキリしています。
その意味では、次回の2曲目が収録曲中最も執筆に時間がかかるかもしれません。
今日の1曲目「un democratic love」も相当踏み込んだことを書いたけれど、「元気に暮らせている自分が、しっかりと声にしなきゃ」という気持ちを持ってひたすら頑張れば良かった・・・でも2曲目「福幸よ」ではまず、今なお悲しみや苦しみの中にいらっしゃる人達のことを最優先に考えなければいけません。
「元気な自分がうしろめたい」という気持ちと戦わねばなりませんし、かと言って過剰にへりくだった卑屈な心で考察できるほどジュリーの歌は甘くありません。

またしても更新までには日数を要するかと思います。どうかご了承くださいますよう・・・。
とにかく、全力を尽くすより他ないのです。「福幸よ」は柴山さんの作曲が熱く楽しいロックですから、それがきっと力になってくれる・・・そう思っています。

週末には『悪名』も始まりますね。観劇されたみなさまのご感想も楽しみにお待ちしております。

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2016年3月 7日 (月)

沢田研二 「カサブランカ・ダンディ」

from『ROYAL STRAIGHT FLUSH』
original released on 1979、single


Royal

1. カサブランカ・ダンディ
2. ダーリング
3. サムライ
4. 憎みきれないろくでなし
5. 勝手にしやがれ
6. ヤマトより愛をこめて
7. 時の過ぎゆくままに
8. 危険なふたり
9. 追憶
10. 許されない愛
11. あなたに今夜はワインをふりかけ
12. LOVE(抱きしめたい)

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前回記事で「インフルエンザが流行っているけど今のところ大丈夫。このまま冬を乗りきれますように」と書いたその翌々日に、7度7分の熱が出ました。
仕事を早退し病院で薬を貰うもその夜から寝込んでしまい・・・先週末の金曜日は会社も欠勤。幸いインフルエンザではなく普通の風邪だったようですが、みなさまは「またか」とお思いでしょう。情けないことです。
週末ゆっくりして、熱は下がりました。

そんな中、先日ジュリーのオフィシャルサイトがリニューアルされ、『un democratic love』のジャケットが正式にお披露目となりましたね。
僕は、このシルバーを「まがまがしい色」だと感じます。断末魔の海のようにも思えます。
去年が赤だったじゃないですか。その時点では「まだ止められる」「まだ助かる」という意味合いもあったように思うんですよ。対して今年のこの銀色を「枯渇」「処置なし」の意に受け止めたのは僕だけでしょうか。

これまでにも増して相当に危機感迫る歌詞が襲ってくる、と予想しています。
ジュリーにこのコンセプトを継続せしめているのは、僕らひとりひとりへの喚起であり警鐘である、とも考えています。3月11日リリースのCDを聴けば、そのあたりも紐解いていけるかもしれません。

その前に・・・今日は”『Barbe argentée』セットリストを振り返る”シリーズの大トリとして、79年の大ヒット曲「カサブランカ・ダンディ」を採り上げます。

こういうタイミングだからこそ、誰もが知るこの豪快なヒット曲で楽しい記事を書いておかないとね。
顔晴ります・・・僭越ながら、伝授!



7901015

↑ 1979新春歌い初め『HIGHER & HIGHER』パンフレットより。
英語表記「Casablanca Dandy」のフォント使い(「Casablanca」だけが斜体)が何とも味わい深いですよね。

Casablancadand

↑ 今回の参考スコア『沢田研二/ベスト・アルバム』から。


テレビ出演するジュリーを、僕が少年時代タイムリーでハッキリ覚えている大ヒット曲のひとつです。

当時僕は小学6年生の3学期、ということになりますか・・・『ザ・ベストテン』の初登場シーン、そして第1位になった週についても記憶があります。
『ザ・ベストテン』はいつも弟と2人で観ていましたが、時々母親が一緒に観ていることもありました。思えば僕は、まずこうした歌番組を通して母から音楽のイロハを何気なく教わっていたのです。例えば「この曲は長調、この曲は短調」ですとか、あとは3連符と3拍子の違いを教えてもらったり。
で、この「カサブランカ・ダンディ」についても当時の母の言葉を覚えていて
「酔っ払ってる歌詞の雰囲気を出すために、わざと語尾を下げて歌ってるのよ」
と。
そうか・・・僕のウンチク癖は母親譲りなのか(笑)。

