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2015年4月 6日 (月)

沢田研二 「泣きべそなブラッド・ムーン」

from『こっちの水苦いぞ』、2015

Kottinomizunigaizo

1. こっちの水苦いぞ
2. 限 界 臨 界
3. 泣きべそなブラッド・ムーン
4. 涙まみれFIRE FIGHTER

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週末は少し天気が崩れてしまいましたが、先週関東では、すっかり桜が満開となりました。
毎朝電車を降りて会社まで歩く際、ちょっと迂回すると桜のきれいな公園を通り抜けることができ、最近はそのルートでの通勤が日課です。

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ふと、以前ブログでネット記事をご紹介したことのある『バリケートに分断された桜並木』の、あの富岡町の桜のその後が気になり、検索してみました。
最初にヒットしたのは
こちら
あぁ、地元の方々も国も頑張っているんだ、と一瞬胸躍りましたが、続けてヒットしたのが
こちら
「悔しさ」の続く4年目。
僕ら非・被災者は「遠い地のこと」とこの桜から決して心離さず、「来年こそは」の思いを地元の方々と共に持つことが大切です。自分にできることを少しでも探し実践しながら、応援を続けていかなければ・・・。
(追記:この記事の更新翌日、aiju様がブログで紹介してくださった記事がこちらです)


一方、先月にいち早く桜は満開となっていたという僕の故郷、鹿児島では。
先日、1曲目「こっちの水苦いぞ」の考察記事の中で僕は、「川内原発再稼働までにはあと3つの段階が残されている」と書きましたが、そのうちのひとつ「使用前検査」が去る3月30日に開始されました。
これもやはり全国的には大きなニュースにならず・・・このまま残された段階それぞれがこんな感じでひっそりと進み、ある日突然「再稼働決定」が全国に突きつけられることになるのでしょうか。
九電は既に川内原発について、「7月発電開始」「8月営業運転開始」を発表しているのです。

北の被災地、南の故郷・・・桜に思いを馳せる4月。
こちら首都圏では、『お嬢さんお手上げだ 明治編』東京公演も始まりました。いよいよ春がやってきて、ジュリーファンのみなさまそれぞれ新たな気持ちの切り替えに向かっていらっしゃることと思います。

そんな中、このブログでは引き続きジュリーの新譜『こっちの水苦いぞ』の楽曲考察記事を書いていきますが・・・ここまで前半2曲、重い話ばかりの記事を書いてしまって、ごめんなさいね。
読んでくださるみなさまも、暗い気持ちになってしまったり、呆れたり退いたりしていらっしゃっるのではないかなぁ、とさすがに僕も不安でした。
でも、今日採り上げる3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」は、考察のアプローチをガラリと切り替えるにはふさわしいお題です。

と言うのも・・・。
先週、「さぁ3曲目」と意気込んで下書きにかかろうとして、いきなり困りました。うまく説明できないんですけど、これほど「眉間に皺寄せて語りまくる」ことが似合わない曲も無いのでは?と思ったんですよ。
言葉を重ねれば重ねるほど、ジュリーの思いとは「全然違う」「安っぽくなってしまう」と感じられて、実は最初の2、3日は途方に暮れながらの考察期間でした。
新譜前半の2曲は「自分の考えを正直に書く」ということで何とか乗り切りましたが、「泣きべそなブラッド・ムーン」ではその書き方が通用しそうにありません。

何故だろう。
こんなに優しい曲をジュリーが届けてくれたのに。

もちろんこれは「優しい曲」ではあるけれど、「明るい曲」とまでは言えない・・・いやむしろ深い悲しみを湛えたバラードと言っても良いでしょう。
それでも今回の新譜の中で、多くのジュリーファンがこの曲に心洗われ、救われたように感じていらっしゃるのでは、と想像しています。それほど癒やす力、優しい力に満ち溢れた曲。
額に皺寄せるような重い考察ばかりに終始して、みなさまの感動を台無しにするわけにはいきません。

昨年10月8日の『三年想いよ』南相馬公演には、普段から交流のある先輩方、いつも拝見させて頂いているブログさんなど、僕の知っている先輩方数名が無事参加されました。お話を伺ったり、感想を読ませて頂いたりして、「本当に素晴らしいステージだったんだろうなぁ」とは分かったけど、まだ足りない、もっと知りたい、とも思えて、いつもお世話になっている先輩には「じっくりと詳しいお話を聞かせてください」と昨年お願いしていたんですが、なかなか時間がとれず未だ果たせないまま今年も3月11日を迎え、他でもないジュリーの歌で「10月8日」を思うことができました。
あの日が皆既月食だったこと・・・「自然への畏怖」に敏感なジュリーは、その運命をどう感じたでしょう。

そう考えていてふと、遠くから南相馬公演の無事の成功をひたすらに祈っていた気持ちを思い出しながら書いたらどうかな、と思いました。
ジュリーがあの日を思い出して作った曲なんだ、LIVEには参加できなかったけど、僕も昨年の10月8日に気持ちを戻したつもりで書いてみよう・・・。

僕は現時点ではこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が新譜の中で一番好きです。抜きん出ています。
ただ、いくら大好きな曲でも、それこそこの曲ばかりは、僕などより何百倍も、何千倍も深い感動を持って聴いている方々がいらっしゃることは明らか。それは言うまでもなく、昨年10月8日、『三年想いよ』南相馬公演に実際に参加されていたみなさまです。
ジュリーが昨年11月のあのフォーラムで語った「日々の嫌なことはすべて忘れられる」ほどのステージとは、そのひと月前の南相馬公演を思い出しての言葉だったのではないでしょうか。
どれほど素晴らしいステージだったか・・・。幸い、親しくさせて頂いている先輩方や、いつも拝見させて頂いているブログさんの感想など聞いたり拝見したりして、何とか想像力を振り絞って(生の体感とはまるで比較にならないにしても)、頭に浮かべることはできます。

ジュリーファンはいつも、自分が参加できない会場で公演がある日は、心をその地に向け思いを馳せているものですが・・・昨年の10月8日は本当に、全国のお留守番組すべてのジュリーファンの思いが南相馬の地に向けられ、凄まじいほどの目に見えないエネルギーが会場をとりまいていたのではないかと思います。
まさかジュリーがその日のことをハッキリと曲にして、不参加だった僕らにも改めて届けてくれるとは。

実は・・・これは僕が読んだり聞いたりした範疇に限ってのことなんですけど、「泣きべそなブラッド・ムーン」について、南相馬公演に実際に参加していた人、そうでない人との間で、くっきりとその感想が分かれている歌詞部があります。
サビで歌われる「君」が
誰を指すのか、というね。
南相馬に参加されたファンは、「この”君”って誰のことなんだろう?」とあれこれお考えの様子。
対してあの日遠くから会場へと思いを馳せていたお留守番組のファンは(僕も含みます)、まるで疑いもせず「これは私のことだ!」と考えているようなのです。
ジュリー自身が、「素晴らしかった」「来て良かった」「被災地に受け入れてもらえた」と感動したに違いないあの日のすべてを、その場にいなかった人(ファン問わず)ひとりひとりに「こうだったんだよ」と伝えたい、分かち合いたい、と歌ってくれているんだ・・・そんな確信ですね。
これは逆に、あの10月8日にジュリーの歌を生で聴いていた人には浮かびにくい発想なのかもしれません。一度、その場で手渡されているわけですからね。

ですから僕のように南相馬に参加できなかったファンとしては、この歌詞で2度繰り返される「君にも♪」の、最初の「君」が自分以外の不特定多数、2つ目が自分のこと、と勝手に思い込みながら聴いています。

でも・・・じゃあ「泣きべそなブラッド・ムーン」が楽しい曲かというと、当然そんなことはありません。

ジュリーが南相馬でLIVEをやる、と知った時から僕らは心がざわつきましたし、公演が大成功に終わり、素晴らしいステージ、素晴らしいお客さんだったと分かっても、それで万歳、とは済ませられません。
やっぱり、自分の目でその素晴らしさを確かめていないからそうなのでしょう。

そして、僕などはジュリーについては心配性ですから(ファンはみなさんそうなのかな?)、この曲の穏やかで優しいジュリーの歌詞中にも、所々に切実な悲しみや怒り、そしてやっぱりジュリーの「自責」のような感情をどうしても感じてしまうのです。中でも「鬱憤」「後悔」「懺悔」というフレーズの連呼は特に気がかりで・・・。

今日は考察本題自体は優しく穏やかな内容に、と思っていますが・・・その前に、僕のそんな暗~い感想の一部を、ほんの少しだけ先に書いてしまいましょう。

お正月LIVE『昭和90年のVOICE∞』のジュリーには、笑顔がまったく無かった、というわけではないけれど、とても少なかった・・・これまでとは違いましたよね。
MCが短くなったことについて、僕も最初は昨年のフォーラムのことがあったからかなぁ、と考えたけど、「泣きべそなブラッドムーン」で「誤解なた仕方ない」と歌うジュリーの声を聴いた今はそうは思っていません。
「もうステージでニコニコしていられないんだ。そんな状況じゃないんだ。もう限界だ」と。
「新しい年になったのに、嬉しいことが何もない」と語った渋谷初日公演のジュリーを思い出します。
僕の考え過ぎなら良いけど、7月からの全国ツアーでジュリーが果たして笑顔を見せてくれるかどうか・・・覚悟はしておかなきゃいけないのかなぁ、と。

とてつもなく重たくて
  Gm             A♭

言葉にならないさ想    い
Gm                  Am7-5   D7

ただ、僕がそんなふうに「ジュリー自身が主語」と考えてしまった2番Aメロの歌詞については、先日「臨界限界」の記事に頂いた先輩のコメントを拝見し、「本当の苦しみの中からは言葉など出てこない」という被災者の目線と解釈すべきだった、と今は考え直しています。

個人的に一番胸に突き刺さった箇所は実は1番で

優しさ  じゃ     違うか  ら
E♭maj7  B♭maj7   E♭maj7  B♭maj7

心な    い 言葉   は怒  ろう
E♭maj7  Cm7 Am7-5  Dsus4  D7

僕は、「優しさを振りかざす世間」にこれまで疑問を抱いたことがありませんでしたからね・・・。

さぁさぁ、暗い話はここまでにします。
「泣きべそなブラッド・ムーン」はそれでも「優しい曲」なのです。ジュリーの優しさ、曲の美しさ、完成度の高さ・・・素晴らしい名曲です。
今日は胸が痛くなるような話はここまでの枕にとどめ、ここから先はジュリ ーの歌人生にまたひとつ加わった歴史的な名曲を、純粋に素晴らしいバラードとして紐解いてゆくことに全力を注ぎますよ~。
僭越ながら、伝授!


みなさまは「泣きべそなブラッド・ムーン」とジュリーがつけたタイトルに、どんな光景を想像していますか?
南相馬に参加されたみなさまは当然、その目でご覧になられた土地の風景も合わせ、あの日の皆既月食とそれを見つめるジュリー、という構図をハッキリと思い浮かべることができるかもしれませんね。

一方僕は南相馬の風景を知りませんから、なかなかリアルに映像が浮かんできません(もともと想像力に乏しい、ということもありますが)。
僕が思い浮かべるのは・・・とても失礼なようですが、空を見つめて子供のように泣きじゃくっているジュリーです。この歌詞、タイトルは、「南相馬のブラッド・ムーンがまるで泣いているように見えた」という解釈もできますが、僕には「泣きべそな」という表現が重要なのではないか、と思われます。
「泣きべそ」って、大人の男性が使う言葉としては珍しいですよね。使う時があるとすれば・・・思わず涙を流してしまった時に「自分、泣きべそになったものだなぁ」と自らを切なくも愛おしく、笑い呆れているような瞬間ではないかと思ったんですよ・・・。

「泣きじゃくる」は言い過ぎかもしれませんが、ジュリーは南相馬の1日のどこかで、泣いてしまった瞬間があったんじゃないかなぁ。LIVEが終わってからなのか始まる前なのかは分からないけれど、色々な想いで泣いてしまって、それが南相馬の空を見上げた記憶と重なって、思い出すのは涙で滲んだブラッド・ムーン・・・そんな感じかなぁ、と。

ジュリーが10月8日に見た風景というのは当然LIVE会場近辺だけではなくて・・・僕も参加された先輩方からお話を聞かせて頂いているけど、閑散とした道がずっと続いていたり、除染作業の現場があったり、町の商店街の人々の暮らしであったりするわけですよね。
そうした風景が涙とブラッド・ムーンに集約されていると言うのかな・・・実際その地を知らない僕がこんなことを書くのは軽々しいのかもしれませんが・・・。

ただ、そんな切ない、辛い風景もすべてひっくるめて忘れられない、忘れようのない10月8日のステージだった・・・それを全部、「泣きべそなブラッド・ムーン」という歌ですべての人に伝えたい、渡したいと。
昨年の南相馬公演はジュリーにとって、本音を晒してお客さんの心の誠を受け止められた、「3年目」の特別な1日だったのかなぁ、と想像しています。

先月の終わりくらいまでは、『こっちの水苦いぞ』1枚、4曲だけを繰り返し聴き他の音楽はまったく耳にせず、という状況だった僕も、初めて聴いてから数週間が経ったことで、余裕が出てきたのでしょうね・・・もちろん仕事の移動中のBGMはまだまだ新譜オンリーで、既に記事を書き終えてしまった前半2曲についても今さらの新発見があったりするのですが、自宅では時々ジュリーの昔のアルバムなども思いつくままに聴いたりしています。