特にファンというわけではなかったけれど、「カサブランカ・ダンディ」のジュリー、家族で応援していました。
僕がジュリーのヴィジュアルを「ロック」と結びつけてのカッコ良さで捉えられるようになったのは中学生になってからのことでしたが(オールウェイズ期以降)、小学生時代から、「どこがどんなふうに」というところまではまだ分からないまでも、子供心にジュリーのヒット曲の独創性・・・「他の歌手とは何か違う」という感覚はこの曲からも充分感じとれていました。
それに「カサブランカ・ダンディ」の場合は何よりあの衣装、あのパフォーマンスです。
虜になったのはお姉さまばかりではありませんよ。小学生男子も、ド派手な演出のジュリーに夢中になっていたのです。親指立てて両手をグルグルする仕草は、皆が学校でマネしていましたね。
こういう体験は男子ならでは、でしょ?(女子も隠れてやっていたのかもしれませんが)

ということで、「カサブランカ・ダンディ」と言えばまずはジュリーの容姿、声、アクションに目も耳も奪われてしまうわけですが、「音」のインパクトについてはどうでしょうか。みなさまは、この曲に登場する楽器の中でどの「音」が一番印象に残りますか?
ツアー・セットリスト常連の大ヒット曲・・・新規ファンである僕も『ジュリー祭り』以後何度も生で体感している」カサブランカ・ダンディ」。しかし、『Barbe argentee』はじめ近年のLIVEでは、個人的に「この曲最大の肝」と考えている音がステージで再現されていません。
それはズバリ「シェイカー」です。
擬音で表現するなら

か~~~っ!!

という音。
え、そんな擬音表現は聞いたことない、ですって?
でも、僕らが小学生の時は、みんなそう言ってましたよ。男子達は皆この曲が大好きで

それで何もいうことはな~♪
               か~~~っ!!

なんて感じで、シェイカーのパート入りで歌ってました(このパターンは「カサブランカ・ダンディ」と結構近い時期にヒットしていた北島三郎さんの「与作」にも使用されました。「ヘイヘイ、ホ~、ヘイヘイ♪か~~~っ!!」と男子達は歌うわけです)
「女性と子供の心を掴めば大ヒット」の法則があるのなら、子供のハートをくすぐるあの豪快なシェイカーの存在あればこそ、「カサブランカ・ダンディ」は『ザ・ベストテン』第1位を勝ち取った
のだと思います。

それにしても、この曲のシェイカーの挿し込みどころの見事さよ。
特に歌詞との一体感ときたら・・・。

しゃべりが過ぎる女の口を
Em       D          Em

さめたキスでふさぎながら
Em     D      Em            Am

背中のジッパーつまんでおろす
D     C            B7               Em

他に何もすることはない ♪
             (か~~~っ!!
C     D      Bm          Em

凄過ぎます(笑)。
阿久さんの真骨頂である宇宙規模の「断言」フレーズを、「ババ~ン♪」の効果音よろしくシェイカーが煽りまくっているという・・・


「キメ」のパーカッションって、楽曲コンセプトに嵌った時の説得力が凄いんですよね。
そう言えば、『Barbe argentee』で再現された「麗人」のフラメンコ・カスタネット(パリージョ)もそうです。「あの音がなくては」とLIVEレポート記事にコメントも頂きましたが、正にその通りだなぁ、と。
余談ですが「恒例・正月セトリを週に1曲ずつYOKO君に伝えていくシリーズ」は先週ようやく7曲目「麗人」に辿り着きました(YOKO君、メチャクチャ羨ましがっていました)。彼曰く「ずっと昔にパリージョの音に興味を持って、全然違う楽器と知らずに赤青のカスタネットを購入してしまったことがある」のだそうです。