今回「泣きべそなブラッド・ムーン」の下書きを始める前に、南相馬にも参加された先輩のまねをして、『JULIEⅣ~今僕は倖せです』から、「涙」を聴きました。
本当に驚かされます。ジュリーの歌心、魂というのは、40年以上前から全然変わっていないのだ、と。

ここでまた僕の好きな将棋の話を例えに出して恐縮ですが、尊敬している関西の名伯楽・森信雄七段(多くの弟子を育て慕われる人柄、人望で有名)が、昨季見事順位戦B級2組への昇級を果たした直弟子の若武者・澤田真吾六段について、こんなふうに評していました。

マイペースの一門の中で、こと将棋に関しては、色んな面で妥協しない一徹さがある。素直なキャラクターの中に「剛」が引き立つ。謎めいた宝物(?)は今のままで、大きく育ってほしいなぁと思う

同じ「澤田」という苗字からの連想というわけでもないのですが、頑固一徹な「剛」を若くして持つ少年というのは、その中に「謎めいた宝物」を秘めているものなのかなぁ、と思いました。僕の知らない、20代前半のジュリーって、そんな感じだったのかな、と思います。
そしてジュリーは、その「謎めいた宝物」をずっと変わらず持ち続けたまま、今に至っているようです。
「涙」から43年後の「泣きべそなブラッド・ムーン」は、1曲まるごとがジュリーの涙のような曲・・・「それは美しい結晶」のような曲なのですね。

72年リリースの「涙」(ジュリー作詞・作曲)について僕がこのブログで採り上げたのは、あの2011年・・・「自分は何をしているのか」「何をすればよいのだろうか」と悩み迷った挙句、被災された先輩の「ジュリーの曲の記事を楽しみにしています」というお言葉に逆に励まされるようにして、「今の自分にできることは・・・」と決意した「3日に1曲」の考察記事更新をノルマとして頑張っていた時でした。
例によって後追いファン故の考察の甘さを、何人もの先輩方のコメントでフォローして頂き、改めて僕の知らなかった「涙」にまつわる色々なエピソードを教わりました。『女学生の友』に連載されていたフォトポエムに大いに興味を抱いたのも、あの時先輩がコメントで触れてくださったからです(今は全連載分の貴重な資料が手元にあり、アルバム『JULIEⅣ~今僕は倖せです』収録のお題曲を採り上げる際、少しずつ「オマケ」コーナーとして記事の最後に添付させて頂いています)。

さらにその後、これは結構最近なんですけど・・・天地真理さんのピアノ演奏をバックにジュリーが歌った「涙」の映像を教えて頂きました。
これが素晴らしかった!
僕はこれまで何度も、「ジュリーはバックの演奏に敏感」なヴォーカリストだと書いてきました。 それは単純に、テンションの高い演奏だと「気が乗る」タイプと言い換えても良い面があるでしょう。
で、この時の「涙」を歌うジュリーって、凄く気持ちが入ってるんですよね。天地さんは元々ピアノの素養をお持ちだったそうですが、「涙」のピアノ演奏では流暢な感じは受けません(緊張されていたのかな?)。ただ、丁寧に神経を集中させて弾こう、という女性独特の気魄が伝わってきて、ジュリーはそんな天地さんの「必死さに乗った」のだと思います。
(ちなみに天地さんについて僕はタイムリーでよく知らぬまま、世間の評価「歌が下手」を長い間信じ込んでいました。しかし最近、1975年リリースの「レイン・ステイション」という素晴らしい歌声の名曲を初めて聴き、自分の思い込みを恥じています)
話が逸れているようですが、この時の「涙」を歌うジュリーの気持ちのベクトルが、南相馬公演のことを思い歌う「泣きべそなブラッド・ムーン」ととても近いように僕には思えてならないのです。

やっぱり、「優しさ」なのかなぁ。

優しくなければ・・・陳腐な表現ですが「心がこもって」いなければ、こんなふうには歌えないですよね。

あの日、南相馬ではちょうどLIVE開演前くらいの時刻から月が欠けていった、と聞いています。
ジュリーは最初のMCで
「みなさん、こんなところにいていいんですか?皆既月食見なくていいんですか?」
と、お客さんの雰囲気を和ませてくれたのだとか。
そしてきっとジュリー自身は、10月8日のお客さんにとても癒された、と思っているのではないでしょうか。この国のこと、世界のこと、色々なことを考えて神経を尖らせていた毎日を忘れてしまうほどに。


僕が「いいなぁ、いいなぁ!」と沁みた箇所はやはり

晴れた東の空には 静かな皆既月食
G#m                       Emaj7

10月8日の全部 花束にし 手渡したい
 C#m                    A#7              D#7

君にも           君に  も
      C#m7  A#m7-5   D#7  G#m


(コードは半音上がりの転調後、嬰ト短調部から)

この「君にも」を2度繰り返したジュリーの気持ち。
よくLIVEでジュリーが、上手側下手側、1階2階ランダムに、柔らかな動きと共にお客さんに語りかけるようにして歌ってくれるシーンがあるじゃないですか(例えば、「届かない花々」の「手をつないでいて♪」のところとか)。あんなふうに、世界中の人達に10月8日の全部を手渡したい、と心から思って歌っているのでしょうね。
「君にも」が1回だけだと、そこまで伝わらなかったと思う・・・気持ちで載せた詞ですよね。

それにしてもこの歌声は・・・過去ジュリー・ナンバーの中でも屈指の1曲ではないでしょうか。
僕は最近actに嵌っていて、「歌で演ずる」ジュリーの才にトコトン惚れ込んでいますが、ここではジュリーに「演じよう」という気持ちはまったく無いですよね。身体ごと心ごと歌っています。
その上でジュリーには、無意識に演じ描ける風景がある・・・本当に凄い歌手ですよ。


実は、いつもはLIVEに参加するまでは新曲を丁寧に聴かないタイプのカミさんが、この「泣きべそなブラッド・ムーン」については早くも大絶賛でして・・・曰く「ドラマティック」だと。歌詞とか背景とか、そういうことを考える前にまずこのジュリーの歌声とメロディーがそのままドラマのようだ、と言うんですね。「ドラマティック」というのは何処か語弊のある言い方なのかもしれないけど、その感想自体は良く分かるのです。

そんな話がきっかけで、「ジュリー、actみたいな歌満載のスタイルで、この曲とか「Fridays Voice」とか、最近のバラードを全面に押し出した音楽劇をやってくれたら凄そうなのにね」なんてことを話しました。テーマを拡げて、『音楽劇・我が窮状』ってのも良いね・・・とか。
「まぁ夢物語だよな」と考えていて、突然思い出しました。ジュリーが「震災をテーマにした音楽劇」についてほんの少しだけど語っていたことがあったはずだ、と。
『Pray』の年の新聞のインタビュー記事だったかなぁ。「やりたいなぁとは考えているけど、僕がやってふさわしいのかどうか分からない」みたいな答え方をしていたんじゃなかったかな。
よく思い出せないんです。ネットでちょっと探 してみたけど見つからなくて・・・(よく言われるんですが、僕はとても検索が下手なのです泣)。
先輩方ならしっかり覚えていらしゃるでしょうね。

でも、音楽劇ってのはやっぱり、ジュリーの社会性とかそういう面とは別のところでやってるから良いものなのかな。産経ニュースに載ってた写真、ジュリー達が皆本当に楽しそうに見えましたしね・・・。


では続いて、そのドラマティックなジュリーの歌声を引き出した、泰輝さんの作曲について。
発売前の個人的な予想は、ロキシー・ミュージックみたいな雰囲気の「お洒落なバラード」というもの。
この予想も見事外れでした。バラードはバラードだったけど、もっと日本的と言うのかな~。良い意味で昭和っぽい、キャッチーな短調のメロディーです。
それを、いざアレンジではロックに仕上げているのが素晴らしい!サビのギターなんて、ガンガンに歪ませていますしね。

一応最後まで採譜もしたけど、案の定僕には荷が重く・・・と言うのも、メロディーにコードをつけるだけならすごく明快な曲(そのあたりに「昭和」の魅力があるとも言えます)なんですけど、2番から噛み込む右サイドのバッキング・ギターに象徴されるよ うに、アレンジメント・コードがメチャクチャ高度なんですよね~。
結果、僕の起こしたコード通りに演奏すると、まるで『火曜サスペンス劇場』のエンディング・テーマ のように聴こえてしまいます・・・(泣)。
いやでもそれはそれでとても良い響きですので(言い訳)、一応歌詞引用部にはコードを振りますが・・・試し弾きはピアノだけにしておいた方が良いかも。
ギターのアレンジメント・コードの採譜はYOKO君に任せた!(今年も大宮のビフォーで答え合わせか?)

泰輝さんの作曲作品は相変わらずメロディーが美しく整えられていて、しかも「小節の頭に向かっていく」印象があります。これがジュリーのヴォーカルに合うのです。
泰輝さん作曲の過去のジュリー・ナンバーでは「涙色の空」に近いのかなぁ、と最初は考えましたが、鉄人バンドの演奏、アレンジをじっくり聴いていくうち、もっと近い曲があることに気づきました。
その話をするには、鉄人バンドの演奏の素晴らしさを語っていくことが近道です。まずはいつものように、レコーディング・トラックをすべて書き出してみましょう。

・エレキギター(左トラック1)
・エレキギター(左トラック2)
・エレキギター(右トラック1)
・エレキギター(右トラック2)
・キーボード(ピアノ)
・キーボード(ストリングス)
・ドラムス

この曲の演奏の大きな特徴は、エレキギターが計4トラックを数えることです。アコギ無しのエレキだけの4トラック、というのは鉄人バンドのレコーディング音源としてはかなり珍しい。左サイド、右サイドに2トラックずつ。2012年以降の新譜では、基本「間奏」のリード・ギターだけはセンターにミックスされていることが多いですが、この曲と次の「涙まみれFIRE FIGHTER」にはそれが無く、左右2トラックずつ(「涙まみれFIRE FIGHTER」ではそのうち1トラック がアコースティク・ギター)のミックスです。
「泣きべそなブラッド・ムーン」の場合、2’29”からの8小節を「間奏」と考え、エレキギターのツイン・リードを際立たせるために左右に振られているのでしょう。

いやしかし・・・今でこそ左右2トラックずつのギターがそれぞれ鉄人バンドのステージ立ち位置通りの分担の音に聴こえるようになってきているけど、最初はホント、逆に聴こえたりしてたんだよなぁ。
右サイドの空間系のエフェクトがかけられたバッキング(「優しさじゃ違うから」のところから噛んできます)が下山さんの音に聴こえて、「あれ、ステージの立ち位置とは逆だな?」と思っていたのです。

全然言い訳とかじゃなくて真剣に考えていることなんですが、ここ数年で急速に、柴山さんと下山さんのギターの音が似てきていませんか?
もちろん、使用モデル含めて際立った個性の違いというのはそのままですが、届き方というのか、鳴らせ方というのか。『昭和90年のVOICE∞』の時の「希望」の音とか思い出すと特にね・・・。
本来まったくの他人である夫婦が、何十年もの長い時間を共に過ごしていると似てくる、とよく言うじゃないですか。そんな感じなのかもしれないなぁと思って。

ここで『ギターマガジン2月号』に掲載された下山さんのインタビュー・・・柴山さんについて尋ねられた下山さんが放った「唯一先輩と呼べる人。慕ってる」発言について僕は真面目に(笑)語りたいのだけれども。
普通、同じバンドの、同じギターというポジションのメンバーについて尋ねられた時、ギタリストは「彼はこういうタイプ、僕はこういうタイプ」といったように、 演奏の個性について語りその上で自分はこんなギタリスト、という主張もするものなんですね。
もちろんそれは相方へのリスペクトを込めてのことです。例えば、ミック・テイラー脱退後にローリング・ストーンズに新加入したロン・ウッドについて尋ねられたキース・リチャーズが「奴は俺と似たタイプのギタリストなんだ」と語ったり。
でも下山さんはごく自然に、「柴山さんとは自分にとってこんな人」ということを、音の話を抜きにあれだけの短い言葉ですべて語ってしまっています。
もうね、人格的なレベルで突き抜けたギタリストが2人も同じバンドに在籍していて・・・ギターという楽器で何をすべきなのか、という感覚が、言葉や理屈を超えて共有されちゃってるんじゃないかな ぁ。

これは2012年からの『PRAY FOR EAST JAPAN』コンセプトの作品を、年に一度作り続けてきたジュリーと鉄人バンドの中に起こった最も素晴らしい音楽的な進化かもしません。これが「普通に上手いバンド」なら、歌詞に演奏が負けてしまうところですよ。
「泣きべそなブラッド・ムーン」のサビで左右から飛び込んでくるゴリゴリのギター2本の音を聴きながら、僕はそんなことを考えているのでした。