メロディーやアレンジは、いかにも大野さんの得意そうなパターンです。
タイムリーの小学生時代はそこまで理解できていませんでしたが、「カサブランカ・ダンディ」はまず、強烈な「ロック・ナンバー」です。
何たって、ハーフタイム・シャッフルですから!
ロック・バンドの演奏でこそ映えるリズムなのです。

70年代の大野さんのアレンジの進化については、大野さんのみならず幾多のプロフェッショナルが入れ替わり入り乱れ傑作を生み出してきたジュリー・ナンバーよりも、継続して大野さんが音を統括してきた刑事ドラマ『太陽にほえろ!』のサウンドトラックを時間軸で振り返る方がより分かり易い、と僕は思います。
同ドラマのサントラでは、ある時期から大野さんは主旋律をギターが担当するアレンジを強く押しすすめていくようになります。
それは井上バンドへの速水さんの加入と時期的にリンクしていますが、特に70年代後半の『スコッチ刑事のテーマ』『ロッキー刑事のテーマ』『跳べ!スニーカー』と続く新加入刑事それぞれのメイン・テーマは、完全に「ギターありき」の主旋律で作曲されています。
これを要は、「ギター・パートの音階も大野さんの作曲段階から決まっていた」ということであり、それが、大野さんがアレンジを担当する際の井上バンドの手法となっていったことが分かります。

ひと括りに「井上バンドの曲」と言っても、例えばそれがジュリー・ナンバーのギター・リフであれば、「時の過ぎゆくままに」と「カサブランカ・ダンディ」とではそこが違う、そこが変わってきたのではないでしょうか。

ロックな短調に載せた「シ・レ・ミ、ミ・レ・ミ・・・♪」と奏でられるリフの音階から、僕は当時日本で大流行した”ビリー・ジョエル「ストレンジャー」へのオマージュ・ヴァリエーション”とも言うべき名曲群の中に「カサブランカ・ダンディ」を加えて良いと思っています(一番分かり易いのは、西城さんの「ギャランドゥ」ですが)。
大野さんもビリーと同じく「ギター・アレンジが得意なピアノ・ロッカー」ですからね。「カサブランカ・ダンディ」のアレンジ・クレジットが大野さんであることを今回改めて確認し(この時期は船山さんが多いですからね)、「やはり」と思った次第です。

また、こういう短調のリフ・ロックとジュリーのヴォーカルの相性が抜群なわけですよ。
「日本の歌謡曲的な良さが自然にミックスされる感覚・・・でも実はロック」の種蒔きは、ヴォーカリスト・ジュリーと長くステージを共にする大野さんの70年代の総括であり、音楽界への偉大な貢献だったのです。

最後に、歌詞に登場する「ボギー」について。
小学生時代、タイムリーでこの曲を聴いていた僕は「ボギー」の意味などさっぱり分からず後々になって「あぁ」と理解した、という情けなさでした。
ある時期まで僕にとって「ボギー」と言えば、先にも触れた刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で世良公則さんが演じた「ボギー刑事」(ニックネームの由来は「カサブランカ・ダンディ」のボギーと同じですが、ボスには「ゴルフのボギーだろ」とイジられたことも)だったのですよ。

ロッキー刑事(演・木之元亮さん)殉職、長さん(演・下川辰平さん)退職を受け、ワインレッドのド派手なスーツ姿で豪快に登場した、暴走派にして純情派・ボギー刑事。その登場篇は、欠員となったメンバー2人分を補ってあまりあるインパクトがありました。
最後には犯人との格闘でそのワインレッドのスーツが砂まみれになってね・・・カッコ良かったなぁ。
ボギー刑事の登場は『太陽にほえろ!』の歴史においても、「かわせみカルテット」(神田正輝さん=ドック、渡辺徹さん=ラガー、世良さん=ボギー、三田村邦彦さん=ジプシー)と呼ばれた若手刑事4人体制で、女性視聴者にアイドル的な人気を誇った時期へと突入する重要なターニング・ポイントとなります。

で、もちろん大野さんは新加入したボギー刑事のために新たな劇中挿入曲「ボギー刑事のテーマ」を作曲します(「大野克夫バンド」名義)。
これがね、七曲署メンバーのメイン・テーマとしては初の試みとなる、バラードだったんです(セカンド・テーマの「ボギー刑事・青春のテーマ」がアップテンポとなっています)。僕は『太陽にほえろ!』で新メンバーが登場するたびにそのテーマソングとなる「新曲」にも注目して観ていましたが、いやぁ新鮮でした。