さて、4トラックのエレキギターのうち、まず活躍するのは左サイドのパワー・コード。8分音符をダウン・ピッキングで淡々と奏でます。
イントロでは泰輝さんがピアノを弾いていたり、GRACE姉さんがタムで重々しい刻みを入れていたりするので音数も多く聴こえますが、いざ1番のジュリーのヴォ ーカルが始まると、鳴っているのはこのパワー・コードとドラムスだけになります。
たった2つの楽器でこの説得力!
これは昨年の「三年想いよ」のAメロでも採り入れられたアレンジで、全国ツアーでも見事再現され、僕らを驚嘆させてくれました。今年の「泣きべそなブラッド・ムーン」でも同じ驚きに出逢えそうです。
サビでは、左サイド、右サイドともに、歪み系の豪快な音色が満を持して噛んできます(ツイン・リードの箇所では高音部と低音部に分かれます)。
4トラックそれぞれに意味があるアレンジであると同時に、ベースレスをカバーしているんですね。

泰輝さんのキーボードは、たぶん2トラック。
「たぶん」と言うのは、ストリングス系の音以外に、オルガンのように聴こえる箇所があるからです。でもこれは一気の1トラック・レコーディングじゃないかなぁ。
ピアノはとにかく渋いです。イントロをはじめ要所で登場する、「ソシ♭ドファ、ラ♭シ♭ドファ、ソシ♭ドファ、ラドファミ♭レ~♪」という印象的なフレーズ。淡々と赤を描くようなそのフレーズからは、正にブラッド・ムーンを思い浮かべることができます。


GRACE姉さんのドラムス・トラックで最も印象深いのは、やっぱり「タムの刻み」だなぁ。特に、右サイドから「ドコドコ」って聴こえてくるタムは素晴らしい響きにして素晴らしいアレンジ。泰輝さんのピアノのフレーズ同様に、正にブラ ッド・ムーンです。
で、ギターのパワーコード・カッティングがエイト・ビートであるのに対し、この曲のドラムスは16分音符で跳ねるんですよね。そこでふと思いついたのは、もしこの曲が2007~2008年頃の白井良 明さんのアレンジでレコーディングされていたら、ドラムスの打ち込みは「太陽」(アルバム『生きてたらシアワセ』収録)のような仕上がりになっていたんじゃないか、と。
そう考えると「太陽」と「泣きべそなブラッド・ムーン」には、曲想も共通するところがたくさんあるんですよ。
どちらも泰輝さんの作曲作品。これが先程途中になっていた話ですね。
楽曲タイトル、歌詞も「太陽」と「月」でしょ?

これは、ジュリーが南相馬のブラッド・ムーンを想起して歌詞を載せる際、泰輝さんの曲に既に「自然への畏怖」があったんじゃないかなぁと思うわけです。
GRACE姉さんは、「自然への畏怖」についてジュリーを凌ぐほどの感性を持っている人かもしれない・・・女性ですしね。その結果、16分音符で跳ねる自然風景的なドラムス・テイクが生まれたんじゃないかなぁ。
もちろんこの曲の場合は生ドラムだからこその説得力があるわけで、みなさまそれぞれが2014年10月8日のブラッド・ムーン、南相馬の風景を思い浮かべることができるドラムスの響きです。全国ツアーでのこの曲、きっと照明は赤、或いは薄暗いオレンジで、鉄人バンドは影のような暗がりの中からの 演奏・・・そこから聴こえてくるGRACE姉さんのドラムスは、きっとお客さんの耳に印象深く残るはずです。


最後に。
今年は無いみたいだけど、ジュリーはまたいつか全国ツアーで南相馬に行くのかな・・・?
きっと行きますよね。「忘れてないよ」「また呼んでくれてありがとう」と伝えに・・・その時にはきっと「泣きべそなブラッド・ムーン」を歌うでしょう。
前回『三年想いよ』のセットリストには無かった「時の過ぎゆくままに」や「TOKIO」も、きっと。
今度は僕もその場にいられると良いなぁ・・・。

また、今年7月からのツアーで新譜『こっちの水苦いぞ』収録の4曲がどのような演奏順となるのか、というのもファンにとっては楽しみのひとつでしょうが、僕はこの「泣きべそなブラッド・ムーン」が(新譜の中では)大トリになるのでは、と予想しています。
みなさまはいかがですか?


それでは次回更新は、新譜4曲目の「涙まみれFIRE FIGHTER」・・・いよいよ最後の曲です。
これほど「痛い」曲をCD最後の収録にするとは・・・ジュリーの狙い、心しなければなりません。歌われているのは、「誇大でない現実」であることを。

また、音的なことで言っても、3曲目「泣きべそなブラッド・ムーン」がト短調から始まり最後のサビでは半音上がりの転調後、嬰ト短調となります。そして続く4曲目「涙まみれFIRE FIRETER」は、同じ嬰ト短調。
みなさま、最初に新譜を聴いた時、3曲目と4曲目は似た感じだな、と思われませんでしたか?それは単に重厚なバラードが続いている、というだけでなく、この2曲のキーが揃えられているからなのです。

そして・・・僕にとって「涙まみれFIRE FIGHTER」は、リリース前の予想が最も実際とはかけ離れていただけに、特に大きなショックを受けた曲でした。
素晴らしい曲です。
執筆にはまたもや時間がかかりそうですが、キチンと気持ちを込めて書こうと思います!

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コメント

おはようございます。今日は、東京の方が仙台より寒そうですね。「震災をテーマにした舞台」の言葉が載っているのは、2014年3月3日毎日新聞夕刊です。ネットの表題は《特集ワイド :この3年、ジュリーの「想い」震災テーマにCD3枚目痛くとも心に届く歌詞を》です。私も昨年10月8日南相馬に行きました。皆既月食は見れませんでした。今になってジュリーが、あの夜どんな想いで夜空を見上げていたのかと考えながら先日の皆既月食を見ました。南相馬のチケット前売りは、3列まで会場発売だったと聞いています。仙台も盛岡も通常の前売り方法でした。ジュリーの南相馬の皆さんに寄せる格別な想いが感じられました。歌詞の中の「君」は、最後までスタンデイングすることなく、拍手を送り続けた3列目までの南相馬の皆さんでは?と私は思いました。

投稿: しぶ姐 | 2015年4月 7日 (火) 08時35分

しぶ姐様

ありがとうございます!

いやいやいや…やっぱり実際に南相馬公演に行かれたかたのお言葉は違います。本当に目からウロコです。
あの日の前方席のお客さんの様子は僕も何人もの先輩から伺ってはいました。立つことはなかったけど本当に楽しまれていて、新曲では真剣な表情でステージに視線を注ぎ、アンコールでは笑顔、笑顔だったと…。
ジュリーはそんなお客さんひとりひとりに、「今日のステージ全部家まで持って帰ってほしい」と思ったんですね…そうかぁ、「あの日を思い出して」書いたんじゃないんだ、「あの日のステージで思ったこと」を書いたんですね…。
なるほど、きっとしぶ姐様の仰る通りだと思います。
改めて、なんと優しい、なんとジュリーらしい名曲でしょうか。

音楽劇の記事、そんなに最近でしたか
これまたお恥ずかしい…ありがとうございました!

投稿: DYNAMITE | 2015年4月 7日 (火) 09時29分

DYさん、お邪魔します。
これは、私にとっては「慎重に語らなければならない作品」です。美しいんだけど、宝石のようで、大事にしなければいけない気持ちにさせられます。
この曲の詞で特徴的なくだりは♪南相馬の空には 泣きべそなブラッド・ムーン♪と♪晴れた東の空には 静かな皆既月食♪です。あえて、同じ日の同じ月を二重写しになるように書いている…ジュリーが、よく使うダブルミーニングですが、今回は、特に、その点について心を向けるべきなのかもしれません。
そして、この曲はコーラスが入っていません。その点は『恨まないよ』や『Deep Love』と共通します。歌唱は、ジュリーのウェットな曲におけるヴォーカルの集大成と言っても過言ではないと思います。
ライブでも、私なりに、ジュリーの想いを受け止めたいです。

投稿: 74年生まれ | 2015年4月 7日 (火) 12時57分

DY様 こんにちは。

平日の真昼間にコメしてるのは、目出度く(笑)定年退職したからです。
色んな物を片づけながらこれからなにをするか、考えています。

「涙」天地真理さんのピアノ、そういえば覚えがあります。
彼女もいろいろ無責任に持ち上げられたり、落されたりしてたけど、一生懸命でした。
結構うまいと思っていたのに、世間(専門家と称する方達)の評価で(下手・・・なのかな?)と思ってしまった時もありましたが。
それでも浅田美代子さんもそうでしたが、
「お歌はお下手」
とちゃかされても少なくとも口パクでごまかす真似はしませんでした。

「泣きべそ」はこらえきれずに溢れた「悲しい涙」なのでしょうか。
下山さんと柴山さんのギター音の違い、DY様のブログを知るまでは、考えたこともない、でしたが、いつか、(ん?この音はどっちかな?)とちょっと気にするようになってました。
ここのところ、右か左かでしか判断できなくなっていたのは、そういうことでしたか。(まるでそれまで聴き分けられていたかのような・・・あわわ)
JULIEはもう、作詞は自分でやると決めているようですが、GRACEさんの詞をもう一度希望したいです。

投稿: nekomodoki | 2015年4月 7日 (火) 14時34分

DY様、こんばんは。

「泣きべそなブラッド・ムーン」、僕も新譜の中で一番好きな曲です。そして、この曲のジュリーのボーカルについては「ジュリー史上最高」ではないか、と思ったほどです。これもDYさんの感覚に近いでしょうか。
この曲に限らず、この新譜に収められた4曲のボーカルは本当に別格のような気がします。ジュリーの覚悟や気概や心の奥底からの情感が曲や演奏やコーラスなどと相俟って途轍もない物を生み出している気がします。

この4曲と「希望」や「明日」や「生きてる実感」などの楽曲群が同じステージで繰り広げられるかもしれないLIVEが待ち遠しくてたまりません。
DYさんおっしゃるように、そこにジュリーの笑顔はない(少ない)かもしれないけれど、歌い手(表現者)が伝えたい思いは波動となって多くの人々の心に届くと思います。

「泣きべそなブラッド・ムーン」の「君」ですが、僕は初めてこの曲の詞を目にした時からこう思っています。「君」とは、あの10月8日のステージに来たくても来れなかった人々。それは震災の被害に遭いこの世からいなくなってしまった人々。また被災したことによりジュリーのLIVEに足を運ぶなんて事が選択肢にすらなかった人々。

そんな人々にジュリーは、あの日の南相馬の出来事を伝えたいんだと、自分の思いを届けたいんだと、そんな風に僕は感じています。

投稿: goma | 2015年4月 7日 (火) 21時51分

74年生まれ様

ありがとうございます!

僕の場合は「慎重に」と言うよりも「何を語れば本質に迫れるのか分からない」曲でした。読み返すと、文体の迷いがあることが自分では分かります。
歌詞中の「君」の解釈についてここでコメントを頂いたり、メールを頂いたりして今ようやく「新譜の中で1番好きな曲」なのに「1番理解が及んでいなかった曲」について心晴れ晴れと決着をつけられた、というのが本音です。もちろん、完全に理解したということではなく、ジュリーの気持ちが腑におちた、という感じでしょうか。
僕はここまで3曲、色々と考え過ぎていました。「涙のFIRE FIGHTER」の考察に入る前に、「ジュリーって、本当にシンプルすぎるくらいシンプルで、澱みない志の人なんだなぁ」という思いに立ててよかった、と思っているところです。
ラスト1曲はとてつもなく厳しい曲ですが、ここへきてどうやら僕もようやく自然体の考察ができそうです!

nekomodoki様

ありがとうございます!

おぉ、そうでしたか!僕の知る先輩の中にも、3月で無事定年退職という方がもうひとりいらっしゃいます。
ここからは、第2の青春ですよ!ジュリーと共に末永くお元気で、青春を満喫してくださいませ~。

記事中に書いた天地さんの「レイン・ステイション」は筒美さん作曲で、かなり凝ったポップ・バラードなんですけど、天地さんの歌はハッキリ言って上手いです!込められた気持ちも感じます。何故当事は「下手」なんて言われてたのかな…。でも、ジュリーですら言われていたのですからね。そういう大人がいた時代だった、ということでしょう。

「泣きべそなブラッド・ムーン」はCD購入から2週間ほどは、両サイドのギターが柴山さんと下山さんのステージ立ち位置とは逆に聴こえていました。
いつもお世話になっている先輩が、「立ち位置通りのイメージで聴いて違和感無いですよ」と仰っていたので懸命に聴き直して、僕も遅ればせながらその境地に辿り着けました。
たとえ楽器が分からなくとも、愛で聴き分けることは可能なんだなぁ、と思った次第です。

すみません、ここで一度お返事切ります。

投稿: DYNAMITE | 2015年4月 8日 (水) 17時17分

DY様 こんばんは

私の感想は正直言って、皆さんとはまるっきり違います。ですので寛大なお心でお読み頂けますようお願いいたします。

まずこの歌は、ジュリーの怒りが最高点のとても辛辣な歌ではないだろうかと思います。私には優しさや癒してくれる歌には聞こえませんでした。
理由としては、「鬱憤、辛棒、慚愧、心の重荷、邂逅、後悔、懺悔、道端の花」を一緒に、10月8日の全部(被災後初めて見た南相馬で感じたこと、ライヴ会場の反応など)を花束にして手渡したい相手は、「薔薇色の政治家、薔薇色の経済人達、心ない人達」だと思うからです。

悲しみの中で寡黙に生きている被災者の「心の重荷」や「道端の花」(私の勝手な想像だと、汚染された道端の花のことではないかと)を花束にして手渡したいなんて、どれ程の怒りが込められているでしょうか。考察記事のように、10月8日のライヴが良かったのであの雰囲気を花束にして、会場に来られなかった人達に届けたいと思われる意見とは異なります。「10月8日の全部、花束にして」だけを抜き出すと綺麗で素敵なイメージですが、「〜一緒に花束にして」と考える方が詞としては自然ですので、やはり重苦し印象が強いです。

また、おどおどしたサウンドは、やはりタイトルの「ブラッド・ムーン」と相まって不吉な印象が最後まで拭い切れませんでした。そんなタイトルですが、敢えて「泣きべそな」と付けたところに、ジュリーの優しさがあるように私は感じました。

最後に、「優しさじゃ〜怒ろう」「誤解なら〜もう限界」の部分は、ライヴでの事件がリンクしました。そういうことも含めての「怒り」を強く意識させられた一曲です。

投稿: BAT | 2015年4月 9日 (木) 03時36分

goma様

ありがとうございます!