そして今、「カサブランカ・ダンディ」のボギーと、『太陽にほえろ!』のボギー・・・どちらの作曲も担った大野さんの「ボギー」解釈の違いが本当に面白いなぁ、と思っているところ。
ずいぶん遅れてジュリーファンとなった僕は、子供の頃からそれと知らずに親しんでいた大野さんの音楽をこうして事あるごとにリンクさせながら、ジュリーの歴史を振り返って楽しんでいるのでした。


それでは、オマケです!
福岡の先輩よりお預かりしている『ヤング』バックナンバーから、『Rock'n Tour '79』の記事をどうぞ~。


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『ヤング』79年9月号より


79年のジュリー・ナンバーは、「カサブランカ・ダンディ」に始まり「OH!ギャル」を経て「ロンリー・ウルフ」、そして11月にはアルバム『TOKIO』リリース。
後追いファンが振り返ると、たった1年間のラインナップとは思えないほどの変貌、進化に驚くばかりです。
ただ、『Rock'n Tour '79』を聴くと、その驚嘆の進化過程がステージ上でビシッと集約されていることが分かってきます。ですからこのツアーに参加された先輩方は、逆にジュリーの音楽の変化を感じている暇もなく、ただ酔いしれるしかなかったかもしれませんね。

ツアー・スケジュールのインフォメーションも到着し、さぁ今年の全国ツアーでジュリーはさらなる変貌をどのように集約して魅せてくれるのでしょうか。
まずは、3月11日リリースの新譜です。
僕は毎年恒例の「一応密林さんで予約しておいて、発売日に届かなかったらお店に買いに行き、遅れて届けられたモノはYOKO君に引き取ってもらう」作戦。
今年はどうなるでしょうか・・・。

次回更新から、いよいよ『un democratic love』収録曲の考察記事にとりかかります。
おそらく聴いてすぐ書き出すことはできないでしょう。自分なりに考えて考えて、「こうじゃないかな」と思う何かを見つけてから下書きを始めたいと思います。
しばし、お時間を頂きます!

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2016年3月 1日 (火)

沢田研二 「彼は眠れない」

from『彼は眠れない』、1989

Karehanemurenai

1. ポラロイドGIRL
2. 彼は眠れない
3. 噂のモニター
4. KI・MA・GU・RE
5. 僕は泣く
6. 堕天使の羽音
7. 静かなまぼろし
8. むくわれない水曜日
9. 君がいる窓
10. Tell Me...blue
11. DOWN
12. DAYS
13. ルナ

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5年目の3月がやってきました。
今年はジュリーの公式の新譜情報がなかなか解禁されなくて、逸る心を鎮めながらひたすら待っていましたが、ジュリーはきっと「3月」に情報解禁の照準を合わせていたのでしょうね・・・本日3月1日、関東圏の我が家には待ちに待ったインフォが届きました。

新譜の4タイトル・・・どんな詞なのか、どんな曲なのかは実際聴いてみるまで分かりませんが、ジュリーの思いがタイトルの一字一句から伝わってくるようです。
そして、圧倒されるほどのツアー・スケジュール。なんという気力、体力、そして志。
毎年のことながら、あれだけの新曲を作り、あれだけの日程を駆け抜ける・・・今日は記事本文でもジュリーの傑出したスター性を掘り下げますが、本当に凄い。
世界中探しても、こんな歌手は他にいません。底知れぬロック・スターであり、真のスーパースターですよ。
僕も改めて気合を入れなおし、3月11日の新譜リリースまでに”『Barbe argentée』セットリストを振り返る”シリーズ、あと2曲頑張ります!

そうそう、ご存知のかたも多いのかな・・・3月11日には『ロックジェット Vol.64』も発売されます。
こちらの情報を読む限り、今回ジュリー関連の記事は連載中のアルバム解説のみのようですが、セルフ・プロデュース期に突入したジュリーの名盤をヒロさんがどのように解説してくれるのか楽しみです。


さて、”『Barbe argentée』セットリストを振り返る”シリーズ、第4弾に採り上げるのは、EMI期の吉田建さんプロデュースのアルバム1作目となった『彼は眠れない』から、タイトルチューンである「彼は眠れない」。
ツアー・レポートで予告しました通り、今日は2016年1月に天国へと旅立ったデヴィッド・ボウイへの個人的な思いも交えつつ、「音楽人」「音楽作品」としてジュリーとボウイにどのような相関性があったのか、といった点にも少し踏み込んでみたいと思います。
僭越ながら、伝授!


多くのブログ様が採り上げてくださっているので、みなさまもうお読みかと思いますが・・・先日の鈴木かつよしさんの
記事は本当に素晴らしかったですね。
ジュリーのロック性について書かれた文章であるにもかかわらず、これほど泰然として煽動性の無い文章は希有です。さすがはピー先生の生徒さん!

はからずも・・・だったのですが、今回「彼は眠れない」の考察記事を書くにあたって、この鈴木さんの文章から僕は2つのキーワードを見出すことができました。
「グラム・ロック」と「スター」です。

ジュリーのグラム・ロック性についてはよく語られますが、鈴木さんも文中で触れているデヴィッド・ボウイの場合は、グラム・ロック期を72年の『ジギー・スターダスト』までと捉えるのが普通で、その点では70年代前半のジュリーとタイムリーなリンクはさほど無いんですよ。
むしろ、『ダイヤモンドの犬』以後・・・例えばボウイがアメリカからベルリンへと拠点を移す前後の時代。
ボウイが「痩せた青白き公爵(シン・ホワイト・デューク)のキャラクターでナチズムを意識したステージを展開し賛否を浴びたすぐ後に、ジュリーの「サムライ」のあの衣装が登場するわけで(当然、タケジさんにはボウイへのタイムリーなリスペクトがあったと考えられます)、やっぱり日本でも賛否巻き起こりましたよね。
そうしたこともあって、ボウイファンでもある僕の感覚では、グラムロック期以後のボウイとジュリーの脈々と続くリンクにも目を向けるべきだと考えます。
狙ってリンクしていることもあれば、偶然重なっていることもある・・・これを要は、この2人がそれぞれ、圧倒的なロック・スター、スーパースターなのだということであって、そこで両者の共通項をヴィジアル的にも作品的にも端的に言い表すために、ジュリーとボウイを並べて語る時に多くの先達の方々が「グラム・ロック」という言葉を用いるのだと僕は理解しています。

ジュリーの『彼は眠れない』と同時期のボウイは、ちょうどティン・マシーンを結成していた頃。
しかしこのバンドは一般的に(セールス的にも)大きな支持を得たとは言い難く、ボウイのその後の活動は次第に「知る人ぞ知る」感じになってゆき、僕個人もあまり熱心にアルバムを聴かなくなってしまいました。
2013年の『ザ・ネクスト・デイ』リリースを機にそれらのアルバムを改めてじっくりと聴き、遅まきながら素晴らしさが分かってきた・・・それは、『ジュリー祭り』後に未聴のジュリー・アルバムにのめり込んだ時とよく似た感覚だったと思います。

そして、ボウイが天国へと旅立つ僅か2日前のリリースとなった新譜にして遺作『★(ブラックスター)』で、文字通り命を賭してボウイが届けてくれたメッセージ。

世界は今、邪悪な権力者・ブラックスターに支配されている。星からやってきたスーパースター”ジギー”(ボウイ自身)は、今や両目を射抜かれ、ブラックスターの前に為す術もない。
でも、ジギーに邪悪な権力者を倒す力が無くとも、君達がいる。君達にはそれができる。

・・・僕のようなジュリー、ボウイ双方のファンとしては、ボウイのそんなメッセージにジュリーの近年の創作活動をダブらせるのはごくごく自然なことです。
『Barbe argentée』での「アルシオネ」のセットリスト入りに感激しNHKホールに駆けつけた銀次さんも、そう思われたのではないでしょうか。近年のメッセージ・ソングも過去の大ヒット曲もすべて「今」のジュリーの歌だった、と仰っていた銀次さんならば、きっと。