あぁ、goma様の「君」も素晴らしい魅力的な解釈です。
なるほど、清らかな魂だけの存在には、ジュリーの気持ちが分かるでしょうし、護ってくれるでしょう。あの日の南相馬公演はきっと、清らかな存在に護られていた、と思いますよ。参加できず遠方から無事を祈ったファンの思いも、受け取ってくれたのかなぁと思えます。

全国ツアー、やっぱりお正月からスライドされるセットリストを僕も考えます。
「希望」は歌って欲しいですし、可能性は高いと思うなぁ…。「生きてる実感」は歌ってくれたら嬉しいですが、どうでしょうか。
いずれにしても、この新譜4曲をどんな過去の曲が包み込むことになるのか…楽しみですね。

BAT様

ありがとうございます!

実は、新譜を聴いた直後の僕の感想は、BAT様にとても近いのです。
僕がまず感じたのは、実際に原発事故の渦中である被災地を訪れたジュリーが、その肌で感じ、見てしまったからにはもう…という決意と、不誠実な一握り人や無関心な一般の人々への怒りです。「誤解なら仕方ない」…僕も真っ先にフォーラムを思い出しましたよ。

しかし、「君」の解釈についてはそこまで考えませんでした。言われてみますと、例えばジュリーの「届かない花々」にはそういう意味がありますね。「アイロニー込めて」渡す相手とは?それはこの曲での「花束」にも同じことが考えられそうです。
激しい悲しみ、憤りの曲である、とは思います。

ただ、そう考えても僕は最初からこの曲に癒され、何故癒されるんだろう、ということが分からないまま記事を書いてしまった感じです。
今は、しぶ姐様やgoma様、他みなさまの感じ方に感銘を受け、スッキリと「大好きな曲」と断言できます。

音について、「不吉」という感じは僕は受けませんでした。やはり「自然への畏怖」ではないでしょうか。もちろんそこから考えられることは色々ありますけど…。

投稿: DYNAMITE | 2015年4月 9日 (木) 09時07分

DYさま

「君」は誰?キャンペーンの応募窓口はこちらでよろしいですか?

私は、原発事故とか南相馬の現実を気にも留めずに
当たり前のように電力の恩恵に授かり
毎日怒ることも忘れて、のほほんと生きている
大多数の人々のことだと思います。
なぜそんなに早く風化してしまう!? なぜわからない?
君も、君も,優しいふりした君にも!って、そんな怒りも込めて。
花束は、怒りの花束、BATさまと同意見です。
BATさまのおっしゃる「君」案も、大いに頷けます。
これは、怒りの歌だと思います。


お仕事の関係で、どうしても行きたくても行けない遠征公演、
お気持ち無念…と、お察しします。
特に、この南相馬はいろんな意味でハードル高かったですよね。
けど、DYさま、死ぬ気になれば、1回くらい、何処かで無茶をしてみてもいいのでは?と思いますよ。
100回の「行きたかった」の次にはぜひ、1回の「無茶」をしてみたら・・・会社も神様ももちろんカミさんも、許してくれますって!(笑)

投稿: しょあ | 2015年4月 9日 (木) 12時16分

しょあ様

ありがとうございます!

「優しいふりした君にも」…突き刺さるお言葉です。でも、そう考えると「優しさじゃ違うから」の歌詞部も腑におち、BAT様のコメントの意味も分かってきました。なるほど…その「君」もまた、とてもジュリーらしいなぁ。

本当に、僕も含めて、何事も無かったかのように今を過ごす人達。それこそが「風化」の正体なのですね。
やっぱり南相馬公演に実際に足を運んだ人には、この曲に込めたジュリーの色々な思いが伝わっているのかな…「何故忘れる?」「何故分からない?」そうかぁ、そうだなぁと今さらながらに。

ここで様々な「君」の解釈を頂いただけでもこの記事を書いた甲斐があった、とは思っていますが、とても恥ずかしいですよ…「君」は自分のこと、なんて考えていたのはひょっとしたら僕だけだったんじゃないか、と思うと…。

「無茶」ですか…(笑)。今年で言えばそれは僕にとって鹿児島公演への参加、ということになります。どうすべきか、まだ迷っています…。
大きな報道がなされないまま着々と段階を踏む川内原発再稼働。このままでは、鹿児島公演のある10月には、もう普通に稼働している可能性が高いのです…。

投稿: DYNAMITE | 2015年4月 9日 (木) 12時48分

DYさん、大変ご無沙汰しております。
"泣きべそなブラッド・ムーン"ご伝授ありがとうございます。
昨年のJツアーに南相馬が入ったのを知った時、東北人としてこれは是非参加してJ の気持ちを受けとりたい!、と思いました。
一昨年、駅から遠い会場でライブがあった時には、終演後に会場から最寄り駅まで臨時バスが運行されたのを利用したことがあったので、今回の南相馬でも何かそういう予定などがあるかどうかS会に問い合わせて見ましたが、そのような予定はないし、あるとしてもイベンターの方で対応する、という事でした。ただその時、"南相馬は本人のたっての希望なので、その点ご理解下さい。"という言葉をもらいました。分かっているつもりでしたが、それを聞いて、出掛ける前からなんか特別な気持ちがしていました。
当日始まる前に会場の外で話した方は、"チケットがないけど(遠方から)ここに来てしまった!"と言っておられました。
ライブは、はじめは緊張感が感じられましたが、スタンディングしていなくても、前方席の地元の方々が楽しんでおられるのがステージに伝わるにつれて、ますます熱い心のこもったものになっていったと思います。Jの震災以降の曲になると、私たちもですが、前方席の方々の中にも目頭を押さえる方もかなり居られました。
MC でも話されたその時のブラッドムーン等も含めて、その日の南相馬のライブのステージも観客も、届ける方の気持ちも受けとる方の気持ちも、まるごと全部を"君"に届けたいと、Jはこの曲に込めたのだと感じました。"君"とは、そこにいた観客であり、来たくても来れなかった人たち、生きたくても生きられなかった人たち、心ある人たち、、、曲を聞く人に委ねられているのかもしれません。
この日のライブに参加して本当によかったと思いました。ライブからもこの曲からも、Jの気持ち伝わって来ました。
大変長々と失礼しました。
これからも宜しくお願いしますm(__)m

投稿: yurachan | 2015年4月10日 (金) 10時31分

yurachan様

ありがとうございます!