さて、1989年。
先述の通りボウイは(言わば、まるでジュリーのCO-CoLO期の挑戦をなぞるかの如く)自らを「あくまでバンドのヴォーカリスト」と位置づけたティン・マシーンを結成、数年間の苦闘が始まります。
一方ジュリーは勇躍迎えた建さんプロデュース期。
詞・曲・アレンジ含め、ボウイ70年代後半のベルリン三部作、或いはアルバム『スケアリー・モンスターズ』を彷彿させるカルト・スター的コンセプトを展開。特に『彼は眠れない』『単純な永遠』の2枚は、僕の中でジュリーとボウイのリンクが最も強く深まる時期と言えます。

ではその時代、日本の歌謡界(ロック界を含みます)についてははどんな状況だったでしょうか・・・。
ひと言で言うと「スーパースター不在」です。

アイドルグループが新曲を出せばいきなりの「初登場第1位」(その後は下降するのみ)、というスパイラルに自滅せざるを得なかったベストテン形式の歌番組。
徐々に失墜していくようにしか見えなくなってしまった、各音楽大賞の権威。
若く素晴らしい才能を発掘しロック界に大きく貢献した”イカ天”バンドの台頭は新たな時代を予感させましたが、まだまだ人々が求める強烈な「スター」のイメージとは乖離がありました。

売れたモン勝ちのセールス・スターは多くとも、真の意味でのスーパースターは居ない・・・89年って、ちょうどそういう時期だったのかなぁと思います。

そんな中リリースされた『彼は眠れない』。
このアルバムに、スーパースター・ジュリーの復活を見てとったファンはとても多かったようです。
いや、ジュリーファンならば知っていたはず・・・それが実際には「復活」ではなく、生き残っていたスーパースターが大衆の前に再び姿を見せたのだ、ということを。

僕はツイッターってほとんど見ないんですけど(ずっと以前に登録はしてみたけれど使い方がよく分からず放置しています汗)、少し前に先輩から、若いロックな男性ジュリーファンがいらっしゃることを教えて頂き、以来時々彼の発信を拝見しています。
若い、とは言っても僕からすればジュリーファンとして大先輩でいらっしゃる。そのお言葉やセンスに深く感銘を受けることもしばしば・・・。
中でも感動させられたのが
「沢田研二は不死鳥か、滅びゆく恐竜の首領(ドン)なのか、という記事を見たことがある。
僕は後者の表現の方が好きだ」
というツイート(勝手にご紹介してしまいすみません)。

僕のような遅れてきたファンには、これまで知ることも考えつくこともできなかった例えですが、言われてみますと正に、正にその通りです。

特にこの表現は、アルバム『彼は眠れない』をひと言で語るにふさわしい、と思っています。
かつて地上(歌謡界)のトップに君臨していた恐竜の王者・ティラノサウルス(スーパースター=ジュリー)が、その実力のままに生き残っていたことの証・・・それが『彼は眠れない』というアルバム。
しかも作家陣、演奏陣にズラリと並ぶはアロサウルス、トリケラトプス、ステゴサウルス、ブロントサウルス、プテラノドン級のロック・パーソンの面々。
僕はこのアルバムにタイムリーで立ち会えなかったことが本当に残念です。先輩方が羨ましい・・・どれほどスリリングだったことでしょうね。

アルバム収録曲の中、今日のお題であるタイトルチューン「彼は眠れない」などいくつかのロック・ナンバーでジュリーが歌い演ずる役割は、「生き残ったスーパースター」故の孤独と苦悩でもあります。
デヴィッド・ボウイのアルバム『スケアリー・モンスターズ』の中に、「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」という曲があり、そこでボウイは自らの出世曲である「スペース・オディティ」歌詞中の物語に登場する「トム少佐」に言及・・・その「奴は単なるジャンキーだ」というフレーズに、ファンはド肝を抜かれました。
「スペース・オディティ」で、華麗に宇宙へと飛び立ち悲劇的な結末を迎えるトム少佐の壮大な物語を、「ジャンキーの妄想」と叩き斬ったのです。
「自分が歌い演じた虚像を自らの手で暴く」という手法。僕はそれとよく似たコンセプトを、「彼は眠れない」の松井五郎さんの歌詞に感じています。

彼は眠れない 感じすぎてる
Bm

彼は眠れない わかりすぎてる
Gmaj7

彼は眠れない 心が騒がしい ♪
E7                                  C    A7

「彼」とは、まず歌い手であるポップ・スター(=ジュリー)でありましょうし、もっと掘り下げれば時の為政者、絶対的な権力者である、と見ることもできます。
主人公が抱える虚像と現実。
虚像を保つため眠ることもままならぬ生身の人間の現実を、スーパースター・ジュリー自らが暴く、という・・・これほど「ロック」な詞はそうそう無いですよ!

ただ、『Barbe argentée』で今のジュリーがこの詞を歌うと、また違った受け取り方も出てくるわけです。

海の向こうで戦争もはじまっている ♪
D                                    D7

冒頭のこの一節にドキリとさせられます。今、2016年の現実そうなのだ、と。
そもそもそれはこの曲がリリースされた頃にも、それ以前もそれ以降も、現実にあったこと。少し前の僕には「海の向こう」の他人事としか考えられずにいた・・・でももういい加減に、ジュリーの言葉通り「自分のこととして考える時」は来ています。
そんな状況下で改めてCDで聴き直した「彼は眠れない」の89年のジュリーのヴォーカルには、選ばれし歌手の宿命すら感じると同時に、時代を凌駕することの凄味に戦慄します。

小難しいことを考えるなどナンセンス、と逆に思えてくるほどの吸引力。
何者にも迎合しない、孤高の説得力。
例えば1番のラスト

センチメンタルで濡れた
B♭                 F

心は逃がしてやるしかない ♪
E7                    A7

歌詞としても特に意味深な一節ですが、何と言っても「音符では絶対に表すことのできない」ジュリーの語尾の表現・・・これは、アルバム『彼は眠れない』に集結したロック・パーソンであるNOBODYさん(お2人のペンネームに「さん」付けはおかしいのかな)の作曲段階からのいかにもロックなアイデアかと思いますが、ジュリーの解釈、発声は圧倒的です。

さらに、エンディングでリフレインする「彼は眠れない」の「か」の発音の鋭さ。
エキゾティクス期のジュリーをタイムリーで知っているファンのみなさまにとっては、ジュリーが「彼は眠れない」のような曲で再びこうした発声をしてくれたこと・・・たまらないものがあったでしょうね。

なにしろ、ロックでしかあり得ない進行に載ったメロディーです(ニ長調からすぐにヘ長調へ、さらにサビでロ短調へと転調します。ニ長調からすぐにロ短調ならばいたってノーマルな進行なのですが、この曲はそこがひと味違うわけです)。
誰もこの曲を、ジュリーのように歌えはしません。
「ポラロイド GIRL」の記事で僕はジュリーのこのアルバムのヴォーカルの「防御力の高さ」を採り上げ、それ故の当時のリスナーとの距離感を案じた、といったことを書きましたけど、「彼は眠れない」「噂のモニター」といった「きらびやかな虚像を自ら暴く」コンセプトのロック・ナンバーの場合は、距離感も何も、ひたすらジュリーの「天才」を感じるよりなく・・・その孤高のヴォーカル・トラックにただ平伏すばかりです。

個人的には、『彼は眠れない』から始まる建さんプロデュース期には、少なくとも『パノラマ』の10曲目までは、冒頭で散々語ったようにボウイが70年代に構築してきたようなコンセプトとの類似を感じます。
80年代末、これからの90年代に向け、ジュリーをして「ニュー・カウンター・カルチャー」的な野心を胸にアルバム製作に集結したであろう恐竜達。しかし肝心の首領(ドン)・ティラノサウルスたるジュリーには、このコンセプトへの傾倒など微塵も無い、という。
だからこそ「暴かれた素顔」をさらけ出す「彼は眠れない」のようなナンバーが、逆にジュリーと歌との距離を詰めているのではないでしょうか。

ヴォーカルも圧倒的なら、演奏もまた圧倒的。
技術的に優れているのは当然として、すべてのパートが凄まじくテンション高いんですよね。要所に挿し込まれるパーカッションやS.E.も含め、この大名盤のタイトルチューンにふさわしい名演です。
そんな中、僕が最も惹かれているパートは・・・ズバリ、アコギです!