そうでしたか…「本人たっての希望」。ファンならば皆その気持ちを分かっていたとは言え、言葉で伝え聞くと改めて清らかに身が引き締まり、いっそう「泣きべそなブラッド・ムーン」の歌声が沁みてくるようですね…。

南相馬公演のお話は、どなたからどれだけ伺ってもその度に感動します。ジュリーにとって理想のLIVEの在り方が、他でもない今ジュリーが心寄せている土地で実現したこと、ジュリーは心からステージで感動していたと思います。前方席のお客さんの様子がお話から頭に浮かび、涙が出そうになります。

そうかぁ…「君」は聴き手に委ねられている、確かにそうかもしれません。ジュリーは僕らに「考えて欲しい」「感じて欲しい」んですね。
全国ツアーでこの曲を生で聴いた時僕が何を思うか…今はまったく分かりません。
でも、まっさらな気持ちでジュリーの歌に臨むのが一番良いのかなぁ、と思っています。ジュリーの本音の歌声に、心の誠を持つことが大事ですね…。

今年も仙台公演、ありますね!
今からyurachan様のご感想を楽しみにしていますよ~。

投稿: DYNAMITE | 2015年4月10日 (金) 13時04分

DY様 こんばんは

再び失礼します。前回コメント後、この歌を何度も繰り返し聴いています。そして自分の受け止め方が、やはり皆さんとは違うなと思いました。

その前にこの歌の歌詞カードですが、「花束にし 手渡したい」の部分は→「花束にして 渡したい」の誤植だと思います。ジュリーは後者ではっきり歌っています。前者では歌えません。「辛棒」は、「棒」を当てて書くそうで私は知りませんでした。

さてこの歌の中に二字熟語が羅列されて出てきます。これを見て、佐野元春さんの「Shame-君を汚したのは誰」を真っ先に思い出しました。こちらの歌では、「偽り、策略、謀略、競争、偏見、悪意、支配」などの言葉が並べられ、「I'm so angryこの気持ちは消えない」と、1983年当時の世界中の紛争に対して歌われていました。30年を経て再び言葉の凄みを感じるのは、痛烈な怒りがテーマのロックだからだと思います。

二つ目に「優しさじゃ違うから」のことですが、これは被災者のことだと思います。この4年間、心ない言葉や国の復興対応に対して、寡黙に我慢して明るく振る舞って来たんだと思います。それが被災者達の優しさでもあったのだと思います。だけど、まだ馬鹿にする人がいる。本音を汲んでもらえない状況が続いている。もはや黙っている場合では無くなった。だから、心ない言葉には怒ろう。もう限界なんだと言おう。このやり場のない重荷を全部、被災者の苦しみを知らない人達へ君へ渡して、早く被災者達を楽にさせてあげたいと、ジュリーは歌っているのではないかと私は感じています。だから、その花束は、のうのうと暮らしている私には必要かも知れません。

二番の「邂逅、後悔、懺悔、道端の花」は、福島原発被害のことなので、二番の「君」は、国と政治家、電力会社などを指していると思います。

投稿: BAT | 2015年4月11日 (土) 00時03分

BAT様

ありがとうございます!
お返事遅れて申し訳ありません。

BAT様の解釈、ひとつひとつ照らし合わせながらじっくり聴いてみました。なるほど…すべての言葉の意味、使い方が繋がってきますね。
中でも「道端の花」は重要なキーワードだと分かりました。確かに2番は南相馬の景色、というだけにとどまらず、原発事故のことを歌っているように聴こえてきます。

僕は、今回の新譜4曲で最も突き刺さったジュリーの言葉は「限界臨界」に登場する「馬鹿にしない」でした。どうやらそれは他の曲にも繋がっているようです。

佐野さんの「Shame」はあの時代、強烈に響きました。確かに漢字2文字の連呼は「泣きべそなブラッド・ムーン」との大きな共通点ですね。
決してキャッチーとは言えない「Shame」のような曲を、アルバムからの第1弾シングル「Tonight」のカップリングに抜擢した佐野さんの志を、今さらながらに思います。

投稿: DYNAMITE | 2015年4月13日 (月) 09時11分

DYさま お久し振りです。


磯前順一先生の「死者のざわめき」を読み終えた所です。読んでいる中でこの「“君”は誰?」論争が頭に浮かんできました。
この本の中にそのヒントが有るように思えたからです。

「非当事者は当事者になれない」

ジュリーは他人の哀しみや苦しみを、自分の事のように感じる能力が強いように思います。
それが不安でも有り心配でも有ったのですが、今回の新曲で吹っ切れたというか、ジュリーの覚悟を一緒に受けとめようと。
磯前先生の本を読んでその思いが一段と強くなりました。

昨今の日本は一体どうなるのかと思うことばかりですが、静かに立ち上がる「若者」も出てきました。

「君たちがボスを選べよ」

その時にはよく解らなかった事も、時が経つと
腑に落ちると言うことが、ジュリーの場合よく有ります。

むかしむかし綺麗な王子さまにハートをぶち抜かれ、後を付いて行ったらこんな所まで連れて来てもらった。
今はそんな感じです。

「付いていきますじゃない。自分で行きなさい。」って言われましたが、これからも見つからないように付いて行こうと思います。

投稿: マール | 2015年7月11日 (土) 18時04分

マール様

ありがとうございます!
お返事遅れてすみませんでした。

磯前さんは、タイガースの語り部として彗星のように登場されてから数年のうちに、ジュリーについての文章も変わってきているように感じます。
やはり磯前さんのようなかたが実際にジュリーのステージをご覧になり、その上で言葉にしてくださるのは尊いことですね。ジュリーの創作、LIVE活動の姿をイタコになぞらえたお言葉は、これまでどなたも考えていなかった角度からのジュリー論で、感動しました。

志ある若者や経験豊かな年輩の方々の声を頼もしく思う中、今実際に社会経済活動の中心にある世代、正に僕と同じ40~50代の層の無関心、と言うか投げやりな慌しさに焦燥感もあります。
「泣きべそなブラッド・ムーン」という曲はそのあたりも突いてきますね…。ジュリーの生の歌声を聴き、しっかり考えていきたいです。

投稿: DYNAMITE | 2015年7月13日 (月) 09時18分

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