EMI期の建さんのアレンジって本当にカッコ良くて、仕掛けが緻密で、すべてのトラックが躍動して「序盤・中盤・終盤・隙が無い」って感じなんですけど、「ポラロイドGIRL」同様、みなさまは一瞬「えっ、この曲にアコギ入ってるっけ?」とお考えではありませんか?
みなさまが聴き逃しているかもしれないアコギにこそ、「彼は眠れない」の建さんのアレンジの真髄がある、と僕は考えています。

2’00あたりからの、いわゆる「間奏部」。
ジュリーの凄まじいシャウトを受け、まずエレキのリード・ギターがイントロと同じリフを4小節弾いた後、突如コード進行が変わって左右から2本のアコギ・トラックが襲いかかってきます。
本来このようなタイプのロック・ナンバーならば、エレキギターが引き続きガンガン単音を弾いておかしくないところ、エレキはここではコード突き放しのバッキング(だからこそ、LIVEでアコギ抜きのアレンジでもエレキのパートを忠実に再現した柴山さんが、”大車輪弾き”で見せ場をカッ攫うことができる、とも言えますが)。
これはもはや・・・「アコギ・ストローク・ソロ」と言っても過言ではない間奏です。
16ビートのアコギが跳ねる!冴える!
弦も切れよ、とばかりの激しいテンションでかき鳴らす躍動感。「彼は眠れない」のような曲にこんなアコギを組み合わせてしまうのが、建さんのセンスなのです。


最後に、余談になるんですけど・・・。
アルバム『彼は眠れない』収録の「KI・MA・GU・RE」について、先輩から先日教えて頂いて「ああっ、全然気づいてなかった!」とヒヨッコが驚いた、というお話を。

昨年末にお題に採り上げたばかりのこの曲、何と言っても素晴らしいのは、ジュリーと清志郎さんのヴォーカル・バトルですよね。
で。
エンディングに向かうに連れ2人は「くんずほぐれつ」状態になっていき、4’03”あたりで清志郎さんが「レッツゴー・タイガース!」とシャウトしているんですね。
ホント、これまで(考察記事を書いた時点でも)まったく気がついていませんでした(恥)。
アルバム『彼は眠れない』は清志郎さんのザ・タイマーズ結成と時期がリンクしていることを合わせ、「やってくれたな、ゼリー!」と新規ファンの僕は今さらのようにニヤニヤしてしまったのでした・・・。


それでは、オマケです!
お題とは時代が違いますが、1979年に、『I CAN'T FALL ASLEEP』というツアーがあったそうですね。
ズバリ『俺は眠れない』!
ジュリーの音楽にも大きな変化があった頃です。
真のスーパースターにしか似合わないツアー・タイトルがまず素晴らしいのですが、いつもお世話になっているJ先輩に以前お借りしたツアーパンフが・・・まぁ凄い!
モノクロでここまで色気が伝わってくるとは・・・。

今日はそのパンフから、「刀持ってる系」の数ページをドド~ンとどうぞ~。



Asleep01

Asleep02

Asleep03

Asleep04

Asleep05

Asleep06


このパンフの残りのページにつきましては、いずれアルバム『TOKIO』収録曲の 記事を書く際のオマケコーナーとして考えています。


では次回更新は、”『Barbe argentée』セットリストを振り返る”シリーズ第5弾の大トリとして、「カサブランカ・ダンディ」を採り上げます。
毎年、3月はジュリーの新譜を聴きながら厳かな気持ちで過ごすことになります。でもそのリリースを前に、誰もが知る大ヒット・シングルをお題に楽しい記事を書いておきたいと思います!

勤務先でインフルエンザが流行しましたが、僕は何故か(笑)今のところ平気です。
なんとかこのまま、冬を乗りきれますように。

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